飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十七弾:千葉県お城・城下町巡り観光 2018年3月17日-18日 関東地方の安房、上総、下総の房総三国で乱を起こした平忠常の後裔・千葉氏が基盤を築いたあと、里見氏が台頭し、戦国時代には安房国を支配した。天下統一後は、江戸に近い将軍のお膝元として有力大名が配された千葉県に足を運び、比較的マイナーなお城11か所を訪れました。 17日13:50新大阪新幹線のぞみで出発 16:23東京駅到達、レンタカーで千葉県市原方面に向かう。 16:00市原市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。 18日6:30レンタカーで出発、房総半島に点在するお城巡り 佐貫城:築城年代は定かではないが応仁年間(1467年~1469年)に武田義広によって築かれたのが始まりとされる。 天文6年(1537年)家督相続争いで武田信隆が峰上城、佐貫城、海造城を拠点とし、小田原北条氏を頼って武田信応に対抗したが、信応方の足利義明、里見義堯によって落城することとなる。 その後は里見氏の城となり、里見義弘の頃には本城ともなったが、里見義弘が没するとその子梅王丸に家督を継がせた加藤信景が佐貫城に入って安房の里見義頼と敵対する。天正8年(1580年)里見義頼は上総へ侵攻し、佐貫城を攻めたてたため、加藤信景は梅王丸の助命を求め開城した。 天正18年(1582年)豊臣秀吉による小田原征伐の後に関東に入部した徳川家康は内藤家長に二万石を与え佐貫城主とした。 館山城:築城年代は定かではないが里見氏によって築かれた。 天正10年(1582年)頃には岡本城の支城として存在していたようである。 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で里見氏は豊臣方として参陣するが、里見氏が保護していた御弓公方足利氏の遺児頼淳のために鎌倉を回復しようと企て、また、惣無事令に違反した咎もあって里見氏領の上総領は没収され、安房国一国を安堵された。 これによって上総領の家臣は安房国へ引き上げることを余儀なくされる。これが居城を岡本城から館山城へ移す要因の一つとされ、天正19年(1591年)以降里見氏は館山城に居城を移した。 慶長19年(1614年)里見忠義は大久保忠隣の罪に連座する形で安房国を没収され、伯耆国倉吉に三万石で転封となり、元和8年(1622年)忠義が没すると嗣子なく里見家は断絶となった。里見氏の後、館山城は完全に破却された。 稲村城:築城年代は定かではないが里見氏によって築かれた。 里見氏は上野国碓氷郡里見郷の発祥で、新田義重の子義俊が里見郷に住んで里見を名乗ったことに始まる。 相模国に逃れた里見義実は三浦氏の援助を受けて、安房国白浜を拠点に勢力をひろげ、房総里見氏の祖となる。里見氏の嫡流は義豊の代で途切れ(前期里見氏)、それ以後は庶流の義尭の系統となる。この義尭以後、稲村城は破棄された。 一般的には義通の子義豊が幼少であった為、後見人として弟実尭が義豊が元服した後も義豊に譲らず、義豊は実尭を自刃させ、実尭の子義尭が父の仇として義豊を討ち、里見氏が庶流の血筋へと替わっていく。 しかし、「さとみ物語」(館山市立博物館)によれば、義豊は既に家督を譲られて成人していたということである。義豊は実尭を殺害し、正木通綱をも滅ぼすと、実尭の子義尭は上総国百首城にたて籠って小田原北条氏の支援を得て義豊を安房から追放、翌年には義豊の軍勢を犬掛けの合戦で討ち取った。 勝浦城:勝浦城は、天文十一年(1541)の頃、勝浦正木氏の初代、正木時忠が入城。それ以前は、真里谷武田氏の砦のようなものであったろうと言われています。その後、二代時通、三代頼忠の居城となります。しかし、天文十八年(1590)、豊臣秀吉により安房里見氏が領地の一部を没収されると、里見氏と親交のあった勝浦城主正木頼忠も城を明け渡し、安房に逃れます。なお、頼忠の娘は、後に徳川家康の側室(お万の方)となり、紀州徳川頼宣と水戸徳川頼房をもうけます。高名な水戸光圀(黄門)は、お万の方の孫にあたります。また、絶壁を布を伝わって下りたという「お万布ざらし」伝説は、神社裏の断崖絶壁が舞台です。 万喜城:万喜城は、三方を夷隅川に面した丘陵(城山)山頂部に築かれている。 城山全山が城塞化されていると云っていいほどの堅固な城だ。 現在は山頂部の二段の曲輪と物見台(展望台がある)が主郭部を構成し、主郭南側は侵食谷によって隔てられた痩せ尾根が幾筋もあり、この支尾根を削平して曲輪を置き、更に堀切を随所に設けて防衛ラインを構築している。 北麓から山頂の公園までの車道の両側には民家敷地ともなっている曲輪群が幾段にも構築されて、比較的緩やかな登りとなるこのルートの防備を固めている。 これらの縄張りを見て、かつ実際の遺構を見ると、この城が里見氏からの幾度も続いた来攻を凌いだ「要害の城」であると肌で感じることが出来る。 大多喜城:天正18年(1590年)本多忠勝によって築城された。 徳川家康が関東に入部すると、家康は里見氏への押えとして本多忠勝を根古屋城に十万石で配置する。忠勝は根古屋城が防備に適さないとして、新たに大喜多城の築城を家康に願い出て許された。 ・慶長6年(1601年)本多忠勝は伊勢国桑名に転封。 ・慶長6年(1601年)忠勝の次男忠朝が五万石で残り、元和元年(1615年)大坂夏の陣で戦死。 ・元和元年(1615年)甥の本多政朝が遺領を継ぎ、元和3年(1617年)播磨国龍野へ転封。 ・元和3年(1617年)武蔵国鳩谷より阿部正次が三万石で入封、元和5年(1619年)相模国小田原へ転封。 ・元和9年(1623年)武蔵国岩槻より青山忠俊が二万石で入封、寛永2年(1625年)改易となる。 ・寛永15年(1638年)阿部正能が一万石で入封、寛文11年(1671年)正能は武蔵国忍の養子ととなる。 ・寛文11年(1671年)武蔵国岩槻より阿部正春が一万六千石で入封、元禄15年(1702年)三河国刈谷へ転封。 ・元禄15年(1702年)三河国刈谷より稲垣重富が二万五千石で入封、同年下野国烏山に転封。 ・元禄16年(1703年)相模国玉縄より(大河内)松平正久が二万石で入封、以後明治に至る。 久留里城:築城年代は定かではない。城の創築は定かではないが真里谷武田氏の支城として築かれたとも云われる。 本格的な築城は里見義尭によるもので、義尭は久留里城を居城として小田原北条氏の攻撃にさらされ、永禄7年(1564年)には北条氏康によって攻められ落城する。しかし、永禄10年(1567年)には三舟山で北条氏を敗り、久留里城を奪還した。 天正6年(1578年)里見義弘が没すると、安房国岡本城の里見義頼と梅王丸との間で家督相続を巡る内乱が勃発し、天正8年(1580年)義頼は久留里城を攻略して、後に梅王丸を捕える。以後里見氏の居城は安房国岡本城へと移り、天正18年(1590年)頃には城代として山本越前守が在城した。 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で里見氏は豊臣方に属するものの上総国の所領を没収され、上総国は関東に入部した徳川家康の所領となる。 家康は榊原康政の子大須賀忠政を遠江国横須賀より三万石で入部させた。 ・慶長6年(1601年)大須賀忠政は遠江国横須賀へ転封。 ・慶長6年(1601年)相模国より土屋忠直が二万石で入封、延宝7年(1679年)頼直の時、改易となり廃城。 ・寛保2年(1742年)上野国沼田より黒田直純が三万石で入封、以後明治に至る。 真里谷城:康正2年(1456年)武田信長によって築かれたと云われる。 上総国武田氏の武田信長は康正2年(1456年)下総国市河合戦のときに庁南城と真里谷城を築き、真里谷城には信長の嫡男信高の二男清嗣(信興)が城主となり真里谷武田氏の祖となった。 天文6年(1537年)真里谷武田信隆・信応兄弟による内訌で、一時は小弓公方足利義明の支援を受けた信応が家督を継いだが、天文7年(1538年)の国府台合戦によって義明が没した後は、北条氏の支援を受けた信隆が家督に復した。しかし、天文12年(1543年)再び真里谷一族に内紛が勃発し真里谷武田氏の勢力は没落した。 土生城:神亀年間(767年~770年)に鎮府将軍大野東人が蝦夷に対する備えとして「金城」あるいは「貴船城」と呼ばれる城砦を築いたのがその始まりとされるが定かではない。 長享2年(1488年)小弓公方足利氏の家臣中野城主酒井定隆が土気城を築いて土気酒井氏の居城となった。 酒井氏の出自は土岐氏の庶流、あるいは藤原秀郷流波多野松田氏の後裔など諸説あって定かではない。 天文7年(1538年)小弓公方足利義明が没すると、後に土気酒井氏は東金酒井氏らとともに北条氏に属した。永禄4年(1561年)上杉政虎(謙信)が越山して関東に出陣すると、北条氏を離反して上杉氏に属したが、政虎が越後に戻ると再び北条氏に属した。 永禄7年(1564年)国府台合戦で酒井胤治は北条氏を離反して里見氏に付いた。しかし翌年北条氏政の軍勢によって土気城は包囲され、酒井氏は里見氏に援軍を要請したが援軍を得ることはできなかった。天正4年(1576年)酒井氏は再び北条氏に属し、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏とともに滅亡した。 大椎城:大椎(おおじ)城は平安時代中期、上総・下総に強大な権力を持っていた平忠常が築城し、長元の乱(1027~1031)を起こした根拠地と云われている。この忠常は平将門の叔父であった良文の孫にあたり、当時不当な貢税を課した受領(国司)の暴政や貴族権力に反抗した。 この乱の後、忠常の子・常将が初めて「千葉氏」を名乗り、常長・常兼と続き、その子・常重は大治元年(1126)、この城から千葉城(猪鼻城・湯の花城)に移り廃城になったと考えられている。 しかし、「図説・房総の城郭・(千葉城郭研究会編)」によると、「この地はもともと源頼朝に滅ぼされた上総氏の領するところでもあり、千葉氏がここから興ったというのは史実ではなく伝承の域を出ない。」としている。 戦国期には、土気城主酒井氏が村田川流域を押さえる支城として大規模な改修をしたと考えられる。 尚、千葉氏系流は戦国末期の重胤を経て更に現代の千葉胤雄・勝胤までほぼ1千年40代に亘って続いており、千葉県で各地に多く繁栄している。 国府台城:千葉県市川市国府台にある里見公園は、花見の名所になっているが、ここはかつて国府台城だった。1479年、太田道灌の弟・ 太田資忠が臼井城を攻めるために築城したのが国府台城とされる。その臼井城合戦で太田資忠は討ち死にしている。(鎌倉大草紙によれば、下総国 境根原合戦を前に太田道灌が仮の陣城を構えたとあり、これが国府台城であるという説もあり) 特に有名なのが「北条軍 VS 小弓公方および里見軍」で行われた、第一次/二次国府台合戦の古戦場跡であること。戦国時代、下総国支配の決定戦だったと言える。戦後、国府台城は北条氏によってさらに規模が拡張強化されたと考えられる。当時は、真間山(弘法寺)から松戸駅東側(相模台城)までを国府台と呼んでいた。 17:00終了東京駅に向かう。 18:00東京駅到達 18:40東京駅新幹線のぞみで出発 21:10新大阪駅到達 今回の旅行、関東地方の千葉県に足を運び、房総半島に点在する比較的マイナーなお城11か所を訪れ楽しみました。 今回のお城は再建した天守閣等、立派な城跡が多く、城マニアの方だけでなく楽しむことができた城めぐりでした。 千葉県の房総半島、車も少なく、信号も少なく、渋滞のストレスもなくドライブできました。大都会東京から少し離れるとまだまだ田園風景がいっぱいですね。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十六弾:小京都重要伝統的建造物群保存地区&九州四十九院薬師霊場観光 2018年3月10日-11日 九州の北西に位置する長崎県に足を運び、長崎県に点在する九州四十九院薬師霊場4か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所を訪れました。 3月10日17:30伊丹空港出発。 18:50長崎空港到達、レンタカーで大村市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。 11日7:00レンタカーで出発、霊場、歴史的建造物巡り。 大村:県内随一の花の名所として知られ、『日本の歴史公園百選』の地に選定されている大村公園は、大村藩主の居城であった玖島城跡にあります。城の石垣は当時のまま残っており、その他も多くの史跡を残しています。春は桜に始まり、ツツジ・花菖蒲と約3カ月間花の季節が続きます。大村公園の桜は『日本さくら名所百選』の地に選定を受けており、花弁が60~200枚にもなる国指定天然記念物「オオムラザクラ」をはじめ約2,000本の桜が、期間中、公園一帯をピンク色に染めます。また桜・花菖蒲と城跡との共演は風情があり、絶景です。 東には広範囲に武家屋敷群跡が見られます。 平仙寺:当寺の現在地での開山は天正16年(西暦1588年)といわれています。開山は堯珍法師で、堯珍は、もと島原温泉山七百坊惣座主でありました。 天正年中に島原領多以良村其外近隣の耶蘇教徒(キリシタン教徒)が温泉山(雲仙)の堂社仏閣を残らず焼失してしまいました。堯珍は二矢を負って島原領湯江に逃れ、さらに賊徒の来襲を恐れて遂に諫早(当時は伊佐早という)に着き、船越村本坊に住しましたが数年を経て、鼻祖竜造寺家晴公、二代直孝両代の庇護を迎ぎ、平山山平等院平仙寺に安住しました。 のち諫早家代々の安泰と領内安寧の祈祷寺として応分の寺領を与えられ、それより、代々法印住職となり、この間諫早家並びに藩からの寄進とともに諫早藩家老職の早田家からも、薬師寺建立や、この護持のための田畑の寄附などが多く寄せられ繁栄しました。一方、寺伝には比叡山延暦寺の直末にして、末寺には慈眼院と触内四坊(福緊坊、蓮乗坊、長円坊、願成坊)とともに愛宕社、八幡社、祇園社など多くの神社を支配下に置き、諫早藩の祈祷寺として隆盛しましたが、明治維新の神仏分離布告により諫早家の庇護も絶え、末寺の一寺四坊はみな廃絶となり、寺領はことごとく上地されました。さらに祝融の災に見舞われて、旧観に徴することが出来ず茅葺の仮堂でもありました。 さらに追い討ちをかけるように昭和20年の農地解放令によって、すべての田畑も失い、栄枯盛衰を余儀なくしました。時を経て昭和42年第26代亮締師により、旧諫早家の建物を買取り本堂とくりに改築されましたが、古家であったことから、現在職代の昭和59年庫裏等を新築、さらに土地区画整理事業を契機に、位牌堂を備えた会館および山門を新築し現在に至ります。 開山堯珍法師により当代までが27代であります。 長崎東山手:東山手の居留地は、大浦の商館と海を見下ろす高台に位置し、ポルトガル、 アメリカ各国領事館や礼拝堂が建ち、 当時は領事館の丘とも呼ばれていました。 主要なものとしては、国指定重要文化財の東山手十二番館、旧長崎英国領事館などがあります。 この他、オランダ坂の石畳の道と石垣や、石溝、石標類など 、居留地時代を偲ばせる土木工作物、大きな樹木などが数多く残っており、長崎市東山手の町並みは、居留地の地割を示す歴史的風致とともに、洋風住宅群をよく残しており、価値が高いといえます。 長崎南山手:長崎市南山手地区は、 東山手と同じ居留地であり、主として住宅地に使われていた区域です。長崎湾を見下ろす眺望の良い丘の上に位置しています。 幕末から明治にかけての洋風住宅として、 旧グラバー住宅をはじめ、旧リンガー(弟)住宅、旧オルト住宅が現存しており、 松が枝町では、旧香港上海銀行長崎支店や旧長崎税関下り松派出所などが港に面して建ち、いずれも国宝や重要文化財に指定されています。 地区の中心から南側は、現在でも静かな住宅地で、 明治時代初期から中期にかけての洋風住宅建築が比較的良好に残っており、長崎市南山手の町並みは、 居留地の地割を示す歴史的風致とともに、初期の洋風住宅群などをよく残しており、価値が高いといえます。 雲仙神代小路:神代小路の起源は、17世紀後期に神代鍋島家四代当主鍋島嵩(たかし)就(なり)が神代城の東側に武家地を造成し、その北西隅に陣屋を構えたことに始まる。神代小路は近世、近代を通して今日まで閑静な住宅地として維持されてきた。 保存地区は、東西約250m、南北約450m、面積約9.8haの範囲で、通りの脇には水路を通し、切石または玉石積の石垣や手入れの行き届いた生垣が並んでいる。 各敷地は、奥行も間口も大小様々であり、形も不整形である。敷地内には旧武家屋敷の住宅の主屋や長屋門、門倉などが建ち、通り沿いの石垣や生垣のほぼ中央に出入口を開く。石垣や生垣で桝形を築き、主屋の玄関を隠すものが多い。 主屋は表側南部に式台玄関、次の間及び座敷を並べ、裏側や北部に土間及び台所、居間、納戸などを置き、近世武家住宅の形式を現在に伝えている。 このように、保存地区は、江戸時代中期の地割りを良く残す武家町で、敷地内に江戸時代の主屋や長屋門などによる武家屋敷の構成を保ち、小路沿いの生垣や石垣、水路などにより特徴のある景観を構成するなど、歴史的風致を良く今日に伝えている。 島原:島原城の西に接した上新丁、下新丁、古丁、中ノ丁、下ノ丁、江戸丁、新建に扶持取り70石以下の徒士屋敷約700戸が軒を連ねていました。 鉄砲隊の居住地であったことから、一帯は鉄砲町とも呼ばれていました。 各丁の道路の中央には水路を設け、清水を流して生活用水としていましたが、防災・防火の見地から片側に移設。 けれど下の丁の町並みだけは、住民のご協力を得て「武家屋敷町並み保存地区」として定め、昔どおりに保存されています。 現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、延長406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みで山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒が一般に無料開放され、当時の武家生活の様子が偲ばれます。 また武家屋敷休憩所では白玉に独特の蜜をかけた郷土の味「寒ざらし」を味わうことができます。 龍泉寺:開創は不詳。 奈良時代、現在の地域に大きな集落があり祈願所が設けられていたことで、およそその頃の開創と推測される。 元亀3年(1572年)12月、三方原合戦に敗れた徳川家康公が境内の阿弥陀堂に身を隠し難を逃れたという記録から、それより以前から堂宇が存在していたと思われる。 現存の記録より 当寺創建の由来は、正親町天皇の御宇天正2戌年(1574年)、住僧把公(津叟把公和尚)なる者、村民と協力して堂宇を建立す。仍って開基と称す。 同暦、本寺龍秀院玉山和尚(玉山全瑳)を請して開山となす。 その後、寛政9年(1797年)龍秀院13代懐峯東州なる者、檀徒と協力して本堂を再建す。当暦に至って322年の星霜を経とあり、現在の本堂は215年経っている。 祇園寺:祇園寺は天台宗比叡山延暦寺を本山と仰ぐ寺院です。 針尾山感神院祇園寺は、松浦鎮信平戸藩候の発願で、針尾瀬戸を臨む現在地に承応元年(1652)開山、一圓岳老法印の開基と伝えられる。 祇園寺はもと曹洞宗の寺であった。その寺を鎮信公が平戸藩に、はじめて天台宗寺院の樹光寺を開創した折、末寺とし、天台宗としたという平戸藩の史料がある。 藩候建立の趣旨は藩内鎮護・安泰の祈願寺とあわせ、徳川秀忠公の霊を弔う香華所という記録もある。 本尊は開山時、薬師如来であり、その後阿弥陀如来で、現在は如意輪観世音菩薩という歴史的な変遷がある。 明治維新の神仏分離令までは祇園宮(戸御崎神社)の別当寺で、神仏習合の寺社であったことを窺い知る史料・伝統風習が今も息吹を伝える。 薬王寺:本尊は薬師如来。前身は養性庵と称す。天正14年(1586)4月5日、現薬王寺の背後の丘陵地にあった井手平城が落城。その後6年、文禄元年(1592)平戸藩主・松浦隆信の命により、洞谷山を城持山と改称した。 元禄年中(1688〜1704)菖海素休和尚の代に、養性庵の寺地から城跡の現在地に移転、再建された。このとき平戸瑞雲寺九世。大虚舜道和尚を開山に迎え、併せて井手平城合戦の戦死者の追善供養が営まれたという。 井手平城は、天正14年(1586)大村・有馬の連合軍に敗れて落城、城主の岡甚左衛門を筆頭に城兵のほとんどが戦死した。 これを哀れみ藩主の松浦隆信が養性庵を移転、再建して、戦死者の霊を弔ったのが薬王寺の創まりである。 平戸:平戸市大島村神浦の町並みは、江戸時代初期(17世紀初頭)に形成された漁村集落を起源とするが、江戸前期(17世紀後半頃)に捕鯨の創業を契機として大きく発展した。江戸時代中期(18世紀)の鯨組廃業後も跡地の再開発によって、海側に新たな町並みが成立するなど、漁師のほか商人や職人が多く居住し、漁業と商工業を経済基盤とした港町として発展を続け、豊かな町並みが形成された。 保存地区は、東西約700m、南北約650m、面積約21.2ヘクタールの範囲で、神浦集落と海、河川の水面、周辺の高台に建つ寺社、や墓地を含む範囲である。 中心部は幅約3mの細街路の両側に町家が建ち並ぶ。街路の山側は敷地奥行が浅く、中世末期から近世初頭にかけて成立した敷地であるのに対し、海側は敷地奥行が深く、寛文の鯨組創業による埋め立てによって陸地となり享保の廃業により町家化した敷地である。 地区内に建つ町家の主屋の多くは切妻造桟瓦葺、平入で、前面は一階と二階の柱筋を揃え、腕木庇を付ける。平面は、片方に通り土間、他方に室を並べる。街路の屈曲にあわせて台形の平面が多く、部屋境を食い違いにするなどした巧みな間取りが特徴である。 街路の山側では敷地の奥行がないため主屋のみの住宅が多く、主屋は奥行方向に二室を並べる平面が多い。海側は敷地の奥行があるため、主屋は奥行方向に三室を並べる平面が多く、敷地奥に離れをもつものもある。 特に山側敷地では狭小な敷地を反映して早くから二階を居室として利用し、主屋は比較的軒高が高い。表構えは大正時代まで出入口を含めて、摺上戸とし、その後は引違戸に変化している。 地区内には斜面地を利用するためにつくられた石垣や石段などが遠見番所や天降神社周辺で見られる。地区内各所に残る共同井戸は昭和40年(1965)まで主要な水源として使用され石造の井戸や周囲の石畳がほぼそのまま残されている。 平戸市大島村神浦伝統的建造物群保存地区は、近世から近代にかけての離島の歴史的風致を残すとともに、中世末期から近世初期にかけて成立した漁村集落が鯨組の創業と廃業という出来事を経て近世的な港町に変容していった姿を今日に良く伝えている。 16:00終了、長崎空港に向かう。 17:30長崎空港到達。 19:20長崎空港出発。 20:35伊丹空港到達。 今回の旅行、九州の長崎県に足を運び、長崎県に点在する、九州四十九院薬師霊場4か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所をおとずれ楽しみました。 数か所は何回か訪れたことのある小京都重要伝統的建造物群保存地区、違った角度からの訪問、癒され、感動しました。 初めて訪れた小京都重要伝統的建造物群保存地区、武家屋敷の広大な敷地、新鮮味があり、歴史を感じながらの散策楽しめました。 |