飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十五弾:南アフリカ&レソト&エスワティニ&モザンビーク観光
2019年4月28日-5月6日
 

南部アフリカに位置する
南アフリカ:アフリカ大陸の最南端、インド洋と大西洋を結ぶ要衝の地に位置する。太陽の国と言われるほど年間を通じて晴天の日が多く、全体的に気候は温暖。また、2000m級の山脈、砂漠と森林、高原と平野など多様な地形と気候を反映して、動植物の宝庫でもある。自然や文化遺跡も豊かであり、「スタークフォンテン・スワークランズ・クロムドライ及び周辺地域の人類化石遺跡群(アウストラロピテクスなどの人類化石が発見された遺跡群)」、及びロベン島(ケープタウン沖にあるアパルトヘイト時代の刑務所島)などの文化遺産、「グレーター・セントルシア湿地公園」、「ケープ植物区系の保護地域群」などの自然遺産等、計7カ所が世界遺産に指定されている。 群を抜いたアフリカの経済大国であり、サハラ以南アフリカ地域諸国のGDPの約4割を占める。わが国と南アとの貿易額はわが国と同地域の貿易額の約5割、直接投資額は同地域(リベリアを除く)の約7割を占める。豊富な天然資源を有し、特に金、クロム鉱、白金(プラチナ)、バナジウム等の生産量、埋蔵量は世界上位。

レソト:レソトは周囲をすっぽり南アフリカ共和国に囲まれ、標高が1,500メートル以上、高い山脈が多いので、「アフリカのスイス」「山の王国」「天空の王国」と呼ばれています。
国土は日本の九州より小さく、人口は188万人です。日本と同じように四季があり、四季を通してさまざまなスポーツと冒険が楽しめるのもレソトの「ユニーク」なところです。手付かずの自然がそのまま残っており、天然資源も豊富でダイヤモンド、宝石、鉱物、ミネラルウォーターなどこれからの産業発展が期待されます。2006年レソトの鉱山から603カラットのダイヤモンド「レソトプロミス」が採取されました。これは世界で15番目に大きなダイヤモンドだそうです。
レソトの産業で世界に知られているのがテキスタイルです。皆さんが着ているGAP, Levisなどの商品はほとんどが「メイド・イン・レソト」なんです、ご存知でしたか。レソト人はとても勤勉で手先が器用です。今後は日本の精密機械など中東、欧州への輸出Hubステーションの役割を担う可能性も大いにあります。

エスワティニ:周囲を南アフリカとモザンビークに囲まれた小さな内陸国で、19世紀の建国当時から続く、国王を戴く立憲君主制国家です。もう一つの南部アフリカで国王を戴く国レソトと同様に、イギリスとボーア人の国々、そしてズールーの王国との緩衝地帯的な立ち位置で、保護領化されつつも古くから続いてきたスワジ人独特の政治組織を守り、1968年に再度独立を果たしています。
国民の90%以上がスワジの人々で、アフリカ諸国中最も同種族の率が高く、世襲君主である国王によって治められています。立憲君主制とは言っても国王の権力は非常に強く、議会はあるものの閣僚のほとんどを王族が占め、ほぼ絶対王政といってもよい政治体制が敷かれています。国王の権力独占への反対や、激しい民主化要求はあるものの、人々は伝統文化を尊重しており、今日まで武力抗争もなく続いてきたため、最後の古王国とも言われています。
時が自然のままゆったりと流れる国で、訪れる観光客もまだ少なく、いわゆる"リゾート"に疲れた人々にとっては、南部アフリカの中のオアシス的な存在と言えるのではないでしょうか。アフリカらしい自然、文化、人々に触れたい方には、エスワティニはお勧めです。

モザンビーク:モザンビークはインド洋に面して南北に延びる国土を持つ、美しい海岸線が魅力の国です。南部アフリカでは珍しく、公用語はポルトガル語。モザンビークという国名は、ユネスコの世界遺産にも登録されている島の名前からきており、歴史に彩られたその島、世界遺産でもあるモザンビーク島の名前は、ヴァスコ・ダ・ガマ時代のスルタン‘ムーザ・アル・ビック’の名に由来しています。
8世紀頃からアラブ人が金・銀の交易のために訪れ、11世紀からは現在のジンバブエにあったとされる内陸のモノモタパ王国と貿易関係を築き、当時の最大の交易拠点だったソファラは、スワヒリ文明最南端の都市として栄えました。1498年のヴァスコ・ダ・ガマに始まるポルトガル人の来航以降、17世紀にはモザンビーク島、後にはロウレンソ・マルケス(現在の首都マプト)をポルトガル領東アフリカの首都として、ポルトガルの植民地支配が確立されました。第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入って近隣諸国が独立していく中も、ポルトガルは植民地政策を継続。圧政に対して、1964年にモザンビーク解放戦線が結成され、武装闘争を開始。長い独立闘争の末、1975年6月25日にモザンビーク人民共和国として独立を果たしました。独立後も隣国や冷戦下の東西陣営の様々な思惑が絡み、1977年には内戦が勃発。1992年に終結するまで15年の長きにわたり内戦に苦しみました。1990年代後半以降からは経済を急速に発展させ、1996年から2006年までに年平均8%の経済成長を達成、内戦での遅れを取り戻す勢いで発展し続けています。
実は日本とは歴史的に古くから関係があり、記録に残されている中で日本を訪れた最初のアフリカ人はモザンビーク人(織田信長の時代に、イエズス会宣教師ヴァリニャーノとともに来日した「弥助」)だったといわれています。逆に日本からは、1586年に「天正遣欧少年使節」の一行が日本への帰途天候待ちのためモザンビーク島に滞在しています。
見所は何と言っても、アフリカ屈指の美しさを誇る海と海岸線、そして歴史ある島々でしょう。モザンビーク島をはじめ、アラブとの交易拠点だった島々の街並には、アフリカ、ポルトガル、アラブの融合を感じられます。また、近隣諸国に比べ物価が安いためヨハネスブルクの人々が、長期休暇の際に訪れることが多いようです。したがってインフラはある程度整っています。日本への高級エビの輸出で知られるように、シーフードが美味で(しかも安い!)日本人の口によく合います。また‘カリル’と呼ばれるモザンビーク風カレーも日本人好みで、食事の面でも色々な国の影響を感じられます。
の4カ国を訪れました。

4月28日14:40伊丹空港日本航空で出発
16:00成田空港到達
22:20成田空港カタール航空で出発
29日4:10ドーハ到達
7:05ドーハカタール航空で出発
17:25ダーバン到達、バスでダーバン市内のホテルに向かう。

ダーバン:ヨハネスブルグに次ぐ人口[1] の都市であり、重要な外港である。2010年の都市的地域の人口では322万人であり、同国ではヨハネスブルグに次ぐ第2位である[2]。ズールー族が多く、英語よりもズールー語が話されている。またインド系移民の人口が極めて多く、約80万人ほどいるといわれている。
古くから高級リゾート地としても知られており、海沿いには大型のリゾートホテルが立ち並ぶ。このためスポーツ施設やインフラが整っており、毎年のようにラグビーや水泳などスポーツの世界選手権や、国連の各機関が開催する国際会議の開催地として選ばれている。2010年にはFIFAワールドカップの会場の一つになった。

18:30ホテル到着
19:30ホテルで夕食
21:00就寝

30日8:00バスで出発ドラケンスバーグ山脈の麓に佇むアンダーバーグに向かう。

ドラケンスバーグ:アフリカーンス語で“ドラゴンの山”を意味する「ドラケンスバーグ山脈」は、リンポポ州南東部から東ケープ州北西部を結ぶ長大な山の連なりで、その距離は1000km以上にも及びます。なかでもレソト国境と接するクワズールー・ナタール州の西端は、最も高い3000m級の山々が林立。この山岳地帯を取り巻く一帯が「ドラケンスバーグ」です。
ドラケンスバーグは登山やハイキング、釣りや乗馬、ゴルフ、ヘリコプター遊覧観光などの様々なアクティビティが体験できる、南アフリカの雄大な自然を体感するには絶好の場所!クワズールー・ナタール州最大の都市「ダーバン」からは、車で2時間程で訪れることができます。

途中ピーターマリッツバーグを訪れる。

ピーターマリッツバーク:ピーターマリッツバーグは、マハトマ・ガンディーの若い頃に遭遇した事件の地として有名である。1等席の切符を買い、列車で移動していたガンディーは、席のない白人男性へ席を譲った上で有色人種用の3等席へ行くよう車掌に命じられたのを断ったため、ピーターマリッツバーグで列車から追い出されたのである。この事件をきっかけに、ガンディーは、南アフリカ在住のインド人に対する差別を援護する法に抗議するようになったのである。現在、市中心部のチャーチ通りに、ガンディーのブロンズ像が立っている。

マハトマ・ガンジーの像:マハトマ・ガンディーの若い頃に遭遇した事件の地として有名である。1等席の切符を買い、列車で移動していたガンディーは、席のない白人男性へ席を譲った上で有色人種用の3等席へ行くよう車掌に命じられたのを断ったため、ピーターマリッツバーグで列車から追い出されたのである。この事件をきっかけに、ガンディーは、南アフリカ在住のインド人に対する差別を援護する法に抗議するようになったのである。現在、市中心部のチャーチ通りに、ガンディーのブロンズ像が立っている。
シティ・ホール:ガンディー像の向かい側には赤レンガ造りの市庁舎が建つ。高さ47mの時計塔が街のシンボルになっている。

午後アンダーバーグ到着

アンダーバーグ:ドラケンスバーグの峰々に抱かれたアンダーバーグ

博物館:コイ・サン族の描いた岩壁画を鑑賞

アンダーバーグ市内のホテル到達、食事、就寝。

5月1日
8:30バスで出発、レソトに向かう。

ドラケンスバーグのサニ・パス峠:国土全域が標高1,500m以上の山々に囲まれたレソト。南アフリカから陸路で国境を成すサニ・パス(峠)を越え、急峻な山々が連なる美しい風景を楽しみながら首都マセルへ向かいます。

バソト族の村:南アフリカに囲まれた標高1500mの小さな国、レソト。アフリカの大地が作り上げる美しい自然が広がるその景観は「アフリカのスイス」と呼ばれ、アフリカでありながら冬には雪が舞い降ります。ここに暮らすバソト族は別名、毛布の民。100年以上の歴史あるブランケットを身に纏い生活しています

モコトロング村:10ある レソトの県のうちのひとつ。面積は4,075 km2で、人口は約130,000人である(2004)。 県都はモコトロングである。県内にはマロティ山脈といった高地や、センク川の源流がある。レソトでもっとも貧しくて、辺鄙な場所であり田舎である。
レソトの美しい山岳風景:国土全域が標高1,500m以上の山々に囲まれたレソト。南アフリカから陸路で国境を成すサニ・パス(峠)を越え、急峻な山々が連なる美しい風景を楽しみながら首都マセルへ向かいます。

アンダーバーグ市内のホテル到達、食事、就寝。

2日6:00バスで出発
エスワティニの首都ムババーネに向かう。

ムババーネ:エスワニティの首都(行政府)。同国西部,南アフリカ共和国との国境に近く,ヨハネスバーグの東方約300kmにある。付近にスズ鉱山がある。モザンビークのマプト港,南アへの交通の要地。郊外のロジスレジに王宮があり,立法府はロバンバにある。6万281人

途中ホーウィックによる。

ホーウィック:ダーバンの北西100キロメートルのホーウィックでは1962年にマンデラが逮捕された道路脇に碑が建ち、向かいの「ネルソン・マンデラ・キャプチャーサイト」では展示館と記念の彫刻が設けられている。

ネルソン・マンデラの巨像:この国にはマンデラ氏にちなんだ博物館や記念碑が数多く作られていますが、ホーウィックの郊外に作られたこの像もその1つです…

ホーウィックの滝:南アフリカ共和国東部、クワズールナタール州の都市ピーターマリッツバーグの北西約25キロメートルにある滝。ウムゲニ川にかかる落差約95メートルの滝であり、景勝地として知られる。

ムババネーム市内のホテル到着後食事就寝。

3日8:30バスでクルーガー国立公園の基点となるネルスプリットに向かう。

ネルスプリット:南アフリカ共和国北東部、ムプマランガ州の都市。同州の州都。モザンビーク国境から約60キロメートルに位置する。ヨハネスブルクおよびモザンビークの港湾都市マプートと鉄道で結ばれる。バナナ、レモンなどの果樹栽培が盛ん。クルーガー国立公園への観光拠点。

エズルウィ二渓谷:エズルウィニ渓谷とロバンバ周辺は山に囲まれた避暑地のリゾート。ムババネとマンジニの中間にあるこのエズルウィニは、スワジランドの王族が住んでいたような場所で、今も国立博物館やスワジ文化村などがある、観光の中心となっている町だ。
ロバンバ:ロバンバ(Lobamba)は、エスワティニの王都。人口は約11000人(2006年)規模であり、エスワティニ王国第3の都市である。 行政首都はムババネであるが、ロバンバには王宮と議会が置かれており、立法の首都となっている。また、王母の宮殿もロバンバにある。ロバンバには王宮や議会のほかに、スワジランド国立博物館やソブーザ2世記念公園などがある。ソムホロロ国立競技場は、スポーツイベントのほかに王家の戴冠式などの国家的イベントにも使用される。

国立博物館:渓谷沿いの国立博物館ではスワジ文化の展示物を見物することができる。

キング・ソブーサ像:スワジランドの国王 (在位 1921~82) 。 1921年イギリスの保護領スワジランドのスワジ族の王になり,68年9月独立に伴い国王 (元首) 。 73年4月憲法を停止し,立法,司法,行政の三権をみずからの手に集中し,その後新憲法を制定してその合法化をはかった。
スワジ文化村:スワジランドの昔の住居などを再現し、伝統的な暮らしなどを紹介している設備。スワジダンスは「足を蹴りあげる」のが特徴で、男性だけでなく女性も同じように踊る。

バーバートン山脈:南アフリカ北東部。バーバートン・グリーンストーン・ベルトと呼ばれる地球最古の火山岩や堆積岩が状態良く保たれ、35億年前の始生代からの生命体の存在が確認されている。
また、32億年前に地球のプレート移動のきっかけになったのではという説もある小惑星が衝突した痕跡が発見されている。 2018年バーレーンの首都マナーマで開催された第42回世界遺産委員会において、南アフリカの「バーバートン・マコンジュワ山脈」が世界自然遺産として登録されました。

ネルスプリット市内のホテルで夕食、就寝。

4日5:00バスで出発。
クルーガー国立公園のドライブサファリに向かう。

クルーガー国立公園のドライブサファリ:南アフリカでサファリと言えば、クルーガー国立公園。有名なビッグファイブを見れるだけでなく、数百種類もの鳥、古代の木々、曲がりくねった川などがあり、古代から続く大自然に圧倒されることでしょう。

モザンビークの首都マプトに向かう。

マプト:アフリカ大陸の南東の海岸線に位置するモザンビーク。そのモザンビークの南端に位置するのがマプートです。モザンビークの首都であるマプートには、およそ100万人の人々が暮らしています。マプートはインド洋に面した港町で、かつてはロウレンソマルケスと呼ばれていました。モザンビークは16世紀にポルトガルの植民地でした。その歴史が垣間見える歴史的建造物や、ポルトガル文化が未だにマプートには残っています。そして、マプートのそのロケーションから美しい島も点在します。

マプト市内のホテル夕食、宿泊。

5日8:00バスで出発、市内観光。

ノサ・セニョーラ要塞:ポルトガル植民地時代に築城されたノサ・セニョーラ要塞

自然史博物館:1911年に完成したコロニアル様式の建物が印象的なこちらの博物館は、マプートの観光名所の一つとなっています。
マプート自然史歴史博物館では、アフリカ、モザンビークに存在した固有の動物の剥製や古代の陶器などが主に展示されています。多くの展示は古代のアフリカの光景を再現されており、まさにタイムスリップしたかのような気分にさせてくれます。
特にこちらの博物館の目玉は、象の胎児の成長過程の標本の展示、シーラカンス、サメの標本、ネオングリーンの水の繊細なジオラマ。想像力を掻き立たせる観光客必見のディスプレイです。

中央駅:モザンビークのマプート観光で必ず訪れたいのがこちらのマプート中央駅です。マプートに観光に来た人が必ず訪れると言っても過言ではないでしょう。その理由は、この駅が、フランス・パリにあるエッフェル塔や、アメリカ・ニューヨークにある自由の女神をデザインしたことで有名なギュスターヴ・エッフェル氏によるデザインであること。マプートで一番人気の観光スポットといえるでしょう。
とても駅とは思えないお城のような建物。大理石で作られた内部のディティールや柱は息を飲む美しさで観光客を驚かせます。一つ一つの作りが美術館のようです。マプート中央駅は、その美しさから、死ぬまでに一度は訪れたい世界の美しい駅ランキングにも選ばれている駅です。電車に乗る予定がない方でも、駅を見に行くだけの価値はありますよ。マプートに訪れたらこちらのマプート中央駅は絶対外せない観光スポットです。

市場:海外に観光に訪れたら、絶対に訪れて損しないのがマーケットです。どの国もどの観光地もそれぞれ異なる個性があるので、何も買わなくてもマーケットを歩いているだけで何か新しい発見がある観光スポットといえるでしょう。
こちらのマプート・セントラル・マーケットもオススメの観光スポットです。モザンビークらしいフルーツや野菜は初めて見るものも多いはずです。

12:00マプト空港
13:45マプト空港カタール航空で出発。
23:15ドーハ空港到達。
6日2:10ドーハ空港カタール航空で出発。
18:40成田空港到達。
20:40成田空港ジェットスターで出発。
22:00関西国際空港到達。

今回の旅行、南部アフリカの4つの国、南アフリカ、レソト、エスワティニ、モザンビークを訪れ、大自然、サファリ、歴史的建造物を巡り満喫しました。
各国の首都にある歴史的建造物、イギリス、ポルトガルの植民地で景観が異なるが歴史的意義を感じる建造物でした。
南アフリカからレソトの国境に向かう道路、4WDでないといけない悪路、苦労して走行しながらドラケンスバーグの景観、天候もよく最高の景勝地でした。
南北に350kmもあるクルーガー国立公園のサファリ、南のほんの一部のドライブサファリでしたが、ウオーターバック、象、インパラ、カバ、シマウマ、バッファロー、キリンに出会い感動しました。
南部アフリカ4カ国のドライブ観光、9日間の旅、堪能しました。


   

































飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十四弾:三重県・愛知県東海三十六不動尊巡礼観光
2019年4月13-14日
   

三重県・愛知県に点在する日本各地には様々な霊場、史跡巡りがあり、東海地方にも不動明王信仰の三十六不動尊霊場があります。1989年(平成元年)に制定された、比較的新しい霊場です。愛知県23ヶ寺、三重県7ヶ寺、岐阜県6ヶ寺、東海三県に広がる36不動尊を巡礼する東海三十六不動尊巡礼の14箇所を訪れました。

13日12:30車で出発、阪神・近畿・名阪自動車道経由して三重県方面に向かう。

常福寺:

新大仏寺:新大仏寺(しんだいぶつじ)は、三重県伊賀市富永にある真言宗智山派の寺院。山号は五宝山。本尊は盧舎那仏。

継松寺:継松寺(けいしょうじ)は、三重県松阪市にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は岡寺山であり、通称・岡寺と呼ばれている。本尊は如意輪観世音菩薩。厄除け観音として知られ、毎年3月の初午大祭は多くの参拝客で賑わう

不動院:

神宮寺:

正福寺:正福寺(しょうふくじ)は、三重県鳥羽市松尾町にある、高野山真言宗の仏教寺院。山号は青峯山(あおのみねさん)で、同名の山の頂上付近にある。別名は嵯峨御所]。
海上守護の霊峰として漁業関係者の篤い信仰を集め[2]、信者は北海道小平町から鹿児島県鹿児島市まで[注 1]日本中に分布する。

伊勢市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

14日7:30車で出発、霊場巡り、愛知方面に向かう。

大聖院:大聖院(だいしょういん)は、三重県四日市市にある真言宗醍醐派の仏教寺院。山号は無動山(むどうさん)。松井寺(まついでら)の寺号を有する。本尊は不動明王。

太智院:大智院(だいちいん)は、愛知県知多市南粕谷本町にある真言宗智山派の寺院。山号は金照山(きんしょうざん)。本尊は聖観世音菩薩。
境内の西側に八百比丘尼が植えたとされる樹齢千年余りの大樟(知多市指定保存樹木)がそびえるほか、眼鏡をかけた弘法大師像「身代大師」(めがね弘法)がある。

大御堂寺:野間大坊(のま だいぼう)は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗豊山派の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は鶴林山。詳しくは鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、宗教法人としての公称は「大御堂寺」である。寺がある美浜町野間は源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。

金蓮寺:金蓮寺(こんれんじ)は、愛知県西尾市にある曹洞宗の寺院。山号は青龍山。本尊は不動明王。弥陀堂は国宝

無量寺:無量寺(むりょうじ)は 愛知県蒲郡市にある真言宗醍醐派の寺院。別称は「西浦不動」。「ガン封じの寺」として知られ、ガン予防の法話や祈祷などが行なわれている。創建は平安時代。本堂の奥に、中国の石窟寺院をモデルにした「千仏洞めぐり」がある。

妙厳寺:豊川稲荷(とよかわいなり)は、愛知県豊川市豊川町にある曹洞宗の寺院。
正式の寺号は妙厳寺(みょうごんじ)[1]。詳しくは「円福山 豊川閣 妙厳寺」(えんぷくざん とよかわかく みょうごんじ)と称する寺院である[広報 1]。 境内に祀られる秘仏「豊川吒枳尼真天(だきにしんてん)」の稲穂を担いだ姿などから、一般には「豊川稲荷」の名で呼ばれるようになった[2][注釈 1]。
商売繁盛などを願う参拝客ら年間約500万人が訪れる[2]。
また、日本三大稲荷の1つとされる[2][注釈 2]。 豊川稲荷は神社ではないものの、境内の参道には鳥居が立っている[1]。
北海道・東京都・神奈川県・大阪府・福岡県に、別院(下記)を持つほか、修行道場として僧堂を設置している。豊川高等学校を運営。

養学院:

遍照院:遍照院(へんじょういん)は、愛知県知立市弘法町にある真言宗豊山派の寺院。山号は弘法山。本尊は空海自らが彫ったと伝承される見返り姿の自像。「三河三弘法」の一番札所であり、第二番西福寺、第三番密蔵院とつづく。このため、地元では「見返弘法」や「知立の弘法さん」として親しまれ、縁日には多くの参拝客で賑わう。

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、三重県、愛知県に点在する東海三十六不動尊巡礼の14箇所を訪れ楽しみました。

今回も規模の大きい寺院が多く、圧倒されました。中には立派な庭園があり、無料で拝見でき、癒されます。


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十三弾:奈良県、和歌山県、大阪府、京都府新西国霊場法話巡礼観光
2019年4月6-7日
  


関西に点在する昭和のはじめ、人気投票によって選定されたという近畿二府四県にわたるユニークな巡拝霊場。庶民的人気に支えられて今も変わらず賑わう三十八ケ寺をめぐる新西国霊場法話巡礼の23箇所を訪れました。

6日12:30車で出発、奈良方面に向かう。

當麻寺:當麻寺は最初、三論宗であったが、弘仁14年(823年)弘法大師が當麻寺に参籠して、真言密教を伝えてから真言宗となり、降って室町期に浄土宗が入ってから、真言、浄土の両宗が法燈を護って現在に至る。古びた山門を入ると日本最古の梵鐘(国宝)を納めた鐘楼、さらに金堂、講堂があり、その奥に本堂(曼荼羅堂)がある。本堂の御本尊が蓮糸大曼荼羅というのも珍しい。この寺ほど、建造物にしろ、仏像にしろ、また絵巻等古文書にしろ、国宝、重要文化財、重要美術品に指定されているものを多く持っているところはすくない。

飛鳥寺:"飛鳥の大仏さん"で知られる飛鳥寺は、通称、安居院という。飛鳥寺は、祟峻天皇元年(588年)蘇我馬子が発願、聖徳太子と共に八ヵ年の日子を費やし、推古天皇の四年(596年)十一月に落慶したという。はじめは法興寺といい、後元興寺と改称され、地名によって飛鳥寺と呼名された。推古天皇の十七年(609年)金銅の大仏が造られ、元興寺の金堂に安置されたのがご本尊の大仏さま(銅造釈迦如来坐像)で、重要文化財に指定されている。この大仏は、わが国における最初の鋳造大仏で、飛鳥文化をしのぶ貴重な存在となっている。

橘寺:橘寺は、聖徳太子様のお生まれになった所で、当時ここには橘の宮という欽明天皇の別宮があり、西暦572年太子はこの地にお生まれになりました。推古天皇十四年秋七月(西暦606年)に天皇の仰せにより、勝鬘経を3日間にわたりご講讃しますと、色々な不思議なことがおこり、それを見ていた天皇は、太子にこの地にお寺を建てるように命ぜられ、そして御殿を改造して造られたのが橘寺の始まりで、今日聖徳太子七ヵ大寺の一つに数えられています。当時は、四天王寺式の伽藍でかなり広大な境内地の中には66棟のお堂がありました。

和歌山方面に向かう。

宝亀寺:宝亀院は、弘法大師空海のひらいた真言宗の本山たる高野山に存する一寺院であり、重要文化財である十一面観音像、弁才天像(いずれも弘法大師作)をはじめ古文化財を数多く蔵しているが、やはりお衣替の行事にその特徴がある。空海没後86年目のある夜に、空海が醍醐天皇の夢枕に立ち「高野山 むすぶ庵に 袖朽ちて 苔の下にぞ 有明の月」の一首を詠じたという。その時の姿が、頭髪もひげものび、袈裟や衣は汚れて所々破れていたという。天皇はこれを受けて、空海に弘法大師の大師号を贈り、毎年弘法大師の命日である3月21日に新しい法衣を、廟所へ供養することになった。このために、醍醐天皇の勅願により観賢僧正が開基されたのが、この宝亀院である。

道成寺:道成寺は、大宝元年(701年)に建てられた和歌山県で最古の寺で、発掘調査から八世紀初頭には法隆寺型の伽藍であったことが確認されている。
境内には、仁王門、本堂、三重の塔などが立ち並び、宝仏殿には本尊の千手観音像(国宝、九世紀)はじめ二十数体の仏像がまつられるなど、千三百年以上続く寺ならではのたたずまいを今も保っている。

大阪方面に向かう。

水間寺:"水間参り"、"厄除の観音さま"で知られる水間寺は、聖武天皇勅願、僧行基によって創建された。その由来は、第四十五代聖武天皇が病床にあられた夜、夢のお告げで霊験あらたかな観音出現を感得され、僧行基が勅命を拝し、現在の水間寺の地を訪れ、本堂裏の滝において、一寸八分の観音の尊像を授けられた。これが秘仏(現在まで開帳なし)のご本尊である。

金剛寺:金剛寺は、僧行基が聖武天皇の勅命によって開き、のち弘法大師密教修練の霊域となる。そののち、四百年ほどの間に、寺は衰微してしまったが、平安末期、後白河法皇と皇妹八條女院の帰依を受け、阿観僧正が復興し、明治の初めまで女人禁制であった高野山に対し、女人の参拝を許したので、女人高野と呼ばれる様になった。

観心寺:真言宗修行の拠点であり、南朝の悲史を偲ぶ観心寺は、峯高く、谷深く、石見川の清流を前にしたこの霊地に、千三百年前、役小角によって開かれ、雲心寺といった。その後弘仁六年(815年)弘法大師が来山された際、国家安康と衆生済度の祈願のため七星如意輪観音像を作って本尊とし、寺号を観心寺とされた。真言二祖道興大師実恵の本拠地で、爾来真紹、宗叡と相次ぎ、修禅の道場として、また真言行者の高野山と京都の中宿として栄えた寺である。

西方寺:この西方院は、日本で最初に創建された尼寺であったと言われている。
その昔、蘇我の大臣の娘たちに、日益、月益、玉照の三姫があった。三人とも聖徳太子の乳母で、太子の死を知るや髪を剃り、太子御廟の近くに太子菩提のための寺を建てた。これが現在の西方院で、当時は、法楽寺といい、後に荒廃したものを蓮誉寿正尼が中興し、その時から、西方院と呼ぶようになったと言われている。

叡福寺:この磯長山 叡福寺は、聖徳太子と、その二ヶ月前になくなられた太子の生母穴穂部間人(あなほべはしひと)皇后と、一日前(一説には同日)に亡くなられた太子夫人膳部大郎女とを葬ってある。いわゆる三骨一廟である。太子は二十七歳の時、この叡福寺の地を御廟の候補地とし、周囲を寺院地とされ、四十七歳の時、廟をお造りになられた。太子没後、聖武天皇の勅願により太子のお墓をお守りご追福を祈るため、神亀元年(724年)七堂伽藍が完成した。このゆえに叡福寺は、太子寺、御廟寺、聖霊院などと呼ばれる。

四天王寺:四天王寺の開基は、聖徳太子である。聖徳太子は御年十六歳の時、蘇我馬子と力を合わせて、物部守屋を討とうとしたが、戦いは不利であったため、太子は四天王の木像を造り、護世四天王のためにお寺を建てると誓いをたてたところ、戦いに勝つことができた。そののち、誓いの通りに、太子が伽藍を造り、四天王の像をまつったのが、四天王寺であると言われている。大阪の中心地に33,000坪の境内を持つ四天王寺は、戦火や災害の被害が多く、その広い境内には数多くの堂塔伽藍があったが、その大半は昭和20年の空襲によって焼失した。それでも、六時堂、五智光院、元三大師堂、湯屋方丈などは幸い災をまぬがれ、元和年間(1617年)再建のままの姿を今に伝えており、いずれも重要文化財に指定されている。また戦後、いわゆる「四天王寺様式」の伽藍配置で再建がすすめられた。

清水寺:有栖山 清水寺は、もと有栖寺といったが、寛永十七年(1640年)に中興延海大阿闍梨が、京都清水寺から聖徳太子作と言われる十一面千手観世音菩薩を遷して本尊とし、降って享保年間に寺号を新清水寺と改めた。院号を清光院といい、四天王寺の支院である。
鐘つき堂の北側に本堂があり、ご本尊の十一面千手観世音をまつり、脇士には阿弥陀如来、勢至菩薩を安置してある。本堂前の石段を下ると美しい建物があり、その前を東へ向うと滝がある。この滝が有名な「玉出の滝」で、大阪市内ではただ一つの天然の滝である。玉出の滝の岸の上からは三条のり、白衣に着替え、滝に打たれながら経を唱える「行」をする人が季水が落ちており、その奥には不動明王、二童子、白竜明神等がまつられている。

太融寺:太融寺は、弘仁十二年(821年)に嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が創建された寺院である。ご本尊の千手観世音菩薩は嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子・河原左大臣源融公が、この地に八町四面を画して、七堂伽藍を建立し、浪華の名刹として参詣者でにぎわったという。太融寺は、元和元年(1615年)の大阪城落城や、昭和二十年の空襲などで、多くの堂塔が焼失したが、当時をしのぶ境内は太融寺町、堂山町、神山町、扇町公園、野崎町、兎我野町などの町名となって、今日に伝わっている。

鶴満寺:鶴満寺といえば南長柄にある名刹で、子安聖観音をまつる八角塔楼閣付き造りの観音堂が有名である。立地の関係上、道を隔てた向かい側からみると美しい。子安観音というのは、霊元法皇の皇子勝の宮ご出産に際し、御母新大納言お局が、ご安産祈願のため刻まれた聖観音を、鶴満寺中興の祖、忍鎧上人が安置したものである。 また、両脇壇には、西国三十三ヵ所、秩父三十四ヵ所、坂東三十三ヵ所の観音尊像をおまつりするところから、俗に「百体観音」と言われている。

萩の寺:萩の寺の歴史は古い。もとは大阪の北郊豊崎の里(現在の中津)にあり、近郊一帯は当時「浜の墓」と呼ばれ、天平七年(735年)、行基菩薩が我国最初の民衆火葬を執行してお堂を建て、自ら彫造した薬師如来をまつったことにはじまる。豊崎の里は、当時萩が群生しており、仏さまの供花としていたことが知られている。

安岡寺:安岡寺は、第五十代桓武天皇の御兄君にあたる開成皇子がこの地を霊地であると感得され、一刀三礼して観音像を自ら刻まれ、宝亀六年二月十八日に建立された。現在の本堂は、キリシタン大名で有名な高山右近によって荒らされた後に再建されたものであるが、そこには本尊である如意輪観世音菩薩、愛染明王、不動尊などをおまつりしている。

神峯山寺:神峯山寺は、日本最初の毘沙門天安置の霊場として有名である。元々、役小角が葛城山で苦行を積んでいるとき、北の方角に五色の雲がかかり黄金の光が輝いていたのを見て、この地に来たという。役小角はここで一人の天童に会い、天童の示した霊木で、四体の等身大の毘沙門天を刻み、祀ったのが、神峯山寺の始まりと言われている。

楊谷寺:眼病の観音さま、独鈷水(おこうずい)の観音様で名高い楊谷寺は、京都東山の清水寺を開創した延鎮僧都が「観音さまのお姿を拝したい」と発願し日夜祈願していたところ、霊夢のお告げを受け、その通り西山へ向うと柳の茂る谷間から光明がさしており見上げると、そこに十一面千手千眼観音さまが立っていたという、その場所に建立された。すなわち、延鎮僧都は自分の眼でみたその観音さまを刻んでおまつりしたのが、楊谷寺の始まりと伝えられている。

誓願寺:京都市の繁華街新京極の真中にある誓願寺は、今から千三百余年前、天智天皇の勅願によって大和の都に建てられたが、その後、京都の一条小川に移され、さらに豊臣秀吉の命により天正十九年(1591年)に現在の地に移転した。当時は六千坪を越える境内に七堂伽藍がそびえ、塔頭寺院十八ヶ寺を数える壮大なものであった。

大報恩寺:大報恩寺という名称であるが、一般的には「千本釈迦堂」という通名で親しまれている。江戸時代には遺教経寺と呼ばれたこともあるが、千本釈迦堂の名称は七百数十年前、当寺第二世如輪上人がはじめられたもので意外に古く、兼好法師の徒然草にも千本釈迦堂として、この寺のことが記されている。

鞍馬寺:鞍馬寺は、鞍馬山の中腹に位置し、自然の懐に抱かれた寺であり、山内は清々しい雰囲気に満ちている。鞍馬寺は、宝亀元年(770年)に鑑真和尚の高弟・鑑禎上人が、護法魔王尊降臨のこの霊山に毘沙門天を感得して草庵を結んだのが開創という。その後、延暦十五年(796年)、藤原伊勢人が千手観音を拝して堂塔を建立した古刹である。国宝の毘沙門天像、吉祥天女像をはじめ、平安、鎌倉期の古美術の淵叢で、数多い宝物を蔵している。

延暦寺:比叡山 延暦寺は天台宗の総本山で、伝教大師最澄上人が延暦四年(785年)、山上に一乗止観院を建て、自ら刻まれた薬師如来のご宝前に三つの灯明をかかげ、祈られたときに始まったと言われている。この灯明は"不滅の灯明"として、今なお神秘的な輝きを伝えている。この比叡山 延暦寺は、東塔、西塔、横川と三つの地域に分かれており、新西国霊場の横川中堂は、この”三塔”の一番奥になる横川に建てられている。

立木山寺:弘仁六年(815)、弘法大師が諸国を御修行中、瀬田川のほとりにおいでになりますと、この山に光を放つ霊木があるのにお目がとまり奇異に思っておられるところへ、白い雄鹿が現われ大師を背にのせて瀬田川を跳び渡り、霊木の御前に導き観世音に変げしました。
それ以来麓の渓谷は「鹿跳(ししとび)」とよばれてきました。大師はこんな有難い奇瑞があろうか、これは自分がちょうど四十二才の大厄にあたっているのでお導きいただいたのだと歓喜され、おもえば人の世には何人も免れ難い厄難があり、中でも男四十二才、女三十三才は危難の年である。

18:30終了、帰路に向かう。

今回の旅行、関西に点在する新西国霊場法話巡礼の23箇所を訪れ楽しみました。
人気のある選ばれた寺院で、広大な敷地に立派な寺院、圧倒され、満足して霊場巡り終了しました。