飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十三弾:大分県九州四十九院薬師巡礼&重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年1月26-27日
 

九州の大分県に足を運び、大分県に点在する九州四十九院薬師霊場8か所、重要伝統的建造物群保存地区3か所臼杵、佐伯、豊後竹田を訪れました。

26日18:00伊丹空港出発
19:00大分空港到達、レンタカーで別府方面のホテルに向かう。
20:00ホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
27日7:30レンタカーで出発。霊場、重要伝統的建造物群保存巡り。

観海寺:口碑に曰く、奈良時代・養老二年(元正天皇)約一二八〇年前仁聞菩薩始めて錫を此地に駐め温泉を拓き、諸々の病者して入浴せしめ後、丘に一宇を建立し観海寺と称す。當時一刀三?の薬師如来の尊像を彫刻し本尊仏となす。

とあり奈良朝、六郷満山を開いた僧、仁聞の開基とされております。

現在の観海寺は昭和13年に再興されたもので禅宗系・曹洞宗です。

新しい資料では豊後の国主大友宗麟の古文書が発見され、約440年前に当観海寺が有ったことが証明されました。

当寺には後白河法皇の第3皇女・式子内親王(百人一首和歌の名手)御墓や、幕末の有志二条義実公御墓・特攻撃隊憩翼の碑があります。

大山寺:

神護寺:

龍興寺:創建は延文3年(1358)大友七代泰氏が大野川をさかのぼった川添村に建立、高獄禅師を招いて開山した。

当初は大友氏の祈願所であったが、宗麟の重臣・吉岡宗歓が鶴崎に居城を構え、城下町を整備したとき龍興寺を近くの三軒町に移した。

元禄元年(1688)湛堂和尚が堂宇を再建、師の柏翁祖棟を請うて中興開山した。ついで大用素道和尚の代に弁財天をまつり、鎮守堂・地蔵堂など建立、壮大な伽藍美を誇ったが、その一方で河川の氾濫に悩まされていた。

降って、昭和7年にようやく大野川改修工事が行われ、龍興寺も現在地に移転することになったが、この間に歴史的事件が勃発した。
その一つが明治7年に起こった熊本藩士の仇討ち、また昭和の工場誘致にからむ割腹事件などもそうで、いずれも龍興寺が悲劇の舞台に利用されたという。

當陽寺:中世以降、大友氏が所領して戦国大名に成長、二十一代宗麟の代には、九州北部の六カ国を有す大大名となった。
当時の宗麟は、ポルトガルや明国と貿易、またキリスト教を信仰して、自ら洗礼名ドン・フランシスコと名乗った。

天正9年(1581)南国の覇者・島津義久の軍勢を迎えて宗麟は、自ら十字架の旗を座かせて日向国に出陣した。この道中、キリスト教を奉信する兵士のなかには、所在の社寺を破壊する者もあったという。

當陽寺もそうした輩に焼討ちされて、文書などを焼失した。創建は定かでないが、寛文年間(1661〜73)河野九兵衛が再建して、丹生中村の庄屋・池見家の門を移した。

当時は、臼杵月桂寺の末に属す。

島津氏に敗退した宗麟は、天正元年(1573)家督を義統に譲り、臼杵城を築いて隠居した。同14年、島津軍の攻撃に遭って義統は、府内城を出て豊前竜王城に逃れた。當陽寺が焼討ちに遭ったのはこの戦か、世に「水丸合戦」ともいう。

河野九兵衛は、伊予河野氏の一族である。

臼杵:現在の臼杵の街並みは、美濃(岐阜県)から慶長5年(1600)に入封した稲葉氏によって築かれたもの。江戸時代は臼杵藩5万石の大名であった稲葉氏は、明治までの約270年間にわたって臼杵を統治した。

大きな特徴として挙げられるのは、臼杵城を中心に商家が立ち並んでおり、その外側を武家屋敷や寺院が取り囲んでいるところ。屋敷や記念館などを城の周囲を回るように散策してから、最後に臼杵城址へ行くのがおすすめだ。

臼杵(うすき)の城下町には、江戸時代の風情を残す細い道が残っています。そんな曲がりくねった道やカギ型通りなどを、ぶらぶらと歩くのが臼杵の楽しみ方です。歴史深き街の中でも、「二王座歴史の道」は特に雰囲気のある場所で、二王座は徳川3代目将軍・家光の乳母である春日局(かすがのつぼね)が、一時住居にしたといわれます。石畳の路地に、白壁の武家屋敷や古い蔵、寺院などが軒を連ねています。

二王座にある「旧真光寺」は無料休憩所兼ギャラリーとして開放されており、2階から二王座歴史の道が一望できます。特に雨の日は、濡れた石畳が黒く光り、より風情を感じられる景色が広がります。

佐伯:バスターミナルのある大手前(大手門跡)から山際通りを通って養賢寺へと至る700メートルほどの道のりは、「歴史と文学の道」として整備されています。落ち着いた雰囲気のこの通りは、城下町としての街並みを残し、道沿いには豊後佐伯城で現存する唯一の遺構である「櫓門(やぐらもん)」などの歴史スポットに加えて、「国木田独歩館」や明治期のジャーナリスト・矢野龍渓の生家跡など、文学的な施設も並びます。

時間と体力に余裕がある人は、歴史と文学の道を少し外れて、豊後佐伯城の跡地である「城山」に足を運んで。ひっそりとした照葉樹林の中に残された石垣と、頂上から遠く四国の山々までを望む眺望は、散策の目的としてもおすすめできますよ。

豊後竹田:大分の玄関口であるJR『大分』駅から豊肥本線に乗って約1時間30分、大分県竹田市(たけたし)は人口約2万3000人の小さなまちだ。

小さいながらも観光資源は実に豊富で、かの作曲家・瀧廉太郎が『荒城の月』の構想を練ったとされる岡城の城壁が今も残されており、岡藩時代の繁栄ぶりを窺わせる城下町のまち並みには『武家屋敷通り』と呼ばれる石垣と土塀の路地が続く。また、近年では『竹田の隠れキリシタン』のミステリーが話題となり、全国からこの小さなまちに観光客が押し寄せている。

正平寺:崇竣天皇御即位元年(西暦587年)釈正覚上人が初め犬ヶ岳に長福寺を創立し、その後寺を当山に移し一寺を建立したのが当寺の開創である。

天平勝宝四年(752年)勅願所と定められ、以来山を「桧原山」、寺を「正平寺」と称するようになった。安和二年(969年)大講堂が建立され、以来、国府の所管するところとなり、鎮護国家の祈願道場として豊前山岳仏教の修験霊場として英彦山・求菩提山と共に隆盛をきわめた。

大字中畑、福土の二村が寺領であったが、黒田氏中津城主の時(1587年)米百石を附して没収された。細川、小笠原氏を経て、奥平氏に至り、山上における全ての堂宇の営繕を負担され、奥平富之進昌高氏は天明七年(1787年)上宮本堂を建立された。

明治初年正平寺を本寺として九ヶ坊の末寺を有したが、明治維新の変革により山林全部を国有林に編入され、明治11年3月庫裡消失、同21年山火事により上宮本堂を焼失したため、石龕三宇を建立して本尊を安置している。明治23年宗達により大分県下一円福岡県京都郡と併せて天台宗務支所となった。

明治29年、又不幸にして大講堂・鐘楼・みこし三体・当寺縁起、その他宝物一切を焼失し、現在の講堂は明治35年に復興したものである。平成13年、県下最大の梵鐘が復興された。

県指定無形民俗文化財である「お田植祭」は神仏習合の名残をいまに伝える貴重な行事である。


長安寺:

岩戸寺:

17:00大分空港に向かう。
18:00大分空港到達。
19:30大分空港出発。
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の大分県に足を運び、大分県に点在する九州四十九院薬師霊場8か所、重要伝統的建造物群保存地区3か所臼杵、佐伯、豊後竹田を訪れ楽しみました。
霊場は今回もそれほど大きくなく中規模で地味でした。
重要伝統的建造物群保存地区は何回か訪れたことがあり再確認できました。
今回で九州四十九院薬師を無事制覇しました。
 




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十二弾:佐賀県九州四十九院薬師巡礼観光
2019年1月19-20日


西の九州の佐賀県にに足を運び、九州は古来、日本の大陸への玄関口として、東南アジアへの窓口として、先進的に数々の新しい文化を取り入れて参りました。 首都圏であった奈良や京都に先だって、新しい文物に接する機会にも恵まれていたと思います。 かっては、燃えるような熱情に溢れる数多くの求道者たちが、この地に留まり、やがて西の国をめざして旅立ちました。 そして帰途、都への道すがら、命がけで求めた新しい実りを随所に遺されました。九州各地には、それらの足跡が点在しております。 薬師信仰は、人々の病の苦しみからの解脱を願う、仏教伝来とともに根づいた、切実にして身近な信仰であります。 この薬師信仰と九州ならではの仏剃を一体化して、新しく「九州四十九院薬師霊場会」を制定し、全国に巡礼の呼び掛けをいたすこととなりました。佐賀県に点在する九州四十九院薬師13か所をおとうれとずれました。

19日13:42新大阪新幹線のぞみで出発
16:10博多駅到達、レンタカーで霊場巡り。

大興善寺:奈良時代養老元年(717年)行基菩薩がこの地に草庵を結び、一刀三礼にて十一面観世音菩薩を刻まれ、安置なされたことを以って開創としています。

青龍寺:

昌元寺:

15:30甘木市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
20日7:00レンタカーで出発、霊場巡り。

永勝寺:

持光寺:

寶林寺:当寺の開山はきわめて古く詳らかではありませんが、寺伝には和銅四年(711)行基菩薩の建立とされ、行基菩薩開山の墓石があります。
その後、平安末期、龍造寺二代季喜氏の実兄・覚阿禅師によって再興されたといわれております。

常福禅寺:遠く平安朝のころに開創され、1千年来の法燈が輝く広厳山常福禅寺は臨済宗南禅寺派に属し、肥筑の平野を一望する山腹の風光明媚の地にある。かつては真言密教の霊場とされ、奥の院の宝殿や古い堂宇の敷地跡は、この古い寺の歴史を物語っている。

安福寺:寺伝によると、聖武天皇の代(724?49)一人の猟師が白鹿を射ったところ、白鹿はたちまち金色の光を放って消え、あとに石の観音菩薩像があり、矢はその腹に刺さっていた。これを見た猟師は多年の殺生を悔いて出家、庵を結び、法弓と号して修行三昧に暮らしていたという。

東光寺:求法を終えて唐から帰朝した弘法大師(空海)が巡錫の砌り、大同年間(806?10)黒髪山に西光密寺(現大智院)を創建されたとき、その末寺として東光坊を建立したと伝えられているが、阿忍僧都をもって中興開基としている。
鎌倉時代には、黒髪三所大権現と称して修験の道場となり、武雄領主後藤氏の祈願所として栄えた。

妙法院:妙法院の宗派は役の小角行者尊を開祖とする、金峯山修験本宗です。往時は天台宗に属していましたが、昭和23年に独立、同27年に宗名を金峯山修験本宗と改めました。
総本山は、千本桜で有名な奈良は吉野にあり、本堂蔵王堂は国宝になっております。山岳仏教とも云われるように、霊峯での修行を信仰の中心においております。

来雲寺:『唐津市誌』に、来雲寺はもとから天台宗ではなかった。『拾風土記』の寺院名寄によれば、曹洞宗の条に、龍源寺の末寺、元和8年(1622)4月、志摩守の創立と伝う。
龍源寺は、いまも東寺町にある。
その後、明治維新に衰微したのを山下亮永師が再興して天台宗にあらためた。境内に志摩守の子寺沢式部大夫の墓がある。

医王寺:芙蓉山、医王寺は永徳3年(1383)秋、 松浦党(中世時代に北西部九州を中心に活躍した武士の集団)上松浦の党主で岸岳城主波多安房守、源武が日本曹洞禅宗の開祖、道元禅師第七世の法孫、無着妙融大和尚(真空禅師)を開山として迎え建立された寺院で、波多家の全盛時には、寺領450石、一里四方を境内とし、安居の修行僧1000人を数え、曹洞宗九州三か寺(無着派の三本山)の一つといわれた、末寺三十九か寺を持つ巨莉である。現在の住職で41代目に当り600有余年(禅宗寺院として)歴史を持つ寺である。

見明寺:

17:00終了博多駅に向かう。
18:00博多駅到達。
18:33博多駅新幹線のぞみで出発
21:01新大阪駅到達。
今回の旅行、西の九州佐賀県に足を運び佐賀県に点在する九州四十九院薬師13か所を反時計回りで訪れ楽しみました。
それぞれの霊場は中規模で、比較的回りやすかった。

  








 
 飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十一弾:マカオ観光
2019年1月12-14日
 

中国広東省南部、珠江デルタの西岸に位置し、中国本土の珠海に隣接、香港からは西に約60kmの距離にあります。マカオ半島とタイパ、コタイ、コロアンから成る島で構成されています。マカオ半島は地域の中心で、タイパとは3つの橋で結ばれています。タイパとコロアン間の埋め立て地に新しく開発されたコタイ地区には、多くの大型国際リゾートホテルがあり、新しいインフラも整備されつつあります。16世紀半ば、ポルトガル人が上陸し定住しました。それ以来マ建築、アート、宗教、伝統、料理、地域社会は、東洋と西洋、中国とポルトガルの各文化を融合した色彩を持っています。1999年12月20日、中華人民共和国の特別行政区となり、「一国二制度」の原則の下、高度な自治権を行使しています。埋め立て地に多くの複合施設が建てられるとともに面積も拡大し、新しい観光スポットも増えています。2005年に「マカオ歴史市街地区」は、その独自の歴史的・文化的景観により、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。国際的観光地としての質を高めつつあり、「世界観光の中心地」と位置づけようとしていますマカオのタイパ、コタイ、コロアンを訪れました。

1月12日17:55関西空港キャセイパシフィック航空で出発
21:35香港空港到達。エアポートエクスプレス鉄道で香港駅に向かう。
22:30香港駅到達。タクシーで市内のホテルに向かう。
23:00ホテル到着就寝。
13日7:30ホテル出発、上環のマカオフェリー乗り場に向かう。
8:50高速艇でマカオタイパに向かう。
9:50マカオタイパ到達、バス、で観光。
タイパ:かつて漁村だったタイパ・ヴィレッジは、その懐かしい雰囲気と賑やかさが同居する不思議で魅力的な街。パステルカラーのグリーンやイエローの家々がポルトガル風で可愛らしくて、ついつい立ち止り写真を撮りたくなります。狭い路地の官也街には行列のできるグルメ店も多く美味しい発見がいっぱい! 
お腹がいっぱいになったら、島の歴史がわかるタイパ・コロアン歴史博物館や、ポルトガル時代の美しい建物がならぶタイパ・ハウス・ミュージアム、地元の人たちがお参りする中国風の道教寺院、北帝廟にもぜひ足を運んでみましょう

カルモ教会:タイパ島で唯一のカトリック教会で、タイパハウスミュージアムの階段を上ったところにある。高台にあるため、見晴らしが良い。

タイパ・ハウス・ミュージアム :タイパ島にあるかつてのポルトガル人の邸宅です。5軒が並んでいました。ヨーロッパ風の緑色の美しい建物。現在は博物館や土産店、ギャラリーなど、様々な施設に生まれ変わっていました。すべて無料で入れるので気軽に訪れることができます。

タイパ・ビレッジ:マカオのタイパ島のメインストリート。150mほどの細い通りなのですが、カフェやレストラン、お土産屋などがぎっしりと並んでいます。

タイパ コロアネ歴史博物館 :タイパとコロアンについての展示が行われています。1階では、かつてコロアンの市議会ビルの地下室にあった石の建築遺構、村、宗教文化の発展に関する展示がなされており、昔のコロアンとタイパの歴史・文化の概要を学ぶことができます。2階の展示室には旧市議会の歴史、昔の農業や手工芸品、コロアンとタイパの建築の特徴と両島の近年の発展など、異なるテーマを扱っています。コロアンとタイパの近代の政治と経済を知ることができます。

北帝廟:1841年建造のタイパ島最古の道教寺院。『北帝』とは海の守護神で、別名『玄天上帝』。民家の間にひっそりと佇む地味な感じの廟ですが、一部の残念な世界遺産よりも面白く見応えがあります。

花城公園:?仔島の北部花城公園バス停下車して直ぐ目の前に長い白壁にオレンジの瓦屋根が続く公園は自然と都会が調和された中に優雅さを感じさせてくれます。
蓮池も手入れが行き届いていて大変美しい造りの公園です。そして中国風の眺望簡素な東屋まであって異国情緒感じながら、また中国式庭園を散策しました。

コロアネ:コロアネ島は1864年にポルトガル人が上陸するまで宋時代(960?1279年)から製塩の場所で1910年頃まで海賊の拠点だったそうだ。コロアネ島に住民が増えたのは1969年に埋め立てでタイパ島とつながってからとのことだが今も静かな田舎町だった。

石排湾郊野公園:マカオにある動物園、お目当ては二頭のパンダ。ゆったりと造られた檻の中で、アクティブに動き回っています。「

聖フランシスコ・ザビエル教会:聖フランシスコ・ザビエル(1506?1552年)はイエズス会の創設メンバーの一人でカトリック教の聖人。1549年に日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師として知られるがマカオを拠点としてインドのゴアやセイロン(スリランカ)、マラッカ(マレーシア)、マルク諸島(インドネシア)などでも布教活動を行っている。さらに中国本土での布教をめざしたがマカオ西方の上川島で亡くなった。聖フランシスコ・ザビエル教会にはザビエルの布教活動を伝える世界地図が展示され功績を称えていた。マカオの地でザビエルが日本に残した足跡を見るのは嬉しいものだ。

譚僊聖廟 :コロアン村バス停から【竹湾海灘】に向かう入口の海辺に建つ海の守護神【譚公(タムクム)】を祭る道教寺院。コロアン村南端の海岸沿いに建ち目の前が海で中国珠海が目と鼻の先に臨める。

コタイ:香港からフェリーで約1時間のマカオは、いまや世界を代表するカジノリゾート。大開発中のコタイ地区は、超豪華ホテルが続々開業中。その一方で、旧宗主国ポルトガルの情緒が色濃く残る旧市街は、何度訪れても飽きることのない必見観光エリアです。話題のホテルに泊まって、エキゾチックな世界遺産に酔う…マカオの魅力を丸ごと楽しむ最高の旅。

16:00コタイのホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
14日9:00タクシーで出発、香港行きのバスターミナル澳門口岸に向かう。
10:00澳門口岸到達。
10:30バスで出発、港珠澳大橋通過
11:30香港口岸到達、シャトルバスで香港空港に向かう。
12:30香港空港到達。
16:35香港空港キャセイパシフィック航空で出発
21:05関西空港到達。

今回の旅行、3回目の訪れであるマカオに足を運び、南の島タイパ・コタイ・コロアネに点在するポルトガル領時代に建造した歴史的建造物を巡りました。前回マカオ半島に点在する世界遺産ポルトガル領時代に建造した歴史的建造物を巡りましたが今回の島に点在する歴史的建造物は数も少なく、小規模で地味な建物がほとんどでした。
一方コタイに聳え建つ客室1000以上収容できる巨大ホテル群、圧巻でした。まだまだ建設中のホテルもあり、どこまでビッグな巨大ホテル群エリアになるんでしょうね。未来都市ですね。
お店は屋外には見当たらず、巨大ホテル群が1階でつながり、屋内からホテルに店舗を構えるお店、レストラン内部から巡りができます。すべて想像を絶する未来都市でした。・