飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十八弾:福井県滋賀県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年5月25日-26日


福井県、滋賀県に足を運び、点在する小京都重要伝統的建造物群保存11箇所を訪れました。

25日12:30車で出発、第二京阪、名神、湖西道路経由して小浜方面に向かう。

熊川宿:熊川宿は若狭街道の物資流通の中継地点として繁栄した宿場町である。集落としての成立は不明であるが、天正15年(1587)に若狭の国主となった浅野長政が諸役免除などの保護を行い、宿場としての基礎を築いたと考えられている。
 保存地区は東西方向に通る若狭街道沿いに形成された旧宿場町の大部分を占める延長約1.1㎞、幅約100mの範囲で、東より上ノ町(かみんちょう)、中ノ町(なかんちょう)、下ノ町(しもんちょう)で構成される。街道沿いには前川と呼ばれる水路が流れ、屋敷への出入口に石橋がかかり、所々に「かわと」とよばれる石組の洗い場が設けられている。緩やかな屈曲と勾配を持つ街道に沿って、平入と妻入の主屋が入り交じって建ち並び、変化ある景観が形成されていいる。

小浜:奈良時代以前から、若狭湾に面し、海の幸に恵まれた若狭一帯は、天皇家の食料である「御贄(みにえ)」を送る「御食国」として、都の食文化(≒和食文化)を支えてきました。
 平安時代に入ると海上交通の要地となり、海を隔てて向き合う大陸や朝鮮半島をはじめ、日本各地から多くの文化や品物、人が流入してきました。
 近年、“鯖街道”(鯖街道資料館)と呼ばれる幾筋もの道によって都に新鮮な海産物が送られ、京都からは最新の文化が伝わり、若狭小浜に繁栄をもたらしました。
 「文化財の宝庫」(小浜の文化財一覧)とも呼ばれる小浜市を含む都につながる街道沿いには、平安時代の仏像や鎌倉時代に創建された寺院が数多く残っています。平安貴族が深く帰依した天台宗、真言宗という密教的な信仰との関係を示している「十一面観音像」という仏像が数多く残されていることからも、都との深いつながりがうかがえます。 また、小浜にある明通寺の伽藍は鎌倉時代に建てられたもので、本堂と三重塔は国宝に指定されています。
 室町時代初期の1408年、将軍足利義満への贈り物として象やダチョウなど、当時珍しい動物を積んだ“南蛮船”が交易基地として発展を続けていた小浜に入港しましており初めて「象」が日本に上陸したまちとなりました。
 戦国時代から江戸時代にかけ、小浜の領主はたびたび変わりましたが、徳川三代将軍家光の時代、幕府老中酒井忠勝が小浜藩主となり以来幕末まで酒井家のもと、城下町小浜は若狭中心都市として栄えました。当時の廣峰神社の祭礼“小浜祇園大祭”からも小浜の繁栄状況がうかがえます。
 大陸や都との交流でもたらされた寺院や神社・仏像・お祭りなどの伝統行事、往来の歴史のなかで育まれた独自の食文化など、すばらしく多彩で密度の濃い往来文化遺産群が今も大切に伝えられている”御食国 若狭おばま”は、1500年ものさまざまな歴史と文化に彩られ、今なお時を超えて人々を魅了してやみません。

鯖江方面に向かう:

鯖江駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

26日5:00車で出発、三国方面に向かう。

三国:福井県一の大河「九頭竜川」の河口に位置する坂井市三国町の三國湊は、千年以上昔の文献にも「三国」という地名の記述があるほど昔から栄え、歴史がある町です。
古来より三國湊は、九頭竜川やその支流「足羽川」などを使った水運による物流の拠点で、戦国時代の武将「朝倉義景」が居城を構えた「一乗谷朝倉氏遺跡」内の庭園跡には、船によって運ばれてきた東尋坊周辺の岩が庭石として残っています。また、朝倉氏の後福井を治めた「柴田勝家」も水運を重視し足羽川近くに居城「北の庄城」を構え、荷揚げ用の港を設けていました。
江戸中期になると、狭い範囲で行っていた水運・海運が、それらの港をつなぐ海上航路へと発達し、「北前船交易」が始まります。三國湊においても、海運で上方(関西)・瀬戸内・山陰・東北・北海道から物品が集まり、物流の一大集積地としてにぎわいだすと、湊町には北前船を所有する廻船問屋をはじめ、様々な物品を販売する商店らが軒を並べ、町は大きく発展しました。
その繁栄は、明治に入ってもしばらく続きましたが、鉄道が開通し、物流の中心が船から鉄道へ移りだすと、次第にその輝きを失っていきました。
三國湊には、北前船が残していった歴史・文化はもちろんのこと、格子戸が連なる町家、豪商の面影が残る歴史的建造物など、情緒ある町並みが残ります。

大野方面に向かう:

大野:織田信長から大野城主に任じられた金森長近が、京都にならって東西南北に碁盤の目状に整備したのが始まり。時は戦国時代。このころになると、激しかった一向一揆の抵抗もほぼ平定されていた時期になる。天守閣も造られたが、大火で焼失。現在あるのは復元によるもので中は郷土資料館と展望台になっている。
地形的には周囲を千メートル級の山々に囲まれた盆地で、その間を美濃街道が走っていた。
藩主は何度も代わったが、中でも土井利忠は西洋文化に興味を持ち、早くから世界へ目を向けていた藩主だった。また、藩政改革でも辣腕を振るったことから、金森長近とともにお城跡に銅像がある。
名水百選のひとつの”御清水”は観光客にも人気の場所。水環境が優れていることからイトヨの生息地としても知られるようになり、本願清水 イトヨの里といった施設も造られている。これらは、山々に降り積もった雨や雪が地下水となり湧き出たもの。大野の湧き水はお清水(おしょうず)と古くから生活する人々の命だった。
歩いて楽しいのは、古くから碁盤の目状に整備された街並みにお寺が並ぶ寺町。この場所に寺院が集められたのは、もちろん防衛上の意味もあった。
七間通りでは4百年の歴史を持つ「七間朝市」が、春分の日から十二月末まで開かれる。

びわ湖方面に向かう。

海津:琵琶湖の北端、海津湾の東に波食によって突き出た岩礁地帯です。琵琶湖国定公園の中でも有数の景勝地で、「暁霧(ぎょうむ)・海津大崎の岩礁」として、琵琶湖八景の1つに数えられています。断崖が湖に迫る岬の端に真言宗智山派の大崎寺が建ちます。
 また、春には樹齢80年を越える老桜から次世代へ引き継ぐ若木まで約800本の華麗なソメイヨシノがびわ湖岸約4kmにわたり続きます。例年、見頃は4月上旬~中旬となり、近畿圏では遅咲きの桜名所として知られています。この美しい景観を後世に継承していくため、地元「美しいマキノ・桜守の会」が中心となり保全活動にも取り組んでいます。
 付近は1年を通じて雄大な奥琵琶湖の自然が満喫でき、快適なドライブコースまたはサイクリングコースとしても人気です。また、海津東口からは、自然遊歩道「近江湖の辺の道」が整備され、快適な散策が楽しめます。

木之本:長浜市「木之本」には、北国街道の宿場町として賑わった古い町並みが残っています。木之本地蔵院を中心として、昔ながらの佇まいで醤油醸造元・造り酒屋・町家などがあり、老舗としての深い歴史が感じられるでしょう

長浜:羽柴秀吉が初めて城持ち大名となって開いた城下町、長浜。
江戸時代には大通寺の門前町や北国街道の宿場としても栄え、 現在でもその町並みを活かした黒壁スクエアはガラス工芸を中心としたショップや工房のほか、郷土料理が楽しめるお店などが軒を連ねる人気のスポットです。 また現存する日本最古の駅舎や長浜盆梅展が開催される慶雲館など明治の建築物も残りノスタルジックでモダンな町並みにも出会えます。

醒井:中山道61番目の宿場町。醒井の地名の由来ともなった「居醒の清水」を源流とした地蔵川の流れに沿って、今も風情ある町なみが続いています。醒井宿には全国でも珍しく、宿場をきりもりした施設「問屋場」が昔のままの姿で残っており、往時のにぎわいを伝えています。中山道醒井宿は湖北八景に選ばれています。霊仙山の水神と参詣者の仏縁を結んでいた伝説があり、山の湧水を水源とする地蔵川に沿って形成された中山道の宿場町。江戸時代に醒井宿を通過する大名や役人に人足や馬を提供した施設が今も残り、完全な形で復元されています。

彦根:彦根城は関ヶ原の戦後、徳川家康の命により井伊直継と直孝が20年の歳月をかけ元和8(1622)年ごろに完成させた。城内には国宝の天守をはじめ、太鼓門櫓、天秤櫓、西の丸三重櫓など重要文化財が数多く残る。とくに入母屋の屋根に唐破風を設けた三層三階の天守は必見。
夢京橋キャッスルロードは彦根城の南西、外堀に架かる京橋から真っ直ぐ南へ延びる通り。江戸時代の町並みを再現した約350mの通り沿いには、みやげ物店、食事処、甘味処などが軒を連ねる。

五個荘:五個荘金堂地区は近江商人ゆかりの地として知られており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
町並みを歩くと舟板塀や白壁をめぐらした蔵屋敷があり、清らかな水が流れ錦鯉が優雅に泳ぐ掘割が縦横に走っています。
金堂地区では近江商人屋敷3邸(外村宇兵衛邸・外村繁邸・中江準五郎邸)と金堂まちなみ保存交流館が公開されており、近江商人の本宅の佇まいを知ることができます。
平成27年には日本遺産「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」に認定されました。

近江八幡:滋賀県のほぼ中央に位置する「近江八幡市」。水郷のまちとして知られ、屋形船で水路を回遊する「水郷めぐり」が人気。織田信長ゆかりの見どころも多く、歴史ロマンを感じられるスポットも点在しています。

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、福井県、滋賀県に足を運び、点在する小京都重要伝統的建造物群保存11箇所を訪れ楽しみました。

主に歴史的建造物、歴史の町を訪れ、どれも観光客の多いのに驚きました。霊場、城跡巡りはマイナーで観光客はあまり見受けませんが、メジャーな観光地は多くの人で賑わっていました。何回か訪れたことのある今回の観光地、数年前と比べて格段の差で大勢の人で活気に満ちていました。

歴史的建造物とその街並み、寺町、港町、城下町、宿場町、癒されました。

 
  
































飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十七弾:伊豆八十八ヶ所霊場観光
2019年5月18日-19日
  

静岡県伊豆半島に足を運び、伊豆半島には、山も海も温泉もあり、美味しくて新鮮な食べ物も豊富、風光明媚で、富士山も眺められる場所も沢山あります。伊豆半島の13市町を巡りながら、美味しい料理を食べ、美しい景色に出会い、巡礼で歩き疲れた足を温泉で癒すことができる、四国に引けを取らない素晴らしい遍路道伊豆八十八ヶ所霊場の44箇所を巡りました。

18日13:43新大阪駅新幹線ひかりで出発
15:55三島駅到達、レンタカーで霊場巡り

龍澤寺:1761年3月に白隠によって開山したとされますが、それ以前から臨済宗の寺院として在り、空海によって開創とも伝えられています。 一時期荒廃したものの、大正期に山本玄峰によって修行のための寺として再興されました。

宗福寺:1590年に豊臣秀吉が小田原を攻めた際、出城となった山中城で出た戦没者を追悼するために創建された寺院です。

蓮馨寺:1289年に、浄土宗の僧である星誉によって開創された由緒ある寺院です。 しかし、豊臣秀吉の小田原征伐の際の三島焼き払いで焼失した他、類焼や震災、明治期の大火による火災を重ね、沿革は不明となっています。

宗徳寺:延暦年間(901~902年)に空海によって創建されました。 伊豆に流刑されていた源頼朝が挙兵後、鎌倉に入るまでの100日間、本尊の延命地蔵菩薩を祈願佛として詣でたと云われています。 後に、境内で自刃した甲斐武田の2人の家臣を弔うために、荒廃した堂宇を再興し、その際に真言宗から曹洞宗へと改宗しました。 1814(文化11年)8月に火災で寺宝や過去帳などが焼失しましたが、本尊の延命地蔵菩薩は無事でした。

泉福寺:火災により焼失したため、創立年代等は不明です。 しかし、初めは元屋敷にあったものを1206(元久8)年に中ノ坪に遷移し、更に1742(寛保2)年に現在地へと移転したと伝えられています。

興聖寺:延徳元年、南渓によって創建された寺院という以外の沿革は不明です。

北条寺:源頼朝の正室・北條政子の弟である北條義時が創建した寺院です。

長源寺:2005(平成17)年で創建500年を迎えた寺院です。 かつては真言宗であったと云われています。

慈光寺:かつては真言宗の無住寺院だったが、1510(永正7)年に曹洞宗に改宗し、再興されました。

高岩寺:五山十刹のひとつとされた国清寺に隣接し、かつては79あった塔頭のうちの一寺です。

養徳寺:1387年に用固という僧によって開創されました。 1789(寛政元)年10月に火災によって堂宇や記録などが全て焼失したため、詳細な沿革は不明となっています。

18:00三島駅付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
19日6:00レンタカーで出発、霊場巡り

長温寺:1562(永禄5)年、僧・瓶山により開創されました。 本尊の薬師如来は、かつてこの地近くで討ち死にした豪族が守護仏として常に護持していたものと言われています。 その後衰微していたが、1620(元和6)年に再興され、曹洞宗として開山しました。

蔵春寺:1438(永享10)年に起こった永享の乱で、主君の足利持氏を死に追いやったことに責任を感じた関東管領の上杉憲実が、菩提のために建立した寺院です。 また、憲実から寺院建立を懇請された宗能禅師がその造立の際に、この地に棲んでいた悪龍を鎮めたという龍神伝説が残ります。 1947(昭和22)年に全山の七堂伽藍を焼失しましたが、1978(昭和53)年11月に本堂が再建されました。

澄楽寺:791(延暦10)年に、弘法大師によって開創されたと伝えられています。

王洞寺:焼失の為、沿革等は一切不明となっています。

益山寺:空海の創建と伝えられています。

泉龍寺:1500(明応9)年開創の寺院で、かつては真言宗でした。 洪水被災により、現在地に移転となりました。

金剛寺:沿革等は不明です。

修善寺:807(大同2)年に弘法大師によって開かれ、真言宗の寺院として栄えた後、鎌倉時代からは臨済宗となりました。 1489年に隆渓繁紹により曹洞宗に改宗されました。 1863(文久3)年に火災によって堂宇を焼失しましたが、数年をかけて再建されました。

大行寺:1576(天正4)年に三誉上人によって開かれました。 火災で詳細な記録は焼失しています。

安楽寺:663年にこの地を訪れた行基が自ら薬師如来を彫り、医王山大泉寺としたのが始まりであると言い伝えられています。 1534(天文3)年に現在の寺域が整えられました。

大聖寺:文覚上人の伝説があり、不動尊が有名。創建は1300年代と言われ、文覚上人の伝説があり、別名「波切不動」と呼ばれているそうです。安政の大地震の時、大津波が大聖寺の前で止まったとの言い伝えがあるとか。

法眼寺:かつては仁科の安城山麓にあった法眼庵という小さな庵でしたが、海濤により大破、荒廃しました。 享保年間にこの地を修行で通りかかった僧・幽厳が法眼庵と堂ヶ島の走嶋山長平寺の荒廃を嘆き、二院を合併して正島山法眼寺としました。

東福寺:1233(天福元)年に仁科字浜に創建された寺院で、当初は天福寺と言いました。 1309(嘉元2)年に移転、更に1395(応永2)年に再興された際に真言宗から臨済宗へと改宗されました。 後に現在地に遷移し再建した際に、寺号を東福寺と改めました。

慈眼寺:始祖といわれる復岩が1494(明応3)年入寂であることから、開山はそれ以前と思われます。 1644(正保元)年に再興されました。

禅海寺:寺の由緒書きに依ると、1192(建久3)年に栄西禅師がこの地を訪れ一宇を造り、祥雲山禅海寺と名づけたとありますが、住職に依ると栄西禅師は勧請されて始祖になったもので、実際は弟子の建立とのことです。 後に1252(建長4)年にこの寺院の本尊釈迦如来を夢に見た鎌倉幕府の6代将軍・宗尊親王と執権・北条時頼が堂宇を再建し、寄進をしたために、宗尊親王が開基とされています。

浄泉寺:1414(応永21)年に及歎によって開かれた寺院です。 1648(慶安元)年には徳川家光による御朱印状を受けて、1758(宝暦8)年には増上寺の交代寺となりました。

円通寺:古くは弘法大師作と云われる観音像を安置したという、妙智山円通寺という名前の真言宗の小庵でした。 その後、東林友丘によって臨済宗に改宗となりました。 当時は那賀川の岸辺に沿って堂宇が建てられていましたが、今より200年ほど前に現在地に遷移しました。 その際、1179(治承3)年に僧文覚がこの寺院に滞在していたことから、山号が文覚山となりました。

建久寺:建久年間(1190~1198年)に創立された寺院です。 後に安山という僧が再興、那賀村にあったものを現在地に遷移し、檀徒も移住したと云います。 しかし、1507(永正4)年に焼失し、詳細は不明となりました。

帰入寺:1301(正安3)年に開かれた寺院で、当初は帰一庵と称していました。 後に帰一寺と名称を改めます。 1848(弘化5)年に現在の本堂が建立されました。

宝蔵院:800(延暦19)年に、27歳であった弘法大師が伊豆で修行中に仁科を訪れた際、森の中で六条の光を放つ六本の巨木を見つけました。 大師はこれを六道衆生の苦しみを救済する地蔵菩薩に縁のあるものだと考え、ここを富貴野山地蔵金剛法蔵密院と名づけました。 後に57歳となった830(天長7)年に再びこの地を訪れ、庵を修復し、お堂を建て、密法修行の地としました。

天然寺:1468(応仁2)年に雲誉文公によって創建されました。 しかし、1705(宝永2)年8月に大洪水によって流失、4年後の1709年に再建された。

永禅寺:1167(仁安2)年に文覚上人がこの地を訪れた際、持っていた釈迦如来像を安置して堂宇を建てた、永善寺という真言宗の寺院が始まりです。 後に再興された折に、永禅寺と改称し、臨済宗となりました。

常在寺:古くから小さな釈迦堂があったところに、1429(永享元)年に無範という僧が留まり、喜捨によって堂宇を建立し、常在寺という臨済宗に属する寺を開きました。

報本寺:1323(元享3)年に富貴野山宝蔵院(第81番札所)に向かっていた真言宗成就院の阿闍梨が、風岩峠付近でこの地が霊地であると感じ、1326(嘉暦元)年3月に婆娑羅山神護寺として開堂しました。 しばらく無住の時期がありましたが、臨済宗として再興しました。

太梅寺:1046(寛徳3)年に行脚中の真言宗の僧が、この地に至った際に求めていた霊地だと感じ、人々から浄財を集めお堂を建てました。 明星山満珠寺と名づけ、地蔵尊を本尊として奉りました。 寺院の裏山には寺の鎮守として、稲荷神社が勧請されました。 後に寺名を改めて太梅山深居庵とし、臨済宗に改宗しました。 更にその後の1557(弘治3)年には曹洞宗に改宗し寺院名は深居山太梅寺となり、1852(嘉永5)年に現在の山号に変わったと伝えられています。

龍門寺:1099(康和元)年6月24日、保月嶽頂上の老松に光を放つ仏像が発見され、龍が降臨すると言われていたこの地に庵を建てて安置することとなりました。 後に行脚の僧が「この像は青面金剛明王である」と言い、奉るようになりました。 当時は真言宗の寺院でしたが次第に衰退し、1593(文禄2)年に太梅寺四世法山宗禅が復興して曹洞宗に改めました。

米山寺:733(天平5)年にこの地を訪れた行基が「寺を建てるのに良い所である」と言ったことから、人々がその意に従い、程なくして寺が建てられたと伝えられています。 本尊の薬師如来も行基の作で、同年10月20日に入仏点眼し安置されたといいます。

拪足寺:1319年に、徳瓊覚照によって開山された寺院です。 現在の本堂などは、明治19年に5年の歳月をかけて、再建されたものです。

三養寺:創立年代は不明ですが、開山の竺仙宗僊が1511(永正8)年に没していることから、それ以前と推測されます。 開山当時は千手院という寺号でした。 後に、豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、下田の鵜島城も攻撃され、時の城主であった清水上野介は降伏し、妻と息子とともにこの千手院に身を隠しました。 この3人を養いおいたことから三養院と改めたと伝えられています。

弘道寺:天正年間(室町時代)に福寿庵と称し創建された古刹で、本尊は行基作と言われる聖観世音菩薩です。 何度かの火災により、詳細な縁起は焼失しています。

嶺松院:発願寺です。 寺の言い伝えによれば、延暦年間(782~805年)に旅の途中であった弘法大師がこの地を訪れた際、多くの人々が難病に苦しんでいる様子を目にしました。 弘法大師はここに庵を建て、薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)・十二神将(薬師如来の眷属)を安置し、真言秘法百万遍を修法し、病気平癒を祈願して人々を苦しみから救ったとされています。

最勝院:吾宝宗璨を開祖とし、1433(永享5)年に創建された歴史ある寺院です。 五哲と呼ばれた優れた門下僧らにより、門派の寺は1400を超えます。

城富院:1542(天文12)年に最勝院七世笑山によって開かれた寺院です。 北條五代の祈願所でもありました。 1655(明暦元)年に火災で焼失、また1671(寛文11)年に山崩れで被災しましたが、1681(延宝9)年に再興され、現在に至っています。

18:30終了、三島駅に向かう。
19:00三島駅到達。
19:46三島駅新幹線ひかりで出発
22:13新大阪駅到達。

今回の旅行、静岡県伊豆半島に点在する伊豆八十八ヶ所霊場の44箇所を巡り楽しみました。

関西の霊場と異なり、派手さはないが、奇抜で斬新な建物が多く、特に屋根が流線状で鶴状に跳ね上がっている霊場が多く独特でした。多くの霊場は参拝人が少なく、寂れていましたが、中にはクローズいているのか全く人気のない霊場も見かけ、他方面の霊場巡りと違った寂しさを感じましたが車が少なく、田園風景をドライブ観光気分で癒されました。




































 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十六弾:愛知県小京都&重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年5月11日-12日
 

愛知県に点在する小京都&重要伝統的建造物群保存8か所(西尾、犬山、足助、岡崎、有松、尾張大野、常滑、半田を訪れました。

11日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神自動車道経由して小牧インター下車

犬山:犬山城下町は犬山城の築城に伴い、もともとあった町を整備して作られました。商人や職人の同業者を近くに住まわせて、町の発展を促したとされ、鍛冶屋町・魚屋町などの町名に名残が見られます。また、町の中央部に町人町を置き、それを囲むように侍町を配置したほか、城下町の外周を木戸や堀、土塁等で取り囲む総構えの城下町として守りを固めていました。現在も江戸時代と変わらない町割り(町の区画)がそのまま残り、江戸から昭和までの歴史的な建造物が立ち並びます。そして、なんと言っても国宝犬山城と有楽苑の国宝茶室如庵をお見逃しなく。国宝が一つの町に二つもあるのはとてもめずらしい。

東名高速経由して

足助:足助の町並みは、戦国時代には原型が形成され、江戸初期には今のような町割りが出来上がりました。
現在の町並みは、安永4年(1775)の大火後に、防火を意図して漆喰で軒先まで塗り固めた塗籠造りの町家が建ち並び、今日にその面影を伝えています。
妻入りや平入りの変化に富んだ家並みが約2Kmにわたって続き、平成23年6月、愛知県で初めての国の重要伝統的建造物群保存地区(通称:重伝建)に選定されました。

18:00岡崎方面に向かう。

岡崎:岡崎市は旧三河国のほぼ中央に位置する市で、面積は愛知県第3位。徳川家康が生まれた地として知られており、家康にゆかりのある史跡や寺社などの観光スポットがたくさんあります。また、市内には一級河川の矢作川(やはぎがわ)が流れ、豊かな自然も感じることができる町です。
江戸時代から受け継がれている岡崎の味「八丁味噌」を味わうのも、岡崎観光には欠かせません。とにかく目いっぱい遊びたい!という人にも満足できるスポットが岡崎市にはたくさんあります

岡崎市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて終了、し食事を済ませて就職。

12日6:30車で出発、

西尾:西尾市は山・川・海に囲まれた豊かな自然が自慢の土地で、ぜひ訪れてみたい観光スポット満載の素敵な街。忠臣蔵で知られる吉良上野介ゆかりの地でもあり、人気の高いアートの島「佐久島」もあります。
また、西尾市は日本一の抹茶の生産地として知られ、そのルーツは13世紀まで遡ります。江戸時代にはお茶栽培が盛んに奨励され、明治に入って本格的な生産が始まりました。西尾と抹茶は切っても切れない関係!名古屋や浜松からも近いので、ドライブがてら観光をして、お抹茶で一服。

有松:旧東海道の古い街並みが残る有松は、名古屋市街並み保存地区に指定されています。江戸時代にタイムスリップしたかのような長屋が軒を連ね、とても風情がある街です。
名物は400年続く有松絞り。有松絞りの歴史を学べる施設で、絞りを体験して自分だけの記念品を作ったり、旧絞り問屋の蔵の中に設置された石窯で焼かれた素朴で美味しいパンを食べたり、新旧が交わった可愛い有松絞り製品の中からお気に入りを探したり、老舗の絞り屋で大人な色合いの製品に見とれたりして、和の雰囲気に浸る。

尾張大野:大野町はかつて「大野湊(おおのみなと)」と呼ばれて栄えた港町です。川岸には米倉が並び、尾張藩の海運関係の役所も置かれていました。海運により町には富が蓄積され今でも多くの社寺や町々の家並みに繁栄した時代の面影が見られます。

常滑:愛知県常滑市は焼物「常滑焼」で有名な街ですが、やきものの街としての雰囲気や陶芸体験、グルメなど子供から大人まで楽しめる観光スポットがたくさんあります

半田:半?市は、江?時代から醸造業や海運業などで栄え、商業や製造業を中?に発展してきました。こうした歴史を今に伝える4つの象徴的な?所として、半?市の観光は、「??・蔵・南吉・?レンガ」といわれています。また近年では、歴史的な建築物などを?かした、新たなスポットやイベントも年々増加しています。

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、愛知県に点在する小京都&重要伝統的建造物群保存8か所(西尾、犬山、足助、岡崎、有松、尾張大野、常滑、半田を訪れました。
今回は城下町の重要伝統的建造物群保存が多く、城めぐりを制覇してからの再度の訪れ、お城より周辺の城下町を重点的に散策し癒されました。