飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十三弾:北海道八十八ヶ所ヶ所&北海道三十三観音霊場観光
2019年6月29-30日
  

北海道の北部エリアに足を運びこのエリアに点在する北海道八十八箇所霊場4ヶ所北海道三十三観音3ヶ所を訪れました。

29日15:30伊丹空港出発
16:40羽田空港到達
17:50羽田空港出発
19:25旭川空港到達、レンタカーで士別方面に向かう。
21:30士別市内のホテル到着後就寝。
30日4:15レンタカーで出発、稚内方面に向かう。

成田山真如院:高野山真言宗成田山真如院は、北海道北部日本海側に位置する羽幌町に本院、北海道の中心札幌市清田区平岡に札幌分院を持つお寺です。成田山真如院本院・札幌分院では、瞑想、修行、護摩祈祷及び厄払い、大般若祈祷及び厄払い、十三参り祈祷、水子精霊供養、ペット精霊供養、檀家のご先祖精霊供養、永代精霊供養、永代納骨等ができるお寺です。

教信寺:
当山の開基は小瀬川亮観師です。亮観師は明治14年11月16日佐渡国水津村月布施に生まれ、慶宮寺にて剃髪しました。明治29年4月延命寺住職、函館高野寺役僧を経て明治42年天塩へ、同44年5月説教所を設立しました。大正8年12月16日46歳寂。 第一世教信寺住職は菱川亮道師で昭和29年4月寺号公称。昭和51年11月1日77歳寂。 
第二世教信寺住職伊藤精範師は昭和29年6月住職拝命。 昭和4年3月18日に岩見沢市で生まれ、昭和14年長高寺に入寺します。宗立初瀬専修学院卒業後、昭和27年北海道専修学院幹事、昭和50年には本堂、納骨堂を建立。昭和54年庫裡を建設し同55年に客殿完成。豊山派中央布教会理事、北海道布教会会長、権大僧正を務めています。


真言寺:大正2年、当山開創伊藤智教尼により大師教会稚内支部として現住所に設立。市内クサンルで同じ大師教会支部を開設していた開基第一世紺井英應師が現在地支部を買い受け昭和29年真言寺と寺号公称。昭和40年に中富良野町弘照寺より晋住した第二世岩田光喜師が山号を高野山とし、さらに最北大師という通称を考案し現在に至る。
平成26年開創100年を迎える。

紋別方面に向かう。

大法寺: 霊場開設当初は根室市本城寺に安置されましたが、本城寺の廃寺により、一時根室市「長節湖畔」の33観音霊場の管理お堂に安置されていたようでありました。
 その後本城寺のご子息が見兼ねて昭和56年交流のあった当寺に持参されました。
 ご尊体は長い間雨曝しになって金箔もすっかり剥げ落ちており、京都の仏具店で修復して翌年報恩講法要に併せて入仏法要を嚴修し、昭和60年に霊場が再興されました。

龍光院:宗派 高野山真言宗
所在 北海道紋別郡興部町
本尊 弘法大師

大日寺:開基住職は、愛知県海東郡出身の上林龍恵上人で、明治34年10月網走を経てこの地に布教を開始するとともに、高野山大師教会紋別支部として認可を受け、布教の基礎を確立した
ご本尊は大日如来で新潟県から請来されました
観音霊場本尊聖観音は大正2年5月25日に入仏
現在の本堂は平成12年の開創壱百年の記念事業として建立されました

青龍寺:高野山真言宗青龍寺は、御本尊大日大聖不動明王の護摩祈祷を毎月28日に修しております。 その護摩の炎に御不動様・観音様・龍神などを見いだして頂ければ悩みや愚痴等はたちどころに快癒し、今後の方向づけは密教占星法によって示されることでしょう。 
また、密教の天文暦法に基づく占星法と、御本尊である大日大聖不動明王様の護摩とで、衆生の手助けをと考えます。 
高野山真言宗青龍寺の概要としては、大正4年5月香川県人の牧密道が来町し説教所設置許可を以て始まりとします。 昭和3年5月新四国八十八ヶ所を当山裏山の芝桜群生地に設置し、平成元年5月に現住職赴任第四世に就任しました。
 






飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十二弾:山形県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年6月22-23日
 

東北地方の山形県に足を運び、山形県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所(上山、樽下宿、米沢、山形、谷地、肘折温泉、酒田、金山、銀山温泉)を訪れました。

22日16:20伊丹空港出発
17:35山形空港到達、レンタカーで山形市方面に向かう。

18:30山形市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
23日5:00レンタカーで出発、上山方面に向かう。

上山:かみのやま温泉駅から徒歩約15分の場所にある上山城。戦国時代には最上氏の最南端の城壁としてそびえたちました。1692年に幕命によって取り壊されてしまいましたが、1982年に現在の城郭風の郷土歴史資料館として再現されました。展望台までのぼると、かみのやま温泉の町並みや、蔵王連峰を一望できますよ。城内にはかみのやまの歴史や文化を紹介する展示があるので、そちらもぜひご覧になってください。
春には城周辺に桜が咲き誇り、桜の名所としても知られるスポットです。

樽下宿:羽州街道の宿場町として、江戸時代には参勤交代や出羽三山詣で賑わいをみせた楢下宿。現在も残る茅葺屋根の古民家や石造の眼鏡橋など街道の歴史を感じさせる景観が広がります。
宮城県七ヶ宿から金山峠を越え、上山にぬける羽州街道の宿場町が楢下宿です。江戸時代の参勤交代の際には、新庄藩や庄内藩、秋田佐竹藩、遠くは津軽藩など、日本海側の十三藩がこの宿場町を利用したといわれています。

米沢方面に向かう。

米沢:米沢市は山形県の最南端に位置し、山形の母なる最上川の源流、吾妻連邦のすそ野に広がる米沢盆地にあります。冬は寒さが厳しく特別豪雪地帯に指定されていますが、スキーと温泉が楽しめます。その他の季節は恵まれた大自然をたっぷりと楽しめますし、イベントも多く開催され、1年を通して人気の観光エリアです。
現在のまちの原型は上杉家臣の直江兼続によって作られました。戦国のスーパースター上杉家ゆかりの地としても有名ですね。伊達正宗も米沢で生まれ、24歳までこの地で過ごしたそうです。人気の観光名所も上杉家と米沢城が中心となっています。ゆかりの人物のファンも満足のスポットが多くありますし、戦国時代を知るにはとても良い処だと思います。もちろん田んぼアートと温泉でただただまったりするのもお勧めです。

山形市方面に戻る。

山形:戦国大名の最上義明が、五十七万石の城下町として整備したのが山形。駅の近くにあり、今は博物館や郷土館のある霞城(かじょう)公園は明治維新までのお城だった。ただし、藩として山形は江戸末期のころの石高はわずか五万石程度にまで落ち込んでいた。古くからの特産は染料となる紅花で、これが京都へ送られ、西陣織りなどに使われて縁を深めた。
山形には近世の建物も残っており、ルネッサンス様式の文翔館(旧県庁舎・議事堂)、山形市郷土館、教育資料館が見所。特に、文翔館は重厚な雰囲気を持つ。山形市郊外にあり、松尾芭蕉が「閑さや〜」と歌ったことでも知られる山寺(立石寺)は、慈覚大師により千百年前に創建されたもの。近くにはには山寺芭蕉記念館もあり、多くの観光客が訪れる。
石段を登り始めると、次第に移り変わる景色がある。夏の五穀豊穣を願う田植え踊りから始まった「花笠まつり」は、東北を代表するお祭り。冬になると蔵王の樹氷が見事だ。

酒田方面に向かう:

谷地:山形県,山形盆地の西部,河北町の中心集落。旧町名。寒河江川扇状地の北部にあり,最上川の船着場として栄え,ベニバナや米の取引が盛んであった。かつては全国一の草履表の集散地であり,現在ではスリッパの製造が地場産業となっている。

肘折温泉:出羽三山のひとつに数えられる月山の麓から流れる銅山川沿いに、共同浴場や温泉宿が立ち並ぶ。温泉街一帯には、遥か昔に湯治場として栄えていた当時の様子を偲ばせるような、ひなびた雰囲気が漂う、趣きのある景観が魅 力。 長い年月を経て愛されてきた肘折の湯にまつわる名所も点在しており、名所を巡るのも楽しみのひとつ。

酒田:江戸時代、酒田が北前船の港として栄えた歴史を持つのは、庄内地方が米の一大産地だったことによる。最上川の河口に港町だった酒田は、川村瑞賢が北前船の西回り航路を整備したことで、一気に江戸時代の主要港町に踊り出ることになり、それは「西の堺、東の酒田」と謳われたほどだ。
北前船による交易では、人や荷物の往来だけではなく、京文化も一緒に運ばれてきた。日本一の大地主として、藩主以上の力を持った豪商・本間家などが登場するのもそのころだ。井原西鶴の「日本永代蔵」に北国一の米商人として登場する鎧屋も実は酒田の商人。今はやや閑散とした雰囲気のある中心部だが、市内を歩くと随所に繁栄の跡を感じることができる。
また、当時の豪商が収集した文化財は、今では美術館などで公開されている。
港町としてのシンボルとなるのが、山居倉庫(さんきょそうこ)で、百年を経た今でも実際に使われているから驚く。
市内には港町の面影をあちらこちらに見ることができる。六角灯台も自慢のひとつで、至る所で六角形をモチーフにしたモノを見かける。
「古寺巡礼」などで知られる写真家・土門拳の出身地でもあり、氏の業績を記念して作られた土門写真記念には遠方より訪れるファンも多い。

新庄方面に向かう。

金山:金山町の中心部をめぐる農業用水路の大堰は町のシンボルであり町民たちの憩いの場としても利用されていて、辺り一体を大堰公園といいます。夜にはライトアップも行われ幻想的な世界へ連れて行ってくれます。春から秋にかけては堰に鯉が200匹放流されていて眺めているだけで満足できます。

銀山温泉:銀山温泉は、山形県の北東部・尾花沢(おばなざわ)市にある人気の観光温泉地です。銀山川の両岸に、大正時代の洋館ムードあふれる旅館が建ち並ぶ銀山温泉。そのノスタルジックな街並みが注目を集め、訪れる観光客が増えています。奥羽山脈の山麓にある銀山温泉は、16世紀の初めに栄えた延沢(のべさわ)銀山で働いていた鉱夫が発見したといわれています。昔ながらの湯治場の情緒が、今もなお色濃く残っています。

17:00山形空港に向かう。

17:30山形空港到達。

18:05山形空港出発。

19:25伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の山形県に足を運び、山形県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所(上山、樽下宿、米沢、山形、谷地、肘折温泉、酒田、金山、銀山温泉)を訪れ楽しみました。

何回か訪れた観光名所も多く、散策し再確認しながら観光し癒されました。

広範囲のドライブ観光、車少なく、信号も少ない、渋滞なく、ストレス感じなく巡り堪能しました。























 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十一弾:新四国相馬霊場八十八か所霊場巡り観光
2019年6月15-16日



千葉県と茨城県の境の利根川領域に点在する新四国相馬霊場八十八ヶ所の48箇所を訪れました。

新四国相馬霊場八十八:新四国相馬霊場八十八ヶ所は、取手市及び千葉県我孫子市、同じく柏市にある四国八十八ヶ所霊場の写し霊場。 新四国相馬霊場の成立は、1759(宝暦9)年とされる。 現在の取手市にある長禅寺の僧、光音禅師が四国八十八ヶ所霊場の砂を持ち帰り、当時、利根川を挟んだ下総国相馬郡の寺などにおさめ開いた。
 光音禅師は、信州出身の人で13歳で江戸に出て呉服商・伊勢屋に奉公、独立し取手で商売を行い伊勢屋源六といった。 長禅寺の観音堂の改築に尽力、その後出家し長禅寺の僧となったという。晩年は、現在の取手市にある白山神社で隠居した。
 相馬霊場が誕生して250年余りが過ぎたが、現在でも地域の信仰は厚く、どの札所の大師堂もきれいに掃除され、花やお供え物が絶えない。 また、一部に大師道と呼ばれる道が残る。ほとんどは舗装道路になったり、地域の開発で姿を消しているものも多いが、江戸時代そのままの姿に近い形で残っている場所もある。

15日13:33新大阪新幹線のぞみで出発
16:03東京駅到達
16:26東京駅JR上野東京ラインで出発
16:53松戸駅到達、レンタカーで柏方面に向かう。
18:05柏たなか駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
16日5:30レンタカーで出発、霊場巡り。

常円寺:

地蔵堂:

勝蔵院:

白泉寺:我孫子我孫子市岡発戸にある曹洞宗寺院の白泉寺は、万岳山と号します。白泉寺は、正泉寺七世竹巌宗嫩が開山となり慶長15年(1610)に創建、岡発戸八幡神社の別当寺だったといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所72番です。

延命寺:我孫子市布佐にある真言宗豊山派寺院の延命寺は、求宝山医王院と号します。延命寺は、忠変僧都が文禄2年(1539)に開山したといいます。第五世権大僧都隆宣の代には、虚空蔵堂、釈迦堂、観音堂、客殿、庫裡を備えていたといいます。

地蔵院:我孫子市新木にある真言宗豊山派寺院の地蔵院は、寿栄山と号します。地蔵院の開山開基は不詳ながら、貞享3年(1686)銘の「法印権大僧都宥長不生位」墓碑が残されていることから江戸時代前期には創建していたのではないかといいます。明治6年廃寺となったものの、信徒や地蔵尊奉賛会により護持されているといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所25番です。

南龍寺:浄土宗の南龍寺は、竹林山文殊院と号します。南龍寺は、寂蓮社尊譽上人運哲大和尚が元和8年(1622)開山、寛文九年(一六九九)に字荒屋敷へ移転したといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所26番です。

最勝院:我孫子市高野山にある真言宗豊山派寺院の最勝院は、興旭山と号します。最勝院は、天正20年(1592)に創建したと伝えられ、寛保元年(1741)祐意和尚が開祖となり中興開山したといいます。

宝照寺:我孫子市中峠にある真言宗豊山派寺院の法照院は、宝霊山と号します。法照院の創建年代は不詳ながら元文5年(1740)の中峠村の記録に法性院として記載されていることから、1740年以前には創建されていたといいます。明治維新の後に廃寺となり、昭和41年に中峠青年館の一部に保存されることになったといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所28番です。

観音寺:我孫子市日秀にある曹洞宗寺院の観音寺は、慈愍山と号します。観音寺の草創年代等は不詳ながら、平将門の守本尊であった行基菩薩作観世音像を、将門神社近くの仏堂に安置、天台宗西林寺の徳道和尚を開祖として、大悲山和泉寺と称していたといいます。寛文2年(1662)、長安常久禅定門(日秀弾正友治か?)が開基、正泉寺九世名翁全誉大和尚を開山として当地に移転、曹洞宗観音寺としたといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所29番です。

長福寺:

薬師堂:

滝不動:我孫子市岡発戸にある曹洞宗寺院の滝前不動堂は、旧滝前山宝積寺の不動堂です。滝前不動堂の創建年代は不詳ながら、白泉寺開山の竹巌宗嫩和尚が慶長~元和年代に不動堂を建立、後に滝前山宝積寺と称していたといいます。当地はかつて平高望王が寛平年間(889-898)に空海作の不動尊像を祀った地だといい、その不動尊は中峠不動尊の胎内に納められているといいます。現在、滝前山宝積寺は廃寺となっており、正泉寺が管理しているといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所36番です。

勝蔵院:我孫子市布佐にある天台宗寺院の勝蔵院は、西光山と号します。勝蔵院の開山開基は不詳ながら、文禄元年(1592)に創建、宝永2年(1706)法印孝順が中興開山したといいます。

子之神大黒天:孫子市寿にある真言宗豊山派寺院の延寿院は、白花山と号します。延寿院の創建年代等は不詳ながら、古くより子之神大黒天社の別当寺だったといい、大正7年本町(我孫子駅南口付近)より子之神大黒天社の境内(当地)へ移転したといいます。子之神大黒天社は、行基菩薩が彫刻した大黒天像を下総国分寺に安置していたものの度々火災に罹災することから、宥啓阿闍梨が康保元年(964)甲子の年正月八日子ノ日に一宇を建立して安置したものだといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所38番(子之神)、43番(延寿院)、関東三十三観音霊場2番です。

稲荷神社:

大光寺:我孫子市緑にある真言宗豊山派寺院の大光寺は、南海山不動院と号します。大光寺の創建年代等は不詳ながら、本土寺過去帳に「八日大高寺(大光寺)、延徳二(1490)庚戌五月、アビコ」とあり、室町時代には創建していたといいます。小金大勝院を隠居した秀恕法印が、江戸時代中期に法流開基となったといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所42番、また当寺の聖天堂は我孫子の聖天さまと称されるといいます。

延寿院:我孫子市寿にある真言宗豊山派寺院の延寿院は、白花山と号します。延寿院の創建年代等は不詳ながら、古くより子之神大黒天社の別当寺だったといい、大正7年本町(我孫子駅南口付近)より子之神大黒天社の境内(当地)へ移転したといいます。子之神大黒天社は、行基菩薩が彫刻した大黒天像を下総国分寺に安置していたものの度々火災に罹災することから、宥啓阿闍梨が康保元年(964)甲子の年正月八日子ノ日に一宇を建立して安置したものだといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所38番(子之神)、43番(延寿院)、関東三十三観音霊場2番です。

西光寺:

三仏堂:

東光寺:

法岩寺:

明音寺:

円福寺:我孫子市柴崎にある真言宗豊山派寺院の圓福寺は、羽黒山と号します。圓福寺は、過去帳に元和2年(1616)の書入れにより、江戸時代初期の創建ではないかといい、柴崎神社(羽黒妙見社)の別当だったといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所55番です。

観音堂:

興陽寺:我孫子市白山にある曹洞宗寺院の興陽寺は、自性山と号します。興陽寺は、大凉玄樹大和尚(天正8年1580年寂)が開山となり創建、開基は山高八右衛門(覚了院殿天室自性大居士、延宝5年1677年寂)だといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所59番です。

照妙院不動尊:我孫子市中峠にある真言宗豊山派寺院の照妙院は、滝前山と号し、不動尊で地元に知られています。照妙院不動尊の創建年代は不詳ながら元文5年(1740)の中峠村の記録に正明院として記載されていることから、1740年以前には創建されていたといいます。明治維新の後に廃寺となり、昭和41年に中峠下公民館の一部に保存されることになったといいます。一方不動尊は、延暦23年(804)空海が遣唐使の船中で製作したと伝えられ、寛平年中(889-898)平高望が東国へ赴任の際の守護仏として護持、滝前村に安置していたところ、寛和2年(986)の暴風雨で大破したため中峠村一里塚へ移転、その後当地へ遷ったといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所60番です。

白山神社:

無量寺:我孫子市青山にある真言宗豊山派寺院の無量院は、日照山と号します。無量院の創建年代等は不詳ながら、正和元年(1312)銘の板碑や、室町時代の作と見られる十一面観音像などから、古くよりの創始ではないかといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所65番です。

薬師堂:真言宗豊山派の布施薬師堂は、紅龍山東海寺の境内にある堂宇で、柏市布施下にある堂宇群です。紅龍山東海寺の境内ですが、場所が離れていることから便宜上「布施薬師堂」として記載、薬師堂の他、大日如来堂・不動堂・大師堂があります。新四国相馬霊場八十八ヶ所67番です。

東海寺:真言宗豊山派の東海寺は、紅龍山と号します。東海寺は、弘法大師(774-835)御作の弁財天を本尊として創建、弘仁14年(823年)勅願所に指定されたという近隣でも随一の古刹で、布施弁天として著名です。新四国相馬霊場八十八ヶ所68番、境内の多宝塔式鐘楼・楼門(山門)は県文化財に指定されています。

正泉寺:我孫子市湖北台にある曹洞宗寺院の正泉寺は、大龍山と号します。正泉寺は、鎌倉執権最明寺入道北条時頼の息女法性尼(桐姫)の為に弘長3年(1263)真言宗法性寺と号して創建、君津真如寺の俊峰周鷹(永正3年1506年寂)が曹洞宗に改めて開山したといいます。正泉寺七世竹巌宗嫩は岡発戸白泉寺を、九世名翁全誉は日秀観音寺を開山するなど、宗門拡大に寄与する本寺格の寺院だったといいます。また、血盆経一部が手賀沼に出現したとの縁起があり、「血盆経」信仰の重要な拠点となっていた他、それが都部という地名の由来ともなったといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所73番です。

西音寺:

東源治:我孫子市柴崎にある曹洞宗寺院の東源寺は、青龍山医王院と号します。東源寺は、北条氏康が開基となり天文9年(1540)に山号院号を定めて創建、法岩院五世梅室宗芳(文禄元年1592年寂)が開山したといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所75番です。

龍泉寺:我孫子市中峠にある真言宗豊山派寺院の龍泉寺は、南命山と号します。龍泉寺の創建年代等は不詳ながら、弘法大師が関東巡錫の折に中里字東原に創建したといい、平将門の乱の折に罹災したものの、大徳良仁法印が再建といいます。天文年間(1532-1555)権大僧都永楽法印の代に中峠字芝原へ移転、南命山と改号、江戸時代には末寺14ヶ寺と擁していた本寺格の寺院だったといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所76番です。

弁財天:葺不合神社は、我孫子市新木にある神社です。葺不合神社は、当地にあった厳島神社に、字宮前にあった村社葺不合神社、白山神社、三峰神社を明治39年(1906)合祀、鵜葺草葺不合尊を主祭神とする葺不合神社となったといいます。厳島神社は元暦3年(1186)の創建と伝えられ、沖田弁財天として著名だったといい、現拝殿に祀られていたといいます。一方字宮前の葺不合神社は、奈良期の創祀とも伝えられ、字宮前にあった社殿を合祀の際に遷して、現本殿となっているといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所77番です。

弥陀堂:

龍禅寺:

長福寺:我孫子市新木野にある真言宗豊山派寺院の長福寺は、玉桜山と号します。長福寺の開山開基は不詳ながら、貞享3年(1686)銘の「法印権大僧都宥長不生位」墓碑が残されていることから江戸時代前期には創建していたのではないかといいます。明治6年廃寺となったものの、信徒や地蔵尊奉賛会により護持されているといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所81番、下総三十三ヶ所観音霊場22番です。

宝蔵寺:我孫子市久寺家にある真言宗豊山派寺院の寶蔵寺は、明王山と号します。寶蔵寺は、元和3年(1617)に創建、宝暦3年(1753)に大谷口大勝院末から龍泉寺末へ法流を改めたといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所84番です。

円性寺:真言宗豊山派の円性寺は、飛龍山と号します。円性寺の創建年代等は不詳ながら、江戸時代には西円寺の門徒寺で、香取・妙見・山王・天神の各神社の別当を勤めていたといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所85番です。

浅間神社:

台観寺:

太子堂:

鯖大師堂:

水神宮:

相馬惣代石清水八幡宮:

17:30終了、松戸に向かう。
18:30松戸駅到達。
18:48松戸駅JR常磐線で出発
19:26東京駅到達。
19:40東京駅新幹線のぞみで出発
22:10新大阪到達。

今回の旅行、千葉県と茨城県の境の利根川領域に点在する新四国相馬霊場八十八ヶ所の48箇所を訪れ楽しみました。
利根川より南の領域、千葉県に点在する新四国相馬霊場を主に訪れましたがほとんどの寺院は本堂は立派でした。その傍らに小さく位置する大師堂である新四国相馬霊場を巡り癒されました。
次回は利根川より北に位置する茨城県に点在する新四国相馬霊場を訪れる予定です。


  




























 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十弾:京都洛西三十三霊場巡り観光
2019年6月8日-9日
 

京都の洛西に足を運び、京都洛西に点在する乙訓郡や葛野郡といった、桂川西岸から西山にかけての地域に点在する札所から成る観音霊場、西の岡三十三所」という西国観音霊場の写し霊場が前身に当たる、霊場再興20周年に当たる1998年に、「京都洛西観音霊場」と名称を変更、ガイドブックや専用御朱印帳などもあり、受け入れ態勢の整っている霊場となっている京都洛西三十三か所を巡りました。 

8日12:30車で出発、第二京阪経由して洛西方面に向かう。

正覚寺:西山浄土宗。山号は摂取山せっしゅざん。
京都洛西観音霊場第11番札所。本尊は阿弥陀如来。
鏡空開導上人が寛永年間(1624~1644年)に創建。
札所本尊は千手観音坐像で、淀川べりにあった帰海印寺の塔頭・千手院の宝物であったという。帰海印寺は、「乙訓郡誌」によれば、俊寛らとともに平清盛討伐を企てて鬼界ヶ島に流罪となった平康頼たいらのやすよりが建立した寺で、赦免されて帰洛した康頼が島で没した俊寛の冥福を祈るために建てたものという。
現在の本堂は2006年(平成18年)に再建されたもの。

勝龍寺:真言宗。山号は恵解えげ山。ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第3番札所、京都洛西観音霊場第14番札所。
平安時代初期、弘法大師の開基、本尊は十一面観世音菩薩にして、毘須羯摩びすかつまの刻と伝えられる。
往時の寺号を恵解えげ山青龍寺と号す。青龍寺とは弘法大師が入唐した時、修業した寺の名である。大師帰国の後、在唐留学時代の恩師を偲ぶために一堂を建立され、更に嵯峨天皇の勅願により観音堂を始め、九十九坊を建て広く天下にその名をうたわれた名刹である。962年村上天皇の御代に近郷大干ばつ・大飢饉となり、天皇は青龍寺住職千観上人に七日間雨乞いの祈祷を命じた。結願の日、にわかに雨が降り出し万民は喜び、農作物はよみがえり、天皇は非常に喜び、「龍神を呼ぶ、即ち龍神に勝って雨を降らした事ゆえ以後勝龍寺と名乗れ」との勅命により現在の勝龍寺となる。

観音寺:浄土宗。山号は大悲山だいひざん。京都洛西観音霊場第13番札所。
室町時代1570年、雪山によって開創され、江戸時代宝暦年間に再建されたといわれている。
本尊の十一面観音坐像は、京都の重要文化財に指定されており、南北朝時代、第九十七代(南朝第二代)後村上天皇が第九十六代(南朝初代)後醍醐天皇の菩提を弔うため僧舜悟に命じ仏師秀弁に作らさせたといわれる。
もともとは、1355年に常光寺(滋賀県甲賀市)に奉安されていたものである。

卒台寺:長岡京市の住宅地に、卒台寺(そつだいじ)は建つ。山号は延命山(えんめいざん)という。 
 浄土宗、本尊は延命地蔵菩薩半跏像。
 京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第12番札所。札所本尊は十一面千手千眼観音菩薩(癌封じ施薬観音)。

観音寺:真言宗豊山派。山号は普陀落山。
京都洛西観音霊場第15番札所。本尊は十一面観音2躰。

泉福寺:西山浄土宗。山号は星水山せいすいざん。
本尊は不空羂索観世音菩薩、額にもう一つの目を持ち三つ目観音と呼ばれる。
京都洛西観音霊場第16番札所。

万福寺:西山浄土宗。山号は慈眼山じげんざん。
京都洛西観音霊場第17番札所。
比叡山延暦寺の慈覚大師円仁がこの地を訪れた折り、親切な村人のために観音像を刻み、後に一宇が建立され本尊に祀られたのが始まりという。詳細は不明。
本尊の観音像はたびたびの火災にもかかわらず難を免れたことから「火除けの観音さま」と呼ばれる。
かっては大藪地区の集会所の役割を果たしていた。

西園寺:西山浄土宗。山号は朝日山。
本尊は阿弥陀如来。札所本尊は十一面観音。京都洛西観音霊場第18番札所。
1808年の火災で古い記録が失われ、詳細は不明。
周辺には用水路があるが、かっては南北に川が流れ、川の東側を「ひがしんじょ」、西側を「にしんじょ」と呼び、水争いが絶えなかった。当寺はにしんじょの寺で、西寺にしでらと呼ばれていた。江戸時代には寺子屋が開かれ地元の集まりの中心として親しまれてきた。

安禅寺:創建は後花園天皇の第一皇女である観心女王・安禅寺の宮によるものと伝わり、中興開山義空栖雲せいうん和尚により1689年、現在地に再建された。
観音堂には西国三十三所の33体の観音菩薩が祀られており、一種の写し霊場となっている。洛西には西国巡礼に旅立つための観音講が各地にあったが、この上久世でも一種の通過儀礼としての西国巡礼が行われており、出発前にはこの寺に家族で参拝し道中の安全を祈ったという。

蔵王堂光福寺:西山浄土宗。山号は医王山。本尊は蔵王権現。
京都洛西観音霊場第19番札所。
954年、村上天皇の勅願で、開基は浄蔵貴所じょうぞうきしょ。

称讃寺:牛ヶ瀬の称讃寺(しょうさんじ)は、東海道線南に隣接し、境内に保育園を併設している。山号を青柳山(せいりゅうざん)という。 
 浄土宗西山禅林寺派(総本山永観堂禅林寺)、本尊は阿弥陀如来、札所本尊は千手観音。
 京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第20番札所。

長福寺:浄土宗西山禅林寺派。山号は念佛山。本尊は阿弥陀如来。
京都洛西観音霊場第21番札所。
札所本尊は慈覚大師円仁作とされる十一面千手観世音菩薩で「結びの観音」と呼ばれ、縁結び・子授けのご利益で知られる。はじめ比叡山に安置されていたが、高倉天皇の勅命により法華山寺峰ヶ堂に移され、室町時代1478年に、下津林村の五社神社境内に御堂を建立し、像を安置、永福寺とした。

常楽寺:宗派は不明。京都洛西観音霊場第22番札所。本尊は十一面千手観世音菩薩。
正しくは千手院せんじゅいん常楽寺じょうらくじという。松尾七社の一つである大宮社の境内にある。

地蔵寺:浄土宗。山号は久遠山。本尊は地蔵菩薩。桂地蔵ともいう。
京都洛西観音霊場第23番札所、京都六地蔵巡めぐり霊場、京都通称寺の会所属。

阿弥陀寺:浄土宗西山深草派。山号は吉祥山。本尊は阿弥陀如来。
京都洛西観音霊場第25番札所。
もとは誓願寺管長の隠居寺として建てられたのが始まり。後に尼寺となり、明治時代には衰退したが、1961年(昭和36年)に赤壁師が入山して復興した。
洛西観音霊場の観音様は恵心僧都作と伝わる千手観音立像で千代原観音と呼ばれる。
洛西観音霊場の第22番札所常楽寺の納経もこの寺で受け付けている。

浄住寺:寺伝によれば、810年(大同5年、弘仁元年)に嵯峨天皇の勅願により、円仁(慈覚大師)が天台宗寺院として開創したと伝えられています。当時は「常住寺」と号していましたが、1261年(弘長元年)公卿葉室定嗣が中興し「浄住寺」と改められ、葉室家の菩提寺として栄えました。
正慶2年(1323年)絵図によれば、本堂・鐘楼・舎利殿など多くの堂宇が立ち並んでいた様子が描かれています。
しかし、鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)4月、六波羅探題軍と千種忠顕率いる後醍醐天皇軍が交戦した際に、浄住寺は全焼します。その後も、応仁の乱以降に度々兵火に遭って荒廃し、永禄10年(1567年)に全焼しましたが、1687年(貞享4年)葉室頼孝の開基、黄檗宗の僧鉄牛道機を中興開山として再興され、黄檗宗の寺院になります。
寺宝には、叡尊自叙伝の古写本である「感身覚正記」が有名です。

長恩寺:山号は霊鷲山れいじゅざん。西山浄土宗。本尊は千手観音立像。
京都洛西観音霊場第26番札所。

観世寺:西山浄土宗。山号は大悲山だいひざん。
本尊は阿弥陀如来坐像。京都洛西観音霊場第27番札所。
鎌倉時代の僧・勝月坊(証月坊・松月坊・照月坊)慶政上人が松尾山の南に建立した法華山寺(峰ヶ堂、峰ノ堂)が前身という。正慶年間(1332~1333年)に兵火で焼かれた際に、難を逃れた阿弥陀如来像、聖観音像などがこの地に移された。
本堂は1965年(昭和40年)に再建されている。

蔵泉庵:臨済宗相国寺派の尼寺。山号は宝珠山ほうしゅうざん。京都洛西観音霊場第28番札所。
室町時代の創建。たび重なる火災で焼失し、山崎の合戦で敗れた明智光秀が隠れ住んでいた庵であるともいわれる。

西光院:浄土宗西山禅林寺派。
京都洛西観音霊場第29番札所。

18:30堀川通りのホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

9日8:00車で出発、霊場巡り。

福成寺:臨済宗建仁寺派。山号は宝珠山ほうじゅさん。
本尊は十一面観音立像。
京都洛西観音霊場第31番札所。

来迎寺:来迎寺は法然上人が開宗なされた浄土の教えをもとに、その高弟である西山証空上人の流れを汲む浄土宗西山禅林寺派に属するお寺であります。


西迎寺: 西迎寺(さいこうじ)は丘陵地に建つ。境内に至る参道の坂道(少納言坂)には白い漆喰塀が続いている。山号は安岡山(あんこうざん)という。 西山浄土宗、本尊は阿弥陀と釈迦の二尊を安置している。京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第4番札所。

正法寺:真言宗東寺派別格本山。山号は法寿山。西国薬師四十九霊場第41番札所、京都洛西観音霊場番外札所、京都六大黒天霊場第3番札所。
鑑真和上の高弟で、754年にともに唐から来朝した智威ちい大徳がこの地で修練を行なったことに始まる。古くは春日禅坊かすがぜんぼうと呼ばれたが、延暦年間(782~806年)に伝教大師(最澄)が智威ちいの威光を世に示すため、大原寺おおはらじという寺を創建した。応仁の戦火で焼失したが、江戸時代初期に、恵雲えうん・徴円ちょうえんの両律師により再興され、「西山のお大師さま」として古くから親しまれてきた。元禄年間(1688~1703年)には徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院けいしょういんの帰依を受け、代々徳川家の祈願所となった。

宝菩提院願徳寺:宝菩提院願徳寺は、白鳳8年(679)に持統天皇の勅願で創建。徳のある願いによる寺であることから「願徳寺」と名付けられ、現在の向日市寺戸に東西1300m、南北800mもの大伽藍が建立されました。その後、平教盛の子・小川法印忠快が、東山三条にあった宝菩提院を願徳寺に移転。天台宗の大寺院として栄えたものの、応仁の乱で焼失し、かつての面影は失われました。

金蔵寺:8年(養老2)元正天皇の勅願で創建された天台宗の古刹。現在の建物は桂昌院の再建。山の斜面、石垣と石段の間に堂宇が建ち並ぶ。高さ約12メートルの産(さん)の滝、鳥帽子岩、などがあり、眺めもすばらしい。

十輪寺:天台宗。山号は小塩山。京都洛西観音霊場第3番札所。通称、業平寺なりひらでら。
850年文徳天皇が染殿そめどの皇后(藤原明子あきらけいこ)の安産祈願のため、伝教大師作の延命地蔵を安置したのが起こり。後の清和天皇が誕生し、文徳天皇勅願所となる。その後は藤原北家(花山院かさのいん家)が帰依し、一統の菩提寺となる。
御本尊の伝教大師作延命地蔵菩薩は等身大木像坐像で、その御腹に巻かれた腹帯で染殿そめどの皇后が安産されたことから腹帯地蔵尊と称されている。

三鈷寺:西山宗本山。平安時代1074年に源算上人が草庵を結んで北尾往生院と号したのが始まり。
京都洛西観音霊場第5番札所、西山国師遺跡霊場第12番札所。
源算上人の後は、二祖観性法橋、三祖慈鎮和尚(慈円)と続き、次いで1213年に法然上人門下の證空善恵国師すなわち西山上人が伝燈した。
上人は浄土宗西山派の派祖であり、ここを不断如法念仏道場とするとともに名も三鈷寺と改めた。これは背後の山容が仏器の三鈷杵に似ているからと言われている。

善峯寺:天台宗単立寺院。神経痛・腰痛の祈願所。
西国三十三所観音霊場第20番札所、京都洛西観音霊場第1番札所、神仏霊場京都5番。
平安時代中期の1029年、源算上人によって開かれた。1034年、後一条天皇の勅願で善峯寺と寺号を賜る。
1042年、後朱雀天皇の時に、仁弘法師作の十一面千手観世音菩薩像を本尊とし、先の源算作観音像を脇侍とされ、白河天皇によって諸堂が建立された。
鎌倉時代には京都青蓮院門跡の宮様が代々住職を勤めたため西山宮門跡と称された。
室町時代の応仁の乱で焦土と化したが、江戸時代に徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院が復旧した。

光明寺:西山浄土宗の総本山。山号は報国山。
法然上人二十五霊場第16番、京都洛西観音霊場第7番、西山国師遺跡霊場第13番札所。
隣接する京都西山短期大学は光明寺の学寮が発祥。
1198年、法然上人の弟子である蓮生れんせい法師(熊谷次郎直実)の開基とされる。法然上人が念仏の教えを最初に説いた「浄土門根元地」と伝えられる。
また京都市西京区大原野の「善峯寺」、長岡京市浄土谷の「楊谷寺」とともに京都・西山三山と言われている。

観音寺:創建は奈良時代と言われる。
文献で初めて見られるのは室町時代初の1340年で、江戸時代末の「都名所図会みやこめいしょずえ」にも同寺の絵が描かれている。
隣接する子守勝手神社とともに粟生あお地区の「十人衆」と呼ばれる長老の奉仕により維持管理されている。

長法寺:天台宗。山号は清巌山せいがんざん。京都洛西観音霊場第9番。
寺伝によると、延喜年間(901~923年)園城寺おんじょうじ(三井寺)で修行した千観せんかん上人が開いたとされる。しかし旧長法寺村に残る江戸期の古文書によれば、962年創建で比叡山延暦寺正覚院の末寺となっている。千観せんかん上人は918年生まれというから、延喜年間の開創というのは無理があるよう。
ただ、かつて平安時代の仏画の二大傑作の一つと言われた「釈迦金棺出現図しゃかきんかんしゅつげんず」掛幅(国宝)を所蔵していたことから、平安時代にはかなり栄えていたことがうかがえる。
また本堂前には千観供養塔と伝えられる鎌倉時代の三重の石塔があり、境内の西北隅には巌窟から泉(溺泉おぼろのいずみ)が湧き出ている。

乙訓寺:784年に桓武天皇が長岡に遷都した際、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築した。この当時の境域は、南北百間以上もあり、建てられた講堂は九間に四間の大増築で難波京の大安殿と同じ規模のものであった。翌年、藤原種継が春宮房の人々に暗殺されるや、天皇は早良さわら親王を当寺に幽閉した。
なぜなら早良さわら親王は桓武天皇の実弟で皇太子であったが、暗殺団と見られた一味と交流があったからである。親王は身の潔白を示すため断食して訴えたが、10余日後、流罪処分となり淡路島に護送途中、淀川べりで絶命、遺骸はそのまま送られ、淡路島に葬られた。その後、天皇の母、皇后の死、皇太子の重病が続き、また悪疫の流行、天変地異が発生した。朝廷は事件15年後に早良さわら親王を復権、崇道すどう天皇と追号し、陵墓を奈良に移すなど措置を講じた。

柳谷奥の院:西山浄土宗光明寺の末寺。新西国霊場第17番札所。柳谷観音の名で親しまれている。
十一面千手千眼観音が本尊。
寺伝によると、806年京都清水寺の開祖延鎮が開き、空海もこの地で修業したと言われている。
境内にある奥之院は京都洛西観音霊場第10番札所で、十一面千手観音が祀られている。

乗願寺:西山浄土宗光明寺の末寺。山号は浄土山。京都洛西観音霊場番外札所。
天延年中(973~976年)に恵心僧都がこの地で修行中に阿弥陀仏の来降を拝み、その姿を写して仏像を刻み草庵を結んだのが当寺の始まり。

今回の旅行、京都の洛西に足を運び、京都洛西に点在する京都洛西三十三霊場の番外編を含む35か所を訪れ楽しみました。

京都の寺院、規模が大きく派手な寺院が多いが今回の寺院、こじんまりして地味で、派手さがなく、参拝者も少なくひっそりしていましたが西国霊場に含まれる3か所、吉峯寺、光明寺、柳谷観音楊谷寺は規模が大きくて立派な寺院でした。
有名で規模の大きい京都の寺院、今回のマイナーな規模の小さい寺院巡り、再発見感覚で楽しめました。























 




飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十九弾:岐阜県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年6月1日-2日
 

滋賀県に足を運び、足を運び、滋賀県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所(多治見、明智、馬籠、美濃、郡上八幡、高山、飛騨古川、白川郷)を訪れました。

1日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神自動車道経由して多治見インター下車

多治見:多治見といえば焼き物、とくに織部焼で知られています。町には陶磁器を販売する店がいたるところにあります。とくにオリベストリートは、商家や土蔵などを残しながら、古い街並みを形成しています。しかも重厚さに目を見張ります。
 また新町銀座アーケード街にも蔵造りの商家が見られます。さらに小路町付近、御幸公園付近にも古い町家や蔵が残されています。御幸公園は西浦邸の本宅跡で,付近一帯は多治見陶磁器の発祥の地と言われているそうです。

明智:
町の有志がボランティアで、町の活性化のために取り組み、いろいろな事情を克服しながら活動し、また行政もこれにタイアップして進めています。大正村は大正のイメージと心、そして人々の郷愁をこの町に留めるといった、いわば物質的なものより精神的な要素が強く、日本中の人達がその時代を偲ぶメッカとなることを究極と考えています。大正村役場、大正村資料館ほか、大正の文化に関する資料の収集や展示を整備し、総ての人達が大正の風情にひたれる環境をつくるために努力しています。 情報化の激しい波が押し寄せるこの時代にあって、静かな山あいの町、明智町は、製糸を地場産業として栄えた大正の頃の姿そのままに、風俗、建物をはじめ、生活文化そして人情や自然にいたるまで大正のた たずまいを残しています。
日本大正村は、ただ古い物を集めて見せるのではなく、人々の生活が息づく中で「大正」を感じてほしい、町ぐるみ大正の博物館です。

岩村:江戸時代の町並みが残る山間の城下町。慶長6年(1601年)、松平家乗は標高717mの城山を整備し、岩村川の北に武家町、南に町人町を配した。町人町には生活用水・防火用水として天正疎水がつくられた。城の現存物は石垣のみとなったが、城下には岩村本通りを中心に古い町家が多く残り、本町の母屋の約4分の1は江戸時代の建物。秋祭りでは、東の八幡神社と西の武並神社を結ぶ町並みを、御輿渡御が数百メートルの行列となって往復する。

馬籠:馬籠宿は、石畳が敷かれた坂に沿う宿場町。日常から離れ、水のせせらぎ、小鳥のさえずり、街道を横切る風を感じながら、粋なひとときをお過ごしいただけます。宿場の中間地点には、この地が生んだ文豪・島崎藤村の生家跡(本陣)も資料館として馬籠の歴史を伝えています。

関方面に向かう。

関市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

2日5:00車で出発。

美濃:
上有知の町は金森長近によって造られたもので400年の歴史を持つ。一番町と二番町、それをつなぐ4本の横町によって目の字型となっている。町は上、中、下に三区分され、金森長近が以前に造った高山の町並と似ている。金森長近は長良川の上有知港を開き、それと町を結んで交通の便を図った。上有知町を造った金森氏は在城10年にして断絶し、その後一時幕領となったが、まもなく尾張藩領となって明治に至った。上有知は街道により郡上、飛騨への物資集散地となり、さらに岐阜、桑名方面への舟運によって商業が大繁盛し中濃屈指の町となった。この町は丘の上にあるため水の便が悪く、古来度々の火災に遭った。特に享保8年(1723)の大火によって町は全滅した。その時、町民の防火意識の高揚により一番町、二番町の道幅を従来の二間から四間に拡幅することになった。この時の町並が現在の町並である。特に古い形態を残しているのは、現在の泉町のうだつ連棟と旧今井邸のあたりで、江戸時代の姿をよくとどめている。次に古い町家が残っているのが本住町、魚屋町あたりで、町民のうだつへのあこがれを示す片側だけのうだつの松久邸や完全防火をめざした旧武藤邸の姿など貴重な遺構である。さらに相生町の小坂邸の美しいむくり屋根のある国重文の家は、特に注目をひく。常盤町の重厚な土蔵つくりの構えなど後世に残すべき重要な文化遺産の宝庫といえよう。外部から見るうだつの町はすばらしいが、旧今井邸の内部に見られる店の構えも古い時代の商人の生活がうかがえるのが楽しい。特に美しい庭や茶室に一流商人の庭と茶道に対する趣味の高さと、文人好みの教養の深さが知られる。うだつの町には、それにふさわしい町人文化が発達したことも忘れられない観点であろう。

郡上八幡:岐阜県郡上市の真ん中に位置する「郡上八幡(ぐじょうはちまん)」は、小京都として人気がある城下町。シンボルである郡上八幡城の西南には、職人町や鍛冶屋町などの古い町並みが広がっています。また「水の郷百選」に選ばれた郡上八幡は、名水として知られる宗祇水をはじめ、豊かな湧水に恵まれた清流の町でもあります。町屋の軒下には水路が流れ、水舟の合理的なシステムには感心するばかり。水路や小径が点在する風情あるたたずまいに癒されます。国の重要無形民俗文化財に指定された「郡上おどり」は郡上八幡の夏の風物詩。なかでもお盆の4日間に開催される「徹夜おどり」は、観光客も一緒に踊って明け方まで盛り上がります。

高山:
飛騨高山の古い町並は定番の観光スポット!ガイドブックによく載っている、タイムスリップしたかのような光景を見ることができます。高山を訪れたら絶対に外せない散策場所の1つです。上一之町、上二之町、上三之町が「さんまち通り」と呼ばれており、名物のみたらし団子や飛騨牛の握りを食べながら散策するのがおすすめ!商人の町として栄えた江戸時代の雰囲気を楽しめます。宮川朝市は日本三大朝市の1つとしても知られており、地元の人や多くの観光客でにぎわう飛騨高山の名物!高山市の中心を流れる宮川沿いで、ほぼ毎日開催されています。地元の新鮮な野菜を買ったり、食べ歩きの定番みたらし団子を食べたり、ご当地の名産品を味わいましょう。また、もう1つの朝市、陣屋前朝市も徒歩圏内なので、早起きして高山名物である朝市をはしごするのもおすすめです!「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で二つ星を獲得した高山陣屋は、江戸時代の時代劇ファンにはたまらないスポットです!もともと高山城主金森長近の下屋敷だったものが徳川幕府の直轄地となり、江戸から代官や郡代(ぐんだい)が来て役所となりました。この役所は“陣屋”と呼ばれ全国に60ヶ所以上ありましたが、現在、建物が残っているのはなんとここだけです!年貢に関する展示や奉行所でおなじみの“お白洲”、罪人に関する展示なども数多くあり、ぜひ時間を取ってゆっくり立ち寄りたいスポットです。高山陣屋の目の前で開催している陣屋前朝市は、毎朝6時30分頃から12時まで開かれ、地元野菜や山菜などの食品、民芸品などが販売されています。宮川朝市に比べてお店は少ないですが、そのぶん人が少なめなので、落ち着いて買い物をしたい方におすすめです。

飛騨古川:石造りの瀬戸川沿いを、右手に白壁土蔵街、左手には「水呼びの亀」が守る円光寺を見ながらのんびりと散策。飛騨古川の象徴的ともいえる景色が続きます。瀬戸川を悠々と泳ぐ1,000匹もの鯉に餌をあげるのも散策の楽しみのひとつ。絵になる町並みで記念写真を撮りながらじっくりと歩きたくなる道です。

白川郷:岐阜県の白川郷合掌造り集落は、1995年に世界文化遺産に登録されました。ミシュランで3つ星として掲載された日本を代表する人気観光地で、田んぼに囲まれた中に茅葺屋根の家が点在する山村の景色は、まさに日本の原風景。城山展望台、和田家、旧遠山家民俗資料館などは、日本人なら一度は訪れたい定番観光地です

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、岐阜県に足を運び滋賀県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所(多治見、明智、馬籠、美濃、郡上八幡、高山、飛騨古川、白川郷)を訪れ楽しみました。

城下町、宿場町、商業町、合掌通リの集落、明治大正にかけてのレトロな建物街並み等、歴史的建造物がいっぱいの町を訪れ散策し癒されました。

世界的メジャーで知れ渡っている、高山、世界遺産の白川郷は、多くの外人観光客で賑わっていました。
その他の地区は、外人観光客はほとんどいなく、日本人観光客が数少ないですがぽつりぽり見かけた観光名所でした。
インスタ、ツイーター等で拡散すれば外人観光客が増え賑わうことを願います。