飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十九弾:宮城県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年8月31−9月1日
  

東北地方で中心となる宮城県に足を運び、宮城県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(登米、岩出山、村田、白石、七ヶ宿)を訪れました。

8月31日15:25伊丹空港出発
16:35仙台空港到達、レンタカーで名取市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

9月1日7:30レンタカーで出発、小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り。

登米:今は登米(とめ)市の一地区の登米(とよま)町ですが,2005年の合併までは登米(とめ)郡登米(とよま)町でした.
仙台藩では一国一城令の後も城を各地にもち,要害と称していました.ここも登米要害(城名としては寺池城)があり,支城のようになってました.町は要害に付随する城下町のような町で,それに加えて北上の水運などで栄えていました.奥の細道でも「戸伊摩(といま)といふ処に一宿して平泉に至る」という記述があります.写真は武家屋敷のある通り.明治になって一時的に県庁がおかれたりしたため,明治の洋風建築などもあります.明治の小学校「旧登米高等尋常小学校校舎」は重文です.登米はスレートの産地だったのでスレート屋根が多いです.明治になってドイツあたりから技術をとりいれたようですが,日本建築によくあっているように思います

岩出山:大崎市岩出山の天王寺追分には出羽街道と上街道の分岐点がある事から、岩出山付近は古来より交通の要所となっていたようです。その為か岩出山には推古天皇元年(593)には国内の4か所に建立された四天王寺の1つが建てられ、前九年合戦の折には源義家が鍋倉山八幡神社に戦勝祈願するなど歴史の古さを感じる事が出来ます。中世に入ると岩出山(岩手沢)は大崎氏の支配下に入り軍事的拠点の1つとして重視され、家臣である氏家弾正が岩手沢城(後の岩出山城)を築きます。しかし、大崎氏は戦国時代末期、豊臣秀吉による「小田原の陣」に参加しなかった事から奥州仕置きにより改易となります。大崎氏はこの処置に不服で葛西氏など共に大一揆を起こし(伊達政宗の陰謀説が有力)各地で反乱し、徳川家康や伊達政宗が鎮圧にあたります。岩出山にある実相寺には徳川家康が40日間滞留したと伝えられ、家康から500石の御朱印地を寄進を受けています。一揆制圧後、伊達政宗が会津若松城(福島県会津若松市)から岩出山へ領地替えとなり、それに先立ち家康の家臣榊原康政が岩出山城(岩手沢城)を改築し政宗を迎え入れます。政宗は岩手沢を岩出山に改名し、会津若松や米沢(山形県米沢市)から多くの寺院を呼び寄せ城下町建設に精を出し12年間統治を行います。関ヶ原の戦い後の慶長8年(1603)に政宗の仙台開府に伴い多くの寺院は仙台へ随行しますが、岩出山の歴史性や交通の要所の意味合いからも重要視され四男宗泰が1万5千石で岩出山を統治しする事になります。一国一城令により岩出山城は要害となりますが、有備館の整備など教育や、都冷泉家より御輿入れがなされると回遊式池泉庭園などの京文化や地場産業などにも力を入れ今日に繋がる町づくりを展開しています。明治維新後は玉造郡役所が置かれるなど周辺から中心的立場を持ち後に岩出山町が発足さらました。2006年に大崎市へ合併。現在の岩出山は旧商人町だった通りが拡幅され昔の風情が一辺しましたが、有備館や鍋倉山八幡神社、実相寺など歴史ある社寺が多く、内川周辺の散策路など整備され「小京都」として認定されています。

村田:村田町は宮城県南部の内陸部に位置し,仙台市の南に接する。村田町のほぼ中央,盆地の北端に保存地区がある。15世紀に村田城が築かれ,江戸時代には,伊達家の家臣が領主として館(やかた)を構える。館の東に領主の家臣たちの武家地,そしてその東に町人地が配された。資料では,遅くとも18世紀後期には,町人地が成立していたことが確認でき,このうちの本町(もとまち)と荒町(あらまち)が保存地区に当たる。江戸時代には,上方(かみがた)や江戸との交易を行って,紅花の集散地として栄え,明治には繭の集散地,その後も仙南地方の商業地として栄えた。村田町村田伝統的建造物群保存地区は,近世から近代にかけて商業地として栄えた東西約180メートル,南北約470メートル,面積約7.4ヘクタールの範囲である。敷地は,南北道路に面して短冊形(たんざくがた)に割られ,敷地の北に建物を寄せて建て,敷地の南を敷地内通路とする。道路に面しては,北に寄せて店が建てられ,その南に門が建てられる。その結果,道路に面して,店と門が交互に並ぶ,特徴的な町並みとなっている。また,道路に面する店は店舗専用建築とし,その背後に居住施設である主屋(おもや)を別棟で建てることも特徴的である。店の多くは土蔵(どぞう)造りとする。店は厚い土壁で覆われ,窓や扉は,段々を付けて外部から火が入らないように工夫された掛子(かけご)塗りとし,壁面には平たんな瓦を貼って目地を漆喰(しっくい)で盛り上げた,なまこ壁が多用され,重厚かつ意匠的にも発展した形式とする。一階は店舗として使用され,前方を土間とし,後方に床(ゆか)を張って帳場(ちょうば)とし,土間と帳場の境には,上下にスライドして開閉をする摺揚戸(すりあげど)を残すものもある。門は,軒を支える部材などに彫刻を施し,戸口の上には欄間を飾り,意匠的にも見所が多い。村田町村田伝統的建造物群保存地区は,近代になって意匠的に発展した当地方特有の店と門が交互に並ぶ特徴ある町並みを良く残し,さらには,敷地内の主屋,土蔵,納屋などが良く残り,特徴ある歴史的風致を良く残し,我が国にとって価値が高い。

白石:宮城県の白石市は、蔵王連峰のふもとに広がる豊かな自然が残る街です。自然がいっぱいの名所や、癒しの時間を過ごすことのできる温泉街がたくさんあります。
城下町の街並みが残っていたり、「弥治郎こけし」などの伝統工芸品や、言い伝えの残る場所といった歴史の重みを体感できる観光スポットもたくさんあり、見所が盛りたくさんです。
白石城は白石市の中心部にあった平山城で、復元工事では、史実に忠実に、城廓として機能した文政6年再建後の最晩年の構造による三階櫓(天守閣)、大手門として本丸の一部を復元。建物は、日本古来の建築様式に基づき、数百年の歳月に耐え得る、全国的にも数少ない、木造による復元を採用したもので学術的にも評価を得られ、さらに市民の誇りとなり得る『白石市のシンボル』として復元

七ヶ宿:白石市の西側に接している町で、町のほとんどが南蔵王に含まれる山地になっています。七ヶ宿町の由来は太平洋側と日本海側とを結ぶ七ヶ宿街道沿い(ほぼ現国道113号線)に七つの宿場が設けられていたことに由来しています。この七つの宿場のうち小坂峠側の上戸沢宿と下戸沢宿は白石市に属しています。七ヶ宿町に属していた5つの宿場のうち町の中心であった渡瀬宿は平成3年に七ヶ宿ダムが完成したため水没してしまいました。現在、町の中心は関宿地区に移転しており国道沿いに渡瀬宿の記念碑がたてられています。
滑津宿(なめつ)には本陣となった安藤家本陣など往時を偲ばせる建物が残っています。他に二井宿峠に向かって峠田宿・湯原宿があります。
見どころとしては、県内最大のダムである七ヶ宿ダム、南蔵王 不忘山の麓にある長老湖や約30mの川幅いっぱいに流れ落ちる大迫力の滑津大滝(なめつおおたき)などがあります。
七ヶ宿はそば街道として、町をあげてPRされており街道沿いのそば店で各店自慢の味を楽しむことができます。

16:00終了、仙台空港に向かう。

17:00仙台空港到達。
18:45仙台空港出発。
20:10伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方で中心となる宮城県に足を運び、宮城県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(登米、岩出山、村田、白石、七ヶ宿)を訪れ楽しみました。

何回か訪れたことのある観光名所、城下町内の武家屋敷、伊達家の別荘、往時の繁栄を伝える豪勢な店蔵、街道の宿場町の旅籠の名残を伝える家等、歴史的建造物、重要伝統的建造物群保存地区巡り、癒されました。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十八弾:ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ観光
2019年8月10−18日


ユーラシア大陸のロシアの南西に位置する旧ソビエトの国々ベラルーシ・ウクライナ・モルドバを訪れました。

ベラルーシ:ヨーロッパ東部、西はポーランド、南はウクライナに国境を接する内陸国。1991年12月ソビエト連邦の解体により独立。共和制。小麦・ジャガイモ・亜麻などの農業生産が盛ん。機械・自動車工業も発達。住民の大部分はベラルーシ人。首都ミンスク。面積20万8千平方キロメートル。人口980万( 2005)。旧称、白はくロシア。ベロルシア。正称、ベラルーシ共和国。

ウクライナ:ヨーロッパ東部の国。北はベラルーシ,北東と東はロシア,西はポーランド,南西はスロバキア,ハンガリー,ルーマニア,モルドバと接し,南は黒海,アゾフ海に面する。国土はおもに平地からなるが,ところどころにドネツ丘陵,ポドリスク丘陵などがあり,西部にカルパート山脈を含む。一般に穏やかな大陸性気候で,平均気温は南西部で 1月−3℃,7月 23℃,北東部で 1月−8℃,7月 19℃。年降水量は 400〜600mm。北部は森林,中部は森林ステップ(→ステップ),南部はステップ地帯に入る。住民の 80%近くはウクライナ人,約 20%はロシア人。公用語はウクライナ語。都市人口は約 3分の2。9世紀から現れたキエフ公国はキエフを首都とし,11〜12世紀に栄えたが,13世紀タタール人の侵入により滅亡し,16世紀ウクライナはポーランド領となった。17世紀に入り勢力を増したウクライナ・コサック(→コサック)は分離運動を起こし,やがてロシアの援助を得,1654年にはロシアと合併した。1917年独立し共和国成立,1922年ウクライナ=ソビエト社会主義共和国としてソビエト連邦に加盟したが,1991年独立を宣言。今日の国名に改め,独立国家共同体 CISに加盟。資源が豊かで,石炭,石油,鉄鉱石,マンガン鉱,カリウム塩などの埋蔵量が多く,19世紀からドネツ炭田(ドンバス)を中心に工業が発展していた。ソ連で最も工業発展の進んだ共和国の一つで,ドンバス川,ドネプル川流域に大工業地帯があり,各種冶金,機械,化学,食品などの工業が発達している。また大農産国で,国土の 50%を占める肥沃な黒土地帯(→黒土地帯文化)を利用して,コムギ,トウモロコシ,テンサイ,ヒマワリ,ブドウなどの栽培や畜産が盛んである。土地改良も進められ,灌漑設備が各地でつくられている。ドネプル川,ドネストル川,ドナウ川などの河川が流れていることと,黒海に面していることから水運が発達し,陸上交通網も密度が高い。1986年4月キエフ北方のチェルノブイリで史上最悪の原子力発電所事故が発生した(→チェルノブイリ原子力発電所事故)。2014年,ロシアが南部のクリミア半島の編入を宣言したが,国際的には承認されていない。

モルドバ:南東ヨーロッパにある共和国。西はプルート川の大部分を国境としてルーマニアに、他の三方はウクライナに接する。1991年12月のソ連崩壊まではモルダビア共和国と称し、ソビエト連邦を構成する15共和国の一つであった。面積3万3700平方キロメートル、人口364万(2000国連推計)。人口密度1平方キロメートル当り108人。都市人口比率は46.9%と低い。首都はキシナウChiinu(ソ連崩壊まではロシア語でキシニョフКишинёв/Kishinyovとよばれていた)。
 なお、歴史的な地名としてのモルドバ(モルダビア)は、プルート川西岸の現ルーマニア領内のモルドバを含んでいるので、モルドバ共和国は歴史的地名としてのモルドバの東側半分にあたるプルート川東岸から東方のドニエストル川までのベッサラビアBessarabiaとよばれる地域と、ドニエストル川とウクライナ国境に挟まれたプリドニエストロビエ(沿ドニエストル川流域)とよばれる狭く細長い地域からなっている。

10日7:30伊丹空港全日空で出発
8:45羽田空港到達、バスで成田空港に向かう。
11:00成田空港到達。
12:15成田空港アエロフロート・ロシア航空で出発。
16:05(時差6時間)モスクワ・シェレメチェヴォ空港到達。乗り継ぎ失敗によりロシア空港近くのホテル到達、就寝。
11日6:20ホテルシャトルバスで出発、モスクワ・シェレメチェヴォ空港に向かう。
8:30モスクワ・シェレメチェヴォ空港アエロフロート・ロシア航空で出発
10:00ベラルーシミンクスj空港到達、バスで観光。

ミンクス市内観光。

ミンクス:ベラルーシ共和国の首都ミンスク。かつては華やかな文化を持つ地域でしたが、ロシアとヨーロッパの交通の要所に位置しているため、度重なる戦争の舞台となりました。現存する建物は旧ソ連時代に建てられたものが多く、旧ソ連諸国の面影が色濃く残る街です。

国立図書館:巨大なダイアモンド型のユニークな建物が、国立図書館です。教育に力を入れているベラルーシらしく、図書館として立派なことはもちろん、裏手にあるエレベーターでのぼる展望台も、観光客には魅力的です。
展望台からは街並みを一望することができ、かなり遠くまで見渡すことができます。また、夜の9時からはこの建物が輝きはじめ、様々な色や文字が浮かびあがるライトアップがされています。
その様子は圧巻で、ずっと見ていても飽きのこない美しさといえるでしょう。

聖霊大聖堂:シヴィスワチ川を見下ろす位置にあるバロック式の大聖堂で、外観は簡素な印象ですが内部に展示されているイコン群は圧巻!ミンスクでは必見の観光名所ですよ。ミンスクの聖霊大聖堂は、1633年から1642年にカトリック教会の修道院として建てられたものですが、1852年にロシア正教の教会となりました。美しい2つの塔を持つサファードには、モザイクの聖母が描かれています。ここで特に有名なのが「ミンスクの聖母」と言われる聖母とキリストのイコン。奇跡を起こすと信じられていて、ミンスクの人々の信仰を集めています。

勝利広場:勝利広場はミンスク中央駅の駅前通りにある観光スポット。第二次世界大戦のドイツに対する勝利を称える像が建てられています。半円形の膨大な広場で、記念塔、永遠の火、英雄都市記念碑があります。この広場へは、記念ホールを兼ねている地下通路を通って行くことができますよ。英雄都市とは、ソ連が12都市へ贈った称号。
高さ38mの記念塔はベラルーシの衛兵が守っていて、衛兵の交代式は定番の観光名所となっているんです。広場の中央には、戦争で亡くなった兵士や市民を悼む永遠の炎が燃え続けています。

トラエツカヤ旧市街地:スヴィスラチ川に面したトラエツカヤ旧市街区です。学生たちがボランティアで第2次世界大戦前のミンスクの街並みに復元活動を行って生まれた町並みです。

12:00バスでブレストに向かう。

途中2つの居城訪れる。

14:00昼食

ミール城:ミールはミンスクの南西90kmに位置する小さな町。その町外れにまるでおとぎ話の中からでてきたかのような美しいお城、中世の花とも呼ばれるミール城があります。
15世紀から16世紀にかけてゴシック様式で建築されたものが起源で、その後リトアニア大公国貴族の手に渡りユネッサンス様式を取り入れ改築。
しかしその後は放置され荒廃。さらに19世紀に入るとナポレオン戦争に巻き込まれ大きく損傷をうけたものの、19世紀末に当時の技術を結集させて元の姿に修復。
その後第二次世界大戦時にはナチスドイツに接収されたのち終戦後に再度修復され現在の姿となっています。

ラジヴィウ城:「ネスヴィジ城(宮殿)」は、ミール城から30キロの位置にあり、ラジヴィウ家の居城として16世紀に建てられた。ネスヴィジ一帯はラジヴィウ家の世襲領地として認められていた地域で、リトアニア大公国屈指の財力でドイツやイタリアから建築家を招き、バロック様式の装飾で彩られた美しい宮殿を作った。18世紀にはカール12世率いる軍やロシア軍による略奪、1939年にはソ連軍の侵攻によってラジヴィウ家は城をたびたび追われるのだが、その間もラジヴィウ家の手に戻ると、内装の復元を行い、19世紀後半には、面積1平方キロもある欧州最大級のイギリス式庭園を造った。

17:00バスでブレストに向かう。
20:30ブレスト到達。
21:00ホテル夕食:マチャンカ(豚肉のサワークリーム煮パンケーキ添え)
22:00就寝。
12日8:00バスで出発、ブレスト観光。

ブレスト:ブレスト州はベラルーシの最も西にあり、ポーランドとの国境に接しています。中心都市「ブレスト」は、その位置から歴史的にも重要な都市であり、第二次世界大戦開戦後にドイツ軍がはじめに侵攻を開始した「ブレスト要塞」は世界的に有名です。またブレスト州は広大な国立公園や自然保護区があり、ポーランドとの国境をまたぐ「ベラヴェジの森」は欧州最大で最後の古代森として世界遺産に登録されています。

ブレスト中央駅:ポーランド国境に近い駅であり、ドイツやポーランドからベラルーシやロシアを結ぶ列車が同駅に停車する。ポーランド以西の線路が標準軌(1,435mm)、ベラルーシ以東の線路が広軌(1,520mm)であるため、同駅に長時間停車して車輪幅を調整する。ポーランドのワルシャワや、国内の首都ミンスクまで約4時間半程度。モスクワまで夜行列車が通じている。南下してウクライナに入る列車も走行する。このブレスト中央駅からウラジオストク駅・ハサン駅まで1万キロ以上もエレクトリーチカとロシア客車が活動している。またポーランド以西の標準軌の鉄道路線は駅ホームの有効長が短いため、当駅で列車の増解結も行われている。

ブレスト要塞:第二次大戦でドイツ軍が対ソ攻勢を開始したのがここブレストでした。ヒトラーの「バルバロッサ作戦」です。当時ドイツ軍はブレスト要塞をすぐに陥落させることができると考えていましたが、実際には1ヶ月という長い抵抗に進軍を阻まれ、ソビエト軍がドイツ軍と戦う体制を整えるための時間を与えてしまったとされています。
ソビエトは、数万のドイツ軍に包囲されてもなお戦い続ける戦士たちと勇敢な抵抗を続けたブレスト要塞に「英雄要塞」の称号を授けました。これは都市ブレストに与えられた「英雄都市」と同格の称号だそうです。

国境を越えてウクライナのリビネに向かう。

途中
愛のトンネル:愛のトンネルはウクライナ西部のリウネ州、クレーヴェン(クレヴァン)にあるトンネルで、カップルがこのトンネルをくぐると願いが叶うという言い伝えから「愛のトンネル(The Tunnel of Love)」 と呼ばれています。
このトンネルはクレーヴェンとオルツィヴを結ぶ鉄道の線路上にあり、木々に囲まれたトンネルの美しい景観からウクライナでも人気の観光スポットとなっています。

12:00昼食:ウクライナ風水餃子ヴァレ二キ:

リビネ到達。

リビネ:ウクライナで日本人に人気のものと言えばクレヴァン村にある愛のトンネル。その近郊の町・リヴネが玄関口となる。

リビネ市内のホテル到達夕食済ませて就寝。

13日8:00バスで出発。キエフに向かう。

キエフ:キエフは、ウクライナの首都。ドニプロ川の中流に位置する。同国最大の都市で、政治・経済・社会・学術・交通の中心地である。特別自治都市。5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落から発展した。中世にはキエフ・ルーシの都であったが、近世にはコサックのキエフ連隊の中心となった。20世紀中にウクライナ人民共和国、ウクライナ国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都であり続けた。キエフ市内の人口はおよそ279万人であるが、キエフ首都圏の人口はおよそ400万人となっている。東ヨーロッパにおける最古の都市で、キリスト教の聖地の一つである。都内にある聖ソフィア大聖堂とキエフ洞窟大修道院は世界遺産に登録されている。

12:00昼食

キエフ市内観光

チェルノブイリ博物館:国立チェルノブイリ博物館は、20世紀最悪の原子力災害であるチェルノブイリ原発事故の歴史を保管、記録し、人々に伝えることを目的とした、科学的・文化的啓発活動を行う多機能型の歴史文化施設です。チェルノブイリ原発事故は、それまでに発生した自然災害や人為的災害とは全く異なった影響を及ぼしました。博物館は事故現場から100km離れたウクライナのキエフに、1992年4月26日に設立されました。
博物館は、事故処理作業員や事故の証人たち、犠牲者といった何千もの人々の運命を通して、この事故がどれほど大きなものだったかを理解してもらうため、人々の役に立つことが使命だと考えています。そして、文明と地球を危機にさらした科学技術と人間との共存はかけがえのないものであるということへの理解を促し、世界がチェルノブイリの教訓を忘れないよう、生活のあらゆる場面で事故の教訓を活かせるよう次世代に警告していきます。
「悲しみには限界があるが、心配には限界がない」 これが当博物館のモットーです。この言葉を展示の始まりに掲げ、来館者を出迎えています。
博物館では、専門家や教師、科学者、学者、そして、ウクライナと世界の公的機関の協力の元、環境や生活の安全文化を教育するセンターとなれるように努めています。
こうした目的に合わせ、博物館では様々な訪問者に合った教育プログラムを用意しています。また、博物館の豊富なコレクション、科学的、芸術的にもハイレベルな常設展と企画展、専門性の高い博物館員により、あらゆる年代の様々な関心をもった来館者にご満足いただけると思います。

黄金の門:地下鉄ゾロチー・ヴォロータ駅を降り、地上に上がると大きな建造物が目に飛び込んできます。これが長年キエフを見続けてきた「黄金の門」です。
黄金の門は11世紀、キエフの市街地への入口として作られました。つまり、ここがキエフ市の境だったわけです。それから約1,000年に渡って街は膨張。今では黄金の門はビルに囲まれています。「門」とありますが、櫓のような建物です。見方によっていろいろ変化するのがおもしろいですね。
ちなみに、ロシアの大作曲家ムソルグスキーの作品に「キエフの大門」という曲があります。今でも、ロシアのラジオの冒頭部分で流される曲で有名。
キエフの歴史を知ると同時に、ロシアとウクライナのつながりも感じられるスポットです。

聖ソフィア大聖堂:キエフで絶対に外せないスポットが「ソフィア聖堂」。なぜなら、スラブの最古の国家「キエフ・ルーシ」の文化的中心となった教会だからです。もちろん、世界文化遺産に登録されています。ソフィア大聖堂ができたのは1037年のこと。現在の建物は17世紀後半に再建されたものですが、中は11世紀後半のものが残っています。
中に入ると美しいイコン画(宗教画)が目に飛び込んできます。ウクライナを始めとする東欧諸国のキリスト教は「正教」。「正教」は西ヨーロッパのローマ・カトリックとは異なり、ビザンツ帝国の文化を引き継いでいます。
そのため正教の教会では、キリストなどを描いた「イコン」と呼ばれる宗教画がたくさんあるのです。教会内はどこかギリシャ・アジアの文化が感じられ、西ヨーロッパの教会とは雰囲気が異なります。本当に歴史の重みを感じさせる教会です。

聖ミハイルの黄金ドーム修道院:12世紀に創建されました。1936年に旧ソ連の宗教弾圧で破壊されましたが、ウクライナ独立とともに再建された、世界文化遺産の大聖堂です。キエフの守護天使であるミハイルをまつっています。外観は、白色と水色で、とても優しい印象。内部も穏やかな色合いで、金色の壁画は、息をのむほどの美しさを放っています。最上階からは周辺の川や緑、スタジアムなどの景色を楽しめます。週末には観光客だけでなく、キリスト教徒たちも集う地元に愛される建物のひとつです。

独立広場:記憶に新しい2013年のヤヌコビッチ大統領(当時)へのデモ。マイダンには多くの人々が集まり、政府に対して抗議活動が行われました。やがて、デモは騒乱に発展。マイダンで多くの人々が亡くなったのです。
現在では、マイダンは平和そのものですが、亡くなった人々の写真や花が飾られています。もちろん、政治スローガンも。「戦争」や「平和」に対して思わず考えてしまうスポットです。
マイダンのおすすめ時間帯は夜。ライトアップが美しく、幻想的な光景が広がります。

キエフ市内のホテル到達、夕食就寝。

14日9:00バスで出発、キエフ市内観光

ペチェルスカヤ大修道院:ロシア正教ウクライナ支部の総本山の修道院です。1990年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。敷地内にはいくつかの建物がありますが、特にウスペンスキー大聖堂の壁一面のイコン画が大きな存在感を放っています。小さな彫刻などを展示しているマイクロ博物館など風変わりな施設もあります。

ウクライナ歴史博物館:「ウクライナ歴史博物館」は1899年にアンドリーイの丘に創設され、豊富な資料によりウクライナの歴史を学ぶことができます。
内部ではウクライナの長い歴史を、原始時代から現代ウクライナまで8つのホールで分けて展示おり、紀元前8世紀頃ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族スキタイ族や、9世紀後半頃キエフを首都として栄えていたキエフ・ルーシのことなど、普段知る機会があまりないウクライナの歴史について触れることができます。
東スラブ世界最古と言われている教会跡を博物館の前庭で見ることができ、その柱の一部が保存されています。

アンドレイ教会:イタリアの建築家ラストレッリによって設計された「聖アンドリーイ教会」は1744年に建てられた教会です。名前になっている「アンドリーイ」とは、ウクライナに初めてキリスト教を伝えたとされる聖人の名前です。
外部と内部が違う美術様式で建てられていて、外部は華麗なバロック様式で、内部は優美なロココ様式になっています。1つの建物で2つの美術様式が楽しめます。
教会はアンドリーイ坂と呼ばれる坂の頂上に位置し、この坂の途中にはお土産や骨董品、画廊などを販売しているお店が軒を連ねています。夜になるとライトアップされ、昼間とはまた違った雰囲気を楽しむことができます。

アンドレイ坂:地元の人が、「キエフで最もキエフらしい」と称賛する雰囲気が残るアンドレイ坂や、アーティストたちが自身の作品を販売している露店など、多彩なキエフの魅力を感じられるおすすめエリアのひとつです。

19:35キエフ・ボリスポル空港ウクライナ航空で出発
20:35オデッサ空港到達

21:15オデッサ市内のホテルで夕食済ませて就寝。

15日9:00バスで出発、オデッサ市内観光

オデッサ:ウクライナの南、黒海の近くに位置し、しばしば「黒海の真珠」とか「南パルミーラ」と呼ばれ、驚くほどきれいでユニークな街です。オデッサは他のウクライナの都市とは異なります。歴史、文化、建築に富み、その上、意外なことがたくさんあります。1794年に創立されたオデッサは比較的若い街であり、昨年9月に219年の建都市記念日が祝われました。毎年、市民は有名な出演者のコンサートと共に様々な行事が行われ、最後に壮大な花火とともに終わりを告げます。
 オデッサの歴史は、多種多様な出来事に溢れていることが分かります。18世紀にロシア帝国領となり、エカテリーナ2世が布告によりオデッサ市を設立し、ウクライナの独立宣言がされるまでソビエト連邦内の都市でありました。
 オデッサ市は日本とたくさん共通している点があります。というのは、横浜市とは姉妹都市の関係にあり、1965年に協定を締結しました。2010年に45周年を記念したイベントも開催されました。日本の代表者はオデッサ市を何回も訪問し、オデッサの人は日本に対し、特にその文化と習慣に深い興味を持ち続けています。日本人とウクライナ人、そして、両国が近くなったように感じることが出来ます。日本の文化に関する、芸術作品の展示会や日本の映画祭等のイベントが開催されています。

愛の橋:プリモルスキー通りの西の橋にあります。たくさんの南京錠が欄干にかけられていて、それは恋人たちが愛を誓って鍵をかけていくのだそうです。そういえばこういう場所ほかにもあったな〜という感じ。
橋自体もけっこうきれいです。

プリモールスキー並木通り:オデッサの有名スポット・ポチョムキンの階段の東側にある、公園のような広めの通りがあります。プリ=with 、モーリェ=海という意味から分かるように、黒海すぐそばの通りです。
階段から南東方面に抜けるとプーシキン像があり、プーシキン通りに通じています。木陰をのんびり散歩したり、涼を取りながら過ごす人たちで賑わっていました。

ポチョムキンの階段:オデッサといえば階段です。オデッサの階段は有名な映画「戦艦ポチョムキン」の舞台となったところ。なお、映画「戦艦ポチョムキン」は1905年に起きたロシア兵の反乱をベースにしています。
「戦艦ポチョムキン」は映画史に残る大作中の大作。特に、赤ちゃんを乗せた乳母車が階段からゆっくりと落ちるシーンは今でも絶賛されています。
このオデッサの階段は、実に不思議な階段なのです。上から見ると、それほど段差がないように思えます。一方、下から見上げるとものすごく高く感じるのです。これは人の遠近法を利用した設計のおかげ。普通の階段では味わえない感覚なので、興味深いです。

オペラ・バレイ劇場:ウクライナのみならず、ロシアでもオペラや観劇はものすごく盛ん。その影響で、破格の価格で本格的なオペラや劇が楽しめます。
オデッサにあるオペラ・バレエ劇場は内装も豪華。入った瞬間に赤と金の内装に目がクラクラすることでしょう。ちなみに、オペラ・バレエ劇場は19世紀にウィーンの建築家によって建てられたもの。もしかすると、ウィーンの影響もあるかもしれませんね。

ゴールサト公園:オデッサのメインストリート、デリバシィスフカ通りの西端にあるゴールサト公園。ここは街の憩いの場として賑わっていて、噴水を中心にパフォーマンサーなどがいました。また園内には面白い銅像がいくつもあり、銅像好きにもいい感じのスポットになっています。
ベンチもカフェもあるので、疲れたときに一休みするにはうってつけの場所です。

昼食:ウクライナの民族楽器バンドゥーラの調べとともにボルシチと黒海の魚料理

国境を越えてモルドバの首都、キシナウに向かう。

夕刻
ミレス・ミーチワイナリーと世界最大のワイン貯蔵庫:「Milestii Mici」は、モルドバ共和国の首都キシナウから南に20km離れた「ミレシュティイ・ミチ」という同じ名前の村にあるワイン工場です。地下には石灰岩でできたワインセラーがあり、その長さ何と250km。そのほとんどが、ワインの貯蔵に使用されています。これは、ワインセラーとしては世界最大規模であることに加え、そこに寝かされているワインの本数も世界最多の200万本と桁違い!2007年、ギネスブックにも認定されています。そして、土地の広さや貯蔵本数の規模に負けず劣らず、Milestii Mici村周辺のぶどう園から集められたブドウは特に品質が高く、これらのブドウから作られたワインは若くても絶品です。そして、何年もこの地下ワインセラーに完璧な環境で保管され、豊かで高貴な味へと熟成されていく「Milestii Mici」のワインは、世界であまり知られていないものの最高品質のワインと言われています。

19:00モルドバの伝統料理とモルドバワイン

21:00キシナウ市内のホテル到達、就寝

16日11:00バスで出発

キシナウ観光

キシナウ:キシナウ(ルーマニア語: Chi?in?u [ki?i?n?w]、ロシア語: Кишинёв)はモルドバ共和国の首都。キシニョフ、キシニョーフ、キシネウといった表記が用いられることもある。人口は647,513人(2004年)。 地名は、ルーマニア語の "chi?la" (泉)と "nou?" (新しい)に由来する。この泉は今もプーシキン通りにあり、ここから町が形成された。
国土の中央に位置し、市街はドニエストル川の支流ビク川(ルーマニア語版)の右岸に広がる。約565平方キロメートルの市内は5つの地区に分けられている。地勢は大部分が平地で、中世より葡萄栽培が盛んである。電気工業、機械工業、繊維産業、ゴムやプラスチック製造などが盛んな工業都市。
モルドバ国立大学(ルーマニア語版、英語版)(1946年10月1日開設)をはじめ、36の大学と科学アカデミー(ルーマニア語版)(1949年10月6日開設)、キシナウ国際空港などがある。

旧オルヘイの洞窟修道院:世の中には沢山の洞窟修道院があるが(ギリシアのメテオル、ラオスのパク・オー、ウクライナのキエフ等)、そんなに綺麗な景色に囲まれている修道院は少ない。旧オルヘイは辺鄙な守りやすい場所にあるのは正教教会の坊主が13世紀以来高く評価した。その為、M?n?stire in Pe?ter?(洞窟修道院)が創設された。モルドヴァの大英雄 ?tefan cel Mare(シュテファン大公)は15世紀に同じところで要塞を造ったが、その要塞は崩壊され今では土台だけが残っている。修道士は修道院を18世紀に手放したが、1997年以降再活動した。

シュテファン・チェル・マレ公園:広くて、開放的なステファン チェル マーレ公園。いくつもの像があり、ロシアの詩人、プーキシンの銅像もあります。また噴水もいくつかあり、すがすがしい公園の雰囲気を演出しています。
キシナウの地元の人もリラックスしてベンチで恋人と肩を寄せ合ったり、子供は噴水の周りで遊んだり、みんなの憩いの場として人々の生活にも浸透している様子。公園はきれいに手入れしてあり、季節によっては花壇のきれいに咲いた花をみることができ、観光客も散策や休憩を楽しんでいます。

シュテファン大公記念碑:公園の正面入り口にはこの公園の名前の由来にもなっているモルドバの独立のヒーローであるステファン大公の銅像があり、キシナウの歴史を感じることができます。ちなみにモルドバの紙幣に描かれている人物もステファンさん。モルドバの一番の英雄として有名な人物です。

勝利の門:キシナウバージョンの凱旋門。凱旋門といっても小さく、パリの凱旋門には及びませんが、後ろのキシナウ教会と共に見える風景はなんだか歴史を感じます。
1846にロシアのトルコからの勝利をたたえるために建てられた門で、クラッシクな四角い形をした姿は、シンプルながらも格調のある時計が飾らない美しさを醸し出しています。正面にはソ連時代の建築の庁舎があり、キシナウらしい風景が見えます。
街の中心にあり街の観光の目印にもなるので、何かと便利な建物です。キシナウについたらまずここを目指すと今後の観光がしやすくなるかもしれません。門には赤・黄色・青の三色が美しい、モルドバの旗が飾られていますよ。旧ソ連の足跡が残る、東ヨーロッパらしい風景の定番観光スポットです。

キシナウ大聖堂:勝利に門の後ろにあります。キシナウ教会とも呼ばれているこの大聖堂は、ミサのある日曜は熱心な正教会の信者のキシナウの地元の人たちで溢れかえります。
1830年に建てられた建物ですが、第二次世界大戦の空爆で一度崩壊し、さらに1962年には共和党人たちによって壊されるという、様々な時代の波の影響をま受けてきた教会。今はキシナウの人々の日常の一部となり、さらにその美しさから観光スポットとしてたくさんの観光客を魅了しています。
勝利の門とともに映る外観も美しいですが、やはり醍醐味は教会の内部。観光客も中に入ることができるのですが、その黄金のきらきらと輝く荘厳な室内の壁や天井には、フラスコ画でロシアの聖人が描かれており、息をのむような美しさです。
教会の入り口には店があり、十字架など、正教会関連のものが販売されています。勝利の門と合わせて訪れたい、定番の観光スポットです。

クリコバワイナリーでワイン試飲:CRICOVAのギネスに登録されている世界一の大きさを誇るワインセラーの歴史は15世紀にさかのぼり、120キロもの全長を誇り1966年この場所を訪れた宇宙飛行士のユリ・ガガリンが迷いに迷った末2日後にやっと地上に出ることができたという逸話が残されているほどの巨大さです。更にこのワイナリーはソ連にナチスが侵攻してきた際にワインバレルの陰に周辺地域に住むユダヤの人々を匿ったと言われています。
そんなクリコバのワインセラーの半数はモルドバのワインコレクションを含むワイン貯蔵用に使われており、ソ連が第二次世界大戦後に戦争賠償として各国から摘発した希少ワインコレクションの一部が保管されています。常時12度に保たれたワイン保存に最適な環境の中ブルゴーニュ、ボルドー、トカジ等の古くて珍しい125万本以上のワインが貯蔵されており、その中でも最も古いボトルは1902年のものだと言われています。
CRICOVAはワイン貯蔵のみではなく様々な品質と価格帯でワインコレクションを製作しており、ピノ・ノワールとシャルドネから作られた伝統的なものから、ルカツィテリ、トラミナーなどの珍しいドイツ品種ブドウやマスカットなどの赤、白、ロゼ、セミスイートスパークリングまであらゆる種類のワインを生産しています。
そんな数あるクリコバワインの中でもスパークリングワインは特に評価が高く、何世紀も前に僧侶ドム・ピエール・ペリニヨンによって発明された古典的なフランスの製法によってスパークリングワインを生産しています。(所謂シャンパーニュメソッドですね。)
そんなクリコバのワインは国内外問わず様々な賞を受賞しており70以上の入賞経験を持っています。
CRICOVAの最大輸入国はカザフスタンで、それまではロシアが主要輸入国でしたが、2014年にモルドバがEUへの加盟の動きを見せた際ロシアがモルドバワインに禁輸措置を課したことで最大輸入国が入れ替わりました。

昼食:村のペンションでモルドバの家庭料理

深夜バスにてキシナウ空港に向かう。

17日02:55キシナウ空港アエロフロートロシア航空で出発
05:55モスクワ・シェレメチェヴ空港到達
モスクワ市内のホテルで休憩
19:00モスクワ・シェレメチェヴ空港アエロフロートロシア航空で出発
18日10:30成田空港到達、バスで羽田空港に向かう。

12:30羽田空港到達
14:00羽田空港全日空で出発
15:05伊丹空港


今回の旅行、ユーラシア大陸の西、モスクワの西に位置する、旧ソビエトの国々ベラルーシ、ウクライナ、モルドバを訪れました。

世界一美人の国、ベラルーシの首都、ミンクスの聖霊大聖堂等の歴史的建造物、ミンクスの近郊に位置する世界遺産のお城、ミール城、ネスヴィジ城。ポーランドとの国境となる街、ブレストのブレスト要塞、ウクライナの首都、キエフの聖ソフィア大聖堂、聖ミハイルの黄金ドーム修道院、ペチェルスカヤ大修道院、20世紀最悪の原子力災害であるチェルノブイリ原発事故の歴史を保管、記録する国立チェルノブイリ博物館、クレーヴェン(クレヴァン)の木々に囲まれたトンネルの美しい景観愛のトンネル、黒海の真珠オデッサの愛の橋、プリモールスキー並木通り、ポチョムキンの階段、オペラ・バレエ劇場、モルドバのミレス・ミーチワイナリー、首都キシナウのシュテファン・チェル・マレ公園、旧オルヘイの洞窟修道院、クリコバワイナリーを訪れ6泊9日の旅堪能しました。

今回トラブル発生、1日目のモスクワ空港からベラルーシに向かう便の乗り継ぎ、2時間十分な時間にも関わらず乗り継ぎがスムーズに行かなくて乗り遅れ、その夜はモスクワのホテルに泊まり翌日ベラルーシに向かっての出発となりました。

今年の正月ウユニ塩湖のツアーで乗り継ぎ失敗による高額な航空チケット自己負担(現在集団訴訟中)のトラブルと異なり、今回は別の旅行会社で対応もよく、自己負担なくスムーズに変更の航空チケット、ホテル手配をしていただいて、旅行会社の対応の違いがあからさまに体験できたことが勉強になり、旅行会社の慎重な選択を要することを痛感しました。

今年の正月の旅行、自己負担を強要したクラブツーリズムは膨大な広告量で旅行客を集め、いくらでも旅行客が集まると自惚れているのか、対応の悪さが際立っています。その点今回の旅行会社ユーラシア旅行社は宣伝をせず、対応がよく、信用を上げ、リピーターを大事にし地道に旅行客を増やしています。大きな違いですね。

    








































飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十七弾:秋田県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年8月3−4日
   

東北地方のきりたんぽや稲庭うどんなど有名グルメが満載、男鹿市のなまはげや横手市のかまくら、大仙市の全国花火競技大会など魅力的なイベントも満載で、県北エリアには伊勢堂岱遺跡や大館城など歴史文化を垣間見ることのできるスポットも豊富で、中央エリアには風の松原や菜の花ロード、県南では法体の滝や川原毛地獄などがあり自然の魅力も充分満喫できる秋田県に足を運び、秋田県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所を訪れました。

3日16:40伊丹空港出発
17:55秋田空港到達、レンタカーで湯沢方面に向かう。
18:50湯沢駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
4日5:30レンタカーで出発観光。

湯沢:小野小町生誕の地と伝えられる市内には、遺跡も数多くのこり、秋田美人を思わせる奥ゆかしい情緒が漂い、訪れる人を魅了します。また、「湯沢」の名のとおり、市内には小安峡温泉、秋の宮温泉郷などが点在する”いで湯の宝庫”。山あいの秘湯や迫力の大墳湯、多彩な温泉が、この地ならではの旅情を演出します。
そして、湯沢は同時に全国に誇る物産のまち。日本三銘うどんとして有名な稲庭うどん、八百年の歴史をもつ川連漆器、全国に名を知られてた老舗のお酒などが有名です。

増田:江戸時代から商家の集まる町として栄えた秋田県横手市増田エリア。
?蔵の町”として知られるこの町を南北に走る中七日町通りには、数々の木造の町家が建ち並び、レトロな雰囲気を楽しみながら散策できます。

横手:秋田県の南部に位置する横手市。伝統行事の「かまくら」やB-1グランプリの「横手やきそば」で知られる横手市は、歴史上名高い「後三年の役」ゆかりの史跡や桜の名所「真人公園」、伝統的な町並みが続く「増田町」など、見どころも多い街。

六郷:六郷湧水群は昭和60年に環境庁から全国名水百選に選定され、平成7年には国土庁の水の郷に認定されました。また、水源の森百選、甦る水百選、遊歩百選などにも認定され、湧水群が存在する美郷町は水の5冠の街として知られています。秋田県美郷町には奥羽山脈を水源とする小河川が扇状地を形成し、その扇状地ある六郷に清水が湧出しています。昔は水量が豊富なことから百清水と呼ばれていましたが、現在は湧水量が減少して60余りになりました。

角館:角館の今に続く町並みをつくったのは芦名(あしな)氏で、江戸時代のはじめ1620年(元和6年)のことでした。その後は佐竹北家の城下町として栄えました。  
 玉川と桧木内川に沿いに市街地が拓け、三方が山々に囲まれたこの町は、歴史ある武家屋敷と桜並木が美しい、まさに「みちのくの小京都」と呼ぶにふさわしい風情を漂わせた観光名所です。
 町は「火除(ひよけ)」と呼ばれる広場を中心に、北側は武家屋敷が建ち並ぶ「内町(うちまち)」、南側は町人や商人が住む「外町(とまち)」に区分されました。

16:00秋田空港到達
18:30秋田空港出発。
19:55伊丹空港到達。

今回の旅行東北地方の秋田県に足を運び秋田県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(湯沢、増田、横手、六郷、角館)、を訪れ楽しみました。

角館は何回か訪れたことのある武家屋敷の町、東北地方では有名な観光名所、外人観光客も多く賑わっていました。時間をかけてゆっくり散策観光予定でしたが余りの暑さで道が広くどこでも車を止めることが来たため車でいくつかの武家屋敷を訪れました。

湯沢、横手の町は秋田県では大きい街ですが、都会と比べるとかなり地味な街、観光名所も多くなく、短時間で巡ることができました。