飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十二弾:西国四十九薬師巡礼観光
2020年2月29日−3月1日
 

奈良県・三重県・滋賀県に点在する西国四十九薬師巡礼14箇所(般若寺、興福寺東金堂、元興寺、新薬師寺、浄瑠璃寺、弥勒寺、室生寺、神宮寺、四天王寺、石薬師寺、善水寺、桑實寺、西明寺、総持寺)を訪れました。
29日12:30車で出発、奈良方面に向かう


般若寺:般若寺(はんにゃじ)は、奈良市北部・奈良坂[1](奈良きたまち)に位置する真言律宗の寺院。山号は法性山、本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られる。 般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきった地点に位置する。般若寺門前を南北に通る道は「京街道」と呼ばれ、大和国(奈良県)と山城国(京都府)を結ぶ、古代以来重要な道であった。この道はまた、平城京の東端を南北に通っていた東七坊大路(東大寺と興福寺の境をなす)の延長でもある。

興福寺東金堂:奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗大本山である日本の仏教寺院。南都七大寺の一つに数えられる。寺院本尊は中金堂の釈迦如来であり、南円堂(本尊・不空羂索観世音菩薩〈不空羂索観音〉)は西国三十三所第9番札所となっている。
藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

元興寺:奈良県奈良市にある寺院。南都七大寺の1つ。蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京内に移転した寺院である。
奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は元興寺と名乗る寺院は次の2つに分かれてしまっている。
法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良市中院町の元興寺(極楽坊)の宗派は真言律宗である。「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産にも登録されている。
また、かつての元興寺を起源とする寺院は極楽坊と塔跡の他に奈良市西新屋町に所在する真言律宗の小塔院がある。ここは現在は奈良市中院町所在の元興寺(極楽坊)内の収蔵庫内に現存する国宝の五重小塔を安置する堂が存在した場所として1965年(昭和40年)に国指定の史跡・「元興寺小塔院跡」に指定されている。現在は江戸時代に建立された虚空蔵堂があるだけである。

新薬師寺:奈良市高畑町にある華厳宗の寺院である。本尊は薬師如来、開基(創立者)は光明皇后または聖武天皇と伝える。山号は日輪山(ただし、古代の寺院には山号はなく、後世に付したものである)。奈良時代には南都十大寺の1つに数えられ、平安時代以降は規模縮小したが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像をはじめ、多くの文化財を伝えている。 奈良市街地の南東方、春日大社の二の鳥居の南方に位置する。最盛期には4町(約440メートル)四方の寺地を有し、現在の奈良教育大学のキャンパスあたりまでが新薬師寺の境内地であった。
新薬師寺は奈良時代(8世紀)創建の官立寺院であることは間違いないが、創建の正確な時期や事情については正史に記載がない。平安時代末期成立の『東大寺要録』には、末寺である新薬師寺についての記載があり、同書の巻第一・本願章には「天平19年(747年)、光明皇后が夫聖武天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った」とある。また、同書巻第六・末寺章によれば、新薬師寺は別名を香薬寺といい、九間の仏堂に「七仏(薬師)浄土七躯」があったという。天平宝字6年3月1日(762年3月30日)の「造東大寺司告朔解」(こくさくげ)という文書(正倉院文書)によると、当時「造香山薬師寺所」という臨時の役所が存在し、香山薬師寺(新薬師寺の別名)の造営がまだ続いていたことがわかる。

浄瑠璃寺:京都府木津川市加茂町西小(字)札場[1](にしお ふたば)にある真言律宗の寺院。山号は小田原山、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する。
本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場する。

弥勒寺:三重県名張市西田原にある真言宗豊山派の仏教寺院。山号は 日朝山(にっちょうざん)、本尊は薬師如来。
6月下旬〜7月中旬に咲く約500本のアジサイが有名。
寺の創建事情や沿革は未詳である。寺には平安時代後期作の聖観音立像と木造十一面観音立像が伝わる。これらの像の由来も不明で、近くの毛原廃寺(奈良県山添村)から移されたものともいうが確証はない[1]。
伝承によれば、この寺は聖武天皇の時代、天平8年(736年)に円了上人という僧が建立したという。創建当時は、弥勒仏を本尊として寺社領も百石を賜っていた。その後、良弁(689年 - 773年)が大伽藍を建立、弥勒寺に薬師如来、一言寺に十一面観音、言文寺に聖観音、行者堂には、役行者倚像等を安置、盛時には七堂伽藍を有する広大な寺院であったといわれる。以来幾多の星霜を経て、多くの堂宇は、自然に荒廃したという[2]。
現在の本堂は、昭和54年(1979年)に鉄筋コンクリート作りに改築された。

室生寺:奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。本尊は如意輪観音。山号を宀一山(べんいちさん)と号する。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。なお、山号の「宀一」は「室」のうかんむりと「生」の最後の一画だという。仏塔古寺十八尊第18番札所。

17:00樫原市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

3月1日7:30車で出発、三重県方面に向かう。

神宮寺:三重県多気郡多気町にある真言宗山階派の寺院。山号は丹生山。女人高野山丹生山神宮寺成就院と号する[1]。通称丹生大師。丹生神社の神宮寺である。高野山が女人禁制だったのに対し、女性も参詣ができたので「女人高野」とも呼ばれる。通称の丹生大師とは空海(弘法大師)のことである。
伝承によれば、この寺は宝亀5年(774年)光仁天皇の勅願により勤操によって開創された。勤操大徳は空海の兄弟子とされている僧である。伝説によると弘仁元年(810年)唐から帰国した空海は、諸国を巡拝し真言密教を広める聖地を丹生にすると決めた。ところが唐の国から投げた三鈷(さんこ)が高野山で発見されたため、高野山が真言宗の拠点となったという。空海が三鈷を力強く投げすぎたため、最初丹生に飛来したが跳ね返って高野山に届いたと伝えられている。弘仁4年(813年)、空海が諸堂の整備を行う。

四天王寺:推古天皇の勅願により、聖徳太子が建立したと伝えられている。
戦火で荒廃と復興を繰り返していたが、安濃津城主だった織田信包が再建し、織田信長、信包の母でもある土田御前の墓がある。その他、藤堂高虎夫人(一色氏)、富田知信の子千代丸、斎藤拙堂など津にゆかりのある人物の墓がある。
昭和20年(1945年)、戦災で総門、中雀門、鐘楼以外はほとんど焼失したが、本堂と庫裏は戦後再建された。

石薬師寺:寺伝によれば、神亀3年(726年)、泰澄が、当地で巨石の出現を見、薬師如来の示現と悟り、草庵を設け供養したことが、当山の開創とされている。その後弘仁3年(812年)空海(弘法大師)が、巨石に薬師如来を刻み開眼法要を行い、人々の信仰を集めたことにより、嵯峨天皇(在位809年 ? 823年)は勅願寺とし、荘厳な寺院を建立し、名を高富山 西福寺 瑠璃光院と称していたと伝える。
天正年間(1573年 ? 1592年)の兵火により焼失している。
寛永6年(1629年)になって、当時の神戸城城主一柳監物が、諸堂宇を再建した[2]。現在の本堂はこの時のものである。
元和 (日本)2年(1616年)に、東海道五十三次の宿場である石薬師宿にちなみ、高富山 瑠璃光院 石薬師寺と改称し、今日に至っている。本堂内には、秘仏本尊薬師如来(鈴鹿市指定文化財)、紀州徳川家寄進の脇侍日光菩薩、月光菩薩ほか、十二神将、地蔵菩薩、大日如来、不動明王が安置され、大師堂には知恵弘法と呼ばれる弘法大師像を安置している。

善水寺:中世以前の沿革はあまり明らかでないが、伝承では奈良時代の和銅年間(708年 - 715年)に元明天皇が国家鎮護の道場として建立し、和銅寺と称したという。
その後、平安時代の初期に最澄が入山して池から出てきた薬師如来を本尊として請雨の祈祷をし、天台寺院に改めた上で延暦寺の別院諸堂を建立したという。
桓武天皇が病気になった際、最澄が法力により当寺の霊水を献上したところ、たちどころに回復した。これによって天皇から岩根山善水寺の寺号を賜わったという。
その後に境内は広げられ、本堂のある地を中尾、清涼山を東尾、岩根山を西尾といい、塔頭が計26ヵ坊存在していた。なかでも岩根山は善覚院、中之坊、角之坊、岩蔵坊、持蓮坊、宝泉坊、角心坊、善明坊、浄心坊、大門坊、宝乗坊、実蔵坊の十二坊があった。これにより岩根山は十二坊山とも呼ばれた。
1953年(昭和28年)に大雨により仁王門が流失した。

桑實寺:標高433メートルの繖山(観音寺山)の中腹にあり、西国三十三所観音霊場の32番札所である観音正寺へと登る途上に位置する。
寺伝では、天智天皇の四女、阿閉(あべ)皇女(元明天皇)の病気回復を僧に祈らせたところ、琵琶湖から薬師如来が降臨し、阿閉皇女の病気を治して去り、それに感激した天智天皇の勅願により、藤原鎌足の長男、定恵が白鳳6年(677年)に創建したと伝えられている。寺名は、定恵が唐から持ち帰った桑の実をこの地の農家にて栽培し、日本で最初に養蚕を始めたことに由来する。

滋賀県方面に向かう。

西明寺:滋賀県犬上郡甲良町池寺にある天台宗の仏教寺院。山号は龍応山(りゅうおうざん)。本尊は薬師如来、開基は三修上人である。金剛輪寺、百済寺とともに「湖東三山」の1つに数えられる。西国薬師四十九霊場第三十二番札所。
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば平安時代初期、三修上人の創建という。三修上人は、修験道の霊山として知られる伊吹山(滋賀県・岐阜県の県境にある)の開山上人と伝えられる半ば伝説化した行者である。伝承によれば、琵琶湖の西岸にいた三修上人は、湖の対岸の山に紫の雲のたなびくのを見て不思議に思った。そこで神通力を用いて一気に水面を飛び越え、対岸に渡ると、今の西明寺のある山の中の池から紫の光がさしていた。三修上人がその池に祈念すると、薬師如来の像が出現し、その姿を刻んで祀ったのが寺のはじまりであるという。寺のある場所の地名を「池寺」というのは、この伝説に基づいている。承和3年(836年)には仁明天皇の勅願寺となり、寺領が寄進され、諸堂が建築されたという。「西明寺」の寺号は前述の紫の光が西の方へさしていたことによる。

総持寺:奈良時代、諸国に国分寺が建てられた頃、行基によって開山されたと伝えられる真言宗豊山派の寺。室町時代中期、実済が中興、後花園天皇の勅願寺として惣持院の号を得ました。戦国時代に姉川の合戦で焼失しましたが、豊臣秀吉が120石の寺領を寄進して再興しました。
 江戸時代前期の造立銘を持つ山門には、約2万平方メートルの広大な境内を守るかのように、迫力ある金剛力士像が左右に配されています。古文書からは湖北の武将の庇護が篤かったことがうかがえます。両国四十九薬師霊場の三十一番札所で、本尊薬師如来は「頭の薬師」とよばれています。
 4月下旬から5月上旬には境内一帯に牡丹が咲き、牡丹の寺として親しまれています。
<重文>木造聖観音立像 絹本著色愛染明王像

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、奈良県・三重県・滋賀県に点在する西国四十九薬師巡礼14箇所(般若寺、興福寺東金堂、元興寺、新薬師寺、浄瑠璃寺、弥勒寺、室生寺、神宮寺、四天王寺、石薬師寺、善水寺、桑實寺、西明寺、総持寺)を訪れ楽しみました。

関西の寺院、立派ですね。今回もそうでした。巡るのが楽しみの寺院、目白押しです。





 













飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十一弾:フィリピンセブ島観光
2020年2月22−24日
  

日本から直行便で5時間、ビーチリゾートや山岳の避暑地、歴史的町並みなど魅力的な場所が多いフィリピンに足を運び、歴史が色濃く残るフィリピン最古の都、セブシティを訪れました。

セブ島:フィリピンには離島が数多くありますが、その中でもリゾート地として人気があるのがセブ島。周囲をマクタン島、バンダヤン島などに囲まれているのが特徴で、それらを含めたセブリゾートでは、さまざまな遊び方ができます。セブ島ですが、ここには歴史資産が数多く残っています。その多くはスペイン統治下にあった時代のもので、往時の息吹を今に伝えています。

22日15:25関西空港フィリピン航空で出発
19:00マクタンセブ島空港到達、タクシーでセブシティに向かう。
20:00セブシティ内のホテル到着後就寝。
23日7:30セブシティを散策。

サン・カルロス大学博物館:1595年に創立した、フィリピンで最も古いサン・カルロス大学の付属博物館。スペイン植民地時代の遺品や、それ以前の発掘品、生物標本などを4つのテーマで展示している。多様なコレクションからは、フィリピンの豊かな歴史を想像することができる。

ムセオ・スグボ:セブシティにはセブの歴史を学ぶことができるスクボ博物館(MUSEO SUGBO)があります。
「MUSEO」とはスペイン語で博物館、「SUGBO」はセブ島の古い呼び名です。
スクボ博物館はアヤラモール、SMモールからタクシーで道が空いていれば10分くらいの場所にあり、セブ島では有名な博物館なのでタクシードライバーなら場所を知っているはずです。
博物館の白い建物はとても古く、1871年に建設されたものをリノベーションして2008年に博物館として生まれ変わりました。
博物館になる前は100年もの間、セブ州の刑務所として利用されていたといいます。

カサ・コロルド博物館:セブ最初のフィリピン人司教ファン・ゴロルドの邸宅を博物館として公開。石とタイルを使用した1860年代のスペイン風建築様式が再現されている。館内には18〜19世紀の宗教的遺品や版画、家具、工芸品などが展示され、一家が実際に使用していたままの家具や備品から当時の生活を偲ぶことができる。

ヤップ・サンディエゴ・アンセストラル・ハウス:1600 年代のスペイン植民地時代にまでさかのぼるヤップ サンディエゴの旧邸は、セブ市に移り住んだ中国人に焦点を当てた博物館です。ここは中国国外で最初に建てられた中国人家屋だといわれています。何世紀も前にフィリピンに浸透していたスペイン文化と中国文化の融合が見られる貴重な名所です。

サン・ペドロ要塞:フィリピンがスペインから植民地統治されていた時代に建築されたサンペドロ要塞。最初は木造でしたが、敵対するムスリムや海賊に対抗するため、次第に堅固なサンゴの石造りの要塞と建て替えられました。その後、サンペドロ要塞はアメリカ統治時代には兵舎に、第二次世界大戦中は日本軍による捕虜収容所として使用されていた長い歴史を持ちます。現在は多くの観光客で賑わうセブシティの定番観光スポットとなりました。

セブ大聖堂:セブ島セブ市のダウンタウンにあるカソリック教会です。セブ大司教(セブ地域で最も権威のある聖職者)が在籍しており、セブ地域のカソリック教会を統括していいます。
<P><BR>1595年、セブはフィリピンで始めてキリスト教の教区として制定されました。その後、セブ各地に教会が建てられていきます。<STRONG>セブ大聖堂</STRONG>もその当時に建設が始まった教会のひとつです。しかし、資金難により建設には長い年月がかかりました。最終的に教会は完成しましたが、第二次世界大戦の空爆でベルタワーと一部の壁を残して崩れてしまいました。現在は修復され全貌を見ることができます。

サント・ニーニョ教会:1565年、スペイン統治時代に建てられたフィリピン最古の教会サントニーニョ教会。
毎週日曜日にはフィリピン全土から熱心な信者が訪れる、カトリックの聖地として有名なセブシティの観光地スポットです。
ここにはスペインの冒険家マゼランがセブのファナ女王に贈った、幼きイエス像(サントニーニョ)が納められています。 この像は16世紀にセブが戦火に包まれたときも無傷のまま焼け跡に横たわっていたという逸話をもち、セブの守護神として人々に愛され崇拝されているのです。
大聖堂の中の厳粛な雰囲気、豪華なシャンデリア、美しい壁画とステンドグラスはまるでヨーロッパにいるかのように思えます。

サント・ニーニョ博物館:フィリピン最古の教会サントニーニョの南側にある博物館である。実際には敷地内の地下にある。館内には司祭やサントニーニョが着ているガウンやアクセサリー、キャンドルや香炉、マリア像や書物等が展示されており、セブや教会の歴史を紹介している。また、記念品の販売も行っている。

マゼラン・クロス:サントニーニョ教会のすぐ隣にある「八角堂」の中に保管されいるマゼランクロス。
キリスト教布教のためにセブ島に訪れたマゼランが、キリスト教発祥の地として記念に建てた5メートルもある大きな木製の十字架です。
八角堂の天井には、当時のセブ領主であるフマボン王とファナ王女、臣下800人がキリスト教徒として初の洗礼を受けた様子が細部にわたって美しく描かれています。
マゼランクロスは破片を煎じて飲むと万病に効くと信じられており、十字架を削り取って持ち帰る人が絶えなかったのだとか。
そのため現在では十字架を保護するために堅い木で作ったカバーがつけられ、本物の十字架を見ることはできません。

カルボン・マーケット:セブ島の台所とも呼ばれる巨大市場カルボンマーケット。
コロンストリートと繋がっており、かつてはこの場所で木炭(カーボン)の行商が行われていたためにこの名前がつきました。
現在では野菜や果物、魚、肉などの食材のほか、衣類や雑貨など何でも手に入れられる巨大な市場になっています。
例えば日本では高値の南国フルーツのドリアンやマンゴーも、カルボンマーケットでは驚くほど安く買うことができます。
朝と夕方は食材を求める人たちで大賑わい。 地元の人々の生活を感じられるカルボンマーケットは、一度は見ておきたい観光スポットの一つです。
市場と言えば新鮮でおいしい食品が多く、金額も安くて活気があるというイメージがあります。

16:00ホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

24日6:30タクシーで出発、空港に向かう。

7:00マクタンセブ島空港到達
9:15マクタンセブ島空港フィリピン航空で出発
14:25関西空港到達。

今回の旅行、日本から直行便で5時間、ビーチリゾートや山岳の避暑地、歴史的町並みなど魅力的な場所が多いフィリピンに足を運び、歴史が色濃く残るフィリピン最古の都、セブシティを訪れ楽しみました。

セブ島と言えば優雅なリゾートビーチ、今回はビーチには訪れないでセブシティのスペイン支配下の歴史的建造物観光名所を歩いて訪れました。
町は地方の田舎町風でこれから発展を期待しています。

高温多湿のセブ島、コロナウイルスの影響は少なく、マスクを着けている人は見られません。飛行場で日本人を含めて外国人はマスクを着けている方は多かったです。
飛行機も満席で、中国など他のアジアの国の旅行をキャンセルして、安全なセブ島に変更した方が多かったようです。
私も中国に渡航予定でしたがセブ島に変更しました。

尚セブ島の入国審査で時間を要しパスポート番号をインターネットで詳細に調べられました。以前マニラに渡航した時の入国審査も時間を要し、別室に連れていかれ持ち物を入念に調べられました。今回は持ち物は調べられませんでしたがインターネットでパスポートを詳しく調べられました。おそらく短期間で多くの外国を訪れ、多くのスタンプがパスポートに押されていたため、不信感を抱き、調べられたのでしょう。フリピンは麻薬の密輸等犯罪が多い国ですので入国審査が厳しいです。


























飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十弾:高知県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年2月15−16日
 

四国の南部、高知県に足を運び、高知県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所(土佐中村、赤岡、安芸、吉良川)を訪れました。

15日17:55伊丹空港出発。
18:40高知空港到達、レンタカーで四万十方面に向かう。
21:10四万十市内のホテル到着後就寝。
16日7:30レンタカーで出発、四万十川周辺観光

土佐中村:京都一条家の荘園として栄えた高知・中村。三方を山に、そしてふたつの川に挟まれた京に似た地形で、町の西を流れる四万十川を桂川に、東を流れる後川(うしろがわ)を鴨川に見立て、その後方に連なる山並みを東山と呼びました。そして、東西南北に走る碁盤目状の通りを設け、整然とした町並みを作り上げました。
起源は室町時代。応仁の乱の戦火を避けるため、関白一條教房公はここ中村(現・四万十市)に中村御所を構えました(現在の一條神社)。都を懐かしんだ一條公は、京都を模した碁盤の目状の街づくりをしました。昭和21年の南海大地震で昔ながらの街並みはほとんど残されていませんが、現在でも碁盤の目の街並みや鴨川や東山など京都に見立てた地名やゆかりの神社などもあちこちに残っていますし、「大文字の送り火」や土佐一條公家行列「藤祭り」、「一條大祭」などの京文化の名残りもあります。

高知から室戸方面に向かう。

赤岡:高知県東部、旧赤岡町(現、香南市)のその店はとても不思議な店である。江戸時代、土佐浜街道の在郷町として発展した赤岡町、中2階切妻造り平入りの商家 が連なる商店街の一角にある。白壁の豪壮な建物は築200年を超える元蝋燭屋。目の前の土佐浜街道を大名行列が通ったこともあれば、測量のために赤岡を訪 れた伊能忠敬が泊まったこともある。

安芸:
安芸の地名は十六世紀までこの地帯を支配していた安芸氏に由来します。戦国時代は長曽我部一族、江戸時代になると土佐藩主になった山内一豊が納めた土地であり、安芸には家老の五藤家が入り、当時の武家屋敷は土居廓中と呼ばれて今も残っています。同じく江戸期の建物である岡御殿は豪商の屋敷だったものです。安芸は三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎や童謡の作曲家である弘田龍太郎も輩出しています。童謡が刻まれた曲碑が市内の各所に作られ、童謡の町を目指しているのもその所縁です。町のシンボル的な存在になっているのが、明治時代にすべてを手作りによって作られた野良時計と呼ばれるもので、百十年に渡って旧家の屋根で時を刻んでいます。この野良時計は安芸城跡に近く、周辺には武家屋敷や歴史民族資料館などの見所が集まっているため散策のしやすさもおすすめポイントです。

吉良川:その昔、良質な木炭と薪が取れることから「土佐備長炭」の積み出し港として大いに栄えた吉良川。
土佐漆喰を使った白壁と、台風などの強い雨風から町屋を守るためにつけられた水切り瓦が独特の景観をつくっている。その町並みは、どこかなつかしい時代へタイムスリップしたような感じ。
高知県で初めて、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された吉良川町。明治期に建てられた漆喰壁の商家や、水切 り瓦の蔵が立ち並び、日本の懐かしい町並みを今に残しています。また台風常襲地として、風雨から家を守るために、河原石や浜石でつくられた外壁”石 ぐろ”も、室戸ならではの独特の景観です。

15:00高知空港に向かう。
17:00高知空港到達。
20:00高知空港出発。
21:15関西空港到達。

今回の旅行、四国の南部、高知県に足を運び、高知県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所(土佐中村、赤岡、安芸、吉良川)を訪れ楽しみました。

生憎雨で視界が悪く移動に時間が掛かりました。

カヌーなどで何回か訪れたことのある四万十川、今回は四万十川領域に点在する観光名所を時間をかけて巡りました。
午後からは高知室戸方面に向かい3か所の重要伝統的建造物群保存地区を散策しました。

帰りの飛行機ですが天候不順のため出発が遅れ、伊丹空港の離着陸時間条件21:00までに間に合わず関西空港到達となりました。














京都府小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年2月11日
 

近場の京都に足を運び、京都に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区7か所(東一口、伏見、京都産寧坂、京都祇園新橋、京都島原、京都上賀茂、京都嵯峨鳥居本)を訪れました。

6:30車で出発、第二京阪経由して久御山インター下車

東一口:久御山町の北西部に位置し、木津川氾濫原の北部にある巨椋池(おぐらいけ)の池水の流出入口であったが、干拓後の現在もまお水郷の様相を残している。
文禄3年(1594)伏見築城を開始した秀吉は、それに関連するものとして宇治川を伏見城下に迂回させ、巨椋池畔の各所に堤防を築いて、そこに流入していた緒河川と巨椋池を分離した。
その後巨椋池は東・西一口地区のみを唯一の池水流出入口とした。それにより巨椋池は大内池や中内池などのいろんな池に分断された。
そして農民は巨椋池沿岸の随所に新田を拓いたが、低湿な土地であったため、数年に一度は洪水の被害を受け、不安定な農業であった。
半農半漁の集落東一口村は、江戸はじめには伏見弾正町・三栖村・小倉村と共に巨椋池の漁業権を与えられていたが、常にその中核をなし、度々起こる漁場を巡る争いでも、東一口が勝訴している。
漁業鑑札の配分では文化8年(1811)には弾正町2枚・小倉村3枚・三栖村5枚に対して東一口村は7枚所有し、漁業従事者は74人で、圧倒的な優位で巨椋池漁業を行っていた。
江戸時代の東一口村は巨椋池西岸の大堤防の片側に盛土して家が建ち並ぶ東西に細長い集落で、全長1,300m、最大幅100m、最小幅27m内外の集落であった。
そして、今でも他の山城地区の農村集落で見られない特異な町並を形成している。干拓されたとはいえ、集落の南北には水郷を思わせる排水路が通り、集落の拡張が見込めないので、江戸時代のままの集落形態が残っている。
東一口集落の中程に大きな長屋門を構えた山田家がある。本山田とよばれ、江戸時代からの大庄屋で、淀川・巨椋池の漁業者の代表として君臨した家で、巨椋池漁業関係の古文書や古地図を多く所有している。
明治39年に第一次淀川改修工事が竣工して、巨椋池と宇治川が切り離された。昭和8年から巨椋池の干拓工事が始まり昭和16年に完了したが、久御山町辺りは大都市近郊の農業地帯でありながら、近年まで都市化が進まなかった。久御山町に発展の兆しが見えたのは、昭和41年に国道1号線枚方バイパスが町の中央部を貫通して以来で、その後は目覚しい発展を遂げている。

伏見:伏見:酒どころとして有名な伏見も、宇治と同じく水と関わりの深いまち。以前「伏水」と書かれていたこともある、全国でも屈指の名水が湧き出る土地だ。良い水は、酒造りに欠かせないため、ここで酒造りが盛んに行われたのも当然の成り行きといえる。
そして伏見は、日本の歴史に深く関わっている土地でもある。有名なところでは、幕末の戊辰戦争で旧幕府軍と新政府軍が初めて激突した鳥羽伏見の戦場。坂本龍馬が大坂から船を使い、京都に入る際の定宿としていた寺田屋があったことも多くの人に知られているところだ。水と歴史にまつわる話が数多く残る伏見。

京都産寧坂:京都産寧坂:豊臣秀吉の正妻(ねね)が子供の誕生を念じて坂をあがり清水寺にお参りしていたことからその名がついたとされています。東山の観光地として有名で、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。二年坂を介して北にある八坂神社、円山公園、高台寺、法観寺と南にある清水寺を結んでいるため、観光客が絶えず、土産物店や料亭が並んでいます。

京都祇園新橋:京都祇園新橋:寛文6年(1673)祇園社領の中の弁財天町等の外六町正徳2年(1712)元吉町、末吉町等の内六町が開かれ今日まで一貫して繁栄してきた。
その間、江戸時代の町民の大衆文化の浮世草子浄瑠璃、歌舞伎音曲の舞台となり絢爛豪華を極め今も伝統芸能として継承発展している。
現在では新橋通と白川南側、切通しぞいの町並み一帯は「重要伝統的建造物群保存地区」として指定され、建築学上からも重要な文化財とされているが、特に新橋通は、石畳に両側には黒の千本格子の出格子、二階からはすだれの下がった、祇園独特の町家茶屋様式の建物が建ち並び、祇園の中でも最も祇園情緒あふれる印象的な町並みとなっている。

京都島原:京都島原:豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。  島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾域が女歌舞伎を催したとき、優れた傾域を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。  また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた

京都上賀茂:京都上賀茂:京都市西部、北区の一地区。旧上賀茂村。北山山地に発する賀茂川が京都盆地に流出する谷口にあたる。平安遷都以前から賀茂氏が居住し、賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)(上賀茂社)は賀茂氏の氏神であった。神社は1994年(平成6)世界文化遺産に登録。また神社の神官の住まいが並ぶ社家(しゃけ)町は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。古くから野菜の産地であり、漬物用のスグキナの栽培が盛んであるが、近年は急速に都市化されている。京都産業大学がある。大田神社境内の野生のカキツバタ群落は国指定天然記念物。

京都嵯峨鳥居本:奥嵯峨鳥居本は愛宕神社の門前町としての性格と農村としての性格を合わせ持ち発展してきた町であり、わらぶき屋根の農家風民家や町家風民家が周囲の美しい自然景観を背景に並ぶ情緒有る町並みが残っています。昭和54年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

15:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、近場の京都に足を運び、京都に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区7か所(東一口、伏見、京都産寧坂、京都祇園新橋、京都島原、京都上賀茂、京都嵯峨鳥居本)を訪れ楽しみましたました。

何回か訪れたことのある観光名所、時間をかけ散策し京都の重要伝統的建造物群保存地区を巡りました。

 























飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百九弾:愛媛県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年2月8−9日


四国の中心地、愛媛県に足を運び、愛媛県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所(内子、大洲、卯之町、道後温泉)を訪れました。

8日18:00伊丹空港出発
18:50松山空港到達、レンタカーで内子方面に向かう。
20:10内子市内のホテル到着後食事を済ませて就寝。
9日8:00内子を散策。

内子:内子町(うちこちょう)とは、愛媛県の中央、松山市の南西にある町。ハゼの流通で財をなした商家が建ち並ぶ町並みが自慢の隠れた観光名所です。
1982年に国の重要伝統的建造物群保存地区として文化庁の選定を受けており、歴史的な価値も非常に高い町でもあります。
歴史的な建造物が数多く残る内子町。その町並みはまさしく大正ロマンにあふれています。ぶらり町歩きをしてみれば、どこか懐かしい気持ちになりながら、さながら昔にタイムスリップをしてしまったような錯覚を覚えることもあるでしょう。

10:00レンタカーで出発、大洲に向かう。

大洲:大洲市は、肱川の流域にある大洲城を中心に発展した旧城下町です。『伊予の小京都』と呼ばれる大洲は市の中央部を清流「肱川」が流れており昔ながらの街並みや、美しい田園風景・山並みが特徴です。歴史を感じさせる、ノスタルジックでどこか懐かしい場所や美しい自然を満喫できる美しい場所など情緒あふれる名所の数々が今も息づいています。
町並みの中心に位置する「おはなはん通り」は、連続テレビ小説のロケ地。古き良き日本の懐かしい風景を眺めながら、ゆったりと散策するのがおすすめです。また、川沿いの景勝地に佇む数奇屋造りの建造物「臥龍山荘(がりゅうさんそう)」では、肱川を借景に眺めながら呈茶を楽しむことも。ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで一つ星に選ばれています。

卯之町に向かう。

卯之町:
妻入りと平入りの町家が混在し、白壁、半蔀(はじとみ)、格子、持ち送りなどの伝統的な建築様式が残る町並みで、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
また、大正期建築の教会や明治期建築の開明学校校舎などの洋風建築も点在しています。江戸時代には、宇和島藩の在郷町として栄え、二宮敬作、楠本イネらも往来した通りとして知られています。

道後温泉に向かう。

道後温泉:兵庫の有馬温泉、和歌山の白浜温泉とともに、日本三古湯のひとつに数えられる愛媛の道後温泉。なかでも道後温泉は、文献上もっとも歴史が古い温泉といわれています。聖徳太子や夏目漱石などの歴史的偉人も通った名湯で、街も風情たっぷり。
駅前の商店街を通り抜けると、ありました! 道後温泉のシンボル「道後温泉本館」がお目見えです。3000年の歴史を持つ日本最古の温泉とあって、その重厚な存在感に圧倒!
明治27年に改築された建物は国の重要文化財に指定されていて、そのノスタルジックな外装は、「千と千尋の神隠し」に登場する「油屋」のモデルのひとつと言われています。

15:00松山空港に向かう。
16:00松山空港到達。
19:25松山空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、四国の中心地、愛媛県に足を運び、愛媛県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所(内子、大洲、卯之町、道後温泉)を訪れ楽しみました。
観光は4か所のみで時間はたっぷりあり、ゆっくり散策して巡りました。
どれも何回か訪れたことのある観光名所で過去の記憶を思い出しながら散策観光しました。























飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百八弾:沖縄県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年2月1−2日
 

日本の南方沖縄県に足を運び、沖縄県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区2か所(首里、壺屋)を訪れました。

1日14:55伊丹空港出発
17:05那覇空港到達。モノレールで旭橋下車、駅前のホテル到着後、国際通りを散策し食事を済ませて就寝。
2日9:30出発、モノレールで首里城駅下車。
首里城:首里城(しゅりじょう)公園は、首里城正殿を中心とした有料区域と無料区域の城内、守礼門(しゅれいもん)や園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)、円覚寺(えんかくじ)跡、弁財天堂(べざいてんどう)といった周辺文化財からなる公園です。一般駐車場のある首里杜館(すいむいかん)はレストセンターとなっており、公園内の案内やレストラン、売店があり観光の休憩所として多くの来館者に利用されています。
創建年代は不明ですが、第一尚氏による三山統一後に王城として確立されたとの記録があります。第二尚氏の尚真(しょうしん)王らによって拡張、整備されました。城外には守礼門など2門あり、琉球石灰岩の切石を積み上げた城壁には歓会門や瑞泉門、白銀門などの城門が設けられました。内郭には百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれる正殿と、その前面左右に南殿、北殿が相対して建てられています。沖縄戦で焼失しましたが、一部が復元整備され、1992年「首里城公園」として開園しました。
2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。

那覇市金城町にある「金城町(きんじょうちょう)石畳道」は長さ300mあり、琉球石灰岩が敷かれた石畳道で首里城から続いています。尚真王の時代(1477〜1526)に首里城から南部へ行く道として造られたそうです。戦争で一部なくなり300mしか残っていませんが、両脇に沖縄の古民家があり、風情あふれる場所です。この石畳道は沖縄県指定文化財です。

壺屋:
壺屋は1682年に琉球王府の政策で開窯した窯場。歴史と伝統を引き継ぎながら、現在は店舗40店が販売し、20軒余りの工房が「壺屋焼」を作り続けている。古いのぼり窯の見学や工房での焼物作り体験(要問合せ)もできる。博物館も併設されていて石畳も風情がある。新垣家の窯が国指定文化財に指定された。陶芸工房や直営店が数多く並ぶエリア

15:00モノレール県庁前で乗車、那覇空港に向かう。
15:20那覇空港到達。
18:00那覇空港出発。
19:55伊丹空港到達。

今回の旅行、日本の南方沖縄県に足を運び、沖縄県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区2か所(首里、壺屋)を訪れ楽しみました。
コロナウイルスの影響なのか行きの飛行機はかなりすいており、横になって寝れるほどでした。

首里城は何回か訪れたことのある観光名所、今回は火災による焼けただれた首里城を確認し早く復興再現するのを期待しています。
観光は2か所の訪れとなりますので時間は十分あり、できるだけ歩いてゆっくり観光名所を観察しました。

首里城から金城町の石畳を下り、壺屋まで歩きました。壺屋は初めての訪れで多くの壺屋のお店がが石垣が続く路地に繋がり存在していました。
国際通り過ぎ那覇空港に向かいました。