飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十一弾:奈良県・和歌山県・大阪府、大仏・古墳・塔観光
2020年4月28-30日
   

近畿地方の奈良県、和歌山県、大阪府に足を運び、奈良県、和歌山県、大阪府に点在する大仏・古墳・塔38か所(霊山寺、薬師寺、興福寺五重塔、興福寺三重塔、奈良大仏、法起寺、法隆寺、百済寺、當麻寺東塔、當麻寺西塔、南法華寺、談山神社、室生寺、箸墓古墳、黒塚古墳、東殿塚古墳、ホケノ古墳、石舞台古墳、岩谷古墳、野口王墓古墳、鬼の俎、雪隠古墳、飛鳥大仏、壷阪寺、金剛三味院、金剛峯寺、長保寺、根来寺、青岸渡寺、慈眼寺、金剛寺、叡福寺、勝鬘寺、大山古墳、誉田御廟山古墳、軽里大塚古墳、四天王寺、如意寺、石切大仏)を訪れました。

28日12:30車で出発,奈良方面に向かう。

霊山寺:三重塔、三間三間の桧皮葺、総高17メートルの小塔で弘安6・7年(1283・1284)頃の建立と推定される。鎌倉期の純和様式で、各重中の間板扉、両脇の間連子窓、組物もよく整ったその姿勢は華麗である。初重内部全面に巨勢金岡筆と伝わる極彩色の壁画(非公開)がある。

薬師寺:東塔、薬師寺で唯一創建当時、1300年前より現存している建物で、平成21年より解体修理が始まり、令和2年の春に修理が完了します。落慶法要・落慶慶賛法要が行われます。

興福寺五重塔:塔の高さは50.1メートルに及び、日本の仏塔としては京都、東寺の五重塔に次ぐ規模を誇り、奈良県内における建築物の中でも最も高い建築物の一つとなっています(創建当初の塔は45メートルほど)。
また、初層(1階部分)部分は8メートル四方と、広々とした空間となっており、興福寺にあるもう一つの塔「三重塔」と比べると非常に大きな建築物となっています。
建築様式としては、現在の塔が室町時代に再建されたものであるため、中世らしい豪快さを持ち合わせた建築となっていますが、軒の出に深みがあるなど奈良時代の創建時の五重塔の様式を随所に残した復古主義的なものにもなっています。
ちなみに、外から見ると五重塔は、5つの層(階)に分かれているように見えますが、実際に内部から見ると、初層(1階部分)を除いては全くの「空洞」になっており、中心に伸びる「心柱」という巨大な柱を軸とする形で、5層(階)部分まで吹き抜けの空間になっています。

興福寺三重塔:奈良で最も有名なお寺である「興福寺」。「興福寺」と言えば、多くの人が思い浮かべるのは、京都の「東寺」と並んで重厚で壮大な姿を見せる存在である「五重塔」。奈良市内の各地からも見える存在は、観光客にとっても奈良市民にとっても大変親しみのある存在としてよく知られたものとなっています。しかし、興福寺には、実はもう一つ立派な「塔」があるのです。それが、お寺の西側にひっそりと佇む「興福寺三重塔」。
こちらは「三重塔」と言うからには、五重塔ほどの規模はありませんが、高さは約20メートルに達し、重厚な本瓦葺の建築は十分な迫力と美しさを漂わせる存在となっています。

奈良大仏:聖武天皇は、政変や反乱などが相次ぐ当時の社会不安を、仏法の力によって解消しようと(鎮護国家思想)、全国に国分寺の創建を推進する一方、大仏造立を発願。 東大寺の本尊として世界最大の金銅仏、盧遮那仏(るしゃなぶつ)の造営が始まり、天平勝宝4年(752年)に開眼法会が盛大に行われました。
毘盧遮那(ビルシャナ)=サンスクリット語のヴァイローチャナの音訳で、太陽・光明の意、華厳経の教主です。平安時代の密教で宇宙の根本仏とされる大日如来は、ビルシャナ仏から展開した仏です。

法起寺:法起寺は別名、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれており、平成5年に法隆寺とともに、世界文化遺産に登録されました。この寺は、推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられています。創建の由来については『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘によって判明します。それによると、推古30年(622)2月22日、聖徳太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したといわれています。その後、舒明10年(638)に福亮僧正が聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武14年 (685)には恵施僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)3月に塔の露盤を作ったとされています。

法隆寺:日本最古の塔である五重塔は、五重目の軸部が初層の半分の大きさになっており、これに深い軒の出が相まって安定感を与えています。その軒を雲肘木が優しく支えて、見る人を飽きさせません。
心柱の下にある心礎には、仏舎利が納められています。

百済寺:高野山真言宗の寺院です。「日本書紀」によると、639年に聖徳太子が平群郡に建立した熊疑精舎をこの地に移して「百済大寺」と名付けたとされています。戦火により皇極天皇が再建しますが、現在の三重塔(重要文化財)は鎌倉期の建築です。また天武天皇の時代に、伽藍を高市郡に移し、大官大寺と称したとされます。本堂内陣には本尊・毘沙門天が祀られています。

當麻寺東塔、當麻寺西塔:奈良は藤原京の西、日が沈む位置にあることから太古より聖なる山として崇められていた二上山(ふたかみやま)。その麓に位置する當麻寺は、当地の有力豪族である当麻氏の氏寺として、長い歴史を歩んできた古刹である。聖徳太子の義母兄弟である麻呂子親王(まろこしんのう)が612年に建立した万法蔵院(まんぽうぞういん)を起源に持ち、後の681年に、麻呂古王の孫にあたる当麻国見(たいまのくにみ)が現在の位置に移したとされる當麻寺は、長大なる歴史を有する寺院だけあって、その境内には貴重な建造物や寺宝が数多く残されている。中でも、対で残る古塔としてただ唯一の例である東塔と西塔は、個々の古塔としての建築的価値と相まって、それぞれ国宝に指定されている。

南法華寺:伝承によれば大宝3年(703年)に元興寺の弁基上人により開かれたとされる。 三重塔は、明応6年(1497年)に竣工したとされており、宝永7年(1710年)に大修理が行われたという。

談山神社:室町時代(重要文化財 )父・藤原鎌足の追福のために、長男・定慧と次男・不比等に よって西暦678年に建立されました。 現存の塔は、享禄5年 (1532)の再建で、木造十三重塔としては、世界唯一のものです。 唐の清涼山宝池院の塔 を模して建てられたと伝えられています。 高さは約17メー トルあり、屋根は伝統的な檜皮葺きです。 神仏混淆時代の名残であると同時に、談山神社のシンボル的な存在です。


室生寺:奈良時代末期、この地で皇太子山部親王(後の桓武天皇)の病平癒の祈願が、興福寺 の五人の高僧によって 行われ、これに卓効があったことから、勅命により、興福寺の賢璟によって室生寺の開基となった。 賢璟が793年に没した後は、 弟子の修円に引き継がれ造営された。 この室生寺で最も古い建造物と見られるのが、この朱塗りの五重塔で、800年頃の建立、つまりは修円が 造営中に建立されたものと思われる。 屋外にある日本の木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎ2番目に古く、江戸時代以前に建立された屋外の木造五重塔では、日本最小である。

18:00樫原駅付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
29日7:30車で出発

箸墓古墳:陵墓「大市墓」。奈良盆地の東南部、箸中微高地上に築造された全長約276mの前方後円墳。
墳丘の詳細な調査は行なわれていないが、後円部径約156m・高さ約26m、前方部幅約130m・高さ約17m、後円部5段・前方部4段築成と考えられている。表面には葺石が確認されているほか、特殊器台形埴輪や二重口縁壺の破片などが採集されている。墳丘周辺部では桜井市教育委員会や奈良県立橿原考古学研究所などによる発掘調査が行われており、周濠や外堤、墳丘と外堤を結ぶ渡り堤が確認されている。採集された埴輪や周濠部で出土した土師器などから、前方後円墳としては最古級にあたる3世紀中頃~後半の築造と推定されている。

黒塚古墳:全長約130mの前方後円墳。大和古墳群にある。平成9(1997)年8月から発掘調査が開始され、後円部中央の竪穴式石室から、1面の画文帯神獣鏡や33面の三角縁神獣鏡などの副葬品が完全な形で出土した。一つの古墳からの三角縁神獣鏡の出土数としては全国最多である。三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から贈られたとされる「卑弥呼の鏡」と呼ばれるもので、大和の中心部で見つかったのは初めてであるだけに、邪馬台国論争を左右する重要な手がかりになるものとして、注目を集めている。築造は3世紀後半から4世紀前半頃で大和政権の有力人物の墓と推測されている。

東殿塚古墳:萱生町・中山町に所在する全長139メートルの前方後円墳です。基底部の長方形区画は全長175メートルの規模があります。1997年におこなわれた発掘調査では、周濠と周堤帯がみつかりました。この調査では埴輪祭祀の遺構が見つかり、埴輪が多量に出土しました。3世紀後半に築造された古墳時代前期前半の古墳と考えられます。

ホケノ古墳:全長90メートル、後円部径60メートル、高さ8.5メートルの纒向型の前方後円墳で、周濠が確認されている。大神神社は、この古墳を豊鋤入姫の墓に比定している。現在は、古墳の葺石や前方部の埋葬施設等が復元されている。
3世紀中頃に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の一つです。古墳は東方より派生した緩やかな丘陵上に位置し、古墳時代前期の大規模集落である纒向遺跡の南東端に位置します。

石舞台古墳:国営飛鳥歴史公園内石舞台周辺地区の中央に位置するわが国最大級の方墳です。墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈しているという独特の形状です。天井石の上面が広く平らで、まるで舞台のように見えるその形状から古くから「石舞台」と呼ばれています。30数個の岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンとかなりの重量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれます。被葬者は明らかではありませんが、7世紀初頭の権力者で、大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父でもある蘇我馬子の墓ではないかといわれています。

岩谷古墳:墳丘は完全に残った一辺がない為確定できないが上八角下方墳の可能性があり下段の一辺が45mとすれば当時としては最大クラスの古墳となり被葬者として斉明天皇の可能性もでてくる(河上邦彦氏)
石室内の石材は全て切石加工された日本でも最も精美な石室のひとつであり「岩屋山式石室」の標識となっている。尚、目地の漆喰は後世のもので築造時からあったのかは不明。
石室入口の天井部分に幅8cm、深さ5cmの窪んだ溝があり一般的には閉塞の施設とする考えもあるが河上邦彦氏は床部分に何もない事や雨の日の実見で「雨水が石室内に入り込まないようにする水切りの為」との説を提起されている。
羨道の奥の部分の天井石が一段低くなっている。これは羨道を長く見せようとする遠近法を利用したという説と羨道を前後に仕切る施設があったのでは?との説がある。
調査時に玄室(玄門付近)から径1m、深さ0.8mの穴が見つかり中には砂利が詰まっていた。つまりは排水用の集結穴で排水と湿気抜きの設備であった。

野口王墓古墳:天武・持統天皇が埋葬された陵墓として宮内庁が管理している。同庁が公表した復元案によると、墳丘は八角形で5段構造となっていて、最下段は1辺約15m・対角辺約40m、全体の高さは約7.7mを測る。墳丘全体を凝灰岩の切石で覆われ、最上段は高さ約3mと他の段より高く、仏塔のような構造だったと推定されている。1235(文暦2)年に盗掘されたことが複数の文献に残されているが、京都・高山寺で発見された『阿不幾乃山陵記』によると、埋葬施設は横口式石槨とみられ、漆塗りの木棺や骨蔵器が納められていたという。7世紀後半の築造。陵墓名・檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)。

鬼の俎、雪隠古墳:欽明陵の近くの道路をはさんで別々に置かれている巨石二つのことで、上にあるのを爼、下のを雪隠という。これは古墳の石槨の底部と蓋がバラバラになったもので、欽明陵の陪塚の一つが崩れ落ちたものと推測されているが、一方では未完成のまま放置されたものとの説もある。呼び名の方は、昔旅人が、この辺りにさしかかると霧がかかり、行き悩んでいる所へ鬼が現われ、旅人を爼の上で料理したのち、下の雪隠で用を足したという伝説から来ている。

飛鳥大仏:御本尊の「釈迦如来坐像」は、銅製で国の重要文化財に指定されています。605年(推古天皇13年)、時の天皇が聖徳太子や蘇我馬子や皇子とともに発願し、鞍作鳥(百済の仏師)によって造られた日本最古の大仏。
こちらの大仏様は、高さは約3メートルで銅は15トン、黄金30キロを用いて造られました。他所の大仏様と比較すると小ぢんまりとしてるのですが、大きさとは違った迫力を感じられます。
奈良の大仏様などと比べると、お顔が少し面長に感じられるでしょう。諸説ありますが、創られた時代が違うことと、当時はまだ国内で仏像を創る技術を持ったものはいなかったとされるため、百済の仏師が渡来して創られたから「百済ならではのテイスト」が入ったではないかと言われています。また、左右それぞれ見る方向により大仏様の表情が違って見えるのです。
平安・鎌倉時代の二度の火事により建造物は焼失しましたが、奇跡的に大仏様は全焼を免れ後に修復を受けました。建造物が再建されるまでの間は野晒しになっていたこともありますが、1400年以上の間、飛鳥の土地に鎮座されています。

壷阪寺:高取城跡から西へ下ったところにある壷阪寺。ここは、大宝三年(七○三年)建立の、古くから観音信仰が盛んに行われた霊場です。平安時代を代表する随筆のひとつ『枕草子』の中で清少納言によって「寺は壷阪、笠置、法輪」と賞賛されるこのお寺は、西国三十三ヶ所めぐりでも六番札所として、今も訪れる人は絶えることがありません。境内にあるのは国の文化財に指定されている礼堂や三十塔、そして天竺渡来の大観音石像。これはインドで壷阪寺が行った社会活動に対し、インド政府より感謝の意を表して贈られた石仏で、延べ八万人の日本とインドの石工によって、四年七ヶ月の歳月をかけて彫りあげられました。この壮大なスケールの観音様は、石像としては世界最大の大きさを誇っています。

金剛三味院:高野山の塔頭の一つ金剛三昧院には、1223年に北条政子が源頼朝と実朝を弔うために 造らせた多宝塔が建っています。
非常に繊細な建物で、ディテールも細やか、緻密に作られていて、同じ 高野山壇上伽藍にある西塔と比べると、その優しい表情がよくわかる建物です。
この多宝塔を見ると、奈良興福寺の三重塔を思ってしまいます。 1143年に造られ、1180年に消失、その後直ぐ再建された三重塔は、 崇徳天皇の中宮皇嘉門院が造ったと伝えられていますが、 近くにある五重塔と比べると非常に繊細で鎌倉期の特徴をよく表しています。
どうも女性が発願すると、このような優しい表情になるようです。

金剛峯寺:比叡山延暦寺が伝教大師によって開かれたころ、高野山金剛峯寺が弘法大師空海によって開かれた。
ごく初期の伽藍建築についてはわからない。空海は唐から帰国後、弘仁七年(八一六)に朝廷から寺地を賜わった。
空海の生存中は草庵があった程度のようである。
延暦寺の場合、それぞれの中心建築「中堂」が重要であったが、金剛峯寺ではこのような堂よりも「塔」が中心であった。
空海が示寂したころには宝塔二基が工事中だったというから、これからも塔(多宝塔、その最大規模のものが大造が中心であったことが知られるであろう。空海在世中に大塔・講堂(金堂)・僧房があったとするのは時期的に早すぎるようで、
大塔が完成したのは延喜のころになる。


長保寺:本堂・塔・大門とそろって国宝である寺は奈良の法隆寺と長保寺だけです。
紀州徳川家歴代の廟所があります。約1万坪の広さで、山中に広く展開する廟所は他に例がありません。
藩主廟所は大名墓所としては全国一の規模です。長保寺は長保2年(1000)に一条天皇の勅願によって創建され、鎌倉時代に現在の伽藍の姿が整いました。

根来寺:根來寺(ねごろじ)を開創された覚鑁(かくばん)上人は肥前国藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)で生まれました。13歳で京都・仁和寺の寛助僧正に従い出家得度し、奈良と京都を往復しながら仏教を学び、20歳になると高野山に登り、真言密教の復興に努力しました。
やがて鳥羽上皇の庇護を受け、長承元年(1132)に学問探究の場である「伝法院」、修禅の道場である「密厳院」を高野山上に建立します。同時に根来近郊の岡田・山東・弘田・山崎の荘園と本寺豊福寺(のちに根來寺)を院宣により賜り、覚鑁上人を筆頭とする大伝法院は大いに隆盛しました。
さて、大伝法院・弘田荘、根来には豊福長者(とよとみちょうじゃ)が建てた葛城山系の山岳信仰をおこなう草庵がありましたが、覚鑁上人は、その豊福寺(ぶふくじ)の境内に、末寺の学問所として「円明寺」と「神宮寺」を造られ、康治2年12月12日(1143)に円明寺にて49歳の生涯を閉じられました。
覚鑁上人の入滅後、大伝法院は高野山で発展し十三堂塔が建立されましたが、仁治3年(1242)に焼失。その後、正応元年(1288)頃、頼瑜(らいゆ)僧正が大伝法院の僧侶の教学(学び)の拠点を根来に設けました。
頼瑜僧正の学風は聖憲尊師に受け継がれ「新義教学」として大成しました。中世根来寺は多くの学僧を抱える「学山根来」であったことが、伝えられた多くの聖教史料から近年明らかになりました。当時の根來寺境内を示す「根来寺伽藍古絵図」には、覚鑁上人の法灯を守る法会を営む堂塔伽藍と中性院に代表される教学を伝受する300~400の院家が描かれております。
戦国時代、大きな勢力を備えた根來寺は、当時の様子を書いた宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にも紹介されています。しかし、こうした強大な寺社勢力を危惧した豊臣秀吉は天正13年(1585)3月に紀州根来に攻め入り、大塔・大師堂などの2~3の堂塔を残して全山焼失してしまいました。
その後しばらく復興を許されませんでしたが、やがて紀州徳川家の外護を受けて、大門・伝法堂・不動堂など主要な伽藍が復興され、また、東山天皇より覚鑁上人に「興教大師」の大師号が下賜されました。
現在 根來寺は新義真言宗の総本山として、興教大師の御廟を守り続けております。葛城連峰の端に、広い境内を有し、国宝に指定される日本最大の木造の『大毘廬遮那法界体性塔』(だいびるしゃなほっかいたいしょうとう)通称「大塔」のほか、宗祖 覚鑁上人独自の教学をあらわす大伝法堂には、重要文化財の本尊大日如来(だいにちにょらい)・金剛サッタ(こんごうさった)・尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)を安置しています。本尊三尊像と国宝大塔は興教大師覚鑁が高野山大伝法院に創建したかたちをそのまま根來寺において再興した姿を現し、法灯がうけつがれました。史蹟・根來寺境内は中世の佇まいを残し四季折々桜・青葉・紅葉が変化に富み多くの参拝者の目を楽しませています。


青岸渡寺:那智山は熊野三山の一つ。熊野信仰の霊場として長い歴史がある。もともと那智の滝を中心にした神仏習合の一大修験道場だったが、明治初期に青岸渡寺と那智大社に分離した。今も寺と神社は隣接していて、双方を参拝する人が多い。

17:00泉佐野市のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
30日7:30車で出発

慈眼寺:ご本尊・・・・・地蔵願王大菩薩今をさかのぼること、およそ1400年前三草山清山寺を取り囲む
四十九院の一坊としてこの地に自雲庵という宿坊があった。この宿坊こそ現在の慈眼寺である。
大いなる暦の流れにより、三草山清山寺は焼失(織田の戦火による)してしまったが
神山村の村民の手により、ご本尊(千手観音)は当寺の境内に観音堂としてまつられている。又、この観音様は「娘とオオカミ」というはなし(「まんが日本昔ばなし」)にあるように願掛観音としても知られている。この他にも、能勢町初の画廊として「榧の木画廊」を併設している。

金剛寺:文化財の街として知られる大阪府河内長野市。その中でも、貴重な建築物や仏像など数多く残るのが、奥河内の名刹・金剛寺です。南朝ゆかりのお寺でもあり、境内には史跡も多く、歴史好きな方にもおすすめ。特に、南朝天皇と北朝上皇が同時期に暮らした珍しい場所として知られます。

叡福寺:太子町は二上山の西麓に位置し、周囲3km四方の狭い谷間にある町である。この谷を磯長谷(しながだに)という。この谷には、6世紀後半以降に在位した敏達・用明・推古・孝徳の各天皇の陵とされる墳墓が点在することから「王陵の谷」とも呼ばれている。叡福寺は、この王陵の谷にある聖徳太子の陵とされる北古墳の前にあり、古来より太子墓を守護し奉祀する寺院として建立されたと伝えられている。

大仙古墳:エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、南側の履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約34.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。葺石と埴輪があり埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、鹿、家などが出土しています。

誉田御廟山古墳:所在地は羽曳野市ですが、校区のすぐ東に隣接しています。総長700mを越える巨大な前方後円墳で、応神天皇陵に治定されています。墳丘長は425mで、堺市の大仙古墳(仁徳天皇陵)に次いで2番目の大きさですが、表面積や体積(143万m3以上)では仁徳陵を上回り、全国一の巨大前方後円墳です。古市古墳群の中でも、とびぬけた大きさです。

軽里大塚古墳:別名「前の山古墳」。全長200mの前方後円墳。後円部径106m・高さ20m、前方部幅165m・高さ23m、3段築成で葺石・埴輪・造出しを備え、墳丘の周囲には幅30~50mの濠が盾形にめぐっている。内部構造の詳細は不明。後円部で確認された円筒埴輪列などから5世紀後半の築造と推定されている。景行天皇の皇子・日本武尊が埋葬された陵墓として宮内庁が管理している。陵墓名・白鳥陵(しらとりのみささぎ)。
世界文化遺産(百舌鳥・古市古墳群)、2019(令和元)年登録。

四天王寺:四天王寺の五重塔は593年に創建され、その後幾多の雷、火災で焼失したものの、その度に再興され現在に至っています。現在の五重塔は戦争時の大阪大空襲で焼失したものを1959年にした8代目となり非木造建築物で内部に入ることができます。この五重塔最上階からの眺めはまさに絶景といえる光景です。

勝鬘寺:愛染堂の歴史は、今を遡ること1400年ほど昔の飛鳥時代、西暦593年(推古天皇元年)、聖徳太子は、敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる四天王寺を建立されました。 その中の施薬院は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与えられるようにと四天王寺の北西の角(現在の愛染堂の場所)に建立されたのです。当時の面積は現在より一層広大であり、また、建立の意味あいからいうと、我が国の社会福祉事業発祥の地とも言えます。

石切大仏:東大阪市の石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)近くに鎮座するのが石切大仏。精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の4代目・阪本昌胤氏が創業地である東大阪市石切町に建立したのが、知る人ぞ知る石切大仏です。

14:00終了。

今回の旅行、近畿地方の奈良県、和歌山県、大阪府に足を運び、奈良県、和歌山県、大阪府に点在する大仏・古墳・塔38か所(霊山寺、薬師寺、興福寺五重塔、興福寺三重塔、奈良大仏、法起寺、法隆寺、百済寺、當麻寺東塔、當麻寺西塔、南法華寺、談山神社、室生寺、箸墓古墳、黒塚古墳、東殿塚古墳、ホケノ古墳、石舞台古墳、岩谷古墳、野口王墓古墳、鬼の俎、雪隠古墳、飛鳥大仏、壷阪寺、金剛三味院、金剛峯寺、長保寺、根来寺、青岸渡寺、慈眼寺、金剛寺、叡福寺、勝鬘寺、大山古墳、誉田御廟山古墳、軽里大塚古墳、四天王寺、如意寺、石切大仏)を訪れ楽しみました。

今回もコロナウイルスの影響で外出自粛、あえてステイホームでの免疫の低下、家族内感染の悪影響を考慮して、人込みを避けての比較的マイナーな観光名所を訪れました。奈良公園、明日香、高野山、ほとんど人はいません、飛沫感染は考えられない、何処にウイルスが付着しているかもしれない、接触感染防止の消毒をマメにして感染防御し、免疫を上げて観光しました。

今後も理屈を考えながら自己流の感染防御して、又免疫を上げて、観光巡りを行いたいと思います。



































飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十弾:山口県、島根県大仏・古墳・塔観光
2020年4月25-26日
  

中国地方の山口県、島根県に点在する大仏・古墳・塔3か所(大聖青不動明王、瑠璃光寺、有福大仏)を訪れました。
25日14:02新大阪駅新幹線のぞみで出発
15:54新山口駅到達、駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
26日8:00レンタカーで出発

大聖青不動明王:「三大不動明王霊場」(赤不動・青不動・黄不動)設立と「山口県十八不動三十六童子霊場」設立のために建立された。この青不動は「山口県十八不動三十六童子霊場」の第十二番の不動明王。中に仏舎利が収められている。

瑠璃光寺:
大内氏前期全盛の頃、25代大内義弘は現在の香山公園に、石屏子介禅師を迎え香積寺を建立しました。義弘は応永6年(1399年)足利義満と泉州で戦い戦死。26代弟・盛見は兄の菩提を弔うため、香積寺に五重塔を造営中、九州の少貳勢と戦って戦死。五重塔はその後、嘉吉2年(1442年)頃落慶しました。
それからしばらくの時を経た関ヶ原の合戦の後、毛利輝元が萩入りし、香積寺を萩に引寺。跡地に仁保から瑠璃光寺を移築しました。これが今日の姿です。
全国に現存する五重塔のうちで10番目に古く、美しさは日本三名塔の一つに数えられ、室町中期における最も秀でた建造物と評されています。

有福大仏:1360年の歴史があるとされる江津市有福温泉町の有福温泉。温泉街を見渡す高台にある大仏殿には、高さ約3メートルの仏像・有福大仏が鎮座し、優しいまなざしで温泉客らを見守っている。
大仏は同町を訪れた大分県出身の彫刻師・佐藤泰梁氏が、1938年ごろ制作。現在、被爆者療養所・有福温泉荘が立地する場所に佐藤氏の住まいがあり、大仏が安置されていたが、同町で商店などを経営していた河野勲さん=故人=が「多くの人に大仏を見てもらいたい」と61年、温泉街高台に大仏殿を建て、大仏を移した。

16:00終了、新山口駅に向かう。

17:50新山口駅のぞみで出発
19:43新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の山口県、島根県に点在する大仏・古墳・塔3か所(大聖青不動明王、瑠璃光寺、有福大仏)を訪れ楽しみました。

今回も自己流のコロナ対策、在来線、新幹線ほとんど人がいなく、ホテルも、近くの居酒屋もお客さん少ない。
山口から島根県浜田方面の高速道路、殆ど車が走っておらず、サービスエリアはどこも閑散としていました。3か所観光場所もマイナーな名所もあり、人と会わない。

濃厚接触どころか人と接しない、太陽光を浴び、適度な運動、ストレス解消、癒され、免疫を上げることができました。

人と距離を置いて、飛沫感染を防止し、ドアノブ等の接触感染防止のまめな消毒、適度な運動、太陽光を浴びての免疫向上して、観光旅行、楽しめました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十九弾:静岡県・山梨県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年4月18-19日
   

静岡県・山梨県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(遠州森、由比、松崎、下田、赤沢宿)を訪れました。

18日13:48新大阪新幹線ひかりで出発
15:13浜松駅到達、レンタカーで出発

遠州森:遠州森町は静岡県西部の山間地にあり、三方を小高い山々に囲まれ、町の中央を清流「太田川」が流れ、どこか京都に似た風情を感じる町。 その昔、火伏せの神「秋葉山(あきはさん)」へ通ずる秋葉街道の宿場町として賑わい、今も街道脇に残る格子戸の町家や路地裏の土蔵はその時代の名残です。 大正12年(1923年)7月、森町を訪れた地理学者「志賀重昂(しがしげたか)」は、山紫水明のこの町を「小京都」と称賛し、以来遠州の小京都と呼ばれるようになりました。

由比:由比は、東海道16番目の宿場町として、近代では農業と漁業を中心に栄えてきました。由比本陣は、宿場の中央に位置し、約1,300坪の広大な敷地でした。現在は、文化資源を保存する場、文化活動の場、市民憩いの空間として本陣跡地に「由比本陣記念館」「正門・塀」「記念館庭園」「東海道広重美術館」「物見塔」「由比宿交流館」等を整備し、由比宿本陣公園として親しまれています。公園内には、芝生公園、池などがあり、憩いの場としてくつろぐことができます。

19:00新富士駅付近のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

19日7:30レンタカーで出発

松崎:松崎町は、伊豆半島の南西部に位置する小さな海辺の町。あの大ヒット小説『世界の中心で、愛を叫ぶ』のドラマロケ地としても知られています。そんな松崎町を象徴するのが、蔵の壁などでよく見られる黒と白の幾何学模様「なまこ壁」の建造物。現在190棟余り残っており、昔ながらの風情ある景観を保ち続けています。ほかにも豊富な湯量が自慢の「温泉」、東日本では珍しい石積みの美しい棚田「石部の棚田」など、自然と歴史を楽しめるスポットがたくさんあります。

下田:伊豆半島の南端に位置する下田。幕末期、黒船で来航したペリー提督とアメリカ海軍が歩いたとされるペリーロードをはじめ、下田には日本の開国史にまつわる歴史名所が点在しています。また国内有数の美しいビーチも見逃せません。

赤沢宿:早川町赤沢は中世の頃から、聖地身延山と霊場七面山を結ぶ参道の宿場として知られて来た。
江戸時代初期、徳川家康の側室・お万の方の功績により、七面山の女人禁制が解かれたこと、同・中期頃になり山岳信仰の富士講、身延講などの講が盛んになったこと等の影響もあり、七面山への参詣者は急増した。また、それに伴い七面山の参道が整い、途中には寺や坊が置かれるようになると、自然と赤沢の宿の利用者も多くなり講中宿場としての形態が次第に整ってきた。
明治の初期には参詣客を案内する強力、駕籠人足、荷を専門に運ぶ荷背負い業も増え、赤沢34戸の内9軒が旅籠屋を営むようになったのである。
大正から昭和期にかけて、身延線の開通と共に参詣客が急増し、赤沢宿も隆盛をきわめたが、迂回道路の整備や交通の便が良くなるに従い、昭和30年代頃から宿を利用する者は激減してきている。
選定を受けた赤沢宿は、近世から昭和初期にかけて七面山への講中宿・旅籠として発達してきた。集落にはこの往時の隆盛の過程を示す伝統的建造物や民具が多く、保存状態も良い。町並や参道、敷地の形態、石畳、古道、石段など周囲の山々と良く調和し、歴史的自然的景観をよく残している。
伝統的家屋の建築年代は、古いものでは寛政4年(1792)や、天保4年(1833)の物がある。当時は小屋組構造、平入切妻屋根、草葺き屋根や笹板葺き石置屋根が一般的であった。旅籠屋も平屋であったが、明治中期から大正期にかけで、入母屋2階建に増築されている。

15:00終了、静岡駅に向かう。

16:00静岡駅到達。
16:07静岡駅新幹線ひかりで出発。

17:57新大阪駅到達。

今回の旅行、静岡県・山梨県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(遠州森、由比、松崎、下田、赤沢宿)を訪れ楽しみました。

コロナウイルスの影響で全国緊急事態制限、外出自粛要望、あえて免疫下げない、人に接しない方法で外出旅行しました。

在来線、新幹線はがらすき、レンタカーの移動は、人と接しない、ホテル、レストラン、売店もがらすき、観光名所もほとんど人がいない、人と接触を避けて旅行しました。結果的に問題なく人との接触は避け、太陽の光を浴び、適度な運動、ストレス解消の癒された観光巡り、免疫を十分に上げることができました。

人と接しないことを守ることができれば外出旅行は免疫を上げる意味で有効でした。
















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十八弾:西国四十九薬師霊場第二弾観光
2020年4月11-12日
  

京都・兵庫に点在する西国四十九薬師霊場16箇所(法界寺、醍醐寺、雲龍寺、水観寺、延暦寺、三千院、神護寺、正法寺、勝持寺、神蔵寺、長安寺、天寧寺、多禰寺、達身寺、温泉寺、大乗寺)おとずれました。

11日12:30車で出発

法界寺:法界寺(ほうかいじ)は、京都市伏見区日野にある真言宗醍醐派の寺院。山号は東光山。本尊は薬師如来(秘仏)、開山は伝教大師最澄とされている。藤原氏の一族である日野家の氏寺で、日野薬師あるいは乳薬師の別名で知られる。

醍醐寺:醍醐寺の創建は874年、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けました。その後、応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残されました。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」を期に、紀州などから寺院建築が移築されたり三宝院が建設されたりなどし、現在に至ります。

雲龍寺:1372年後光厳天皇の勅願により創建されました。後、同所に後円融天皇、1389年龍華殿を建立され、御宸翰を下して妙法写経を始めました。両帝は屡々行幸になり開山竹厳聖皐上人に聞法受戒されます。晏駕に先立ちて剃髪染衣せられ、上人の引導を受けて背後の山に埋葬しました。

水観寺:1040年、明尊大僧正によって創建された園城寺の五別所寺院のひとつ。別所寺院とは、平安時代から仏法を布教し、多くの衆生を救済するために本寺(本境内)の周辺に設けた別院のことです。

延暦寺:延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延?寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。

三千院:三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は魚山(ぎょざん)。本尊は薬師如来。
京都市街の北東に位置する山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。

神護寺:神護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺迹(ゆいせき)本山の寺院。山号を高雄山と号する。本尊は薬師如来、開基は和気清麻呂である。

正法寺:正法寺(しょうぼうじ)は、京都市西京区にある真言宗東寺派の寺院。山号は法寿山。本尊は千手観音。西国薬師四十九霊場第41番札所。

勝持寺:勝持寺(しょうじじ)は、京都市西京区大原野南春日町にある天台宗の寺院。山号は小塩山。本尊は薬師如来。花の寺(はなのてら)として知られる。西国薬師四十九霊場第42番札所。

神蔵寺:

17:00福知山に向かう。

18:10福知山駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

12日7:30車で出発。

長安寺:

天寧寺:

多禰寺:多禰寺(たねじ)は京都府舞鶴市にある真言宗東寺派の寺院。山号は医王山、本尊は薬師如来(薬師瑠璃光如来)。大浦半島の多禰山(標高556m)の中腹、海抜300mに位置する。

達身寺:達身寺(たっしんじ)は、兵庫県丹波市氷上町清住にある寺院。山号を十九山(じゅうくさん)と称する。本尊は阿弥陀如来、開基は行基と伝える。宗派は曹洞宗に属する。
達身寺は丹波地方有数の古刹であり、「丹波古刹十五ヶ寺霊場」第六番霊場になっているほか、西国薬師四十九霊場第二十五番札所、「氷上郡西国番外霊場」にもなっている。また、宝物殿には平安時代前期から鎌倉時代の仏像が多数納められており、「丹波の正倉院」の別名をもつ。

温泉寺:温泉寺(おんせんじ)は兵庫県豊岡市城崎町の大師山にある仏教寺院。山号は末代山(まつだいさん)。高野山真言宗の別格本山で本尊は十一面観音菩薩。 眼下にある城崎温泉郷の守護寺である。
寺伝では天平10年(738年)、城崎温泉の開祖の道智上人による開基で、山号と寺号はその時に聖武天皇より賜ったものであるという。 但馬最古の木造建造物である室町時代初期建立の本堂等は、国の重要文化財に指定されている。

大乗寺:大乗寺(だいじょうじ)は、兵庫県美方郡香美町にある高野山真言宗の寺院。西国薬師四十九霊場第二十八番札所。

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、京都・兵庫に点在する西国四十九薬師霊場16箇所(法界寺、醍醐寺、雲龍寺、水観寺、延暦寺、三千院、神護寺、正法寺、勝持寺、神蔵寺、長安寺、天寧寺、多禰寺、達身寺、温泉寺、大乗寺)おとずれ楽しみました。

立派な寺院がほとんどで、さすが関西の寺院、癒されました。

コロナウイルスで外出自粛のこの世の中、あえて外出、人と接しにくい、車での移動、屋外の寺院巡り、人を避けての観光、日頃のストレス、運動不足、解消しました。

福知山での夕食、比較的すいてる時間、早めの時間で、居酒屋は殆ど客がおらず、人と接触が少ないと判断し利用しました。




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十七弾:神奈川県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年4月4-5日
  

関東地方の神奈川県に足を運び、神奈川県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区
4か所(横浜山手、鎌倉、鈴鹿長宿、小田原)を訪れました。

4日13:39新大阪新幹線のぞみで出発
15:47新横浜駅到達。新横浜駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

5日8:00レンタカーで出発、重要伝統的建造物群保存を巡る。

横浜山手:横浜山手地区は、明治から外国人居留地として外国人たちが暮らしてきた場所で、今でも異国情緒満点のエリアです。
全体が高台にあるので海や街並みの眺望もよく、とても気持ちのいい散策コース。外国人墓地や山手イタリア庭園で、
明治維新や文明開化に貢献した外国人の生涯や生活を偲び、港の見える丘公園のベンチで美しい夜景を楽しめる。 

鎌倉:
古都の風情を残す鎌倉は、日本初の武家政権「鎌倉幕府」誕生の地として歴史を感じさせるスポットが多く、
一方に相模湾、三方を山に囲まれた豊かな自然があり、首都圏でも有数のベッドタウンと位置付けられています。
鎌倉の中心にある鎌倉を代表するスポット、鶴岡八幡宮から材木座海岸まで伸びる参道がメインストリートの若宮大路。
路地に入ると古民家を改装したカフェや教会や古い洋館などの発見も!
また、若宮大路と並列して八幡宮から鎌倉駅までを繋ぐ小町通りでは、お土産屋さんなどが軒を連ねます。

鈴鹿長宿:相模川の河岸段丘に育まれた湧水。人々はこの豊かな湧水と生活を共にしてきました。湧水が龍源院の蛍を、鈴鹿明神の森を育て、番神水の流れは、
静かな街並みに潤いを与えています。自然と人間の調和、そのような街並みを探訪してみましょう。

小田原:
小田原市は、古くから東海道の宿場町として、また小田原北条氏以降には城下町として賑わいをみせました。
その後、明治後期から昭和初期にかけては温暖な気候と風光明媚な小田原の地に当時を代表する政財界人や文化人たちによって別邸などが建築され、
注目を集めました。
 
また、小田原北条氏の時代に全国から優れた職人が集められ、優れた技術がもたらされ、そこに小田原の豊かな自然の恵みが融合し、
蒲鉾や干物などの水産加工業や小田原漆器をはじめとする木工業といった小田原固有の文化が形成されました。

15:00終了、新横浜駅に向かう。
16:00横浜駅到達。
16:19横浜駅新幹線のぞみで出発。
18:52新大阪駅到達。

今回の旅行、関東地方の神奈川県に足を運び、神奈川県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区
4か所(横浜山手、鎌倉、鈴鹿長宿、小田原)を訪れ楽しみました。

コロナウイルスの影響を受けにくい観光巡り、屋外の人通りの少ない観光名所、移動は安全な車で巡りました。
新幹線はがらすき、インターネット予約で確認でき、逆に安全、屋外の観光名所もかなりすいていました。

車での移動、屋外の人通りの少ない観光名所はコロナウイルスの影響は少ないようです。