飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十二弾:北海道小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏観光
2020年7月23-24日
  

北の北海道に足を運び、北海道に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏4か所(北海道大観音、小樽、 札幌涅槃大仏、御霊供養大仏)を訪れました。

23日15:30伊丹空港出発
17:20新千歳空港到達、レンタカーで札幌市内に向かう。
18:30札幌市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
24日6:00レンタカーで出発、芦別方面に向かう。

北海道大観音:北海道大観音は設計石本建築事務所、建設清水建設によって平成元年竣工しました。構想は昭和50年からあり、昭和53年用地買収、その頃から中に設置される仏像の製作が開始されました。平成25年に宗教法人天徳育成会に所有権が移り、北海道天徳大観音と改称され、現在は一般の人は立ち入ることができません。完成時は宗教法人に属さず、「どなたでもお楽しみいただける観光の聖地」ともうたわれていました。
北海道大観音を有した北の京芦別の起源は昭和45年に開業した芦別レジャーランドです。浴場、プール、日本庭園、十二支園、ホテル五重塔、ホテル三十三間堂等の施設がありました。北海道大観音は他の施設とは若干離れた高台に位置していたため、園内にはモノレールが設置されていました。

小樽に向かう。

小樽:札幌駅から快速列車で30分強で足を伸ばせる小樽。明治~大正期には近代化によって大いに繁栄し、戦前には貿易港として、またニシン漁の拠点として港を中心に繁栄しました。そんな時期に作られた近代的な建物や倉庫、運河が、今なおそのままの姿で残っているため、街全体がノスタルジックな雰囲気に包まれています。

札幌方面に向かう。

札幌涅槃大仏:
北海道を代表する洞爺湖・支笏湖を横目に453号を札幌に向けてひた走る。その道すがらにあるのは、北の大地に横たわる黄金の涅槃像。佛願寺大涅槃聖堂という寺院のシンボルと化している。この涅槃像の出身は函館。
恵山モンテローザという温泉施設のシンボルとして存在していたが、施設の併設に伴い長い間放置&売りに出されたそう。
そのことを、新聞記事で涅槃像の存在を知り、引き取るために交渉。見事、引き取ることが決まったが、課題は函館から200キロ以上の距離をどう運ぶかが課題に。結果、涅槃像をぶつ切り(200パーツほど)に分けて運び、現地で組み立てたそう。組み立て期間は4ヶ月、恐るべき執念だ。
さて、こちらの佛願寺、建物自体も新しく清潔感がある。御朱印をもらえるので収集マニアは必見。ちょっとしたカフェとかも併設されている。

御霊供養大仏:御霊供養大仏は、この拝殿は、世界的な建築家 安藤忠雄氏により、皆様の大切な御霊を見守るお顔を除いて、全てがラベンダーの丘に抱かれる設計となっており、『頭大仏』と名付けられました。原石4,000tより選別・加工し57魂より構造され、高さ13.5m総重量1,500tの石像大仏です。

15:00終了、新千歳空港に向かう。

16:00新千歳空港到達。
17:50新千歳空港出発。
19:45伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道に足を運び、北海道に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏4か所(北海道大観音、小樽、 札幌涅槃大仏、御霊供養大仏)を訪れ楽しみました。

3か所の大仏は、初めての訪れで巨大大仏、圧巻しました。

小樽は何回か訪れたことのある観光名所、GO TO TRAVELにもかかわらず、観光客は間皿、以前の訪れと比べて賑やかさに欠けていました。コロナ感染者数の増加でまだまだ自粛されているのでしょうね。










 












 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十一弾:石川県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年7月18-19日
   

北陸地方の石川県に足を運び、石川県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(白山白峰、加賀東谷、加賀橋立、金沢、輪島黒島)を訪れました。

18日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神、北陸自動車道経由して福井インター下車。

白山白峰:白山市は石川県の南東部に位置し、市域には白山を水源とする手取川が縦断する。白山北西麓は旧白峰村にあたり、谷部に集落が点在する。白峰地区は旧白峰村の中心となる集落で、白山の西を流れる手取川沿いに展開する。寒暖の差が激しく、冬期の積雪は2メートルを超える厳しい自然環境にある。白峰地区はかつて牛首と称し、その成立は不詳であるが、史料上は16世紀には成立していたことが確認できる。この地方の主たる産業は、養蚕、製炭および焼畑による畑作である。養蚕の始まりは古く、少なくとも16世紀半ばまでさかのぼると考えられる。 保存地区は、東西約230メートル、南北約960メートル、面積約10.7ヘクタールの範囲である。集落は、手取川西岸の細長い河岸段丘上に形成される。敷地が限られていたため、主屋が通りに面して建ち並ぶ特徴ある街路景観を持つ。地区中央部には、社寺および大家が居を構え、これらを囲む石垣が連なり、特徴ある景観を形成する。主屋は、二階建もしくは三階建とする。上層階を養蚕の場とするために、江戸時代からすでに多層階の主屋が普及していた。屋根は切妻造で、年代の古いものは、下屋や軒庇を設けないため、土蔵のようであることが特徴である。二階以上では、柱を半間ごとに立てるために、窓が半間幅の縦長の形状となり、二階には薪の搬入口として使用されたセドと呼ばれる開口部を設ける。また、雪下ろしの作業のために屋根にあがる大はしごが常設されており、特徴的である。さらに外壁は、下地にナルと呼ばれる直径2センチメートルから3センチメートルの木の枝を使用し、非常に厚い。これらの特徴は、いずれも豪雪に対応したものであり、気候風土に即した建築の特徴をよく示している。白山市白峰伝統的建造物群保存地区は、山間部の狭隘な敷地に形成された特色ある集落構成をもち、豪雪という気候風土や養蚕という生業に即して発展成立した地方色豊かな伝統的建造物群がよく残り、厳しい自然環境にある山村集落の歴史的風致をよく残し、我が国にとって価値が高い。

加賀東谷:加賀市の東南の山間部に位置し、大日山を源とする動橋(いぶりはし)川と杉ノ水川の上流域に点在する荒谷(あらたに)町、今立(いまだち)町、大土(おおづち)町、杉水(すぎのみず)町の4集落からなる。
さまざまな理由から現在は過疎化が進んでいるが、平成23年11月29日、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたことにより、注目が集まっている。
民家の屋根は赤瓦で葺かれ、煙出しが設けられており、この地の景観を特徴づけている。

加賀橋立:この加賀橋立は、近世前半までは茅葺民家が建ち並ぶ半農半漁の集落であったようです。
18世紀半ばから北前船の船主となる者があらわれ、寛政8年(1796)には船主34名と船頭8名が確認でき、次第に北前船にかかわる人が居住する集落へと発展しました。
明治5年(1872)に大火になるものの、速やかに痛手から立ち直って、より豪壮な住宅を再建し、復興を遂げました。
しかしその後、汽船や鉄道輸送が発達したため、北前船は輸送の主役の座を追われ、明治後半から船主や船数が減少し、衰退していきました。
明治大火前の「橋立古絵図」と現在の街路や地割を比べると、江戸末から明治初頭の集落の基本構成が、今も変わらずに残されています。
宅地は周囲を塀や石垣で囲み、建物や塀の基礎石、石垣、参道や宅地の石段や石敷には淡緑青色の笏(しゃく)谷石(だにいし)が使用され、集落に柔らかな質感と独特な風合いがあります。

19:20金沢西インター付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

19日6:30車で出発、

金沢:「加賀百万石」の城下町として栄えた金沢には日本三名園の一つである兼六園や玉泉院丸庭園などがあり、街を歩けば江戸時代の町風情を感じられるひがし茶屋街、長町武家屋敷跡などもあります。金沢城から南にある寺町寺院群では忍者寺として有名な妙立寺が、若者が集まる香林坊付近には金沢21世紀美術館や石川県立美術館などアートの世界を堪能する施設があります。その他、伝統工芸である金箔作りを学べる安江金箔工芸館など、文化的思索に耽ることができる観光地となっています。

輪島黒島:石川県能登半島の輪島門前町にある黒島地区は、江戸時代から明治時代にかけての海運で活躍した北前船の隆盛に沸いた港町。今でも当時のおもかげが色濃く残る街並みは、漆喰の白壁と能登特有の黒い屋根瓦による美しいモノトーンが特徴。狭く入り組んだ路地が、さらに街並みの味わいを深くしています。2009年に、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定された歴史ある街並みを、ゆっくりと散策してみましょう。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、北陸地方の石川県に足を運び、石川県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(白山白峰、加賀東谷、加賀橋立、金沢、輪島黒島)を訪れ楽しみました


白山白峰、加賀東谷、加賀橋立、輪島黒島は初めての訪れ、門前町、港町等、歴史的建造物の街並み癒されました。

金沢は何回も訪れたことのある観光名所、再確認しながら巡りました。








 




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十弾:富山県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年7月11-12日
  

北陸地方の富山県に足を運び、富山県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(高岡、井波、城端、五箇山、越中八尾)を訪れました。

11日13:36新大阪駅サンダーバード、北陸新幹線で出発
17:06富山駅到達。富山駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

12日8:00レンタカーで出発

高岡:富山市に次ぐ富山県第2の都市、高岡市。かつて加賀藩主前田利家公の長男である利長が築いた、高岡城の城下町であったことでも知られています。伝統的建造物などが残されており、日本遺産に認定。美しい海岸やドラえもんゆかりのスポットも楽しめます
高岡市には「山町筋」という土蔵造りの家屋が建つ街並みが残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。 山町とは、"高岡御車山祭(たかおかみくるまやままつり)"での"御車山"をもつ町のことをいいますが、その昔、豊臣秀吉の使用した御所車が前田利長によりこの町民にあたえられ、それぞれの町が伝統工芸により絢爛豪華に仕上げています。
高岡市には、加賀藩二代目藩主前田利長が築いた高岡城の跡が「高岡古城公園」として残されています。公園にはお城は残されていませんが、貴重な石垣が見どころでお濠の水面や歴史が感じられる石垣の景観は見ておきたいところ。お濠には春と秋の期間限定で遊覧船が運行、小さなお子さま連れにも人気です。桜の名所としても知られており"日本さくら名所100選"に選定されています。
高岡市内には、日本三大仏の一つともいわれている「高岡大仏」があります。地元の銅技術によってつくられている大仏は、高さ約7メートル強、全体では16メートル弱の大きさ。30年という長い年月をかけて造られていますが、1933年、歌人である与謝野晶子が訪れた際に"鎌倉大仏より美男"と評されたともいわれていますので、訪れておきたいスポットの一つです。
加賀藩二代目藩主前田利長公の菩提寺「瑞龍寺」。広い境内を囲んでいる回廊、規則的に並ぶ障子、壮観な白壁、古い梁などの造りは見事な景観です。通路の左右には、壮観な緑の芝生と法堂を中心に回廊が続いており、"仏殿"には素晴らしい彫刻が施されています。1997年、仏殿、法堂、山門の三棟が近世禅宗様建築の代表作として国宝に指定されています。

井波:日本一の木彫りの町として知られる南砺市の井波地区。井波彫刻はこの地の古刹・真宗大谷派井波別院瑞泉寺の歴史とともに生まれました。2018年5月、「木彫刻のまち井波」の歴史・文化の魅力を伝えるストーリー≪宮大工の鑿(のみ)一丁から生まれた木彫刻美術館・井波≫が日本遺産に認定。今後は国の支援を受けながら、有形・無形の構成文化財を整備・活用してこのストーリーの魅力を国内外へ発信し、日本遺産を通じた地域活性化が図られます。

城端:越中の小京都とも呼ばれる古い町並みが残る城端。伝統ある城端絹や、300年以上続く曳山祭りなどこの地で代々受け継がれてきた歴史を見ることができる。
小さい町ながら標高差があるため、坂の町として知られる城端。車が通らない情緒ある坂や小路も多いので、徒歩で楽しむのがおすすめ。
城端絹は戦国時代からの歴史が伝わる絹織物。江戸時代に加賀藩の庇護で発展、小松(石川県)の製品とともに『加賀絹』として珍重された。往時は五箇山や福光の繭や生糸を使用して作られた。絹の滑らかさと手織りの風合いが美しい。

五箇山:五箇山は、富山県の南西端、庄川沿いに位置する自然豊かな地域です。立ち並ぶ合掌造りの建物、のどかな山村風景、どこか懐かしい小さな山里が点在します。その中で、相倉(あいのくら)集落と菅沼(すがぬま)集落が岐阜県白川郷荻町集落と一緒に1995年 「世界遺産」に登録されました。日本を代表する文化遺産に多くの方が訪れています。
五箇山は今も人々が生活する暮らしの場です。昔と変わらない小川の流れや田んぼのあぜ道、合掌造りの家々・・・必要以上に人の手が入っていない素朴でこじんまりとした農村集落は、日本の原風景そのもの。また、五箇山は民謡の宝庫として知られ、「こきりこ」や「麦屋節」「といちんさ」などの民謡がうたい踊りつがれ時代を越えて息づいています。

越中八尾:
「おわら風の盆」で全国的に有名な富山市八尾町。その中心部を走る石畳のまち並みで、一般家屋も色や形を統一しており、江戸時代のまち並みの佇まいを残しています。石畳舗装、無電線化の整備が行なわれ、昭和61年には「日本の道100選」に選ばれました。

18:00富山駅到達。
18:35富山駅北陸新幹線、サンダーバードで出発
21:44新大阪駅到達。

今回の旅行、北陸地方の富山県に足を運び、富山県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(高岡、井波、城端、五箇山、越中八尾)を訪れ楽しみました。

天候不順もあり、観光客は少なく、道路も渋滞がなく、スムーズに観光巡りできました。


























 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十九弾:尼寺三十六所法話巡礼観光
2020年7月4-5日
 

京都・滋賀・愛知・ 三重に点在する尼寺三十六所法話巡礼18カ所(大聖寺門跡、光照院門跡、曇華院門跡、寂光院、革堂行願寺、得浄明院、香雪院、岩屋寺、換骨堂、引接寺、游心庵、妓王寺、瑞龍寺門跡、観音寺、貞寿寺、大宝寺、誓願寺、地蔵院)を訪れました。

4日12:30車で出発、第二京阪自動車道経由して京都に向かう。

大聖寺門跡:中年間(1372~75)に、後円融天皇の皇女が入寺され門跡(住職)になられてから、光格天皇の皇女、普明浄院にいたる24代、約450年間は、すべて内親王によって法灯が受け継がれてきた。正親町天皇から「尼寺第1位」の綸旨を賜り、さらに「御寺の御所」と言う御所号の呼称がゆるされ、現在まで「尼寺第1位」の地位にある。

光照院門跡:開山は、後伏見天皇の皇女進子内親王で、光厳天皇(北朝の帝位についた)、光明天皇の妹君である。寛政元年(1789)光格天皇より、常盤御所の号を賜った。

曇華院門跡:開山は、順徳天皇の尊孫、四辻宮尊雅王の王女智泉尼で、天竜寺の第2世無極至玄の妹であり、天竜寺を開いた夢窓国師のお弟子にあたります。

寂光院:寂光院は天台宗の尼寺で、山号を玉泉寺といい、推古2(594)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。当初の本尊は、聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊であったが現存しない。
鎌倉時代に制作された旧本尊(重要文化財)は、平成12(2000)年5月9日未明に発生した火災により焼損したため、文化庁の指導を受けて財団法人美術院によって修復されて、境内奥の収蔵庫に安置されることとなり、現在は美術院によって模刻された地蔵菩薩像が本堂に安置されている。

革堂行願寺:革堂行願寺は一千年の歴史をもつお寺です。創建当時は一条通りにありました。戦乱や火災でいくたびも焼け、場所を替えつつも、人々の熱烈な信仰によってつねに都の中心部に再建されました。現在も西国観音霊場の第十九番札所として全国に知られる名刹です。

得浄明院:当山は、京都東山の華頂山知恩院に隣して、信州善光寺大本願の京都別院の尼寺として、明治27年(1894)9月に建立されました。この地はもと知恩院入道親王坐住の「華頂殿」の一部であったものです。開山上人は、信州善光寺大本願第117世誓圓尼公(伏見宮邦家親王第3王女、御幼名真喜宮)であり、その大部分の地域を令兄久邇宮朝彦親王の配慮により、明治15年6月、時の知恩院管長の大徳、養 徹定上人より尼公に寄進の手続きがなされたことにより創建の端が発せられたのです。本尊仏は、信州善光寺の一光三尊阿弥陀如来の分身を安置して信州善光寺同様に戒檀巡りができるようになっています。
誓圓尼公は、当時(明治初期)まだ中央線がなく、信州までお参りするのはなかなか大変なことであった為、関西の近くで善光寺如来さまのご縁を結ばせたいとのお心から当山建立を思い立たれました。
開山上人は、明治43年(1912)12月12日、当院において83才の高齢をもってご示寂されました。御遺骨は知恩院山内一心院の浄域に埋葬申し上げてあります。

香雪院:渋谷通より東へ入ると香雪院(こうせついん)の山門が見える。東山聖天(ひがしやま しょうてん)とも呼ばれている。山号は宝山(ほうざん)という。妙法院の塔頭、天台宗の尼寺、本尊は聖天尊(歓喜天、如意宝珠尊)。 尼寺三十六所霊場の11番札所、関西三聖天の一つ。

岩屋寺:山科西野の岩屋寺(いわやじ/いわやでら)は、江戸時代の赤穂義士首領・大石良雄(内蔵助)の閑居跡として知られ、「大石寺」とも呼ばれている。山号は神遊山(しんゆうさん)金地院という。曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺、本尊は大聖(だいしょう)不動明王。尼寺霊場の一つ。

換骨堂:真如堂の境外塔頭で、またの名を換骨堂と呼ばれている。  当寺は、もと東三條院(一条天皇の母、藤原詮子(せんし))の御所であったが、正暦三年(992)、女院は夢告により、叡山常行堂の阿弥陀如来像を遷座し、戒算(かいさん)上人を開基として、同五年(994)、当地に真如堂を建立した。  以後、真如堂は永くこの地にあったが、応仁の乱の兵火で荒廃し、元禄六年(1693)に当地の西南に再建され、当地には、念仏堂と呼ばれた小堂宇が残された。その後、天保元年(1830)の地震により一時荒廃したが、同13年(1842)、尼僧黙旨が尼衆の請に応じて尼僧寺院として再興し、以後永代尼僧の住職を許された。  境内には、東三條院の供養塔のほか、戒算上人が蓮華童子の教示によって発掘したと伝えられる閼伽井(あかい)(蓮華水(れんげすい))がある。左京区浄土寺真如町

引接寺:古都京都に来れば、あの世とこの世の境界を目にすることがある。京都市上京区閻魔前町の光明山歓喜院引接寺こと「千本ゑんま堂」もそのひとつ。ゑんま堂の名の通り、この世とあの世の間におられる閻魔法王をご本尊としている珍しい寺だ。本殿には見る者を圧倒する大きな閻魔像が鎮座する裁きの間が再現されている。

18:00滋賀県に向かう。
19:00石山寺付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

5日6:30車で出発、滋賀県の霊場巡り。

游心庵:

妓王寺: JR野洲(やす)駅の北約3kmにある浄土宗の寺院です。「平家物語」で知られる白拍子(しらびょうし)の妓王(ぎおう)・妓女(ぎじょ)姉妹とその母と佛御前の菩提を弔うために建てられた小寺と伝えられています。
 妓王・妓女姉妹は、この地に居館を構えた橘次郎時長(たちばなのじろうときなが)の娘として生まれ、京の都で白拍子となりました。妓王の美しさと舞いに心をひかれた平清盛の寵愛を一身に集め、水利りの悪さに苦しんでいる故郷のために、清盛に野洲川からの引水の難工事を完成させたと伝えられています。のちに妓王は若い白拍子に寵を奪われ、清盛に追放されて京都山嵯峨野に隠れ住んだとされていますが、地元の滋賀県野洲市では、「祇王井川」で故郷の村人を助けた偉大な女性として敬われています。

瑞龍寺門跡:文禄5年(1596)、関白・豊臣秀次の生母・瑞龍寺殿妙慧日秀尼(太閤秀吉の姉、秀次と岐阜宰相秀勝の母。秀次は近江40万石・八幡城主、秀吉の養子となり関白。28歳のとき高野山で自害。秀勝は朝鮮出兵で戦死。)が秀次の菩提のため建立。最初、後陽成天皇から、京都の村雲の地と、寺号と黒御所の寺格を賜った。しかし、天明の大火で全焼、第九世瑞正文院宮日尊尼公(中興門跡)が文政7年(1824)から28年かかって再建した。その後、第11世門跡日浄尼のとき、京都今出川堀川から秀次ゆかりの八幡山城址に移された。

愛知県方面に向かう。

観音寺:樫木山観音寺は浄土宗に属する。本尊の「十一面観音」は、出戸時代中期の元禄二年(1689年)の作で、五十年に一度しか開帳されない秘仏になっている。
寺伝によれば、開基は善随大和尚であるが、創建は不詳である。
観音寺の前身は、この寺の西方にあった樫木田村の「観音堂」で、高岡村の現在地に移されたといわれている。山号の由来もまたここによるものであり、この寺の西方1kmほどの所に、現在でも「樫木田」という小字名が残っている。
移された年代は定かではないが、安政四年(1857年)の文書に「高岡の観音堂新四国十七番」とあり、新四国霊場が開かれた文政七年(1824年)以前であることがわかる。
なお、本堂軒下の元禄二年(1689年)と刻まれている鰐口も手掛かりの一つである。
昭和二十三年(1948年)「観音堂」から「観音寺」にかわった。

貞寿寺:真言宗の不動明王尊を本尊とするお寺です。
弘法堂には、寺宝「歳弘法さま」という空海上人の誕生から六十二歳までのご尊像が一歳刻みで祀られており、自分と同じ歳のご尊像に願うと成就するといわれています。
他にも、霊石「重軽さま」をお参りの前後に持ち上げ、後のほうが軽く感じると願いがかなうとされています。

大宝寺:大宝寺は南知多町内海大名切に建立されている曹洞宗寺院です。江戸時代の創建当初より駆け込み寺として多くの女性を救済しており、現在も多くの方の人生相談を行っております。また東海地方では数少ない縁切り寺ともなっています。春には境内のもくれんが満開になり、境内を美しく彩ります。当寺はもくれん寺とも呼ばれ3月から4月には大変多くの参詣者で賑わいます。人里離れた山の中に位置する大宝寺では、自然の音よりほかには耳に入ってきません。街の喧噪を離れ、鳥や木々のさえずりを楽しんでいただけます。


誓願寺:享禄2年(1529年)、熱田神宮大宮司藤原氏の別邸跡に、吉野城 (尾張国)の吉野右馬允の妻でもある善光上人(日秀妙光)尼が、織田信秀の援助を得て創建した。平安時代末期、源義朝の正室となった藤原季範の娘由良御前は身ごもって熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれる。尾張名所図会には誓願寺の隣にきよめ茶屋が描かれており、熱田神宮参拝者はここで身を清めた後、参拝に向かったという(現在は神宮境内に移転している)。このきよめ茶屋のあった位置に、平清盛へ幼い頼朝の助命を嘆願した池禅尼の「池殿屋敷」があったと伝えられている。天正18年(1590年)には豊臣秀吉の母大政所が参詣したと伝えられる。慶長5年(1600年)の火災で伽藍什物が焼失したが、豊臣秀頼の命で再建された。後に尾張藩が山門などを修理し、寺領も寄進され、代々の尾張藩により、信仰されてきた。また、松尾芭蕉も熱田神宮訪問の際、自ら言い出して熱田にある景清社と誓願寺に訪れたという。

三重県方面に向かう。

地蔵院:山号は金宝山、寺号を亀命寺と言います。文保元年(1317年)、熱田神宮の祭主だった「牧権太輔奉忠」の後室(法号「勝佛」)が冥福の為に旗屋村に開基して、全海法印を請じて開山した寺院になります。また、牧権太輔奉忠は鎌倉殿と所縁があり、後室は「力王子」の称号を、そして旗屋村に寺地を給わっています。
 熱田神宮の祭主の為に建立された寺院という事で、かなり大きく、伽藍が整備された寺院だった様ですが、時代が進むにつれ徐々に衰退したと言います。天正四年(1576年)、亀命寺八世政堯法印が現在の地に移転し中興開山としています。
 明治時代の廃仏毀釈の流れの中衰退し、太平洋戦争による空襲により伽藍は焼失してしまい、現在では寺院らしい遺構は残っていないようです。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、京都・滋賀・愛知・ 三重に点在する尼寺三十六所法話巡礼18カ所(大聖寺門跡、光照院門跡、曇華院門跡、寂光院、革堂行願寺、得浄明院、香雪院、岩屋寺、換骨堂、引接寺、游心庵、妓王寺、瑞龍寺門跡、観音寺、貞寿寺、大宝寺、誓願寺、地蔵院)を訪れ楽しみました。

規模的にはまり大きくないが、渋みのある霊場が数多くみられ癒されました。多くはマイナーな霊場、案内板も整備されいないところが多く、見つけるのに時間が掛かりました。