飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十弾:ボリビア観光
2018年12月28日−2019年1月5日
  

世界最高所の首都ラ・パスをはじめとして、標高3000〜4000mに数多くの町が存在し、アンデス山脈の奥地に広がる天空の国。あまりに高い場所であるため、隔絶された場所と思われがちだが、豊富な鉱物資源によって、世界史上に大きな役割を果たしており、銀山で知られるポトシは、16〜17世紀には南北アメリカ大陸最大の町でもあった。人口は約1067万人。面積は約110万km2、日本の約3倍で、ペルーとほぼ同じ広さをもつ。国土の3分の1近くをアンデス山脈が占め、6000m級の高峰が14座もある。人口比率は、純粋なインディヘナ20%、インディヘナとヨーロッパの混血メスティソが68%といわれ、南米のなかでも特に先住民の人口が多い国。したがって、民族衣装に身を包んだ人々の姿を多く見かけ、南米らしさを象徴する国となっている。民族衣装は、丸みを帯びた山高帽、毛織物のショール、多くのヒダをもつスカートなどが特徴的。一見すると、スペイン人入植以前の伝統的な衣装かと思ってしまうが、山高帽はシルクハットが起源になっているなど、実はヨーロッパのファッションを取り入れて生まれたもの。豊かな先住民文化にヨーロッパ的要素を加えて生まれた独自の文化こそ、旅人を魅了する要素でもある。ラ・パスのカルナバルやオルーロのディアブラーダ(悪魔の踊り)など地方や町ごとに受け継がれてきた伝統行事そのものがこの国の見どころであり、長く滞在すればするほど、魅力にあふれた国だと感じる。植民地時代の面影を色濃く残しユネスコの世界遺産に登録されているポトシやスクレ、世界最大の塩の湖であるウユニ塩湖など有名なボリビアを訪れました。

12月28日7:10伊丹空港日本航空で出発
8:15羽田空港到達、バスで成田空港に向かう。
10:00成田空港到達。
15:25成田空港アエロメヒコ航空で出発
13:00(?15時間)メキシコシティ到達
17:15メキシコシティアエロメヒコ航空で出発。
29日00:10リマ空港到着、空港前のホテルで就寝。
5;:55リマ空港ラタム航空で出発。
7:22クスコ空港到達
10:25クスコ空港エアエンタープライズ航空で出発
12:20ラパス空港到達バスで移動、市内観光。

ラパス:標高3600メートルに位置し、独特の文化を持つ多民族が住み、スペイン語で「平和」という意味を持つラパス、ボリビアの最大の街ラパスですが、憲法上の首都はスクレです。しかしながら行政や立法府があるラパスが事実上の首都であり、最大都市となっています。そんなラパスの街は、常々「すり鉢状」と形容されます。山の上から眺めるこの「すり鉢」の様子は非常に美しいのですが、なぜこのような形になっていったのでしょうか?
ラパスは標高3600メートルと、世界でも最も標高の高いところにある街です。富士山よりも高いところにあるのです。周囲には6000メートル級の山々がそびえたち、標高差の激しいこの地では、少しの高度の差によって、酸素の濃度が大きく変わってきます。元々は山のふもとにある高度の低いところに移り住んできた人に加えて、どんどんと増加していく人の数に土地の広さが追い付かず、標高の低いところを中心として、周囲の標高が高いところにまでも人々が居住するようになりました。
酸素濃度は人々の体調に顕著な影響を及ぼすため、現在では経済的な余裕のある富裕層は「すり鉢」の底辺部に住み、逆に余裕のない人たちは上層部に住むという形態になっています。その標高の差は、なんと400メートル!このすり鉢状の美しい景色は、世界で一番高度の高いところにあると言われているラパスの空港から街に向かう時にも見られます。

ミラドールキリキリ:ラパス市内を一望できる公園として観光客に人気を誇っているミラドールキリキリ。昼間に訪れれば、すりばちの外側にある雪山を眺めたり、すりばち状の町並みをはっきりと視界に収めることもできますし、お気に入りの1枚を写真に撮ることもできます。
また、夕方だんだんと日が暮れていき、赤茶色の家々に電気が灯り始めていく様子をのんびりと時間をかけて鑑賞する時間も、ラパス観光の思い出として深く刻まれていくはずです。

ムリリョ広場:この広場にはラ パス有数の優れた建築物が集まっています。すばらしいネオクラシック調のファサードとステンドグラスの窓が印象的な、ラパス大聖堂です。その隣の 19 世紀の軍服に身を包んだ衛兵が門を守る優雅な建物は、大統領官邸です。
東側には歴史あるパラシオ レジスラティボ (国会議事堂) が建っています。元々この場所には女子修道会がありましたが、のちに大学となり、さらにそののちの 20 世紀初頭に現在の国会議事堂が設立されました。コリント式の柱と大きなドームが目を引く、すばらしい建築物です。

ラパス大聖堂:ラパス中心地ムリリョ広場をぐるっと囲うように歴史的建造物が建っていますが、その中でも目立つ植民地時代の建物がラパス大聖堂です。
ネオクラシック様式とバロック様式が合わさった外見にまず注目して見てみてください。内部はシンプルな内装でまとまっていて、祭壇の後ろに位置する美しいステンドグラスや高い天井に吊るされたシャンデリアが目に飛び込んできます。細かいデザインで丁寧に作られていて、差し込む光により厳かな雰囲気が増していますよ。
また、19世紀にボリビアの大統領であったカラウマナ氏のお墓がこの大聖堂内に納められていることにも注目です。

サンフランシスコ寺院:ラパスの旧市街から少し離れたところに位置するサンフランシスコ教会は、ラパス市民も観光客も多く集まるラパスの人気観光スポットです。威厳溢れる外観は見事で、標高3,800mの地点にこの建物を建てた苦労を考えるとより凄みが増しますね。
内部は写真撮影が禁止なのが残念ではありますが、祭壇や中庭、回廊も見ごたえがありつい長居してしまいたくなります。現在でももちろん教会としての機能を果たしていてミサに訪れるラパス市民も大勢いるので市民の信仰を多く集めている教会と言えるでしょう。

サガルナがガ通り: ラパス旧市街に位置する観光スポットで、別名「魔女通り」と呼ばれているサガルナガ通り。ラパスでは古くから伝わる民間信仰が現在もある程度根付いていることもあり、それらに使用する素材がこのサガルナガ通りで売られていて、ヨーロッパの価値観でこれを「魔術」だと表現したことからこの名が付きました。
この通りでよく見かけるのはリャマの子どものはく製。交通安全や商売繁盛を願う際の供物として使われるようです。ほかにはカエルや昆虫といったものも売られていて、予備知識がないまま訪れた観光客は驚いてしまいそうですね。もちろんアクセサリーや雑貨なども多く売られているので、安くてカラフルでかわいらしいと観光客にも人気のお土産を見つけるために通りをぶらぶら歩いてみましょう!

ロープウエイ乗車体験:ロープウェイであるミテレフェリコは、2014年に開業した公共交通機関。今までは自動車で30分以上の所要時間だった区間が10分で到着できるようになり、今やラパス市民の欠かせない交通機関となっています。市民の足として役立っているミテレフェリコですが、ロープウェイが上がっていくと同時に小さくなって行くすりばち状のラパスの町並みを一望できる場所として観光客も多く利用しています。
同じ色でそろえられた屋根の色が町並みに統一感をもたらしていてとってもきれいです。また、切り立った崖や民家のすぐそばを通るので多少のスリルを味わえるというところも密かなオススメポイントです。
17:30ラパス市内のホテル到着。
19:00ホテルで夕食。
22:00就寝。
30日5:00ホテルバスで出発ラパス空港に向かう。
5:30ラパス空港到達。
7:30ラパス空港エアエンタープライズ航空で出発
8:10ウユニ湖到達。
ウユニ:ウユニは本当に小さな町。ウユニ塩湖以外では目立った観光資源もなく、旅行者にとっては、本当に塩湖観光への中継地点といった場所だと思います。とても広い道路にはほとんど車も走っていません。建物も低く、中心地を少しはずれると、こんな風に人もほとんど歩いていないことと思います。そんな小さな町なのですが、ほぼ唯一人がたくさんいる場所が、やはりメルカド。市場ですね。

ウユニ塩湖:南米のボリビア西部にある都市ウユニから車で1時間ほど、アンデス山脈に囲まれた広大な塩の大地「ウユニ塩湖」。
標高約3,700mと富士山と同じくらいの高さに位置し、南北約100km×東西約250km、面積約11,000km2に広がっています。
ちなみにその広さは…岐阜県=10,620km2とほぼ同じ!
見渡す限り真っ白の神秘的な大地が出来た背景として、はるか昔、アンデス山脈が海底から隆起した際に大量の海水が山上に残ったため、この広大な塩湖が形成されたといわれています。
塩湖全体の高低差がわずか50cm以内という「世界で最も平らな場所」であるウユニ塩湖では、降った雨が流れることなく大地に薄く膜を張ることで、空を湖面に映し出す「天空の鏡」と呼ばれる神秘的な絶景が現れます。

8:20ホテル到着後朝食。

9:304WDでウユニ塩湖周辺観光

列車のお墓:ウユニの街は昔、鉱山資源が運ばれる列車の重要ルートでした。イギリスのエンジニアたちによって1888〜1892に渡り線路が作られウユニの街を通りぬけて太平洋側へ資源が運ばれていましたが1940年代に資源の枯渇により鉱業が衰えてしまい多くの列車が廃棄され今の列車の墓場を成しています。

コルチャ二村:コルチャ二村はウユニ塩湖の入り口から最も近い集落になります。村では塩湖で取れる塩を食塩に加工したり、圧縮して置物やコップなどを製造・販売しています。食塩精製の過程を見学することができます。メインストリートには土産物屋が軒を連ね、ボリビア原産の土産物を買うことができます。

12:00ホテルで昼食。
17:304WDで夕日鑑賞
20:00ホテルで夕食
31日4:45ホテル前で星空観測後4WDで移動朝日鑑賞
7:00ホテルに戻り朝食。
10:004WDで出発、ウユニ湖の幻想的な光景鑑賞
12:00ピクニックランチで昼食
13:00出発
14:00パリダカールの終着点モニュメント到達、記念撮影。
14:30出発。
16:00ホテル到着。
19:30夕食。
21:00星空観測。
22:00就寝。
1日4:00朝日鑑賞、
5:00空港に向かう。
8:35ウユニ湖空港エアエンタープライズ航空で出発。
9:20ラパス空港到達
10:00ラパス空港エアエンタープライズ航空で出発。
9:55クスコ空港到達、出国、入国手続きに時間がかかりチェックインできず、仕方なく後続便に乗り換え
11:31クスコ空港ラタム航空で出発予定、出国、入国手続きに時間がかかりチェックインできず、仕方なく後続便に乗り換え
18:10クスコ空港ラタム航空で出発
19:45リマ空港到達、メキシコシティ行きの航空機に乗り遅れる。空きのある航空機を手配する。
3日8:35リマ空港アエロメヒコ航空で出発
18:55メキシコシティ到達
4日03:05メキシコシティアエロメヒコ航空で出発。

5日8:20成田空港到達。バスで羽田空港に向かう。
11:30羽田空港日本航空で出発
12:40伊丹空港到達。

今回過去にないハードスケジュール旅行、ウユニ塩湖まで6回の飛行機に乗り換え、又ウユニ塩湖では朝日、夕日、星空の観測で睡眠時間を減らしてのウユニ塩湖観光でした。
日本の裏側にある遠方のボリビア、訪れるのに相当の時間がかかり、ウユニ塩湖での観光は、かなりタイトであるがそれに見合う光景で満足しました。
ウユニ塩湖で目の当たりにした光景、はっきりした大きな星の観測、朝日、夕日の幻想的な光景、極め付きは広大なウユニ塩湖を4WDで広い範囲走行してウユニ塩湖の素晴らしさ、塩湖に溜まった水による鏡面光景、感動しました。遠方ですが一度は訪れたいウユニ塩湖でした。

一方首都ラパスのすり鉢状の町、そのため急な坂道が多く、鉄道を敷くことが難しく、世界的類のない公共の交通手段はロープウエイであることに感動しました。

尚今回の旅行の全工程を1週間前に知らされましたが伊丹空港からの航空機の出発時間が早いにもかかわらず、成田空港での搭乗時間遅く、かなり待たされました。
又南米での航空機の乗り継ぎがタイト、企画した人に出発前に電話で聞きましたら、年末年始で混み合い、これらの航空時間しか取れない、今からは変更できないとのことで、問題ないことを祈って出発しましたがやはり航空機の乗り継ぎに問題があり、かなりの時間を要して日本に遅れて到達しました。
以前寒波で3日間日本に遅れて到着したことがありますが、今回は航空機の乗り継ぎがタイトで乗り遅れ、日本に到着するのが遅れました。これからの海外旅行、現地、乗り換えの飛行場は寒波のない時期、暖かいところ、乗り継ぎがタイトでないことを確認して決めたいと思います。




























飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十九弾:中国厦門観光
2018年12月22−24日
 
アジアの大陸中国に足を運び、福建省南部、九龍江の河口に開けた海浜都市。厦門港には「海上の楽園」と呼ばれる島が浮かび、温暖なリゾート地としても知られる。古くから東南アジアとの交易があり、経済特区として発展を続けている厦門を訪れました。

22日19:20関西空港厦門航空で出発
22:00厦門空港到達、タクシーで厦門市内のホテルに向かう。
23:00ホテル到着就寝。
23日7:30タクシーで南西部に向かう。徒歩で観光。

胡里山炮台:市の南西の胡里山海岸にある清代の砲台跡。清の光緒22年(1896年)に造営されたもので、大砲は口径28cm、砲身約14mのドイツ製クラップ砲。天気によっては望帰台から金門島を望むことができる。

厦門大学:南普陀寺に近いアモイ島西部のオーシャンフロントに位置する国立の名門大学。作家・魯迅が教鞭をとったことでも知られている。瑠璃瓦の建物がクラシックな雰囲気で、キャンパスには熱帯の植物が生い茂っている。

南普陀寺:唐の時代に建設されたという南普陀寺は、多くの華僑の人々から信仰されている寺で、福建省ではとても有名なお寺として知られています。千年余りの古い歴史を持つ寺院ですが、再建を繰り返して現在の姿になっており、廈門でも有名な観光スポットの1つです。
中国を感じることができる立派な寺や、庭園、大きな岩といった見所も多くあります。また、裏山はハイキングも可能です。山頂目指して歩く観光客もよく見かけます。頂上からは廈門の街や海の風景が見られるので、ハイキングがオススメ。ただし、かなりの高低差があるので体力がない人には少々きつめです。

園林植物園:市街の南東部、万石山の山裾に493万平方mもの敷地を有する広大な植物園で、別名「万石植物園」ともよばれる。庭園風の園内は20のゾーンに分けられ、熱帯・亜熱帯の植物を中心に約3000種もの植物が栽培されている。

中山路歩行街:中洋折衷建築が数多く残るアモイのメインストリートで、歩行者天国として整備。ファッションやアクセサリー、みやげの店が立ち並ぶほか、小腹を満たすのにぴったりなB級グルメの店、いっぱい。

14:10厦門港フェリーでコロンス島に向かう。
14:35コロンス島到達。散策。

コロンス島:多くの観光客が訪れるコロンス島。廈門きっての人気観光スポットで、中国にありながら、まるで南国リゾートにいるような雰囲気を味わえるので、中国国内だけでなく世界中から観光客が訪れる人気の観光スポットです。租界時代の建物のが残っているので、「万国建築の博物館」とも呼ばれます。また、ピアノが多くあり、ピアノの博物館があるので「ピアノの島」という別名まであります。
ヨーロッパとアジアが混ざったような街並みは、中国にいるとは思えないほど。レンガ作りの店や家が並んでいるので、散策がとても楽しい島ですよ。コロンス島は高低差があるので、履きなれた歩きやすい靴でいくのをオススメしますよ。

日光岩:廈門を訪れる際に外せない観光スポットのコロンス島ですが、そんなコロンス島のシンボルとも言えるのが日光岩です。別名で晃岩、岩仔山とも呼ばれおり、1647年に鄭成功がここを訪れた際、日本の日光山より美しいと感じ、その名前を付けたという言い伝えがあります。高さ約93mの日光岩はコロンス島で一番高い山といわれ、なんと直径40mを越える巨石なんですよ。
日光岩の展望台からはコロンス島と廈門市内が一望でき、その眺望と開放感は抜群!有名な観光スポットなので、多くの観光客で賑わっています。

菽庄花園:コロンス島の南部、海が見渡せる崖に菽庄花園は位置しています。1913年に建設され、もともとは地方の名士の個人的な別荘だったそうですが、その後1955年に公園として寄贈された菽庄花園は、廈門を訪れる観光客にも人気のスポットです。
自然にできた崖の窪みを上手く利用して作られた庭園は、蔵海園と補山園の二つに分けられ、きれいに整備されています。景色がとてもよく写真撮影も楽しめるので、観光の際にはカメラをお忘れずに。
また、庭園の上の方には中国で唯一といわれる有名なコロンス島ピアノ博物館があります。世界各国から集められた年代物のピアノがずらりと並び、変わった形をしたものが展示されていたりと、とても見応え十分。ピアノに詳しくない方でも楽しめる廈門の観光スポットとして有名ですのでお見逃しなく。

風琴博物館:珍しいオルガンを多数展示する博物館。建物は“八卦楼”と呼ばれるコロンス島で最も有名な洋館の一つ。コロンス島出身の個人収集家のコレクションを中心に、大小さまざまなオルガンを展示している。

17:40コロンス島フェリーで出発。
1810厦門港到達。タクシーでホテルに向かう。
18:50ホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
24日9:00タクシーで北に向かう。散策。

嘉庚公園:厦門出身の華僑・陳嘉庚が1950年に厦門の解放を記念して造営をはじめた庭園。3万平方mの敷地内は中国式の庭園を基本にしており、陳嘉庚故居や記念館などが点在。隣接する鰲園には陳嘉庚の墓がある。

12:00タクシーで厦門空港に向かう。
12:40厦門空港到達。
14:25厦門空港厦門航空で出発。
18:20関西空港到達。

今回の旅行、アジアの大陸中国に足を運び、租界時代の異国情緒あふれる建物が残る厦門を訪れ、歴史的建造物、寺院、植物園、博物園、世界遺産のコロンス島を巡り楽しみました。

今回も中国旅行トラブルあり、世界遺産コロンス島に向かうフェリー乗り場、ガイドブックで確認してたどり着きましたが、この港からは観光客はフェリーに乗れない、住民のみといわれる。中国語ですのでよくわからない、時間がかかりましたがバスで厦門港に移動して厦門港からフェリーに乗れとのことでした。2014年にコロンス島は世界遺産に登録されてから観光客急上昇、本来の港から観光客収容できず、大きな厦門港に変更になったとのこと。持参のガイドブックは2013年度版内容が古く、港の変更がなかったため理解するのに苦労しました。
尚厦門空港飛行機は豪華ではないが、安全性、運航性問題なく、安心して乗れる飛行機でした。


 



















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十八弾:兵庫県お城・城下町巡り&小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2018年12月8−9日
 

摂津・播磨・丹波・但馬・淡路と、それぞれ異なる魅力に溢れる5つのエリアがあります。北は日本海、南は瀬戸内海に接し、変化に富んだ美しい景観を楽しめるのも魅力。世界遺産「姫路城」、雲海に浮かぶ「竹田城」、異国情緒漂う「神戸」、伝説と花の島「淡路島」等、人気観光スポットが数多くある兵庫県に足を運び、兵庫県に点在する比較的マイナーなお城5か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所を訪れました。

8日12:30車で出発、阪神高速経由して神戸に向かう。
お城・小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り。

伊丹城:築城年代は定かではないが南北朝時代には伊丹氏の居城であった。 南北朝時代には数々の戦が摂津国で行われ、伊丹城でも数々の功城戦が行われ、時には落城している。
天正2年(1574年)織田信長は茨木城主荒木村重に命じて、池田城主池田氏と伊丹城主伊丹氏を攻め滅ぼし、荒木村重を摂津国守護として伊丹城へ置いた。 村重は伊丹城を有岡城と改名して城の大改修を行った。
天正6年(1578年)播磨国三木城主の別所長治が織田信長に叛くと、つづいて村重も織田信長に叛き有岡城に籠城した。この時、黒田孝高が村重を説得するために赴いたが、そのまま捕えられて幽閉された。信長は池田・塚口・食満・加茂・倉橋・原田・刀根山に軍勢を配して有岡城を包囲し、長期戦にはいった。天正7年(1579年)村重は近習を連れて夜陰に紛れて有岡城を脱し、尼崎城へ逃れた。城主が存在しないまま籠城を続けていたが遂に裏切り者が出て、周囲を固める砦が破られ天正7年(1579年)末に落城した。
その後、信長は池田之助を城主に置いたが、天正11年(1583年)美濃国へ転封となり羽柴秀吉の直轄領となって廃城となった。

尼崎城:元和3年(1617年)戸田氏鉄によって築かれた。 古来より近畿と西国を結ぶ要所である尼崎には、戦国時代には細川氏によって城郭が築かれていたという。
豊臣時代からの尼崎郡代である建部氏は、元和元年(1615年)大坂夏の陣の戦功により一万石の加増をうけ尼崎藩を立藩するが、元和3年(1617年)播磨国林田へ転封となった。
代わって近江国膳所より五万石で入部した戸田氏鉄は、幕命により尼崎城を築き、以後譜代大名が続いて明治に至る。

鷹尾城:山城部分を「鷹尾城山城」平城部分を「芦屋城」と区別していうこともある。阿波の細川澄元の畿内進出の防衛最前線基地として、細川高国が「鷹尾山の天険を利用して、早急に山城を築け」と瓦林正頼に命じたと言われている。
鷹尾城は築城後よりすぐに芦屋河原の合戦の中心となり、赤松義村軍の猛攻にあい瓦林正頼らは鷹尾城からおちのびたが、船岡山合戦より赤松義村軍が兵をひいたのを見計らい、瓦林正頼は鷹尾城を改修するとともに越水城を築城しこれを本城とし、鷹尾城は家臣の鈴木与次郎に守らせ越水城の支城とした。その後記録が残っていないので、越水城が廃城となった同時期に鷹尾城も廃城になったと思われる。(

神戸北野:北野・山本地区は明治以来、雑居地として発展してきたことから、異人館と呼ばれる洋風建築と和風建築が混在し、独特の町並みを形成してきました。
エキゾチックで個性的な景観を保全・育成するために、神戸市では明治・大正・昭和初期の33件の洋風建築物と7件の和風建築物を伝統的建造物として認定していますが、これら以外にも異人館をはじめとする伝統的遺産が現存しています。

洲本城:築城年代は諸説あり定かではないが室町時代後期に安宅氏によって築かれた。 天正9年(1581年)安宅氏は羽柴秀吉に破れ降伏する。 天正10年(1582年)仙石秀久が城主となるが天正13年(1585年)脇坂安治が城主となり大改修した。
大坂夏の陣後はその功により阿波徳島の蜂須賀氏に加増され重臣の稲田氏が城代となった。

17:00姫路方面に向かう。
18:30姫路市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
9日7:30車で出発。

室津:江戸時代、参勤交代時に諸大名の乗船、下船地として賑わったとか。最盛期には、一ツ屋・薩摩屋・筑前屋・肥前屋・肥後屋・紀伊国屋と呼ばれる六つの本陣があったそうです。通常は一つの宿場町に一つの本陣がほとんどだったと言うので、当時の賑わいはすごいものだったのでしょう。残念ながら今は、本陣跡として「本陣 薩摩屋跡」などの石碑が残っているだけでした。
室津に残る江戸期の建物は回漕問屋「島屋」を資料館にした室津海駅館と海産物問屋「魚屋」を改装した室津民俗館で、これら2軒の商家以外には昔ながらの町並みは残っていませんでした。それでも町屋のほとんどが和瓦の屋根で統一されていてノスタルジックでとても良い雰囲気でした。

坂越:江戸時代から廻船業で栄えた港町。国指定記念物の原生林が茂る生島が目の前に見える。旧坂越浦会所から、国道250号方面へ行く道の両脇に古い街並みが残る。造り酒屋・奥藤家の堂々たる建物や坂越まち並み館(などをゆっくり見学したい。

龍野:播磨の小京都ともいわれる脇坂藩5万3000石の城下町。うすくち醤油に代表される産業の町でもある。鳥かごを伏せたような鶏籠山のふもとに脇坂安政が城を構えたのが寛文12年(1672年)。清流揖保川のほとりには、今も家老門や武家屋敷、醤油蔵がたたずみ、しっとりとした情緒を感じさせる。龍野城跡など見どころが集まる旧市街は道が細いので徒歩が便利。童謡「赤とんぼ」を作詞した三木露風や哲学者の三木清など、龍野ゆかりの文化人の資料館も見ごたえがある。

平福:400年前の景観が今なお残る街並。

街道沿いに建つ家々の格子やウダツといった意匠、佐用川沿いに連なる川座敷や土蔵群など、因幡街道の宿場町として栄えた名残が多く残る街並が魅力の佐用町を代表する観光スポット。また、江戸時代から続く醤油醸造元"たつ乃屋"や、宮本武蔵初決闘の地など、長い歴史を持つ平福ならではの魅力もたくさんある、

竹田:城下町は初代藩主中川秀成(ひでしげ)(1570〜1612年)が整備。碁盤の目のように広がる区画は岡藩繁栄の象徴とされ、殿町の武家屋敷通り(歴史の道)は土塀と石垣がある江戸時代の屋敷13軒が並び、築200年の建造物もある。
 市は1979年に旧市街地の町並み保存を目的に「市史跡等環境保存条例」を制定。2016年に「市景観条例」に移行し▽入り母屋・切り妻の和風瓦屋根の推奨▽高さ15メートル以内▽原色は使わない近隣のバランスに配慮した色彩―を定めた。江戸時代〜戦前の日本家屋29棟が国や県、市の文化財として登録、指定を受けた。
 市はさらに20棟を登録文化財候補として挙げ、所有者に対して「竹田の財産を残しませんか」と提案、交渉を進める。空き家の場合は、空き家バンクを通じて利用希望者を探している。2年前に地域おこし協力隊として東京都から移住した小笠原順子さん(37)は、殿町にある築88年の木造住宅を購入した。「竹田で子育てをして、趣がある町並みを守りたい」と話す。
 重伝建は城下町や宿場町など建造物群と環境が保存された地区。市町村が都市計画や条例で区域を定め、文部科学大臣が市町村の申し出により、価値が高いものを選ぶ。
 城下町は江戸時代の商家や武家屋敷、明治〜昭和の建造物が混在し、建造物群として認められていない。

出石:豊岡市は兵庫県の北東部に位置しています。市域の南東部にある出石は、出石川と東の山塊から流れ出る谷山川との合流部付近に位置し、有子山を背にして北に広がっています。現在の出石は、慶長9年(1604)頃、小出吉英が出石城を築城するとともに城下町を整備したことにはじまると考えられています。
 保存地区は、出石城跡をはじめとして、近世後期における城下町の町割や敷地の間口割をよく残すとともに、近世から近代に建てられた町家や寺社建築、武家屋敷など、但馬地方における城下町の歴史的風致を今日に良く伝えています。

丹波篠山篠山城下:城下町における保存地区の範囲は、国指定史跡篠山城跡とその周囲に町割りされた旧武家町、旧商家町からなり、東西約1,500メートル、南北約600メートル、面積約40.2ヘクタールに及びます。旧武家町は篠山城の外堀に面して上級武士の長屋門を残し、城の西に位置する南北の通り−御徒士町通りには天保元(1830)年の大火直後に建てられたとされる茅葺入母屋造りの武家屋敷を残し、通りに面して土塀と棟門を配します。旧商家町は、江戸時代末期から大正期に建てられた町家を連たんして残します。篠山市篠山伝統的建造物群保存地区は、天下普請による篠山城跡を核とし、武家町や商家町の町割りを残すなど、近世の城下町の基本的構造を良く残すと共に、武家屋敷や近世から近代にかけて建てられた商家及び寺院など、城下町の要素を全体としてよく残し、その歴史的風致を良く今日に伝え、全国でも価値が高い町並みであると評価され、平成16(2004)年12月10日付けで国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に選定され、平成19(2007)年2月には城下町篠山の町並みが美しい日本の歴史的風土100選に選ばれました。

丹波篠山福住:篠山城下から京都に向かう宿場町、福住地区。平成24年12月に国の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。丹波地方独特の商家の建物が多くみられ、宿場町の面影が色濃く残る町並み。素朴な雰囲気がお散歩にぴったりです。

三木城:築城年代は定かではないが別所氏によって築かれたと云われる。 別所氏の系図については定かではないが、赤松則村(円心)の弟敦光が別所五郎左衛門を名乗ったのが始まりと云う説や、赤松季則の次男である頼清が、永暦元年(1160年)に加西郡在田荘別所村に移り、別所城を築いて居城とし別所氏を称した説などがある。
史料に登場するのは6代別所則治で、文明15年(1483年)守護赤松政則が山名氏に大敗し国人層の信頼を失い堺に逃亡、翌年には浦上則政に家督を廃された。 この時、別所則治が前将軍足利義政にとりなして家督を安堵させ、文明17年政則に従軍して播磨に入国した。
戦国時代に入ると守護赤松氏の勢力は衰退し、別所氏はしだいに自立することとなり、天文7年(1538年)と翌8年には尼子氏の侵攻にあったが、これを撃退した。 天文23年(1554年)三好氏が有馬重則を助けて播磨に入国し別所氏の諸城を落とすと、別所氏は三好に属した。 しかし三好氏が織田氏によって勢力を削がれると、別所氏は織田氏に通じ三好と対立、天正6年(1578年)には毛利氏に付き、織田軍の羽柴秀吉と対立する。秀吉は三木城を完全に包囲し周辺の諸城を落とした後、別所長治以下一族が自害し落城した。
その後は天正13年(1585年)摂津国茨木より中川秀政が入城するが、朝鮮の役で没した。弟秀成が継いだものの禄高は半減となり、文禄3年(1594年)豊後国岡に転封となった。
慶長5年(1600年)池田輝政が姫路に入部すると、三木城には伊木忠次が三万石で在城したが、元和の一国一城令によって廃城となった。

17:00終了、帰路に向かう。
今回の旅行、兵庫県に足を運び、兵庫県に点在する比較的マイナーなお城5か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所を訪れ楽しみました。

今回も地味なお城が多いが洲本城は立派な石垣がしっかり残っており感動しました。
小京都重要伝統的建造物群保存地区は何回も訪れたことがあり再確認しました。
今回で全国のお城1000箇所を訪れ制覇し無事終了しました。
 


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十七弾:三重県お城・城下町巡り&小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2018年12月1−2日
 

観光資源が豊富で、F1が開催される鈴鹿サーキットをはじめ忍者発祥の地と言われる伊賀エリアなど魅力あるスポットが数多く存在する。お伊勢参りで有名な伊勢神宮には国内外から多くの参拝者が足を運び、横丁ではグルメも楽しむことができ、複合リゾート施設志摩スペイン村やナガシマスパーランドなどレジャースポットも豊富な三重県に足を運び、三重県に点在する比較的マイナーなお城9か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所を訪れました。

1日12:30車で伊賀方面に向かう。

伊賀上野:伊賀エリアのおすすめご当地情報をご紹介。伊賀エリアには薬師寺、上野公園、赤目四十八滝などの観光スポット、上野天神祭、伊賀焼陶器まつり、名張川納涼花火大会などの観光イベント、赤福、いちご大福、てこね寿司などのご当地グルメがあります。
伊賀上野は、三重北西部に位置し、忍者の里として知られ、奈良街道と伊賀街道の要所であり、宿場町として栄えました。上野城の城下町としても栄えました。東京にも似た名があるため、伊賀上野と呼ばれています


丸山城:丸山城は「天正伊賀の乱」の要因となった城です。北畠氏の養子となった織田信雄(北畠信意)は1578年(天正6年)、伊賀の領国化を図るために重臣の滝川雄利に命じて丸山城を築かせましたが、これに反発した伊賀の国人たちによって攻められ、一揆軍に占領されました。その後、第一次、第二次と二度にわたる伊賀侵攻の末、伊賀を完全に領国とし、雄利を再び城主としました。雄利が松ヶ島城に移った頃に廃城となったと思われます。城址は伊賀随一と評されるほどの規模で、削平した曲輪跡をはじめ、土塁や堀切などの遺構が良好に保存されています。また本丸跡にある天守台上には、大正時代に建立された丸山城址の石碑があります。

名張城:天正13年(1585年)松倉勝重によって築かれた名張城が始まりとされる。 上野に転封となった筒井定次は家臣松倉勝重に八千石を与え名張城を築かせた。 天正15年(1587年)松倉重政は家禄を捨て定次との主従関係を切り奈良興福寺成自院に入った。これは酒食に溺れる定次を勝重・重政が父子が諌言したが聞き入れられなかった為ともいわれるが定かではない。
重政は後に豊臣秀吉、徳川家康に仕え肥前国島原六万石を得た。
寛永12年(1635年)伊予国今治から藤堂高吉が領地替えで名張に入り陣屋を築いた。 名張藤堂家は独立した大名とはなれず、伊勢国津の藩内領主という位置付けであった。

霧山城:康永元年・興国3年(1342年)北畠顕能によって築かれたと云われる。
北畠氏は村上源氏で京の北畠に居住した公家であったが、建部3年・延元元年(1336年)後醍醐天皇が吉野山に遷幸の時に北畠親房が南伊勢に下向し、玉丸城を拠点として勢力をのばした。
足利氏はこれに対して幾度となく玉丸城を攻撃し康永元年に落城、顕能は多気郡に逃れた。その後、南北朝の合体や後小松天皇譲位による南北決裂などもあったが、南朝方は次第に勢力を削がれ北畠氏も一守護大名となっていった。
永禄12年(1569年)織田信長が南伊勢に侵攻すると、北畠具教は大河内城に籠城し抵抗したが、やがて信長の次男信雄を北畠の養子として家督を譲ることで和解した。具教は三瀬館に潜み信雄に対抗しようとしたが天正4年(1576年)信雄の命によって暗殺された。

18:00多気市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
2日7:30車で出発。

伊勢:古くから「日本人の心のふるさと」として親しまれてきた伊勢神宮。広大な森林の澄んだ空気に心が洗われます。昔町めぐりも魅力的。敷地の広い伊勢神宮は、時間をかけてゆっくりとめぐりましょう。古くからの習わしでは、外宮を参拝してから内宮を参拝します。両宮ともに「御正宮(ごしょうぐう)」→「別宮(べつぐう)」の順にお参りを。
参拝後は、お伊勢さんの門前町「おはらい町」散策へ。川沿いの石畳にレトロなお店が軒を連ね、昔懐かしい町並みを楽しめます。そして賑やかなのが「おかげ横丁」。老舗和菓子店や、名物・伊勢うどんを食べられる店、和風の可愛い雑貨屋さんなど、入ってみたいお店がいっぱい!


松坂:江戸時代に商業の町として栄え、豪商のまちとなった松阪。今も城跡や武家屋敷が残り、レトロな風情が町並みに漂います。
松阪もめんの粋な着物姿で散策してみるのもおすすめ。本場の松阪牛は逃せません。

松ヶ島城:永禄10年(1567年)頃、北畠具教が築いた細首城が始まりと云われる。 具教は織田信長の侵攻に備え家臣日置大膳亮に守らせた。 永禄12年(1569年)の織田軍の侵攻では日置大膳亮は細首城を焼いて大河内城に籠城した。 信長の次男信雄が北畠氏の養子になり家督を継ぐことで和議が成立すると信雄は田丸城を築きこれを本拠とした。 しかし田丸城が焼失すると細首城を改修し松ヶ島城と改名した。 本能寺の変の後は羽柴秀吉によって蒲生氏郷が入城したが氏郷は新たに松坂城を築いて本拠を移したため廃城となった。

木造城:貞治5年・正平21年(1366年)木造顕俊によって築かれた。 顕俊は北畠顕能の次男で木造城を築き木造氏を名乗った。 二代目の俊康は京都に住み足利将軍と親しかった為、本家北畠氏の南朝と対立した。
永禄12年(1569年)織田信長の南伊勢侵攻によってそれに従い信長の次男信雄が北畠氏の養子となり家督を嗣ぐことで和解した後は、それに従った。

上野城:織田信長の弟、信包が、津城の仮城として1570年に改修築城した伊勢上野城。お市にとっては兄である信長に攻められ、浅井長政(お市の夫、三姉妹の父)が自害した後、信長の計らいにより、お市と三姉妹が移り住んだお城です。江は0歳から7歳までを過ごしました。その後、廃城となり、後に津藩主、藤堂高虎により取り壊され、現在は城郭の跡のみ残っています。
標高38mの伊勢街道沿いの台地に造られたこの城からは、伊勢湾や鈴鹿連峰が一望でき、展望台となった今でも当時の景色が偲ばれます。

神戸城:築城年代は定かではないが天文19年(1550年)頃に神戸具盛によって築かれたと云われる。 神戸氏は伊勢平氏関氏の一族で、関盛政の長子関盛澄が鈴鹿郡と河曲郡内二十四郷を領し、沢城を築いて神戸氏の祖となったと云われる。
永禄10年(1567年)神戸友盛のとき、織田信長の家臣滝川一益の侵攻を受けたが、高岡城に籠もった山路弾正がこれを凌いだ。翌11年(1578年)にも織田氏が攻め込み、神戸友盛は信長の三男信孝を養子として迎えることで和睦となった。
元亀2年(1571年)信長は神戸友盛を沢城に隠居させ、信孝を神戸城主に据えた。その後、友盛は近江の蒲生氏に預けられたが、これに反発した山路弾正らは神戸城奪還のために高岡城で挙兵しようと画策したが、計画が発覚して弾正は切腹となり、高岡城には小島兵部が置かれた。

正8年(1580年)神戸信孝は神戸城を拡張して五重の天守を設けた。 天正10年(1582年)信孝は四国攻めの総大将として堺にて渡航の準備をしていたが、本能寺の変が勃発して中止となり、秀吉に合流して明智光秀を討った。その後、信孝は岐阜城に移り神戸城には小島兵部が入った。信孝はその後、賎ヶ岳合戦に際して柴田勝家と結んで岐阜城で挙兵したが、羽柴秀吉によって岐阜城が攻められ降伏して開城し、知多の野間大坊で自刃した。
天正15年(1587年)水野忠重が三河国刈谷より移ったが、文禄元年(1592年)再び三河国刈谷に移り、滝川雄利が城主となった。

関:関宿は、古代から交通の要衝で、日本三関の一つ「鈴鹿関」が置かれ、江戸時代には東海道五十三次47番目の宿場町として、参勤交代や伊勢参りの人々で大変賑わいました。そして現在、旧東海道の宿場町のほとんどが旧態をとどめない中にあって、江戸時代から明治時代に建てられた古い町家が200軒あまり残っており、往時の姿を色濃く残していることから昭和59年に東海道の宿場町としては唯一国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

峯城:築城年代は定かではないが正平年間(1346年〜1370年)に関盛忠の五男峯政実によって築かれたと云われる。
峯氏は政実以降六代続いたが、天正2年(1574年)峯八郎四郎盛祐が伊勢長島の合戦で討死すると弟与八郎が幼小であったため、岡本下野守が峯城主となった。
天正11年(1583年)滝川一益の家臣滝川儀太夫益重によって攻められ峯城は落城するが、羽柴秀吉が大軍を率いて峯城を包囲し、数ヶ月の籠城の末に兵糧が尽きて儀大夫は開城した。この戦いの後、織田信雄の家臣佐久間正勝が入城した。
天正12年(1584年)秀吉と信雄が対立すると、小牧・長久手合戦の前哨戦として秀吉は蒲生氏郷、関長門守などに命じて峯城を攻めさせ、わずか数日で落城した。

長嶋城:寛元3年(1245年)藤原道家によって築かれたのが始まりとされる。 文明年間(1469年〜1487年)伊藤重晴が再び築城した。
元亀元年(1570年)一向宗願証寺の門徒が長島城を攻めて伊藤氏を滅ぼした。 更に一向宗は矢田城の滝川一益を追って、織田信長の弟興長を自刃される。
元亀2年(1571年)織田信長は大軍をもって長島城を攻めるが落とせず、退陣で殿を勤めた氏家卜全が討死した。 天正2年(1574年)三度目の長島城攻略によって落とすと、滝川一益を城主として北伊勢を領した。
天正11年(1583年)滝川一益は柴田勝家に味方して羽柴秀吉に敵対するが、勝家が秀吉によって滅ぼされると一益もまた攻められ、所領を没収された。その後は、天野景俊、原胤房、福島正頼が城主となる。
・慶長6年(1601年)福島正頼は大和国宇陀に転封。
・慶長6年(1601年)上野国阿保より菅沼定仍が二万石で入封、元和7年(1621年)定芳の時、近江国膳所に転封。
・慶安2年(1649年)下野国那須より(久松)松平康尚が一万石で入封、元禄15年(1702年)忠充の時、除封。
・元禄15年(1702年)常陸国下館より増山正弥が入封、以後明治に至る。

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、三重県に足を運び三重県に点在する比較的マイナーなお城9か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所をおとずれ楽しみました。

比較的地味な城跡、何回か訪れたことのある小京都重要伝統的建造物群保存地区(伊賀上野、伊勢、松坂、関)訪れ今回で兵庫の城跡のみとなりました。