飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十四弾:埼玉県お城・城下町巡り観光
2018年5月26日−27日
 

関東地方の武蔵野国、古くから武士団の力が強く、平安後期以降の館が多く残り、鎌倉幕府の成立に尽力した武士たちは、館からより強固な城に拠点を移したが、やがて関東に転封された徳川家康によって多くが廃城となった埼玉県に足を運び埼玉県に点在する比較的マイナーなお城9か所を訪れました。

26日16:20新幹線のぞみで出発
18:53東京駅到達、地下鉄丸ノ内線で池袋経由、東武東上線で川越下車。
20:20川越駅付近のホテル到着後、?華街を散策し食事を済ませて就寝。
27日8:00レンタカーで出発、お城巡り。

菅谷城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に畠山重忠によって築かれたと云われる。 畠山氏は秩父重弘の子畠山重能が武蔵国男衾郡畠山郷に住んで畠山氏を称した事に始まり、重能の二男が畠山重忠である。
畠山重綱は源頼朝が挙兵したときは平家方として三浦氏を攻めたが、やがて源頼朝に従い頼朝の鎌倉入りや富士川の戦い、奥州合戦などで先陣を務め重用された。しかし、頼朝没後の元久2年(1205年)「鎌倉に異変あり」との急報でわずかな手勢を率いて菅谷館を出発した重忠は、鎌倉幕府の実権を握った北条氏によって武蔵国二俣川で大軍に囲まれ討死した。
長享2年(1488年)には扇谷上杉氏と山内上杉氏によって、近くの須賀谷原で合戦が行われ、このときには菅谷城が築かれていたと考えられている。
その後の動向は定かではないが、太田氏が岩槻城へ移ったあとに、小泉掃部助が居城したと伝えられるのみである。

小倉城:詳細不明。
長享4年(1488年)には扇谷上杉氏と山内上杉氏によって近くの須賀谷原で合戦が行われており、近くの平沢寺に山内上杉方の陣が置かれていたが、このときに小倉城が築かれていたかどうかは定かではない。
城主は詳らかではないが、北条氏重の家臣遠山光景、松山城主の上田氏が城主として伝えられている。居館があったとされる東麓の大福寺には「遠山衛門大夫藤原光景室葦園位牌」があり、城主遠山氏室の位牌と伝えられている。

杉山城:築城年代は定かではない。一説に松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水が城主であったと伝えられる。
歴史については詳らかではないが、近年の発掘調査で出土遺物は十五世紀末から十六世紀前葉の年代で、長享年間(1487年〜1489年)の扇谷上杉氏と山内上杉氏の長享の大乱のあと、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗するために築いたものと考えられている 。

山田城:山田城跡は、城跡についての史料は全く無く、江戸時代終り頃に編纂された地誌『新記』の比企郡山川村の条にも見い出すことはできない。地元の伝承では、忍城(現行田市所在)主の成田氏の臣、贄田氏の居城であるとか松山城の出城であるとか伝えられているがはっきりしたことはわかっていない。

忍城:延徳2年(1490年)成田親泰によって築かれた。 天文22年(1555年)北条氏康によって攻められたが、これを退けた。
永禄2年(1559年)長尾景虎が関東に進出、景虎は容易に落城しないことを察知し城下を焼き払った。 これに対して成田長泰は末子を人質として景虎に差し出し、その配下に降った。 翌永禄3年(1560年)再び長尾景虎が関東に進出、鶴岡八幡宮にて上杉憲政から関東管領を譲り受け、上杉政虎と名乗った。 この席で成田長泰は、政虎に辱めを受け忍城に引き上げ、上杉氏に叛き北条氏に身を寄せた。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、石田三成等が押し寄せたが攻めあぐねた。 三成は羽柴秀吉の備中国高松城の水攻めに倣い、堤防を築いて水攻めを決行した。しかし、堤防は崩れ忍城は落城せず、開城したのは小田原城が降った後であった。
徳川家康が関東に入部すると、松平家忠が一万石、その後四男忠吉が十万石で入部した。
・慶長5年(1600年)松平忠吉は尾張国清州に五十二万石で転封
・寛永3年(1626年)深谷より酒井忠勝が五万石で入封、寛永4年(1627年)川越へ転封。
・寛永10年(1633年)相模より松平信綱が三万石で入封。
・寛永16年(1639年)下野国壬生より阿部忠秋が五万石で入封、元禄7年(1694年)正武の時、加増され十万石となるが、文政6年(1823年)陸奥国白河へ転封。
・文政6年(1823年)伊勢国桑名より(奥平)松平忠堯がから十万石で入封、以後4代続き明治に至る。

深谷城:康正2年(1456年)に上杉房憲によって築かれたと云われるが定かではない。 深谷上杉氏は庁鼻和城を居城としていたが、憲国の時に深谷城に居城を移した。
深谷上杉氏は関東に勢力をのばす小田原北条氏と敵対したが、天正元年(1573年)上杉憲盛の時、北条氏に降った。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐では城主上杉氏憲は小田原城に詰めていたため不在で、重臣秋元長朝・杉田因幡が守備していたが落城寸前となり開城した。
徳川家康が関東に入部すると(長沢)松平康直が三河国長沢から一万石で入封する。康直が没すると家康の子松千代が長沢松平氏を継いだが夭折し、忠輝が継いだ。
・慶長7年(1602年)忠輝が下総国佐倉に転封
・慶長15年(1610年)(桜井)松平忠重が八千石で入封するが、元和8年(1622年)上総国佐貫へ転封
・元和8年(1622年)酒井忠勝が下総国から一万石に加増され入封、その後三万石、寛永3年(1626年)更に五万石に加増となり忍城へ移封となり廃城となった。

花園城:築城年代は定かではないが平安時代末期に藤田政行によって築かれたと云われる。藤田氏代々の居城で、藤田氏は武蔵七党の一つ猪俣党で武蔵国榛沢郡藤田郷を発祥とする。
室町時代は山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏が勢力をのばすとそれに従い、北条氏康の三男氏邦を養子に向かえ用土城に隠棲し用土氏を名乗った。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐軍によって攻められ落城した。

天神山城:築城年代は定かではないが藤田康邦によって築かれたと云われる。 藤田氏は武蔵七党の一つ猪俣党で武蔵国榛沢郡藤田郷を発祥とする。
室町時代は山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏が勢力をのばすとそれに従い、北条氏康の三男氏邦を養子に向かえ隠棲した。氏邦は天神山城を居城としていたが、後に鉢形城に居城を移す。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐軍が鉢形城を落とすと開城した。

千馬山城:築城年代は定かではないが用土新左衛門によって築かれたと云われる。
用土氏は天文15年(1546年)藤田康邦は小田原北条氏に降って四男氏邦を養子に迎えて家督を譲った。この康邦が用土氏と名乗りを変えているが、千馬山城の用土新左衛門は藤田氏の分家筋の用土氏と推測されているようである。
上杉謙信に呼応して高松城に籠城していた秩父衆が北条氏に降ると、北条氏邦は千馬山城の用土業国と相談して人質を出すように指示している。

16:20終了。
17:00川越駅東武東上線で出発、池袋で地下鉄丸ノ内線で東京に向かう。
18:10東京駅到達。
18:20東京駅新幹線のぞみで出発
20:50新大阪駅到達。

今回の旅行、関東地方の埼玉県に足を運び埼玉県に点在する比較的マイナーなお城9か所を訪れ楽しみました。平城はほとんどが城址公園に変貌し整備されていましたが、山城は確認が難しく、時間がかかり、案内板のみの城跡も多かったです。









飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十三弾:山梨県お城・城下町巡り観光
2018年5月19日−20日


南アルプスをはじめ、多くの山々が自然の障壁となり、他国と交戦することは珍しく、安定した時代が長く続いたが、武田氏滅亡後に起きた天正壬午の乱では、甲斐も大規模な戦闘舞台となった山梨県に足を運び山梨県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れました。 

19日15:43新大阪新幹線ひかりで出発
17:55三島駅到達、レンタカーで甲府方面に向かう。
20:30甲府市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
20日7:30レンタカーで出発、お城巡り。

勝山城:築城年代は定かではない。
永正年間(1504年〜1521年)に武田信繩の異母弟油川彦八郎信忠が籠もり、武田氏の家督を巡って信繩と争った。
永正5年(1508年)武田信虎のときに油川氏が滅亡して信虎が甲斐を平定するが、永正12年(1515年)には大井信達が反乱を起こし、これに呼応した駿河の今川氏の軍勢が勝山城に入っている。
大永元年(1521年)今川氏の武将福島正成が一万五千の軍勢を率いて甲斐へ侵攻、勝山城へ移り布陣したが、信虎はこの軍勢を撃退した。
天正10年(1582年)天正壬午の乱では徳川家康の軍勢が右左口から侵攻して勝山城を占拠し、修築している。

躑躅ヶ崎館:永正16年(1519年)武田信虎によって築かれた。信虎の時代に石和から躑躅ヶ崎に館を移し、甲斐守護の館として政治の中心地となった。
武田氏は武田信玄の時代に甲斐・信濃を中心に勢力を拡げたが、武田勝頼の時代に織田信長・徳川家康連合軍と長篠で戦って大敗北を喫し、天正9年(1581年)に新府城を築いて居城を移したものの、天正10年(1582年)には織田信長の軍勢によって攻められ滅亡した。
武田氏が滅亡すると甲斐には信長の武将川尻秀隆が入部したが、本能寺の変が起こると蜂起した甲斐国人一揆によって討たれてしまう。空白となった旧武田領を巡り、徳川氏と北条氏が戦った(天正壬午の乱)。この戦いで甲斐は徳川家康の所領となり、平岩親吉が入った。しかし、徳川家康もまた関東へ移封となり、豊臣秀吉の家臣羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政と次々と領主が代わっていく。この間に甲府城が築かれ、政治の中心も躑躅ヶ崎から甲府城へと移り躑躅ヶ崎は廃城となった。

要害城:永正17年(1520年)武田信虎によって築かれたと云われる。 信虎は永正16年(1519年)石和から躑躅ヶ崎館に居城を移し、翌年詰の城として要害山城を築いた。
大永元年(1521年)今川氏の部将福島正成が甲斐国に侵攻する。このとき信虎の正室大井の方は懐妊中で、躑躅ヶ崎館を離れ要害山城に籠った。この時生まれたのが武田晴信で後の信玄である。
天正3年(1575年)長篠合戦で大敗した武田勝頼は、翌年要害山城の修築を開始する。 しかし、天正9年(1580年)方針を転換して新たに新府城を築いた。
武田氏滅亡後も改修し維持されたが慶長5年(1600年)廃城となった。

於曾屋敷:逐次幼年代は定かでは内が於曾氏によって築かれたと云われる。 於曾氏は古代の豪族三枝氏の支族であったが、応保2年(1162年)の八代荘を巡る争いで没落し、その後は加賀美遠光の四男と五男が於曾に入って加賀美氏系の於曾氏が出てくる。
於曾氏は武田信玄の時代には於曾左京亮信安が一族の板垣氏の名跡を継いでいる。

連方屋敷:連方屋敷は東山梨駅の東にあり、一辺約100m程のやや不整形な方形の区画となっている。現在は県指定史跡となっているが、内部は畑や民家もある。
ほぼ全周を土塁が巡っているが、北東や南の一部は土塁が欠損している。堀は北から西に掛けて良く残っている。入口は南の道路に面して案内板がある。

勝沼氏館:築城年代は定かではないが勝沼氏によって築かれた。 勝沼氏は甲斐国山梨郡勝沼郷発祥で、武田信縄の子で武田信虎の弟である次郎五郎信友が勝沼に住んで勝沼氏を名乗ったことに始まる。
天文4年(1535年)勝沼信友は北条氏綱との合戦で敗北して討死した。 跡を継いだ嫡男信元は永禄3年(1560年)逆心の企ありとされ、武田信玄によって成敗された。

岩殿城:築城年代は定かではない。 また、築城者に関しても武田氏とも小山田氏ともいわれているが定かではない。
天正10年(1582年)新府城にいた武田勝頼は、織田氏の進軍に対して、小山田信茂の進言により新府城に火をかけ、岩殿城を目指して退去した。 しかし、小山田信茂は勝頼を受け入れず、勝頼は天目山で自刃、甲斐国武田氏の嫡流は滅亡した。

駒宮城:駒宮城はさして大きな城郭ではないが、急峻な山上にあり、明瞭な堀切と城塁を有しているので、そこそこの要害であったと思われる。岩殿山城の有力支城の1つだったと見るべき城郭である。

谷村陣屋:元禄17年(1704年)谷村藩主秋元喬知(朝)が武蔵国川越に転封となり、谷村藩は廃藩となって宝永2年(1705年)天領となった。 この都留郡の幕府直轄地を管轄したのが谷村陣屋である。

御坂城:天正10年(1582年)北条氏によって築かれたと云われる。ただし、これ以前に武田氏によって烽火台のような施設があったとも云われる。
天正10年(1582年)武田氏は織田信長によって攻め滅ぼされ、織田の武将河尻秀隆が甲斐の大半を統治した。しかしそれもわずかな期間で、織田信長が本能寺の変で倒れると国一揆が起こり河尻秀隆は討死して甲斐は空白地となった。この武田氏の旧領を巡って徳川氏と北条氏が争うこととなる。北条方は北条左衛門が御坂城に陣取りると、徳川方の鳥居彦左衛門が小山城に陣取って対峙し、御坂の黒駒で合戦となると徳川が勝利して北条は御坂城へ退いた。その後、北条氏と徳川氏は和睦となり、御坂城も廃城となった。

16:00終了、三島駅に向かう。
17:30三島駅到達。
17:48三島駅新幹線ひかりで出発。
20:00新大阪駅到達。

今回の旅行、山梨県に点在する比較的マイナーなお城10か所をおとずれ楽しみました。
館と名の付く城跡は公園等で整備されていましたが、山城は今回も地味で探すのが一苦労でした。












 飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十二弾:広島県お城・城下町巡り観光
2018年5月12日−13日
 

中国地方に位置し毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を破ったことをきっかけに、中国地方に巨大な勢力が展開され、山陰を抑えた吉川元春、山陽を治めた小早川隆景による毛利両川体制が支配力の拡大に大きく寄与した広島県に足を運び、広島県に点在する比較的マイナーなお城12か所を訪れました。

12日19:08新大阪新幹線さくらで出発
20:14福島駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
13日8:00レンタカーで出発、お城巡り。

福山城:築城年代は定かではないが柚谷新三郎元家(湯谷又八郎久豊)によって築かれたと云われる。
萩原城の支城として築いたもので、元家の子である湯谷又左衛門実義に守らせた。 永禄12年(1569年)毛利隆元を毒殺した疑いで和智誠春と柚谷元家は厳島に幽閉され、誅殺された。これによって毛利の追討軍が和智氏の城へと向かうとの知らせを受け、福山城では湯谷実義が家臣二十八名とともに自刃して一戦も交えることなく落城したという。

甲山城:築城年代は定かではないが元享年間(1321年〜1324年)頃に山内通資によって築かれたと云われる。 山内氏は始め蔀山城を居城としていたがこれを弟通俊に譲って新たに甲山城を築いて移った。
山内氏は始め比叡尾山城の三吉氏、南天山城の和智氏、大富山城の久代宮氏らと所領の争奪を繰り広げていた。周防国大内氏の勢力が備後に及ぶと大内氏に従ったが、出雲の尼子氏の勢力が増すと尼子氏に属するようになった。
天文9年(1540年)尼子氏が毛利元就の郡山城を攻めると、山内氏はこれに参戦したが尼子氏は敗れた。天文11年(1542年)には逆に大内義隆が尼子氏の月山富田城を攻めたが、このときは大内方として参戦するも、尼子方に寝返り大内氏の大敗となった。
その後、山内氏は毛利に従うようになり、関ヶ原合戦の後は防長二カ国に減封となった毛利氏に従い長門へ移り廃城となった。

蔀山城:正和5年(1316年)山内通資によって築かれたと云われる。 山内氏は相模国鎌倉郡山内荘発祥で源頼朝に従って功を挙げ備後国比婆郡地毘荘の地頭職を得た。
正和5年(1316年)山内首藤家の惣領通資が備後に下向して蔀山城を築き本拠とした。元享年間(1321年〜1324年)に通資は甲山城へ居城を移し、蔀山城は弟の五郎通俊に譲られた。通俊は多賀山氏を称し、多賀山内首藤家として代々蔀山城を居城とする。
大永6年(1526年)多賀山通続のとき、尼子氏から大内氏に鞍替えしたことから尼子氏によって攻められ、享禄2年(1529年)落城した。その後、安芸の毛利元就に従っていたが、天正19年(1591年)多賀山通信のとき毛利輝元によって改易となり、児玉与三郎が城主となった。

五龍城:築城時期に関しては諸説あるが南北町時代に宍戸朝家によって築かれたと云われる。
宍戸氏は源頼朝に仕えた八田知家を祖とする。八田宗綱の女八田局は源義朝の妾となって知家を産んだが、平治の乱によって義朝が誅せられると知家は八田局に抱かれて八田宗綱の元に走り宗綱の猶子として育った。
八田知家の四男家政が常陸国宍戸を領して宍戸氏を名乗り、安芸国高田郡も領した。元弘3年(1333年)知時の子朝家は足利尊氏に従って六波羅を攻め、その功によって安芸国甲立荘を賜わり、建武元年(1334年)甲立に下向し、はじめ柳ヶ城を居城としたが、後に五龍城を築いて移った。
宍戸氏は五龍城を本拠として次第に勢力を広げ郡山城の毛利氏とも争ったが、毛利元就の長女五龍姫が宍戸隆家と婚姻することで和睦した。以後、宍戸氏は毛利一門の筆頭として毛利氏の勢力拡大に貢献し、関ヶ原合戦後に防長二ヶ国に減封となった後は、周防国佐波郡右田へ移り、後に熊毛郡三丘で一万千三百石余りを領した。

猿掛城:築城年代は定かではないが南北朝時代に高橋氏によって築かれたと云われる。 高橋氏は石見国を本拠とした一族で、その勢力は石見のみならず安芸へも及んでおり、その一族が居城した。
大永5年(1525年)高橋大九郎統種の代に内訌が起こると、五龍城主宍戸元源によって攻められ猪掛城は落城した。

鈴尾城:永徳元年・弘和元年(1381年)福原広世によって築かれたと云われる。 福原氏(ふくばら)は大江広元の次男長井時広を祖とする。応安元年(1371年)長井貞広は毛利元春の五男広世を養子に迎えた。広世が家督を継いだ後、実父である毛利元春より福原村を譲られ鈴尾城を築き居城とした。
福原貞俊の妹は毛利弘元に嫁ぎ、毛利興元・毛利元就の生母となった。江戸時代には萩藩の永代家老となった。

今田城:築城年代は定かではない。 永享年間(1429年〜1441年)に山県満政が今田に築城し今田氏を称した。 今田氏は安芸国守護武田氏に属していたが、武田氏の衰退とともに没落し、 後に吉川経高、経忠父子が今田氏を称して吉川氏に属した。

吉川元春館:天正11年(1583年)吉川元春によって築かれた。 天正10年(1582年)嫡男元長に家督を譲った元春が隠居所として築いたのが吉川元春館である。
天正14年(1586年)吉川元春は元長とともに秀吉による九州征伐に従軍していたが、豊前国小倉城で没し、元長も翌15年(1587年)に日向国都於郡で没した。家督は三男広家が継いだが、吉川元春館はこの広家の時代に完成したようである。
天正19年(1591年)吉川広家は出雲国富田城へ転封となり、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で敗れた後は周防国岩国へと移り、安芸国から去っていった。

日野山城:築城年代は定かではないが吉川氏によって築かれた。
毛利元就の次男元春が安芸吉川家に養子に入り家督を継ぐと、天文19年(1550年)に小倉山城から居城を移した。
元春が居城を移す前にも何らかの要害施設があったものと考えられているが、本郭的な城郭整備は元春入城以後も続けられ、元長・広家と三代の居城であった。天正19年(1591年)吉川広家の時に出雲国富田城に居城を移し廃城となった。

小倉山城:築城年代は定かではないが南北朝時代末期に吉川経見によって築かれたと云われる。 駿河国入江荘吉川邑発祥の吉川氏は、経高が安芸国大朝荘に下向したのが始まりで、当初は駿河丸城を居城としたと云われる。その後、経見のとき小倉山城を築いて居城を移した。
その後、代々吉川氏の居城として続いたが、天文19年(1550年)養子に迎えた毛利元就の二男元春のとき、日野山城を築いて居城を移し、小倉山城は廃城となった。

駿河丸城:正和2年(1313年)吉川経高によって築かれたと云われる。 吉川氏は駿河国入江荘吉川邑発祥で、正和2年(1313年)吉川経高が安芸国大朝荘に移り住んだことから安芸吉川氏が始まる。このとき経高は八十歳であったといい、文保3年・元応元年(1319年)に八十六歳で没している。
安芸へ下向した吉川氏が最初に居城としたのがこの駿河丸城とされ、以後四代経見の頃に小倉山城に本城を移すまでの居城であった。

三入高松城:築城年代は定かではない。熊谷氏が居城とする以前に二階堂是藤が居たと云われ、熊谷直時によって追い出されたと云われる。
熊谷氏が伊勢が坪城からこの高松山城に居城を移した時期は詳らかではないが、熊谷信直の頃と考えられている。熊谷氏は安芸国守護職武田氏に従って各地を転戦し、その所領を増やしたが、永正14年(1517年)武田元繁に従って出陣した熊谷元直は有田合戦で毛利・吉川の軍勢に敗れて討死、このとき武田元繁はじめ、八木城主香川行景、己斐城主己斐宗瑞なども討死し、やがて安芸武田氏は滅亡する。
その後、熊谷信直の時に毛利氏に従い、信直の娘は毛利元就の二男吉川元春に嫁いでいる。

18:00終了、広島駅に向かう。
18:30広島駅到達
19;01広島駅、新幹線みずほで出発
20:24新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の広島県に足を運び、広島県に点在する比較的マイナーなお城12か所を訪れ楽しみました。
生憎雨、雨の中をしっかり12か所の城跡を探し訪れました。

ほとんどが地味な城跡で案内板しかない城跡もありました。