飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十二弾:岡山県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年3月30-31日
  


中国地方の岡山県に足を運び岡山県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所を訪れました。
30日12:30車で出発、阪神中国山陽自動車道経由して岡山方面に向かう。

下津:鷲羽山の西麓に広がる港町で備前岡山の南の玄関口。江戸時代中期以降は商港として栄え北前船の寄港地ともなりました。

倉敷:幕府の天領であった倉敷は、倉敷川の水運を利用して米をはじめとする物資の集散地として発展してきた。その後も天領時代の蔵と倉敷川を生かしながら時代の変化に応じた町並みづくりをしてきている。

18:00岡山駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

31日7:30車で出発。

矢掛: 岡山県小田郡矢掛町は、岡山県の南西部に位置し、人口15,839人(2008年7月末現在)の旧山陽道 の宿場町で知られる町です。矢掛町には街並み保存地区や国指定重要文化財もあり、町の景観にも力を入れています。矢掛本陣は国指定重要文化財です。 当時、大庄屋で酒造業を営む石井家が本陣職にあたりました。参勤交代で大名や公家、幕府役人の宿所に使われた屋敷は建築の粋をこらしており、当時の繁栄を現在に伝えています。本陣の予備にあてられ、当時、宿場の両替商で庄屋役でもあった髙草家が選ばれました。特に白壁、張瓦の堅固な建築様式が美しいです。本陣から400mの所にあり、本陣と共に国の重要文化財に指定されています。

備中高梁:美観地区の紺屋川筋、庭園の素晴らしい頼久寺は特に見応えがある。江戸時代は水運を利用して発達した町で、タバコの産地である。つい最近までJTの工場もあった。盆地の中にあり、高梁川が昔のたたずまいを残す町を静かに流れている。鎌倉時代に臥牛山に砦が築かれたのが、城下町としての始まりになる。天守閣のあるお城としては日本一高い場所にある備中松山城が町の自慢だが、このお城は江戸時代の城主・水谷勝宗による改修によるもので、ほぼ当時の姿を残している。庭園が美しい頼久寺は足利尊氏の建立したもの。
美観地区の紺屋川筋、城下町らしく武家屋敷沿いの道は、気持ちのいい散策路になっている。見所はいろいろあるが、古いモノなら何でも並べたような郷土資料館が、庶民の生活様式などがわかって面白く勉強にもある。武家屋敷は二百石程度の侍の屋敷だったもの、醤油の製造場でもあった商家資料館もある。

吹屋:銅山とベンガラの町として栄えたころの町並みがよく保存されていることから昭和41年県のふるさと村に指定され昭和52年国の「重要伝統的建物群保存地区に」選定されている。町全体がベンガラ色に染まっているのが印象的。

勝山:出雲街道の宿場町として栄えた勝山。今でも昔ながらの白壁の土蔵、格子窓の商家、古い町並みが残っており、岡山県で最初に「町並み保存地区」に指定されました。今では“のれん”が勝山のシンボルになっていて、町のあちこちで観光客の目を楽しませてくれます。また、室町時代に始まったとされる高瀬舟の発着場跡が、旭川沿い約700mに渡って残り、玉石積みと白壁の景観が往時の賑わいを偲ばせています。

足守:旧出雲街道の宿場町で、三浦藩の城下町です。格子や白壁の美しい商家が並び石州瓦で葺かれた屋根が白壁とあいまった県北らしい町並みです。電線が地中化されてきれいに整備されています。

津山:古くは美作国府・国分寺が置かれた政治・経済の中心にあり、旧出雲街道の要衝として栄えた。街道沿いに歩くと古い町並みが残っている津山。防衛上の拠点として配置された寺院もよく今日まで残っている。津山盆地の中を吉井川が流れ、水運を利用して高瀬船も往来していた。江戸時代の二代藩主の森長継が京都から作庭師を招集して、仙洞御所をまねて造園させたのが衆楽園。長い池に四つの島を配置し、中国山地を借景した名勝として知られる。城跡には天守閣などはないが、鋭い石垣が鶴山公園として残っており、名城らしい面影を見ることができる。特に桜の季節になると美しい姿を見せる。室町時代にもお城はあったが、応仁の乱の余波で廃城となり、本格的に築城されたのは江戸時代に入ってからである。この地を治めた森家は、本能寺の変で織田信長とともに討ち死にした森蘭丸に繋がり、お城も弟忠政が築城したもの。江戸時代に入ると松平家が変わって入城し外様大名を卒業した。市内は武家屋敷町、町人町、商人町と分かれていた地域が、今も面影を少し残している。中でも城東地区一帯がよく残っており、小路も歩いていても楽しい。

大原:旧因幡街道の宿場町大原宿です。参勤交代で鳥取藩主池田侯が宿泊するようになると宿場としてにぎわいを見せました。数寄屋づくりの御殿や唐破風の御成門をもつ本陣、長屋門をもつ脇本陣が残っています。電線が地中化され、きれいに整備された町並みです。

17:30帰路に向かう。

今回の旅行、中国地方の岡山県に足を運び、岡山県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所を訪れ楽しみました。

今まで何回か訪れたことのある観光名所、大阪から車で走行距離850kmの長距離長時間のドライブ観光でした。



 

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十一弾:近畿三十六不動尊巡礼観光(三)
2019年3月23-24日
 

京都・和歌山・奈良・大阪に点在する古寺顕彰会が中心になって開設した霊場です。宗派にとらわれずに一般の人々の立場から霊場寺院が選定され、昭和54年(1979)に発足しました近畿三十六不動尊の17か所を訪れました。

23日12:30車で出発、京都方面に向かう。

醍醐寺: 醍醐寺は弘法大師の孫弟子、理源大師・聖宝が、874年(貞観16年)に創建した。山岳信仰の霊山であった笠取山(醍醐山)に登った聖宝は、地主神・横尾明神より醍醐水の湧き出るこの山を譲り受け、准胝・如意輪両観音を山上に祀ったのが始まりである。
  開創後、醍醐・朱雀・村上の3代の天皇の深い帰依により、山上に薬師堂、五大堂、山下に釈迦堂、法華三昧堂、五重塔などが次々と建立され、山上(上醍醐)・山下(下醍醐)にまたがる大伽藍が完成した。以後も、皇室を始め貴族や武士の支援を得て、三宝院をはじめとする諸院や種々のお堂が建立され、真言密教の中心的寺院として、多くの信仰を集めている。
 しかし、長い歴史の中で、何度も火災に遭い、文明・応仁の乱では五重塔を残して、下醍醐は焼失、上醍醐も荒廃した。1598年(慶長3年)豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」を契機に、秀吉並びに秀頼によって、金堂や三宝院、山上では開山堂や如意輪堂などが再建された。 

智積院:智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。寺紋は桔梗紋。

青蓮院門跡:伝教大師最澄が比叡山延暦寺を開いた際、山上に僧侶の住まいとして「坊」をいくつか建てたが、その1つに「青蓮坊」と云うのがあり、それが当院の起源と云われている。
 青蓮坊は延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居であったが、12代天台座主行玄大僧正に鳥羽法皇が帰依し、第7皇子をその弟子として入門させた。また、院の御所に準じて当地に殿舎を造営し、「青蓮院」と改称したのが門跡寺院としての始まりである。行玄以後明治に至る迄、門主は皇族か五摂家の子弟に限られた。
 青蓮院が最も隆盛を極めたのは、第三代門主慈鎮(慈円)和尚の時で、慈鎮は四度天台座主をつとめ、その宗風は日本仏教界を風靡し、日本人初めての歴史哲学書である「愚管抄」を著した。
 応仁の乱では兵火に見舞われ、徳川氏には豊臣氏滅亡後今の知恩院の全域を取り上げられるなど、衰退した時期もあったが、相阿弥の作と伝える龍心池を中心とする室町時代以来の庭園から将軍塚にわたる境内は今日まで保有されている。徳川幕府も東福門院の旧殿を移して宸殿を作るなど、殿舎の造営には力を入れた。
 1788年(天明8年)の大火によって御所が炎上した折、後桜町上皇は当院に避難し、仮御所としたことから「粟田御所」とも呼ばれている。

聖護院門跡:聖護院といえば「聖護院八橋」や「聖護院大根」を思い浮かべるが、この名の元の聖護院は 天台宗5代座主、智證大師円珍(814~891年)の草創になる門跡寺院で、本山修験派(山伏)の総本山でもある。
 寺伝によれば、円珍の没後も法脈は継承され、増誉の代の1090年(寛治4年)に一寺を創したのが聖護院の創始と伝える。
増誉は1090年(寛治4年)白河上皇の熊野詣に先達として案内し、その功により、熊野三山検校職に任ぜられ、その法務を営むため、現在の地に白川院を創したのが当院の直接の起こりとなった。聖護院の名は3世覚忠の時に号したという。
 次いで、4世門主に後白河天皇の皇子静恵法親王が入って宮門跡となり、7世尊円法親王以降は代々法親王が門主として入室し、明治維新までの37代のうち皇室より25代、摂家より12代が門跡となっている。1788年(安政8年)には門跡であった祐宮は光格天皇となっている。
 1468年(応仁2年)兵乱により焼失、愛宕郡岩倉村長谷の地に移るも、1487年(文明19年)には盗賊の放火に遭い焼失した。その後、院地は豊臣秀吉により上京の烏丸上立売御所八幡町に移されたが、ここでも1620年(元和6年)の大火に見舞われた。一度は再建されたが、1675年(延宝3年)再び火災に類焼し、ついに翌年に市中より現在の地に移された。
その後、1788年(天明8年)の大火の時は光格天皇の、1854年(嘉永7年)の御所よりの大火の際には孝明天皇のそれぞれの仮御所となっている。
 明治に入り、門跡郷が廃止されたが、1885年(明治18年)に復活、1871年(明治4年)には寺領は返納させられたが、由緒寺院たるをもって、、禄高596石1斗が、1876年(同9年)には石代1千208円50銭3厘が下賜された。

三千院門跡:三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄である。
京都市街の北東に位置する山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。

葛川息障明王院:明王院(みょうおういん)は、滋賀県大津市葛川坊村町(かつらがわぼうむらちょう)にある天台宗の寺院。山号は北嶺山(阿都山)。本尊は千手観音。近畿三十六不動尊二十七番。

蓮華寺:蓮花寺の縁起は、後冷泉天皇の勅願によって、藤原康基が1057年(天喜5年)に建立したのを始まりとする。その後、応仁の乱(1467年)の兵火に遭い、鳴滝音戸山(五智山)に移された。
 百数十年の間荒廃が続き、伊勢生まれの江戸の豪商樋口平太夫によって1641年(寛永18年)に再興され、仁和寺の覚深法親王より、改めて「五智山蓮花寺」の号を賜った。
 1928年(昭和3年)慈海大僧正により、寺院は現在地に移されたが、そのまま残されていた五智如来を始めとする石仏郡は山中に離散し、荒れ果てていた。その後、石仏は1958年(昭和33年)に収集し修復され、境内に遷座安置された。五智如来像とは、その名のとおり智恵の祈願仏であり、昔から学業の守護本尊として信仰を集めている。
 また、当院で毎年「土用の丑」の日に行われる『きゅうりふうじ』の法要は、弘法大師が五智不動尊を創祀した際に伝えたといわれ、一切衆生の病苦、悪業、災難を、きゅうりの中に封じ込めるという秘法厳修である。きゅうりに氏名・年令・病名などを書き込み祈祷をして貰い、家に持ち帰り、体の悪い所を撫で、土の中に埋めるか、川に流すなどすると、病気が治るというもので、お年寄りは勿論のこと、若い人や外国人の参拝者も増えているとのことである。

仁和寺:仁和寺は平安時代、第58代光孝天皇[在位:884年~887年(元慶8年~仁和3年)]が「西山御願寺」(にしやまごがんじ)と称する一寺の建立を発願されたことに始まる。
 888年(仁和4年)宇多天皇が父である先帝の意志を継ぎ造営を完成させた。31歳で子の醍醐天皇に譲位し、その後出家した宇多天皇は「仁和」の年号をもって寺号と定め、「大内山仁和寺」と呼ばれるようになった。
 宇多天皇以降、明治維新の第30世純仁法親王まで約一千年、皇子皇孫が仁和寺の門跡となり、御室御所と呼ばれるようになった。高貴な僧の住む僧坊を「御室」と総称し、やがて仁和寺周辺の地名ともなった。現在の堂宇の大半は1637年(寛永14年)から1646年(正保3年)にかけ覚深法親王が徳川家光の援助のもとに再興したものである。

大覚寺門跡:大覚寺の正式名称は「旧嵯峨御所大覚寺門跡」といい、平安時代の初期、嵯峨天皇[在位:809~823年(大同4~弘仁14年)]は皇后との新居(離宮)として、都より離れた当地に「嵯峨院」を建立したのが前身である。
 876年(貞観18年)、嵯峨天皇の皇女・正子内親王が「嵯峨院」を仏寺に改め、淳和天皇皇子の恒寂入道親王を初代住職に迎え「大覚寺」として開山した。
 その後、後嵯峨上皇、後宇多法皇が続いて大覚寺門跡となり、南北朝時代には、南朝の御所となり、大覚寺統(南朝)と呼ばれた。
 392年(元中9年:北朝 明徳3年)に、足利義満の斡旋により、南北朝の講和が大覚寺で行われ、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り大覚寺に入った。
 戦国時代、応仁の乱によりほとんどの堂を焼失、衰退したが、江戸時代初期にはほぼ寺観が整い、大正年間(1912~1926年)には心経殿が再建、心経前殿も造らた。また、1938年(昭和13年)には、大覚寺境内全域が大覚寺御所跡として国指定史跡に指定されている。
また、大覚寺はいけばな発祥の地ともいわれ「嵯峨流華道」の家元でもある。

18:00亀岡駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

24日7:30車で出発、和歌山方面に向かう。

七宝瀧寺:当山の縁起は寺伝によると661年(斉名天皇7年)役行者が当山奥の滝岩に出現した不動尊を祀る一堂を創建したのに始まるという。
 寺名の七宝瀧寺は天長年間(824~34年)の旱魃のとき、淳和天皇は諸国の霊山、神社仏閣に祈雨の祈願をさせ、当山でも本尊不動明王に祈雨の大法を修し所、霊験あって和泉国一円に雨が降った。
そこで淳和天皇は、犬鳴山中にある著名な七瀑を金銀などの七宝に模し、寺号も七宝滝寺と勅賜されたという。
 また、山号の犬鳴山は天徳年間(957~61年)*(1)、紀州池田庄の山田某なる猟師が鹿を追って
戸(塔)瀧附近まで来たところ、その時愛犬が主人の猟師に向かって吠えたてるので怒った猟師は愛犬の首をはねてしまった。愛犬の首はそのまま猟師の背後の岩の上に首に飛び上り、猟師を飲み込もうとしていた大蛇の頭に噛みつき猟師を救い、大蛇と共に息絶えた。この愛犬の心を知った猟師は当寺で発心剃髪し、山林修行者となり、自ら持っていた弓を二つに折り、卒塔婆をつくり愛犬を供養した。この出来事から山号も犬鳴山と称するようになったという。
 その後、正平年中(1346~70年)、土丸城主橋本正高が粉河寺の志一上人を招いて不動堂の修造をを始め、諸坊を建立し再興した。七宝瀧寺では志一上人を中興の祖としている。
 戦国時代には織田信長により100町歩が没収され、豊臣秀吉の紀州攻撃の際には兵火にかかり、本堂以外は焼失したという。お寺で伺った話で「紀州攻撃の際に、泉南の他の寺社のごとく壊滅的な破壊を受けなかったのは、秀吉はこの寺院を山岳部にある修行場の道場程度にしか見ていなかったために被害がその程度で済んだのかの知れない」との説は現地の堂宇の佇まいから見て説得力がある。
 その後、秀吉は瀧本坊を再建。江戸時代に入り、修験道の復興と併行して当山も隆盛となり、観音堂、本堂が修復され、岸和田藩主岡部氏により、寺領が寄進されるなど寺観を整えた。

根来寺:根来寺(根來寺)(ねごろじ)は、和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院。山号を一乗山と称し、詳しくは一乗山大伝法院根来寺と号する。本尊は大日如来、開山は覚鑁(興教大師)である。

明王院:明王院(みょうおういん) は、和歌山県高野町の高野山真言宗の寺院。高野山のなかほど本中院谷に所在。日本三不動のひとつ「赤不動」として知られる。

南院:東大寺の南院に住していた子島真興僧都の建立。空海が唐より帰国のとき嵐に遭い、その時、空海は自ら不動明王を刻み祈願して荒波を鎮め無事に帰国できたという。その不動明王像は当初は壇上伽藍の山王院に安置されていたが、南院住職維範大徳の時(平安時代)に当院に移された。その本尊・浪切不動明王は、毎年6月28日に開帳される。

奈良方面に向かう。

龍泉寺:龍泉寺(りゅうせんじ)は奈良県吉野郡天川村洞川(どろがわ)にある真言宗醍醐派の寺院で、旧当山派の大本山である。山号は大峯山。吉野の竹林院、桜本坊、喜蔵院、東南院と共に山上ヶ岳にある大峯山寺の護持院の1つ。本尊は弥勒菩薩。近畿三十六不動尊霊場第31番札所。

如意輪寺:当山は延喜年間(901~22年)文章博士三好善行の弟で、醍醐天皇の帰依を被った日蔵道賢上人の草創で、後に後醍醐天皇の吉野行宮を定める時、勅願寺となった。
 後醍醐天皇は、京の都に帰ることが叶わぬまま、1339年(延元4年)崩御し、当山の裏山に葬られた。
1346年(正平2年)楠木正行一族郎党が高師直との四条畷の決戦に向かうにあたり、時の後村上天皇に今生の別れを告げ、先帝の御陵に参拝の後、如意輪堂で髻を切り、仏前に奉納、過去帳に氏名を記入した。正行は鏃を持って、御堂の扉に『かゑらじと かねておもえば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる』と辞世の歌を残している。
 爾来、寺運は衰退したが、江戸時代初期の1650年(慶安3年)文誉鉄牛上人が入山、本堂を再興し、宗派も真言宗から浄土宗に改宗し、ひたすら、御陵の守護に任じたと伝わる。

大阪方面に向かう。

滝谷不動明王寺:当山は821年(弘仁12年)弘法大師の開基とされ、「日本三大不動」の一つといわれている。本尊の不動明王は大師一刀三礼の御霊像で、この本尊不動明王と二童子像はともに国の重要文化財に指定されている。
 元は現在の地から約1Km南にある嶽山の中腹にあったが、1360年(正平15年)足利勢の金胎寺城攻撃の際、兵火のために本堂伽藍等のすべてが炎上したとき、裏山の谷の間に清水がわき出して滝となり、不動明王と二童子の身に注いで難を免れたという故事から、この地を滝谷と呼ぶようになったという。
 このとき、一人の盲僧が現れ、本尊の霊験を説き、人々にすすめて小堂を建て、日夜礼拝していたがたちまち青眼となり、いずくともなく立ち去った。それ以後、本尊は眼病平癒の不動尊として信仰されるようになった云われる。
 その後、1463年(寛正4年)畠山政長・義就の嶽山合戦に再び兵火にかかり荒廃したが、今の地に移り、慶長年間(1596~1615年)に本堂が出来、その後次第に復興し、現在のような形に整ってきた。

宝山寺:当山の縁起はその開基を役行者としているが、役行者が金剛葛城の山中で修行中の664年(天智天皇3年)生駒山中の岩屋に梵文般若経を納めたと伝わり、これが現在本堂の裏手にある般若窟と言われている。
 また、宝山寺が1741年(寛保元年)寺社奉行に提出したに記録によれば、入唐前の弘法大師もこの地で修行されたと記述されているとの事で、古来よりこの地一帯は修験者の修練の場であった。
 1678年中興開山の湛海律師が入山し、大聖無動寺を創建、後に弘法大師真蹟の「寳山寺」の額が発見され、1692年(元禄5年)寺号を寳山寺に改めている。
 宝山寺は中・高学校の遠足で、大阪側から生駒山に登り、下りは宝山寺経由で降りて来るコースで、幾度となく参拝したが、今回は逆コースで、宝山寺から興法寺に抜けるコースを取ろうと思い出掛けたが、宝山寺から山頂に向かう中でにわか雨に遭い、退き返したため、今回の計画はあえなく頓挫してしまった。

16:30帰路に向かう。

今回の旅行、京都・和歌山・奈良・大阪に点在する近畿三十六不動尊の17か所を訪れ楽しみました。
さすが近畿圏の寺院、規模が違う。広大な敷地にスケールの違う立派な寺院、どれをとっても圧巻でした。
























飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十弾:兵庫県神戸十三仏めぐり大阪府おおさか十三仏巡礼観光
2019年3月16-17日


兵庫県と大阪府に点在する神戸十三仏、おおさか十三仏巡礼26箇所を訪れました。

神戸十三仏:
十三仏めぐりは、北海道から九州に至るまで、日本の広く多くの地域でおこなわれており、私達の住む神戸の地域でも、独自のめぐり方があったと考えられています。
神戸という街は、古くは摂津の国と播磨の国の一部ずつが合わさった地域であり、明治維新後は八部郡(やたべぐん)、菟原郡(うばらぐん)、明石郡、有馬郡、美嚢郡などが集合して形成された都市。
神戸十三佛霊場会は昭和62年神戸港開港120周年の際、様々な地域の集合体である神戸を感じられるコースを望む気運が高まったことから、識者などにより各地域から推薦や協議がおこなわれ、平成6年に発足に至りました。
選定された神戸十三佛霊場会の寺院は、奈良や京都といった古都の寺院に勝るとも劣らぬ、歴史と景観を有する仏閣群でございます。

おおさか十三仏:十三仏信仰は鎌倉時代の終わり頃か、室町時代の初期に始まったといわれており、その歴史は古い。「大阪十三仏まいり」は大阪府下に限定し、十三仏信仰に由緒ある寺院13を選んで行われており、現在各地で行われている十三仏巡礼のなかでは最も古い1978年(昭和53年)の開創とのことである。

16日12:30車で出発、
兵庫方面に向かう。霊場巡り。

天上寺:当寺は、大化二年(六四六年)、孝徳天皇の勅願によって開創された古刹で、インドの法道仙人を開基とする。 ご本尊は、法道仙人伝来の釈迦感成の十一面観音で、古来厄除の秘仏として信仰されてきた。また、弘法大師請来の仏母摩耶夫人尊がまつられており、仏母の寺、女人の寺、女人高野として広く女性の信仰を集め、安産腹帯発祥の寺として知られている。なお、俳句の寺としても名高い

大龍寺:称徳天皇の勅を受け、和気清麻呂公が当地に来られた折、僧道鏡の刺客に襲われたが、忽然と現われた一匹の大蛇に驚き、刺客は退散、清麻呂公
は霊験を感じて、 この地に伽藍を建立し、大龍示現の故を以て「大龍寺」と名付く。また、入唐される弘法大師が、旅の所願成就をご本尊に祈願のため当山に参龍、二年後帰国、御礼に再び登山されたので「再度山」と呼ばれる。本尊如意輪観世音菩薩は、奈良時代の木彫仏で、兵庫県下最古の仏像、国の重要文化財指定。

能福寺:延暦二十三年(八〇四年)、桓武天皇の勅命を受けて、唐に留学された伝教大師最澄上人は、その帰途、兵庫(大輪田の泊り)に上陸され、当地
の庶民の要請により、薬師如来のご利益を説かれて、ご自作の像をお堂に安置し、国の安泰・庶民の幸福を祈願して、能福護国密寺と称された。
延暦二十四年(八〇五年)六月、伝教大師による我が国最初の教化霊場である。
本堂の左手には、日本三大仏の一つ兵庫大仏(身丈十一メートル)がおまつりされている。

須磨寺:仁和二年(八八六年)、聞鏡上人が、上野の地(現在地)に七堂伽藍を営なみ、和田岬沖の海中より出現の聖観世音菩薩を本尊として奉祀したのが、須磨寺の始まりである。源平一ノ谷の合戦後、平敦盛遺愛の「青葉の笛」を寺宝として所蔵し、源平ゆかりの寺として世に知られて来た。本尊聖観世音菩薩の霊徳あらたかく、新西国第二十四番の霊場として、 また、神戸市民からは、「須磨のお大師さん」の名で親しまれている。

多聞寺:当寺は平安初期、貞観年中に清和帝の勅願を以って、天台第四祖慈覚大師によって開創された古刹であります。秘仏毘沙門天像をご本尊に、脇侍には重文の日光・月光両菩薩が奉安されております。境内は明石八山に列なり、聖観音像は明石西国第二十九番に配されています。十三仏第十番霊像重文阿弥陀仏をまつる阿弥陀堂前には一心池があり、 かきつばたが繁茂し、神戸花五十選の随一にして、五月中旬に開花期には一大偉観を呈しております。

轉法輪寺:大同元年(八〇六年)、平城天皇の病気平癒祈願のために建立された勅願寺。明石八山の一つにして明石西国二十七番霊場。本尊阿弥陀如来は上品下生印を結び、結伽趺座する二・五メートルの仏で、国の重要文化財に指定されている。参道の原生林は、県指定の保護林になっている。庫裡の庭の男根石は、〝子さずけ信仰〟で有名です。昔は、七堂伽藍と広大な寺領を有していたが、現在は、本堂、大師堂、観音堂,地蔵堂、辯天堂、護摩堂等の堂宇が残っている。

太山寺:奈良時代の霊亀二年(七一六年)、藤原鎌足の子、僧定恵の開山で、元明天皇が勅願所とした。以来千二百年余り、幾多の変遷があったが、今に多くの文化財を所蔵し、多くの関心を集めている。又、境内地六万平方メートルに含まれる照葉樹の原生林は稀少で、植生の方面からも着目されている。新緑の中にしずもる丹塗りの国宝の本堂、原生林をバックに聳える三重塔、谷間のせせらぎ等、薬師信仰の一大法城として信仰を集めている。

如意寺:縁起によれば、如意寺の開基は法道仙人といわれ、天竺の五百持明仙の一人、光英菩薩の全身という。推古天皇の御世に櫨谷に飛来し、当山にて山翁(毘沙門天)より霊木櫨の地蔵菩薩の造立をたくされ、孝徳天皇の勅をえて大伽藍を設けた。平安時代には慈覚大師円仁によって、常行堂、文殊堂が建てられ今日の基をなした。近世にあっても、比叡山滋賀院門跡末寺の格式と、御朱印寺領四十三石を賜わり、今日に至る。

性海寺:聖武天皇の天平二年(七三〇年)、行基菩薩の開基。本尊如意輪観世音は、行基菩薩の自作。白河天皇の御代に、奈良より当時随一の碩学叡尊が来住。為に学山として大いに栄え、堂塔伽藍完備七十余坊甍を連ねた。後嵯峨・後深草両天皇により勅願寺と定められた。豊臣秀吉の別所攻めの際、焼打ちにあい、堂宇は壊滅した。慶安元年、徳川家光より朱印を賜わり、復興もまた著しかった。明治の初年には、 なお、二十四の塔頭寺院が存在したが、現在では、わずかに三ヶ寺である。

18:00西明石駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
17日7:30車で出発、霊場巡り。

無動寺:聖徳太子が物部守屋を討たんとして、戦勝の祈願のために、鞍作鳥(鳥仏師)に命じて、丈六大日如来像及び諸尊を刻ましめたのが始まりと伝え
られています。他に釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、不動王明王坐像、十一面観音菩薩立像(以上国指定重文)、阿弥陀如来坐像(県指定重文)の平安仏六躰をお祭りする名刹です。神戸市文化環境保存区域の指定され、春は山つつじ、秋のもみじは必見です。近畿三十六不動尊第十番霊場、摂津西国三十三ヶ所第九番霊場に指定されております。

石峯寺:当山は、第三十六代孝徳天皇の勅願所として一千三百有余年の歴史をもち、法道仙人の開基にして、遠く白雉二年(六五一年)に開山された。
第四十五代聖武天皇の天平十九年(七四七年)、行基菩薩により薬師堂創建、第五十二代嵯峨天皇の弘仁十四年(八二三年)、勅願による三重塔創建、弘法大師(空海上人)来山により無魔落慶をみたのである。薬師堂、三重塔は、共に大正四年三月二十六日、国の重要文化財に指定。
ご本尊は、延命地蔵菩薩である。

鏑射寺:三千年の昔から、神山として祭られて来たこの山が、聖徳太子によって、仏法宣布の大道場となったのは、今から千三百有余年前のことである。南北朝時代に南朝に味方して、建物の大半を失ったが、その後北条時頼、豊臣秀吉等の参拝もあり、明治の廃仏棄釈までは香煙の絶ゆることがなく栄えた。昭和三十年、久邇宮朝融王殿下、ご参拝を期として復興に入り、現在、大日如来を本尊とする本堂等。霊域の整備を進めている。

念仏寺:当寺は、天文七年(一五三八年)、岌誉上人を開基として創建された。元寺は、谷ノ町にあったが、慶長年間に元太閤館跡(北政所館跡とも)を
賜わり、現在地へ転地建立された。現在の伽藍は、正徳二年(一七一二年)のもので、有馬では最古の建物である。本尊は、阿弥陀如来立像で安阿弥快慶の作とされ、優美流麗なお姿である。寺庭に、樹令二百五十年の沙羅双樹がある。

13:00大阪方面に向かう。霊場巡り。

国分寺:当山の縁起は斉明天皇が659年(斉明天皇5年)唐より帰国した僧、道昭に命じて、先帝孝徳天皇の菩提を祈るため、長柄豊崎宮の旧址に一宇を建立し、「長柄寺」と称したのに始まる。
 その後、741年(天平13年)一国一寺の国分寺創建の詔勅により、攝津における金光明四天王護国の寺となり、「長柄国分寺」または「護国山国分寺」と称するようになった。
 以来、1250年にわたり、孝徳、斉明天皇をはじめ、十四天皇の勅願道場として栄えたが、幾度の戦火や災禍を受けた。豊臣に滅亡の元和元年には全焼し、享保3年に落慶するも明治の廃仏毀釈などにより寺領は大幅に縮減され、加えて、第二次世界大戦の戦火で一宇を残さず灰燼に帰した。現在の本堂や諸堂は1965年(昭和40年)に再興、落慶法要が行われている。

太融寺:当山の縁起は、821年(弘仁12年)嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が創建。ご本尊の千手観世音菩薩は、嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子・河原左大臣源融(みなもとのとおる)がこの地に八町四面を画して七堂伽藍を建立したとのことである。
 1615年(元和元年)5月、大阪城落城のとき兵火で全焼するも、元禄年間に復興。1945年(昭和20年)6月戦災で、当時の堂塔二十余胸は一宇も残さず塔全焼した。また、戦後の都市計画で昔は8町四方あったお寺の敷地も、境内の大半は削られてしまったが、再建に取組み1960年(昭和35年)には本堂の落慶法要が行われた。現在では、本堂、大師堂、不動堂、宝塔、客殿をはじめ、20余棟が復興している。
境内には芭蕉の句碑や、淀君の墓がある。

報恩院:当山の縁起は、寺伝によれば江戸時代の初期、寛文年間(1661年~1673年)に良遍上人がここ上町台地に現世利益の不動明王信仰の世相にあった「北向不動尊」を建立したのを創建としている。
 不動尊と同時期に植えられたという樟は戦前はうっそうと茂り、「相生の樟」として、有名であったとのことである。
 明治初期の廃仏棄釈により、当山は無住に近い荒れ寺だったのを先師世経和上が復興するも、太平洋戦争の折の大阪大空襲で北向不動尊を残し全灰燼に帰した。
現在の境内は大阪市内のおおかたの寺院と同様、戦後の都市計画で大部分を削られ、縮小を余儀なくされたが、住職、信者が一体となり再興に取組み現在に至っている。

青蓮寺:当山の縁起は聖徳太子が鴫野の地に創建された志宜山法案寺の歴史に遡るとのことである。法案寺は中古、生玉神社と習合して、その別当職を兼ね、多くの塔頭を擁した畿内屈指の大寺であった。
 豊臣秀吉の築城に際し、今の生玉神社の地に移り、爾来明治に至るまで、いわゆる生玉十坊と称されたが、明治初年の神仏別離の令により、法案寺は分散した。十坊随一「遍照院」の住職快法尊師は十坊の内「遍照院」と「医王院」の二院を合して、もと茶臼山にあった、慶長年間(1596年~1614年)に創建の「青蓮寺」の寺号を移して、今の地に再興したのが現在の青蓮寺である。

太平寺:当山の創建は1663年(寛文3年)誾越和尚が開山の曹洞宗の禅寺で、山号は護国山という.。
幕末までは朝廷をはじめ加賀藩大阪蔵屋敷の菩提寺として隆盛を誇ったとのことである。1945年(昭和20年)3月の空襲で加賀蔵といわれる土蔵1棟を残し、灰燼に帰した。
境内は戦災と戦後の都市計画で狭くなり、すっかり様子が変わったが、本堂の再建など復興も進み、現在に至っている。
*誾越(ぎんおつ)和尚 加賀国大乗寺21世で字は超山(ちょうざん)、俗姓は中野氏。1581年(天正9年)生まれ。晩年近江の蓮泉寺、摂津の大平寺を創立。1672年(寛文12年)世寿92歳を以って示寂。

四天王寺:今から約1400年前、聖徳太子が日本に渡来した仏教の採否をめぐって、物部守屋と争そった際、陣中で四天王に戦勝祈願を行い、勝利した。太子は誓いの通り、587年(用明天皇2年)摂津国玉造に四天王の像を安置し、寺号を四天王寺と定め日本最初の官寺を建立した。
  その6年後の593年(推古天皇元年)現在の地である難波荒陵(なにわあらはか)に大寺を建立し、四天王寺をここに移した。現在も聖徳太子創建当時以来の「四天王寺様式」と呼ばれる伽藍配置が保たれている。堂塔の大半は第2次世界大戦後、復元されたものが多いが、広大な境内には五十有余の堂塔伽藍があり、国宝、重要文化財を多数収蔵していることで有名である。

正圓寺:当山の縁起は939年(天慶2年)、現在地より東方800Mのところ、阿倍野村に「般若山安倍寺明承院」としての、光道和尚によって創建されたのに始まるが、1615年(元和元年)の「元和の役」の兵火で焼滅した。  
 江戸・元禄年中(1690年頃)義道和尚がこの地に堂宇を移築再建し、大阪湾が一望出来る景勝地にちなんで、山号を「海照山」寺号を「正圓寺」改称された。それよりも遡る南北朝の頃、この地は兼好法師の庵があったと伝わっている。
 1723年(享保8年)京都大通寺より来住した常如和尚(当山4世)は歓喜天を自刻し、聖天信仰の流布宣揚につとめたため、この頃から当山一体事が「聖天さん(山)」と呼ばれるようになったとのこと。
当山の聖天堂の本尊歓喜天は慈覚大師の自刻の歓喜天を胎内に納めた一木彫像で、我国最大の「聖天さん」だといわれているが、秘仏のため一般公開されていない。

法楽寺:当山は山号を紫金山、院号を小松院と号し、その創建は、平清盛の嫡子で小松の大臣(おとど)と呼ばれていた平重盛が1178年(治承2年)に開創したのに始まるとしている。重盛は、宋の国・育王山の仏照国師の徳を慕い、我国への招聘を働きかけたが実現せず、その代わりに育王山伝来の紫金仏舎利が贈られてきた。そのためこの田辺の地に一寺(法楽寺)を建立し、仏舎利を納めたという。
 創建以来の建物は戦国の末、元亀年間(1570~3年)頃まで護持されてきたが、織田信長の兵火に罹り、全て灰燼に帰した。その後、江戸中期の1711年(正徳元年)河内・野中寺より晋山した洪善大和上が大和大宇陀、松山藩藩主織田家の殿舎を譲り受け復興したという歴史がある。
 また、江戸時代後期の高僧・慈雲尊者が13歳の時、当山の忍綱貞紀和上の弟子となり得度。27歳のとき河内高井田(現東大阪市)の長栄寺にて真言正法律を提唱した。
この寺は1873年(明治6年)に府下で最初の小学校の置かれたところでもある。当山は田辺にあるところから、本尊の不動明王は『田辺の不動さん』と人々に親しまれ,毎月28日には遠近の参拝客で賑わう。

家原寺:当山は行基菩薩の誕生の地として有名である。704年(慶雲元年)行基菩薩37歳のとき、亡父菩提のため、生家を寺とし、本寺を起こした。その後、聖武天皇の頃伽藍が整えられ、その勅願所として発展する。
以来、1300年の間には、織田信長の兵火で焼かれたりした興亡浮沈の歴史があったが、現在の本殿・文殊殿は1648年(慶安元年)に再建された建物である。
1966年(昭和41年)高野山真言宗別格本山となり、現在に至っている。
行基菩薩は668年(天智天皇7年)大鳥郡蜂田に生まれ、父は百済系渡来氏族の末裔西文氏(かわちのあやし)一族の高志才智とされる。母は河内国(のち和泉国)大鳥郡の蜂田首(現在の華林寺)の出と伝わる。
15歳で出家、道昭を師とし、法相宗に帰依する。24歳の年に受戒。初め法興寺(飛鳥寺)に住し、のち薬師寺に移る。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力、神通力を身につけた。37歳の 時、山を出て民間布教を始めたという。
各地に橋、池、道、港などの施設を多く作り、餓死する人々を救うための布施屋を建て、民衆への仏教伝道にも努めた。時の政府からの弾圧にも 屈せず民衆救済の活動を進めたため、彼を慕って従うものは1千人にも及び、生きながら「行基菩薩」と称された。東大寺の大仏造営には、民衆の絶大な影響力 から大仏造営費の勧進に起用され、史上初めて大僧正に任ぜられた。行基を開基と称する寺院は全国で1400ヶ寺にも及んでいる。
81歳で平城京の菅原寺(現奈良市菅原町喜光寺)で入滅。

大念佛寺:当山は1127年(大治2年)、鳥羽上皇の勅願により聖応大師(良忍上人)によって開創された融通念仏宗の総本山である。 良忍上人が大原来迎院で融通念仏宗を開いたのは平安時代末期の1117年頃(永久5年)だといわれているが、大阪の四天王寺で念仏歓喜会を修したあと、ここ平野の修楽寺に宿泊していた折、上人の高徳を慕って集まった信徒の願望により、修楽寺を「融通念仏宗」の根本道場と定め、名も大念仏寺と改めたとのことである。
  1182年(寿永元年)火災にあい、寺運も衰微したが、元享年間(1321~24年)に7世法明上人により復興、以来、朝廷・徳川幕府歴代将軍の崇敬あつく、たびたび寄進をうけており、江戸初期の1615年(元和元年)に寺地が定まり、寛永から寛文年間(1624~72年)には、総本山にふさわしい伽藍が営まれた。
また46世大通上人(1649~1716年)の時代以降は、大念佛寺を中心とする融通念仏が一宗として幕府公認の教団組織をもつようになり、元禄年間にかけて境内の諸堂宇が建立され、伽藍が整備されている。
  1898年(明治31年)火災により諸堂は消失したが、その後次第に再建され今日に至っている。
現在末寺として、主に大阪南部から奈良の生駒周辺・京都南部・三重県名張にかけ、約350寺ほどある。

全興寺:寺伝によれば、当山の創建は今から1300年余り前、聖徳太子が平野の野中の地に小宇を建立して薬師如来の像を安置されたのが始まりとされ、そのことから平野の町は広がったとのことである。旧平野の町の中心(商店街の中ほど)にあり、「町の博物館」もあるところから、訪れる人も多い。
 堂内には「大阪夏の陣」で徳川家康の身代わりとなったとの伝説がある「首の地蔵尊」や境内には、回向堂・大師堂を始め、テレビでも紹介されたことのある地獄の有様をモニターに写し出す『地獄堂』やマンダラステンドグラスの地下瞑想室『ほとけのくに』もあり、見るところが多いお寺である。

常光寺:当山の創建は寺伝によれば、745年(天平17年)行基が開創し、聖武天皇の勅願所であった。
その頃は「新堂寺」と称していたが1390年(康応2年)足利義満が祈願所とし、『初日山常光寺』の扁額を寄せて以来、現山寺号を称している。本尊の延命地蔵は日本三地蔵の1つといわれ小野篁の自刻と伝えられる。南北朝時代には戦火で当寺の伽藍は灰となったが、1385年(至徳2年)藤原盛継が復興した。
1589年(天正17年)には豊臣秀吉から病気平癒祈祷料として、毎年五石の宛米の寄進を受けている。
大坂夏の陣では金地院崇伝の抱かかえ寺として保護され、徳川方の藤堂高虎がこの寺に陣を置き、大阪方の長宗我部盛親の軍と激戦に巻き込まれるなど、由緒あるお寺である。

教興寺:当山は正式には『獅子吼山大慈三昧院教興寺』といい、その創建は聖徳太子が物部守屋の討伐を祈願し、秦河勝が588年(崇峻天皇元年)、四天王寺と同時に建立したのに始まるという。
  鎌倉期、西大寺の長老叡尊(興正菩薩)が、河内布教の帰途信貴坂で休息した際、当寺講堂の千手
観音が雨露に濡れているのを知り、1269~70年(文永6~7年)にかけ再興した。また、叡尊は蒙古襲
来の時、敵国降伏の祈祷をしばしば朝廷より命じられているが、当山に於いても祈祷を修している。
 南北朝及び戦国時代には戦乱の場となり、兵火により伽藍が焼失したが、江戸貞享年間(1684~1687年)に浄巌和尚が再興。かの浄瑠璃の近松門左衛門が久しく寺に寄宿したと伝えられる。
 その後、1885年(明治18年)の台風で本堂が倒れ旧客殿を仮本堂とし、現在に至っている。

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、
兵庫県と大阪府に点在する神戸十三仏、おおさか十三仏巡礼26箇所を訪れ楽しみました。
さすが関西の霊場、立派な霊場が多く、満足でき、癒されました。
 


































 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十九弾:奈良県和歌山県大阪府兵庫県西国四十九薬師巡礼観光
2019年3月9-10日
 


大阪、兵庫、京都、滋賀、奈良、和歌山、三重の七府県四十九ヶ寺からなる西国四十九薬師霊場は、1989年(平成元年)に結成されました。時の流れに耐え、歴史の重みを伝えてきた由緒深い、特徴のある寺院が集まっています。更に寺観もよく、文化財にも冨み、また、強い信仰に支えられてきました。健やかな身、心の安らぎを与えてくださる薬師霊場の奈良県和歌山県大阪府兵庫県に点在する19か所を訪れました。

11日12:30車で出発奈良方面に向かう。

霊山寺:霊山寺のある富雄の里は、古事記には登美、日本書紀には鳥見の地とあります。敏達天皇(五七二~八五)の頃は小野氏の所領でした。右大臣小野富人(小野妹子の息子と伝わる)は壬申の乱にかかわったため、弘文元年(六七二)官を辞し、登美山に閑居しました。天武十二年(六八四)四月五日より二十一日間熊野本宮に参籠。この間に薬師如来を感得し、薬草湯屋を建て、薬師三尊せん?ぶつ仏を祀って諸人の病を治されたのです。世人は富人を鼻高仙人と称し崇敬しました。
神亀五年(七二八)流星が宮中に落下し孝謙皇女が病に臥したとき、鼻高仙人が聖武天皇の夢枕に立たれ、「湯屋の薬師をお祀りすれば旬日以内に病を治す」というお告げがあり、行基が代参祈願したところ平癒。天平六年(七三四)聖武天皇は行基に大堂の建立を命ぜられ、天平八年(七三六)来寺されたインドの婆羅門僧ぼ菩だい提せん僊な那は、登美山の地相がインドのりょう霊じゅせん鷲山に似ており、寺の名を霊山寺とするよう奏上、聖武天皇から「登美山鼻高霊山寺」の称号が贈られ、落慶しました。
北条時頼公や徳川家康公も厚く帰依され、寺領の寄進・知行の下付があり、特に江戸時代には幕府の御朱印寺として栄えました。明治維新の廃物毀釈により規模は半減しましたが、今なお国宝の本堂をはじめ重文建物五棟、重文仏像什宝物三十余点を所蔵しております。
弘仁年間(八一〇~二三)に弘法大師が来寺され、登美山に龍神様がおられると感得。奥の院に大辯財天女尊を祀られました。昭和四年(一九二九)、先代住職の奥方に辯財天の霊験が宿り、数々のお告げによって多くの信者を導き、昭和の中興を果たしました。昭和十二年(一九三七)には鼻高山に三万坪の大霊園を開設しました。また先代住職の戦争体験の反省から昭和三十二年(一九五七)に造られた薔薇庭園は、平和への祈りと人生の輪廻をテーマとしており、二百種類二千株の色とりどりの薔薇を見て、心の安らぎを感じていただければ幸いです。

薬師寺:大海人皇子は壬申の乱の戦いに勝利をおさめ、飛鳥浄御原宮に第四十代天皇として即位されました。天武八年(天武六八〇)、最愛の皇后の病気平癒を祈願し、藤原京において建立を発願されたのが、薬師寺の始まりです。それから七年後、薬師寺の完成を見ることなく、天武天皇は亡くなられ、亡夫の遺志を受け、続いて即位された皇后(第四十一代持統天皇)は、薬師寺七堂伽藍を文武二年(六九八)に完成されました。平城遷都にともない、養老二年(七一八)に現在地に移されました。
その後いく度かの盛衰を繰り返し、享禄元年(一五二八)、兵火により金堂・講堂・中門・西塔・僧坊・回廊等のことごとくが焼失しましたが、近年お写経行者の功徳により、金堂・西塔・中門・回廊・大講堂が復興されました。
薬師三尊(国宝)とは、中尊の薬師如来と脇持の日光菩薩・月光菩薩の総称です。薬師如来は医王如来ともいい、医薬兼備の仏様。欲が深くて、不正直で、疑り深くて、腹が立ち、不平不満の愚痴ばかり、これもまた病気です。応病与薬の法薬で、苦を抜き楽を与えてくださる抜苦与楽の仏様。だから人々に仰がれ、親しまれ、頼られていらっしゃるのです。薬師寺の伽藍は、薬師三尊を安置している金堂を中心に東西両塔を有する薬師寺式伽藍です。東塔(国宝)は一見六重に見えますが、実は三重の塔です。各層に裳階という小さい屋根をもち、「凍れる音楽」という愛称で親しまれています。現在東塔は平成の大修理で平成三十年度の竣工をめざし工事中です。玄奘三蔵院は、玄奘三蔵のご頂骨を真身舎利として、平山郁夫画伯が約三十年の歳月をかけて完成、奉納された大唐西域壁画を絵身舎利としてお祀りし、玄奘三蔵のご遺徳顕彰をいたしております。

久米寺:久米寺の広い境内には、仁王門、本堂、不動堂、多宝塔(重文)、観音堂、地蔵堂、御影堂、鐘楼堂、客殿などが建ち並び、雪柳、桜、はな花す蘇おう芳、つつじ、あじさいなどの花があります。
本堂には、ひときわ大きい本尊の木造薬師如来坐像、日光・月光両菩薩立像、十二神将像、あの久米仙人が自ら彫った自分の像に自らの頭髪と生歯を植えたと伝えられる肉付きの坐像などが安置されています。本尊の一丈六尺の胎内には、一寸八分の金銅薬師如来立像が収められています。
久米寺は、もともと久米部氏の氏寺でしたが、聖徳太子の弟君が七歳のとき、眼病を患われ、太子のすすめで、諸病ことごとく治す薬師如来に願をかけたところ、眼病が平癒。そこで、自らく来め目皇子と称し、この地に金堂、講堂、鐘楼、経蔵、五重塔、大門などを造営されました。
その後、養老二年(七一八)インドの摩伽陀国の帝王・善無畏三蔵が、王位を捨てて渡来し、当寺に寄留して、日本初の多宝大塔を建立。大日経、三粒の仏舎利などを搭柱に納めました。善無畏三蔵の像は御影堂に安置されています。
大同二年(八〇七)十一月、唐より帰国した弘法大師空海が、宝塔内で経王を講讃し、初めて真言密教を宣布された、真言宗発祥の地です。
久米寺といえば、久米仙人の話は欠かせません。仙人は金剛山麓の葛城の里に生まれ、吉野山の龍門ヶ嶽で修行し、神通飛行の術を修得。長寿を保ち、久米寺に百数十年間寄住したとされます。聖武天皇が東大寺大仏殿を建立される際には、仙術をもって、建設資材を
数日のうちに全国各地から東大寺境内に集めました。天皇はお喜びになり、免田三十町歩を仙人に賜ったと伝えられています。
仙人はまた、衆生の中風としも下の病を除くため薬師に誓願をたて、自ら孟宗竹の箸を作りました。その竹箸を使うと中風や下の病にならず長寿が得られると言い伝えられています。あじさいの花一枝をトイレに吊るすと中風封じになるとか、カボチャを冬至に炊いて食べると中風にかからないといわれます。あじさいの季節には鐘楼堂横のお休み処でカボチャの酢の物をいただけます。

金剛寺:金剛寺は平安末期の文化人、小松内大臣、平重盛公が、吉野川段丘に創建された古寺と伝えられています。
江戸初期から野原城主、畠山義春公の菩提寺として復興され、天満宮、御霊宮を祀る宮寺でもありました。江戸時代から明治、大正にかけては、唐招提寺の長老が当山より出向いて、隠居にやってくる珍しい歴史と信仰をもつ古寺です。
山門には宝暦十二年(一七六二)に近畿一円十万人の寄進により造られた鐘があり、平和の鐘、除夜の鐘として響きわたります。
元禄四年(一六九一)に再建された庫裡は茅葺の屋根で、夏は涼しく、趣きのある建物です。隠居の間、弟子育成の場でもありました。ここから元禄の枯山水の庭を眺めると風情があり、心落ち着くひとときを過ごすことができます。
明治時代の長老が再建された観音堂の屋根のし鴟び尾には、「唐招提寺金堂之模造」と銘記されています。
春には牡丹園を開園します。北に霊峰の金剛山を仰ぎ、眼下には吉野川の清流を眺め、二千平方メートルの牡丹園には百種類、千株の牡丹を中心に、白藤、おだまき、れんげつつじ、西洋石楠花、花水木、えにしだ、エジプトアヤメ、平戸つつじ、大山蓮華等が美しく咲きつづけます。
秋、薬師如来に小菊を献上し、無病息災、健康長寿を願って、十一月三日に菊薬師会式が厳修されます。十月二十五日から十一月十日までの小菊まつりの期間は、本堂や境内が小菊で荘厳されます。また八日までは善の綱でお薬師さまと結ばれます。
この小菊まつりはお寺に伝わる中国の故事で、七百歳の長寿をいただいた「菊慈童」に由来する行事です。当山は牡丹の金剛寺、菊薬師といわれるように、花のみ寺であり、信仰の道場、祈祷の寺です。

和歌山方面に向かう。

龍泉寺:高野山は海抜約千メートルの山上に広がる東西六キロ・南北三キロの盆地で、内八葉外八葉の峰々に囲まれています。ちょうど蓮台の形のようなこの地は、いにしえ古より紫雲棚引く霊山として信仰されてきました。若き日の弘法大師空海も、山嶽修行者の仲間に入り山野を跋渉し修行に明け暮れていた頃に、訪れたこともある高山深嶺の地であり、中国より密教を持ち帰った空海が、弘仁七年(八一六年)嵯峨天皇よりこの地を賜り、真言密教の一大修行道場である伽藍諸堂の建立に着手したのが、高野山金剛峯寺のはじまりです。
高野山は、開創以来厳しい修行道場のため女人禁制が敷かれ、明治五年(一八七二)に解除されるまでは、いかなる女性といえども女人堂より内に入ることは許されませんでした。現在は不動口の女人堂だけが残り、かつての厳しい女人禁制の名残を留めています。高野山上には約百二十の寺院があり、僧侶だけでも約千人が生活しています。世界に類をみない山上宗教都市で、平成十六年には世界遺産に登録され、国内はもとより海外からも参拝者や観光客が多く訪れています。
龍泉院は承平の頃(九三一年頃)真慶律師によって開創され、弘法大師がかつて日照りが続いた際に善女龍王を勧請し祈雨の修法を行われた霊池が傍らにあることから、院号が付けられました。また弘法大師の高弟の真雅僧正が、当院において阿字観を修せられた霊験あらたかな古刹であり、鎌倉との由緒深く、毛利元就、佐々木高綱、楠正成等の帰依厚く、織田家、源家等の檀縁が深い。
本尊の薬師如来像(重文)は藤原時代末期の作。寺宝の弘法大師御作の真言八祖・りゅう龍みょう猛菩薩像は、毛利元就が当院に寄贈したもので弘仁仏として有名です。当院は高野山真言宗総本山金剛峯寺の北側に位置し、金堂、根本大塔等の諸堂がある檀上伽藍や、女人堂も近い。山門を入った正面に本堂があり、左側に護摩堂、大師堂と並び、右側に庫裡、玄関があります。

高室寺:今から約千二百年前、真言宗の宗祖弘法大師は、時の帝、嵯峨天皇の勅許を得られ、真言密教の根本道場として高野山を賜られました。それから約三百数十年後、村上天皇のご血統を引かれる房海僧正によって当院が創建され、当初は、智恵門院と呼ばれていましたが、後に高室院と改められ、今日に至っています。
法燈は師資連綿として受け継がれ、第九世の大聖僧正は大和の国、天河弁財天の化現と伝えられるなど、多くの名僧を輩出しています。また、学問寺として学侶の名室寺院の一つに数えられ、多くの学匠を生んでいます。
天平年間(一五七三~九一)、小田原城主北条氏直公が当院に潜居してから、北条家の菩提所として「小田原坊」と呼ばれるようになり、現在でも、関東の寺院、ご信者との御縁は深いのです。また、伊勢の藤堂家、土佐の山内家とも壇契を結んだ時期があります。
当院の本堂は明治二十一年(一八八八)の大火に類焼し、昭和五十九年(一九八四)、弘法大師御入定千百五十年御遠忌の年に現在の本堂が再建されました。
本尊の薬師如来は、紀伊續風土記によると行基菩薩の御真作と伝えられ、重要文化財のため現在は高野山霊宝館に収められています。現在本堂に御安置の薬師如来は、京仏師江里氏の作です。
明治になって、大乗院・発光院・蓮上院を合併し、寺宝としては、弘法大師御筆大威徳明王影・高野結界啓白文・十二天屏風・同御作帆揚不動尊(重文)を蔵します。
高野山は海抜約九百メートル、大小、十六の峯々に囲まれた山上の盆地です。峯々は外八葉・内八葉と呼ばれ、あたかも蓮の花が開いたようで、まさに仏国土・密厳浄土と呼ぶにふさわしい地形といえます。当院は、高野山のほぼ中央に位置し、東の奥之院、西の大伽藍寺等、どこへ参拝するのにも便利です。境内は広く、マイカーでの巡拝にも十分な駐車スペースがあります。

禅林寺:当寺は、俗に幡川のお薬師さんと呼ばれ、広く人々に親しまれています。
今から千二百五十年以上前の天平時代、唐(現在の中国)にあった青龍寺の僧「い為こう光上人」が、聖武天皇よりこの地をいただき、同天皇の勅願所として建立されたのが始まりです。
中世の頃には「はた幡がわ川でら寺」とも呼ばれ、谷あいに七堂伽藍をはじめ、僧坊十二院・御社三社・承仕坊三院が立ち並ぶ精舎でした。しかしながら建武以前に金堂をはじめ寺庫までも火災にあい焼失し、さらに再興された後も、天正十三年(一五八五)に豊臣秀吉の南征による兵火のため再びことごとく焼失し、広大な寺領もすべて没収されました。諸堂の名残は地名として今なお残っています。
その後、当寺は塔頭寺院の一つであった中之坊の秀慶法印により再興されました。秀慶法印は、兵火により一字も残さず堂宇が焼失したのを憂いて、慶長二年(一五九七)に日向国(今の宮崎県)の仏師士賢に命じて木造の薬師如来像を造立し、京の仏師高慶に命じて、ご本尊の身体の部分を補作させて安置しました。
現在の本堂は天保三年(一八三一)、鐘楼堂は宝暦四年(一七五四)に再建されたものです。
ご本尊の薬師如来(三十三年に一度開帳される秘仏。和歌山県文化財指定)は、開山の為光上人が青龍寺より招来した七仏の内の一体と伝えられています。天平時代の仏様で、西国薬師霊場会唯一のそ塑ぞう像技法(土を用いて造る技法)で造られた如来様です。昔から眼病、その他の病にご利益があり、お薬師様の「わが名号を一たび耳に聞くとき願いとどけん」とのご請願通り、今日に至るまで多くの人々が救われています。
本堂の東側には、たくさんの身代わりおじいさん・おばあさんに囲まれた「ぼけよけ地蔵」様がお祀りされています。高齢化の進む中で悩まれる方々の心に安らぎをと建立されたお地蔵様です。また、境内の裏山には、約二百年以上前より新四国八十八ヶ所がお祀りされています。お四国にお参りできない方や願事成就のために多くの人々がお参りしています。

大阪方面に向かう。

家原寺:お寺の歴史は古く、今から千三百年昔、奈良時代に生誕されて、後に人々から菩薩と慕われた人がいました。名僧「ぎょう行き基(六六八~七四九)」です。行基様は生誕のご実家を、七〇四年、三十七歳のときにお寺として開山されました。山号の一乗山とは、菩薩修行記から引き、菩薩として修行を行なう所という意味です。寺号のえ家ばら原じ寺は、家とは実家、原とは母の腹をさすと伝えられています。つまり、ご両親の菩提を弔うことと、恩に報いることだというのです。
本尊は文殊菩薩で、日本で文殊菩薩を祀られた最初といわれます。菩提僊那(七〇四~七六〇年、インドから来た東大寺大仏開眼導師)ゆかりの文殊菩薩として信仰を集め、その霊験は古来より国内随一の名声を誇ります。この文殊様は「智慧文殊」と呼ばれ、各種試験を志望する人々や学生たちの合格祈願で、お参りの人々が後を絶ちません。祈願ハンカチという楽しい祈願の方法も人気があり、本堂の文殊殿は一見の価値があります。
お薬師さんを祀る薬師堂は、文殊殿の東側にあります。広い境内の中でもひときわ大きな「やまもも」の木が目印です。薬師堂は朱塗りの小さなお堂です。中は一般には公開されていません。堂内には厨子を収めた内庫式の壇が祀られています。
厨子の中には、薬師如来坐像と両側に日光菩薩、月光菩薩、それを囲むように十二神将が安置されています。何度か修復の跡があり、江戸中期の修復といわれます。この薬師さんも長い間人々に信仰されてきたに違いありません。というのも、もう一つの薬師さんがあるからです。家原寺から南へ徒歩三十分程の所に、行基様のご母堂様の実家という奥の院「けい華りん林じ寺」があります。本尊の薬師如来は、地元の人々から「こ子やす安薬師」「こやすさん」と親しまれ、安産・健康の祈願をしています。そして、家原寺の薬師さんを「すこやかさん」と呼びならわしています。
いつの世も親は子を思い祈り続けてきた証。今に歴史が息づいているのです。参拝の方々には、そんなことを感じていただけたら幸いです。

弘川寺:葛城山の西麓にあり、天智天皇の四年(六六五)にえんの役ぎょう行じゃ者によって開創されました。天平九年(七三七)には行基が修行し、宝亀年間(七七〇年代)光意が修学しました。弘仁三年(八一二)には弘法大師空海が中興され、真言密教の霊場となりました。文治四年(一一八八)、当時の座主空寂は後鳥羽天皇がご病気の際、宮中に召され、病気平癒の祈祷を修して、平癒されました。
平安末期の歌僧西行は、文治五年(一一八九)秋ここに住み、「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」の願い通り、文治六年(一一九〇)旧暦二月十六日当寺で入寂されました。享年七十三歳。
南北朝では、南朝の忠臣弘川城主隅屋与市正高が奮戦した旧蹟です。室町時代には、河内国の守護畠山氏の畠山政長と畠山義就による家督相続をめぐる争いで、政長軍は一時弘川に陣を構えました。義就軍がこれを攻め、兵火によって寛正四年(一四六三)焦土と化しました。本尊薬師如来像をはじめ、弘法大師像、空寂上人像は兵火をまぬがれ、今に奉安しています。
江戸中期の歌僧似雲は、享保十七年(一七三二)旧暦二月十六日西行の古墳を発見しました。その後西行堂を建立し、西行墳周辺に供華の桜を植え、「花の庵」を建てて住み、八十一歳の生涯を西行の顕彰に尽くしました。
西行の八百年遠忌(平成元年=一九九〇)を記念して、永くその遺徳を顕彰し、文化の向上を図るため、西行記念館を建設しました。館内には、西行に関する当寺伝来の寺宝をはじめ、西行ならびに似雲についての貴重な宝物を収蔵しており、春季・秋季に開館しています。
西行墳の奥、東方約三・五ヘクタールの桜山には、似雲が植えた山桜および西行八百年遠忌に供華された桜約千五百本が植樹され、春は壮観です。本坊庭園内には、樹齢約三百五十年の天然記念物「かいどう海棠」があり、四月中旬に見頃を迎えます。

野中寺:野中寺は、飛鳥時代に創建され、難波から飛鳥に至る竹内街道に面していました。寺伝によると、聖徳太子の命令で蘇我馬子が造営したとされています。古くから「中の太子」と呼ばれ、太子町叡福寺の「上の太子」、八尾市大聖勝軍寺の「下の太子」とともに、「河内三太子」の一つに数えられています。
創建当初の伽藍は、南北朝時代の争乱で兵火にかかって全焼しましたが、礎石は残り、中門跡、金堂跡、搭跡、講堂跡、回廊跡は国の史跡に指定され保存されています。近年の発掘調査により、七世紀中頃には、伽藍が完成していたことが分かっています。
江戸時代初期の寛文年間、政賢覚英師の発願により、真言律のせき碩とく徳である慈忍慧猛和上を中興開山に迎えて、戒律道場(僧坊)として再建されました。延享三年(一七四六)には、一派律宗如法僧坊輪番所として幕府の認可を受けています。
当時、山城国の槇尾山平等心王院、和泉国の大鳥山神鳳寺、河内国の青龍山野中寺は「律の三僧坊」と呼ばれ、戒律を学び修行する僧侶が多数集まっていました。今も、修行僧の寄宿舎である「比丘寮」「沙弥寮」や勧学院の額を掲げる「方丈」など、当時の学苑の建物がそのまま保存されています。
野中寺墓地の一角には、お染・久松の墓があります。これは戒律道場の有力な後援者の一人であった天王寺屋権右衛門が、心中した天王寺屋の娘お染と手代の久松の冥福を祈って、十七回忌にあたる享保七年(一七二二)に建立したものです。このとき、供養のためにお染ゆかりの山茶花が寄進されました。庭園内にある樹齢約三百年の山茶花がそれであると伝えられています。
本尊薬師如来坐像は秘仏で公開されていませんが、毎月十八日には、白鳳期の金銅弥勒菩薩像(重文)や平安末期と推定される木造地蔵菩薩立像(重文)、庭園内の山茶花(大阪府天然記念物)が拝観できます。

四天王寺:大阪市内で最大の寺域をもつ四天王寺は、また、宗派を越えて信仰を集めています。春秋の彼岸やお盆、毎月二十一日のお大師まいり、二十二日のお太子まいりには、縁日の露店も出て、多くの参詣者で賑わいます。
西門からお参りすると、「大日本仏法最初四天王寺」の石碑が目に入ります。その次にあるのが、大きな石の鳥居(発心門)で、そこに掲げてある額は、聖徳太子または小野道風の筆といわれ、「釈迦如来転法輪の所、極楽土の東門の中心に当る」と、浮彫風に鋳出されています。この門は重文に指定されており、彼岸の中日には、門の真東から日が上り、真西に沈むのです。
薬師如来を本尊として祀っている六時堂は、亀の池の北側に、壮大にして重厚な姿で建っています。新西国霊場等にお参りの人々は、この六時堂に参拝し、納経所で押印揮毫を受けることになっています。
今から千四百有余年前の推古元年(五九三)十月、推古天皇の摂政皇太子であった聖徳太子は、日本仏法最初の大寺である四天王寺を創建され、外交・内政両面の拠点とされました。寺伝によれば、太子は金堂に仏法守護の四天王を安置して平和を祈り、六道利救の五重塔を建立して人々の救済をめざされました。
伽藍の建立にあたっては、四箇院制度により、敬田院、悲田院、施薬院、療病院を構えられ、物心両面より人々の救済と平和国家の建設に邁進されました。以後、四天王寺では、太子の遺業を継ぎ、教学伝道などの実践活動を通じて仏教の興隆と学校法人四天王寺学園・社会福祉法人四天王寺福祉事業団の各事業の充実につくして、現在に至っています。

国分寺:〝日本一長い〟といわれる天神橋筋商店街。その北寄り、天六(天神橋筋六丁目)交差点から東へ約三百メートル、北へ折れると左手に国分寺があります。
寺伝によりますと、斎明天皇の時代(六五九)に遡ります。天皇は先帝・孝徳天皇の菩提を弔うため先に入唐した僧、道昭に命じて長柄豊碕宮の旧址に一宇を建立してなが長ら柄でら寺と称しました。聖武天皇が天平十三年(七四一)に一国一寺の国分寺創設の詔勅を出されると、長柄寺を改称して摂津の国における国分寺、すなわち金光明四天王護国之寺としました。その後「長柄国分寺」とか「護国山国分寺」と呼ばれるようになります。
それ以来約千三百余年、十四天皇の勅願道場として法灯を伝えてきました。その間数々の災禍を受け、とりわけ大阪夏の陣の元和元年(一六一五)には全焼、荒廃するも、約百年後の享保三年(一七一八)に再建落慶。明治初年まで四ヘクタールの広大な境内と寺領を有していましたが、廃仏毀釈でほとんどの領地を失い、本坊を残すのみとなりました。さらに昭和二十年(一九四五)六月には多くの寺宝とともに旧書院門を残して灰燼に帰するのです。
幸い全国各地の本山所属教師はじめ壇信徒のご外護で、昭和本堂、霊明殿、護摩堂、鐘楼堂等を再建し落慶し終えたことは、有縁・無縁の方々のお力添えによるものであり、仏恩の広大無辺を報謝しております。
国分寺は明治六年までは一宗一派に属しない勅願道場として独自の地位にあり、徳川中期には幕府の朱印をもって日本国中の巡回には関所道中御免の鑑札発行の特権を与えられ、全国各地に有縁の衆徒数千人を数え、在家信仰者の本山となりました。その後、真言宗教王護国寺所属となったのをはじめ明治末期には高野山に合併せられるなど、さまざまな変遷を経て戦後の宗教法人法公布により「真言宗国分寺派」を公称し、その大本山として現在に至っております。

兵庫方面に向かう。

昆陽寺:当寺は、第四十五代聖武天皇の勅願所として、行基菩薩によって天平五年(七三三)に建立されました。『古今著聞集』には、行基菩薩が有馬温泉に行く途中、発願し建立したとあります。
その頃の当地は『万葉集』にいな猪名の野笹原と詠まれているような荒地でした。神亀年間(七二四~二八)に朝廷に奏聞し、勅許を受け、東は伊丹坂、西は武庫川、南は笠ヶ池、北は後通墓の四方を限りとする方五十町の地を賜り、その中心の四町四面に七堂伽藍、僧房、堂宇を建立したのです。また、昆陽池をはじめ大小池十二ヵ所、堀川四ヵ所、樋三ヵ所、溝七ヵ所、堤二十ヵ所などを築き、灌漑をはかり、水田百五十町歩を開墾。これを昆陽の庄と名づけました。行基菩薩自ら刻んだという半丈六の本尊薬師如来、十一面観音、普賢、文殊菩薩像、四天王像などを安置し、国家安全、五穀豊穣などを祈願しました。
西国街道(国道一七一号線)に面した交通の要所にあたり、布施屋を設け、病人、孤独、貧しい人々を救済し、社会福祉事業の拠点となりました。以来、行基菩薩の徳を慕う者数多く来集し、次第に隆盛をきわめ、天平勝宝六年(七五四)二月二日の菩薩遷化後も、遺弟光信ら代々出世して院家を守護してきました。
その後、たびたび火災の難に遭い、ことに天正七年(一五八〇)織田信長が伊丹城主荒木村重を攻略したとき、兵火にかかり堂塔伽藍が灰燼に帰しました。しかし、行基菩薩の徳を讃仰する信徒、地利の恩恵に俗する行基氏子が物心両面の力を合わせ、昔の遺跡に堂宇を再建されました。
しかし、平成七年(一九九五)一月十七日午前五時四十六分、阪神淡路大震災により数百年の歴史を誇った堂宇も一瞬にして崩壊しました。傾きの小さい堂は起こし、倒れた堂宇は木材や柱を生かし、震災直後より復元・復興工事に着手。平成十年(一九九八)五月に一応の完成を見ました。
山門と観音堂は兵庫県、伊丹市の重要有形文化財に、開山堂内の二天(持国天、広目天)も文化財の指定を受けています。開創以降秘仏とされてきた本尊の薬師如来は、大震災後はお姿を現し、法要時には開帳しています。

東光寺:当寺は通称「門戸厄神・厄神さん」と親しまれ、駅名にもなっています。阪急電車今津線の門戸厄神駅から七百メートルの所にあり、正式には「別格本山 松泰山 東光寺」といいます。寺名の東光寺は、薬師如来がおられる浄土、東方浄瑠璃世界から光が発せられる寺という意味で名付けられました。古くから厄除開運の祈願寺として名高く、多くの人々に知られ信仰されています。
天長六年(八二九)嵯峨天皇が四十二歳の厄年のおり、愛染明王と不動明王が融合一体の厄神明王となって現れ、諸々の災厄を打ち払った夢を見られました。それを聞かれた弘法大師(空海)が自ら厄神明王を三体刻まれ、三年間の厄年を祈祷し無事に過ごされました。その後、一体を国家安泰の厄除けを願い紀州高野山麓の「天野明神」へ、一体を皇家安泰の厄除けにと山城男山の「石清水八幡宮」に、もう一体を民衆厄除けのため、ここ摂津門戸の「東光寺」に納められました。これが世にいう「日本三躰厄神明王」です。
古くは七堂伽藍をそなえ荘厳な構えを見せていましたが、織田信長の荒木村重攻めの兵火にかかり、堂宇が焼かれてしまいました。しかし、弘法大師自刻の厄神明王は一部の損傷もなく、再建されたお堂に祀られました。明治維新の廃仏毀釈により寺領地は縮小されましたが、厄除け守護の厄神明王の威徳は今なお受け継がれています。
現在、境内表門の下には四十二段の男厄坂、中楼門の下には三十三段の女厄坂と呼ばれる厄年にちなんだ階段があり、一段一段厄を落としながらお堂にお参りするようになっています。朱塗りの色鮮やかな中楼門をくぐると薬師堂、厄神堂、大黒堂、大師堂、不動堂などの諸堂が整然と建ち並び、伽藍の背景には山号が示すように山肌一面に松の木が生い茂り寺観を引き立てています。
年中行事の内、特に毎年一月十八・十九日の厄除大祭には、駅から寺までの参道両側に数百軒の露店が並び二日間で数十万人の参詣者で賑わいます。近年は近畿だけにとどまらず、全国各地からお参りがあり、外国居住の人も厄除けに参詣するなど篤信者の人々が日増しに増え続けています。

鶴林寺:朝鮮から仏教が伝えられた日本では、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が対立していました。この頃、高句麗より来朝した高僧・恵便法師は、物部守屋の迫害を逃れて播磨に身を隠していました。これを聞いた聖徳太子は、はるばるやって来て教えを受け、その後十六歳のとき秦河勝に命じて精舎「四天王寺聖霊院」を建立されました。これが当寺のはじまりです。
その後、養老二年(七一八)武蔵の国の大目身人部春則が太子の遺徳を顕彰するため、寺域を拡張して堂塔伽藍を建立し、寺名を「刀田山四天王寺」と改めました。
慈覚大師円仁(七九四~八六四)は入唐のおり、当寺に立ち寄り、薬師如来を刻し、堂塔伽藍を修理して、国家の安泰を祈願したので、以後、天台宗に属しました。十二世紀初め、鳥羽天皇より鶴林寺の勅額を賜り「刀田山鶴林寺」と改めました。
室町時代には、寺領二万五千石、寺坊三百坊、楽人数十名を擁し全盛時代を迎えますが、織田信長、豊臣秀吉、江戸幕府などの圧政、また明治の廃仏棄釈などにより衰亡の一途をたどりました。
しかし、今なお広大な境内には、国宝の太子堂(一一一二年)・本堂(一三九七年)、重要文化財の常行堂、行者堂、鐘楼、護摩堂など十六棟が建ち並んでいます。また、白鳳時代の有名な聖観音像をはじめ、彫刻、絵画、工芸品、文書などの文化財二百余点を所蔵、まさに仏教美術の宝庫です。
通称「刀田の太子さん」「播磨の法隆寺」とも呼ばれ、春の太子会式には植木市、金物市などの露店が立ち並び多くの参詣者でにぎわいます。四季折々に咲く菩提樹、沙羅、さつき、センダン、椿などの花々も参詣者の心をなごませてくれることでしょう。

斑鳩寺:斑鳩寺は今から千四百年前に、聖徳太子がご開創になった霊刹です。日本書紀によれば、推古天皇十四年(六〇六)秋七月、太子は推古天皇のご前にて勝鬘経を三日にわたり講ぜられました。その後、法華経八巻をも講ぜられ、推古天皇より賜われたのが、播磨国揖保郡の水田百町です。太子は斑鳩荘と名づけられ、法隆寺に施入されました。
以来、大和法隆寺の支院として七堂伽藍や数十の搭中が建てられ、播磨の荘園として法隆寺を経済的に支えていましたが、天文十年(一五四一)四月七日、火災に遭い、そのすべてを焼失しました。その後、中興の祖・昌仙法師をはじめとする天台宗の僧侶により再建されたことから天台宗となり、現在に至っています。
伽藍として一番古いのは、三重塔です。赤松政秀の寄進により、永禄八年(一五六五)建立された国指定重要文化財で、太子伝来の仏舎利が輪中に収められています。正面の講堂には、止利仏師一刀三礼の作と伝えられる丈六の坐像三躯(いずれも国指定重要文化財、向かって右に薬師如来、正面に釈迦如来、左に如意輪観音を安置)をお祀りしています。いずれも秘仏ですが、近年は二月二十二日の太子のご命日にご開扉されます。
左手にある聖徳殿には、聖徳太子ご自作と伝えられる十六歳孝養像が安置されています。太子十六歳のとき、父君用明天皇がご病気になられ、七日七晩飲食を絶ち、柄香炉を捧げて病気の平癒を願われました。この時のご尊像で、髪を植えてあることから、「うえ植かみ髪の太子」と呼ばれています。また御衣を召しておられ、数十年に一度衣替えの行事が行われます。現在の御衣は昭和三十七年(一九六二)に高松宮宣仁親王殿下のご寄進になるものです。太子像の祀られている聖徳殿奥殿は、大正三年(一九一四)に竣工した、法隆寺夢殿を模した八角円堂です。
講堂の裏手にある聖宝殿には、行基菩薩作の日光、月光菩薩立像や十二神将立像八躯(国指定重要文化財)、勝鬘経講讃図、摩利支天像など、多くの宝物が展示されています。

神積寺:寺伝によれば、比叡山延暦寺の第十八代座主じえ慈恵大師良源の高弟けい慶ほう芳上人が、全国をじゅん巡しゃく錫のとき、この地へ来られました。現在の辻川の有井堂(現存)に一夜の宿を取られると、枕元に文殊菩薩が立たれ、「この東の山裾は仏法興隆の聖地であるので、薬師如来を祀り衆生を済度せよ」と告げられたといいます。山号の「妙徳」は文殊の異名であり、今も「田原の文殊さん」と慕われ、入学、就職の祈願に多くの人々が訪れます。
一条天皇の勅願により、当山が開かれました。上人の弟子、三条天皇の第七皇子覚照阿闍梨の帰依によって、寺運はさらに隆昌し、七堂伽藍と五十二院を数える隆盛を見ました。しかし、延慶二年(一三〇九)火災に遭って焼失。現在の建物は、天正十五年(一五八七)有馬法印によって再建されたものです。
本尊の薬師如来坐像は、優雅で豊満な藤原仏の特色を色濃く残しており、国の重要文化財に指定されています。また、寺の西の小高い丘の上に建つ石造の五重塔は、鎌倉時代のもので県の文化財になっています。この塔の下が慶芳上人のご廟所で、土地の人はここを「じょうぼこ定祠さん」と呼んでいます。上人はここに大きな穴を掘り、その中に入ってお経と念仏を唱え、足を組み鉦を打って定に入られました。中の音が聞こえる穴が開けられ、念仏と鐘がやんだら穴をふさぐように遺言されたと伝えられています。
神積寺では、八百年前から伝わる「つい追な儀しき式または修正会」の行事が毎年一月成人の日に行われ、遠近よりたくさんの参拝者で賑わいます。本尊の薬師如来が「山の神」に姿を変え、お供に赤鬼(日光菩薩)、青鬼(月光菩薩)を従えて、松明を振りかざし、息災延命、家運隆昌、七難即滅、七福即生、諸願成就を祈り、燃え終わった松明を空中に投げ上げ、参拝者は悪魔退散、災難除けとしてこぞって松明を奪い合います。
境内には、本堂より五〇メートル南東に、奈良の藤の木古墳と同じ時代と思われる横穴式古墳があります。石室は早い時期に盗掘され、内部には何も残っていませんが、考古学研究には貴重な存在です。民俗学で有名な柳田国男の生家が神積寺の南西約一キロのところにあります。こうした風土が柳田国男を育てたといえそうです。

花山院菩提寺:当山は白雉二年(六五一年)天竺より渡来したとされる法道仙人によって開かれたと伝えられています。ちなみに西国三十三カ所の二十五番清水寺と二十六番一乗寺も、法道仙人によって開かれています。法道仙人は役行者と並ぶ法力を持った修験僧であり、当山もその修行の聖地として開かれました。後に花山法皇(人皇第六十五代花山天皇)は、西国三十三カ所観音霊場巡礼をご再興の後、当山に錫を留められました。
眼のあたりには秀峰有馬富士を見、南には六甲連山、西には広く播州平野から播磨灘、そして小豆島までを一望におさめるゆうすい幽邃かんが閑雅の景色はいたく法皇の御感に召したのでしょう。この山こそ終生仏道修行に励む聖地として他に勝るものはなしと思い定められたのです。その御心は、御製に「名にしおう 我が世はここに尽くしてむ 仏の御国近きわたりに」(当山第二番の御詠歌)と詠まれたことが如実に物語っています。
そして寛弘五年(一〇〇八年)御年四十一歳でご崩御なされるまで、当地で仏道修行にご精進なされたのです。法皇亡き後、当山は花山法皇(花山院)の菩提を弔うお寺として、寺号を花山院菩提寺と称するようになりました。
法皇は後の人から西国三十三カ所観音霊場中興の祖として仰がれ、観音霊場を巡礼する人たちは、花山法皇への尊崇帰依の心を示すべく当山に参詣するのがその勤めとなり、薬師霊場であるこのお山が、西国三十三カ所観音霊場の番号外の札所となったのです。
なお麓には女官たちが花山法皇を慕い来たるも、その時代の出家僧の戒律では男女共に住むこと許されず、自らも尼僧となって生涯を過ごした女官たちの墓「十二尼妃の墓」があり、村の名前もにん尼じ寺村と称して哀史を今に伝えています。

久安寺:久安寺は、神亀二年(七二五)に僧行基によって開かれたと伝えられます。天長年間(八二四~三四)には、弘法大師が真言密教の道場として中興、安養院と呼んでいました。久安元年(一一四五)には、賢実上人が近衛天皇の勅願所として再興、楼門、金堂、搭などの伽藍と、四十九の坊舎を建立し、久安寺と号しました。
豊臣秀吉はここで月見や茶会を楽しんだといいます。そのときの手植のかや榧の木や腰掛石が残されています。江戸中期には、歌人の平間長雅がこの寺に在住し、寺の興隆に力を尽くしました。現在は霊園事業を基に昭和の興隆事業を起こし、曼荼羅思想によって諸堂や庭園を整備しています。
お参りは、国の重文に指定されている楼門から始まります。楼門は久安元年に建立されたもので、近衛帝の勅願額を掲げています。昭和三十四年(一九五九)に解体調査をされ、室町初期に大修理されたことが分かりました。室町の彫刻である金剛仁王尊を安置しています。
楼門をくぐれば、苔むす石垣、楓の老木が古刹の雰囲気を漂わせ、参拝の方々を迎えます。楼門から北に三百五十メートルの参道が金堂跡まで続いています。一万坪を越える境内には、季節の花々が咲き乱れ、趣き深い庭園が広がります。
薬医門の奥には、小坂院が本坊として残っています。小坂院は、賢実上人が再興した四十九の坊舎の一つで、往時を偲ぶことができます。弘法大師を祀る御影堂を拝んだ後、西国三十三所観音が祀られている三十三所堂に着きます。
その奥には、弥勒山を背にして、高床式の阿弥陀堂が建っています。本尊の阿弥陀如来坐像(重文)はじめ、多くの仏さまを祀り、文化財を保存しています。平成三年(一九九一)には念願の薬師堂が完成し、薬師霊場本尊の薬師如来立像(市指定重文)を安置しました。庭園とともにこれらの文化財も時間をかけて拝観したいものです。

18:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行奈良県和歌山県大阪府兵庫県に点在する西国四十九薬師霊場19か所を訪れ楽しみました。
広範囲のため移動に時間がかかり土日2日間で何とか19箇所訪れることができました。残り30箇所次回に持ち越しです。近いうちに訪れたいです。






















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十八弾:徳島県香川県重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2019年3月2-3日


四国の瀬戸内海に面した徳島県・香川県に足を運び、徳島県・香川県に点在する重要伝統的建造物群保存地区6か所を訪れました。

2日12:30車で出発、阪神、明石淡路自動車道を経由して、引田方面に向かう。

引田:昔ながらの景観を今に伝える引田の古いまち並みは、引田の氏神である誉田八幡宮から本町通り沿いにかけて残り、大きな商家や赤壁の醤油醸造所、入り組んだ路地など、閑静な通りにはアンティークな趣きが漂います。特に松の下近傍には引田御三家といわれる旧庄屋の「日下家」、醤油業の「岡田家」(かめびし)、酒・醤油業の「佐野家」(旧井筒屋)の家屋敷が軒を並べています。

池田方面に向かう。

脇町:四国の玄関口である徳島市から西へ約40km。清流・吉野川沿いに『うだつの町並み』が今も残る美馬市脇町がある。
ここ脇町は、鎌倉中期に築かれたとされる脇城の城下町として栄え、“最初の戦国天下人”と呼ばれた三好長慶によって町並みが形成された。
鳴門から池田までを結ぶ撫養(むや)街道と讃岐越えの峠道に面した交通の要衝であり、吉野川の水運にも恵まれたことから商業の街として発展し、特に阿波の特産品である『藍』で財を成した豪商たちが、脇町の当時のメインストリートだった南町通りに競って屋敷を構えた。
こうして“うだつの上がる町”が誕生したが、時代が移って藍染めに使われる『藍』が化学染料へと変わると、『繭』や『葉煙草』の集積地へと変化。また、大正3(1914)年に吉野川の南岸に鉄道が開通し、陸上運送のための道路が開通すると商売の中心地が変わり、メインストリートだったはずの南町通り一帯にはいつしか古いうだつの町並みだけが残された。

貞光:北町から南町ヘと続く通りには江戸後期から大正にかけて建築された商家があり、その多くがうだつを上げています。町にはうだつの上がった建物が約50軒あります。特に二層うだつが何軒も続く中町から南町にかけての景観は壮快です。当時の趣を残そうと1998年には「貞光町町並み保存条例」が施行され、商店の顔、また町の貴重な文化遺産として、うだつは現在も住民の生活とうまく調和しています。
つるぎ町貞光のうだつは、脇町のうだつとは少し違い、うだつの前半分が一段低く二段式になっています。二層うだつと呼ばれ全国的にも珍しいもので、二段式になった防火壁に立派な屋根がある重厚なものです。正面には家ごとに異なる美しい絵模様が施され、重層な美術工芸としても貴重です。

17:30池田駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

3日7:30車で出発、祖谷方面に向かう。

東祖谷山村落合:

丸亀方面に向かう。

丸亀:高さ日本一の石垣に鎮座して400年の歴史を刻む丸亀城。大手門から見上げる天守は威厳に満ち、夕暮れの天守は優しさをまとって、心を和ませます。
400年の時を経た今日でも決して色あせることなく、自然と調和した独自の様式美をはっきり現在に残しているのです。

12:10丸亀港から高速艇で本島に向かう。
12:30本島到達、散策。

本島:塩飽水軍、塩飽廻船の根拠地として栄えた港町で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。細く入り組んだ道に伝統的な建物が並ぶ美しい町並みが楽しめる。例年、勤労感謝の日には、笠島まち並ふれあい祭りが開催される。

14:15本島高速艇で出発
14:35丸亀港到達、帰路に向かう。

今回の旅行、四国の徳島県・香川県に足を運び、徳島県・香川県に点在する重要伝統的建造物群保存地区6か所をおとずれ楽しみました。
何回か訪れたことのある観光名所、数少ない離島での観光名所のある本島での散策観光癒されました。