飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十五弾:広島県小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2020年5月30−31日
  

中国地方の広島県に足を運び、広島県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地7か所(鞆の浦、上下、尾道、竹原、西城、御手洗、宮島)を訪れました。

30日13:38新幹線のぞみで出発、
14:39福山駅到達、レンタカーで出発

鞆の浦:福山駅から南へ14kmの瀬戸内海沿岸のほぼ中央に位置する鞆の浦。古くから潮待ちの港として栄え、万葉集にも詠まれています。また、日本で最初の国立公園に指定された瀬戸内海を代表する景勝地の1つです。波穏やかな瀬戸の海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶのどかな風景は心洗われます。江戸時代には北前船の寄港地としても栄え、朝鮮通信使も幕府の慶賀などのために度々寄港。福禅寺が迎賓の場所として使われました。福禅寺本堂隣の「対潮楼」は1690年頃に客殿として建てられたもので、賓客の宿舎として使われました。座敷からは瀬戸内海の絶景が広がり、朝鮮通信使の従事官の李邦彦が「日東第一形勝」(対馬より東で一番美しい景い勝地という意)と賞賛しました。鞆の浦は国内外との交易で栄えた港で歴史に名高い旧跡や遺構も多く残されています。最近では、映画のロケ地や演歌の舞台となるなど、注目を集めています。2018年5月には、鞆の浦の港町文化をテーマとしたストーリー「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町〜セピア色の港町に日常が溶け込む鞆の浦〜」が日本遺産に認定。一つの地域が国の「重要伝統的建造物群保存地区」、ユネスコ「世界の記憶」と合わせて3つの評価を受けているのは、国内で鞆の浦だけです。

上下:広島県の府中市にある上下町は、かつて石見銀山からの銀の集積中継地であったため、幕府直轄の天領として地域の政治・経済の中心地でした。そのため現在でもその面影を残す白壁・なまこ壁の美しい建物が並ぶロマンあふれる町並みが残っています。
またこの上下は「分水嶺」と呼ばれる山脈の上の境目の町で、ここに降った雨は北は日本海へ、南は瀬戸内海へと2つの川に分かれて流れる、という地理的な特徴を持つ町でもあります。

18:30尾道駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

31日6:00レンタカーで出発

尾道:自然の良港を持つ尾道は、平安時代の嘉応元年(1169年)、備後大田荘(後、高野山領)公認の船津倉敷地、荘園米の積み出し港となって以来、対明貿易船や北前船、内海航行船の寄港地として、中世・近世を通じて繁栄をとげました。港町・商都としての発展は各時代に豪商を生み、多くの神社仏閣の寄進造営が行われました。
 海を望む階段や坂道、路地越しに見える尾道水道、点在する寺院など、歴史を凝縮した景観に魅かれ、この地で「暗夜行路」の草稿を書いた志賀直哉、尾道の女学校に通った「放浪記」作者の林芙美子、この地をこよなく愛し描き続けた小林和作をはじめ、多くの文人墨客が足跡を刻みました。また、近年では数々の映像作品の舞台となり映画のまちとしても有名です。
 明治31年(1898年)、県内では広島市に次いで2番目に市制を施行し、周辺市町村との合併(※)を経ながら市域を拡大して、緑豊かな北部丘陵地域から尾道水道周辺地域を経て独特の多島美を有する瀬戸内海地域に至る、多彩な資源を有するまちになりました。
 歴史と文化に溢れる島々を結び、全長約70kmの海の道をサイクリングで満喫できるしまなみ海道をはじめとする新たな魅力と歴史・伝統に育まれた資源を活かし、他にはない魅力的な価値を持つまちづくりを推進しています。
 瀬戸内のほぼ中央に位置し、山陽自動車道、瀬戸内しまなみ海道に加え、平成27年(2015年)3月に全線開通した中国やまなみ街道(中国横断自動車道尾道松江線)により、広域拠点としての機能は高まり、まさに「瀬戸内の十字路」としての発展が大いに期待される都市です。

竹原:海地区は,古くから海運の要として繁栄した地区であり,JR忠海駅の北側には潮待ち港として港町の歴史ある建築物が多く残っており,南側には大久野島への玄関口である忠海港や瀬戸内特有の風光明媚な自然景観などの地域資源を有しています。

西城:駅の東側に多くの酒造施設が密集し、レトロな洋館社屋を前に構え、赤い煉瓦煙突を看板代わりにした西条独特の酒造会社スタイルの醸造元や、白い漆喰と黒い海鼠壁とのコントラストが美しい土蔵造りの酒蔵群、千本格子の町家造りも残るバラエティに富んだ町並みを散策してみてはいかがでしょう。駅の西側にも二軒の蔵元があり、カフェやレストランなどもやっています。

御手洗:
「御手洗(みたらい)」という地名の起こりは、神功皇后が、三韓侵攻の時、この地で手を洗われたという事から、呼ばれるようになったという伝説があります。もう一点は、901年、菅原道真公が大宰府に左遷されたとき、九州に向う途中で、この地に船を着け、天神山の麓で、口をすすぎ、み手を洗われ、お祈りをしたという伝承が残っています。現在、この麓に天満神社が祀られ、「菅公御手洗いの井戸」として、深い信仰を集めています。お正月の書き初めにこの井戸の若水を使うと文字が上手になるといわれています。江戸時代より風待ち、潮待ちの天然の良港とされていた御手洗は人と情報が集まる要衝地として十八世紀に入って急速に発展した。四軒の「茶屋」が置かれ花街として歴史に色を添えた遊女達。夕暮れ時、聞こえる三味の音、無数の宿の灯りなど、海面に映える隆盛の輝きは黄金の島にふさわしい景色だったことでしょう。今は江戸時代の家並みと史跡から伺い知ることが出来ます。

宮島:宮島は、太古からその島の姿と、弥山[みせん]を主峰とする山々と、昼なお暗い原始林に覆われた山容に霊気が感じられたところから、周辺の人々の自然崇拝の対象となっていました。嚴島神社は、社伝によりますと推古元年(593)に佐伯部[さえきべ]の有力者であった佐伯鞍職[さえきくらもと]により現在の場所にご創建されたと伝えられています。大同元年(806)に、僧空海(弘法大師)が唐から帰朝し、京の都へ帰る途中に宮島をご覧になり、島から霊気を感じ、ここは霊場に違いないと弥山に御堂を建て、百日間の求聞持[ぐもんじ]の修法をされました。このとき修法で使われた火が、今なお弥山霊火堂で燃え続けている「消えずの火」です。久安2年(1146)に、平清盛が安芸守に任ぜられました。清盛公は、夢枕に立った老僧から「嚴島神社を造営すれば、きっと位階を極めるであろう。」という示現を受け止め、嚴島神社を深く信仰し、当時の寝殿造りを模して造営され、また舞楽を大阪四天王寺から移したほかに、清盛公をはじめ一門により法華経を写経し、清盛の願文[がんもん]と共に奉納された写経が平家納経で、国宝中の国宝と言われています。このほか甲冑や刀剣をはじめ等美術工芸品を奉納するなど、都の文化を宮島に移しました。また社領を増やすなど厚い庇護をいたしました。都からは、清盛公をはじめ平家一門のほか、後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院・中宮徳子らの皇族や貴族が社参しています。平家は壇ノ浦に滅びましたが、その後の鎌倉幕府や室町幕府、地元の領主大内氏や毛利氏、また、豊臣秀吉も篤く信仰し庇護いたしました。人々が宮島に住み始めたのは、鎌倉時代末と思われます。初めに、神職や供僧が住み、そして庶民が住み始めたと思われます。戦国時代、中国地方の有力者であった大内義隆は、宿老の陶晴賢[すえはるかた]の謀反により長門大寧寺[だいねいじ]で自刃してしまいました。義隆と盟友関係にあった毛利元就は、晴賢に兵を向けましたが、兵力は陶軍がはるかに優勢であったので、策を謀り、宮島の北に位置する宮ノ尾に城を築き陶軍を宮島に誘き寄せました。弘治元年(1555)9月のことです。陶軍は、2万の兵を宮島に上陸させ、まず勝山城(多宝塔付近)に本陣を置き、続いて宮ノ尾城が良く見える塔の岡に置いて攻めたてましたが、守りが堅くなかなか落とすことができませんでした。元就は、10月1日おりからの暴風と暗闇にまぎれて対岸の地御前[じごぜん]から3千5百の兵を引き連れて密かに包ヶ浦[つつみがうら]に上陸し、塔の岡の背後の尾根である博打尾[ばくちお]に登り、一気に陶の本陣めがけて攻め下りました。陶軍は、混乱し戦うすべもなく敗走しました。陶軍の勇将弘中隆包(ひろなかかね)は、絵馬ヶ岳(駒ヶ林)に敗走して自刃し、晴賢はわずかな手勢を引き連れ大江の浦に落ち延びましたが、自刃し果ててしまいました。この戦いを「厳島合戦」といい「日本三奇襲戦」の一つといわれています。毛利氏は、陶氏を滅ぼし中国十カ国のほか豊前や伊予を支配し強大な勢力を誇る戦国大名になりました。毛利元就・隆元父子は、天神社を創建し、反橋[そりばし]や大鳥居の再建や社殿の廻廊を張り替え、また能舞台を寄進し演能するなど、その後の嚴島神社の発展に大きく寄与しています。豊臣秀吉は、天正十五年(1587)戦没将兵の供養のため、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に命じて大経堂(千畳閣)を造立いたしましたが、慶長3年(1598)秀吉が亡くなったため、完成間近で工事は中止されました。完成していれば桃山時代の美術工芸の粋を集めた素晴らしい建物になっていたことでしょう。江戸時代になると、福島正則が安芸国の藩主となり商業・廻船業を保護いたしました。続いて藩主となった浅野氏も継承し、宮島は交易の中継基地として発展し、歌舞伎や大相撲・富くじなどが催され、瀬戸内地方文化の中心地としても栄えました。僧誓真[せいしん]は、広島で米屋を営んでいましたが、一念発起、宮島光明院で仏門に入り了単[りょうたん]上人の導きを受けました。当時から島には多くの貴人・文化人・商人・参拝客が訪れていましたが、これという宮島の産業がないことを嘆き、弁財天の琵琶をヒントに杓子を考案して島民に教え普及いたしました。
また水不足を解消するために井戸を掘り(誓真釣井)、雁木[がんぎ]を造るなど宮島の恩人の一人として今でも慕われ、光明院の近くにはその遺徳を称え誓真大徳碑が建立されました。 慶応元年(1865)尊皇倒幕を推進する長州藩とそれを押さえようとする徳川幕府の間で第二次長州戦争が起こりました。慶応2年(1866)大願寺が休戦交渉の場所となり、幕府海軍奉行勝安房守(勝海舟)と長州の広沢正臣らで休戦会談が行われました。明治元年(1868)神仏分離令が発令され、廃仏毀釈[はいぶつきしゃく]運動が起こり、宮島に多くあった寺院が廃寺となりましたが、主な7ヶ寺が残り、嚴島神社や千畳閣・五重塔にあった仏像が寺院に移されるなど少なからずの混乱がありました。明治8年(1876)に傷みの進んでいた大鳥居が建て替えられました。何年もかかって主柱となる材料(楠の自然木)を探し出し、宮崎県の現在の西都市と香川県の丸亀市から調達し、他の部材は広島市や宮島内で調達し再建されました。初代の総理大臣伊藤博文(1841〜1909)は、弥山三鬼大権現を篤く信仰し宮島をたびたび訪れています。弥山三鬼堂や大願寺の掲額(現在は歴史民俗資料館に展示)は、伊藤公の直筆といわれています。また、伊藤公は浄財を集め、私財をあてて、弥山登山道を整備いたしました。大正12年(1923)宮島全島が国の史跡名勝に指定され、昭和25年(1950)には瀬戸内海国立公園に指定され、また平成8年12月には、嚴島神社が原爆ド−ムと共にユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録されました。嚴島神社は、ご創建以来、台風や落雷などの自然災害や厳島合戦・神仏分離令などのため、再建・修復の繰り返しで今日の姿があります。

17:00終了、広島駅に向かう。

18:00広島駅到達。
18:42広島駅新幹線のぞみで出発
20:07新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の広島県に足を運び、広島県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地7か所(鞆の浦、上下、尾道、竹原、西城、御手洗、宮島)を訪れ楽しみました。

上下、御手洗は初めての訪れで散策巡りました。重要伝統的文化地区の街並みは何処も類似していることが多いですが初めての訪れは新鮮味を感じながら巡り楽しめました。
他の重要伝統的文化地区は何回か訪れたことがあり過去の記憶を確認しながら巡りました。

尚緊急事態宣言解除により、人も車も増えていますがまだ以前の賑やかさには程遠いです。これから徐々に増えていくでしょうね。感染防御対策しながら訪れることですね。




























飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十四弾:兵庫県新西国霊場法話巡り観光第二弾
2020年5月23−24日
 

近畿地方の兵庫県に足を運び、兵庫県に点在する新西国霊場法話巡礼15か所(神呪寺、天上寺、能福寺、須磨寺、太山寺、伽耶院、浄土院、鶴林寺、斑鳩寺、花岳寺、金剛城寺、瑠璃寺、酒見寺、光明寺、満願寺)を訪れました。

23日12:30車で出発、兵庫に点在する霊場を巡る。

神呪寺:真言宗御室派別格本山。
新西国霊場第二十一番霊場、仏塔古寺十八尊霊場第十七番札所、摂津三十三ヶ所観音霊場第3番札所、摂津国八十八ヶ所霊場第75番札所。通称甲山大師。
仲哀天皇の皇后、神功皇后が国家平安守護のために、山に如意宝珠・金甲冑・弓箭・宝剣・衣服等を埋めたと伝えられ、このことから甲山と名付けられた、という説が有力だが、他にも山の形が甲に似ているから、という説もある。

天上寺:646年孝徳天皇の勅願により、インドの法道仙人によって開創された。花山天皇、正親町おおぎまち天皇の御願寺ごがんじでもある。
新西国霊場第22番札所、関西花の寺二十五ヶ所第10番霊場、西国愛染明王十七尊霊場第4番札所、神戸七福神布袋尊霊場、神戸十三仏第2番霊場、摂津三十三ヶ所観音霊場第4番札所、摂津国八十八ヶ所霊場第80番札所、福原西国奥の院霊場、神仏霊場兵庫4番。

能福寺:天台宗。山号は宝積山ほうしゃくざん。兵庫大仏として知られる。新西国霊場第23番、福原西国観音霊場第32番札所。
805年桓武天皇の勅命を受けて支那に留学した伝教大師最澄は、その帰途、兵庫和田岬に上陸したところ、庶民は大いに大師を歓待し、堂宇を建立して教化を請うた。大師は自作の薬師如来像を御堂に安置して国の安泰、庶民の幸福を祈願して自ら能福護国密寺とした。

須磨寺:真言宗須磨寺派大本山。正しくは上野山じょうやさん福祥寺ふくしょうじ。
通称、須磨寺と呼ばれる。
真言宗十八本山霊場、新西国霊場第24番札所、摂津国八十八ヶ所霊場第88番札所、摂津三十三ヶ所観音霊場第7番札所、福原西国観音霊場第7番札所、神戸七福神霊場、神戸六地蔵客番霊場、神戸十三仏霊場第11番札所。

太山寺:天台宗。山号は三身山さんしんざん。
新西国霊場第25番札所、神戸十三仏第4番霊場、神戸六地蔵第一番霊場、播州薬師霊場第一番霊場、明石西国第二十六番霊場。
「播州太山寺縁起」(973年12月8日年紀)では藤原鎌足の子・定恵じょうえ和尚の開山、孫(不比等の子)・宇合うまかいの建立と伝える。宇合うまかいが明石浦摩耶谷の温泉で療養中、夢の中に薬師如来が出現した。薬師如来は、ここより東北の地に定恵じょうえ和尚結縁の地があり、定恵じょうえ和尚は願望を果たせず寂したと示現したところ、宇合うまかいはその教示に従い七堂伽藍を整備し薬師如来の尊像を安置したという。天正天皇(715〜723年)の勅額寺として広く信仰を集めた。

17:00三木駅付近のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
24日7:00車で出発、霊場巡り。

伽耶院:新西国霊場第26番札所。本山修験宗。山号は大谷山。
645年、法道仙人を開基とし、孝徳天皇の勅願により建立されたのをはじまりとする。大谿寺(だいけいじ)と称していたが、1681年に後西上皇の勅により仏陀伽耶(ブダガヤ)に因む寺号、伽耶院と改めた。

浄土院:山号は極楽山。高野山真言宗。新西国霊場客番札所。
奈良の東大寺を再建した重源ちょうげん上人によって鎌倉時代の建久年間に建てられた寺院。
東の丘陵からのびてくる尾根の先端地が寺の場所に選ばれている。浄土寺からみれば、西側が開け、大きな空が広がり、夕方になると美しい夕日が望め、西方浄土が実感できるように工夫されている。

鶴林寺:天台宗。山号は刀田山とたさん。
新西国霊場第27番札所、西国薬師四十九霊場第22番、聖徳太子御遺跡霊場第27番、播州薬師霊場第9番、関西花の寺二十五ヶ所第9番霊場。

斑鳩寺:新西国霊場第32番、西国薬師四十九霊場第23番、聖徳太子御遺跡霊場第28番、播州薬師霊場第18番。聖徳太子開創。
606年(推古天皇14年)秋7月、太子は天皇の要請を受け、豊浦宮にて勝鬘経しょうまんきょうを講じたら3日で終わった。その夜仏天が感応し、蓮華の花が講演の地に降りしいたと伝えられる。この年又太子は法華経を岡本宮で講じた。天皇はその妙味を叡感し、播磨国揖保の郡の水田百町を太子に賜った。よって太子はこの地を鵤いかるが荘と名付け一つの伽藍を営んだ。これが当寺の始まりである。

花岳寺:曹洞宗。山号は台雲山。新西国霊場第31番札所、瀬戸内第7番札所。
1645年(正保2年)赤穂藩祖浅野長直によって建てられた。元禄事変後は、永井家、森家歴代藩主の菩提寺となっている。境内には義士の三十三回忌に刻んだ四十七士の木像、宝物、墓所等がある。

金剛城寺:高野山真言宗。山号は七種山なぐささん。
新西国霊場第30番札所、播磨西国三十三箇所第12番札所。

瑠璃寺高野山真言宗の別格本山。山号は船越山。
新西国霊場第33番、播磨西国三十三箇所第11番、宍粟新四国八十八ヶ所第1番。

酒見寺:高野山真言宗。山号は泉生山。開山は行基。聖武天皇の勅願寺。新西国霊場第29番札所。
行基菩薩がこの地を訪れ、現在の住吉神社である酒見明神に詣でたところ、寺の建立のお告げを受け、当時の帝である聖武天皇に奏上し寺院堂塔を建て、寺号を酒見寺とされたとある。

光明寺:高野山真言宗。山号は五峰山ごぶさん。
新西国霊場第28番札所、播磨西国三十三箇所観音霊場第18番。

満願寺:高野山真言宗。山号は神秀山。
新西国霊場第13番、摂津国八十八ヶ所霊場第68番、摂津三十三ヶ所観音霊場第18番。
奈良時代神亀年間(724〜728年)、聖武天皇勅命、勝道上人開基。968年源満仲が帰依して以来、源氏一門の祈願所として敬われた願いが満たされるお寺。

15:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行
近畿地方の兵庫県に足を運び、兵庫県に点在する新西国霊場法話巡礼15か所(神呪寺、天上寺、能福寺、須磨寺、太山寺、伽耶院、浄土院、鶴林寺、斑鳩寺、花岳寺、金剛城寺、瑠璃寺、酒見寺、光明寺、満願寺)を訪れ楽しみました。

緊急事態宣言解除後の週末、車、人では賑わっていました。各霊場も多くの方が訪れておりました。
まだまだ以前のようには行きませんが賑わい活気が出てきました。明るくなりましたね。 bg


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十三弾:新四国相馬霊場八十八ヶ所巡り観光第二弾
2020年5月16−17日

北関東の茨城県を訪れ、茨城県に点在する新四国相場霊場八十八ヶ所の47箇所を巡りました。

16日13:24新大阪駅新幹線のぞみで出発
15:54東京駅到達
16:23東京駅特急ときわで出発
16:55柏駅到達
16:55柏駅快速で出発
17:07取手駅到達
17:30取手駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝
17日6:00レンタカーで出発霊場巡り

1.長禅寺(取手市取手2-9-1)

2.念仏院(取手市東2-6-52)

3.八坂神社(取手市東1-2-9)

4.不動院(取手市台宿2-18-5)

5.長禅寺(取手市取手2-9-1)

6.薬師堂(取手市東2-5-27)

7.本泉寺(取手市吉田39)

8.観音堂(取手市井野台1-19)

10.観音堂(取手市台宿2-18)

11.吉田薬師堂(取手市吉田)

12.虚空地蔵堂(取手市井野台2-4-62)

13.加納院(取手市吉田)

14.地蔵堂(取手市吉田)

15.弥陀堂(取手市小文間5570)

16.観音堂(取手市小文間)

17.成龍寺(取手市小文間)

18.弥陀堂(取手市小文間)

19.地蔵堂(取手市小文間)

20.地蔵堂(取手市台宿2-3-7)

23.薬師堂(取手市井野台2-6-31)

30.一乗院(取手市井野台5-5-3)

31.天神宮(取手市台宿2-6-7)

32.観音堂(取手市井野台1-11-52)

35.薬師堂(取手市稲)

39.延光寺薬師堂(取手市稲)

40.観自在寺薬師堂(取手市稲集会所)

46.阿弥陀堂(取手市井野台1-21)

48.安養寺(取手市小文間)

53.弥陀堂(取手市井野台3-1-3)

54.大聖寺(取手市小文間西方)

56.地蔵堂(取手市稲)

57.弥陀堂(取手市稲)

61.大日堂(取手市台宿2-20-55)

63.福永寺(取手市小文間)

64.西光院(取手市小文間戸田井)

66.東谷寺(取手市小文間5458)

69.観音堂(取手市駒場4-3-1)

70.永福寺(取手市本郷3-9-19)

71.東漸寺(取手市本郷3-9-19)

72.大日堂(取手市小文間)

80.毘沙門堂(取手市稲)

82.弘経寺(取手市白山2-9)

83.諏訪宮(取手市白山5-1-28)

86.観音堂(取手市稲)

87.愛宕神社(取手市新町)

88.長禅寺(取手市取手2-9-1)

90.琴平神社(取手市白山6-9)

18:00終了
18:28取手駅快速で出発
18:40柏駅到達
18:46柏駅特急ときわで出発
19:16東京駅到達
19:30東京駅新幹線のぞみで出発
22:00新大阪駅到達。

今回の旅行、北関東の茨城県を訪れ、茨城県に点在する新四国相場霊場八十八ヶ所の47箇所を巡り楽しみました。
39府県の緊急事態解除により在来線、新幹線の乗客者は増えていましたがまだまだ少ないです。
取手の町は人が少なくひっそりしていました。新四国相場霊場八十八ヶ所の霊場はマイナーもあってほとんど人はいません。
最近の旅行は、有名どころではなく、マイナーな名所を訪れることがほとんどです、人は少なく、今の時期は安全です。




























 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十二弾:京都府・福井県・石川県・富山県・岐阜県・長野県・山梨県・静岡県・愛知県・三重県・滋賀県、大仏・古墳・塔観光
2020年5月2−6日


近畿・北陸・甲信越・東海地方に位置する京都府、福井県、石川県、富山県、岐阜県、長野県、山梨県、静岡県、愛知県・三重県・滋賀県に点在する大仏、古墳、塔50ヶ所(岩船寺、浄瑠璃寺、海住山寺、宝積寺、醍醐寺、教王護国寺、方広寺大仏、清水寺、法観寺、金戒光明寺、仁和寺、智恩寺、金剛院、明通寺、那谷寺、ハニベ巌窟院、加賀大観音、妙成寺、新湊弁財天、高岡大仏、飛騨国分寺、光前寺、大法寺、前山寺、信濃国分寺、安楽寺、新海三社神社、平和観音、大石寺、井川大仏、油山寺、三明寺、刈宿の大仏、聚楽園大仏、愛宕山厄除弘法大師、興正寺、甚目寺、布袋大仏、佐吉大仏、岐阜大仏、新長谷寺、日吉神社、真禅院、大観音寺、西明寺、金剛輪寺、長命寺、常楽寺、園城寺、石山寺)を訪れました。   

2日10:00車で出発、京都方面に向かう。

岩船寺:岩船寺は、京都府と奈良県の境にあるかつては南山城当尾(とうの)村と呼ばれ、さらにそれ以前には小田原と称される地域に位置する。山号は「高雄山(こうゆうざん)」院号は「報恩院」である。 ここは平安遷都までは「山背国(やましろのくに)」と書かれ、奈良・平城京が文化の中心であった時代には、まさに山々の背後にあたる場所であった。それ故に南都仏教の影響を強く受けており、平城京の外郭浄土として興福寺や東大寺にいた高僧や修行僧の隠棲の地となり、真の仏教信仰にそそがれた地域であった。また「当尾(とうの)」の地名は、この地に多くの寺院が建立され三重塔・十三重石塔・五輪石塔などの舎利塔が尾根をなしていたことから「塔尾」と呼ばれたことによる。

浄瑠璃寺:浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、京都府木津川市加茂町西小(字)札場(にしお ふたば)にある真言律宗の寺院。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基(創立者)は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する。本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場する。

海住山寺:鎌倉時代の五重塔の貴重な遺構であり、総高17.7mと、室生寺に次いで小さい。貞慶が舎利を安置するために建立を始め、その没後建保2年(1214)に完成した。 全体的に細身だが、初重に設けられた吹放ちの裳階が安定感を与える。また内陣を厨子風に造り、8枚の扉に一体ずつ、華麗な彩色で梵天・帝釈天などの天部や比丘像が描かれる。

宝積寺:宝積寺(ほうしゃくじ)は寺伝では神亀元(724)年に聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩が建立したと伝えられる真言宗の寺院です。寺宝を多く有しており、建造物では桃山時代に秀吉が一夜で建てたと伝えられている「一夜の塔」と呼ばれる三重搭が重要文化財に、本堂及び山門は京都府の登録文化財に指定されています。

醍醐寺:醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天暦5年(951)に完成した。京都府下最古の建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものといわれている。

教王護国寺:東寺(教王護国寺)の五重塔は日本一の高さを誇る木造塔(54.8メートル)。826年(天長3年)、弘法大師(空海)が金堂に続いて創建に着手した建物。存命中の完成は叶わず、没してから約50年後に創建されたという。しかし、創建塔は1055年(天喜3年)の落雷で焼失。その後も3度の焼失があった(耐震構造のため地震で倒壊したという記録はない。)。現在の五重塔は、1635年(寛永12年)の焼失後、1641年(寛永18年)に明正天皇の詔を奉じて徳川家光が復興に着手したもので、1644年(寛永21年)に再建された(国宝)。内部には、心柱を大日如来に見立て金剛界四仏像と八大菩薩像が安置され、壁や柱には金剛界曼荼羅や八大龍王、真言八祖像が描かれている。

方広寺大仏:かつて存在した、奈良の大仏を超える「日本一大きな大仏」を紹介している豊臣秀吉が建立させた「方広寺の大仏殿」は、昭和48年まで京都にあったそう完成した大仏の高さは約19メートルで、完成した翌年に地震で崩壊したという


清水寺:国の重要文化財に指定されている清水寺三重塔は平安時代初めの承和14年(847)に桓武天皇の皇子葛井親王が建立したものと伝えられ、江戸時代の寛永9年(1632)に古様式にのっとり再建されたものです。全体が朱色に塗られた本瓦葺の建物で、3間四方で高さは約31メートル近くあり、茶わん坂などの街筋からも眺められます。春4月の放生池の南に咲き揃う桜の花の上に頭を出す三重塔などが象徴的な光景となっています。重内部には大日如来像がお祀りされていますが一般には公開されていません。室内は極彩色の飛天・龍や密教仏画で飾られているようです。

法観寺:八坂の塔(やさかのとう)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院で、聖徳太子が592年に創建したと伝えられています。正式名称は「法観寺」ですが、境内にある高さ46mの五重塔が八坂・東山を代表的する建築物であることから「八坂の塔」と呼ばれて親しまれています。

金戒光明寺:金戒光明寺の三重塔(文殊塔)は、1633年(寛永10年)、徳川二代将軍秀忠の供養ために建立され(国の重要文化財)、黒谷の北西にあった中山宝幢寺(ほうどうじ)の本尊だった文殊菩薩像が安置された。中山宝幢寺は応仁の乱の兵火で廃寺となり、本尊の文殊菩薩像は近くに建てられた小堂に祀られていたという。1633年(寛永10年)に金戒光明寺の方丈に移され、三重塔が建立されると本尊として安置された。文殊菩薩像と脇侍像は運慶作と伝えられている。蓮池に架けられた極楽橋は、春日局が架けた木造の橋を、三重塔を建立する際に石橋に造り替えられたという。

仁和寺:仁和寺の五重塔は、1644年(寛永21年)、徳川三代将軍家光の寄進によって建立された(国重文)。塔身32.7m、総高36.18m。東寺の五重塔と同様に、各層の屋根がほぼ同一の大きさに造られ、江戸期の五重塔の特徴をよく表しているという。内部には大日如来と、その周りに無量寿如来などの四方仏を安置。柱や壁面には真言八祖、菊花文様などが描かれている。

智恩寺:円 形の塔身の上重に相輪をあげ、下重には方形の裳階(もこし)を付けた形式の塔婆を多宝塔といいます。丹後国守護代で府中城主延永修理進春信によって建立さ れたこの多宝塔は、室町時代のものとして丹後地方唯一の遺構です。明応九年(1500年)三月に釿(ちょうな)初めが行われ、翌十年四月に落成したこと が、上重連子(れんじ)窓の裏板や来迎壁の背面、上重の柱(八角形)に記された墨書きにより知られます。 下重には来迎柱が立ち、前方に須弥壇をつくって中央に大日如来が安置されています。籠神社別当大聖院の智海が、来迎壁の背面に片足を上げた不動明王を描いており、「八十余歳書之 智海」の署名があります。下重の軒廻りは拳鼻(こぶしばな)付の出組(一手先斗きょう)とし、中備として中央は二つ斗(双斗)、両脇間には間斗束(けんとつか)を置いています。和様を基調としたなかで、この二つ斗と拳鼻は天竺様(大仏様)、唐様(禅宗様)の手法として採用されています。 左右に大きく広がる上重の屋根は柿葺で、これを四手先の斗きょうが支持しています。上重と下重をつなぐ漆喰の亀腹が小さいのは古風であるといえます。

金剛院:金剛院は高丘親王(後の真如法親王)が天長年間(824〜833年)に創建した。 三重塔はもともと平安時代に平忠盛が建てたというが、現在の塔は室町後期に再建されたものである。

17:00東舞鶴駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

3日7:30車で出発、福井方面に向かう。

明通寺: 明通寺は、大同元年(806)、征夷大将軍坂上田村麻呂の創建と伝えられる真言宗の寺院である。三重塔は、初層平面方3間(4.18m)、高さ約22m檜皮葺の建物である。上層にゆくにしたがって寸法を減らしていくことで、均等のとれた美しい姿が作り出されている。寺の縁起では文永7年(1270)の建立とされる。様式的にもよく整った和様でおさめられており、優美で落ち着いた建物である。

石川方面に向かう。

那谷寺:境内参道の突き当たりの石段を登ると、三重塔が建つ。方3間、3層、檜皮葺で、相輪の先端までの高さが11.5メートルの小さなかわいい塔である。初層中央の四天柱の中に鎌倉時代の胎蔵界大日如来を安置し、心柱は2層目から相輪までのびている
この塔は、禅宗様を基調としており、きわめて安定した外観をもっている。軒先に目をやると、初層の軒の出から、2層目の軒先が急に小さく、3層目ではわずかに小さくなっており、初層が、どっしりと2、3層を受けていて安定感を見せている。また相輪の全高に対する割合が30パーセントを占め、通常の27パーセント前後よりも大きいことが姿を美しくしている。初層の柱間の壁板には、護摩堂と同じく、唐獅子と牡丹の浮彫が彫られ、桟唐戸の浮彫とともに華麗である。

ハニベ巌窟院: 初代院主の彫塑家・都賀田勇馬氏が、石切り場だった洞窟をアトリエとして作品を制作。ハニベ巌窟院が設立されたのは昭和26年のことである。駐車場正面にド〜ンと置かれた巨大な仏頭。平和への祈りが込められた「ハニベ釈迦牟尼大仏」で、高さは15m。下からのぞき込むと圧倒的な迫力だ。水子供養のための緑色の小さな人形がぎっしりと並んだ様も圧巻。その数18000体。入口に置かれたノートには、メッセージが多く書き込まれている。奥の棚には衣料や人形や玩具が沢山納められていた。子供を思う親の気持ちが伝わってきて、家族を大切にしようという気持ちになる。

加賀大観音:
石川県加賀市にある珍スポット、観音院加賀寺です。73mもある巨大な観音像が遠くからでも目を引くのですが、このお寺、現在はほぼ廃墟状態なのです。というのも、この巨大観音像やそのお寺は、バブル期の1987年に建設された「ユートピア加賀の郷」というテーマパークの一大呼び物として建立されました。このテーマパークは、巨大観音像、遊園地、温泉宿泊施設の3つのエリアからなり、開園当初は人気を博していましたが、次第に客足が遠のき、2000年には遊園地と温泉宿泊施設が閉鎖に追い込まれました。現在では、観音像とその周辺施設のみが「観音院加賀寺」としてかろうじて営業しています。

妙成寺:方3間の五重塔で、屋根は柿葺。野面石上に土台を置き、その上に初層の柱を建てる。柱は円柱。心柱は径約3尺で礎石上に建つ。初層の4周には、擬宝珠高欄を付けた切目縁を巡らす。4周の各中央間の入口には桟唐戸を入れ、人物・鳥獣・植物の浮彫がはめこまれてあり、柘榴などの題材に桃山時代の気風を残す。2層目より上は、柱間寸法をたるき3本ずつ逓減し、4周に組高欄を巡らしている。組物は各層ともに和様三手先組とし、中備は間斗束とし、外観は和様を主調とする確かな形を見せているが、初層内部には和様・唐様の折衷様式が用いられている。棟札によれば、大工は「越前北庄住坂上越後守嘉紹」であり、建仁寺流の越前坂上一門の手になったことが知られ、坂上嘉紹は山上善右衛門の父の坂上右近ではないかと考えられている。元和元年(1615)に加賀藩3代藩主前田利常の命によって着工し、同4年(1618)に完成した。相輪を含めた総高34.18メートル。

富山方面に向かう。

新湊弁財天: 富山新港近くに造成された港の見える緑地帯に、美しい弁財天が静かに立っています。放生津潟にあった弁天島の少童社の祭神を胎内神として納め、平和と港の守護の願いを込めて建立されたものです。

高岡大仏:富山県高岡市にある、高さ約16メートルの阿弥陀如来坐像「高岡大仏」は、日本三大佛に数えられ昭和8年(1933年)の造立以降、市民から親しまれる象徴的な存在となっており、地元民は敬意を込めて「だいぶっつぁん」(『大仏様』を表す呼称)」と呼んでいます。歴史小説家「井沢元彦」と、高岡大仏を心から敬愛するメンバーが、そんな「だいぶっつぁん」の魅力に迫り、知られざる逸話の数々を綴ります。

岐阜方面に向かう。

飛騨国分寺:境内には室町時代に建てられた国重文の国分寺本堂があり、その東側に玉垣で囲われた塔心礎石が据えてある。飛騨国分寺は天平13年(741年)の詔により天平勝宝9年(757年)ごろまでには完成していたらしく、この心礎は創建当時のものと推定される。礎石の形状はほぼ方形を呈し、上面に円柱座を造り出し、その中央部に円形の穴があけられる。礎石の寸法は、径約2メートル四方、地上高さ約1メートル、円柱座径133センチメートル、高さ1センチメートル、円穴径58センチメートル、深さ29センチメートルで、ほぞ穴式心礎である。石質は地元で「松倉石」と呼称しており、リュウモン岩である。過去に移動されて、原位置を保っていない。現寺域及び周辺からは布目瓦を出土する。軒丸瓦は、5個の蓮子をもつ中房の周囲に細形単弁八葉の蓮花文を配し、外区に珠文帯をめぐらす。軒平瓦は、二重圏の中に左右対照の唐草文を配する。現在の三重塔は岐阜県の文化財に指定され、文政4年(1821年)に竣立したものである。過去には、創建の塔が弘仁10年(819年)に炎上、斉衡年中(854年から857年)に再建している。また、応永年間(1394年から1428年)さらに兵火にかかり、その後再建されたが戦国時代に損傷、元和元年(1615年)再建したと三福寺小池家文書「国分寺太平釘図」に記録されている。寛政3年(1791年)、大風で吹き倒されてから31年後に建てられたのが現在の三重塔である。昭和27年、本堂の解体修理をする際床下を発掘調査して礎石と玉石を確認しているが、桁行7間、梁間4間の金堂建物と推定されている。金堂と心礎の位置関係は推定の域を出ない。ちなみに、昭和63年辻ヶ森三社境内で発掘調査がなされ、高さ1メートルの版築基壇上に桁行7間、梁間4間の金堂建物礎石列が発見された。国分寺と国文尼寺金堂が確認されたことにより、奈良時代における飛騨の歴史が大きく判明した。

17:00関市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

4日7:30車で出発、長野方面に向かう。

光前寺:光前寺の開山は貞観2年(860)不動明王を御本尊として、本聖上人によって開かれたそうです。三重塔は、南信ではこの光前寺にあるものが唯一の塔で、文化5年(1808)に再建されたものです。高さは約17m。非常に良く均整がとれており、県の有形文化財(県宝)に指定されています。 光前寺はかつて、戸隠山、善光寺、更級八幡神宮寺、 佐久津金寺とならぶ“信濃五大寺”の一つとして数えられていた天台宗の大寺です。その寺領は、現在でも県下随一の広さを誇り、巨木に囲まれた寺領には弁天堂・山門・客殿・庫裏・本堂・三重搭が立ち並んでいます。また、庭園は国の名勝に指定され、参道の石垣の隙間には珍しい光苔も自生するなど、見所の多いこの光前寺には、毎年大勢の観光客が訪れています。

大法寺:大法寺三重塔は、正慶二年(1333年)に建てられました。和様の建築様式が正確に守られ、奈良や京都の建築物にそん色しない美しさを持つこと、周囲の風光との調和が美しさを際立たせていることなどから、国宝に指定されております。 訪れた人がふり返り塔を眺めたことから「見返りの塔」の名でも親しまれており、日本一美しい塔とされております。

前山寺:塩田平の南方、東前山の集落の山麓にあるのが有名な前山寺です。今この寺にはりっぱな三重塔があり、その三重塔や本堂などをとりまく自然がすばらしいので、いつもたくさんの参詣客で賑〔にぎ〕わっています。前山寺の創建は何時のことか分かりませんが、今から600年ばかり前に、四国の讃岐〔さぬき〕(香川県)の善通寺〔ぜんつうじ〕(弘法大師の生まれたところ)から、長秀上人という偉〔えら〕いお坊さんがやってきて、この寺を大きくしました。そのころのこの地方の一番の勢力者は、塩田城(お寺のすぐ西側の谷向こうに遺跡が残る)を守っていた村上氏(坂城)であったといいますから、もともと前山寺は塩田城の祈願寺(安全を祈る寺)という性格をもっていたものと考えられます

信濃国分寺:今から1200年ほど前、朝廷は信濃とか越後とかいう国々に国分寺(僧寺と尼寺があった)という寺を建てさせ、国家の平和を祈らせました。信濃の国では上田市の東方、今の信濃国分寺資料館のまわりに建てられたのですが、その大きさは、今の「しなの鉄道」の線路をこえて、はるかに南の方まで拡〔ひろ〕がっていました。すばらしく大きな建物でしたが、建ててから300年位の間に、この地方の戦いや災害によって、すっかり姿を消してしまいました。その後、この地方の人々の心からの願いによって、国分寺は再び建てられることとなりました。場所は一段高い土地につくられ、三重塔まであるりっぱな寺ができました。薬師如来をお祀〔まつ〕りしましたので、土地の人は薬師堂と呼んでいました。しかし、国分寺であったころから、毎月八日の日に和尚さんが、お経を上げることになっていましたので「八日堂〔ようかどう〕」ともいわれました。とくに正月の八日にはお参りする人々がたくさんありましたので、今では上田の「八日堂」といった方がよく知られています。

安楽寺: 国宝指定、昭和27年3月29日、文化財保護法の規定により「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝」として国宝に指定された。塔は本堂の裏を登った山腹にあり(別掲全景写真参照)松の緑に映えて、重厚なたたずまいがどっしりと空間を支えている。建立年代は従来鎌倉末期、または室町初期といわれ定説がないが、安楽寺が鎌倉北条氏の外護によって栄えた寺で、開山が入宋僧、二世が中国よりの帰化僧であり、共に北条氏との交渉も深いので、北条氏滅亡後、これほど立派な塔婆の建立の契機を考えにくいことなどから、寺運の最も栄えた鎌倉時代末期に建てられたものと思われる。建築様式は禅宗様(鎌倉時代に宋から禅宗に伴って伝来した様式で唐様(からよう)ともいう)八角三重塔で、初重に裳階(もこし)(ひさしまたは霜よけの類)をつけた珍しい形式であるうえに細部もまた、禅宗様の形式からなり類例が少ない。内部は8本の母屋柱によって、内陣と外陣(げじん)とに分かれ、周囲を外陣とし、化粧屋根裏をあらわし、八角形の内陣は高床を張り、天井は中央に点蓋をつり、その周囲に小天井を張ったあまり見られぬ形式である。内陣には建立当時の八角の仏壇をおくが、この形式もまた珍しいものである。塔は印度のスツーパを起源とし、元来仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安したものだが、中世以降は特定の人物または戦死者の供養に建てられた例が多い。資料が乏しく造塔の起源は詳かでないが、この塔もおそらくそのような目的で建てられたものと思われる。内外共に巧みな意匠と、類例の少ない形式よりできているこの塔は、西大寺(奈良)法勝寺(京都)などの八角塔婆が失われた今日、わが国に残された唯一の八角塔婆であり、かつ、禅宗寺院に残る塔婆としても極めて貴重な遺構である。

新海三社神社:新海三社神社は、その創建は不詳ながら、興波岐命(おきはぎのみこと)を主神として東本社に祀り、その父神・建御名方命を中本社に、伯父神・事代主命を西本社に祀ります。特に興波岐命が、新開神(にいさくのかみ)とも称されることにより、「佐久」の地名の由来ともいわれるほか、諏訪湖の御神渡の「佐久の渡」は、興波岐命が湖上にて父神とご参会された跡とされています。古来佐久三庄三十六郷の総社と言われた新海三社神社は、広大な社地を有し、境内の古墳からは蕨手刀(わらびてとう)が出土や、武神としても崇敬あつく、源頼朝による社殿の修理再興の口碑、武田信玄が箕輪城攻めの際における戦勝祈願の願文も残されています。入口の大きな鳥居をくぐると遠くに大ケヤキと大スギが立ち並ぶ参道が暗い影を落としています。その先の石段を上ると、拝殿が正面に見え、その脇には神楽殿があり、非常に静かな佇まいは、とても落ち着いた雰囲気を感じさせてくれます。拝殿と神楽殿は共に木造の簡素な装飾で、大きな社叢の中に静かに鎮座しているように見えます。拝殿後方には、西本社、中本社、東本社の三つの社殿が並んで建っており、素木で作られた拝殿の質素な雰囲気とは一変し、西本社と中本社は朱と彫刻が見事な流造となっています。また、西本社と中本社の間には、御魂代石(みたましろいし)の石幢(せきとう)があります。一番右の東本社は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)・桧皮葺(ひわだぶき)で、母屋の柱貫木鼻(はしらぬききばな)の笹模様などに時代的な特徴が示され、国の重要文化財に指定されています。当社の奥には、室町時代末の永正12年(1515年)の建造物で、東社と共に国の重要文化財として指定された三重塔があり、その建築様式は三間三重塔婆(さんけんさんじゅうのとうば)・柿葺(こけらぶき)で、禅宗様と和様を折衷した建築当時の特性をよく示しています。

平和観音:湯田中駅から徒歩約25分。温泉街からも近い山のふもとの平和の丘公園に「世界平和観音」はあります。正式名称は「世界平和聖観世音菩薩」。温泉街をやさしい眼差しで見守っています。なんといっても驚くのはその大きさ!重さ約22t、高さは約25mにもなります!現存する金属製立像では東洋一の大きさと言われています。この観音像、実は2代目。昭和初期にこの場所に33mの「聖観音菩薩」が建立されましたが、数年で戦争のために台座を残して解体されてしまったそうです。その後10年以上たってから再建の声が高まり、昭和39年世界平和の祈願をこめて再建されたのが現在の「世界平和観音」なのです。

山梨経由して静岡方面に向かう。

大石寺:日蓮正宗の総本山で富士五山の一つ。国指定重要文化財の五重塔や県指定有形文化財の三門・御影堂など古い木造建築などが建ち並び,訪れる信者が多い。

18:00清水市内ホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

5日17:30車で出発

井川大仏:歯科医の佐藤平一郎氏ご夫妻が、60年間の健康に感謝をこめて4年かけて作った大仏です。高さ11m、昭和55年11月1日に開眼しました。春と秋に大仏祭が行われてます。歯にご利益があると言われています。2018年に改修工事が行われ、建立当時の美しさを取り戻しました。

油山寺:油山寺は大宝元年(701年)、行基によって創建されたと伝わる。 749年には孝謙天皇が、 眼病平癒のために寺内の「るりの滝」で眼を洗浄したら全快したので、勅願寺に定められたという。
 この三重塔は、1572年の兵火により寺院が焼失した後、1574年から再建を開始されたものだが、工事には長い年月を費やされたことで 知られ、完成したのは慶長16年(1611年)のことである。

愛知方面に向かう。

三明寺:三明寺は寺伝によれば大宝2年(702)の創建で、南北朝時代に禅宗として復興されたという。現存する三重塔は解体修理の際に発見された墨書により享禄4年(1531)の建立であることが知られる。初層は三間四方で四周に縁を廻らし、柱間には四面とも長押を通して、中央間に桟唐戸を吊り、両脇間には目透しの無い連子窓(れんじまど)を設ける。柱上の組物は手先が三つ前へ出る三手先斗で、前方斜め下へ突き出る尾垂木が付く。内部には来迎柱を二本立て、前に須弥壇(しゅみだん)を置く。二層目は手摺の先端を刎ね上げた刎高欄(はねこうらん)付きの縁を廻らし、初層同様の組物を載せ、和様で統一する。三層目は擬宝珠高欄付きの縁を廻らし、柱には上部を細く丸めた粽(ちまき)を付け、柱上には厚板状の横材である台輪(だいわ)を載せて禅宗様の尾垂木付き三手先斗を置く。軒も初層・二層は平行垂木であるが、三層目は放射状の扇(おおぎ)垂木とし、和様と禅宗様を層によって使い分け、外観に変化を付けた美しい塔である。(

刈宿の大仏:西尾市の常福寺(じょうふくじ)は、長徳年中(995〜998)に源満国が母の菩提のために建てた天台宗寺院が始まりとされ、現在は浄土宗西山深草派に属しています。本堂には平安時代の不動明王立像(市指定文化財)が安置されています。
境内には、この界隈のランドマークとして親しまれている「刈宿の大仏(かりやどのおおぼとけ)」というコンクリート製の大仏さまが鎮座しています。昭和初期に、海難者の冥福を弔うのと、漁師の安全を祈願し建立されたもので、そのため大仏さまは海の方角を向いています。台座を含めた高さは約14m。像内へ入って胎内めぐりをすることもでき、内部には阿弥陀如来像が祀られています。

聚楽園大仏:名鉄聚楽園駅から見上げると、森の中から顔を出す大仏。1927年に、昭和天皇のご成婚を記念して開眼供養されました。高さは18.79メートルもあり、奈良や鎌倉の大仏よりも大きい大仏です。一帯は東海市指定文化財に指定されており、市のシンボルとしても多くの人に親しまれています。
大仏は高台にあるので、周りの景色を見渡すと、製鉄所などの立ち並ぶ風景や東海市の街並みも一望できます。

愛宕山厄除弘法大師:退養寺の東隣に建つ高さ10メートルほどの巨大な弘法大師像。愛宕大師とも。浅野祥雲作。昭和6年(1931年)に瀬戸電気鉄道が鉄道利用者の増加を狙って観光用に作ったもの。

興正寺:寺は、八事山と云い、高野山真言宗の別格本山である。貞享3年(1686)に高野山から移った天端円照によって開かれ、貞享5年(1688)2代尾張藩主徳川光友の許可を得て伽藍を建立したという。境内は広大で、東西2山に別れ、東山は高野山の奥院を擬して、尾張高野ともいわれる。西山は、南から総門、中門、五重塔、本堂を中心軸状に並べた伽藍配置をとる。五重塔は文化5年(1808)に建立されたもので、大工は森甚六辰清であった。五重塔は初重柱間3.94m、総高26.34mの中規模な塔婆である。この塔は、上層にあがるほど屋根が小さくなる逓減率(ていげんりつ)の割合が低く細長い、塔身の長さに対して相輪が短いなど、外観の比例に江戸時代後期の特徴がみられる。塔全体は装飾をひかえた和様でまとめられ、組物は三手先、中備には初重が蓑束(みのづか)、二重以上では撥束(ばちづか)をのせ、二重・三重目と四重・五重目の高欄の形式を変えるなどの工夫もみられる。心柱は初重の心礎上から立ち上がり、初重の内部や組上げ構造には古風な手法が残っている。四天柱間には、仏壇を設けて四面に金剛界四仏を配し、心柱に穴を穿(うが)って本尊大日如来が祀られている。県下では唯一の五重塔である。(

甚目寺:甚目寺は尾張四観音の一つで、現在は真言宗に属する古刹である。現存する三重塔は寛永4年(1627)、東門は寛永11年(1634)の建立とされる。
三重塔は各層とも三間四方で柱は全て円柱、屋根は本瓦葺である。初層には擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)を付けた縁を廻らし、東側の正面中央に5段の木階(もっかい)を設ける。二層目・三層目の縁には先端を刎ね上げた刎高欄(はねこうらん)を付す。各層ともに四面の柱間は中央を両開き板戸、脇間を目透かしの無い連子窓(れんじまど)とする。また柱上の組物も各層とも手先が三つ前に出る三手先斗(みてさきときょう)を用い、斗には斜め下前方に突出する尾垂木(おだるき)が付く。
江戸時代の建立でありながら和様の伝統を遵守した優美な三重塔である。
東門は二本の主柱の前後に四本の控柱が付く四脚門(しきゃくもん)で、切妻造、銅板葺、主柱・控柱とも円柱の大型で雄大な門である。(

布袋大仏: 本尊の御嶽薬師尊は誓願をすると病気を除き、不具を癒し、悟りへの道に到達するといわれています。
 開祖は布袋町在住の故前田秀信氏で体が弱かったこともあり、御嶽薬師尊を信仰され、名古屋市内で鍼灸医を開業、評判がよく多くの人が詰めかけたという話です。四十三歳のとき夢のお告げがあり、人々を病気の苦難から助けようと建立を決意されました。そこで、後の世の人々に立派なものを残したいと願い、御嶽薬師尊を勧請し、私財を投げうって教会を開くことになりました。ときは昭和二十四年で終戦の直後、生活は困窮を極め、生きることがやっとの時代でした。その年に地鎮祭を行い、完成まで実に五年の歳月を費やし、すべてが手作業で整地やコンクリート練りが行われ、昭和二十九年三月二十四日に開眼、その日を記念し毎年春季大祭日とし賑わっています。御嶽薬師尊は「布袋の大仏」の愛称で親しまれ、高さが十八メートルあります。

岐阜方面に向かう。

佐吉大仏:佐吉大仏は、美濃の聖人永田佐吉翁によって、宝暦9年(1759)に建立された青銅の釈迦牟尼仏です。諸国巡礼の旅先で大病にかかった佐吉翁が、神仏に祈り全快したことを感謝して建立したと伝えられています。仏像の高さは、石の台座を含め全体で4.9m、台座の周りは8.3m。作は、江戸の鋳物師 西村和泉守藤原政時です。御堂は明治24年(1891)の濃尾震災で焼失し、現在の御堂は昭和37年(1962)に再建されました。佐吉大仏は背中に扉がついており、胎内が空洞になっています。これは胎内に経典などを納めるために使われたもので、希望者の方は胎内に入ることが可能です佐吉翁は、江戸時代中期の美濃の国羽栗郡竹ヶ鼻村の出身です。佐吉は慈悲の精神、至高の親孝行、匿名で行う数々の社会奉仕など、その徳の素晴らしさにより、地域の尊敬を集めてきました。また、「美濃聖人」と称せられ、二宮尊徳などと同様に、国定教科書に採用された偉大な人物です。佐吉翁の墓は竹鼻町の本覚寺にあり、多くの方がお参りに訪れます。

岐阜大仏:日本三大仏の一つに数えられるこの大仏は乾漆仏としては日本一の大きさを誇ります。天保3年4月(1832年)に、実に38年の歳月を費やして完成しました。堂の高さ25.15m、廻り19.39m、仏像は坐像で、高さ13.7m、耳の長さ2.1m、鼻の高さ0.4m。大イチョウを直柱として、骨格は木材で組み外部は良質の竹材と粘土で造られ、その上を一切経で糊張りし漆を塗り金箔を置いたものです。胎内には薬師如来がまつられています。
私たちに微笑みかけられているようなそのやさしい表情と荘厳さ、そして静寂な大仏殿の中はまさに癒しの空間です。

新長谷寺:1222年(貞応元年)後堀河天皇の勅命により、空海の四世護認上人が開山したという。 その後2度の焼失があったがその都度再建される。現在の堂塔はほとんどが室町時代〜江戸時代建立のものである。 この三重塔は、二階堂出羽守行藤の息女理秀尼により、徳治2年(1307年)に建立されたと伝えるが、火災で消失。現在の三重塔は、寛正4年(1463年)に再建されたものである。

日吉神社:日吉神社境内にある国の重要文化財の三重塔は、収蔵庫にある重要文化財の十一面観音坐像・地蔵菩薩坐像、本殿前にある県重要有形民俗文化財の百八燈明台などとともに、現在も神仏習合の名残りを留めている。この三重塔は、室町時代後期の永正年間(1504年〜1521年)に斎藤利綱(としつな、守護代斎藤家の一族、室町・戦国時代の武将、歌人)によって建立されたと伝えられている。その後、天正13年(1585年)稲葉一鉄(戦国・安土桃山時代の武将)が修造したことが現存する棟札で知られる。江戸時代の文政5年(1822年)に修理が行われ、明治になってからも明治24年(1891年)の濃尾地震で相輪(棟の最上部にある金属で作られている部分)に被害が生じ、明治30年(1897年)に修理を行った。大正13年(1924年)4月17日、文部省告示第85号で古社寺保存法第4条の「特別保護建造物」としての指定を受けた。この時の指定説明によると、「斗?(ときょう、建築物の柱上にあって軒を支える部分)其他ノ手法頗(すこぶ)ル雄大ナリ」とあり、構造形式は「三間三層塔婆、?葺(こけらぶき、木材を細長く削りとった板で葺いた屋根)」としている。なお、昭和4年(1929年)に国宝保存法ができると、「特別保護建造物」は「国宝」となり、さらに、昭和25年文化財保護法が制定され、「重要文化財」となった。昭和17年から21年にかけて国庫補助による半解体修理が行われ、その際屋根が檜皮葺(ひわだぶき、檜(ひのき)の樹皮で葺いた屋根)に改められた。その後、昭和36年屋根葺替修理、37年災害復旧による部品修理、平成6年(1994年)左義長の時の火災による被害修理、11年には前年の台風7号による被害修理、そして22年の落雷による被害修理、このように多くの災害を乗り越え、人々の努力によって三重塔は歴史遺産として現在に伝えられている。

真禅院:真禅院の前身は、天平11年(739年)に行基により創建された『象背山宮処寺』であるという。 後に最澄によって南宮神社と習合されて寺号を『神宮寺』と改めた。この三重塔はもともと、天平13年(741年)建造で、関ヶ原合戦で焼失したが、徳川家光によって1642年に再建されたものである。 相輪が非常に長いため、三重塔としては屈指の高さ25.4mを誇る。 真禅院は他に、平安中期以前に造られた梵鐘を有するなど、美濃地方屈指の歴史を持つ寺院である。

18:00彦根駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

6日11:00滋賀県を巡る。

大観音寺:「南無開運寶珠大観世音菩薩」と一心称名し観音様の周囲を一巡すると、十徳の利生があり、三度巡ると観音さまが影身と添ってその人を守護し、悪事災難の身代わりをされ、貧者には福を授け、病気の者は健康にし、子供のない者には子供を授け、運を開き、福を授けて下さる救世大慈悲の有難い観音さまです。

西明寺:湖東三山の一つに数えられる天台宗の寺。平安時代、仁明(にんみょう)天皇の勅願により三修上人が開山したと伝えられます。戦国時代には兵火のため荒れ果てていましたが、江戸時代中期に望月友閑(もちづきゆうかん)によって再興されました。
 門をくぐると参道が続き、山坊跡の石垣が散在しており、平安、鎌倉、室町時代を通じて祈願・修行(しゅぎょう)道場として栄えたことがうかがわれます。幸い織田信長の兵火を免れ、飛騨(ひだ)の匠によって建立された本堂や三重塔や二天門が残されています。
 本堂は、鎌倉時代初期に建立された建造物で、釘を一本も使わない純和風建築です。鎌倉の様式がよく保存され、国宝第一号に指定されています。
 本堂の右方に立つ三重塔は、総檜(そうひのき)の優美な姿の塔といわれ、初層内部に極彩色で金剛界の三十二菩薩など鎌倉時代の極楽浄土が描かれています。本堂と同じく釘を一本も使わない純和風建築で、国宝に指定されています。正面両脇に増長天(ぞうちょうてん)、持国天(じこくてん)を祀る二天門は、室町時代に建立され、重要文化財に指定されています。
 また、紅葉の名所としても有名ですが、不断桜があり、紅葉と桜を同時に見ることができます。

金剛輪寺:鎌倉期に元寇の役の戦勝記念として建立された雄大な本堂は国宝に、左上段に建つ三重塔、本堂前の二天門は重要文化財に指定されております。本堂内の不動明王立像他十躰はいずれも鎌倉初期で重要文化財、間近に拝むことができて見事なものです。

長命寺:市の北西端、長命寺山(333m)の標高約250mの山腹にある寺院。西国三十三カ所第31番札所で、「八千年や柳に長き命寺、運ぶ歩みのかざしなるらん」という詠歌のとおり、「寿命長遠」の御利益があるとされています。3世紀後半から4世紀初頭の景行天皇の時代、武内宿禰(すくね)がこの山で長寿を祈ったといい、開基は聖徳太子と伝えられます。
 平安時代前期に寺院の基盤ができたと考えられており、その後、近江守護佐々木定綱(さだつな)が戦死した父の菩提を弔うために、平安時代後期に本堂をはじめ、釈迦堂・薬師堂・太子堂・護摩堂(ごまどう)・宝塔・鐘楼・仁王門などを建立しました。現在の社殿は戦国時代中期に兵火で焼失したあと再建されたものです。
 湖岸のそばから808段といわれる長い石段を登ると、諸堂の屋根の線が美しく重なりあっています。千手観音を本尊とし、聖観音・十一面観音・毘沙門天など多くの国指定の重要文化財が安置されており、その他、建造物のすべてが県あるいは市の指定文化財になっているという由緒ある寺院です。四季を通じて多くの参詣者が全国から訪れ、湖辺近くの山腹風景も美しいです。

常楽寺:奈良時代中期に良弁(ろうべん)が開いた「阿星山五千坊(あぼしやまごせんぼう)」の中心であり、平安時代初期には長寿寺とともに歴代天皇の尊崇が厚かったといいます。
 山門に続く広い境内の木立の参道の奥に、国宝指定の和様の大きな本堂がどっしりと立ち、古寺らしい落ち着いたたたずまいを見せています。現在の本堂は、南北朝時代に再建されたもので、中央には秘仏の木造千手観音坐像が安置されています。また、本堂横の石段を登ると、すぐれた形姿の三重塔があり、背後の樹林が美しい調和を見せています。
 寺宝である仏涅槃図(ほとけねはんず)や源信(げんしん)が描いたといわれる浄土曼荼羅図(じょうどまんだらず)、良弁が愛用したと伝えられる錫杖(しゃくじょう)などは、いずれも国指定の重要文化財で、建造物・彫刻・絵画・工芸品と多彩な古文化財が多くあります。

園城寺:園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。一般には「三井寺(みいでら)」として知られる。
「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺では一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

石山寺:石山寺(滋賀県大津市)の多宝塔は、鎌倉時代の建久5年(1194年)に建立されたもので、建築年が明確なものとしては日本最古の多宝塔。もちろん国宝に指定されています。和歌山・金剛三昧院(こんごうさんまいいん)多宝塔、大阪・慈眼院(じげんいん)多宝塔に並び、日本三名塔のひとつにも数えられています。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、近畿・北陸・甲信越・東海地方に位置する京都府、福井県、石川県、富山県、岐阜県、長野県、山梨県、静岡県、愛知県に点在する大仏、古墳、塔50ヶ所(岩船寺、浄瑠璃寺、海住山寺、宝積寺、醍醐寺、教王護国寺、方広寺大仏、清水寺、法観寺、金戒光明寺、仁和寺、智恩寺、金剛院、明通寺、那谷寺、ハニベ巌窟院、加賀大観音、妙成寺、新湊弁財天、高岡大仏、飛騨国分寺、光前寺、大法寺、前山寺、信濃国分寺、安楽寺、新海三社神社、平和観音、大石寺、井川大仏、油山寺、三明寺、刈宿の大仏、聚楽園大仏、愛宕山厄除弘法大師、興正寺、甚目寺、布袋大仏、佐吉大仏、岐阜大仏、新長谷寺、日吉神社、真禅院、大観音寺、西明寺、金剛輪寺、長命寺、常楽寺、園城寺、石山寺)を訪れ楽しみました。  

今回もコロナウイルスの影響で外出自粛規制、あえて行動し、高速道路、観光地、ホテルがらすき、飛沫感染、接触感染を避け、免疫を上げて移動しました。