飛行機で国内&海外の観光地巡飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十一弾:富山県お城・城下町巡り観光
2018年7月21日-22日


北陸地方の南北にのびる日本列島の中心、本州の中央北部に位置し、東は新潟県と長野県、南は岐阜県、西は石川県に隣接しています。三方を急峻な山々にかこまれ、深い湾を抱くように平野が広がっており、富山市を中心に半径50kmというまとまりのよい地形が特徴です。
また、日本海側の中央に位置する本県では、アジア大陸や朝鮮半島など対岸諸国との古くの交流の積み重ねを活かし、環日本海地域の中央拠点として活発な取組みを展開しています富山県に足を運び、、富山県に点在する比較的マイナーなお城7か所を訪れました。
21日15:42大阪駅サンダーバードで出発
18:26金沢駅到達。
18:40金沢駅新幹線つるぎで出発。
18:53新高岡駅到達、駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
22日8:00レンタカーで出発、城めぐり。

守山城:築城年代は定かではないが南北朝時代に桃井直常によって築かれたと云われる。

室町時代には守護畠山氏の守護代神保氏の居城放生津城の詰城としての役割があり、永正16年(1519年)越後の長尾為景が越中に侵攻した際に、神保慶宗はこの城に籠って対抗した。神保氏は天正年間(1573年~1592年)に神保氏張が上杉謙信に降り、謙信没後は佐々成政に従った。

天正13年(1585年)佐々成政が羽柴秀吉に降ると、前田利長が入城し慶長2年(1597年)富山城に居城を移すまで在城した。

阿尾城:築城年代は定かではない。 天正年間(1573年~1592年)の城主は菊池右衛門入道武勝・十六郎父子であった。菊池氏は肥後国の菊池氏の末葉という。

上杉謙信没後、菊池氏は織田信長の家臣佐々成政に従っていたが、成政が前田利家と対立するようになると利家の勧誘を受けて前田氏に通じた。これに対して成政の家臣で守山城主の神保氏張は阿尾城に攻め寄せたが、前田軍と菊池軍でこれを撃退した。

菊池氏は一万石を安堵され前田氏に従い、その末裔は一千五百石で加賀藩に仕えた。

森寺城:築城年代は定かではないが永正年間(1504年~1521年)に能登国守護畠山氏によって築かれたと云われる。

元亀年間(1570年~1573年)から天正年間(1573年~1592年)はじめ頃の城主は長沢(長曾)光国と伝えられ、天正5年(1577年)には上杉謙信に属して能登国穴水城の守将となっていたが、翌年討死している。

天正5年(1577年)上杉謙信は有坂備中に湯山城を攻略させたが、このときの城主は湯山左衛門続甚という。謙信はその後河田主膳を城主としたが、天正7年(1579年)長連龍によって攻められ落城した。

佐々成政が越中に入部した後は、湯山城主として斎藤氏が城主であったが、豊臣秀吉に降伏した後は前田利家の所領となり、廃城となったと見られている。

木舟城:築城年代は定かではない。 石黒荘を本拠とした石黒氏が南北朝時代以前に進出して木舟城を築いて居城とし、木舟石黒氏となったと云われる。

本流福光石黒氏が文明13年(1481年)山田川で一向一揆との戦いで滅亡したのに対し、木舟石黒氏は戦国時代まで続き、石黒左近蔵人の時代には一大勢力を築いていた。

石黒氏は上杉氏に属していたが上杉謙信が急死した後は織田信長に通じ、天正9年(1581年)上杉氏によって攻められ落城した。石黒氏は織田信長に呼び寄せられ近江国長浜にて討たれた。木舟城を手に入れた上杉氏は吉江宗信を城将として守らせていたが、後に織田信長に奪われ佐々成政の支城となった。

天正13年(1585年)羽柴秀吉による越中平定で佐々成政が降伏すると、前田利家の弟前田秀継が入城したが、同年十一月の大地震によって秀継夫妻は没し、子の利秀は翌天正14年に今石動城に居城を移し廃城となった。

一条寺城:築城年代は定かではない。応安2年・正平24年(1369年)室町幕府に反抗した桃井直常方の軍勢が立て籠もっていた一乗之城を、幕府方の吉見氏が攻め落としたことが知られている。

天正12年(1584年)佐々成政が加賀の前田利家を攻めたときには、佐々成政の家臣杉山小助が城主であった。

瑞泉寺城:築城年代は定かではないが文明年間(1469年~1487年)に瑞泉寺によって築かれた。

文明13年(1481年)福光城主石黒右近光義は、医王山惣海寺と組み井波瑞泉寺と山田川にて戦ったが敗れて滅亡した。これにより山田川の東は瑞泉寺領、西は安養寺領(勝興寺)となった。これにより勢力を拡大した瑞泉寺は要害を構えこれが井波城の前身となった。

天正9年(1581年)佐々成政は越中の一向宗の二大勢力となっていた瑞泉寺を攻め、これを攻略した。その後井波城には成政の家臣前野小兵衛が城主となったが、天正13年(1585年)前田利家によって攻略された。

増山城:築城年代は定かではないが戦国時代に神保長職によって築かれたと云われる。 南北朝時代に築かれたとされる和田城は、この増山城の北方にある亀山城と見られている。

天文12年(1543年)頃に神保長職は富山城を築き新川郡の椎名氏を圧迫するようになった。椎名氏を支援する越後の上杉謙信は永禄3年(1560年)富山城を攻め落とし、居城であった富崎城を攻め落とされ、長職は増山城に逃れた。上杉氏はなおも追撃して長職は再び城を捨てて逃れた。

永禄5年(1562年)頃に神保長職は上杉氏に降伏し、後に増山城に居城を移したが、元亀3年(1572年)頃に没した。

長職没後、増山城には一向一揆が籠ったが、天正4年(1576年)上杉謙信が攻め落とした。 謙信は家臣吉江宗信を増山城に置いて拠点とした。

天正6年(1578年)上杉謙信没後、織田信長に仕えていた神保長住が織田軍を率いて越中に入国し、天正9年(1581年)には佐々成政の軍勢が増山城下を焼き払い増山城は落城した。

天正13年(1585年)羽柴秀吉の越中征伐によって佐々成政は秀吉に降った。成政は新川一郡に減封となり、砺波・婦負・射水三郡が前田利家に加増され、増山城には利家の娘婿中川光重が入った

16:00終了、新高岡駅に向かう。
16:30新高岡駅到達。
17:07新高岡駅新幹線はくたかで出発。
17:20金沢駅到達。
17:31金沢駅サンダーバードで出発。
20:09大阪駅到達。

今回の旅行、北陸地方の日本海に面した富山県に足を運び、富山県に点在する比較的マイナーなお城7か所をおとずれ楽しみました。

案内板がしっかりあり、山城が多かったですが、すんなり訪れることができました。
道も広く、渋滞もなく、ストレスを感じないドライブお城巡りでした。


















 
飛行機で国内&海外の観光地巡飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十弾:中国天津観光
2018年7月14日-16日


アジアの大国中国に足を運び、北京、上海、重慶と共に中央直轄市の一つ。港湾都市で、行政・産業・交通上の重要な位置を占める。英・独・日・仏・露の租界があった街並は異国の雰囲気が漂う天津を訪れました。

14日14:30伊丹空港日本航空で出発
15:40羽田空港到達。
16:50羽田空港日本航空で出発
19:45北京空港到達。タクシーで北京市内のホテルに向かう。
20:35ホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
15日6:30タクシーで北京南駅に向かう。
7:15北京南駅到達。
8:00北京南駅高速鉄道で出発
8:35天津駅到達、観光

天津:天津は、中国の華北地区北部、北京の南東約120kmに位置する港湾都市で、渤海湾に面する華北地方最大の貿易港を持っています。北京、上海、重慶とともに中央政府の直轄市で、面積約11,700km2、人口約1,115万人の大都市。市区6つ、沿海区3つ、郊外4つ、県5つによって構成されています。
天津は、古くからの港町で、交通の要衝として発展。19世紀以降は外国のさまざまな侵略を受け、イギリス、フランス、ロシアなどの圧力で結ばれた1860年の北京条約で開港させられ、1899年の義和団事件により、8ヵ国の外国の租界地が設けられました。海河と並行して解放南路から天津駅近くの解放橋まで北西に伸びる解放北路の両側には、租界時代の面影を残すヨーロッパ風の建物が並んでいます。

租界建築群<市区>:中国には「北京の四合院(中国北方の伝統家屋)、天津の小洋楼(洋館)」という言葉があるように、租界時代の洋館は天津のシンボル的存在になっています。当時の列強諸国が建築したものだけでなく、国内の富豪が外国人デザイナーを招いて作らせたものもあり、建築様式はルネッサンス、ゴシック、ロマネスクなどなど多種多様。数千あるといわれている洋館から、必見スポットをピックアップです!

解放橋:かつての名称は万国橋、フランス租界にあったことからフランス橋とも呼ばれていました。この橋は真ん中が開閉する跳開橋なのですが、現在はめったに開くことはありません。夜は夜景の美しいデートスポットです!

解放北路:租界建築群を代表するメインスポット。各国の金融機関が集まっていた場所で様々な様式の建物が並んでいます。

五大道:天津旧城の東南に位置する旧イギリス租界。かつて多くの西洋人や中国の著名人が暮らしたエリアで、今でも当時をしのばせる洋館が数多く残されています。五大道観光馬車は天津観光の目玉の一つ。民園体育場から洋風馬車に乗って周辺の町並みを優雅に見学できるのです。

近代天津博物館:この博物館は、天津の近代歴史に関する写真資料を展示している。近代天津の貴重な写真が、教育・軍事・金融・郵便・建築・鉄道・司法・海洋化学工業・港湾・農場・科学技術・医学・思想文化・社会団体・宗教・商業・娯楽業・ニュースメディア・スポーツ・芸術などの分野に分かれてたくさん展示されている。

天津広播電視塔:高さ415.2メートルのテレビ塔で、天津市のランドマーク的存在です。ここの展望室に上れば天津の街を360度見渡すことができます! 中には回転式のレストランもあり。天津ビューを堪能したい方、おすすめのスポットです。

周恩来穎超紀念館:中華人民共和国初代首相の周恩来と、その夫人・穎超の記念館。周恩来生誕百周年の1998年2月28日オープンしました。周恩来夫妻が出会い恋に落ちた思い出の地として天津が選ばれたのです。館内には幼少期から日本、西洋へ留学した青年時代、マルクス主義と出会い、共産党に入党し、建国後の総理としての業績などが年代順に展示されています。

静園:1921年、北洋政府駐日公使・陸宗輿の私邸として建設。当初は乾園という名前だったのですが、1927年に張園から引っ越してきた溥儀の希望で静園と改名されました。最後の皇帝一家は1931年に天津を去るまでここで暮らしていました。現在、公開されているのは2007年に修復工事を終えたばかりのもの。外観は西洋風なのですが、内部のところどころに日本風のインテリアを見ることができます。

張園:赤レンガの高い塔がシンボルの旧日本租界にあった洋館。清朝陸軍第八鎮統制で豪商の張彪の私邸として建てられたもので、後に紫禁城を追われたラストエンペラー・溥儀が天津に移ってから最初に暮らしたところとしても知られています。現在は中国企業が利用しており内部は非公開、外観だけの見学となります。

天津旧城:現在の北馬路、東馬路、南馬路、西馬路に囲まれたエリアで、かつては城壁に囲まれていました。ここの見所はかつて時を知らせる役目をしていた鼓楼。現在ここは南北に伸びる清時代の 街並みを再現した商店街となっています。

古文化街:清代の民間建築の様式を再現した町並み。長さ約600メートルのストリートにはアンティークや民芸品が売られています。天津土産を物色するのにぴったりのスポット!

天后宮:古文化街に位置する天后娘娘を祀る廟。天后娘娘とは台湾や東南アジアの華人に信仰されている女神。ここ天后宮は1326年に建設され、その後修復・改築を繰り返してきたもの。内部には天津民族博物館も併設されています。

望海楼教堂:1869年、フランス人宣教師たちの手によって創建されたカトリック教会。当初は聖母得勝堂と名づけられたのですが、協会の敷地にはかつて清朝皇帝の望海楼があったことから、望海楼教会と呼ばれるようになったのです。幾度も内乱が起こり、破壊と修復を繰り返してきた協会で、現存するものは1904年に再建されたものです。

16:00終了ホテルに向かう。
17:00ホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
16日7:30地下鉄で天津駅に向かう。
8:15天津駅到達。
9:04天津駅高速鉄道で出発。
9:39北京南駅到達、地下鉄で北京空港に向かう。
11:00北京空港到達。
16:20北京空港全日空で出発。
20:20関西空港到達。

今回の旅行、アジアの大国中国に足を運び、英・独・日・仏・露の租界があった街並は異国の雰囲気が漂う天津を訪れました。

数か国の租界があった街並みはヨーロピアン風の景観、中国とは思えない街並み散策癒されました。
歴史ある中国、城跡、歴史的建造物の多さ圧倒され又感動いたしました。

過去に何回も訪れたことのある、中国、今回は10回目、またまたトラブルの連続、北京空港からタクシーでホテルまで移動しましたが、チェーンホテルが安心と思い、ホリディインのホテルを予約していましたが、北京に沢山のホリディインがあり、タクシの運転手、ホテルを間違えて到達、何とかホテルのカウンターで別のタクシーを呼んでもらい予約していたホテルに何とか到達。

二つ目のトラブル、北京南駅であらかじめ日本でインターネットで予約したeチケットを本チケットに交換できる場所を駅の係人に尋ねると親切に誘導していただいて無事に本チケットに交換できましたが、100元催促されました。日本では考えられません。きちんと制服を着た係員でした。

三つ目のトラブル、帰国に飛行機に乗車、これから飛行すると思っていましたがパイロットがフライトの許可が出ません。しばらくすると上空悪天候のため、穏やかになるまで機内待機を告げられました。
結局2時間待たされたフライトでした。

尚物価は日本よりまだまだ安い、食事も交通費も断然安い。タクシーで移動しても日本の3分の1以下、現地ではあまりお金がかからないのはアジア旅行の特権でしょうね。