飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十三弾:ポーランド観光
2018年8月8−15日
 

ヨーローッパのEUに属し10世紀に建国。15〜17世紀には東欧の大国。18世紀末には3度にわたり,ロシア,プロシア,オーストリアの隣接三国に分割され,第一次大戦終了までの123年間世界地図から姿を消す。
第二次大戦ではソ連とドイツに分割占領された。大戦での犠牲者は,総人口の5分の1を数え,世界最高の比率。大戦後は,ソ連圏にくみ込まれたが,「連帯」運動(1980年代)など自由化運動が活発で,東欧諸国の民主化運動をリードした。1989年9月,旧ソ連圏で最初の非社会主義政権が発足した。「欧州への回帰」を目標に,1999年3月にNATO加盟,2004年5月にはEU加盟を果たしたポーランドを訪れました。

8月8日10:05関西国際空港ルフトハンザ・ドイツ航空で出発。
15:00フランクフルト到達。
16:40フランクフルトルフトハンザ・ドイツ航空で出発。
18:10クラクフジョンポールパリツェ空港到達、バスで市内のホテルに向かう。
19:00ホテル到達、就寝。

9日9:30徒歩でクラクフ市内観光

クラクフ:ポーランドの第三の都市クラクフは、首都のワルシャワ、ウッチに続く第三の都市。

11世紀中ごろから16世紀末までポーランド王国の首都として栄えた古都で、日本では「ポーランドの京都」なんて例えられることも。
第二次世界大戦中にドイツ軍の司令部が置かれており、戦火を逃れた世界遺産の街並が世界遺産に登録されています。
クラクフから日帰り観光でアウシュビッツ強制収容所やヴィエリチカ岩塩抗を訪れることができます!

ヴァヴェル城:ヴィスワ川沿いにそびえ立つ、ゴシックルネッサンス様式のお城です。ワルシャワに首都が移る16世紀まで、このヴァヴェル城に歴代のポーランドの王様が住んでいました。敷地内には大聖堂や旧王宮、王の墓など、歴史的な建造物が数多くあります。
特に旧王宮には調度品や美術品、宝飾品、武器などが展示されていて、当時の王族の生活を垣間見ることができるので、おすすめです。

ヴァヴェル大聖堂:ヴァヴェル城の敷地内にある大聖堂です。1364 年に設立されたローマ カトリック教会の大聖堂で、ポーランド国内で最も大切にされている宗教施設といっても過言ではありません。歴代のポーランド王の戴冠式は、1764年までヴァヴェル大聖堂で行われていましたし、現代でも全45代の王様のうち、41名まではこの聖堂の地下に葬られています。
堂内には、美しい彫刻が施された棺が数多く安置されています。一つ一つ趣が異なるので、芸術品として鑑賞するのもいいですね。またヴァヴェル大聖堂で忘れず見ていただきたいのが、鐘楼につられたジグムントの鐘。1520年製の巨大な鐘で、国家の重要な慶事でのみ鳴らされるものですが、なんと手で触れられます。

聖マリア教会:織物会館の向かい側にあるのが、聖マリア教会です。13世紀初めに建造されたゴシック様式の建物で、その歴史的価値から1978年には「クラクフ歴史地区」として世界遺産にも登録されています。
教会内部にある聖壇は、ヨーロッパで第2位の高さをもつ木造彫刻で国宝に指定されています。また彫刻家ファイト=シュトゥースが手がけた高さ13メートルというヨーロッパ最大級の祭壇画もあって、まさに見所満載!

中央広場:クラクフ旧市街の中心にある中央市場広場は、中世から残る広場としてはヨーロッパ最大の規模を誇っています。

織物会館:中央広場にあるのが、織物会館です。中世時代、東西の物品が集まる貿易の拠点であったクラクフで、その中心的な役割を担ったのがこちらの織物会館。当時は、中国から来た絹やイギリスのウールなどが取引されていたそうです。
ルネサンス様式の建物は、外から見ているだけでも美しく、訪れる価値があります。さらに館内には、民芸品やアクセサリー、革製品などの小さな店がぎっしり並んでいて、クラクフ土産を買うのにもおすすめ。クラクフ観光では絶対にハズせないスポットです。

旧市庁舎:ポーランドのクラクフの中央広場にあり、なおかつクラクフのランドマークになっているのが高さ70mの旧市庁舎の塔。
建てられたのは13世紀の終わりの頃に建てられた市長舎の一部です。地下は刑務所として使用されていました。
建物はレンガや石を用いてゴシック様式で作られました。しかし1680年の落雷により崩壊し、バロック様式で再建されました。
現在は、クラクフの歴史博物館、広場の展示場として常設展示なども行われています。塔の上に登ることもできるので、是非解放された展望台に行ってみてください。塔の頂上からは、世界遺産であるクラクフの街を一望できますよ。

昼食:ゴウォンプキ:ポーランド料理のひとつで、簡単に言えばロールキャベツです。
お肉をキャベツの葉で巻いて煮込むのは日本式のロールキャベツと同じですが、大きな違いは、お肉にお米がたっぷり混ぜ込んであることです。あらかじめかために茹でておいたお米を(ポーランドではお米は“炊く”ものではなく、“茹でる”ものです)、豚挽き肉・卵と混ぜ合わせてタネを作ります。玉ねぎを入れる場合は、いためたものではなく生のままをみじん切り、もしくは摩り下ろして加えます。家庭によってはマジョラムやにんにく、パセリの葉を加えることも。先に火を通しておいたキャベツの葉に適量のタネを置き、空気が入らないように巻いていきます。ちなみにポーランドではキャベツに火を通す時は葉を一枚一枚はがしてから茹でるのではなく、大きいお鍋にお湯を沸騰させ、そこにキャベツを丸々ひとつ入れて、火が通ったものを順番にはがしていきます。

午後散策

クラクフ国立博物館:レオナルド・ダ・ヴィンチの数少ない女性画「白貂を抱く貴婦人」は、現在ここで鑑賞できる。

19:00ホテルで夕食
21:00就寝。

10日8:00バスで出発アウシュビッツに向かう。

アウシュビッツ博物館:。収容所内には28棟の囚人棟があり、最大で28,000人もの囚人が収容されていたといいます。
第二次世界大戦が始まり、ポーランドがドイツの支配下に置かれていた1940年、ポーランド人の政治犯を収容するためにこの場所が作られました。しかし次第にユダヤ人や軍の捕虜をも収容するようになり、施設は拡大され、あの恐ろしい虐殺の場所となっていきました。戦後は当時のままの状態が保存され、博物館として公開されるようになりました。
2キロほど離れた場所にはビルケナウというもう一つの収容所があります。ここはアンネフランクが収容された場所としても知られています。見渡す限り草の茂った広大な敷地に、点々と木造のトラックが立っています。奥には大きな国際追悼碑が建ち、いかに多くの国の人々が犠牲になったかを物語っています。

昼食:ブラツキ・ジェムニャチヤーネ:ポーランド語でPlacki Kartoflane(プラツキ カルトフラーネ) 又はPlacki Ziemniaczane(プラツキ ジェムニャチャーネ)といいます=じゃがいものパンケーキです。

バスでクラクフに向かう。

クラクフ着後市内散策。

カジミエシュ地区:クラクフ旧市街やヴァヴェル城の南に位置するカジミエシュ地区は、かつて多くのユダヤ人が暮らしていた地区。
14世紀にユダヤ教徒の保護に熱心なカジミエシュ大王の手により作られた町で、かつてはユダヤ人地区として繁栄しましたが、第二次世界大戦時のユダヤ人迫害により住民が消え、長らく廃墟となっていた歴史を持ちます。
カジミエシュ地区を歩きながら、ヘブライ文字の看板やユダヤ教のシンボルが残されているのに注目してみてください。
現在は古い建物がお洒落なカフェやレストランにリノベーションされ、若者に人気のスポットとして生まれ変わりました。

マンガ日本美術・技術博物館:ポーランドの大地主の家に生まれたフェリクス・ヤシェンスキはヨーロッパ各国を旅する間にジャポニスムに触れ、大の日本美術マニアとなり、浮世絵、掛け軸、屏風、鎧、兜、刀剣、漆器、着物、印籠等の日本美術品を15000点も収集したというのです。
彼は批評家、作家として活躍しましたが、ペンネームを北斎漫画から採ったマンガ(Manngha)とし、1920年、彼の収集品をクラクフの国立博物館に寄贈します。しかし国立博物館には既に作品を展示するスペースがなく、死蔵。
ここで登場するのが、坂東玉三郎主演の「ナターシャ」の舞台演出や映画監督で日本でも名の知られたアンジェイ・ワイダ監督。
1987年、人類の精神的深化・高揚に著しく貢献したとして、京都賞を受賞した彼はその賞金4500万円を基金として、「若かった私が初めて日本の美術に触れた時に得たあの幸福感を、他の人々にも味わってもらいたい」と、死蔵されているマンガの寄贈品を常設展示する美術館を建設する事を決意。
ワイダ監督の呼びかけに答え、JR東日本労働組合が100万ドル、日本政府も300万ドルを寄付。クラクフ市も建設地を無償提供。磯崎新が無償で設計を手掛け、1994年、ヴィスワ川を挟んだヴァヴェル城の対岸にマンガ館が完成したのです。
開館式にはワレサ大統領と高円宮も出席。入口入って直ぐの所には2002年に訪館された天皇皇后両陛下の署名額が
掲げられていました。
この美術館ではポーランドで唯一、日本語、ポーランド語、英語併記で種々の案内表示がされています。

11日8:15バスで出発ヴェリチカに向かう。

9:00ヴェリチカ岩塩:ポーランドの古都クラクフ(Krakow)の近くには、世界遺産のヴィエリチカ岩塩坑があります。この岩塩坑は地中約330mの深さまで掘られており、世界最古でありながら現役の採掘場です。ここでは、採掘で使われていたトロッコや坑道のほかにも、地下深くに築かれた美しい礼拝堂や地底湖が見られ、地底探検をしているようなドキドキ感が味わえます!

昼食バルシチとカツレツ:バルシチ(barszcz)はバルシチ・チェルヴォヌィ(barszcz czerwony)とも呼ばれるポーランドの伝統的なスープで、鮮やかな赤色が特徴です。この色は材料であるビーツ(burak)の色素によるものです。ロシア料理のボルシチと名前はそっくりですが、あちらは肉や野菜がたっぷり入っているのに比べ、こちらのバルシチは基本的にスープだけを頂きます。

午後市内観光

ヤギェウォ大学のコレギウム マイウス : クラクフ旧市街西端に校舎群を持つヤギェウォ大学(Uniwersytet Jagiello?ski)の最古の校舎
ヤギェウォ大学は中欧で二番目に古い名門大学で、設立は14世紀。地動説で有名なコペルニクス、作家のスタニスワフ・レム、先代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世もここの出身

バルバカンとフロりアンスカ門:19世紀までクラクフは城塞に囲まれていましたが、現在は大部分が取り壊されています。旧市街地に建つバルバカンは城塞の一部で、建設当時はフロリアンスカ門とは橋と通路で繋がっていました。
各国の国王や要人たちが市内へ入る際にくぐったと伝えられているフロリアンスカ門とフロリアンスカ門を守るために建てられたバルバカンを目の当たりにすると、歴史の流れを肌で感じることができますよ。

スォヴァツキ劇場:クラクフの旧市街地内の北東部分に位置する立派な劇場です。パリのオペラ座を模してデザインされたと言われており、完成したのは1893年との事。ちなみにスウォヴァツキという名前は、ポーランドの偉大なロマン派詩人らしくその名にちなんで命名されたようです。

16:55列車でワルシャワに向かう。
19:30ワルシャワ到達、バスで市内のホテルに向かう。
20:10ホテルで夕食就寝。

ワルシャワ:ポーランドの首都であるワルシャワは、南北に縦断するヴィスワ川を有する町。観光の名所は川の西側に集中しており、見どころやカフェ、みやげ物店が集まるクラクフスキェ・プシェドミェシチェ通り〜ノヴィ・シフャト通りまでの約2kmのエリアは歩いて回ることもできる。ワルシャワの街の始まりは13世紀。1596年以降はポーランド王国の首都として急速に発展したが、1795年の第3次ポーランド分割により、国全体が完全に滅亡してしまう。1918年に分割時代を終え首都として復活を遂げるが、第二次世界大戦時には再びナチス・ドイツ軍の圧政支配を受ける。戦後はワルシャワ条約機構に加盟するなど、社会主義国家の中心として復興し、1989年には民主化、ワルシャワはかつて「北のパリ」と呼ばれるほど洗練された美しい街でした。しかしドイツ戦略群に対して市民が一斉蜂起を起こしたことによって殆どの建物が跡形もなく破壊されてしまいました。現在の旧市街に広がる一見古い街並みは、戦後にワルシャワ市民が過去の絵や写真、記憶を元に忠実に再現して復元されたものと言われています。

12日9:00バスで出発、ジェラゾヴァ・ヴォラ観光

ジェラゾヴァ・ヴォラ:ワルシャワから西に約54kmのところに、ジェラゾヴァ・ヴォラという村があります。車だと1時間半ほどの距離ですが、ワルシャワの喧騒とは全く違うのどかな田園風景が広がっています。ここはポーランドが誇るピアノの詩人、フレデリック・ショパンが生まれたところです。

ショパンの生家:ショパンは、ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家です。当時のヨーロッパではピアニストとしても有名であり、作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占めているため、「ピアノの詩人」ともいわれています。
彼の生家は、広大な緑溢れる庭園の中にひっそりと建っています。残念ながら、19世紀初頭の当時の建物は消失してしまっていますが、家具や内装は、彼が生まれ育った当時のまま忠実に復元され、一般公開されています。生家の周りは、ポプラ並木の続く長閑で美しい公園として整備されていて、訪れた人々を癒してくれる空間になっています。

ワルシャワに向かう。

ワルシャワで昼食:和食

午後市内観光

王宮:「ワルシャワ王宮」は、ワルシャワ旧市街にあるバロック様式の宮殿です。ポーランド王ジグムント3世の居城として16世紀末に建造されました。他の建造物と同様に、ワルシャワ王宮も戦後市民の手によって復元されたものです。
しかし調度品類などの貴重な物は国外で保管されていたため戦禍を免れ、現在でも当時のものを見物することができます。ヨーロッパの名匠達によって生み出された数々の美術品や装飾品は、豪華絢爛そのものです。

聖アンナ教会:ポーランド、ワルシャワの旧城広場に隣接し歴史的中心部にある教会で、新古典主義のファサードを持つポーランドの最も著名な教会の一つです。この教会は、1454年マゾフシェ公爵夫人アンナ・フョードロヴナが、ベルナルド会のための修道院として設立しました。ワルシャワで一番重要な教会で、カトリックの祝日に行う行事はすべてここで行われています。教会のタワーの上からはワルシャワの美しい景色が一望できる人気スポットです

プライベートコンサート:『ショパンサロン』は、1910年に建てられた歴史あるコンサートサロンで、かつてポーランド大統領や政治家も住んでいた歴史ある建物にあります。
演奏するのはコンクール入賞者などポーランドで活躍する音楽家達。彼らが奏でるショパンの曲を中心とした素晴らしい演奏を破格でお楽しみいただけます。
かのショパンは大きなコンサートホールでの演奏会よりもサロンコンサートで演奏することを好んでいました。サロンコンサートの文化はショパンの気持ちを継承しているとも言えます。

ホテル到達後就寝。

13日9:00歩いてワルシャワ市内観光

ワジェンキ公園:「ワジェンキ公園」は、ワルシャワ市中心部よりもやや東側にある公園で、池のほとりに建設されたワジェンキ宮殿が公園の名前の由来となっています。
この公園は、ヨーロッパの公園の中でも美しさが有名で、バラの庭園やショパン像などがあります。中でもショパン像はワルシャワを代表するシンボルの1つとしても有名で、夏の間は毎週日曜日には1日2回、このショパン像の下にてショパンコンサートが行われます。

ワジェンキ宮殿:ワジェンキ公園内の池のほとりにたたずむ宮殿です。まるで、池の水に浮かんでいるような美しい景観から、別名を「水上宮殿」とも呼ばれています。
現在、宮殿は国立博物館の分館として使用され、一般公開されています。もともとこちらの宮殿は、ポーランド王家が夏に過ごすための宮殿として建設されましたが、第二次世界大戦により破滅的な被害を受け、現在の美しい宮殿の姿はワルシャワ市民が精密に復元したものです。

キューリ夫人博物館:「キュリー夫人博物館」は、ノーベル賞を受賞した、キュリー夫人にまつわるものを展示している博物館です。
キュリー夫人は、放射線に関する研究で、ノーベル物理学賞とノーベル化学賞を受賞しています。この博物館はそのキュリー夫人の生家であった建物で、キュリー夫人が実際に使用していたとされる、実験に用いた機材や、机など様々なものが展示されています。

ワルシャワ歴史博物館:14世紀初頭から今日までの、ワルシャワの歴史に関する貴重な資料が展示されている。館内の映画室では第二次大戦当時の記録映画も上映されている。

バルバカン:ワルシャワの建設は13世紀頃より始まり、その発展はめざましく、北のパリと呼ばれていました。しかし、第二次世界大戦によりワルシャワの約8割は消失してしまいます。
その後、ワルシャワ市民が復興に立ち上がり、煉瓦のヒビに至るまで精密に再生し、見事に当時のワルシャワを復元したのです。その功績が認められ、ワルシャワは現在世界遺産に登録されています。
また、そのワルシャワには16世紀に作られたバルバカンと呼ばれる外敵との戦いのために造られた要塞を見ることができます。

旧市街市場公園:旧市街市場広場は王宮に面していて、王宮広場とも呼ばれるようです。ワルシャワ中央駅から北東方向に30〜40分程歩いた位置にあります。

洗礼者ヨハネス大聖堂:14世紀に建てられた洗礼者ヨハネ大聖堂は、ワルシャワで最も古い教会で、レンガ造りのファザードが印象的な建物です。
洗礼者ヨハネ大聖堂は、歴代の王の戴冠式やヨーロッパ初の成分国民憲法5月3日憲法(1791年5月3日に採択されたため)の発布式が行われた場所でもあり、その他ポーランドにおける国家的行事が数多く執り行われてきました。また、ポーランド王国最後の王スタニスワフ2世アウグストやポーランドの著名な歴史人も埋葬されているポーランド国内において重要な場所の一つとされています。
洗礼者ヨハネ大聖堂もワルシャワ歴史地区の他の建造物同様、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍によって破壊されてしまいます。現在の建物は、大戦後再建されたもので、ネオ・ゴシック様式で再建されています。
現在、聖堂内ではオルガンのコンサートが開かれており、観光客だけでなくワルシャワ市民も足を運ぶ、観光スポットとなっています。

クラクフ郊外通りから新世界通り:「クラクフ郊外通り」は、ワルシャワのメインストリートです。王宮広場から南に伸びる道になっています。聖十字架教会やワルシャワ大学などの歴史的な建造物がのきを連ねていて、おしゃれなショップやカフェも立ち並ぶ観光を楽しめるストリートになっています。ピアノの詩人と呼ばれるショパンも、かつてはクラクフ郊外通り付近に居住していたと言われていて、聖十字架教会にはショパンの心臓がまつられています。
「クラクフ郊外通り」をさらに南下すると、現地の方にワルシャワの銀座として親しまれている「新世界通り」があり、ワルシャワ観光の際は必見でしょう。

大統領官邸:ポーランドの主都ワルシャワにある大統領官邸には英雄ユーゼフ・ポニャトフスキ像が立っています。ユーゼフ・ポニャトフスキは、ナポレオン1世の下で将軍として活躍した人物。
プロイセン王国によりポーランドは分割されてしまいましたが、ナポレオンがプロイセンに戦争で勝つのを見て、彼なら祖国を再興してくれると思い、ポーランド軍を率いてナポレオンの指揮下に入りました。
その後、ナポレオンがワルシャワ公国を建国した際に、ユーゼフ・ポニャトフスキは軍司令官となります。
現在は大統領官邸として使われているこの建物は、もともとは貴族ラジヴィウ家の館でした。1765年に館の一部が劇場として開放されるようになり、ポーランドで初めてのオペラが上演されることとなります。
ちなみに、ポーランド出身の天才ピアニストであるあのショパンも、ここで演奏会開いたそうです。
ポーランドの大統領官邸として使用されるようになったのは1994年と最近の事になります。

ヴィジトキ教会:ワルシャワ大学の隣、18世紀、バロック様式の教会。大戦の被害にあわず、学生時代のショパンが、日曜のミサでオルガン演奏をしていたことで有名です。

ワルシャワ大学:ワルシャワ大学は市内の最高学府です。この近代的な学術拠点には数万人の学生が籍を置き、敷地内には多くの歴史的な建物が並びます。キャンパスのネオクラシカルな建物を見学して、長い並木道を散策し、優美な中庭や手入れの行き届いた庭園を鑑賞しましょう。
1816 年に設立されたワルシャワ大学の卒業生には、フレデリック ショパン、ジョセフ ロートブラット、ダビド ベングリオンなど著名人が並びます。第二次世界大戦中は大学の敷地がドイツ軍の兵舎として利用され、多くの建物が破壊されました。
現在の平和なキャンパスは、ポーランドの頭脳明晰で元気いっぱいの若者たちと触れ合える場所です。講義や授業に出席し、晴れた日には屋外で勉強する学生たちの姿が見られます。
中央キャンパスの敷地を歩いて、バロック様式のウルスキ家の宮殿など豪華な建物を見学しましょう。ほかにも一見の価値のある建物に、旧図書館やその正面のエレガントな庭園と壮大なカジミエシュ宮殿があります。17 世紀に王室の別荘として建設されたカジミエシュ宮殿は、大学内最古の建物であり、現在は学長室として使われています。館内には、大学の歴史に関する博物館があります。
ワルシャワは有名な英雄の記念碑があちこちにありますが、大学の敷地内にも、ある謙虚な学生を讃える銅像があります。ベンチに腰掛けるこの銅像の隣に座って日光浴をしましょう。
ワルシャワ大学図書館のインパクトの強い建築には目を奪われます。外壁を伝って伸びる草花や、ぜいたくな屋上庭園を堪能しましょう。ここではエキゾチックな植物に囲まれて一休みをしたり、ワルシャワ市内を一望できる眺めを楽しめます。

チヤプスキー宮殿:チャプスキ宮殿はワルシャワ大学の正面、聖十字架教会の隣に位置しています。現在は美術大学となっていますが左側3階にはショパンが1827年からポーランドを離れる直前まで住んでいた場所として知られています。
17世紀のバロック様式の建物は、クラシンスキ宮殿とも呼ばれていますがこの宮殿も第2次世界大戦中に破壊されてしまい、戦後に再建されたものです。

聖十字架教会:「聖十字教会」は、ピアノの詩人として名高いショパンの一家が通っていた教会として、世界的に有名です。
この教会は、ユゼフ・ベロッティによって17世紀後半に建てられました。その後第二次世界大戦によって被害を受けましたが、戦後に再現され、現在に至っています。
教会の前には、地動説で有名なポーランドの偉人、コペルニクスの像が設立されています。
そしてこの教会には、本堂左の石柱の下にショパンの心臓も安置されていて、音楽ファンにも大人気の教会となっています。

コペルニクス像:ポーランドの歴史的な有名人として、どんな人物が思いつくでしょうか?世界史の教科書に出てきそうな人物としては、コペルニクス、ショパン、キュリー夫人、といったところでしょうか?やはり、コペルニクス像もありました。地動説で有名なコペルニクス(1473〜1543)です。
天球儀を持ったこのコペルニクス像は、1830年に建てられています。ナチス・ドイツ時代にはこの像も取り払われていますが、戦後元の場所に戻されました。ポーランド、特に、ワルシャワは、なにかにつけ、ナチス・ドイツの痕跡が刻まれています。 背後の建物は昔の貴族の館でしたが、現在はポーランド科学アカデミーとなっています。

ショパン博物館:「ショパン博物館」は、ポーランドを代表する作曲家であるショパンにまつわるの楽譜や生活用品などの展示がしてある博物館です。
ショパンは、本名をフレデレック ショパン(F ショパン)という19世紀の音楽家で、ピアノの詩人と呼ばれています。ショパン博物館は、ワルシャワの歴史地区(旧市街地)よりもやや南側に位置し、地下鉄二号線(東西線)のUniwersytet駅、バスを使用する場合、Ordynackaというバス停が最寄り駅になります。

国立博物館:ワルシャワ国立美術館は、戦争の合間を縫って建設された巨大な建物。80 万点以上の膨大なコレションを収蔵しています。古代の遺物、彫刻、版画、写真、装飾デザイン品などあらゆるものがコレクションに含まれています。中世美術の代表作、ヨーロッパの巨匠の作品、ポーランドおよび周辺国の肖像画、さらにはヌビア族の絵画まで幅広い作品を見ることができます。
館内へ入って多くの展示室を見て回りましょう。館内はしゃれた現代的なデザインで、LED 照明が絵画に光を当てています。さまざまな作品を解説する英語の情報パネルを読んだり、インタラクティブな展示を楽しんだりできます。
ヨーロッパをテーマにした展示室では、何世紀にもおよぶポーランド美術の発展の歴史をたどりましょう。展示品の中でも特に有名で人気がある作品は、ヤン マテイコの 1878 年の作品グルンヴァルトの戦いで、高さ 426 cm、長さ 987 cm という大作です。ポーランドの国民的名作ですが、第二次世界大戦中はナチスの格好の標的となり、ポーランド地下組織の一員はこの絵の隠し場所をドイツ人に明かさなかったために殺されたといわれています。この作品をはじめ、いくつもの略奪された名画が戦後この博物館によって回収されました。
一休みするなら中庭へ。この快適な空間は戦時中の館長スタニスワフ ロレンツ博士にちなんで名付けられています。ロレンツ博士は戦時中に秘密工作を組織して、コレクションの中の多くの名作を安全に守り通したと言われています。静かな池の隣にあるカフェでコーヒーとケーキを楽しんだり、建物の裏にあるかつて王室の庭園だった公園でのんびりしたり。

軍事博物館:ポーランド軍事博物館は、ワルシャワの中心地にあるポーランド博物館に隣接した、第二次世界大戦以降に採用された戦車や軍用機が敷地の庭一面に敷き詰められた世界的にも珍しい軍事専門の博物館。施設内には中世から現代までの軍事的資料が展示され、列強に挟まれ常に戦火に見舞われてきたポーランドの軍事的な一面を学ぶことができる。

文化科学宮殿:「文化科学宮殿」は、ワルシャワのちょうど中心部に位置する時計台で、42階建てと超高層になっています。入場にはチケットが必要で、30階には展望テラスがあり、天気の良い日にはワルシャワの街並みを一望できます。
また、夏季の特別期間には入場料が少し値上がりしますが、20時以降にも入場することができ、夜のワルシャワを見渡すことが可能です。
ワルシャワ中央駅から歩いて行くことができ、交通の便も良いため、ワルシャワ観光の際はぜひ訪れてみて下さい。

サスキ公園:手入れの行き届いた芝生、花の咲き乱れる花壇、優美な彫刻のあるサスキ公園は、エレガントで丹念に管理されている市内最高の緑地帯のひとつ。かつての王室の保養地は、現在では市の中心部にある公園として閑静な憩いの場になっており、犬を散歩する人や家族連れ、散策をする人に人気です。
園内を歩き回って、その歴史に思いを馳せましょう。そもそもはアウグスト 2 世モツヌィ国王が王室の庭園として選んだ場所で、18 世紀に公園として開園しました。旧市街の郊外に位置するこの辺りはかつて “Saxon Axis” と呼ばれ、いくつもの公園がありました。
地元の人々に混じって、公園の心地よく格式ある雰囲気を満喫しましょう。整然とした栗の木の並木道を散策して、精緻なバロック時代の彫刻を鑑賞しましょう。それぞれ美徳、科学、元素をあらわす寓話的人物を表しています。この公園の中心的存在は巨大なマルコーニ噴水。19 世紀に増設された優美な噴水です。子供たちには噴水の近くにある大きな日時計を見せて、ありあまるエネルギーは園内の遊具で発散させてあげましょう。ピクニックの用意をして園内で食べたり、芝生にただ寝転んでも。
第二次世界大戦によって破壊される前のサスキ公園周辺、さらにはワルシャワ市全体の景観は、今とはまったく違ったものでした。無名戦士の墓は、戦争で失われたすべてのポーランド人の命を追悼する記念碑。公園の隅にあるこの記念碑は、かつては壮大な建物だったサスキ宮殿の唯一現存するアーチに守られています。この宮殿自体も第二次世界大戦の戦禍で失われました。宮殿に代わって、今はピウスツキ元帥広場という広場になっており、抗議運動、デモ行進、イベントのために人々が集まる場所です。

夕食は歴史的建造物でのレストラン

就寝

14日7:10ワルシャワ空港ルフトハンザ航空で出発
8:55フランクフルト空港到達
13:45フランクフルト空港ルフトハンザ航空で出発
15日7:45関西国際空港到達。

今回の旅行、中欧に位置するポーランドに足を運び、11世紀中ごろから16世紀末までポーランド王国の首都として栄えた古都で、日本では「ポーランドの京都」と呼ばれ、第二次世界大戦中にドイツ軍の司令部が置かれており、戦火を逃れた街並が世界遺産に登録されているクラクフ、ホロコーストでの最大の強制収容所アウシュビッツ、当時のヨーロッパではピアニストとしても有名なショパンの生家、クラクフ(Krakow)の近くの、世界遺産のヴィエリチカ岩塩坑、
ポーランドの首都であるり、南北に縦断するヴィスワ川を有する町、街の始まりは13世紀。1596年以降はポーランド王国の首都として急速に発展したが、1795年の第3次ポーランド分割により、国全体が完全に滅亡し、1918年に分割時代を終え首都として復活を遂げるが、第二次世界大戦時には再びナチス・ドイツ軍の圧政支配を受け、戦後はワルシャワ条約機構に加盟するなど、社会主義国家の中心として復興し、1989年には民主化、かつて「北のパリ」と呼ばれるほど洗練された美しい街でしたがドイツ戦略群に対して市民が一斉蜂起を起こしたことによって殆どの建物が跡形もなく破壊されてしまいました。現在の旧市街に広がる一見古い街並みは、戦後に市民が過去の絵や写真、記憶を元に忠実に再現して復元されたものと言われていますワルシャワを訪れ楽しみました。

ポーランドで最も世界的に有名なアウシュビッツ、大量虐殺の収容所、当時の悲惨な光景を目の当たりにし、このような恐怖の出来事は二度と起こしてほしくないですね。

ショパンの生家、広大な敷地の公園にある生家、ポーランドでショパンの」偉大さを物語るものでした。

ヴェリチカ岩塩、地下深く広範囲に掘られた採石場、かなり観光化され、テーマパークのような楽しめる観光名所でした。

ポーランドの歴史を物語る2大都市ワルシャワとクラクフ、郊外の観光名所アウスピッツ、ショパンの生家、ヴェリチカ岩塩の観光、8日間の旅満喫しました。






































 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十二弾:長野県お城・城下町巡り観光
2018年8月4−5日


本州の中心部に位置し、日本アルプスの山岳に囲まれ「神が降りる地」と呼ばれるほど美しい上高地に代表される自然の宝庫。槍ヶ岳や霧ヶ峰など四季折々の表情を見せる名峰に加え、山々に抱かれた温泉地も多く、白骨温泉、湯田中温泉、渋温泉、野沢温泉といった名高い温泉地が点在しています。また、長野市には「一生に一度は善光寺詣り」とうたわれた善光寺があり、松本市には国宝松本城が鎮座しています。おやき、そばといった素朴な郷土料理が多いのも特徴的な長野県に足を運び長野県に点在する比較的マイナーなお城9か所を訪れました。

4日13:53新大阪駅新幹線のぞみで出発
14:50名古屋駅到達
15:00特急しなので出発
18:05長野駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
5日8:00レンタカーで出発。お城巡り。

井上城:築城年代は定かではないが井上氏によって築かれたと云われる。 井上氏は鎌倉時代に清和源氏頼信の子頼季がこの地に来住して井上氏を称したのが始まりとされる。

鎌倉時代から南北朝時代にかけての活動は詳らかではない。室町時代に入ると井上十六郷の井上政家、小柳・亘理の井上政満、長池郷の井上為信などが登場する。戦国時代には井上氏は衰退しており、綿内井上氏が須田信正に属していたといわれる。

飯山城:築城年代は定かではないが泉氏によって築かれたと云われる。 泉氏は鎌倉時代に泉小次郎親衡が鎌倉より飯山へ逃れて土着し、泉氏の祖となったと伝えられる。

永禄7年(1564年)頃、上杉謙信は飯山城を改修して武田氏の侵攻に備えた。 その後、武田信玄は長沼城を拠点として飯山城攻略を目指したが、飯山城が落城することはなかった。

その後、武田勝頼の時代に武田氏の属城となったが、天正10年(1582年)武田氏が滅亡した後は織田氏が占拠した。しかし、本能寺の変により織田勢が退くと上杉景勝の所領となり、家臣岩井信能が城主となった。慶長3年(1598年)上杉景勝の会津転封に従い岩井氏は会津に移った。


霞城:築城年代は定かではないが大室氏によって築かれたと云われる。

天正10年(1582年)武田氏滅亡後、織田信長の武将森長可に従ったのもつかの間、信長も本能寺の変に倒れ、越後の上杉景勝にに従った。

慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封となると大室氏もこれに従って移り千五十石を領した。

鷲尾城:鷲尾城は倉科の石杭地区の北背後に聳える標高520m程の山に築かれている。

主郭は板状の石を高く積み上げた石積がほぼ全周しており、南端に虎口を開く。主郭の西から南に犬走があり、それが虎口へと繋がっている。主郭から北東へ伸びた尾根は自然地形に近い曲輪があり、二箇所を二重堀切で遮断している。また、主郭から北西に降りる尾根にも堀切、さらに下方に小さな平段が連なっている。

主郭から少し登った所に前方後円墳である倉科将軍塚古墳があるが、この古墳を曲輪として東背後の尾根に二箇所大堀切を設けている。

葛尾城:築城年代は定かではないが南北朝時代末期頃に村上氏によって築かれたと云われる。 村上氏は清和源氏頼信流で嘉保元年(1094年)に源盛清が信濃国更級郡村上郷に流罪となり、その子為国が村上氏を称したことに始まるといわれる。

戦国時代の村上義清の頃には北信濃一帯に勢力を拡げ、天文17年(1548年)の上田原合戦、天文19年(1550年)の戸石城合戦と甲斐の武田信玄を二度敗っている。しかし、天文20年(1551年)戸石城が武田信玄に与していた真田幸隆によって落城し、天文22年(1553年)には一族の屋代氏などが武田氏方に寝返るなど圧迫され、村上義清は越後の上杉謙信を頼って落ち、葛尾城は自落した。その後、義清は越後の援軍を得て葛尾城を攻め落とし、塩田城に入って再帰を計ったが武田氏に敗れ再び越後へ落ちていった。

戸石城:本城、桝形城、米山城の総称。

真田館:築城年代は定かではない。伝承によれば真田信綱の居館とされる。 真田氏累代の居館と考えられており、天正11年(1583年)真田昌幸が上田城を築いて居城を移すまでの居館であった。

昌幸が上田城に移ったあとに屋敷跡に勧請したのが皇太神社と伝えられる。

平賀城:築城年代は定かではないが平賀義信によって築かれたと云われる。 平賀氏は新羅三郎義光の子義盛が平賀に館を構えて平賀冠者を名乗り、その子義信によって平賀城が築かれたと伝えられている。
義信の長男惟義は伊賀国守護を務めて大内冠者と呼ばれ、二男平賀朝雅は北条時政の娘を娶り京都守護職を務めるなど、源頼朝に従って要職を務めた。

応永7年(1400年)大塔合戦では佐久郡の他の国人領主とともに、守護小笠原長秀と戦っている。その後、小笠原氏系の大井氏と争うようになり文安3年(1446年)大井氏によって滅ぼされたと云う。

龍岡城:文久3年(1863年)(大給)松平乗謨によって築かれた。 乗謨は三河国奥殿藩八代藩主で三河国に四千石、信濃国佐久郡に一万二千石の合わせて一万六千石を領していた。飛領地である佐久郡の所領を管轄する陣屋ははじめ三塚村に置かれていたが、宝永6年(1709年)以降に田野口村に移されていた。

文久3年(1863年)領地が手狭で大半の所領が佐久郡にあることを理由に居城を移す事を許され築いたのが龍岡城で、日本ではここと北海道にしか存在しない稜堡式五稜郭として縄張された。慶応3年(1867年)完成し田野口藩となったが、明治維新直前に龍岡藩と改称され、財政困窮を理由に廃藩置県前に廃藩となった。

16:30終了。
17:00長野駅特急しなので出発。
20:50名古屋駅到達。
21:05名古屋駅新幹線のぞみで出発。
21:55新大阪駅到達。

今回の旅行、本州の中央に位置し、日本アルプスに囲ませ、自然の宝庫、長野県に足を運び長野県に点在する比較的マイナーなお城9か所をおとずれ楽しみました。
山城が多く、一部は公園に変貌していました。今回も比較的地味なお城巡りでした。