飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十八弾:福島県小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2020年6月20−21日
  

東北地方の福島県に足を運び、福島県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(三春、大内宿、前沢、檜枝岐、会津若松、喜多方)を訪れました。

20日14:50伊丹空港出発
16:00仙台空港到達、レンタカーで福島県三春方面に向かう。

三春:樹齢1000年以上と推定される国指定天然記念物のベニシダレザクラで、日本三大桜のひとつに数えられています。薄紅色の小さな花を枝いっぱいに咲かせ、その姿が滝のように見えることから名がついたとも言われています。
場所によってさまざまな表情を見せてくれますが、正面からの花と幹は圧巻です。
福島県のほぼ中央部、阿武隈山系の西裾に位置し、郡山市の北東に隣接している。町のほとんどが標高300〜500mの丘陵地で、ゆるやかな山並みが続いている。気候は内陸性気候で、冬の降雪は少なく、夏もあまり暑くない。

19:00会津若松方面に向かう。
18:00会津若松駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

21日4:00レンタカーで出発

大内宿:福島県南会津【大内宿】は、江戸時代に会津若松市と日光今市を結ぶ重要な道の宿場町として栄えました。
現在も江戸時代の面影そのままに茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並び、昭和56年には国選定重要伝統的建造物郡保存地区に指定されています。
この大切な村・宿場の景観を未来の子供たちに引き継いで行くために、住民憲章を作り「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り景観の保存にと伝統的な屋根葺きの技術習得、継承に全員で取り組んでいます。

前沢:前沢集落は、平成23年6月に「南会津町前沢」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
明治40年、集落のほとんどの建物を焼失した大火の後に周辺地域の大工の手により一斉に再建されたため、統一的な意匠による景観が形成されました。
家屋(主屋)は、茅葺屋根でその構造から直家とL字型の中門造(曲家)に分類され、中門造が多くを占めています。
中門造は、かつて家族同様に大切にされてきた農耕馬と人が一緒に生活する構造となっており、妻面には、明かり取りの窓、梁と貫の木組み、前包の彫刻、狐格子など意匠性の高い造りとなっています。
集落内には、中門造り(曲家)13棟を含む伝統的家屋が19棟あり、現在も人々の暮らしが息づいており、日本の原風景を今に残しています。

檜枝岐:檜枝岐村(ひのえまたむら)は、福島県会津地方南西部に位置し、南会津郡に属する村。
1889年(明治22年)4月1日に誕生した。日本有数の「特別豪雪地帯」。平家の落人伝説が残る。村民の姓は「星」「平野」「橘」で占められる。
神にささげる奉納歌舞伎として行われてきた檜枝岐の伝統歌舞伎です。その昔、江戸で歌舞伎を観劇した農民が、見よう見まねで村に伝えたのがはじまりと言われています。以来、親から子へと270余年に渡り継承され、衣装作りから化粧など裏方もすべて村人が行っています。昔のままの歌舞伎の姿を鑑賞できることもあり、現在では遠方からも多くの歌舞伎ファンが訪れています。

会津若松:
会津地方の中心、会津若松と言えば鶴ヶ城・白虎隊の飯盛山などが有名で、5年前の大河ドラマ「八重の桜」の舞台でもありますが、市町地の中心、大町四ツ角から西に延びる七日町通りは、観光客をはじめ全国の商店町からも注目を集めています。明治元年の戊辰戦争での戦火で市街の殆どが灰塵と化したあと、明治から昭和初期の繁栄を極めた時代に有力商人が建てた建物が商店町として市内各所に残っていました。この町並みも高度成長期に衰退しましたが、蔵や洋館、木造商家など奇跡的に残っていた建物を再生して、大正浪漫ただよう町並みとして復活されました。喜多方の蔵の町並みとは全く違う雰囲気で、懐かしい気分になれる町歩きができます。秀吉から会津の地を与えられた蒲生氏郷は91万余石を領し、家康・毛利輝元に次ぐ有力大名でした。領主は江戸初期に蒲生〜上杉〜加藤とめまぐるしく代り、寛永20 (1643) 年、保科正之が最上から移封されたあと、松平姓が与えられ、徳川御三家に次ぐ大名として幕末まで続きました。中世の城下町を近世の城下町若松を造ったのは蒲生氏郷で、理想的な自由経済都市建設という信長の夢を実現しようと町づくりに着手しました。武士と町人の雑居が改められて、郭外の町割りを定めて商人・職人の居住地を定め、市を開くことを許しました。これによって武家屋敷と町人町が区別され、今まで郭内にあった、大町・馬場町が郭外に移されました。町並みとしての七日町辺りは、氏郷の城下町整備によって大町が郭内から今の位置に移ってきた時にできた町で、大町札辻より西に行く越後・出羽両国に通じる町道に沿った町でした。交通の要衝なので旅籠屋が多く、幕末には城下全町の旅籠屋95軒中、七日町だけで30軒を数えていました。戊辰戦争での壊滅的な被害の復興を支えた有力商人たちが建てた店舗や店蔵・土蔵・伝統的な様式の民家が、大町から七日町の通りに残ります。只見線の七日町駅の東から国道118号線にぶつかる辺りの1km余りには、土蔵造りの店、レンガ造りの土蔵、洋風な近代建築と、様々な建物が通りに面して建っています。特筆すべきは、明治期以後の洋風建築が数多く残っていることです。

喜多方: 喜多方小田付は、本市の中心市街地に位置し、天正10年(1582年)に町割が行われ、近村から定期市(いち)が移されました。近世には酒や味噌、醤油の醸造業も盛んになり、会津北方の交易の中心地として発展してきました。江戸時代末期までに成立した道路、水路、宅地割が良く残されており、その上に店蔵など多様な土蔵等が建ち並ぶ町並みは、在郷町・醸造町としての特徴的な歴史的風致を形成しています。

15:00仙台空港に向かう。

16:30仙台空港到達。

17:35仙台空港出発
18:55伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の福島県に足を運び、福島県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(三春、大内宿、前沢、檜枝岐、会津若松、喜多方)を訪れ楽しみました。

すべてが今まで訪れたことのある観光名所、時間をかけてゆっくり散策観光しました。

尚福島空港行きの飛行機を予定していましたがコロナの影響で欠航、近くの仙台空港に変更いたしました。
仙台空港から福島県会津若松には車で2時間弱かかります。早朝出発で観光時間を稼ぎ回りました。





























 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十七弾:長野県小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2020年6月13−14日
 

甲信越地方の長野県に足を運び、長野県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区8か所(妻籠、奈良井、木曾平沢、下諏訪、茂田井、海野宿、上田、松本)を訪れました。 

13日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神、中央自動車道経由して中津川インター下車

妻籠:中山道は古くは東山道と呼ばれ機内と内陸部を結ぶ道路として知られていましたが、妻籠宿戦国時代に入ると戦略的に重要視され飛躍的に整備されました。妻籠宿も室町時代末期には宿場町として成立していたと推定され、関ヶ原の合戦の際には中山道を進軍していた徳川秀忠は妻籠宿(木曽郡南木曽町)で東軍の勝利の報告を知ったと言われています。江戸時代に入り中山道(木曽路)が整備され慶長7年に宿場として67宿を制定し、妻籠宿は正式に宿場町として認められています。妻籠宿妻籠宿には本陣、脇本陣、問屋が置かれ江戸時代初期までには口留番所が設置されるなど重要視され大平街道が交差していた交通の要所として多くの人達が行き交いました。妻籠宿は大きく宿場、寺下、在郷と分かれ、宿場では木造2階建て、切妻、平入りで2階部は出桁造りで張り出し比較的間口の広い建物で構成しています。寺下は光徳寺の門前町として発展し上・下嵯峨屋など間口が狭く比較的規模の小さい町屋で構成され、在郷は農家建築と町屋が混在しています。妻籠宿は明治時代以降、主要交通が街道沿いから外れた為、現在でも旧中山道宿場町の町並みを色濃く残り昭和51年に重要伝統的建造物群保存地区に昭和56年長野県自然保護条例の郷土環境保全地区に指定されています。

奈良井:奈良井宿(塩尻市)は戦国時代に武田信玄が街道を整備した際、宿駅として設置された事が都市的な起源とされます。奈良井宿慶長5年の関が原の戦いでは徳川秀忠の徳川本隊が中山道を西上し重要性が改めて認識されています。慶長7年に本格的に中山道が整備され六十七の宿場が設置され伝馬制度も整備されました。奈良井宿もその一翼を担い、特に中山道の中でも最大の難所と呼ばれた鳥居峠を控えていた事で、奈良井宿で多くの旅人や物資の運搬者が宿泊や休息で利用した為、大きく発展し「奈良井千軒」と称される程に繁栄しました。奈良井宿奈良井宿は南北約1キロ、東西約200m、宿場の両端には守護神となる神社が鎮座し山裾には5つの寺院が境内を構えていました。奈良井宿は上町、中町、下町の3町で構成され、宿場町を経営する主要施設である本陣、脇本陣、問屋は中町に集中して設けらました。町並みを形成する町屋は概ね木造厨子2階建、切妻、平入、鉄板葺(旧石置き屋根)、2階正面は前に張り出す出桁造、2階外壁両端には防火用の袖壁、1階には下屋庇(小屋根)が設けられています。現在も良好な町並みが保たれ昭和53年に国の重要伝統的建造物群保存地区の選定されています。

木曾平沢:木曽平沢(塩尻市)は中山道沿いに発展した町ですが正式な宿場町ではなく、鳥居峠を控え「奈良井千軒」とまで言われた隣接する奈良井宿の枝郷でした。木曽平沢慶長3年に奈良井川の対岸にあった中仙道(中山道※木曽路)を現在のように付け替え、さらに慶長7年に街道の整備が行われた際、町割が行われ木曽平沢町が形成されたと推定されています。寛永2年の大火により多くの建物が焼失、その為、新たな町割では木曽平沢主屋と街路との間にはアガモチと呼ばれる空地を設けたり、隣の主屋同士も近接させず敷地奥にあるヌリグラ(漆塗りの作業場)への通路にするなど火災への工夫が見られます。基本的な主屋は2階建て、又は中2階建て、切妻、平入、板葺石置屋根で間口が3間が多く、ヌリグラは通常の土蔵より開口が大きくとり漆器の作業に適した建物になっています。木曽平沢は全国的にも少ない漆器生産の町として特徴ある町並みで伝統的町屋や塗蔵など多数現存していることから平成18年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

塩尻方面に向かう。

18:30塩尻市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

14日6:00車で出発

下諏訪:長野県の下諏訪町は、諏訪大社の総本社・下社が鎮座する町として、多くの観光客が訪れます。古くから温泉の出る宿場町として栄えていたのですが、実は近年、町にはセンスの良いお店が増えているのです。季節のメニューが人気のカフェや、アンティーク好きにはたまらない古道具屋、古い旅館を改装したゲストハウスなど、これらすべてが徒歩圏内に凝縮しているのです。

茂田井:望月宿から芦田宿へと続く旧中山道の間の宿。白壁と土蔵の続く静かな道筋は、旅人が気軽に立ちよれる雰囲気に満ちています。
旧中仙道沿いに用水が流れ、それに沿って古い家並みが続き、江戸時代の落ち着いた景観を残している。

海野宿: 北国街道が開削された寛永2年当時は海野宿(東御市)と田中宿は合宿でしたが寛保2年の大洪水で海野宿田中宿が大被害を受けると本陣が海野宿のみとなり本宿となりました。海野宿には本陣1軒、脇本陣2軒が設けられ参勤交代で宿泊や休息で利用する大名や善光寺詣での参拝客、佐渡金山で採掘された金や鉱物の輸送などで大変賑わいました。延享3年に記録された「海野宿屋敷割図」には総延長約6町宿場の東西に枡形、中央に水路が設けられ両側には103軒の家屋が軒を連ねていたとされ25頭の馬が物資や書簡などの物流を支えていました。海野宿明治時代に入ると宿場制度が廃止されると海野宿にある本陣や脇本陣、旅籠などの旅館業が急速に衰退し、変わって養蚕業が発達します。現在見られる海野宿の町並みの中にも元々旅籠だった建物を改築し養蚕場とし屋根上部に「気抜き」と呼ばれる煙出しの小屋根を揚げている様子が随所に見られます。養蚕業は大きな富をもたらし、海野宿の町並みの特色の1つでもある「袖うだつ」を外壁の両側に上げる家が増え現在見られるような特徴ある町並みが形成しました。海野宿は現在も良好な町並み保存され昭和62年には重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

上田:千曲川が流れ、菅平や美ヶ原高原に囲まれた自然豊かな長野県・上田市。真田三代の郷としてよく知られる「上田」は、古くから信州の政治や文化の要として歴史を紡いできた町です。
自然豊かな「上田」には、その環境と相応した素晴らしい観光名所が数多く点在しています。中でもJR東日本・しなの鉄道・上田電鉄が乗り入れている「上田駅」の周辺の中心エリアには、「上田城跡公園」の他、真田一族由来の寺社仏閣や、古い町並み等など、魅力溢れる観光スポットが数々あり、散策するのに絶好の場所です。

松本:松本市は、北アルプスの麓に広がる人口約24万人の街です。市内には「国宝松本城」をはじめ、重要文化財に指定されている「旧開智小学校校舎」、城下町の面影を残す「縄手通り」や「中町通り」など、多くの観光スポットがあります。特に「国宝松本城」は国内外から大勢の観光客が訪れる人気のエリアです。

16:00終了帰路に向かう。

今回の旅行、甲信越地方の長野県に足を運び、長野県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区8か所(妻籠、奈良井、木曾平沢、下諏訪、茂田井、海野宿、上田、松本)を訪れ楽しみました。

殆どが訪れたことのある観光地、木曾平沢、茂田井、海野宿は、始めての訪れで、茂田井、海野宿は立派な宿場町で感動しました。

尚数か所に道路通行止め、迂回を余儀なくされました。昨年の豪雨、台風、今年の地震の影響によるのか。
  



















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十六弾:静岡県伊豆八十八ヶ所霊場巡り観光第二弾
2020年6月6−7日
   

中部地方の静岡県に足を運び、静岡県に点在する伊豆八十八ヶ所霊場48箇所を訪れました。

6日13:48新大阪駅新幹線ひかりで出発
15:57三島駅到達、レンタカーで出発、霊場巡り

東光寺:271(応神2)年に伊豆山の浜辺に現れた不思議な光る鏡が、西の峰に消えました。その様子は日輪のように見えたことから「日が峰」転じて「日金山」となりました。 2年後の273年に松葉仙人がこの鏡を祀り、祠を建てたことが開山の起源といわれています。 現在本尊とされている延命地蔵菩薩は、源頼朝に依るものです。伊豆地方の死者は日金山に登るため、彼岸の時期に日金山に行くと会いたい人の姿を目にすることができると言い伝えられています。 そのため、彼岸には多くの人々が先祖供養のために登山します。 1582(天正10)年12月、徳川家康の命を受けた朝比奈弥太郎が日金山を下る途中、6尺を超える大男と出会いました。この男は死者を迎える鬼であったという伝説が残ります。

般若寺:伊豆山神社の別当寺であった走湯山東明寺が全身です。 徳川家の厚い崇敬を受け、寺号を改めた際も徳川家康によって命名されたと云われています。大師堂には、弘法大師自ら刻んだとされる等身大の大師像が安置されています。 また、境内には足湯があります。

興禅寺:藤原藤房が出家し、名を授翁と改め、この地を訪れた際に創建されました。 本尊の十一面観世音菩薩はこの授翁の護身仏であると云われています。 その後、一旦寺院は荒廃しましたが、寛永年間に再興されました。春には枝垂桜が美しい寺院です。 以前は天然記念物の金木犀がありましたが、枯死してしまい、現在は2代目が育てられています。

長谷寺:行基上人が網代の屏風ヶ岩で修行していた時、付近に漂着した霊木から観音像を彫り、洞窟の中に安置したと云われています。この霊木が奈良県の長谷観音像を彫った木の末木であったことから、奈良・鎌倉の長谷観音と共に「一本三体観音」とされています。 古くは真言宗に属していたと伝えられています。境内には石の観音像群や、東海呑吐の句碑があります。

東林寺:開創当時は久遠寺という名の真言宗の寺院でした。 東林院殿寂心入道という祐親の法名にちなみ、現在の寺院名に改称、1538年には曹洞宗に改宗しました。日本三大仇討ちのひとつ「曽我兄弟の仇討ち」で知られる伊東祐親の菩提寺です。 工藤祐経に殺害された嫡男の河津三郎祐泰の菩提を弔うために祐親が出家した寺です。 伊東七福神の一柱、布袋尊が祀られています。

18:30伊東駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
7日6:00レンタカーで出発、霊場巡り。

大江院:かつては真言宗の寺院で、正式名称は圓光庵蓮台寺、俗称が大江庵でした。 1540(天文9)年に、最勝院十二世台翁宗銀によって曹洞宗に改宗、名も伊雄山大江院と改称しました。1912(明治45)年の日付が記された「伊豆八十八ヶ所納経帳」がこの寺院で発見されたことで、巡礼地の掘り起こしが始まり、霊場復活となりました。

龍豊院:創建当時は真言宗の寺院でした。 慶長年間(1596〜1615)に、最勝院七世和尚を開山とし曹洞宗に改宗しました。 1879年に火災により全焼しましたが、1884年に再建しました。樹齢400年以上と云われる東伊豆町指定天然記念物の枝垂れ桜があります。

自性院:室町時代の1504(永正元)年に祖元によって開創され、1579(天正7)年に曹洞宗の法治となったと伝えられています。 1870年に火災により堂宇などが全焼したため、詳細な沿革は不明となっています。

東泉院:北条氏直の外臣であった金指筑後守が開山したもので、元は真言宗の寺院でした。 この金指筑後守が祀った本尊の聖観世音菩薩は役小角の作と伝えられています。 後に曹洞宗へと改宗しました。

正定寺:創建当時は来迎庵という真言宗の寺院でした。 1598(慶長3)年に華山和尚により浄土宗に改宗しました。 1670(寛文10)年には、周辺を襲った大津波により寺院も大きな被害を受け、本尊だけがわずかに残ったと伝えられています。

善應院:開基時は真言宗高野山の末派で稲昌寺と称していました。 1616(元和2)年に曹洞宗に改宗し、その際に寺院名も善應院と改められました。

称念寺:1175(安元元)年に河津三郎祐泰が谷津館の中に阿弥陀如来を安置した寺院を作ったのが始まりといわれています。

乗安寺:慶長年間(1596〜1615年)に縄地に開山された寺院で、後に現在地へと移されました。

地福院:かつては玉田山金生院という真言宗の寺院でしたが、1600年(慶長5)年に曹洞宗の寺院として再興されました。 縄地金山が栄えた際に、近隣にあった9つの寺院のうちの一ヶ寺で、金山衰退後にのこり8つの寺院は移転や廃寺しましたが、地福院だけはこの地に残りました。

禅福寺:元々は観世音菩薩を祀る真言宗の小さな庵でした。 貞和年間(1345〜1350年)以来衰微していましたが、曹洞宗となり寺号も「禅居庵(または禅教院)」としました。 さらに後に、伽藍を建立し寺名も「禅福寺」と改称し、今に至ります。伊豆最古の神社である白浜神社の別当寺でした。

玉泉寺:天正年間(1573〜1592年)以前は真言宗の小さな庵でした。 1848(嘉永元)年3月に現在地に堂宇が完成し、山号を瑞龍山としました。1856(安政3)年にタウゼント・ハリスが下田に入港した折、本邦初のアメリカ総領事館が置かれた寺院で、国の文化財に指定されています。

観音寺:かつては須崎の別の地にあった真言宗の寺院で、暘谷院という寺号でした。 1615(元和元)年に、曹洞宗に改宗し、現在の寺院名となりました。 その後、火災に遭い、1747(延享4)年に現在地に遷移しました。

長楽寺:以前は薬師院長楽寺と名で別の地にあったものを、1555(弘治元)年に僧尊宥が現在地に移しました。 その後明治初年の廃仏毀釈によって一旦は廃寺となりましたが、宝光院長命寺と併合し再興しました。宝光院長命寺の本尊であった聖観世音菩薩が伊豆横道三十三観音の第23番霊場となっています。 また1854(安政元)年12月21日に日露和親条約が調印、翌1855年には日米和親条約の批准書が交換された寺院です。

海善寺:かつては河津町の縄地に創立された真言宗の寺院でした。 その後、下田市本郷に遷移し布根山天気院と称しましたが、僧量誉によって浄土宗へと改宗となりました。 後に現在地に移り、富厳山海善寺と改めました。

大安寺:初めは小田原にあった寺院です。 天正年間(1573〜1591年)に再興され、近世初頭に現在地に移りました。日向佐土原藩の船が、将軍家に献上するための御用材を積んで江戸に向かう途中で暴風雨に遭い、やむを得ず積荷の一部を捨てて下田港に入港しましたが、御用材を捨てた責任をとり16人が自害しました。 帰葬が許されなかったため、故郷の菩提寺と同名の大安寺に葬られることとなりました。 船に残されていた材木は、大安寺の本堂の柱として残っています。

宝徳院:858(天安2)年、中国の長安にある青龍寺で学んだ僧が帰国する際、千体仏を積んだ船で遭難し、吉佐美の浜に打ち上げられました。 その千体仏を安置するために立てた庵が寺の始まりと伝えられています。 源頼朝が崇敬したという本尊の不動明王も、この千体仏の一体と云われています。

長谷寺:天平年間(729〜749年)に行基によって開創されたと伝えられています。 元は真言宗古義派に属し、西老山昌善寺と称しましたが、1545(天文14)年に現在の浦岳山長谷寺と改称しました。 1655(明暦元)年に曹洞宗に改宗しました。

修福寺:奈良県奈良市の大安寺の別院として開創された石門寺という寺院でした。 所在地は開創時は南伊豆町青市に、その後手石、現在地である湊と変遷しました。 その際、名を飯盛山修福寺と改め、曹洞宗に改宗しました。

正善寺:古くは真言宗の寺院で詳善寺と称していました。 寛永年間(1624〜1644年)に修福寺五世嶺屋秀雪が開山となって曹洞宗に改宗し、現在に至ります。

青龍寺:享保初期の火災で記録の一切が焼失しているため詳細は不明であるが、1225(嘉禄元)年開創と伝えられています。 現在の本堂は1720(享保5)年に建てられたものです。

正眼寺:1351(北朝暦観応5)年に真際によって開かれた臨済宗の寺院です。 至近の長津呂港は江戸時代に賑わい、近くにあった建長寺派の守源寺が栄えたのに対し、正眼寺が衰退していたのを獲麟が再興したと伝えられています。 1890(明治23)年に守源寺は災害により廃寺となり、正眼寺に併合されました。

海蔵寺:古くは仲木地区にあったと云われる天台宗の寺院でしたが、天文年中(1532〜1555年)に現在地に遷移し英仲亀和尚を開山として臨済宗建長寺派に改宗しました。

法伝寺:当初は真言宗の寺院で、別の地にありました。 寛永年中(1624〜1644年)に現在地に遷し、臨済宗となりました。

保春寺:草創当時は真言宗の寺院でした。 創立した山本長門守道政が1507(永正4)年に没していることから、草創はそれ以前と推測されます。 後に曹洞宗に改宗されました。

法泉寺:かつては真言宗の小庵でした。 1662(寛文2)年に最福寺の宝山順和尚が再興して曹洞宗の寺院となりました。

善福寺:幾度かの被災の末、詳細な記録は不明となっていますが、1628(寛永5)年に入寂した了快を中興の祖としています。 天保年間(1830〜1844年)に本堂・庫裏が再建されました。

金泉寺:1644(正保元)年に超傳によって創立されたということ以外不明です。

常石寺:慶長年間(1596〜1615年)に慈雲寺(第64番札所)四世関翁全鉄によって開創されました。

普照寺:793(延暦12)年に地元の漁師の網にかかった観音像を祀った小庵を作ったことが始まりとされています。 寛正年間(1460〜1465年)に盛賢が再興しました。

禅宇院:創建年代は不明ですが、かつては善瀲院という名で、別の地にありました。 1668(寛文8)年以前に曹洞宗に改宗し、現在地に遷移したと推測されています。

浄泉寺:1414(応永21)年に及歎によって開かれた寺院です。 1648(慶安元)年には徳川家光による御朱印状を受けて、1758(宝暦8)年には増上寺の交代寺となりました。

天然寺:1468(応仁2)年に雲誉文公によって創建されました。 しかし、1705(宝永2)年8月に大洪水によって流失、4年後の1709年に再建された。

常在寺:古くから小さな釈迦堂があったところに、1429(永享元)年に無範という僧が留まり、喜捨によって堂宇を建立し、常在寺という臨済宗に属する寺を開きました。

永禅寺:1167(仁安2)年に文覚上人がこの地を訪れた際、持っていた釈迦如来像を安置して堂宇を建てた、永善寺という真言宗の寺院が始まりです。 後に再興された折に、永禅寺と改称し、臨済宗となりました。

東林寺:文録年間(1592〜1596年)に開創された小さな庵でした。 1600(慶長5)年に堂宇が建立されました。

安楽寺:663年にこの地を訪れた行基が自ら薬師如来を彫り、医王山大泉寺としたのが始まりであると言い伝えられています。 1534(天文3)年に現在の寺域が整えられました。

岩殿寺:976(貞元2)年に僧継雲によって開創され、1273(文永10)年に阿闍梨丁快によって中興されました。 北條氏の庇護を受けた寺院でしたが、豊臣秀吉が小田原城を攻めた際に争乱に巻き込まれ炎上し、そのまま衰退の道をたどりました。

最福寺:1500(明応9)年に草創された律院で、当初は普済庵という名称でした。 後に律院を改めて曹洞宗に改宗し、寺号も最福寺にし、現在に至っています。

龍雲寺:1284(宝治2)年に真言宗の寺院として創建されました。 永禄年間(1558〜1570年)に曹洞宗に改宗となりました。

曾同時洞寺:幾度かの火災のため記録が焼失してしまっていて、詳細な沿革は不明となっています。 かつては弘法大師修行の霊蹟で大師山とも言われる真言宗の大刹でした。 戦乱で焼失した後、1525(大永5)年に七堂伽藍を再建、その際に曹洞宗へと改宗しました。 1593(文禄2)年に山火事で類焼しましたが、1596(慶長元)年に再建されています。

広台寺:
かつては桂昌庵という真言宗の小さな庵でした。 1612(慶長17)年4月21日に現在地に移り、曹洞宗に改宗、名も湯谷山廣台寺と改めました。
1854(安政元)年に近隣が大津波に襲われた際、下田に滞在していたロシアのプチャーチン提督と幕府の勘定奉行川路聖謨が避難していました。 伊豆横道三十三観音の第十九番札所でもあります。

向陽院:1402(応永9)年に天台宗の阿闍梨が諸国行脚で河内を訪れ、地蔵密庵と号した草庵を結び、虚空蔵菩薩と地蔵菩薩を奉ったことが草創です。

18:30終了、三島駅に向かう。

19:00三島駅到達。

19:46三島駅新幹線ひかりで出発
22:09新大阪駅到達。

今回の旅行、
中部地方の静岡県に足を運び、静岡県に点在する伊豆八十八ヶ所霊場48箇所を訪れ楽しみました。
中等度の寺院が多く、特徴的な大屋根で緑色の屋根が殆どでした。伊豆半島は観光名所の地域、マイナーな伊豆八十八ヶ所巡りの寺院ですが整備されて見るべきものがあります。