飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十九弾:島根県お城・城下町巡り&小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2018年6月30日-7月1日
  

中国地方の日本海に東西細長く位置し、日本の中国地方の日本海側である山陰地方の西部をなす県。県庁所在地は松江市。離島の隠岐島、竹島なども島根県の領域に含まれる。旧国名は出雲国・石見国・隠岐国であり、現在でも出雲地方・石見地方・隠岐地方の3つの地域に区分されることが多い。全国では鳥取県に次いで2番目に人口が少ない島根県に足を運び島根県に点在する比較的マイナーなお城8か所、小京都重要伝統的建造物群保存4か所を訪れました。

6月30日18:15伊丹空港出発。
19:05出雲空港到達、レンタカーで松江市内に向かう。
19:40松江市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
7月1日7:30レンタカーで出発、お城、小京都重要伝統的建造物群保存を巡る。

松江:宍道湖に面した松江の風景はここにしかないものだ。特に松江城の天守閣に立って眺めると湖が海のように見えるためその感が強い。日本を代表する平城である「松江城」を築いたのは堀尾吉晴で、その後は松平家が十代に渡って松江を治めている。特に七代藩主の松平治郷(不昧公)は茶人としても有名で、当時の茶室の明明庵も保存公開されている。お堀に沿って武家屋敷の塀が並ぶ通りを、家老の塩見家の屋敷があったことから塩見縄手と呼んでいる。

後に「知られざる日本の面影」など数々の作品で日本を紹介した小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、松江で英語の教鞭を取っていたころに過ごした家(元々は武家屋敷)が記念館と隣り合わせて立っている。

小泉八雲は日本では、怪談の作者として有名だが、国際的には日本の研究家として知られていた。

市内から少しだけ離れたところにある松江しんじ湖温泉は人気の温泉。

また、松江は古代出雲文化圏の中心地でもあったため、市内には山代二子塚、神魂神社などの古墳古社がある。律令時代の出雲国庁もこの地にあった。

満願寺城:満願寺城は宍道湖と日本海を繋ぐ佐蛇川の入口に面した標高27m程の丘陵に築かれている。

東麓にある満願寺の裏山が城山で、遺構は丘陵全体に拡がっていたようであるが、現在は墓地や警察学校の敷地になっている。

遺構が良好に残るのは満願寺の裏にある墓地の南、宍道湖に面した丘陵部分で高い切岸に囲まれた曲輪の北西下を横堀が巡り、そこから二条の短い竪堀が落ちている。

白鹿城:築城年代は定かではないが永禄年間(1558年~1569年)に松田氏によって築かれたと云われる。

尼子十旗の一つで、毛利氏侵攻のときの城主松田誠保の父満久は尼子晴久の姉婿である。満久は備前国松田一族の松田満重の次男である。

永禄6年(1563年)に毛利元就による侵攻では吉川元春が真山城を向城として築き攻めたて、まず小白鹿が陥落、月山富田城の尼子義久からの援軍も撃退され落城した。 このとき、毛利元就は大森銀山の坑夫を使い地下道を掘らせて井戸を抜いたという。 誠保は落城後隠岐へ逃れ、元亀元年(1570年)布部山合戦に参加している。

新山城:平安時代に平忠度が築いたとの伝承があるが定かではない。

永禄6年(1563年)毛利元就による出雲侵攻で尼子氏の居城月山富田城の重要な支城である白鹿城を攻略するための向城として吉川元春が築いて陣を置いた。 白鹿城攻略後は真山城をこの地方の拠点とし、多賀元信を城主とした。

永禄12年(1569年)毛利氏が兵力の大半を率いて豊後大友氏との戦いに向かうと、再興をはかった尼子勝久は隠岐を経由して忠山城に入り、勝久は各地に激を飛ばして将兵を集め、真山城を落としここを本拠として出雲回復を狙う。 尼子方は月山富田城を囲んだが、天野隆重の謀略により落とすことができず、毛利方が九州から帰国すると次第におされ、元亀2年(1571年)真山城も吉川元春の攻撃により落城し、尼子勝久は織田信長を頼って落ちた。

十神山城:築城年代は定かではない。城主は松田備前守で安来荘の荘官であった。 応仁の乱では山名氏に属し月山富田城の尼子清定を攻めたが撃退され逆に十神山城は清定に攻められ落城した。

尼子氏の持城となった十神山城は尼子十砦の一つに数えられ、松尾遠江守が在城した。 毛利氏によって月山富田城が攻められ落城する頃には毛利氏部将の安芸国草津城主児玉就忠によって落城した。

勝山城:築城年代は定かではない。 古くは滝山城と呼ばれ尼子十砦の一つとして数えられ、城主は田中三良左衛門といわれる。

現在残る遺構は永禄年間(1558年~1570年)に出雲に侵攻した毛利氏によって築かれたもので、 京羅木山城砦群とも呼ばれるように尼子氏の本城月山富田城を見下ろす京羅木山にはいくつかの陣城が築かれ、勝山城もその一つであった。

広瀬:この町は佐々木義清が雲隠の守護となって富田城に入城してから山陰地方の中心へとなっていった。1607年(慶長12年)、堀尾吉晴が移城のために松江城の築城に着手してから富田は急速に荒廃したが、1666年(寛文6年)、松平近栄によって広瀬藩が創設、再び城下町の面影を取り戻した。しかし、同年の秋、大洪水によってこれまでの富田の市街地は流されてしまう。その後、新たに富田川の西部に広瀬町の中心街となる町が建設され、名前も広瀬と改められ、現在に至る。

熊野城:熊野城は標高280mの要害山山頂に築かれている。

要害山は山頂から南と東に尾根が展開しており、熊野城もこの尾根に階段状に曲輪を展開している。東麓には「土居成」と呼ばれる屋敷地があり熊野氏の居館があった所とされている。また西麓にも「城屋敷」という地があり天野氏の屋敷跡と伝えられる。

現在山は中腹から上が酷く荒れており、密集した竹藪をかき分け何とか山頂の主郭に至ったものの、城の遺構を詳しく見て回るような状況ではなかった。東尾根から登ったので、こちらからは階段状になった曲輪群を確認できたが、南尾根に展開する曲輪群は確認していない。東側の中腹から麓近くまで非常に細かな階段状の段が展開している。

三笠城:築城年代は定かではないが牛尾氏によって築かれたと云われる。 牛尾氏は信濃国の神氏の支流中沢真直が大原郡牛尾荘を領して牛尾氏を名乗った事に始まる。尼子十旗の一つ。

その後、出雲国守護京極氏に従い、戦国時代には尼子氏の重臣となったが、尼子義久が毛利氏に降ると毛利氏に属した。

尼子勝久を大将に尼子再興軍が興ると三笠城主牛尾弾正忠は尼子方として五百騎を率いて参陣する。再興軍は出雲国へ上陸すると破竹の勢いで出雲を制圧するも、富田城を落とす事ができず、急を知って九州より毛利軍の主力が引き返してくると、それを迎え撃つべく布部山に陣を置いたが支えきれずに敗走する。牛尾弾正忠は一旦三笠城へ退き、毛利方に属していた高平城の牛尾大蔵を攻めるも、毛利氏の援軍によって逆に三笠城は落城した。

三沢城:嘉元2年(1304年)に三沢為長によって築かれたと云われる。 三沢氏は信濃豪族で木曾義仲の後裔あるいは片切氏(片桐)の分流飯島氏とする説がある。 本丸の東屋にある三沢氏の歴代当主では、後者の飯島氏を採用している。

信濃国飯島城主飯島為光は承久3年(1221年)の承久の乱で戦功を挙げ、出雲国三沢郷の新補地頭を賜った。その後、為長がはじめて三沢に来住し、三沢氏を名乗り三沢城を築いたという。

三沢氏はタタラ製鉄などで地盤を固め、為時のときに布広城を築き、信濃守為忠は横田荘へ進出、永正6年(1509年)遠江守為忠のときに藤ヶ瀬城を築いて居城を三沢から移した。しかし、享禄4年(1531年)三沢為国のとき尼子氏が背後の「桶ヶ嶺」から攻められ藤ヶ瀬城は落城、三沢氏は尼子氏に降った。

天文8年(1539年)尼子晴久が安芸国吉田郡山の毛利氏を攻めた際には、三沢為幸が従軍し、首級十三首をあげる活躍をしたが元就の馬廻から射出された矢を七本受け、元就家臣井上七郎に討ち取られた。

為幸が討死したとき嫡子為清はわずか四歳であったが、天文10年(1541年)大内義隆が尼子の富田城を攻めたときには他の出雲の国人衆と同様に大内氏に従った。しかし、富田城攻城戦のさなか、三沢氏は大内氏に降っていた出雲の国人衆と大内氏を裏切って再び尼子方となり、大内軍は敗走した。

大内義隆が陶晴賢に討たれ、その陶晴賢も毛利元就に討たれ大内氏が滅亡すると、毛利元就は尼子領へ侵攻した。三沢為清・為虎父子は毛利氏に降り、尼子氏が滅んだ後に尼子再興軍が蜂起した際も毛利氏に従って各地を転戦した。

天正17年(1589年)三沢為虎は三沢領を没収され毛利輝元に幽閉された。その後、釈放されて長門国厚狭郡に一万石の所領が与えられた。関ヶ原合戦後も毛利氏に属し、毛利秀元を当主とする長府藩が立藩されると付家老として二千七百石が与えられ、三沢氏は家老として代々続いた。

大森: 大田市大森銀山伝統的建造物群保存地区は,幕府 直轄地約4万8千石,約150か村の中心の町で あった。銀山は14世紀初めに発見されたと伝えら れ,産銀量は17世紀初頭にピークをむかえ海外に も輸出された。町並みは銀山川沿いの谷間に延び る約2.8キロの範囲で,代官所跡や郷宿,武家屋 敷,商家などが現存し,背後の山裾には社寺や墓地, 石切り場なども残され,鉱山町の歴史的景観を良 好に伝えている。

温泉津: 大田市温泉津伝統的建造物群保存地区は,天然の 温泉が湧き出る港町で,中世より石見銀山の外港 として発展してきた。狭隘な谷を切り開いた約 80 0メートルの町並みは,近世の地割をよく残している。 江戸末期から昭和初期にかけて建てられた町屋を 中心に,旅館や社寺などの多様な建造物が並んで いる。それらが周囲の海や山とともに,港町・温泉 町の景観を形成している。

7月1日19:35出雲空港出発
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行中国地方の日本海に東西細長く位置する島根県に足を運び比較的マイナーなお城8か所、小京都重要伝統的建造物群保存4か所をおとずれ楽しみました。
今回のお城は山城が多く、かなり地味で案内板のみで遺残はほとんどが見受けられませんでした。
一方小京都重要伝統的建造物群保存巡りは、何回も訪れたことのある松江、松江城、小泉八雲の屋敷、武家屋敷、昔を忍ばせ感動でした。
他の重要伝統的建造物群保存巡りは中世の街並みの散策癒されました。
 














飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十八弾:群馬県お城・城下町巡り観光
2018年6月23日-24日
 

関東地方の北部、源義重を祖とする新田氏が、上野国で勢力を持つが、やがて南朝方として敗戦にまみれる。南北朝の内乱が収束しても、各地で戦いが発生し、幕府は関東管領として上杉氏憲を立てたが、混乱の時代が長く続いた群馬県に足を運び群馬県に点在する比較的マイナーなお城8か所を訪れました。

23日15:50新大阪駅新幹線のぞみで出発
18:23東京駅到達。
18:40東京駅新幹線あさまで出発。
19:33高崎駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
24日8:00レンタカーで出発、お城巡り。

小泉城:延徳元年(1489年)富岡直光によって築かれた。 直光は足利成氏が鎌倉公方になったとき、邑楽郡に所領を得て館を構えた。 富岡氏は古河公方に属していたが、後に越後国上杉氏、小田原北条氏に従った。

館林城:弘治2年(1556年)赤井照康によって築かれたと云われるが定かではない。 越後上杉氏が関東に進出すると足利長尾氏が城主となるが後に北条氏の支配するところとなり北条氏規が城主となった。
小田原の役では石田三成が攻め寄せるが落城せず後に開城する。
北条氏滅亡後に関東に入部した徳川家康は榊原康政を十万石で入れた。 榊原氏は3代続いた後、陸奥国小峰に転封となり替わって大給松平氏が入封する。 寛文元年(1661年)3代将軍徳川家光の四男綱吉が二十五万石で入封する。 綱吉が将軍となるとその子徳松が城主となるが徳松の死によって館林城は破却された。
宝永4年(1707年)6代将軍家宣の弟松平清武が二万四千石で入封し築城し直した。 のち太田氏、松平氏、井上氏、秋元氏と入れ替わり明治を迎えた。

白井城:築城年代は定かではないが永享年間(1429年~1441年)山内上杉氏の被官である長尾景仲によって築かれたと云われる。

景仲の孫景春は関東管領上杉顕定に叛いて古河公方に付き、武蔵国鉢形城に籠った。 顕定は鉢形城を包囲するが、古河公方の援軍もあり、和議となる。 その後も景春は顕定に対抗するが永正2年(1505年)白井城に復帰した。

越後の長尾為景が上杉房能(顕定の弟)を自害に追い込んだ為、永正6年(1509年)顕定と嗣子憲房は為景を討つべく侵攻、景春は為景に応じて白井城で顕定を迎え撃ったが憲房に破れ、柏原城へと退いた。 顕定は一時為景を越中に追いやったが、翌年長森ヶ原合戦で為景に破れ討死、憲房は白井城へと退いたが、さらに景春に破れ平井城に退いた。

天正18年(1590年)豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原の役の時は、北条氏に属していたが、松井田城を攻略した前田利家、上杉景勝の軍勢に攻撃され開城した。

岩櫃城:築城年代は定かではない。建久年間(1190年~1198年)頃には岩櫃城主として吾妻太郎助亮が登場している。

その後、下河辺行重の孫という行盛が貞和5年・正平4年(1349年)碓氷の里見義時と戦って敗れて自刃し、その子憲行が叔父の安中の斎藤梢基の養子となり、延文2年・正平12年(1357年)上杉憲顕の属して里見義時を討ち、岩櫃城を回復したという。

永禄4年(1561年)頃より武田信玄は西上野に侵攻し、永禄6年(1563年)真田幸隆によって岩櫃城は攻略され、斎藤憲広・憲宗父子は越後の上杉謙信を頼って落ちた。永禄8年(1565年)斎藤憲宗は上杉氏の援軍を得て岩櫃城の奪還を目指したが武田信玄が箕輪城へ着陣した報を受け嵩山城に退いた。その後嵩山城は真田幸隆によって攻略され斎藤氏は滅亡した。

天正2年(1574年)真田隆幸が没し、天正3年(1575年)長篠の合戦で幸隆の長男信綱と次男昌輝が討死すると、武藤氏を継いでいた三男昌幸が真田に復姓した。 天正10年(1582)武田勝頼が甲斐国新府城を捨てて体制を立て直そうとした際に、昌幸は岩櫃城へ勝頼を迎えようとしたが実現せず、勝頼は小山田氏を頼ったが途中天目山にて自刃、武田氏は滅亡した。

関ヶ原合戦の後、真田信之の持城となったが、元和の一国一城令により廃城となった。

長井坂城:長井坂城の築城年代は定かではありませんが、上杉謙信が沼田城の沼田顕泰を攻めた際にこの地に着陣したのが起源とされています。その後、度重なる謙信の関東出陣の際には、沼田城から厩橋城の間を繋ぐ拠点として整備されました。1580(天正8年)年8月には武田勝頼配下の真田昌幸により攻略され、さらに武田氏滅亡後の1582年(天正10年)年10月には鉢形城主・北条氏邦によって攻め落とされました。このとき長井坂城には猪俣邦憲が入り、沼田城攻略の最前線となりました。現在、城址の大半は農地化していますが、沼田街道を取り込んだ縄張り、土塁や堀切などの遺構を確認することができます。

沼田城:天文元年(1531年)沼田顕泰によって築かれた。 天文20年(1551年)関東管領上杉憲政の越後国亡命を追って、小田原北条氏が侵攻し、顕泰はこれに降った。 しかし、永禄3年(1560年)上杉政虎の関東進出により、北条勢は沼田より退去して顕泰は上杉氏に降った。

永禄12年(1569年)顕泰は末子景義に相続させるため、嫡子朝憲を殺したが、沼田衆の攻撃により景義とともに会津に落ち延びた。

上杉謙信没後に勃発した「御館の乱」で景虎が敗れると沼田に残った藤田信吉は武田氏に通じ、城を真田昌幸に渡し、昌幸は叔父矢沢頼綱を城代とした。

天正10年(1582年)武田氏が滅びると、滝川一益は滝川益氏を城主としたが、本能寺の変により退去し再び真田氏の持城となり、嫡子信幸を矢沢頼綱後見のもと城主とした。 天正17年(1589年)昌幸は、北条氏が上洛して羽柴秀吉に面することの条件として、沼田領を北条氏に割譲する条件をのみ、北条方の猪俣邦憲が城代となった。 しかし、邦憲は真田領として残された名胡桃城を奪取、それをきっかけに秀吉は北条氏を討伐することとなった。 小田原の役の後、沼田領は真田信幸に渡された。

関ヶ原合戦では、父昌幸は西軍、信幸は東軍に属し、合戦後信幸は昌幸の旧領を与えられた。
元和8年(1622)年信幸は信濃国松代に移り、後に二男信政に信濃国松代十万石、信利に沼田三万石とした。 沼田真田氏は天和元年(1681年)改易となり、元禄16年(1703年)本多正永が下総国内より入封、享保15年(1730年)駿河国田中に移封となる。 享保17年(1732年)常陸国下館より黒田直邦が入封、寛保2年(1742年)直純の時、上総国久留里に移封となり、替わって駿河国田中より土岐頼稔が入封、以後明治に至る。

名胡桃城:築城年代は定かではないが明応年間(1492年~1501年)に沼田景冬によって築かれたと云われる。景冬は沼田城主沼田景久の三男で名胡桃氏を称した。

天正7年(1579年)真田昌幸は沼田城攻略のため名胡桃城に入り、翌8年に沼田城を攻略した。その後は真田家の重臣鈴木主水重則が城主となった。

天正17年(1589年)豊臣秀吉の裁定により沼田は北条領となったが、名胡桃城は真田氏の持城として維持することとなった。しかし、沼田城代であった猪俣邦憲が名胡桃城を攻略して奪ったため、秀吉の怒りを買い、小田原征伐の発端となった。

宮野城:築城年代は定かではない。上杉謙信が越山して関東に入るとき、度々この宮野城に入っている。

上杉謙信が没した後は、北条氏や滝川氏そして真田氏などの管理下に置かれた。

16:30終了高崎駅に向かう。
18:15高崎駅到達。
18:39高崎駅新幹線あさまで出発
19:32東京駅到達。
24日19:47東京駅新幹線のぞみで出発。
22:20新大阪駅到達。

今回の旅行関東地方の北部に位置する群馬県に足を運び群馬県にt冤罪する比較的マイナーなお城8か所をおとずれ楽しみました。
各城跡は公園に変貌しているところが多く遺残が少なく案内板のみで地味な城跡でした。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十七弾:新潟県お城・城下町巡り観光
2018年6月16日-17日


甲信越地方の日本海に東西に細長く位置し、南北朝の内乱で、南朝の軍勢が力を持っていたが、足利尊氏は上杉謙顕を越後守護に投入し、南朝方を破った、やがて上杉謙信の登場で越後は統一され、関東や川中島など、各地へ勢力を広げようとする新潟県に足を運び、新潟県に点在する比較的マイナーなお城16か所 をお城10か所訪れました。

16日17:30伊丹空港出発。
18:35新潟空港到達、レンタカーで新発田方に向かう。
19:20新発田駅前のホテル到達後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
17日5:00レンタカーで出発。お城巡り。

金山城:金山城館遺跡は、奥山荘城館遺跡〔江上館跡・鳥坂城跡・倉田城跡・野中石塔婆群
・小鷹宮境内地・韋駄天山遺跡・蔵王権現遺跡・黒川城跡・臭水遺跡・金山城館遺跡・坊城
館跡・古舘館跡の12地点〕の1つで、「願文山城跡」「館ノ内跡」「高館跡〔下ノ館跡〕
」「蝸牛山城跡」からなる城館遺跡である。奥山荘は現在の胎内市、新発田市に所在した近
衛家の中世荘園を云う。平安末期は城一族、鎌倉期以降は三浦和田一族〔中条氏、黒川氏、
金山氏ら〕が在地領主として支配した。大治年間(1126~1131年)、城氏の一族金
山氏〔前金山氏〕によって築かれたと云われる。建久年間(1190~1199年)、金山
氏が追放となり、代わって奥山荘地頭の三浦和田氏が入り、城郭の拡張整備を行い、南北朝
時代、中条政綱の分家金山氏〔本金山氏〕が整備完成させたと云う。1221年「承久の乱
」では、藤原信成の家人酒匂家賢らが願文山城に立て籠もったが、幕府軍の圧勝に終わった
。これを期に勃発したと伝わるが定かではない。その後、戦国末期まで金山氏が続き、15
98年上杉景勝会津移封に伴い、金山氏も移り、廃城になったとされる。

鳥坂城:吾妻鏡に登場する城氏が最後に籠った「鳥坂」に比定されている。 城氏は桓武平氏で秋田城介となった平繁成を祖とする。
その後、中条氏の所領となり、鳥坂城もこの中条氏の時代の遺構が残っている。 中条氏は相模国三浦和田一族で木曽義仲追討で功をあげ、奥山荘の地頭となり、中条氏を名乗った。
中条藤資は永正の乱で守護代長尾為景に属して、上杉方の本庄氏、色部氏と対立した。藤資の娘を娶り中条家を嗣いだ中条景泰は越中国魚津城の城番となり、織田氏に対抗したが柴田勝家に攻められ落城、討死した。
慶長3年(1598年)上杉景勝の会津移封に伴い、中条氏も会津に移り廃城となった。

江上城:建仁元年(1201年)越後の城氏が滅亡した後、治承・寿永の乱で功のあった和田義茂が奥山荘地頭となったのが始まりで、その惣領家である中条氏の館がこの江上館と考えられている。

中条氏は鳥坂城を詰城とし宝治元年(1247年)に鎌倉の三浦和田氏が滅亡した後も越後で勢力を持ち、建治3年(1277年)に中条、南条、黒川氏に分かれた。

中条氏は戦国時代には揚北衆の一員として上杉氏に従い、上杉氏の会津の転封によりこの地を後にした。

平林城:築城年代は定かではないが色部氏によって築かれた。 色部氏は桓武平氏秩父氏の支流で、富士川合戦で功をあげ小泉荘の地頭となり、越後国岩船郡色部条から色部氏を名乗った。
永正の乱では守護方につき、守護代長尾為景に対抗するが敗れ、後にそれに従った。
慶長3年(1598年)上杉景勝の会津移封に伴い、色部氏も金山城に移り廃城となった。

大葉沢城:築城年代は定かではないが鮎川氏によって築かれたと云われる。 鮎川氏は本庄城主本庄氏の庶流である。

天文8年(1539年)鮎川清長は、同族の小川長資とともに本庄城の本庄房長を攻めて出羽国へ追い落とすなど、その地位を高めたが、平林城主色部氏の仲介により和平となった。

永禄11年(1568年)房長の子、本庄繁長は甲斐の武田信玄と通じて上杉謙信に叛き挙兵した。鮎川清長は上杉謙信の要請を受けて本庄氏を攻めたが、本庄繁長もまた大葉沢城を攻めるなど激しく抵抗した。結局本庄氏は葦名盛氏の仲介で嫡子を人質として差し出すことで和議となった。

その後も鮎川氏が続いたが、慶長3年(1598年)上杉景勝の会津移封にともない、鮎川氏も会津に移り廃城となった。

津川城:築城年代は定かではない。建長4年(1252年)蘆名一門で金上氏の祖となる金上館主藤倉盛弘が築いたのが始まりとも云われるが定かではない。越後ではあるが、会津を拠点とした蘆名一門の金上氏が代々居城としており、江戸時代に入ってからも会津領と密接な関係が続いた。

応永26年(1419年)蘆名氏と一門で会津新宮城主新宮盛俊が対立して小河城で合戦しており、これが津川城とみられている。

永正7年(1510年)には越後守護代長尾為景が蘆名家臣松本源蔵の手引きで狐戻城を攻めたが、城主の金上盛信は城に籠もってこれを撃退している。

天正6年(1578年)御館の乱で、金上盛備は上杉三郎景虎を支援し、景勝方の水原氏や下条氏らを攻めた。また新発田重家の乱でも重家を支援している。金上盛備は蘆名氏の重臣として活躍したが、天正17年(1589年)摺上原の戦いで討死、蘆名氏もまた滅亡した。

天正18年(1590年)蒲生氏郷が会津に入部すると、その家臣北川平左衛門が城主となった。蒲生氏に代わって上杉景勝が会津に転封となると藤田信吉が津川城代となって一万五千石を領したが、後に出奔して徳川家康の元に逃れたため、鮎川帯刀が入った。

関ヶ原合戦の後、上杉景勝は会津から米沢へ転封となり、会津に蒲生秀行が入ると、その家臣岡重政が入った。寛永4年(1627年)蒲生氏が断絶となって加藤嘉明が会津に入部すると、幕府の命によって津川城は廃城、その後は津川代官所によって管理された。

本与板城:築城年代は定かではない。 越後守護上杉氏の家臣飯沼氏の代々の居城である。 永正11年(1514年)飯沼頼清は上杉房能と守護代長尾為景が対立すると、房能方に付き敗れて没落した。
その後、直江実綱が入部し後に与板城を築城し居城とした。

与板城:築城年代は定かではないが天正年間に直江氏によって築かれたと云われる。 本与板城飯沼氏が没落した後に入封した直江氏は、本与板城に入城したが後に与板城を築き居城とした。
上杉景勝が会津に移封となると、直江氏もそれに従い廃城となった。

長岡城:慶長10年(1605年)堀直寄によって築城がはじめられたが、完成したのは元和4年(1618年)で牧野忠成によるものである。

坂戸城主堀直寄は、蔵王堂城主鶴千代の後見人となって長岡城の築城をはじめたが、福島城主堀氏の家督相続に纏わる内紛で堀忠俊は改易となり、一族である堀直寄もその影響で信濃国飯山へ転封となった。

堀氏に代わって福島城に松平忠輝が入封すると家臣山田勝重が長岡城主となったが、元和2年(1616年)に忠輝もまた改易となる。再び堀直寄が入封するが、元和4年(1618年)直寄は越後国村上へ転封となった。

元和4年(1618年)越後国長峰より牧野忠成が入封し城を完成させた。 寛永11年(1634年)忠成の二男康成に一万石を分封して与板藩を立藩させ、以後代々牧野氏が続いた。

慶応4年(1868年)戊辰戦争が起こり、家老河井継之助はカトリング砲二門など大量の武器弾薬を購入して帰藩し、5月2日小千谷に陣を張った新政府軍の岩村精一郎と最後の談判が行われたが交渉は決裂し開戦となった。5月19日に長岡城は落城、その後一時長岡城を奪還したものの再び落城して、藩主は会津へ逃れた。

栖吉城:築城年代は定かではないが戦国時代に古志長尾氏によって築かれたと云われる。 古志長尾氏は越後国守護となった上杉房顕に従って越後に入部した長尾景恒が祖で、その子長尾景春が蔵王堂城を居城としていたが、後に栖吉城を築いて居城を移した。

古志長尾氏は長尾景信の時に全盛となり、永録2年(1599年)上杉謙信が上洛して帰国したことを祝う「侍衆御太刀之次第」に一門筆頭として名が記されている。この上洛の際に謙信は河田長親を見出して古志長尾氏を継承させて栖吉城となり、景信は上杉を名乗った。

天正6年(1578年)上杉謙信没後に起こった御館の乱では、上杉景信は上杉三郎景虎方となり府中の戦いで討死、天正8年(1580年)栖吉城は上杉景勝に攻められ落城した。

栃尾城:築城年代は定かではないが南北朝時代に芳賀氏によって築かれたと云われる。 芳賀禅可は宇都宮氏綱の後見として北朝方として戦い、宇都宮氏綱は上野国・越後国の守護職を得た。禅可の子高貞と高家は越後国守護代として越後に入部したが、貞治元年(1362年)に上杉房顕が関東管領となると、足利基氏は宇都宮氏綱から越後守護職を奪って上杉房顕に与える。これによって芳賀高貞・高家兄弟は上杉房顕と戦ったが敗れた。

天文12年(1543年)後に上杉謙信となる長尾景虎が中越地方の国人を統制するために、城主本庄実乃に迎えられた。中越を平定した景虎は天文19年(1550年)兄の晴景に代わって春日山城へ迎えられ長尾家の家督を相続した。

天正6年(1578年)上杉謙信没後に起こった御館の乱では、栃尾城主本庄秀綱は上杉三郎景虎方となり、上杉景勝に攻められ落城した。

慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封となると代わって入封した堀秀治の家臣神子田政友が一万石で城主となったが、慶長15年(1610年)堀氏が改易となると廃城となったという。

下倉山城:築城年代は定かではないが戦国時代に築かれたと云われる。

天文年間(1532年~1555年)頃の城主は福王寺氏が城主で、上条定憲が乱を起こした時には長尾為景方として戦った。

天正6年(1598年)上杉謙信没後に起こった御館の乱では、城主佐藤平左衛門は上杉景勝方となり、三郎景虎方の栃尾城主本庄秀綱らに攻められたが撃退した。

慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封となり、かわって堀秀治が入封すると小倉主膳正煕が八千石を領して城代となった。慶長5年(1600年)上杉景勝が越後の旧臣を扇動して一揆を起こすと一揆軍は下倉城に攻め寄せ、これに立ち向かった小倉正煕は討死したが、救援に駆けつけた堀直寄によって鎮圧された。

大井田城:築城年代は定かではないが南北朝時代に大井田氏によって築かれたと云われる。 大井田氏は新田氏の一族里見氏の流れを汲む一族で、南北朝時代は南朝方として活躍した。

大井田氏とその一族とされる中条氏は戦国時代も上杉氏の家臣として名前が残るという。

福島城:慶長12年(1607年)堀秀治によって築かれた。 慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に移封となり替わって堀秀治が越前国北庄から四十五万石で入封した。

秀治は越後国一揆を鎮圧した後、新たに福島城を築城し春日山城を廃した。堀氏は秀治亡き後、僅か12歳の忠俊が継いだが後見人の堀賢物直政が亡くなると内紛が起こり、家康によって領地を没収され忠俊は鳥居忠政にお預けとなった。この後、越後国には松平忠輝が入封し忠輝は福島城を廃して高田城を築いた。

柿崎城:築城年代は定かではない。発掘調査によって鎌倉時代末期から室町時代前期までの遺物が確認されている。室町時代後期には上杉謙信の重臣として知られる柿崎和泉守景家の居館であったと考えられ、猿毛城が詰城であったと云われる。

北条城:築城年代は定かではないが室町時代に北条氏によって築かれた。 北条氏(きたじょう)は大江広元を祖とする毛利氏一族で安芸国毛利氏と同族である。
天文23年(1554年)北条高広は武田信玄に内応したがそれを知った上杉謙信によって攻撃され降伏し許された。
謙信亡き後の御館の乱では景虎方に付き坂戸城を攻撃した。 北条景広は御館で景勝方の攻撃を受け討死するが高広は後に武田勝頼の斡旋で上杉家に復属した。

16:00終了、新潟空港に向かう。
17:40新潟空港到達。
19:05新潟空港出発。
20:20伊丹空港到達。

今回の旅行、甲信越地方の日本海に東西に細長く位置する新潟県に足を運び新潟県に点在する比較的マイナーなお城16か所お訪れ楽しめました。

比較的案内板がしっかりしており、城跡は史跡公園に変貌しているところも多く、又車が少なく、信号も少ない、真っ直ぐな広い道、田園風景を見ながらドライブ観光、渋滞なくストレス感じなく楽しめました。



























 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十六弾:神奈川県お城・城下町巡り観光
2018年6月9日-10日
 

関東地方に位置し相模国と武蔵国という歴史的に極めて重要な土地を含み、鎌倉幕府はもとより、戦国時代も小田原の北条氏が強烈な存在感を示し、古都鎌倉、小田原城など、歴史散策の見どころが多数ある神奈川県に足を運び、神奈川県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れました。

9日 13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:35東京駅到達、タクシーで東京プリンスホテルに向かう。
16:50東京プリンスホテル到達。
17:00講演会出席。
19:30懇親会。
21:30就寝。
10日7:00タクシーで東京駅向かう。
7:15東京駅レンタカーで出発、お城巡り。

荻野山中藩陣屋:天明3年(1783年)大久保教翅によって築かれた。
荻野山中藩は小田原藩大久保氏の分家で、大久保忠朝の子教寛が徳川綱吉の小姓組番頭に取り立てられ、そこから出世して一万一千石となって駿河国松長藩として大名に列したことに始まる。
松長藩大久保氏の五代が教翅で、この教翅によって相模国愛甲郡中荻野へ陣屋が移され荻野山中藩となり、一万三千石を領した。荻野山中藩は以降、教孝、教義と続いて明治に至る。

小沢城:築城年代は定かではないが金子掃部助によって築かれたと云われる。
金子掃部助は文明9年(1477年)長尾景春の乱に呼応して小沢城に立て籠もった。刻を同じく蜂起した溝呂木城と小磯城は三浦氏らの相模勢が押し寄せるとすぐに自落したが、この小沢城は容易に落城せず二ヶ月ほど持ちこたえ、一度は落城して逃亡したものの再び立て籠もり、翌年小机城が落城するまで持ちこたえたという。

津久井城:築城年代は定かではない。鎌倉時代に筑井太郎次郎義胤が宝ヶ城に築いたのが始まりとの伝承がある。文献に登場するのは戦国時代からで、大永5年(1525年)に武田氏と小田原北条氏が戦っている。
戦国時代には内藤氏が城主で山内上杉氏の家臣であったが、後に小田原北条氏に属して「津久井衆」と呼ばれた。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、徳川家康の家臣本田忠勝、平岩近吉らによって攻め落とされた。

岡崎城:築城年代は定かではない。 悪四郎と称される岡崎義実が岡崎城を築き居城としたと云われるが、現地の案内板を読むと、それは日本城郭体系に載る「岡崎南部方形囲郭群」を指しているようである。
無量寺周辺を縄張とする岡崎城は三浦道寸で、伊勢宗瑞と長年に渡って争ったが、永正9年(1512年)伊勢宗瑞の猛攻にあって落城した。

今井陣場:天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで徳川家康が布陣した場所である。

石垣山城:天正18年(1590年)豊臣秀吉によって築かれた。
天正18年(1590年)秀吉は小田原北条氏の討伐を開始し、伊豆国山中城などを抜いて早雲寺に本陣を構えた。秀吉は石垣山へ登って検分を済ませると築城を開始した。突貫工事で築城が行われ、完成すると小田原城側の樹木を伐採して、さも一夜にして城が築かれたように見せ、北条方の度肝を抜いた。これが一夜城と呼ばれる由縁である。
北条氏は一夜城が完成すると間もなく降伏し、北条氏政・氏照らは切腹、北条氏直・氏規らは高野山へと送られた。

土肥城:平安時代末期に土肥氏の城と伝えられる。
現在の遺構は戦国時代に小田原北条氏によるものと推測されている。

鷹ノ巣城:関東へ行くには、足柄峠を越える道と箱根を越える道が存在し足柄峠への道には足柄城をそして箱根には鷹之巣城をおいた。 海抜800メートル以上の所にある。箱根などの城は番城(本城の直属の城で城主をおかないこと)であり、鷹之巣城もその一つだった。 天正18年(1590年)の小田原征伐においては徳川家康に攻められ3月29日に落城しその後家康は本陣としたが、今井陣屋に移ったことで廃城になった。

足柄城:足柄城(あしがらじょう)は、静岡県と神奈川県の県境である「足柄峠」付近にある北条家が築城した城です。
最初は小田原城主・北条氏綱が1536年に足柄城を築城したようですが、1555年には北条氏康が、三田郷(厚木市)の百姓に命じて、足柄城改修の普請人足を命じた古文書も発見されています。
更に、甲斐の武田信玄と手切れとなると、足柄古道の防衛が重要となり、1569年から1571年に掛けても石切衆十人を動員して大規模な改修を行っています。
1571年、武田勢によって駿河・深沢城が陥落すると北条綱成が足柄城へ退却したのち、玉縄城まで撤退しました。

河村城:築城年代は定かではないが南北朝時代に河村秀高によって築かれたと云われる。
文和元年・正平7年(1352年)南朝方の河村一族は、新田義興等の軍勢とともに河村城に籠城して、北朝方の畠山国清等と対峙した。城は難攻不落であったが、翌年南原の戦いで南朝方は惨敗を喫して河村一族の多くが討死し、新田義興は越後国へ逃れた。
戦国時代末期には小田原北条氏の属城となっていたが、小田原征伐によって北条氏が滅亡すると廃城となった。

16:00終了、東京駅に向かう。
17:30東京駅到達。
18:00東京駅新幹線のぞみで出発
20:37新大阪駅到達。

今回の旅行関東地方の神奈川県に足を運び、神奈川県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れ楽しみました。
平城は城址公園に変貌、山城は案内板のみで地味でした。
今回も地味な城跡巡りでした。














 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十五弾:茨城県お城・城下町巡り観光
2018年6月2日-3日
  

関東地方の北東部に位置し、南北朝の内乱で、常陸国も2つの勢力に分かれ、激しく火花を散らし、この争乱で北朝方の佐竹氏が発展し、文禄4年の常陸統一につながって行く、関ケ原後、石田三成に協力した佐竹氏は、秋田に国替となった茨城県に足を運び茨城県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れました。

2日13:50新大阪駅新幹線のぞみで出発

16:30東京駅到達、タクシーで東京タワーの近くのホテルに向かう。
16:45ホテル到達。
17:00講演会出席。
19:30講演会終了。
20:00懇親会。
21:30懇親会終了、就寝。
3日7:30タクシーで東京駅八重洲口に向かう。
8:00八重洲口でレンタカーで出発、城めぐり。

守谷城:築城年代は定かではないが相馬氏によって築かれたと云われる。 相馬氏は千葉氏の一族で千葉常胤の子師常が相馬御厨を治めて相馬氏を称した事に始まる。江戸時代に陸奥相馬中村藩となった相馬氏もこの一族である。
相馬氏は大永5年(1525年)には相馬因幡守が守谷城を居城としていたことが確認されている。戦国時代には古河公方に従い梁田氏の配下となっていたが、小田原北条氏の勢力が伸びてくると梁田氏は北条氏に降り、このとき守谷城は北条氏によって接収された。北条氏は永禄11年(1568年)に守谷城を改修している。当初は古河公方足利義氏の御座所となるような話もあったようであるが、結局実現しなかった。天正18年(1590年)北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされ相馬氏もまた没落した。
北条氏に変わって徳川家康が関東に入部するとその家臣菅沼(土岐)定政が一万石を領して守谷城主となった。元和3年(1617年)土岐定義のとき摂津国高槻城に転封となり、一時幕府直轄領となったが、元和5年(1619年)定義が没して土岐頼行が家督を継ぐと幼小であったことから一万石に減封され守谷藩へと移された。寛永5年(1628年)土岐頼行は出羽国上山へ転封となり廃城となった。

牛久城:築城年代は定かではないが戦国時代に岡見氏によって築かれたと云われる。 岡見氏は小田氏の一族で常陸国河内郡岡見郷発祥とされ、南北朝時代頃に分流したと考えられている。
岡見氏は代々小田氏に従っており、永禄12年(1569年)手這坂の合戦では岡見山城守も出陣して討死してる。手這坂の合戦で大敗した小田氏は、天正元年(1573年)頃には佐竹氏に臣従したが、岡見氏はその後も独立した勢力を維持している。
小田氏の勢力が衰退し、佐竹氏側の下妻城主多賀谷重経が勢力を拡大してくると、岡見氏はこれに対抗することとなるが、元亀元年(1570年)には谷田部城が落城、天正8年(1580年)には一時谷田部城を取り戻すが、再び攻め取られ、天正15年(1587年)には牛久城主岡見治家の兄宗治の居城である足高城も落城した。こうした情勢のなか、岡見氏は小田原北条氏に支援を要請し、次第にその支配下に属していくようになる。
小田原北条氏は佐竹領に隣接する牛久城を重要視し、天正15年(1587年)頃から下総国小金城主高城氏、下総国布川城主豊島氏、上総国坂田城主井田氏など近隣の国人たちに交代で牛久城を守るよう命じており、牛久番と呼ばれていた。
天正18年(1590年)秀吉による小田原征伐により岡見氏は北条氏とともに滅亡した。
その後は、由良国繁が上野国桐生城から五千四百石余りで牛久城に入った。関ヶ原合戦で国繁は江戸城の守備を命ぜられ、その恩賞として千六百石が加増され七千石の大身旗本となった。しかし、元和7(1621年)由良貞繁が嗣子なく没すると、弟忠繁が家督相続を許されたものの、家禄は千石に減封された。この元和7年(1621年)に廃城になったとされる。

木原城:築城年代は定かではない。 永禄5年(1562年)には江戸崎城主土岐氏の家臣近藤薩摩守が木原の地に取り立てられており、この頃には木原城が築かれていたといわれる。
軍記物などでは天正2年(1574年)に小田氏の家臣江戸崎監物が佐竹氏に寝返り、木原城は攻められて落城、天正11年(1583年)には葦名盛重など佐竹軍によって攻められ落城、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で木原城主は江戸崎城とともに北条方となり落城と三度落城しているが、「図説 茨城の城郭」によれば、発掘調査では焼土や土塁の作り直しなど激しい戦闘の痕跡は確認されていないという。また同書では、土岐氏あるいはその家臣である近藤氏といった小勢力が、現状のような巨大な城郭を築いた背景として、永禄6年(1563年)に土岐氏と小田原北条氏が同盟関係となり、天正元年(1573年)に佐竹氏が小田氏の支城である宍倉城や戸崎城を攻め落とし、土岐氏の勢力範囲と隣接するにあたって北条氏が土岐氏を支援した結果ではないかと推測している。

島崎城:築城年代は定かではないが島崎氏によって築かれた。 島崎氏は大掾氏の庶流行方氏の一族で、行方景幹の次男高幹二郎が行方郡嶋崎に住んで島崎氏を称した事に始まる。
大永2年(1522年)島崎利幹は同族の長山城主長山幹綱を攻めて自刃させ、天文5年(1536年)にも玉造宗幹を攻め、天正12年(1584年)には麻生城主麻生之幹を攻めてこれを滅ぼすなど、南方三十三館と称された諸豪族の筆頭となった。
天正19年(1591年)佐竹義宣の命によって、島崎安定など南方三十三館の城主は謀殺され島崎氏は滅亡した。

鹿島城:養和元年(1181年)鹿島政幹によって築かれたと云われる。 鹿島氏は常陸大掾氏一族の吉田氏庶流で、吉田清幹の子が鹿島三郎成幹を名乗り粟生城に居たが、その子政幹が吉岡城を築いて移ったという。以後代々鹿島氏の居城となったが、天正19年(1591年)佐竹義宣の「南方三十三館の仕置」によって鹿島晴房は常陸太田城にて謀殺され鹿島氏は滅亡した。

土浦城:築城年代は定かではないが永享年間(1429年~1441年)に(今泉)若泉三郎によって築かれたと云われる。また、平安時代に平将門によって砦が築かれたとの伝承も残る。
永正13年(1516年)若泉五郎左衛門が城主の時、小田氏の家臣菅谷勝貞によって攻められ、この後は小田氏の家臣菅谷氏の居城となった。
小田氏は小田氏治の頃、佐竹氏に小田城を奪われ、土浦城へ逃れて勢力の回復をはかるが、天正11年(1583年)佐竹氏の軍門に降った。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後に関東に入部した徳川家康は、結城城に結城秀を置き、土浦を支配された。慶長6年(1601年)結城秀康は越前国北庄に転封となった。
慶長6年(1601年)下総国布川より(藤井)松平信一が三万五千石で入封、元和3年(1617年)信吉の時、上野国高崎へ転封。
・元和4年(1618年)上野国白井より西尾忠永が二万石で入封、慶安2年(1649年)忠昭の時、駿河国田中へ転封。
・慶安2年(1649年)下野国鹿沼より朽木稙綱が三万石で入封、寛文9年(1669年)稙昌の時、丹波国福知山へ転封。
・寛文9年(1669年)常陸国宍戸より土屋数直が四万五千石で入封、天和元年(1681年)政直の時、駿河国田中へ転封。
・天和2年(1682年)武蔵国より(大河内)松平信興が二万二千石で入封、貞享4年(1687年)大坂城代として転封。
・貞享4年(1687年)駿河国田中より土屋政直が六万五千石で入封、以後明治に至る。

小田城:築城年代は定かではないが鎌倉時代末期に八田知家によって築かれたと云われる。 八田氏は常陸国久慈郡八田発祥で宇都宮宗綱の子知家が八田氏を名乗ったことに始まるが、八田知家は小田氏の祖となり、小田城は小田氏累代の居城となった。
南北朝時代の城主は小田治久で、暦応元年・延元3年(1338年)北畠親房は吉野から海路常陸国へ入り神宮寺城に籠ったが、佐竹氏に追われ、阿波崎城に逃れるも再び佐竹氏に追われ小田城に入った。
暦応4年・興国2年(1341年)足利尊氏が派遣した高師冬は小田城を攻めたてるが容易に落城しなかった。しかし、小田治久は高師冬の和平交渉に応じて小田城を開城し、北畠親房は関城へ逃れた。
戦国時代末期の城主小田氏治は、拡大する小田原北条氏と越後上杉氏、またそれに対抗する佐竹・多賀谷・結城などの狭間にたたされ、幾度と無く小田城を奪われては、土浦城へ退き、また小田城を奪い返しては奪われることを繰り返していた。永禄12年(1569年)手這坂の合戦で大敗を喫し、さらに真壁軍に小田城へ先回りされ奪われた為、氏治は土浦城へ退き、以後小田城へ帰参することはなかった。

久下田城:天慶3年(940年)藤原秀郷が築いたのが始まりとされる。 藤原秀郷は平将門がおこした承平天慶の乱を討伐するために、上館(久下田城)・中館(伊佐城)・下館(下館城)を築いたという。
戦国時代になり下館城主水谷正村が宇都宮氏に対する備えとして久下田城を築いた。元亀元年(1570年)正村は家督を弟勝俊に譲り、隠居城としてこの久下田城へ移った。元和の一国一城令により廃城となった。

結城城:治承年間(1177年~1180年)に結城朝光によって築かれたと云われるが定かではない。 結城氏は小山政光の四男で母は源頼朝の乳母寒河尼という。十四歳の時に武蔵隅田宿で陣を張っていた源頼朝に参見してその場で元服し、「朝」の字を賜わり朝光と名乗った。その後、下総国結城郡の地頭職を得て築いたのが結城城の始まりとされる。
16代結城政勝の時には下妻・下館・長沼・小山などに勢力を広げて戦国大名化する。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐には結城晴朝がいち早く参陣し、十万石の安堵を得るとともに、秀吉の養子となっていた徳川家康の二男秀康を養子に迎え、18代結城秀康となった。
慶長6年(1601年)結城秀康は越前国福井六十七万石に転封となって結城城は廃城となり、その後は天領となった。元禄13年(1700年)水野勝長が能登国西谷より一万石で入封。元禄16年(1703年)廃城となっていた結城城を再築して居城とし、以後明治に至る。

古河城:築城年代は定かではないか鎌倉時代に下河部行平によって築かれたと云われる。 下河部氏は小山政光の弟行義が下河部氏を名乗った事に始まり、その子行平が城を築いたという。

関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことがきっかけとなって享徳の乱が勃発すると、室町幕府も上杉方を指示し、駿河守護今川氏によって鎌倉は占拠され、成氏は古河公方館へ身を寄せる。これによって古河公方と呼ばれることとなり、成氏は後に修築した古河城へと入り、代々の御座所となった。

今回の旅行、関東地方の茨城県に足を運び、茨城県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れ楽しみました。
お城が城址公園に変貌しているところが多く、散策できました。
今回ほとんどが平城でしたが地味な城跡が多いが場所の確認は容易でした。