飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十七弾:滋賀県びわ湖108霊場(近江湖北二十七名刹)観光
2019年10月26-27日
   

滋賀県湖北部に点在する琵琶湖に臨む近江湖北路は、古くから仏教文化が花開き、苦難の歴史のなか、人々の厚い信仰に支えられ今日に引きつがれている。国宝・重文をたずねて、二十七名刹と湖北路への誘い近江湖北二十七名刹を訪れました。

26日12:30車で出発、第二京阪京滋バイパス名神自動車道経由して彦根インター下車、霊場巡り

神照寺:宇多天皇のほうしで有った益信僧正(本覚大師)が、同天皇の勅命を受けて、寛平七年に建てたもので、創建当時は七堂伽藍が整い、300の坊舎を有する大寺であった。

安楽寺:弘安2年に、九條家が無為(平和)を祈願して寺を建て、安楽精舎と呼ばれたのがはじまり。

知善院:もとは東浅井郡小谷城下の大谷にあったが、羽柴秀吉が、今浜城(長浜城)築城の際、城の鬼門の守護寺院として、現在の場所に移した。

宝厳寺;聖武天皇の勅願により、開基。


良疇寺:鎌倉幕府執権・北条時頼の開創、佐々木道倫の開基によって、天山和尚が開いた。

総持寺:天平時代行基菩薩が国分寺の試寺として開かれたのが、はじまりと伝えられている。
その後、室町時代に足利義教から600石の朱印を賜り、実済法印によって諸堂伽藍が建立され、後花園天皇の勅願寺となった。寛永元年(1624)に再建

観音寺:当寺は、仁寿年間(851-853)に伊吹山護国四寺の一つとして三修沙門の手によって開基された。寺伝によると貞和3年(1347)に伊吹山中から現在の地に移ったとされるが、当寺に伝わる古文書などの資料によれば、それより80年余前の鎌倉中期の正元年間(1259-1260)に移転が行われ、寺観と汁物を整えていたとされる。
 鎌倉から室町にかけては、当寺の所在する大原庄の領主であった大原佐々木氏の手厚い庇護のもと、23坊の塔頭寺院を構えるほどに興隆し、その後、湖北を掌握していた浅井氏からも多くの寺領を安堵されていた。更に、天正4年(1576)には、長浜城主羽柴秀吉から茶屋を申しつけられるなどの保護を受けている。その頃小僧をしていた石田光成が鷹狩りの際に訪れた羽柴秀吉に、1杯目は大きい茶碗でぬるめのお茶を、2杯目は中くらいの茶碗でやや厚めのお茶を、3杯目は小さい茶碗で熱いお茶を差し出し、その才能を認められ、出世の糸口を作ったという話が、当寺には伝えられている。また、江戸時代には、諸役を免ぜられ、伊井家の所領として幕末に至る。
 境内には、本堂のほか、薬師堂、鐘楼、惣蔵、惣門などがあり、そのうち、本堂、鐘楼、惣門が、平成4年に国の重要文化財に指定されている。寺宝としては、木造伝教大師座像(国指定重要文化財)のほか、大原観音寺文書(滋賀県指定重要文化財)木造千手観世音菩薩立像(米原市指定重要文化財)などがある。

悉地院:もとは伊吹山の中腹にあったが、平安期に山麓に移った。役の行者が白雉白鳳時代に開かれたとされているが、詳しい年代は不明。

徳源院:鎌倉中期に近江を領していた宇多天皇の後胤佐々木氏(宇多源氏)が、六角、京極、高島、大原氏に分かれ、京極氏は江戸時代も大名家として続いた。
 徳源院は、この京極氏の菩提寺である。寺は、京極家初代氏信の草創(1283)で寺号も氏信の法号の清瀧寺殿から称したものである。第5代高氏(道誉)は婆娑羅大名としてその名をはせ、その活躍は太平記などに詳しい。境内の桜は道誉が植えたものと伝えられ道誉桜と呼ばれている。(2代目)
 一時勢いが衰えていた京極氏を立て直したのが代19代高次で、関ヶ原の合戦では大津籠城で有名である。京極氏では中興の祖と仰がれ、当寺で高次を中心に祀ってある。江戸時代には第21代高和の代に讃岐丸亀に転封になり、その子高豊が寛文12年(1672)に領地の一部とこの地を交換して寺の復興を図り、近隣に散在していた歴代の宝篋印塔をここに集め、順序を正して現在に伝えられる墓所を整備した。この時三重塔を建立、本堂の移築、庭園の整備しほぼ現在の寺観を作るとともに院号も高和の法号から徳源院と改称した。
 徳川幕府の大政奉還後は徳源院も次第に衰微し、明治の初頭には12坊も尽く廃坊となり礎石や地名などに名残を留めるのみであった。幾多の災害から逃れてきた三重塔も昭和53年の改修で創建当時のこけら葺きに直し、本堂・客殿は平成14年に再建した。京極氏墓所も長年の降雪等で荒廃していたが、平成19年に全面改修が完了した。

松尾寺:松尾山は天武天皇の9年(680・白鳳時代)に役行者が修行の地として開山し、当時、法相宗興福寺末金勝寺別院として、また、霊山山霊仙山の7カ寺の一つとして、伊吹山三修上人の3人の弟子のひとり松尾童子が役行者修行地の遺風を慕い伽藍を建立するに始まる。本堂は今より400年前に兵火により消失するが、江戸時代彦根藩主井伊家の庇護を受け寛文年間(1661-1673)再建される。昭和56年の豪雪の被害を受け、本堂崩壊のやむなきに至るが、松尾山山麓に参拝所として詣でる方々をお迎えしている。現在山内寺院として養運院、明静院が現存するも伽藍は荒廃し、本尊仏、境内地、山林のみを残すところである。
 現在は新本堂が、松尾寺山の山麓に建立されている。本尊は十一面観世音菩薩、聖観世音菩薩二体合わせて『空中飛行観世音菩薩』と称し『飛行観音』の愛称で呼ばれる。第二次世界大戦中は特攻隊のパイロットたち飛行関係者が詣で、当時住職がお守りを手渡しで授与したと伝えられる。無事戦地より帰られた隊員の方々有志より各務原飛行学校の零式艦上戦闘機復座式の機体のプロペラを寄進される(昭和10年)。
 今より1200年前に伝教大師最澄様、弘法大師空海様と共に遣唐使として中国大陸へと渡り、日本人で唯一人 三蔵法師の位を授けられた 霊仙三蔵法師は当山ゆかりの方である。時の中国皇帝 憲宋皇帝より「内供奉十禅師」に選任され、宮中の仏事一切を取り仕切り、「大乗本生心地観経 全八巻」の翻訳事業、「筆受並びに訳語」の二役を任され三蔵の位を頂戴された。廃仏棄釈の波を受け、中国四大霊山の一つである文殊菩薩霊場「五台山」へと逃れ、そこでお亡くなりになられるが、後に慈覚大師円仁様の「入唐求法巡礼行記」にも記される所になり、今日地元有縁有志の御協力を賜わり、2004年に『霊仙三蔵還国記念堂』が建立された。

蓮華寺:聖徳太子の叡願により推古天皇の23年(615)法相宗の憲崇律師によって造営され、もとは時宗で法隆寺と呼んでいた。
昭和17年に改称

西圓寺:文和元年(1352)この地の豪族今井遠俊が入道して雲西と名乗り、仁空実導(円応和尚)を開山に招請して建てられた。
大雄とは釈迦の尊称で、当初は天台宗であって、そこに二つの院坊があり、本坊が現在の西円寺で、東の坊は今の浄宗寺である。
浄宗寺は、蓮如上人がこの地を訪れた時、浄土真宗となった。

青岸寺:南北朝時代の中期、近江の守護職であった佐々木京極道誉によって開創され、不動山米泉寺といった。天文3年(1534)竜渓が再建

17:30彦根駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
27日6:00車で出発、霊場巡り。

菅山寺:天平宝字8年(764)、孝謙天皇の勅命で照檀上人が創建。当初は龍頭山大箕寺とした。
寛平元年(889)、菅原道真が宇多天皇の命を受け、この寺に国家の隆昌と皇位の安泰を祈願。その際勅許を得て、三院四十九坊を建立、寺号を大箕山菅山寺と改められた。
現在は、坂口区の人たちを中心とした信者の人たちの手で守られている。

全長寺:文明元年(1469)浄土宗の僧、全長が池原村字新堂に阿弥陀如来を本尊とする一宇を建て、全長坊としたのがこの寺の始まり。
全長が死期を覚って禅宗に帰依し、伊香郡椿坂村の曹洞宗桂照院の頤正(いしょう)全養に自分亡き後の全長坊を頼んだ。
慶長2年(1597)、頤正全養は全長の意思に従い、全長坊を曹洞宗に転じ、久澤山全長寺とした。

洞寿院:永平寺を開いた道元禅師の直系、能登総持寺第11世梅山聞本を師とした恕仲禅師が最初に建てたのが洞寿院とされている。
恕仲禅師は、全国に2500の寺を建てた人で、のちに大本山総持寺の第40世になっている。

鶏足寺:延暦18年(799)伝教が再興、天台宗となったが、江戸時代の初め真言宗となる。
己高山には、5ケ寺とその別院6ケ寺があった。
鶏足寺は、その内の代表的な寺院で、他に世代山戸岩寺や法華寺等があったが、現在はすべて朽ち果て、その仏像等が、己高閣及び世代閣に収納され、地区の村人達によって管理されている。

石道寺:己高山寺の一寺。天台宗となり、真言宗に変わる。

腹帯観音堂

阿弥陀寺:もとは天台宗の寺であったと推測されている。
暦応元年(北朝・1338)ころから開山の託何上人がこの地を訪れ時宗を広め、阿弥陀寺は文和2年(1353)に時宗の寺となった。

赤後寺:赤後寺は、高月町の北端湧出山(ゆるぎやま)の中腹に建ち、かっては足利尊氏から荘園を寄付され、隆盛を極めたという。

西野薬師堂:かつて小字寺山に天台宗の泉明寺と称する寺があり、大友皇子の末裔・西野丹波守家澄が菩提寺として庇護したという。
その後度重なる戦乱により荒廃し、村人によって守られてきた

渡岸寺観音堂:天平時代に都で疱瘡が流行った頃、聖武天皇が越前の僧泰澄上人に命じて、十一面観音像を刻み、観音堂を建て厄除けの祈願をさせたのが、この寺の始まり。

小谷寺:聖武天皇の神亀5年に加賀白山の開祖泰澄上人が、白山から伊吹山までの峰峰に修験道場を開き、小谷山に建てられた坊舎のなかの常勝寺が今の小谷寺。

孤篷庵:円恵霊通禅師(江雲和尚)を開山とし、二代目宗慶侯が、遠州侯の菩提と小堀家の家老や家臣の修禅ならびに菩提道場として建てたのがはじまり。


大吉寺:白雉6年(655)役の小角の入峰が伝えられているが、確かな創建としては、上記の年貞観七年(865)に延暦寺の安然上人と土豪草野治家の協力により開山された。

醍醐寺:奈良時代に役小角によって基盤が築かれ、後白河天皇の時代(1160年頃)に創建され、南北朝時代には、足利尊氏・直義兄弟が湖北で戦いを起こした際には、この寺が尊氏の本陣となった。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、滋賀県びわ湖北部に点在する近江湖北二十七名刹を訪れ楽しみました。

中小規模の寺院が多く、数か所は廃院してみすぼらしい建物もありましたが殆どが整備された小奇麗な寺院が多く癒されました。


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十六弾:仏塔古寺十八尊巡礼観光
2019年10月19-20日
   

近畿地方に点在する霊場の建造物、先祖供養の十八尊を巡拝し、あわせて五重塔、三重塔、多宝塔等々の仏塔供養をかなえる霊場めぐり、大阪、京都、和歌山、奈良、兵庫の二府三県にまたがる大師信仰にゆかりの古寺・古刹。仏塔18箇所を訪れました。

19日12:30車で出発、奈良方面に向かう。

宝山寺:「生駒の聖天さん」と呼ばれ、人気・商売の神様として全国的な信仰をあつめる宝山寺。
中興開山湛海律師は不屈の不動行者で、江戸時代屈指の仏師でもあり、信仰に裏づけされた仏像、本尊:不動明王座像。
厨子入り五大明王像(重文)・多宝塔本尊:愛染明王像等は拝するものに感銘を与えずにはおかない。
昭和三十二年建立。塔の様式は鎌倉、建築細部の意匠は桃山、内部荘厳は藤原、各時代の様式を巧みに取り入れた昭和の名塔。本尊愛染明王は、迷いを浄化、愛と良縁成就の仏様。

千光寺:開祖である役の行者は大和の国や河内和泉の山岳地帯で修業を積まれた人で、女人禁制として知られる大峰山を開かれたのは、この寺を開かれた後のことである。
従ってこの寺を元山上と呼ぶ。
また女人も参拝できることから女人山上ともいわれている。
菩薩の修業を実践する寺であり、各地から修業を求めてたくさんの方々が訪れている。

霊山寺:創建は奈良時代天平8年(736)聖武天皇の勅命により行基が伽藍を建立。
インド僧菩提僊那が霊鷲山に地相が似ていることから霊山寺と名付けた。
弘安6年(1283)改築された本堂(国宝)は、密教寺院の代表的遺構。
三重塔、鐘楼のほか、本尊・木造薬師三尊像(秘仏)、阿弥陀如来像、大日如来像、地蔵菩薩像などは、重要文化財。
三重塔は鎌倉時代の中期の建立。初重内部の全面に巨勢金岡筆と伝わる極彩色の壁画がある。
境内に鼻高仙人ゆかりの薬師湯と1200坪のバラ庭園があり、春と秋に200種2,000株のバラが咲き誇ることでも有名。

浄瑠璃寺:「浄瑠璃」とは、薬師如来の浄土、浄瑠璃世界に由来している。天平時代行基の建立と伝えられ、のちの平安時代永承二年(1047)に義明上人が再興したと伝えられる。
定朝式の阿弥陀如来九体を安置しており九体寺とも呼ばれる。
阿弥陀如来は、苦しむ人、求める人を救い、不安や畏れをとり菩提心を与えてくださる仏です。
三重塔(国宝)は、方三間、三層、桧皮葺、朱塗りの建築で治承2年(1178)に京都一条大宮から移したもの。内部はいたるところに彩色の装飾がほどこされていて、藤原時代の特色をよく表している。

岩船寺: 岩船寺には多くの文化的遺産を蔵し、静寂な境内には四季を通じて多くの花が咲き誇ります。特に梅雨期に咲く紫陽花(アジサイ)は赤・青・白色など鮮やかな色彩が新緑の境内を染め、人の心をなごませてくれます。関西の花の寺として有名です。
本尊は阿弥陀如来坐像で、10世紀中期を代表する仏像として知られています。普賢菩薩騎象像、五輪塔、石室不動明王立像、十三重石塔、三重塔の重要文化財をはじめ、多数の文化財があります。
智泉大徳作と伝えられ、もとは三重塔に納められていました(本堂内)。法華曼茶羅が描かれた宝形作りの厨子の中に安置され、一木造りの彩色像が合掌して白象に坐っています。女性的で優美な姿は藤原期の優作であります。辰年、巳年生まれの守護本尊です。

海住山寺:
笠置の山峡が急にひらけて、木津川の流れもゆるやかになったあたり、甕に似た地形によって、瓶原と呼ばれたというこの地は、「みかの原わきて流るゝ泉川、いつみきとてか恋しかるらむ」との小倉百人一首に収められた兼輔の歌で、ひろく人々に知られております。現在の当山は、真言宗智山派に属し、一万坪の境内には、国宝の五重塔や重要文化財に指定された文殊堂をはじめ、山門、本堂、本坊、鐘楼、奥の院薬師堂、納骨堂、春日大明神、その他の伽藍が、八葉の峰につつまれて、真言の秘法を象徴し、山には古の信仰をしのばせるかずかずの石仏や、千年に垂れんとする大木が天を摩して、おのずから人の心を清めて静寂の堺にみちびいてくれます。又特に厄除寺として知られ、現世利益の根本道場でもあります。

神護寺:京都の西北端に位置する当山は平安京造営以前に建立された修行道場である。
最澄(伝教大師)空海(弘法大師)があいついで入寺され平安仏教発祥の地といえる内容の規模を備えるに至った。
殊に弘法大師は十四年間の長きにわたり住持され、密教の教えを広められた。その間に覚書として書かれた潅頂暦名は仏教史に残る名宝である。
本尊薬師如来は、開創者和気清麻呂公にゆかりの霊宝、心身の病を取り除いて下さる仏として、信仰を集めている。弘法大師、文覚上人ゆかりの国宝、重要文化財を多数所蔵する。

京都方面に向かう。

福知山に向かう。

17:30福知山駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

20日6:00車で出発、仏塔巡り。

鏑射寺:当山は、神体山として数千年の歴史を有し、神秀倉(かみほぐら)・甘楽山(かぐらやま)・五智の峰などと呼ばれて人々に尊崇されておりました。 聖徳太子は、ご生母の里にある此の山が大層お気に召し、伽藍を建て仏教弘通(ぐつう)の道場として鏑矢(かぶらや)を奉納、鏑射寺と命名されました。 その後、弘法大師は境内に独鈷水の井戸を掘られ、百丈岩には穿仏(せんぶつ)岩にご足跡を残しておられます。 また、北条時頼や太閤秀吉三度の参詣の事跡等々がありますが、南北朝時代と江戸時代に戦火と山火事にあい、文久二年(1862年)の勇阿上人による再建を待ちました。 明治6年、三田九鬼藩の天誅組と称する不逞藩士が神社仏閣を襲い、当寺も火を放たれ焼け残った太子堂及び本尊什器は寺廻りに移されて、その後廃寺となりました。 時を経ること約百年、昭和30年秋に久邇宮朝融(くにのみやあさあきら)王殿下が、道なき所を攀(よ)じ登り、生い茂る草をかき分けてご参拝になり、鏑射寺の再建と国家国民の安寧をお祈りになられました。 昭和34年9月、現山主中村公隆師が入山、祈願に入りました。 同41年に護摩堂(不動明王)が、48年には三重塔(虚空蔵菩薩)、続いて53年函館の地に別院(不動明王等)が建立されました。 逐次旧寺領の買い戻しも進み、平成4年に大日如来・愛染明王を奉迎して本堂の落慶入仏法要が厳修され、同6年に弁天堂の落慶を見ました。 前記諸尊の他に、十一面観世音菩薩(飛鳥仏)、聖徳太子、弘法大師、毘沙門天がお祀りされています。

神呪寺:御詠歌、「来て見れば姿も花のかぶとやま、寺もわが身もうす雲の中」と詠まれる寺で、天長8年(831)10月18日に人皇53代淳和天皇の刺願により、帝妃如意尼により創建された。主な年中行事は毎月21日に行われる甲山大師祭(護摩修業)、5月18日の融通観音大祭(秘仏開扉法要)、12月31日につかれる除夜の鐘がある。如意輪融通観音坐像(平安時代後期)を本尊として、聖観音立像(平安時代後期)、不動明王座像(鎌倉時代)、弘法大師座像(鎌倉時代)を祀っている。木造で国指定重文になっている。5月18日には開扉(秘仏の安置しているお厨子の扉を開いて見ることができる)法要を行っている。

家原寺:廃仏毀釈で灰燼と帰していた三重塔を「平成の新塔」として、平成元年に再建。塔内は極彩色を施し、大日如来(金剛界)を安置。境内は四季を通じて花が咲く。特に”あじさい”はいく種類も咲き美しく、はすの大輪は見事である。
日本で最初に文殊菩薩を本尊としてお祀りした寺で、行基菩薩によって聖武天皇の時代に開創される。「智慧の文殊さん」として知られ「落書き寺」として有名。合格祈願や昇運祈願に訪れる人が多い。とくに初詣はたくさんの人でにぎわう。大祭は1月14,15日の「左義長法要」、別名「大とんど祭り」は書初めや正月に使った注連縄等の縁起物をとんどの火で焼いて、一年の家内安全と息災を祈願する。

慈眼院:泉州泉佐野の山手に位置する当寺院は、天武2年(673)天武天皇の勅願寺として創建された泉州の最古刹である。境内には国宝の多寶塔と重要文化財の金堂が建つ。多寶塔は文永8年(1271)に再建されたもので、檜皮葺のこの塔は国内でも最小の規模である。本尊は金剛界大日如来(府の重文)。同時期に再興された金堂は薬師如来を本尊とし、脇にはもと下之坊の本尊であった毘沙門天もまつる。境内は国の史跡に指定されており、本堂脇の日根神社との境に府天然記念物である姥桜がある。平成22年には多寶塔屋根の檜皮葺替工事を行う。

慈尊院:弘仁七年(816)弘法大師が高野山御開創の時、山麓の表玄関口に政所(高野山の庶務を司る寺務所)として慈尊院が建立されました。弘法大師御母公は「わが子に会いたい、開かれた高野山を一目みたい」一心から八十二歳の高齢にもかかわらず讃岐の国(香川県)からこの地にこられ高野山へと。しかし、弘法大師は当時高野山を七里四方女人結界の聖地とされておりましたので、御母公であろうとも女人は登山できませんでした。そこで悲しむ御母公の身を心配され当院へとお導きになられたのです。月に九度下山されお会いになられた事からこの町を九度山町と名づけられた。承和二年(835)二月五日 御母公は八十三歳でこの世をさりました。
御母公追悼のため弥勒堂(重文)を建て堂内に本尊弥勒菩薩(国宝)を安置され現在も弘法大師御母公の化身として崇められ、女流作家有吉佐和子の小説「紀の川」の舞台となった事もあいまって女性の信仰を集めています。

金剛三昧院:高野山は弘仁7年(816)、真言宗祖弘法大師が嵯峨天皇より賜り、鎮護国家、済世利民の祈りの場として、また修業者が学問を修め行を積む霊地として開かれた。
この寺は、源頼朝公の妻二位禅尼北条政子が、頼朝公の菩提を弔うために、建暦元年(1211)に建てられた。
境内には国宝多宝塔、重文の経蔵・庫裡・鎮守社等がある。
庭の天然記念物指定大石楠花は、五月上旬が見頃、他あじさい等秋の紅葉も美しい。境内の六本杉が幽玄さをかもしだす山上は下界より十度ほど気温が低く、夏は気持ちがよい。
多宝塔としては、大津石山寺の多宝塔と共に我が国最古のものである。歴史の重さと墓石のなか、清謐な空間を醸しだしてくれる。

観心寺:金剛山西麓に位置する観心寺は、深い森を背後にした壮大な寺である。金堂は室町時代初期に建立され、大阪府下最古の国宝建造物。本尊は国宝・如意輪観音菩薩像で平安時代初期の最高傑作、密教美術の傑作と評される。
金堂のそばの建掛塔(たてかけのとう)は、楠木正成が建武中興の無事を祈って三重塔を建立しようとしたが、湊川で討死したため完成されずに初層だけが残ったもの。とはいえ三間四方で茅葺き屋根の塔は実に端正である。恩賜講堂や鎮守堂、阿弥陀堂などの諸堂宇も点在し、寺格の高さがしのばれる。
そもそも観心寺の始まりは大宝元年(701)に役小角が修行の一道場として草創。大同3年(808)に弘法大師が訪れ、天の北斗七星を勧請し、再訪の弘仁6年(815)には本尊の如意輪観音像を刻んだと伝わる。本尊を中心として周囲に北斗七星の星塚を配置し、七星如意輪曼荼羅を構成しているが、星塚があるのは日本で観心寺だけである。
開創以来、天皇家との結びつきが強く、ことに南朝との関わりは深い。後醍醐天皇は、8歳から15歳まで観心寺の塔頭中院で仏道修行したという楠木正成を建武新政とともに奉行として金堂を再建。その皇子、後村上天皇は塔頭総持院を行在所(あんざいしょ)にしたほどである。
現在、木立の中に後村上天皇の御陵、その母新待賢門院の墓、楠木正成首塚がひっそりと立つ。

叡福寺:人生は修行なり。理論(教相)と実践(事相)のバランスが重要であることを宝塔は教えてくれている。寺の周囲は古墳が多く、王陵の谷とも呼ばれ、古代ロマンを感じさせてくれる。
あなたが、生きていく上で行おうとしている善なる精神を、聖徳太子(厩戸皇子)のご廟前にてお誓い下さい。太子はお待ちになっております。寺の年間行事は、正月修正会・四月聖徳太子大法要・八月盂蘭盆会・九月彼岸会が、又毎月の行事は、11日太子御影供・21日写経会(粗飯接待)があり、誰でもご参詣になれます。

當麻寺西南院:本堂には重文の十一面観音(一言の観音)・聖観音・千手観音をはじめ、多くの仏像を安置する。
天平建築の粋たる西塔を借景にした江戸初期の池泉廻遊式庭園。庭園の一隅にある水琴窟の妙音は一時を無我の世界にさそう。
花の寺としても有名であり春は石楠花・ぼたん、秋には紅葉と四季折々楽しめ美しい。書院では抹茶もいただける。
みはらし台からは東西両塔を一望できる。

久米寺:聖徳太子の弟君が7歳のとき眼病を患われ、諸病悉く治す薬師如来に願をかけ、眼病が平癒されたので、自ら来目(くめ)皇子と称され、ここに金堂・講堂・鐘楼・経蔵・五重塔・大門等を造営されたという。
はなすおう・つつじ・あじさい、その他季節の花。
久米仙人の寺で、弘法大師空海はここで大日経を感得され、密教の妙義に接し、のち入唐して恵果和尚から密教を伝授され真言宗の開祖となる。多宝塔は寛政年間に仁和寺から移築したもので、重文である。別に昔の大塔の土壇と十数個の礎石が残っている。

室生寺:天武天皇の御願により白鳳九年に役小角によって創建され、のち弘法大師により真言宗の三大道場の一つとして修営された。
室生寺では早くから女人の参詣が許されたので「女人高野」と呼ばれている。国宝・重文の仏像や堂塔の他、絵画、美術品などが数多く残されており、平安初期(弘仁時代)の文化の殿堂と呼ばれている。
平成10年9月22日の台風7号により、国宝の五重塔が半壊したが、1年10ヵ月の歳月で修復工事も完全に終わり、また優美な姿の五重塔が皆様の目の前に現れております。

17:00終了、帰路に向かう。


今回の旅行、近畿圏内に点在する仏塔古寺18箇所を訪れ楽しみました。

五重塔、三重塔、多宝塔等々の多様にわたっての仏塔古寺巡り癒されました。















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十五弾:滋賀県びわ湖108霊場(近江湖南湖東二十七名刹)観光
2019年10月13-14日
  

近畿地方の滋賀県に足を運び滋賀県の南部東部に点在するびわ湖108霊場の近江湖南湖東二十七名刹54か所を訪れました。

びわ湖108霊場:霊場会は、滋賀県の108カ寺がびわ湖を囲むように数珠状につながった巡礼路として、構想より約二十年を経て平成二十一年に誕生しました。湖北二十七名刹、湖東二十七名刹、湖南二十七名刹、湖西二十七名刹の四つの霊場で構成されています。そのため、各札所にはびわ湖108霊場の番号のほか、各地方の札所番号も併記されています。札所には、西国三十三所の札所などの有名寺院をはじめ、地域の祈りを支えてきた規模の小さい寺院も含まれています。煩悩の数と同じ108の寺院を巡ることで悩みを打ち消し、心にやすらぎを持って人間性を豊かにしてほしいという願いが込められています

13日7:00車で第二阪奈京滋バイパス名神第二名神経由して信楽インター下車、霊場巡り

湖 南

第八十一番松尾山松林院 願隆寺

第八十二番龍護山 大池寺

第八十三番家松山清浄慶院 大徳寺

第八十四番補陀洛山 檜尾寺

第八十五番福正山自性院 櫟野寺

第八十六番向陽山 龍福寺

第八十七番寿亀山 正福寺

第八十八番秋葉山十輪院 玉桂寺

第八十九番華蔵山 園養寺

第九十番雲照山 妙感寺

第九十一番龍王山 観音寺

第九十二番美松山 南照寺

第九十三番岩根山医王院 善水寺

第九十四番大乗山 正福寺

第九十五番阿星山 常楽寺

第九十六番金勝山 阿弥陀寺

第九十七番金霊山 金胎寺

第九十八番阿星山 敬恩寺

第九十九番九品山 新善光寺

第百番治田山慈眼院 西方寺

第百一番本誓山来迎院 教善寺

第百二番碧雲山霊仙院 正楽寺

第百三番比叡山守山寺 東門院

第百四番日陽山 宗泉寺

第百五番歓喜山長福院 圓光寺

第百六番日照山 東光寺

第百七番大慈山 福林寺

16:00野洲駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
14日7:00車で出発、霊場巡り。

湖 東

第五十四番大洞山 長寿院

第五十五番弘徳山 龍漂寺

第五十六番祥壽山 清涼寺

第五十七番普門山常心院 長久寺

第五十八番金亀山 北野寺

第五十九番萬年山 天寧寺

第六十番天徳山 高源寺

第六十一番龍應山 西明寺

第六十二番豊国山 大覚寺

第六十三番松峯山 金剛輪寺

第六十四番釈迦山 百済寺

第六十五番宝祐山 長壽寺

第六十六番繖山 安楽寺

第六十七番日吉山 千樹寺

第六十八番繖山 善勝寺

第六十九番御都繖山 石馬寺

第七十番繖山 観音正寺

第七十一番繖山 桑實寺

第七十二番姨綺耶山 長命寺

第七十三番村雲御所 瑞龍寺門跡

第七十四番比牟礼山 願成就寺

第七十五番補陀洛山 長光寺

第七十六番報身山無量院 弘誓寺

第七十七番玉尾山 願成寺

第七十八番雪野山 龍王寺

第七十九番阿育王山 石塔寺

第八十番法輪山 正明寺

15:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、近畿地方の滋賀県に足を運び滋賀県の南部東部に点在する近江湖南湖東二十七名刹54か所を訪れ楽しみました。

中國曲阜旅行の予定でしたが台風の影響で飛行機欠航、近場の霊場巡りに変更しました。

全体に中から小規模の寺院が多いが、各々が整備され気持ちよく訪れることができ癒されました。


 



























 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十四弾:埼玉県・群馬県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年10月5-6日
  

関東地方の埼玉県・群馬県に足を運び埼玉県・群馬県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区7か所(川越、小川、嵐山、秩父、小幡、六合赤石、桐生)を訪れました。

5日13:33新大阪新幹線のぞみで出発
16:03東京駅到達、上野東京ラインで大宮に向かう。
16:50大宮駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
6日6:00レンタカーで出発

川越:川越の歴史は古く、縄文時代にはすでに人々が生活していたことが多くの古墳群から知られています。川越の地名の由来といわれるのは、鎌倉時代の武士・河越氏です。娘が源義経の正室になるなど幕府の御家人として力を持ちました。その後この地を治めた上杉氏の家臣であった太田道真・道灌父子が川越城を築き、川越城下町が形成されていきました。
江戸時代、川越藩は江戸の北の守りとして重要視され、藩主には有力大名が配置されました。寛永15年(1638年)の大火後、藩主となった松平信綱により新河岸川の舟運(しゅううん)と城下町が整備されると、川越は流通の中継地として発展していきます。地元の農産物や特産品が江戸へ運ばれ、なかでも川越唐桟織は江戸で人気を博しました。逆に江戸からは最新の文化が持ち帰られたことから、川越は小江戸と呼ばれました。
しかし繁栄した川越を明治26年(1893年)、再び大火が襲います。この火事により川越の中心街のほとんどが焼失してしまいました。そこで川越の商人たちは、耐火性を備えた建築として蔵造りに着目します。今も残る蔵造りの町並みは、当時の商家の名残りであり、江戸の情緒を今に伝える川越観光の見どころとして欠かせないものになっています。

小川:埼玉県中部の比企郡、その西部地域の要となる小川町は、ユネスコ無形文化財・細川紙を生む和紙の里です。小川町には、約1300年続く手すき和紙以外にも、たくさんの観光があるんですよ。小川町は和紙ができる場所だけに、清らかな大自然の宝庫です。

嵐山:埼玉県の中西部に位置する嵐山町(らんざんまち)。町名の由来は、槻川の渓谷の美しさを、京都の嵐山(あらしやま)になぞらえたことによります。
武蔵嵐山とも呼ばれるこの町の観光の魅力は、山間の景色だけではありません!源氏の内乱の舞台となったのを皮切りに、鎌倉幕府の有力御家人や室町時代の関東管領、そして戦国時代の関東の覇者後北条氏などが、現在の嵐山町内に拠点となる城館を構えました。その城跡のいくつかは、貴重な遺構を今に伝える観光スポットとなっています。

秩父:秩父駅から徒歩3分の場所に鎮座する秩父神社は、その歴史2100年。御本殿は、名工 左甚五郎により施された多くの彫刻で飾られています。「よく見て・よく聞いて・よく話す」として親しまれる「お元気三猿」は、どこか愛らしい表情。例年20万人以上の人出でにぎわう「秩父夜祭」はユネスコの無形文化遺産に登録された例大祭です。12月3日夜から翌朝にかけて続く豪華絢爛な山車の引き回しや、冬空に打ち上がる花火が街全体を熱と活気で包みます。

小幡:“織田信長の次男・信雄から8代、152年にわたり城下町として栄えた小幡。国指定名勝の大名庭園「楽山園」をはじめ、用水路「雄川堰」や武家屋敷、道幅14mの中小路など江戸時代の面影を残す、まち並みが広がります。

六合:中之条町六合地区は、群馬県北西部に位置する広大な山里で、長野県と隣接した場所にあります。6つの村が合わさり、「六合(くに)」となりましたが、古事記の『天地四方を以って六合と為す』にちなんだという俗説もあります。「六合の里温泉郷」で知られる六合エリアでは、手つかずの自然にあふれた美しい景観を望むことができます。

桐生:群馬県の桐生市はかつて絹織物の産地として栄えた町でもあります。桐生で織物が始まったのは奈良時代と言われている、とても長い伝統が受け繋がれている町です。江戸時代には京都の西陣から技術を習得し、本格的な大量生産も開始。「西の西陣、東の桐生」と呼ばれた絹織物の名産地だったのです。

そんな歴史の残る街、桐生市は、独特なノコギリ形状の屋根を持つ工場が数多く建てられてきました。現在も桐生には約200棟のノコギリ屋根が残るとされています。大正時代から残る建物も数多く、観光施設や店舗として再利用するなど、街を巡ればあちこちで見かけられます

17:00終了、大宮に向かう。

18:10大宮到達。

18:32大宮駅上野東京ラインで出発
19:05東京駅到達
19:13東京駅新幹線のぞみで出発
20:45新大阪駅到達。

今回の旅行、関東地方の埼玉県・群馬県に足を運び埼玉県・群馬県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区7か所(川越、小川、嵐山、秩父、小幡、六合赤石、桐生)を訪れ楽しみました。

埼玉県、群馬県の広範囲の歴的建造物巡り、移動に時間かかりましたが小京都重要伝統的建造物群保存地区の散策癒されました。