飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十五弾:熊本県お城・城下町巡り&九州四十九院薬師霊場観光
2018年2月24日-25日
  

九州の西に位置し、室町時代に、古くから同地で力を持っていた菊池氏が守護になり、阿蘇氏、名和氏、相良氏などが各地を支配するが、争乱で絶えなかった、やがて大友氏が肥後に進出し、龍造寺氏、島津氏と対立することになった熊本県に足を運び熊本県に点在するお城6か所、熊本県にに点在する九州四十九院薬師霊場5か所を訪れました。

24日17:30伊丹空港出発。
18:40熊本空港到達、レンタカーで熊本インター下車、インター付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
25日8:00レンタカーで出発、霊場お城巡り。

光厳禅寺:

法泉寺:法泉寺のご本尊は、聖観世音菩薩、脇本尊として薬師瑠璃光如来をお祭りしています。
法泉寺の開創は、1293年(永仁元年)鎌倉時代です。今年から遡ること715年前です。

鐘楼堂は古くなっていたものを終戦50年の平成7年に改修して、戦争の為に供出してなくなっていたものを50年ぶりに「平和祈念梵鐘」として造りました。
午前6時と午後6時に世界中で戦火の犠牲になられた方々のご冥福をと恒久平和を願って鳴り響いています。

西厳殿寺:

菊の池城:築城年代は定かではないが延久年間(1069年~1074年)に菊地則隆によって築かれたと伝わる。

十六代菊池武政のとき菊池城に居城を移した後は菊池十八外城の一つとして利用された。

守山城:築城年代は定かではないが正平年間(1346年~1370年)に菊池氏によって築かれたと云われる。 菊池氏は太宰府官藤原政則の子孫とされ、藤原則隆のときに肥後に下向し菊の池城を築いたという。十六代菊池武政のとき、菊の池城から隈部城へと居城を移した。

南北朝時代には南朝の有として肥後国を中心に九州全土にその勢力をのばしたが、北朝方の今川了俊が九州に下向してくるとその勢力は衰退した。

兼朝の時、肥後国守護職を回復し戦国時代に続くが大友氏に破れ嫡流が途絶えた。 菊池氏が滅亡すると赤星氏の勢力下になるが、隈部氏によって追い出され、隈部館から隈部氏が移り居城となる。

隈部氏は北侵する島津氏に降伏したが、豊臣秀吉による九州征伐で秀吉に降伏し本領を安堵された。しかし熊本に入封した佐々成政が検地を行うとこれに反発して挙兵し、成政が菊池城に押し寄せると城村城に籠もってこれに対抗した。これがきっかけとなって肥後国衆一揆が広まり、成政は謹慎の後に切腹、隈部氏もまた嫡流は断絶した。

鞠智城:築城年代は定かではないが7世紀後半に大和朝廷によって築かれた。 天智2年(663年)朝鮮半島白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷は九州・中国・四国地方に山城を築いて唐・新羅連合軍の来襲に備えた。

九州では大宰府を中心に基肄城や大野城を築いて防衛線としており、鞠智城は前衛である大野城などへの武器・食糧の供給基地として築かれたと考えられている。

結局大陸から日本への侵攻はなく、その後は役所として利用され10世紀半ばまで存続していたようである。

隈部館:築城年代は定かではないが隈部氏によって築かれた。 隈部氏は大和源氏宇野氏の末裔で菊地氏に仕え隈部の名字を与えられたと云われる。

隈部氏は菊池家臣団において城氏や赤星氏らと並び重要な地位にあった。菊池氏が没落すると大友氏や龍造寺らと結んで勢力を拡大し、天正6年(1578年)には赤星氏を隈府城から追放し、隈府城を本城として移った。

隈部氏はその後、肥後に入封した佐々成政に従ったが、隈部親永は成政の検地に反発して挙兵する。これが肥後国人一揆の発端となったが豊臣秀吉が派遣した援軍に降り、隈部氏は滅亡した。

相良寺:

金剛乗寺:

田中城:築城年代は定かではない。古代豪族和邇氏の末裔といわれる和仁氏累代の居城である。

天正15年(1587年)佐々成政の検地に対して隈部城の隈部親永が反発して国人一揆が発生すると、和仁氏と坂本城主辺春親行などが田中城に籠城して成政に抵抗した。佐々成政は国人一揆を押さえ込もうとしたが、逆に隈本城に攻め込まれたため撤退し、豊臣秀吉に援軍を求めた。秀吉は小早川・立花・鍋島などの諸将に命じて田中城を攻撃させ、安国寺恵瓊の謀略によって辺春氏が寝返り落城した。

筒ケ嶽城:築城年代は定かではない小代氏によって築かれたのが始まりとされる。 小代氏(しょうだい)は武蔵国入間郡小代郷発祥で武蔵七党の一つ児玉党に属していた御家人で武蔵国小代館に住んでいた。

宝治合戦の功により小代重俊が肥後国野原荘の地頭職に任ぜられ、文永8年(1271年)には鎌倉幕府より蒙古襲来に備えて野原荘へ下向するよう命ぜられ、 小代重泰(重康)らの兄弟が下向したことに始まる。

小代氏は以降、肥後国北部の有力国人として代々続き、はじめ大友氏、ついで龍造寺氏、島津氏に属し、豊臣秀吉の九州征伐では秀吉に従って所領を安堵され、肥後に入国した佐々成政、加藤清正そして細川氏の家臣となって近世まで続いた。

17:00終了、熊本空港に向かう。
17:30熊本空港到達。
19:10熊本空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の熊本県に足を運び、熊本県に点在するお城を6か所、九州四十九院薬師霊場5か所を訪れ癒されました。
山の頂、畑の中、公園の中に位置する、様々な城跡、楽しめました。















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十四弾:和歌山県お城・城下町巡り観光
2018年2月17日-18日
 

僧兵集団が力を持ったエリアで、戦国時代に入っても、織田信長、豊臣秀吉に反発した。やがて秀吉の奇襲征伐によって、有力な拠点が相次いで陥落、秀吉は和歌山城を築城し、紀州での支配力を強化した和歌山県に足を運び、御坊から南に点在するお城7か所を訪れました.

17日17:00車で出発、御坊に向かう。
18:30御坊駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
18日7:30車で出発、お城巡り。

平須賀城:築城年代は定かではないが室町時代に野辺弾正忠忠房によって築かれたと云われる。 野辺氏は源経基の子満快の後裔という。

野辺氏は高田土居城を居館として忠房の頃に平須賀城を築いたという。 野辺氏は畠山氏の被官で、湯川氏に属していた野辺光房は永禄5年(1562年)に河内国若江で三好氏と戦い討死した。その子、野辺春弘のとき幡山要害城を築いて居城を移したという。

田辺城:元和5年(1619年)安藤直次によって築かれた。

安藤直次は和歌山に入部した徳川頼宣の付家老で、田辺三万石を賜り田辺城を築いた。これ以前に紀州を領していた浅野氏の家臣浅野氏重が在城した湊城があったが、浅野氏が安芸国広島に転封となると氏重もまた備後国三次へ移った。田辺城の普請は天保年間まで続いた。

龍松山城:築城年代は定かではないが天文年間(1532年~1555年)山本忠行によって築かれたと云われる。 山本氏は清和源氏の子孫ともいわれるが、忠行が紀伊国櫟原荘の地頭として入部したことに始まる。

天正13年(1585年)羽柴秀吉の紀州攻めでは三ヶ月に及んで対峙し和睦となった。しかし、翌年和睦の為に、大和郡山城の羽柴秀長を訪れた山本康長ら13人はその帰路藤堂高虎の館にて謀殺された。

八幡山城:築城年代は定かではないが安宅氏によって築かれたと云われる。

享禄3年(1530年)に安宅氏の跡目相続争いがあり、安宅嫡家大炊頭実俊の弟治部大輔が籠もったという。

安宅本城:築城年代は定かではないが享禄年間(1528年~1532年)安宅河内守によって築かれたと云われる。 安宅氏は橘姓で足利尊氏の命により淡路国沼島の海賊を退治するため、淡路国由良に居城していたという。

天正13年(1585年)羽柴秀吉による紀州攻めで帰参し羽柴秀長に仕えた。

勝山城:安宅勝山城は安宅本城の南に聳える標高212.4mの山頂に築かれている。

主郭は山頂にあり南北二段で土塁が巡る。北が高く南が低い。南の曲輪は西に虎口を開き土塁の内側に石積を残す。東側の土塁には雁木のような石段が見えている。

山頂の主郭から東、西、南の三方に伸びた尾根を堀切で遮断しているが、東の尾根は岩盤を削った圧巻の五重堀切で一番内側の部分は石積を伴っている。また、この堀切に面した曲輪の側面にも石積がある。

南尾根は長く竪堀を伸ばした三重堀切で、主郭の南東下に土塁囲みの小さな腰曲輪が備わっており、この外側に畝状竪堀群がある。

西尾根は主郭南の西虎口から降りると帯曲輪があり、その北端から竪堀、その先に堀切が一条あり遮断しているが、この部分はだいぶ埋まっているようである。

新宮城:元和4年(1618年)浅野忠吉によって築かれた。 関ヶ原合戦後、浅野幸長が和歌山城主となると、家老の浅野忠吉に二万八千石を与え新宮に置いた。この忠吉によって新宮城の築城が始まったが、元和の一国一城令によって一旦は廃城となる。しかし、元和4年(1618年)に築城は再開された。

元和5年(1629年)浅野長晟が安芸国広島に転封となると忠吉は備後国三原へと移った。 浅野氏に代わって徳川家康の十男頼宣が入封するとその付家老として遠江国浜松から水野重仲が三万五千石で入封、この水野氏の時代に完成したという。

16:00終了、帰路に向かう。
今回の旅行、和歌山県のお城巡り、第二弾、御坊から南に点在するお城を巡り楽しみました。
城跡が公園に整備さてていたところが多かった。













 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十三弾:香港観光
2018年2月10日-12日

5回目の訪れである香港に足を運び、香港島の郊外に点在する観光名所、ビクトリアピーク、浅水湾、赤柱、香港仔、海洋公園を訪れました。

香港は、正式名称を『中華人民共和国香港特別行政区』と言います。
第2次世界大戦後150年以上イギリス統治国家だった香港は、1997年に中国に返還され、現在は特別行政区として独自の文化や通貨を持っています。
そのため、言語は中国語と英語が通じます!
日本人にとっては漢字で意味が分かり、英語でもコミュニケーションが取れるのは旅先としては安心ですね。
香港とはビクトリアハーバーを挟んで、北側の九龍半島と南側の香港島、230以上の島々のことを言います。
観光客が一般的に訪れるエリアは、九龍半島南端と香港島の北側になります。

10日16:50関西国際空港香港航空で出発
20:10香港空港到達、メトロで紅磡方面に向かう。
21:15紅磡駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
11日8:00出発、メトロで中環駅下車、徒歩、ピークトラムでビクトリアピークに向かう。

ビクトリアピーク:香港と言えば、「百万ドルの夜景」というフレーズを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
香港の定番夜景スポット「ビクトリアハーバー」です。
毎晩20時から行われる光と音のファンタジーショー「シンフォニー・オブ・ライツ」を見るために、この時間前になるとビクトリアハーバーに訪れる観光客で溢れかえっています。
香港島サイドや九龍サイドのハーバー沿いの高層ビルから、夜空にサーチライトが放たれ、七色の光が乱舞するこのショーは絶対に外せませんよ。
この13分間の壮大なスケールのショーはなんとギネス記録にも認定されているとか。
ショーもさることながら、ここから見る夜景は「香港」を感じることが出来るスポット。

11:00中環に戻りバスで淡水湾に向かう。

淡水湾:香港で最も美しいビーチといわれる、淺水灣(レパルスベイ)。香港島の南に位置するレパルスベイは、11月頃まで海水浴を楽しむことができ、多くの人で賑わうビーチです。ここは、ハリウッドの名作映画『慕情』(1955年 ジェニファー・ジョーンズ、ウイリアム・ホールデン)の舞台としても大変有名です。白い砂浜と美しい海は、まるでヨーロッパのリゾート地に来たよう。香港の喧騒から少し離れて、澄んだ空気の美しいビーチで、リッチなリゾート気分を味わってみませんか。

バスで赤柱に向かう。

赤柱:香港島最南端に位置する「スタンレー(赤柱)」は、美しい海や自然に囲まれ、オシャレなレストランやパブが軒を連ねる、まさにヨーロピアンリゾート。中国雑貨や衣料品など、思わぬ掘り出し物に出会える「スタンレーマーケット」やコロニアル調の洋館「マレーハウス」など、香港に来たからにはぜひ立ち寄ってみたい観光スポットもいっぱいです

16:00バスで中環に戻る。
メトロで紅磡駅に向かう。
18:00紅磡駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

12日7:30出発、メトロで中環に向かう。
8:30中環駅前のバスターミナルでバスで香港仔に向かう。
9:00香港仔到達、散策。

香港仔:香港島南側にある漁師町 香港仔(アバディーン)をご紹介します。中環(セントラル)からバスで20分ほどのところにある香港仔は、山と海に挟まれた本当に小さな小さな町ですが、香港島南側にある町の中で一番にぎわっている場所と言っても決して言いすぎではないぐらい、いつも多くの人でにぎわっています。 「香港」という地名の由来になったといわれている「香港村」というのが、香港仔対岸にある鴨脷洲(アプレイチャウ)という島にあったため、その後この町を含めこのあたり一帯が香港仔(ヒョンコーンチャイ、アバディーン)と呼ばれるようになりました。

10:00歩いて海洋公園に向かう。
10:30海洋公園到達。

海洋公園:1977年にオープンして以来、香港の人びとの週末のおでかけスポットとして、また観光スポットとして大勢の人が集まるテーマパーク。動物園、水族館、遊園地が集結した、大人にも子どもにとっても夢のようなテーマパークはただ遊ぶだけでなく、「人と自然をつなごう」をモットーに自然保護や動物保護に対する理解を深めることに力を入れています。2012年には世界ベストテーマパーク賞を受賞しました。

16:00メトロで中環に向かう。香港駅から機場快速で空港に向かう。
17:00香港空港到達。
18:15香港空港香港航空で出発。
22:35関西空港到達。

今回の旅行、5回目の訪れである香港に足を運び、香港島の郊外にに点在する観光名所
ビクトリアピーク、浅水湾、赤柱、香港仔、海洋公園を訪れ楽しみました。

初めて訪れた香港は大学生で両親と訪れましたが、ビクトリアピークの記憶が残っており、高層ビル群の眺望の思い出があり、今回も昔と同様感動いたしました。かなり進化していました。
又以前は治安も悪く、至る所でスリを見かけましたが、現在は全くありません。
町の発展と治安の良さは伴うものなんでしょうか。
中国は現在も発展続けてしています、5年前のガイドブックを持参しましたがメトロが進化し、以前はバスでしか行けないところがメトロでスムーズにいけるようになっています。便利になっています。ただし物価が高いですね。特に土地の高騰によりホテル代がべらぼうに高い。
観光王国香港旅行満喫しました。

















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十二弾:鹿児島県九州四十九院薬師巡礼&重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2018年2月3日-4日
 

九州地方の南端に位置する鹿児島県に足を運び、鹿児島県に点在する九州四十九院薬師霊場3か所、小京都知覧、重要伝統的建造物群保存地区の入来麓、出水の武家屋敷群を訪れました。

31610伊丹空港出発

17:25鹿児島空港到達、レンタカーで指宿方面に向かう。

19:00指宿手前のホテル到達、周辺を散策し食事を済ませて就寝。

4日7:30レンタカーで出発、霊場、歴史的建造物巡る。

 

光明禅寺:

 

知覧:全国の小京都の中でも最も南に位置する知覧は、江戸期に作られた南国特有の武家屋敷のある町だが、第二次世界大戦中は特攻隊基地があった悲しい歴史を持つことでも有名です。かつての飛行場跡地の近くには「知覧特攻平和会館」があり、特攻隊員の写真と遺品の資料が昭和の負の歴史を今に伝えています。海から引き上げられた当時の零戦、屋外には隊員が寝泊まりした三角兵舎(復元)、観音像には隊員の名前を記した巻物が収められており、街を歩けば、道路に沿ってたくさんの石灯籠があり、歴史を今に伝えています。高倉健主演映画の「ホタル」の舞台にもなったことでも知られています。

知覧に残る江戸時代の武家屋敷は、七戸が一般公開され、一部ではあるものの庭園も見ることができます。これらの武家屋敷は鹿児島城を内城とする外城と呼ばれ、鹿児島城の周囲に衛星のように配置されていました。もちろん、戦時には防衛ラインとなるもので、知覧の武家屋敷郡はその中のひとつ。島津は関ヶ原の合戦においては西軍に属していたため、幕府との戦の可能性もあったことがその背景としてあります。反面、京都から新しい様式を取り入れていたことが伺える一面もあります。

武家屋敷は、石造りの上にイヌマキと呼ばれる生垣があるのが特徴で、庭園では、森邸のみが池泉式庭園で、ほかは水を使わない枯山水式庭園です。遠くに見える母ヶ岳を借景とし、四季を通じて美しさを見せてくれます。

また、知覧は九州一のお茶の産地でもあり、生産量としては静岡に次ぐ規模です。

本通り線まで出ると、鯉の泳ぐ清流溝も見ることができます。

 

妙円寺:

 

鎮国寺:

 

入来麓:入来は、鎌倉時代に地頭職であった関東の渋谷氏がこの地に入り「入来院」と名乗って支配した荘園でした。
昭和4年アメリカのエール大学の教授朝河貫一氏により入来院家に伝わる「入来院家文書」が翻訳され、『入来文書』として刊行されたことによって有名になりました。
現在の入来麓武家屋敷の町並みは中世から江戸期にかけて出来たもので、特徴は樋脇川の石を使用した玉石垣とその石垣の上に植えられた茶やイヌマキなどの生垣。

入来のほぼ中央部に位置する麓地区は、四隣に威を振った薩摩藩随一の堅城(山城)である清色城を中心に川原石を使った玉石垣による整然とした区画割、武家屋敷門(茅葺門)、大手門前の濠や広馬場、下門口を備えたお仮屋跡など多くの史跡・文化財が残っています。
近世になって整備された街路と地割が旧態をとどめ、屋敷割りもよく残っていて歴史的価値が高いとされています。
また現在はほとんどの屋敷跡に民家があり生活感もあります。

立派な長屋門などは残っていませんが、門から敷地をのぞくと玄関までの折れ曲がったアプローチや古木、石倉など当時の面影がしのばれます。
薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の行政区画に分けて統治。
武士団を鹿児島市内の本城に集結させず、領地内に分散して統治し、その統治の中心を麓と呼びました。

入来麓は薩摩藩麓の一つで中世の名残を残す町並みとしてよく保存されていることから、2003年12月に鹿児島県では知覧武家屋敷群、出水麓武家屋敷群に次いで国(文化庁)の重要伝統的建造物群保存地区(武家町)に選定されました。

出水:出水市の麓町を中心とした住宅地一帯は、
平成7年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

出水麓は、出水郷に赴任する薩摩藩士の住宅兼陣地として、
中世山城である出水城の麓の丘陵地帯を整地して作られたところです。
その整地には、関ケ原の戦いの前年(1599年)、本田正親が初代地頭に着任してから、
3代地頭の山田昌巖の治世下まで、約30年かかりました。
出水麓は、薩摩藩内で最も規模が大きく、藩内のほかの麓は、出水に倣ったといわれています。

16:00鹿児島空港に向かう。

18:00鹿児島空港到達。

19:25鹿児島空港出発。

20:35伊丹空港到達。

 

今回の旅行、九州の南端、鹿児島県に足を運び、九州四十九院薬師霊場3か所、小京都知覧、重要伝統的建造物群保存地区、入来麓、出水の歴史的建造物を訪れ楽しみました。

鹿児島城の外城である、知覧、入来麓、出水の武家屋敷群の散策、時に今年の大河ドラマの撮影地知覧は多くの観光客が訪れ賑わっていました。

雪がちらつく悪天候での観光、寒さを耐えながらの武家屋敷群の散策堪能しました。