飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十一弾:ニカラグア&コスタリカ&パナマ観光
2018年4月28日-5月6日
 

中米の南に東西に細長く繋がる3カ国、ニカラグア、コスタリカ、パナマを訪れました。

ニカラグア:公用語はスペイン語。国民の70%以上がメスティソと呼ばれる混血で、グアテマラなどと比べると先住民の比率は低いです。日本との時差は-15時間、通貨はコルドバですが、どこでも米ドルが通用します。首都はマナグア。雨季(5月~10月)と乾季(11月~4月)がある熱帯性気候で、首都の平均気温は27度ですが、北部および中部山岳地帯はより低く、東部カリブ海沿岸は高温多湿です。治安は周辺諸国と比べれば格段によく、首都マナグアでは注意が必要ですが安全です。
湖と火山の国と言われるニカラグアには、西部太平洋岸に沿って火山帯があり、活火山も多いです。活火山でもっとも有名なのはマサヤ火山で、火口まで行ってマグマを覗くこともできます。中米で一番大きいニカラグア湖に浮かぶオメテペ島も2つの火山でできています。

コスタリカ:中央アメリカ南部に位置する共和制国家。北にニカラグア、南東にパナマと国境を接しており、南は太平洋、北はカリブ海に面している。首都はサンホセである。
1949年に常備軍を廃止する憲法を成立させ常備軍を持たない国となったが、同じく憲法によって非常時徴兵を規定している[2]。
チリやウルグアイと共にラテンアメリカで最も長い民主主義の伝統を持つ国であり、中央アメリカでは例外的に政治的に安定が続き、かつ経済状態も良好な「中米の楽園」と呼ばれるほどの国家であったが、1990年代以降は麻薬の横行により治安の悪化と社会の不安定化が進行している[3]。

パナマ:北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の境に位置する共和制国家である。北西にコスタリカと、南東にコロンビアに接し、北はカリブ海に、南は太平洋に面する。首都はパナマ市。

南北アメリカと太平洋、大西洋の結節点に当たる地理的重要性から、スペイン人の到達以来貿易や人の移動や国際政治において大きな役割を果たす場所となっており、その役割の重要性のため、中米地峡を貫くパナマ運河が通っている。また、いわゆるパナマ文書が注目を浴びている。

4月28日8:00伊丹空港日本航空で出発
9:18成田空港到達。
14:25成田空港アエロメヒコ航空で出発。
12:55メキシコシティ空港到達。
15:40メキシコ空港アエロメヒコ航空で出発。
17:25:マナグア到達、バスで近くのホテル到達、就寝。
29日8:00バスで出発、マナグア市内観光。

マナグア:6000 年前、人間の足跡がマナグア湖ほとりの火山泥に残されました。何世紀ものあいだ保存され、現在この足跡はニカラグアの首都マナグアにある、アカウアリンカ足跡博物館で観ることができます。足跡以外にも、街の博物館には立派なプレコロンビアの工芸品があり、マナグアは多くの魅力があります。ティスカパ ラグーン自然保護区は街にある水辺の避暑地です

カテドラス廃墟:2本の鐘楼が特徴的な大聖堂ですが、現在は使われていません。というのも、1972年の大地震で一部が崩落してしまったからです。とはいえ、外観は大聖堂の名にふさわしく、堂々としたたたずまい。中南米の各地にある大聖堂と比べても、まったく引けを取らない美しさです!

国立宮殿:マナグアの共和国広場に建てられています。マナグアの人たちにとっては、重要な場所で、革命の舞台となった建物です。元は、政府の機関として使われていたようですが、現在は、国立博物館や公文書館などいくつかの複合の文化施設として公開されているようです。共和国広場は、カテドラルもライトアップされていて、陽が落ちても、家族連れなどで賑わっていました。

共和国広場:旧マナグア大聖堂の西にある共和国広場には、大統領邸や国立博物館があり、いくつか市バスの路線が通っています。

ルベン・ダリオ国立劇場:収容人数はニカラグアで最大規模。およそ1100席です。場内の展示スペースでは、ニカラグアを代表する現代アーティストの作品が展示されています。絵画なら、スペイン語が分からなくても問題なし。積極的に中をのぞいてみましょう。ヨーロッパでもアメリカでも見られない、オリジナル色あふれる作品に出会うことができるはずです。

マナグア湖:マナグアは湖畔に位置する都市。周辺にはマナグア湖をはじめ、ニカラグア湖もあります。琵琶湖より大きいマナグア湖からは、噴煙を上げるモモトンボ山(Momotombo)の雄姿が! マナグア周辺には、スペイン人が到来する以前から先住民が暮らしていたとか。マナグア湖の別名は、先住民の言語に由来する「ショロトラン湖」(Lago Xolotlan)。この名前を聞くだけで、マナグアの歴史の深さをうかがい知ることができるでしょう。

バスでニカラグア第二の都市レオンに向かう。

レオン:ニカラグア第2の都市レオン。1851年まで200年以上、ニカラグアの首都として栄え、保守的なグラナダに対して、革新的なレオンと呼ばれた街。

レオン・ピエホ:ニカラグアにあるレオン・ビエホ(レオン旧市街)は、アメリカ大陸で最も古いスペイン植民都市の一つで、征服者エルナンデス・デ・コルドバによって1524年に建設されましたが、1609年にレオン・ビエホから約3kmしか離れていないモモトンボ火山の相次ぐ噴火と地震に見舞われたことで放棄されました。更なる噴火によって人命や財産に再び甚大な被害が出るのを避けるため、現在の場所に町を移転させることを決めたのでした。
新しい町はスブティアバと名付けられ、アメリカ先住民の町になった一方で、放棄されたレオン旧市街は1960年に発掘されました。火山灰の下から先のスペイン植民地時代の博物館、大聖堂、古い砦などの基礎が発見され、2000年にはエルナンデス・デ・コルドバの遺骸が発見されました。また、同じ2000年にはレオン・ビエホ遺跡群という名でユネスコの世界遺産に登録されました。

レオン大聖堂:レオン大聖堂は2011年に登録された、ニカラグアにある世界遺産です。1747年から19世紀初頭にかけて、グアテマラの建築家ディエゴ・ホセ・デ・ポレス・エスキベルの設計によって建設されました。
レオン大聖堂はバロック建築から新古典主義建築へと様式が変容していく時期に、両様式の折衷ともいえる建築様式でデザインされました。スペイン建築とラテンアメリカの地域的特性のが上手く融合されています。ニカラグアは地震が多発するため、低く太い塔などで建てられました。

中央公園:世界遺産レオン大聖堂は、1946年から実に100年もの年月をかけてつくられた建物です。グアテマラの建築士、ディエゴ・ホセ・デ・ポレス・エスキベルが設計したもの。正面には中央公園があり、レオン出身の詩人ルベン・ダリオの博物館があります。レオン旧市街の真に中心に位置する Parque Central は、早朝から夜遅くまで多くの人々で賑わっている市民の憩いの場です。

レコレクシオン教会:1786年に建てられたメキシコ風バロック様式のこの教会は、そのデザインと外壁の黄色い塗装の具合から、市内で最も美しいと言われています。

カルバリオ教会:レオン大聖堂の東200mほどのところに建つ18世紀前半に建てられた Iglesia El Calvario です。

ホテルで夕食、就寝。

30日バスでグラナダに向かう。
グラダナ市内観光
グラダナ:グラナダは中米最大の湖であるニカラグア湖に面した湖畔の町であり、1524年にスペイン人によって現在のニカラグア領内で最初に建設された。ニカラグアの古都として知られており、訪れる観光客も多い。現在でも伝統を重視した生活を営む人が多く、町全体にもどことなく落ち着いた雰囲気が漂っている。

コロン公園:ニカラグア湖に面した観光都市グラナダ。町の中央にあるコロン公園から湖までの道路は整備されている。グラナダの中心部にある広場が セントラル公園 Parque Central。コロン公園 Parque Colon と呼ばれることも。
見所はここを中心に半径800m以内に集まっているので、公園を起点に街歩きすれば迷うことは無さそうです。ホテル、ゲストハウス、レストラン、カフェ、土産物屋が並び、夜には大道芸なども見られる。

カテドラル:広場の北に建つ立派な建物は カテドラル 、ここに小さな教会が建てられたのは1583年のことで、その後何度か再建されています。グラナダは北米出身のウィリアム・ウォーカー率いる傭兵団の攻撃を受けており、カテドラルも1856年に完全に破壊されます。その後資金難で修復が中断されていたそうですが、1915年に現在の姿に再建されます。

サンフランシスコ修道院:サンフランシスコ修道院は元々1529年に建設されたが、1685年に火災の被害を受けた。その後再建されたが、ウォーカーが1857年に町へ火を放ったため、修道院は再び甚大な被害を受けた。現在の姿に修復されたのは1939年の事で、修道院博物館として歴史的な遺物を展示している。

コスタリカに向かう

モンテベルデ自然保護区に向かう。

モンテベルデ:世界一美しい鳥と呼ばれるケツァールが棲息しエコツーリズムとしても紹介されるコスタリカで最も有名な観光地の一つです。モンテベルデ生物保護区や隣接する保護区には熱帯雲霧林と呼ばれる独特の生態系の森が広がり雲や霧に覆われることが多く、木にはコケ、シダ、着生植物がビッシリと覆い鬱蒼とした神秘的なジャングルを造り出しました。密林でありながら蚊などの害虫も少なく、マイナスイオンをふんだんに浴び快適な森林浴を五感で満喫できます。

カエル博物館:コスタリカに棲む約25種類のカエルをガラスケース内に見学。人気のアカメアマガエルや矢毒カエルにも出会えます。夜行性の種が多く午後6時以降が活発になるのでお勧めです。

モンテベルでホテルで夕食、就寝。

5月1日朝食赤飯風ピラフ、カージョ・ピント:

モンテベルデ自然保護区:世界一美しい鳥と呼ばれるケツァールが生息する、熱帯雲霧林と呼ばれる独特の生態系を持った森です。熱帯雲霧林とは、雲や霧に覆われた湿度が高い密林のことで、多種多様な動植物を目にすることができます。なかでも鳥類は多く、ケツァールをはじめ、オオハシやハチドリなど400種類以上が生息し、野鳥の楽園としても有名です。保護区内には複数のトレッキングコースのほか、地上50メートルの高さにかけられた7本の吊り橋を渡るスカイウォークや、ケーブルを滑車で渡るキャノピーなどのアトラクションがあり、いろんなシチュエーションで森林浴や植物観察を楽しめるようになっています。バタフライ・ガーデン、カエル園、ヘビ園などの見どころも満載。自然保護区はコスタリカの民間NGO「熱帯科学センター」によって管理されています。

ハミングバードギャラリー:モンテベルデ自然保護区入口近くにあるハミングバードギャラリー、大きな温室のような所で飼っているのかと想像していましたが違いました。小さな建物の軒先にエサ台というか、ランタンのような容器で砂糖水が吊られています。この砂糖水につられて周辺に暮らすハチドリがやってくるようです。屋根があるのは有難いです。
ハチドリの好きな砂糖水が吊られている。いろんなハチドリが入れ代わり立ち代わりやって来ます。ハチドリと言えば目にも見えない程の羽ばたきでホバリングするのが有名ですね。あまりに早すぎて、コンデジのオートでは羽の様子なんて写せません。
次々とやってくるハチドリたち、それどころか、じっとしてないのでカメラによってはピントすら合わせられない人も多いようです。シャッター押してもピンボケばかりという人や、背景にしかピントが合わないという人も。写真撮影の腕はもちろんの事、カメラの性能も試されます。私のカメラは比較的優秀かも知れません。
砂糖水を飲みに来たハチドリ、ハチドリは体調が5~10㎝くらいしかないとても小さな鳥です。小さいので肉眼で見ているととてもかわいらしく見えます。色も結構きれいで、いろんな種類がいるようです。

バタフライ・ガーデン:世界一美しい蝶とされるモルフォ蝶を始め、珍しいと蝶がわんさかといる。コスタリカでまだモルフォ蝶を見ていなかったら是非訪れたい場所。

スカイウオーク:ジャングルの木々は高いものでは40mを超えます。その上部に、計8個の吊り橋が掛かっていて、一周約3kmのトレイルコースが作られています。吊り橋から見渡す森はまさに鳥の目線。霧の立ち込める森だけでも非常に神秘的ですし、木々の上部にいる鳥やサルたちも観察しやすいです。

サルチー村:サルチー村はそのカレータの製造で有名な観光スポット。町中には多くのカレータの工房やお土産屋がたくさんあります。

サンホセに向かう。

サンホセ:中米のスイスと呼ばれる非武装中立国コスタリカの首都。標高1150メートル。この町の歴史は1737年の入植に始まります。最初は小さな集落でしたが、コーヒーやタバコの産業で急速に発展しました。1823年には当時首都だったカルタゴと対立。戦いに勝利し、新たな首都となりました。コロニアル調の落ち着いた町並みは、ヨーロッパの雰囲気を漂わせています。
中米一安全とも言われる国ですが、人口の2割が集中するサン・ホセではやや注意が必要です。いろいろな国立公園や自然保護区へのサン・ホセ発エコツアーがほとんど毎日催行されています。スペイン語学校もたくさんあり、中南米で最も発音が美しいと言われるスペイン語を学習することができます。

夕食、オジャ・デ・カルネ:

就寝

2日サン・ヘラルド・デ・ドタに向かう。

サン・ヘラルド・デ・ドタ:サン・ヘラルド・デ・ドータの目的と言いきって良いのがケツァール。モンテベルデなど、他の場所では写真撮影は勿論の事、肉眼で確認するのも難しい場合が多い。
しかしサン・ヘラルド・デ・ドータには当てはまらない。時期によって普通のデジタルカメラでの撮影すら可能。

ケツァル探し

ケツァル: ケツァールは世界で最も美しい鳥だ。この鮮やかな鳥は中米の熱帯林に生息し、果実や昆虫、トカゲをはじめとする小さな生き物をエサとしている。繁殖期になるとオスのケツァールには、尾のように長い2本の羽が伸びてくる。この飾羽を含めるとケツァールの全長は1メートルにもなる。メスには長い飾羽はないが、オスと同じく鮮やかな青と緑と赤の羽を持っている。一般的にはオスのほうが色合いが鮮やかだ。
派手な外見を持つケツァールのつがいは、丈夫なクチバシで腐った木や切り株をくり抜いて営巣する。巣の中ではつがいが交代で2~3個の卵を温める。オスの抱卵中には、長過ぎて入りきらない飾羽が巣の外に飛び出ていることもある。ケツァールのヒナは、孵化してから約3週間で飛べるようになる。しかし、オスの長い飾羽が生えてくるのは3年経ってからである。
今も昔も人々は、ケツァールを崇拝の対象としてきた。古代のマヤ人やアステカ人もこの鳥を神聖な鳥として崇拝し、王族や聖職者は儀式の際にケツァールの羽毛を身に付けていた。また、グアテマラの国鳥に指定されており、その名前「ケツァル」はグアテマラの貨幣単位になっている。
彼らは全分布域で絶滅の危機にさらされている。原因は捕らえられたり殺されたりするためでもあるが、一番はこの鳥の生息地である熱帯林の減少が挙げられる。そのため一部の地域では、ケツァールの生息地を確保するために保護区をもうけ、エコツーリストや熱心な野鳥観察者が世界各地から訪れられるようにしている。特にコスタリカの雲霧林の取り組みはよく知られている。

カルタゴに向かう。

カルタゴ:カルタゴ (Cartago) は、サンホセ近郊にあるコスタリカ第3の都市である。16世紀に建設された、コスタリカ最古の都市であり、地震での壊滅的な被害の結果、19世紀に首都がサンホセに遷都されるまで、約250年間コスタリカの首都だった町としても知られている。

中央公園:中央公園の一角に1823年のイラス火山の噴火で破壊された教会の1部が残っている。

サンチアゴ教会跡:同じ地震国の国民として、凄く神妙な気持ちで観ざるを得ないスポットがカルタゴ市内には残されていて、それがこちらの教会跡です。カルタゴという町はコスタリカ最古の町として16世紀半ば(1563年)に建設され、当初は首都でもあった町でもあるのですが、首都がサンホセに移動後、1841年と1910年に大地震に見舞われ、町全体が壊滅的な被害を受けたとされています。こちらの教会跡は今となっては基部が残されているだけなのですが、それにしても規模が相当に大きくて、この教会が現存していればさぞ素晴らしい建築だったろうにと思わせてくれる、そんな歴史的価値の高い”遺跡”だと思います。

ロス・アンへレス大聖堂:カルタゴ市街地で最大の観光スポットといっても過言ではない、とても美しいビザンチン様式の教会で、外観を見るだけで圧倒されますが、内部も自由に見学できますので是非ご覧下さい。ここは「黒いマリア像」が安置されていることで有名な教会ですが、内部の立体感ある構造や美しいステンドグラスなど、どれをとっても素晴らしいです。サンホセにあるどの教会よりも見応えがあり、ここを観るためだけにもカルタゴを訪れる価値が十分にあるといえる、そんな素敵な教会です。

サンホセに向かう

サンホセ:アコスタリカの首都サンホセは標高1,150mに位置する高原の町で、18世紀半ばに遷都されたため他のラテンアメリカの首都と異なり、スペインの植民都市の雰囲気が全くないのが特徴です。
このためか、おだやかな気候とも相まって中南米の他の都市とくらべてもとても過ごしやすいのが特徴です。 コスタリカはとても小さい国なので、首都サンホセより主要観光地へは容易にアクセスできます。

昼食は中華

国立博物館:建物は陸軍の拠点として使われていたところで、現在でも弾痕が生々しく残っています。内部は考古学展示室やコスタリカ歴史展示室などがあり、原住民の生活から現代までの移り変わりを詳しく知ることができます。注目は、1930年代の初めに先住民の墓の近くで発見された石の球体。現代の技術を持っても造るのが難しいとされる正確な球体で、現在までに200個以上が発見されていますが、作成年代や作成目的はいまだ不明です。

文化広場:サンホセの市民も観光客も多くの人が集まる文化広場にあります。サンホセの中でも最も重要な建物の一つでもあり、市民の誇りの建物のようです。1965年に国の歴史的建造物に指定されています。公演も行われていますので、内部を見学するのであれば、午前中に行った方が、良いかも知れません。外部とロビーを見学するだけでも、充分素晴らしさを感じられます。

国立劇場:コスタリカ国民が戦争をしないのはこの劇場が壊されることを嫌っているからというほど、美しく歴史のある劇場です。 随時コンサートやバレエなど色々な催しをしています。
サンホセ中心街、Htel Gran CostaRicaの前に位置するこの劇場はサンホセのシンボルでもあります。

アベニーダ・セントラル:アベニーダ・セントラルのこの辺りは歩行者天国になっています。

国会議事堂:国立博物館の向かいにあるブルーの建物は国会議事堂です。地震の多いコスタリカ、国会議事堂もトタン屋根です。元は大統領官邸だったそうで、ちょっとしたきれいなお屋敷という印象です。

パナマシティに向かう。

パナマシティ:パナマ共和国の首都。国名と同一名称のため、各言語で「市」に該当する単語を付けて区別するのが通例となっており、パナマ共和国の公用語であるスペイン語でもそうされている。また、パナマシティとも呼ばれる。以下の解説では「パナマ市」とする。
太平洋に面しパナマ運河の入り口である。国の政治、経済、文化の中心だけではなく、中米有数の世界都市でもある。また、中米有数の金融センターとしても評価されており、世界各国の銀行が進出している。
また旧市街地はパナマ・ビエホとパナマ歴史地区として世界文化遺産に登録されており、多くの観光客を集めている。

パナマシティのホテル宿泊

3日4WDでパナマ地峡を横断、カリブ海へ

パナマ地峡:南北アメリカ大陸を結ぶ地峡部の南東端をなす最も幅の狭い部分。コスタリカ東境付近から東へ,南アメリカ大陸本土まで,S字形に約 650kmにわたって延び,北のカリブ海と南の太平洋を分ける。全体がパナマ共和国をなし,ほぼ中央にパナマ運河が通じ,両大洋を結ぶ。チリキ地峡 (西部) ,最狭部 (幅約 50km) をなすサンブラス地峡 (中部) ,ダリエン地峡 (東部) を含む。狭義にはパナマ運河地域をさすこともある。

ボートでサンブラス諸島に向かう。

サンブラス諸島:カリブ海一のリゾート地「サン・ブラス諸島」。サン・ブラス諸島は、パナマの北東部のカリブ海に浮かぶ約350以上の島からできています。
1周百メートルくらいの小さな島から、ヤシの木が1本しかない島、ホテルが1件しかない島まで多種多様な島がサン・ブラス諸島を形成しています。
サン・ブラス諸島の特徴は、何と言ってもコバルトブルーのカリブの海。
一度この海を見てしまったら、もう並大抵の海では満足できないほど。まさに楽園。
島には、先住民族のクナ族の人々が生活しており、土着の文化や生活習慣が今も尚残っており、原始的な島の暮らしを体験することができます。
クナ族の女性が身に着けているのは”モナ”と呼ばれている刺繍を施したブラウス。
魚や鳥、植物などの自然をモチーフにしたデザインが特徴的。ちなみに、島の人々は、島と島の間を小舟で移動します。

イスラ・ペロ:白いビーチ、透明な海、ヤシの木が広がるこの島は、「犬の島」という愛称で呼ばれ、観光客に大変人気があります。ビーチバレーやシュノーケリングをお楽しみいただけ、夜にはテントを張って泊まることも可能です。

クナ族の集落:サンブラス諸島の先住民はモンゴロイド系統の民族なのです。 先住民クナ族は丸木船で小島を行き交っており、 集落がある人口250人ほどの島にも上陸しました。
クナ族の男は漁に出て、女性達はモラという独特の刺繍を売って生活をしています。 刺繍デザインはじっくりと眺めると実にユニーク。 魚や鳥、植物などの自然をモチーフにしているのですが、
そのエキゾチックなデザインはマヤ遺跡のレリーフを思わせ、 その鮮やかな色彩はアンデスの織物を思い出させます。 顔立ちもカリブ海で良く見られるアフリカ系の混血ではなく、
明らかに南米アンデス山中の先住民や中米マヤ系統の、モンゴロイド人種である事がわかります。

モラ工芸:クナ族の女性達が着ている民族衣装(ブラウス)に部分的に縫い込まれている、刺繍が入った飾り布をモラと言います。クナ族の女性が一枚一枚手作りし、作る人の感覚の表現、種族の信仰、野生の植物や動物を表し、優れた伝統美術として世界的に評価されています。このモラの販売はクナ族の人々の大きな収入源となっており、サンブラスの多くの島で販売され、お土産としても人気です。

昼食:シーフード

夕食ホテル

就寝

4日2016年完成パナマ運河新アグアクララ閘門ビジターセンター訪問

パナマ運河:中央アメリカのパナマ地狭にパナマ運河はあります。パナマ運河は、太平洋と大西洋をつなぐ、全長80キロメートルの国際運河です。年間の通航数は、1万4000隻前後と多く、行き来する船は、アジアやアメリカへ移動する船が多いです。
パナマ運河ができるまでは、南アメリカ大陸の大西洋に沿って南下してから北上したため、ニューヨークからサンフランシスコに行くための移動距離は2万キロメートル以上もありました。パナマ運河ができたことで、短縮できた距離は、8000キロメートル以上にもなりました。パナマ運河のおかげで、距離と時間が大幅に短縮されたのです。

ビジターセンター:ミラフローレンス閘門の前には、ビジターセンターが建てられていて、こちらは見学が可能です。ビジターセンター内には、パナマ運河に関する展示物や資料があります。その他に、パナマ運河に関する映画を観ることができたり、運河を眺めるための展望台もあります。パナマ運河のおすすめ観光名所として頭に入れて頂けたらと思います。
2007年から始まった拡張工事は、2016年に終了しました。拡張工事が終わり、新しくなったパナマ運河は、横幅49メートルの貨物船が通過できるようになり、液化天然ガス(LNG)も輸送できるようになったのです。アメリカ産の物を輸送する際、南米からぐるりと回るよりも、パナマ運河を通る方が、輸送にかかる日数とコストがカットされることが予想できます。

パナマシティ旧市街(カスコ・ビエホ)観光

パナマシティ:旧市街(カスコ・ビエホ):旧市街の世界遺産に登録されている歴史的地区を、「カスコ・ビエホ(Casco viejo)」という。ちなみにカスコとは「住宅地」という意味で、ビエホとは「古い」という意味である。
カスコ・ビエホはサン・フェリペ地区ともいわれ、スペインの植民地時代に機能していた町並みが残っている歴史的・文化的に重要な地区である。

エレーラ広場:パナマシティの旧市街、カスコビエホにはパナマの英雄、トーマスエレーナの像が建つ、エレーナ広場がある。周辺の建物は高級住宅街が立ち並ぶ。 広場にはカスコヴィエホ(旧市街)を海賊たちから守ったかつての城壁が残っているので一見の価値あり。

サン・ホせ教会:「はサン・ホセ教会」は「パナマシティ」の「カスコ・ビエホ(旧市街)」に位置する「カトリック教会」です。

「カスコ・ビエホ」は「1997年」に「パナマ・ビエホとパナマ歴史地区」として「世界遺産」に登録されています。

フランス広場:カスコ・ビエホ地区の南東にあるフランス広場。パナマ運河を手掛けたフランス人レセップの胸像や、運河の建設に携わった労働者たちをマラリアなどの疫病から救ったキューバ人医師など、パナマの歴史に重要な人物の胸像が並びます。

15:00パナマシティアエロメヒコ航空で出発メキシコシティ乗り継ぎ帰国
19:15メキシコシティ到達
5日0:15メキシコシティアアエロメヒコ航空で出発
6日6:20成田空港到達。

今回の旅行、中米の3カ国ニカラグア&コスタリカ&パナマを訪れ9日間満喫しました。

ニカラグアの首都マナグアのカテドラス等の歴史的建造物、マナグア湖、第二の都市レオンの歴史的建造物、古都グラダナの歴史的建造物、コスタリカのモンテベルデ自然保護地区の散策、首都サンホセ観光、中米の大都市パナマシティ観光、パナマ運河の訪れ、盛り沢山の観光堪能しました。
3カ国みなさんそれぞれ個性があり飽きが来ない記憶に残る旅行でした。お勧めです。










































飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十弾:愛知健お城・城下町巡り観光
2018年4月14日-15日
 

中部地方の室町時代に尾張の守護・斯波氏に変わり、織田氏が権力を掌握する。三河では今川氏が駿河、遠江から勢力を拡大してきたが」、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に返り討ちに遭うと、急激に衰退した愛知県に足を運び、愛知県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れました。

14日17:00車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神、新名神経由して豊川インター下車
19:30豊川インター付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

15日7:00車で出発、お城巡り。

田原城:築城年代は定かではなく諸説あるが、文明12年(1480年)戸田宗光によって築かれたと云われる。 宗光は渥美半島を掌握すべく田原へ移り、駿河の今川氏の庇護のもとその支配を広げる。 しかし、今川義忠が塩買坂で討死し今川家中が内乱状態となると宗光は田原城を子の憲光に譲り、宗光自身は二連木城を築いて移った。

二連木城に移った宗光が今川方の舟形山城を落とすなど、戸田氏は今川氏に対抗したが、宗光が没した後は再び今川氏に属した。

戸田氏は今川家へ人質として送られる松平竹千代(徳川家康)を強奪して、織田家へ送ったため、天文16年(1547年)今川氏に攻められ田原城は落ち、一族は没落した。

・天正18年(1590年)池田輝政が入封。
・慶長5年(1600年)輝政は播磨国姫路へ転封。
・慶長6年(1601年)伊豆国下田より戸田尊次が一万石で入封。
・寛文4年(1664年)忠治の時、肥後国富岡へ転封。
・寛文4年(1664年)三河国拳母より三宅康勝が一万二千石で入封。
以後、三宅氏が明治まで続く。

野田城:永正5年(1508年)菅沼定則によって築かれたと云われるが定かではない。

田峯菅沼氏の定忠の三男定則が富永荘の地頭富永直郷の後継となり、野田菅沼氏の祖となった。

天正元年(1573年)武田信玄が東三河に侵攻、野田城に攻め寄せたが思うように落とせず、金山衆を用いて井戸水を抜き落城させたという。

武田信玄の死因の一つとして、村松芳休の笛の音に聞き惚れた信玄が、本陣を抜け出して城に近付いた所を鳥居三左衛門の鉄砲に討たれ、重傷を負って甲斐国に引き上げる途中で亡くなったと云う伝説は、この野田城合戦でのことである。

宇利城:築城年代は定かではないが熊谷氏によって築かれたと云われる。 熊谷氏は熊谷直実の後裔で、熊谷兵庫頭重実の頃に宇利城を築いたと考えられている。

享禄3年(1530年)熊谷実長のとに松平清康によって攻められ落城し熊谷氏は離散した。この後、宇利城は清康から菅沼定則に与えられ、さらに近藤康用が城主となった。

近藤氏は後に柿本城へ移り、その後の宇利城の動向は定かではない。

古宮城:元亀2年(1571年)頃に武田氏の家臣馬場美濃守信春によって築かれたと云われる。 三河に侵攻して作手の亀山城主奥平氏を降した武田氏が、この地における拠点として築かれたのがこの古宮城で馬場信春の縄張りによるものと伝えられる。

この古宮城には小幡又兵衛、甘利左右衛門、大熊備前守らが城将として駐屯したという。

天正元年(1573年)奥平貞能・貞昌(後の信昌)父子は武田氏を離反して徳川氏に帰属した。このとき古宮城も徳川・奥平氏によって攻められ落城した。

田峯城:文明2年(1470年)菅沼定信によって築かれたと云われる。

菅沼氏は清和源氏で三河国額田郡菅沼郷発祥、定成の時に田峯に移り住んだ。その後、奥三河の地に勢力を広げ、長篠・野田・島田菅沼氏の宗家として田峯菅沼氏と呼ばれた。

天正3年(1575年)長篠合戦で菅沼定忠は武田方として参陣するが大敗、勝頼とともに田峯城へ戻ったものの留守居の叔父定直等の謀反によって入城できず、武節城へ引き上げた。その後奥平氏によって武節城をも追われ信濃国伊那郡へ落ちていたが、天正4年(1576年)定忠は田峯城を急襲してこれを落とし、謀反の一族96人を惨殺した。

足助城:築城年代は定かではない。 南北朝時代に飯盛城主足助氏が築いたとも云われ足助七屋敷の一つとされるが、発掘調査で出土した遺物ではこの時代のものは発見されていない。

明確な最初の城主は足助鈴木氏で三河鈴木氏の支族である。 足助鈴木氏は鈴木忠親・重政・重直・信重・康重と続いた。

鈴木重政は大永5年(1525年)松平清康によって攻められ降ったが、それ以降も離反・従属を繰り返している。元亀2年(1571年)武田信玄の西三河侵攻により真弓山城は落城し、城主鈴木重直は岡崎へ逃れた。これにより一時的に武田方の持城となったが武田信玄が病没すると徳川家康の軍勢が武田氏の軍勢を追い払い、再び鈴木重直が城主となった。

天正18年(1590年)小田原討伐の後、徳川家康が関東へ移封となると鈴木康重は家康に従って関東に移った。しかし、康重は関東での待遇に不満を抱いて直ぐに出奔したという。

飯森城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に足助重秀によって築かれたと云われる。 足助氏は源満政の後裔で山田重直の子重長が足助の地に住み足助を名乗った事に始まるとされる。足助重長は黍生城を築いて居城とし、飯盛城は重長の子足助重秀の時代に築かれたとされる。

治承4年(1180年)足助重行は兄山田重満とともに源行家に加担して美濃国墨俣で平重衡と戦って討死した。

元弘元年(1331年)七代足助重範は元弘の乱で後醍醐天皇の要請に応じて笠置山に籠ったが落城、捕らわれた重範は京の六条河原で斬首された。

松平城:築城年代は定かではないが応永年間(1394年~1428年)に松平親氏によって築かれたと云われる。 松平氏の祖と云われる親氏が松平氏館の詰めの城として築いたもので、親氏が信光とともに岩津城へ移ってからは、信広の居城となった。

大給城:築城年代は定かではないが長坂新左衛門によって築かれたと云われる。 やがて岩津へ進出した松平信光が攻略し、岩津城と共に親忠に譲り、親忠は子の乗元へ譲った。 乗元は岩津城主松平親忠の二男で大給城を居城とする大給松平氏の祖となった。

天正3年(1575年)には滝脇の松平乗高に攻められ落城したという。

天正18年(1590年)6代家乗の時に、徳川家康の関東移封に伴い上野国那波へ一万石で転封となり、廃城となった。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、愛知県に点在する比較的マイナーなお城10か所をおとずれ楽しみました。
今回も史跡公園、立派な石垣等目立った城跡も見かけましたが、大半は地味な城跡でした。


 












飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十九弾:広島県中国三十三観音巡り観光
2018年4月7日-8日


中国地方に点在する山陽路から山陰路へとつづく中国三十三観音巡礼の7か所を訪れました。

7日19:08新大阪新幹線さくらで出発
20:14福山到達。駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
8日:8:00レンタカーで出発、霊場巡り。

明王院:平安時代の大同2年(807年)弘法大師が開かれたと伝えています。その頃は福山市の前身である草戸千軒の港町が門前町として栄えていました。本尊十一面観世音菩薩は、伝教大師一刀三礼の霊像で平安初期一木彫の秀作と言われ重要文化財であります。
  鎌倉時代、元応3年、住持頼秀の時、紀貞経の寄進により、国宝の現本堂(観音堂)が再建されました。南北朝時代、貞和4年住持頼秀の時、広く庶民の浄財により五重塔が建立されました。一文勧進の塔と呼ばれ国宝になっています。全国の中5番目の古塔です。
  江戸時代、初代藩主水野勝成は福山城を築き、裏鬼門鎮守のため、当寺を御祈願所と定め、末寺48を統べる大寺とし、五重塔、本堂、大門などの大修理を施すとともに、護摩堂、庫裡、書院、弁天堂、愛宕神社、十王堂等を建立しました。
  昭和時代、昭和34年から昭和大修理が始まり、五重塔本堂の解体修理を始め7棟の文化財修理を終え、防災設備も完了しました。
  京都嵯峨大覚寺を本山とする真言宗寺院です。

浄土寺:尾道三山の一つ瑠璃山を背にした備後の名刹・浄土寺は聖徳太子によって創建(推古天皇の24年)された真言宗泉涌寺(京都、皇室の御菩提所)派大本山です。

 本尊は聖徳太子御作とされる秘仏・十一面観世音菩薩で、古くから『身代わり観音』として信仰されています。
  鎌倉時代末、奈良・西大寺の定証上人が七堂伽藍の堂塔を再興しましたが、20年後に全焼し、当地の富豪・道蓮、道性夫妻により再建されました。

 瀬戸内有数の良港・尾道は、古くから交通・経済などの要地であり、浦人たちの信仰が集まっていた当山は、公武両方から重要な拠点として外護されました。建武の中興の際は、後醍醐天皇から因島地頭職寄進の綸旨を賜り、一方足利尊氏公も参篭し祈祷をしました。以後、足利家の家紋・二つ引き両を寺の定紋としています。室町時代には蓮如上人も参篭され、江戸時代以降は港町尾道の繁栄と共に寺門興隆し現在に至っています。

 殊に日本三名塔の一つで、国宝の多宝塔をはじめとする文化財の宝庫としても知られ、1400有余年の法燈を継承しています。

西國寺:西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山である。
 治暦2年の罹災後、平安朝白河天皇の勅命によりまた正和元年花園天皇より綸旨を受け、法燈は高く輝き、伽藍の規模は正に西国一という意味を込め、西國寺と名付けられ、天仁元年には、勅願寺となる。
 治暦炎上により本尊行基作薬師如来は焼滅したが、永保元年、讃岐善通寺の七仏薬師のご一体が紫雲に乗って来飛、金堂に安座され賜うと伝えられる。現在の本尊・薬師瑠璃光如来である。
 境内の平地面積は、15700平方メートルに及ぶ。
 観光尾道のシンボルとされる長さ約2メートルの大草履の仁王門をくぐり、108段の石段を登れば、緑の中に朱塗の金堂・三重塔・大師堂・不動堂・持仏堂等が並び、さらには幕末の哀歌を語る大方丈と華麗な密教伽藍を配し、眼下に横たわる尾道水道と共に、絢爛たる一大絵巻が四季折々に展開される。
 弘法大師の霊跡として、加持祈祷の道場として年中多くの善男善女を迎えている。

千光寺:大宝山権現院千光寺は大同元年(806年)の開基で中興は源氏の名将多田満仲公と伝えられています。
 大宝山(通称・千光寺山)の中腹、海抜約100mに位置しており、眼下に尾道水道や向島、因島などの瀬戸内海の島々、遠景に四国の連山が眺められる素晴らしい景観です。

 珍しい舞台造りの本堂(貞享3年・1686年)は別名「赤堂」とも呼び親しまれ、林芙美子も放浪記の中で「赤い千光寺の塔が見える」と書いています。
 本尊・千手観世音菩薩は聖徳太子の御作と伝えられ、33年に一度開帳する秘仏。昔から「火伏せの観音」と称せられ、火難除けに霊験あらたかです。今は所願成就の観音様としてお詣りが絶えません。

 尾道は夏は涼しく、冬は暖かい気候で昔から災害も少なく過ごしやすい土地柄です。その上、海の幸に恵まれ人情味豊かな町です。
 尾道は往古より港町として栄え、風光明媚なことから多くの文人墨客が訪れています。中でも頼山陽は「6年重ねて来たる千光寺」と漢詩にも詠んでいます。

向上寺:本四架橋の一つ、尾道・今治ルートの風光明媚な瀬戸内海に浮かぶ小島、生口島。尾道寄りに因島、愛媛県よりの大三島にはさまれた芸予諸島の一つ。この辺りは平安時代より海路の重要な所として数多くの神社仏閣が造営されており、早くより拓けていました。
 向上寺は応永7年(1400年)、地頭・生口守平公が瀬戸田潮音山の観音の霊場に一寺を建立し、臨済宗佛通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和尚(1323~1409年)を迎えて開く。

 聖観世音菩薩(秘仏)を本尊とし、古来、災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺として崇敬されてきました。
 この向上寺一帯は潮音山公園となり、緑に映えて国宝の朱塗りの三重塔がひときわ異彩を放つ。特に海からの眺めは、紺碧の空と海、松の翠に塔の朱が幅の絵を創ります。
 境内周辺には巨岩が並び、多彩な顔ぶれの先人たちの句が刻まれており「文学のこみち」となっており、 県の重要文化財でもある鐘楼の音色は、除夜の鐘として全国に放送されました。

仏通寺:水墨画によくある中国の風景に似た岩山肌の山間道を、曲りくねった渓流に沿って山中に入ること、山陽道より約8キロ、うっそうと樹木の繁る佛通寺の門前に至る。巨大な千年杉の林立、あたり一帯厳しい禅刹の気魄が漂う。
 御開山大通禅師お手植と伝えられる、羅漢槙の大樹の傍の巨蟒橋(きょもうきょう)を渡ると佛通寺山門。巨蟒橋はその名の通り、聖地の結界に巨大なうわばみが横たわり、仏法を守護せんとしているもの。この橋を渡ることで、偏(ひとえ)に身も心も清浄無垢になり、仏殿に修行を誓う解脱の門に等しい橋となる。
 山門を入ると、仏殿が厳然と鎮まる。碧巌古松(へきがんこしょう)の参禅道場として600年の法灯の歴史を刻む、臨済宗の大本山である。
 千年杉が亭々と林立する石径を上ると多宝塔と石仏の群、開山禅師の塔所・含暉院(たっしょ・がんきいん)は開創当時のただずまいを今に伝える。堂中には佛通禅師と大通禅師、両開山禅師の尊像が尚居ますが、如くに端坐して佛通寺の今日をじっと見守って居られる。

三瀧寺:7つの川を有する広島デルタの北西、三滝山(宗箇山)の中腹に位置する三瀧寺は、原爆によって廃墟と化し、艱難辛苦の後、近代的な都市へと再生した広島には数少ない、趣深き寺である。

 境内入口の上に立つ多宝塔は、元は和歌山県の広八幡神社にあったが、原爆死没者の慰霊のためにこの三瀧寺に移築され、毎年8月6日と秋の多宝塔 本尊・阿弥陀如来御開帳法要の折には、慰霊法要が厳修され、幾十万もの犠牲者の菩提が念じられている。

 街から程遠からぬ場所でありながら、境内は深山幽谷の風情があり、瀬音を耳にしながら苔むした参道を歩むと、日常空間から離れ、仏様の世界に身を置いたようであり、広島市民によっては安らぎの聖地、心の故郷となっている。

 曾ては多くの修行僧が滝にうたれ、岩窟で禅定に入り、幾つもの堂塔を構えていたようであり、今は緑陰の下、静けさが漂い、忘れられた何かを思い起こさせる地となっている。

18:00終了。
19:01広島駅新幹線みずほで出発、
20:24新大阪駅到達。

今回の旅行、広島県に点在する中国三十三観音の7か所をおとずれ楽しみました。
ほとんどの霊場が立派な寺院で感動いたしました。
すべての中国三十三観音巡り終了致しました。


   













飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十八弾:静岡県お城・城下町巡り観光
2018年3月31日-4月1日
  

中部地方の太平洋に東西に広く位置し、駿河、遠江の守護職となった今川氏の影響力が、南北朝時代から大きかったエリア、残る伊豆は北条氏が治め、今川氏真が徳川家康の攻撃を受け困窮すると、駿河、遠江の支配をあきらめて北条氏を頼った静岡県に足を運び静岡県伊豆半島に点在する比較的マイナーなお城8か所を訪れました。

31日18:03新大阪新幹線のぞみで出発、名古屋にこだまに乗り換え
20:43新富士駅到達、駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
1日8:00レンタカーで出発、伊豆半島のお城巡り

深沢城:築城年代は定かではないが今川氏によって築かれたと云われる。

その後、小田原北条氏の所領となり、北条綱成が在城していたが、元亀元年(1570年)武田氏が侵攻し城を取り囲んだ。武田氏は金山衆を使って攻めたて「深沢城矢文」として有名な矢文を送ると、綱成は開城して相模国玉縄城へ引き上げた。

武田氏は駒井昌直を置いて城を改修したが、天正10年(1582年)武田氏が没落すると昌直は城を焼いて退いた。

天正12年(1584年)徳川家康が三宅康貞を置いて小田原北条氏に備えたが、小田原北条氏が滅亡すると廃城となった。

葛山城:築城年代は定かではないが葛山氏によって築かれた。 葛山氏は藤原北家大森氏の支流で、大森惟康の次男惟兼が駿東郡葛山に住んで、葛山氏を名乗ったことに始まる。

伊勢宗瑞が伊豆の堀越御所を急襲して足利茶々丸を討った時、今川氏から援軍として駆けつけたのが葛山氏で、その後、伊勢宗瑞の次男氏時を養子に向かえた。

今川氏が没落すると武田氏に属し、武田信玄の六男が葛山氏の名跡を継いで葛山信貞となのった。しかし、武田氏も滅亡すると葛山氏も没落した。

山中城:築城年代は定かではないが永禄年間(1558年~1570年)頃に小田原北条氏によって築かれたと云われる。

その後、豊臣秀吉による小田原征伐軍を迎え撃つ為に急ピッチで城の改修が行われる。天正18年(1590年)3月29日北条氏勝を主将とする山中城に、豊臣軍が押し寄せ美濃国軽海西城主一柳直末が討死するなど激戦となったが、圧倒的な兵力によって次々と新手を繰り出し袋崎砦が陥落、それを足掛かりに三の丸、二の丸も陥落し、北条氏勝は城を脱して松田康長が最後まで抵抗したが討死した。落城まで僅か数時間であったという。

興国寺城:築城年代は定かではない。 伊勢宗瑞(北条早雲)は、妹婿今川義忠が文明8年(1476年)戦死した後、家督相続争いをまとめた功によって、はじめて城主となった。

宗瑞は堀越御所の内乱に付け込み、堀越公方足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主になると、伊豆国韮山城を築いて居城を移した。

天文18年(1549年)に今川義元によって、小規模な城郭から改修され、武田、北条、今川によって度々争われた。今川義元が桶狭間合戦によって織田信長に討たれた後、武田氏は駿河国に侵攻すると、それに対して北条氏も駿河国に侵攻し興国寺城を落としたが、元亀2年(1571年)武田氏と北条氏は和を結び、武田氏一門の穴山梅雪の家臣保坂掃部介が城主となった。

武田氏が織田氏に滅ぼされると徳川家康の所領となり、関ヶ原合戦後は天野康景が一万石で城主となったが、康景は百姓を殺害した家臣の引渡しを拒んで西念寺に蟄居し改易となり、興国寺城は廃城となった。

沼津城:築城年代は諸説あり定かではない。 天正7年(1579年)武田勝頼が城を修築して小田原北条氏に備え、香坂昌信を城主としたが、この頃は三枚橋城と呼ばれていた。 天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると徳川家康は松平康親を派遣して守備させた。

江戸時代になると大久保忠佐が二万石で三枚橋城に入封したが、慶長18年(1613年)忠佐が嗣子なく没すると大久保家は断絶となり、三枚橋城は廃城となった。

その後は天領となっていたが、安永6年(1777年)水野忠友が三河国大浜一万三千石に七千石を加増され、三枚橋城跡に沼津城を築いた。水野氏は以後八代続き明治に至り、明治元年(1868年)徳川家達が駿河国に入国すると、上総国菊間に転封となった。

韮山城:延徳3年(1491年)伊勢宗瑞(北条早雲)によって築かれた。 小田原北条氏の祖、駿河国興国寺城主伊勢宗瑞は、堀越御所の内乱に付け込み堀越公方足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主になると韮山城を築いて居城を移した。 宗瑞は明応4年(1495年)相模国小田原城を奪い、小田原北条氏の祖となり、永正16年(1519年)韮山で没した。

天正18年(1590年)小田原北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐を迎え討つ為、山中城と韮山城を最前線として兵を集めた。 韮山城には北条氏政の弟氏規が城主となり兵三千余で豊臣勢四万余を迎え討った。 豊臣方の軍勢は上山田城、本立寺付城など周囲に付城を築いて包囲する。北条氏も天ヶ岳砦などに支城を築いて守りを固めこれに対抗した。山中城をはじめ、関東の諸城が攻略されるなか韮山城は落城せず、朝比奈泰勝を使者として開城を促し、氏規は開城し退去した。 この氏規の家系が江戸時代に河内国狭山に大名として続いた。

氏規が城を退くと徳川家康の家臣甲斐国浄古寺城主であった内藤信成が城主となったが、関ヶ原合戦の後、駿河国府中へ移封となり韮山城は廃城となった。

長浜城:築城年代は定かではないが室町時代に小田原北条氏によって築かれたと云われる。

天正7年(1579年)北条氏はこの長浜城を普請して駿河湾の水軍の拠点とし、武田氏に備えて梶原景宗が長浜城に派遣された。天正17年(1589年)頃には大川兵庫が城番となっていたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で、北条氏は水軍を下田城や小田原城に集めたため、長浜城の機能は低下していたようである。

下田城:築城年代は定かではないが北条氏によって築かれたと云われる。 天正16年(1588年)には豊臣秀吉に備えて大改修され、伊豆衆の一人清水上野介康英を城主とした。

天正18年(1590年)豊臣水軍は長宗我部元親・脇坂安治らを大将とする一万余りの軍勢で城を囲んだ。対する北条方は清水康英を大将としてわずか六百余名の兵力であった。 五十日余りに及ぶ籠城の末、開城勧告を受け入れ降伏した。清水康英は当初林際寺に謹慎し、のちに三養院へ移り隠棲し、翌天正19年に没した。

17:30終了。
18:20新富士駅到達。
18:39新富士駅新幹線こだまで出発、名古屋でのぞみに乗り換え
21:05新大阪駅到達。

今回の旅行、中部地方の太平洋に東西に広く位置する静岡県に足を運び静岡県の伊豆半島に点在する比較的マイナーなお城8か所をおとずれ楽しみました。
生憎桜の花見時期に当たり観光の車が多く、帰りの下田から 新富士に向かう道路は大渋滞、かなりの時間を要しました。
お城はマイナーだけあって遺跡遺残も地味で訪れるのに時間を要しました。今回もですが観光名所の多い県はマイナーなお城の案内板も少なですね。