大仏・古墳・塔

北海道
大仏:北海道大観音、 札幌涅槃大仏、御霊供養大仏、函館達磨大師、登別温泉閻魔像

東北
大仏:釜石大観音、酒田大仏、田沢湖金色大観音、昭和大仏
塔:善賓寺五重塔、羽黒山五重塔、法光寺、最勝寺

関東
大仏:鎌倉大仏、大船大仏、上野大仏、おおくら大仏、船岡平和観音、仙台大観音、愛子大仏、会津慈母大観音、巨大釈迦横臥像、百尺観音、鷲子山神社大フクロウ像、平和観音、白蛇観音、中之嶽神社だいこく様、高崎白衣大観音
古墳:猿楽塚古墳、芝丸山古墳、摺鉢山古墳、飛鳥山古墳群、十条台古墳群、赤羽台古墳群、宝莱山古墳、玉川台古墳群、、亀甲山古墳、経塚古墳、兜塚古墳、亀塚古墳、武蔵府中熊野神社古墳、
綿貫観音山古墳、八幡観音塚古墳、保渡田古墳群
塔::三渓園本門寺、大子地蔵尊、一条院毘沙門天、牛久大仏、鎌ケ谷大仏、奈良の大仏、東京湾観音、日本寺大仏、日光東照宮五重塔


甲信越
大仏:平和観音、白馬大仏、弘願寺弘法大師像、越後の里親鸞聖人
塔:光前寺、大法寺、前山寺、信濃国分寺、安楽寺、新海三社神社、妙宣寺

東海
大仏:井川大仏、刈宿の大仏、聚楽園大仏、愛宕山厄除弘法大師、布袋大仏、佐吉大仏、岐阜大仏
塔:飛騨国分寺、大石寺、油山寺、三明寺、興正寺、甚目寺、新長谷寺、日吉神社、真禅院

北陸
大仏:ハニベ巌窟院、加賀大観音、新湊弁財天、高岡大仏
塔:明通寺、那谷寺、妙成寺

近畿
大仏:兵庫大仏、但馬大仏、淡路島世界平和大観音、奈良大仏、飛鳥大仏、壷阪寺、石切大仏、方広寺大仏、大観音寺
古墳:箸墓古墳、黒塚古墳、東殿塚古墳、ホケノ古墳、石舞台古墳、岩谷古墳、野口王墓古墳、鬼の俎、雪隠古墳、大山古墳、誉田御廟山古墳、軽里大塚古墳
塔:如意寺、石峯寺、八幡神社、一乗寺、斑鳩寺、霊山寺、薬師寺、興福寺五重塔、興福寺三重塔、法起寺、法隆寺、百済寺、當麻寺東塔、當麻寺西塔、南法華寺、談山神社、室生寺、壷阪寺、金剛三味院、金剛峯寺、長保寺、根来寺、青岸渡寺、慈眼寺、金剛寺、叡福寺、勝鬘寺、四天王寺、如意寺、岩船寺、浄瑠璃寺、海住山寺、宝積寺、醍醐寺、教王護国寺、清水寺、法観寺、金戒光明寺、仁和寺、智恩寺、金剛院、西明寺、金剛輪寺、長命寺、常楽寺、園城寺、石山寺

中国
大仏:不動明王、救世観音大尊像、大聖青不動明王、有福大仏
古墳:吉備古墳
塔:大滝山、真光寺、長福寺、本蓮寺、遍照院、宝福寺、備中国分寺、明王院、耕三寺、向上寺、天寧寺、西国寺、浄土寺、厳島神社五重、多宝寺、瑠璃光寺

四国
大仏:室戸青年大師像
塔:石手寺、熊谷寺、竹林寺

九州
大仏:博多大仏、南蔵院涅槃像、香山昇龍大観音、別府大仏、稲積昇龍大観音、高鍋十一面観音、大釈迦座像、久留米救世慈母大観音
古墳:竹原古墳、日岡古墳、別府大仏、、鍋田横穴墓群、チブサン古墳、

飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百四十五弾:新潟県大仏巡り観光
2020年10月24-25日


甲信越地方の日本海に面した東西に細長い新潟県に足を運び、新潟県に点在する大仏3か所(白馬大仏、弘願寺弘法大師像、越後の里親鸞聖人)を訪れました。

24日15:35伊丹空港出発
16:35新潟空港到達、レンタカーで新潟市内に向かう。
15:30新潟市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
25日6:00レンタカーで出発、糸魚川方面に向かう。

白馬大仏:開眼は1969年(昭和44年)、入魂式は1972年(昭和47年)10月27日[1]。宗教法人白馬大仏教会管長で白馬観光ホテル社長である金田義孝によって建立された。
座像である。
高さは、台座共23.5メートル、前巾18メートルで世界最大とのことだが、あくまで建設当時のものであり、現在はどうであるか不明。
眼球と白毫はヒスイ、唇はメノウ。
公式サイトでは「内部五階にて各階とも展望絶佳」とされているが、当時既に3階までしか登れず4階と5階は閉鎖されて展望用の窓も全て塗りつぶされていた。現在は内部に入る事が出来ない。

新潟市内方面に戻る。

弘願寺弘法大師像:新潟は古町の弘願寺。その弘願寺屋上には、高さ10mほどの大きな弘法大師像が祀られています。建物部分の高さも入れると、その高さは20mほど。
 普段は商店街のど真ん中に立ち、買い物へ向かう下々のものを見下ろしているこの弘法大師像なんですが、近くの商業ビルから見下ろすことができます。

越後の里親鸞聖人:総合会館西方の湯は、奉賛会事務局と同じく、全高40mに達する親鸞聖人立像が目印の宗教施設の一部であるが、入浴料を払えば誰でも利用が可能な温泉施設となっている。

14:00終了、新潟空港に向かう。

14:30新潟空港到達。

15:35新潟空港出発。
16:45伊丹空港到達。

今回の旅行、甲信越地方の日本海に面した東西に細長い新潟県に足を運び、新潟県に点在する大仏3か所(白馬大仏、弘願寺弘法大師像、越後の里親鸞聖人)を訪れ楽しみました。

3つとも巨大仏像で民間が建立されていました。景気の影響か、整備されていなくみすぼらしくさびれていました。







飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百四十四弾:群馬県・栃木県大仏・塔・古墳巡り観光
2020年10月17-18日


北関東地方の群馬県、栃木県に足を運び、群馬県、栃木県に点在する大仏・塔・古墳9箇所(日光東照宮五重塔、鷲子山神社大フクロウ像、平和観音、白蛇観音、中之嶽神社だいこく様、高崎白衣大観音、綿貫観音山古墳、八幡観音塚古墳、保渡田古墳群)を訪れました。

17日13:57新大阪新幹線のぞみで出発
東京経由して
17:22高崎駅到達、レンタカーで高崎市内のホテルに向かう。
18:00ホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
18日5:00レンタカーで出発、日光に向かう。

日光東照宮五重塔:日光東照宮の最初の五重塔は、慶安3年(1650)に初代若狭小浜藩主の酒井忠勝が寄進したものでしたが、文化12年(1815)に焼失しました。その後、文政元年(1818)に十代藩主酒井忠進が再建したのが現在の五重塔です。
 高さは36m。極彩色の日本一華麗な五重塔で、初層軒下には富田宿(現大平町)の名工 後藤正秀が手がけた十二支の彫刻があります。また、初層内部にも漆塗り・彩色・漆箔がきらびやかに施されています。
 塔を貫く心柱は事例の少ない懸垂式で、礎石には据えられず、四重から吊り下げられて浮いています。これは、時を経て重みで塔身が縮んだ際にも、心柱が五重の屋根を突き抜けてしまわないよう、江戸時代に考え出された工法です。
 こうした工法が可能であったのは、五重塔の心柱が構造上塔身から独立して、先端の相輪だけを支えているためですが、一方で、そのように塔身と分離した心柱は、免震の機能を果たすとも考えられてきました。東京スカイツリーのデザイン監修者である元東京藝術大学学長 澄川喜一氏によれば、この五重塔の免震機能はスカイツリーの制振システム(心柱制振)にも応用されたといいます。
 五重塔は地震に強いと言われる通り、日光東照宮の五重塔も幾度かの大地震を乗り越えて健在です。そして今も、標高645mの日光山内にあって、スカイツリーの高さに呼応するが如く屹立しています。

那須に向かう。

鷲子山神社大フクロウ像:鷲子山の御祭神は、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)といわれる鳥の神様です。古い時代よりフクロウが、大神様の御使い・幸福を呼ぶ神鳥として崇敬されています。境内には日本最大級の大フクロウをはじめ多くのフクロウ像があり、運気上昇・金運の福徳・パワースポットとして、全国より多くの方々が来山されます。

宇都宮に向かう。

平和観音:宇都宮市内にある、石の里・大谷。 大谷石の採掘場跡の岩壁に彫られた大観音像。その高さは27m。階段で展望台まで登ると町並みを一望することができます。この大観音像は、戦没者の慰霊と世界平和を祈念するために彫り始められ、そのすべてが手彫りで制作されています
平和観音は、特撮テレビ番組「五星戦隊ダイレンジャー」に中国奥地にあるというダオス文明の遺跡として登場したり、「光戦隊マスクマン」の最終回に登場したり、  「ウルトラマン80」に、平和観音の後光で怪獣を撃退するエピソードがあったりすることでも有名です。

群馬大田に向かう。

白蛇観音:観音は人々のあらゆる災難を救う菩薩として信じられ、又蛇類は昔から医薬商業の神として崇められ神話伝説の中にも数多く登場しております。特に白蛇は古くから根強い信仰があります。この白蛇観音は、広く世の人々の家内安全、無病息災、交通安全を祈念するとともに研究などの犠牲になった蛇類の霊を供養するために建立されたもの。

下仁田方面に向かう。

中之嶽神社だいこく様:何故剣を持っているかにつきましては、不動明王とだいこく様が習合した姿と言われる説、中之嶽神社の神宝が剣であることから、だいこく様も剣を持ってという説があります。
この剣が厄や悪霊を祓うといわれており、本来の福徳を授ける御利益と厄を払う御利益を持つだいこく様です。特に甲子(きのえね)の日にお参りすると、御利益があるといわれております。

高崎に向かう:

高崎白衣大観音:観音山の山頂、標高190メートルの地点にある、高さは41.8メートル、重さは5,985トン、親指の太さは直径0.4メートルのコンクリート造りの観音像で、昭和11年(1936年)に実業家井上保三郎によって建立されました。原型製作は伊勢崎市出身の彫刻家森村酉三。
観光地としての他、関東八十八ヵ所霊場第一番札所として多くの拝観客訪れるほか、東国花の寺百ヶ寺のひとつに選ばれ、全山約三千本の桜をはじめ四季を通じて様々な草花を楽しむことができる市民憩いの場ともなっています。
胎内は9階建てで拝観することができ階段で肩まで登ることができます。胎内には20体の仏像が安置され、最上階からは高崎市街地はもとより、上毛三山をはじめ遠く日光連山、秩父連山、八ヶ岳連峰など望むことができます。観音像は平成10(1998)年に「たかさき都市景観賞」受賞、平成12(2000)年には国の「登録有形文化財」に指定されました。建立されてから高崎のシンボルとして愛され、その慈悲深い優しいまなざしはまるで私たちの平和を見守っているかのようです。

綿貫観音山古墳:高崎市南東部の綿貫という所に、観音山古墳という前方後円墳と呼ばれる形の長さ100メートルにも及ぶお墓があります。これは今から約1,400年以上前の6世紀後半に造られたものです。現在の高崎市を中心とした地域を支配した人のお墓です。
また、石室の前には武人や巫女などの人物や馬などをかたどった埴輪と呼ばれる土製の人形が置かれていました。埴輪の表現については、葬儀の様子を表したものと考える人もいますし、様々な考えがあります。

八幡観音塚古墳:観音塚古墳は6世紀末から7世紀初頭頃に築造された前方後円墳で、現況では墳丘全長約97メートル、前方部は前幅が91メートル、高さが14メートルあり、後円部は径74メートル、高さが12メートルあります。後円部に比べ前方部が大きく、前方部4段、後円部3段の構造であると考えられます。墳丘の周囲で周堀が確認されていますが、二重であるのか一重であるのかはわかっていません。観音塚古墳の大きな特徴は、横穴式石室とそこから出土した豪華な副葬品にあります。石室の大きさは東国最大級であり、特に石材の大きさが注目されます。最大のものは天井に使われている石で、奥行きが4.5メートル、幅が3.4メートル以上あり、重さも約50トンと推定されています。こうした巨石を使用した横穴式石室はこの地域ではみられなかったものであり、他地域からの技術が導入されたことがうかがえます。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年3月、空襲に備え地元の人たちが防空壕を掘ったとき、横穴式石室の入口が偶然発見され、そのなかから膨大な副葬品がみつかりました。銅鏡・銅鋺(どうわん)・刀剣類・馬具・工具類(鉄斧など)・須恵器などです。

保渡田古墳群:八幡塚古墳、二子山古墳、薬師塚古墳の3つの前方後円墳が集積する古墳群。三つの古墳は、約1,500年前の豪族が葬られた墓で、いずれも墳丘長約100メートルの前方後円墳。広大な二重の堀を巡らし、多量の埴輪を立て並べていました。

17:30終了、高崎駅に向かう。

18:38高崎駅新幹線で出発。

東京経由して

22:21新大阪駅到達。

今回の旅行、北関東地方の群馬県、栃木県に足を運び、群馬県、栃木県に点在する大仏・塔・古墳9箇所(日光東照宮五重塔、鷲子山神社大フクロウ像、平和観音、白蛇観音、中之嶽神社だいこく様、高崎白衣大観音、綿貫観音山古墳、八幡観音塚古墳、保渡田古墳群)を訪れ楽しみました。

大仏は、巨大大仏、漫画ぽい大仏、楽しめました。古墳に関しては、大阪の百舌鳥古墳群はただの小山のように言えるが、群馬の古墳群は整備され、多くの埴輪が飾られていて、多くの観光客が訪れていました。

大阪の古墳群も世界遺産に登録され、関東の古墳群に見習ってもっと整備していただきたいですね。




  

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百四十三弾:青森県大仏・塔巡り観光
2020年10月10-11日
  
 
東北地方の本州最北端に位置する青森県に足を運び、青森県に点在する大仏・塔3か所(昭和大仏、法光寺、最勝寺)を訪れました。

10日16:00伊丹空港出発。
17:25青森空港到達、レンタカーで青森市内に向かう。
18:30青森市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
11日7:30レンタカーで出発。

昭和大仏:昭和59年に造立された昭和大仏は、青銅座像としては日本一大きな大仏です。その高さは21,35mと奈良や鎌倉の大仏をも凌ぎます。胎内2階に戦没者慰霊の碑を祀り、戦没者の慰霊と世界平和、そして人々の心を正しく導く仏法興隆の願いが込められています。昭和大仏の姿を見ると、頭に宝冠をかぶり、胸に瓔珞を飾り、腕には臂釧や腕釧などの装飾品を着け、膝の上で左掌を下に右掌をその上に重ねて左右の親指の先をつける「法界定印」を結んでいます。これは真言密教の根本教典の一つ『大毘盧遮那成仏神変加持経』(『大日経』)に説かれ、胎蔵生曼荼羅の中心に描かれている大日如来の姿です。釈迦如来や阿弥陀如来、薬師如来など他の如来は衲衣を身に着けた質素な姿で表現されますが、大日如来は満徳を備え、一切諸仏諸菩薩の根本仏であることから、きらびやかな姿で表現され最高位の尊格であることが示されているのです。色も形も無い永遠不滅の真理そのものが大日如来であり、太陽のように一切を照らし、衆生を救済する慈悲の活動は尽きることがありません。日々刻々と移り変わっていく世界は、そのまま真理の現れといえます。私たちは大日如来に包まれて生きているとも言え、しかも大日如来の一部でもあるのです。天然の光背とも言える木々に囲まれて鎮座する大仏を仰ぎ見ると不思議な安らぎに包まれます。

法光寺三重塔:木造の三重塔としては国内最大級で高さは33m、縦横8mを測ります。明治時代の傑僧 法光寺三十世住職 西有穆山禅師(にしありぼくざんぜんじ)の発願を引きついだ、法光寺三十七世住職 活眼大典和尚(かつがんだいてんおしょう)が中心となって、昭和24年6月29日に竣工しました。
設計は戦前から戦後にかけて全国的に活躍していた日本建築家 金子清吉氏(東京在住)によるもので、1階には曹洞宗の開祖道元禅師の御霊骨を祀り、2階と3階には前田道六作の五百羅漢541体を安置しています。建物の彫刻は東京在住の宮彫師 佐藤光重氏(1888~1974)によるものです。正面に安置されたご尊像が道元禅師です。

最勝寺五重塔:この塔は、寺伝によれば藩祖為信の津軽統一の過程で戦死した敵味方の供養のために建立したといわれている。従来、明暦2年(1656年)に着工し、工事の中断と再開を経て寛文7年(1667年)完成と伝えられていた。しかし、平成3年9月に襲来した台風で大きな被害を受け、建立から約330年にして初めての全面解体修理が実施され、その過程で初重の内法(うちのり)(ぬき)から寛文4年(1664年)8月の刻名が発見された。塔の組立はこのころから開始されたものと推定される。

16:00終了、青森空港に向かう。
17:00青森空港到達。
18:05青森空港出発。
19:45伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の本州最北端に位置する青森県に足を運び、青森県に点在する大仏・塔3か所(昭和大仏、法光寺、最勝寺)を訪れ楽しみました。

巨大大仏、立派な寺院内の塔、迫力満点満喫しました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百四十二弾:山形県・秋田県大仏・塔巡り観光
2020年10月3-4日
   

東北地方の山形県・秋田県に足を運び山形県・秋田県に点在する大仏・塔4か所(善賓寺五重塔、羽黒山五重塔、酒田大仏、田沢湖金色大観音)を訪れました。

3日14:50伊丹空港出発
16:00仙台空港到達、レンタカーで鶴岡方面に向かう。
17:00鶴岡駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
4日5:30レンタカーで出発

善賓寺五重塔:参道の南、五百羅漢堂に相対して建つ。三間五重塔婆、瓦棒銅板葺で、組物は尾垂木付三手先とする。和様を基調としつつ、五重軒のみ扇垂木とする。初重中備に十二神将などの透彫、各重の高欄腰組に蟇股を飾る。均整のとれた塔姿に装飾性を備えた、近代の五重塔。

羽黒山五重塔:羽黒山参道、“一の坂”上り口の杉並木の中にある。東北地方では最古の塔といわれ、平将門の創建と伝えられる。現在の塔は、約600年前に再建されたものといわれる。高さが29.0mの三間五層柿葺素木造で、昭和41年には国宝に指定された。近くには樹齢1000年、樹の周囲10mの巨杉“爺杉”がある。

酒田大仏:酒田大仏で知られる「良茂山 持地院」の創建は応永2年(1395年)に周囲を支配していた浦地勝太夫が開基となり報恩山永徳寺(岩手県金ヶ崎)2世の湖海理元和尚が開山したとされています。
高さ17mの銅製の立像で、酒田の街を慈愛の眼差しで見つめる大仏。鎌倉や奈良の坐像としての大仏とは異なり、すっと立った優しい面差しの姿は見る者の心を優しい気持ちにさせてくれます。
現在の大仏は2代目で、当初は大正3年(1914年)に日清戦争と酒田地震の被害者の鎮魂の意味を込め建立されましたが、第二次世界大戦中に金属不足から軍に摂取され、現在の大仏は平成4年(1992年)に新たに建立したもので、台座を含めた総高17m(像高13m)は金属製の立像としては日本一と言われています。

田沢湖金色大観音:田沢湖金色大観音は秋田県にある高さ35mの観音像だ。1987年に造られたもので、鋳造製としては日本で一番の規模を誇る。観音像の足元の台座内には、観音様の生い立ちを説明する三十三観音堂や曼荼羅宮がある「幻想宮殿」という空間が広がっている。中では音楽やスモーク、七色に光るライトなどが使用されたイリュージョンが見られることもあり、人気のスポットとなっている。なお、幻想宮殿内では撮影が禁止されているので要注意。また、観音像の周りには同じく金色をした七福神が並んでいる。観音様を参拝したあとは、七福神巡りもしてみよう。

15:00仙台空港に向かう。
17:30仙台空港到達。
18:55仙台空港出発。
20:20伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の山形県・秋田県に足を運び山形県・秋田県に点在する大仏・塔4か所(善賓寺五重塔、羽黒山五重塔、酒田大仏、田沢湖金色大観音)を訪れ楽しみました。

立派な巨大大仏、五重塔、圧巻でした。山形県、秋田県の広範囲に点在する大仏・塔、移動に時間かかりましたが、十分満足できました。








 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百四十一弾:宮城県・福島県大仏巡り観光
2020年9月26-27日
  

東北地方の宮城県、福島県に足を運び、宮城県、福島県に点在する大仏6か所(船岡平和観音、仙台大観音、愛子大仏、会津慈母大観音、巨大釈迦横臥像、百尺観音)を訪れました。

26日14:50伊丹空港出発
16:00仙台空港到達、レンタカーで巡る。

船岡平和観音:船岡城址公園山頂に立つ船岡平和観音は、昭和50年10月に柴田町出身で東京都在住の故野口徳三郎翁が、亡妻シズ夫人の冥福と世の平和と安全の願いをこめ建立しました。以前までは胎内に入ることが出来ましたが、東日本大震災の影響で現在は入ることが出来ません。

18:30仙台市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

27日5:30レンタカーで出発

仙台大観音:仙台の街を見守る、とても大きな観音様。それが「仙台大観音」こと、「仙台天道白衣大観音(センダイテンドウビャクエダイカンノン)」です。台座を含めたその高さは、なんと100mもあり、茨城県にある牛久大仏に次いで日本で2番目の大きさを誇ります。仙台観音が鎮座する中山の開拓をしたひとりの熱心な信徒が「自分が成功できたのは観音様のおかげである」と信じ、仙台市内を一望できる場所に仙台の中心である仙台駅を見つめるように1991年(平成3年)に建立しました。

愛子大仏:佛國寺には愛子の町を見下ろすように真南を向いて鎮座している大仏様(愛子大佛)があります。愛子大佛は皆様の幸せを御祈念申し上げる大仏様です。
また、「浄土霊廟(永代供養・納骨堂)」「愛子の丘霊園」の守り本尊でもあります。

福島方面に向かう。

会津慈母大観音:福島県会津若松市。国道49号線を走っていると見えてくる『会津慈母大観音像』は、四季折々に彩られる6万坪の巨大な日本庭園「やすらぎの郷・会津村」内にある高さ57mの巨大な仏像。ツルカメ建設株式会社の故「芳賀昇之助」さんが、総工費10億円かけて1986年に建立。全体のフォルムが丸々しくて優しいイメージが特徴。遠くから眺めてみても、実に存在感がある観音様です。

巨大釈迦横臥像:御身丈13.4mの巨大釈迦横臥像。この像は、御釈迦様がこの世を去ろうとしている時の御姿ですが、御入滅の時、御釈迦様の身体には花の雨が降り注いだというお話があります。御身丈13.4メートル。
ポロンナルワの遺跡地区にある3体の磨崖仏のうち、涅槃仏を模したもの。昭和60(1985)年の筑波科学万国博覧会にスリランカが出品していたが、永遠の地として、数多くの中から会津村を選んだとのこと。

百尺観音:地元の仏師荒嘉明氏が、諸国遊歴の後、生涯一仏一体を残そうと岩山を切開き建立したのが百尺観音です。
荒嘉明氏は、30余年の年月を費やし一人で彫り続けましたが、完成を見ないまま他界しました。現在、四代目の陽之輔氏が父祖の志を受け継いでいます。

14:00仙台空港に向かう。
15:00仙台空港到達。
16:05仙台空港出発
17:20伊丹空港到達。
今回の旅行、東北地方の宮城県、福島県に足を運び、宮城県、福島県に点在する大仏6か所(船岡平和観音、仙台大観音、愛子大仏、会津慈母大観音、巨大釈迦横臥像、百尺観音)を訪れ楽しみました。

どの大仏も巨大で、立派、圧巻でした。
今回の巨大大仏巡り堪能しました。お勧めです。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百四十弾:北海道八十八ヶ所霊場三十三観音・茨城県・千葉県大仏巡り観光
2020年9月19-22日
 

北の北海道北東部に点在する北海道八十八ヶ所霊場・三十三観音6か所(景勝寺、弘法寺、弘法寺佛光堂、福王寺、福王寺薬師堂、宝珠寺)関東地方の茨城県・千葉県に点在する大仏7か所(大子地蔵尊、一条院毘沙門天、牛久大仏、鎌ケ谷大仏、奈良の大仏、東京湾観音、日本寺大仏)を訪れました。
19日15:50伊丹空港出発
17:35新千歳空港到達、レンタカーで旭川方面に向かう。
20:30旭川市内のホテル到着後就寝

20日5:30レンタカーで出発
景勝寺:
当山は、大正8年の開創で平成20年で開山90周年になります。 開基竹本才順和尚は、オンコ坊さんと呼ばれたほど庭木が好きで境内に数多くの木々を移植し、境内を庭園とする事に心血をそそぎました。春には桜・ツツジ、夏にはシャクナゲ、秋には紅葉と、開基が植えた庭木が季節ごとに我々の目を楽しませてくれます。また境内を一般の町民に開放し、地域の公園として多くの町民に愛されてきました。 また境内には昭和3年に開眼された新四国八十八ヶ所、西国三十三ヶ所の石の御本尊が安置され一大霊場となっております。 旧3月21日には、新四国・新西国の御山開、11月21日には御山納法要があり多数の参拝者でにぎわいます。

弘法寺;
緑と清流のまち、置戸の市街西の端、大通りに面して山門、堀庭木の茂みが目立つ所。北海道八十八ヶ所の札所本尊は32番・33番共に本堂脇の御堂に奉安されています。 また、背後の山には新四国八十八ヶ所と新西国三十三ヶ所の霊場があり、参道に沿って石仏が建てられています。 春はツツジやレンゲ、芝桜が咲き乱れ、川の水を利用して滝を作り、水のしぶき音が参拝する者の心を癒してくれます。そばには水かけ地蔵尊が並んでいます。網走支庁の西南端に位置し、十勝支庁との結び目の役割を担っています。北見市、訓子府町、陸別町、足寄町、上士別町に隣接した森と湖の街、人口は約3600人と小世帯ですが、お祭り好きで、アウトドア遊びに目がなく、「人間ばん馬」に命を懸けています。置戸の山を駆け回ってワインを作り、白花豆を焼酎に変え、オリジナルの酒まで作りました。 街並みを変えようとダムも作り湖を誕生させ、温泉までも掘りあてました。そんな町の弘法寺の佛光山の由来は四国八十八ヶ所,西国三十三ヶ所の霊場ができ、その一体一体が光に輝いているという夢告に由来します。

弘法寺佛光堂:
緑と清流のまち、置戸の市街西の端、大通りに面して山門、堀庭木の茂みが目立つ所。北海道八十八ヶ所の札所本尊は32番・33番共に本堂脇の御堂に奉安されています。 また、背後の山には新四国八十八ヶ所と新西国三十三ヶ所の霊場があり、参道に沿って石仏が建てられています。 春はツツジやレンゲ、芝桜が咲き乱れ、川の水を利用して滝を作り、水のしぶき音が参拝する者の心を癒してくれます。そばには水かけ地蔵尊が並んでいます。網走支庁の西南端に位置し、十勝支庁との結び目の役割を担っています。北見市、訓子府町、陸別町、足寄町、上士別町に隣接した森と湖の街、人口は約3600人と小世帯ですが、お祭り好きで、アウトドア遊びに目がなく、「人間ばん馬」に命を懸けています。置戸の山を駆け回ってワインを作り、白花豆を焼酎に変え、オリジナルの酒まで作りました。 街並みを変えようとダムも作り湖を誕生させ、温泉までも掘りあてました。そんな町の弘法寺の佛光山の由来は四国八十八ヶ所,西国三十三ヶ所の霊場ができ、その一体一体が光に輝いているという夢告に由来します。

福王寺:福王寺は、北海道網走郡津別町にある高野山真言宗の寺院です。北見市に別院(納骨可)もあります。高祖弘法大師空海の教えをもとに、葬儀、先祖供養、永代供養、車のお祓いや、地鎮祭等、各種ご祈祷を執行しております。

福王寺薬師堂: この度福王寺北見別院を建立するにあたり、北見市で初めての高野山真言宗の寺院が建立される事になります。 これによって、北見市の方々もより身近に弘法大師空海の教えを感じて頂くことが出来ることと思います。 また北海道八十八ヶ所霊場の35番の札所として、薬師如来を勧請しこれを本尊と致します。

宝珠寺: 当山開基は徳島県板野郡泉福寺の住職であった米本龍厳師である。彼は北海道開教を志し来道した。混迷の時代である。紆余曲折を経て、艱難辛苦に耐えることとなったが、明治四十二年八月に上湧別町の民家を借り、高野山真言宗湧別説教所を開設に至った。大正十年には現在の本堂を落成した。本尊は金剛界大日如来であり、平成4年に第三世真海和尚の代に檀信徒からの強い要望で建立に至った。また、観音霊場として百年を迎えた平成24年には、北海道最大の大堤灯を篤信者より奉納を受け、参詣者の歩む心の道を照らしている。

17:00ホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

21日8:00レンタカーで出発新千歳空港に向かう。
11:00新千歳空港到達。
13:30新千歳空港出発。
15:05成田空港到達、レンタカーで日立方面に向かう。
19:00日立駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
22日5:30レンタカーで出発

大子地蔵尊:約410年前、久慈川に流れ着いたお地蔵様のような自然石。これを子安・子育てのお地蔵様として安置し、縁日を行って信仰したのが始まり。その後、昭和39年(1964)11月に町の名物にしようと9.62mの地蔵尊が建立された。

一条院毘沙門天:至徳3年(1386)に快範上人が開いた寺で、北関東三十六不動尊霊場の25番札所。本尊の不動明王は、佐竹氏54万石の本尊だった仏像。水戸光圀から賜ったという室町時代作の薬師如来坐像や聖徳太子立像、鎌倉中期に仏師運慶が作ったと伝わる毘沙門天像なども安置されている。境内には日本一の大きさを誇る毘沙門天像や七福神、持ち帰って願い事を祈るための願い石なども。11月1~7日の菊まつり、1月3日のだるま市、毎月第4日曜の骨董市は多くの参詣者で賑わう。

牛久大仏:奈良の大仏が手のひらに乗ってしまう、世界一の青銅製大仏。大仏の高さは阿弥陀如来の十二の光明に因んで120mになりました。
胎内には写経や展望のほか、建立完成までのパネルや大仏様の親指の模型が展示しているコーナーもあり、5層に分かれた空間を巡ります。

鎌ケ谷大仏:鎌ヶ谷大仏を建立したのは、大国屋(福田)文右衛門という商人。祖先の冥福を祈るため、安永5(1776)年11月に建立しました。大仏の開眼の際には、福田家から大仏墓地までの約327メートルの道路一面に琉球表を敷き詰めて、その道中を50人ほどの僧侶が音楽に合わせて練供養をしたと伝わります。
かつてここは鎌ヶ谷宿という宿場町として栄えた町。そんな宿場町の賑やかで楽しそうな情景が目に浮かぶようなエピソードですね。ちなみに鎌ヶ谷大仏は、昭和47年3月31日に鎌ヶ谷市指定工芸に指定されています。

奈良の大仏:千葉県にある奈良の大仏(ならのだいぶつ)は、同県市原市奈良字大仏台に建立された釈迦如来像である。初代は平安時代、承平元年(931年)に建立されたと伝えられる。下総付近で朝廷に対して反乱を起こした平将門が、新皇を名乗りこの地の北方に京を模した自らの都を構えた際、京の南の奈良の東大寺の大仏を模して建立したもので、銅製だったとされる。江戸時代中期の儒学者中村国香(1710年 – 1769年)が著した『房総志料』によれば、当時の奈良村には銅製の蘆舎那の露仏が存在していた。その後何度か作り直され、現在のものは文化元年(1804年)に建立された等身大(像高約1.7m)の石製立像である。

東京湾観音:東京湾観音は、東京湾を一望できる南房総国定公園(大坪山)に建つ高さ56mの救世観音です。本像は昭和36年に宇佐美政衛氏が世界平和の理念の元に建立されました。そのお姿は平和な世の中を祈願した珠を懐き、常に我々の幸せを願う安らかなお顔です。また、美術作品としても有名な東京湾観音の原型の作者は、国際グランプリを受賞した彫刻家の長谷川昴(こう)氏です。観音様の胎内にも長谷川氏の作品が多数あります。天上界までの324段の道のりをゆっくりと拝観しながら歩いて頂ければ、きっと心が満たされてゆくことでしょう。天上界(宝冠の高さ)から一望できる東京湾は絶景で、天候に恵まれた日には富士山や夕焼けも美しく見えます。

日本寺大仏:薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい) は世界平和、万世太平を祈願し、天明三年(1783年)に大野甚五郎英令が27人の門徒と岩山を3年かけて彫刻したものが原型です。その後昭和41年に4カ年にわたって修復されました。

14:00終了、成田空港に向かう。
15:20成田空港到達、電車で東京に向かう。
16:30東京駅到達。
16:54東京駅新幹線のぞみで出発
19:24新大阪駅到達。

今回の旅行、北の北海道北東部に点在する北海道八十八ヶ所霊場・三十三観音6か所(景勝寺、弘法寺、弘法寺佛光堂、福王寺、福王寺薬師堂、宝珠寺)関東地方の茨城県・千葉県に点在する大仏7か所(大子地蔵尊、一条院毘沙門天、牛久大仏、鎌ケ谷大仏、奈良の大仏、東京湾観音、日本寺大仏)を訪れ楽しみました。

北海道ドライブ霊場観光、何回訪れても北海道のドライブ最高、広い真っ直ぐな道、渋滞なく、地平線を見ながらドライブ観光満喫しました。

茨城県・千葉県の大仏巡り、牛久大仏は有名ですが、他の大仏も巨大で圧巻しました。お勧めですね。

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十九弾:岩手県小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏巡り観光
2020年9月12-13日
 

東北地方の岩手県に足を運び、岩手県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏6か所(金ケ崎、水沢、江刺、釜石大観音、遠野、盛岡)を訪れました。

12日16:55伊丹空港出発
18:15花巻空港到達、レンタカーで北上に向かう。
19:00北上駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
13日5:30レンタカーで出発

金ケ崎:金ケ崎町は、岩手県南西内陸部の胆沢郡北部に位置し、北は北上市、東は北上川を境として奥州市江刺区、南は胆沢川を境として奥州市水沢区、南から西にかけては奥州市胆沢区と接しています。
 地勢は、西部の奥羽山系の駒ケ岳を有する山岳高地から東部の平坦地との間に1,300m以上の標高差があり、西から東にかけては、緩い傾斜となっています。

水沢:岩手県の内陸南部にかつて存在した市。
商人の街、偉人の街、天文台の街、鋳物の街、みちのくの小京都として知られる。
周辺自治体と合併し、現在は奥州市の中心部に位置する。

江刺:2006年(平成18年)2月20日に、水沢市、胆沢郡胆沢町、前沢町、衣川村と合併して奥州市となり、消滅した。
現在は奥州市の北東部を占める。

釜石大観音:釜石の海と街を見下ろす高台に立つ、高さ48.5mの魚藍観音像。明峰山石応禅寺の発願により、幽界・明界の平和を祈念して建築されました。 釜石大観音施設内には、お釈迦様のご遺骨を納めた仏舎利塔、不動明王を祀る不動殿などが隣接しています。 観音様の内部は13階に分かれており、その胎内には三十三観音や七福神が祀られています。11・12階には展望台が設けられ、海抜120mからの眺めが楽しめます。

遠野:遠野地方の古民家は「南部曲り家」と呼ばれるものがほとんどで、現在では住居にしている家庭も少なくなっています。
「曲り家」とはL字型になっており、人が住む母屋と馬小屋がつながっている住居で、馬はかけがえのない人間の友であり、同じ屋根の下で暮らしていました。
曲り家は昔の生活が垣間見れる、懐かしい空気、時間を肌で感じ取れる場所です。

盛岡:岩手県の県庁所在地「盛岡市」は、岩手県の内陸部、県の中央よりやや北西に位置しています。どこか懐かしい雰囲気を感じさせる盛岡には、歴史的建造物やクラシカルなカフェが多く点在しており、レトロな街並みを巡る旅が楽しめます。石川啄木や宮沢賢治が青春時代を過ごした文学の街でもあり、古き良き街並みが今も残っていますよ。また、「盛岡三大麺」と言われる「わんこそば」、「盛岡冷麺」、「盛岡じゃじゃ麺」などのグルメも欠かせません。

16:00終了、花巻空港に向かう。
17:00花巻空港到達。
18:55花巻空港出発
20:30伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の岩手県に足を運び、岩手県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏6か所(金ケ崎、水沢、江刺、釜石大観音、遠野、盛岡)を訪れ楽しみました。

金ケ崎、江刺、釜石大観音は初めての訪れ、金ケ崎、江刺の街並みの散策、癒され、釜石大観音は巨大観音で圧倒され又内部も見学でき、立派な観光名所でした。

コロナ感染者が少ない岩手県、マスクはほとんどの方が装着していますが、盛岡の街並みは多くの人が訪れ賑やか、郊外の大型店も人がいっぱい、観光名所は人が少なくひっそりしていますが、地元の人は活気に満ち溢れています。






















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十八弾:北海道南部小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏巡り観光
2020年9月5-6日
  

北の北海道南部に足を運び、北海道南部に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏4か所(函館、江差、函館達磨大師、登別温泉閻魔像)を訪れました。

9月5日15:30伊丹空港出発
17:15新千歳空港到達、レンタカーで函館に向かう。
22:00函館市内のホテル到着後就寝。
6日5:30レンタカーで出発
函館:「世界三大夜景」に数えられる函館山からの夜景は、函館観光において絶対に外せない観光スポットです。
函館山からの夜景は感動的で、街からこぼれる光がまるで芸術作品のように煌きます。函館山山頂からの夜景は有名ですが、昼間の眺望も素晴らしく、晴れた日には津軽海峡から津軽半島を望むことができる360度ビューが広がります。ベイエリアでひときわ目を引く赤レンガの建物が「金森赤レンガ倉庫」です。赤レンガ倉庫群の「函館ヒストリープラザ」「金森洋物館」「BAYはこだて」と、周辺にある「はこだて海鮮市場本店」、「函館西波止場」さえ押さえておけば、函館や北海道のお土産がほぼすべて手に入ると言っても過言ではないほど海産物からお菓子、スイーツまであらゆるものが充実しています。ベイエリアのほど近く、函館山の麓に広がる坂の多いエリアが「元町エリア」です。多くの歴史的建造物が立ち並び、異国情緒漂う景観が楽しめます。
函館を代表する観光スポットです。この地域は坂道が多く、歴史的建造物がいくつも存在し、函館の名所として外せない観光スポットです。

江差:北海道文化発祥の地と呼ばれている江差町に和人が住み始めたのは、歴史上では 1189 年、源義経が衣川で自刃した後に藤原泰衡の一族がこの地に上陸(渡党)したのが最初だと言われています。江戸時代には、日本海航路の北前船によるヒノキアスナロ(ヒバ)、ニシンの交易により人口も三万人を超え、いわゆる「江差の五月は江戸にもない」と謳われる程、商業の町、文化の町として発展・繁栄を極めました。
民謡の王様と言われる「江差追分」をはじめとする伝統芸能や生活文化など有形・無形の遺産が数多く伝承・保存されている他、江差沖で座礁沈没した江戸幕府の軍艦「開陽丸」が復元され、幕末のロマンを漂わせております。
北海道の中で最も早く開港した港町のひとつが江差町です。江戸時代から明治時代にかけて繁栄を築いた江差町には、数多くの歴史的・文化的遺産があります。この貴重な景観を後世に伝え、訪れる人に楽しんでもらおうと、歴史を生かすまちづくり事業として整備されたのが「いにしえ街道」です。歴史的資源が数多く集積している下町地区の中歌町、姥神町一帯の旧街道を拡張し、残存の商家、民家や土蔵などを再生して、多くの観光客を迎え入れています。

函館達磨大師:達磨大師に深く帰依した個人が、独特の存在感をもつ巨大な達磨大師像を独力で建立。現在は高龍寺に寄贈され、同寺の上湯川法務支所として、地域信仰の拠点となっている。
湯の川温泉街から車で10分ほど、幹線道路の交差点に接する丘陵に、赤い衣を着た巨大な達磨大師像が鎮座しています。その姿は、付近を通る際にも木立の合間から垣間見ることができるほどの存在感。横から見ると意外にスリムで、どことなくユーモラスな表情が魅力です。元は私設の達磨大師像として市民に広く知られていたものが、1997(平成9)年に高龍寺へ寄贈され、同寺の上湯川法務支所として2名の僧侶が常駐する地域信仰の拠点となりました。
この達磨大師像は、1877(明治10)年生まれの斉藤キワさんが、大正末期に夫と死別した後に、夢の中で達磨大師に出会って深く帰依する中で、奈良の達磨寺にあるような達磨像のある修行の道場の建立を発願し、1951(昭和26)年に建立したもの。自らの手で彫り上げて自宅の敷地内で祀っていたものを、キワさんの没後、娘の斉藤ミサヲさんが守り続け、高龍寺に寄贈しました。鎮座から64年経った2015(平成27)年には修復が行われ、建立当時の姿を取り戻しました。階段の途中に建つ標柱に「精神統一坐禅達磨大師 、昭和二十六年八月一日、建設者斉藤キワ七十七・・・不動明王、八大竜王」と刻されているように、境内には達磨大師像のほか、本尊の達磨像と掛け軸が納められた小堂、キワさんが自ら作った独特な風貌の不動明王像や八大竜王も一緒に祀られているほか、キワさんの胸像も達磨大師像に寄り添うように建てられています。場所は、函館市街地から南茅部へ向かう道道83号線(函館南茅部線)と、トラピスチヌ修道院や市民の森に通じる市道などが交わるところ。バス停「トラピスチヌ入口」のすぐ近くです。

登別温泉閻魔像:登別温泉といえば北海道を代表する温泉地である。登別温泉最大の源泉でもある「地獄谷」にちなみ鬼にまつわるエピソードや置物、鬼の像などがたくさんある。しかし、登別には鬼だけではなく閻魔(えんま)様もいるのだ。
登別温泉のメインストリートである極楽通り商店街にひときわ目を引く建物がある。それが閻魔堂だ。普段は穏やかな表情の閻魔様が座っているのだが、1日に6回ある「地獄の審判」の時間になると、顔がみるみる真っ赤になり怒った表情に変わり人間の悪事に裁きを下すのだ。閻魔様の前にはエンマ帳と大きな釜がある。エンマ帳に願い事を書いてその大きな釜にお金を入れると、地獄の審判が下り願いが叶うと言われている。おみくじもあるので閻魔堂に立ち寄った際には運試しなどいかがだろうか。地獄の審判の時間は10時・13時・15時・17時・20時・21時となっている。
閻魔様は昭和39年(1964)から始まった「登別地獄まつり」の30周年を記念し、平成5年(1993)に登場した。「登別地獄まつり」とは8月の最終土曜日曜に開催される登別温泉最大のお祭りで、地獄谷に住む鬼達を敬い五穀豊穣を願うものである。この祭りの主役となるのが閻魔堂の閻魔様だ。地獄祭りの地獄大行列では閻魔堂から出てからくり山車に乗り込み、先頭に立って温泉街を練り歩く。座高5.2メートル、立つと6メートルという巨体で進む姿は圧巻。

15:00終了、新千歳空港に向かう。
16:30新大阪駅到達。
17:50新千歳空港出発
19:45伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道南部に足を運び、北海道南部に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏4か所(函館、江差、函館達磨大師、登別温泉閻魔像)を訪れ楽しみました。

函館、江差は何回か訪れたことのある観光名所、2か所の大仏は、初めての訪れで、ユニークな大仏で笑いを伴った観光巡りでした。







 
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十七弾:東京都・神奈川県大仏・古墳・塔巡り観光
2020年8月29-30日
 

関東地方の東京都、神奈川県に足を運び、東京都、神奈川県に点在する大仏・古墳・塔11ヶ所(三渓園、鎌倉大仏、大船大仏、上野大仏、猿楽塚古墳、芝丸山古墳、摺鉢山古墳、飛鳥山古墳群、十条台古墳群、赤羽台古墳群、宝莱山古墳、玉川台古墳群、おおくら大仏、亀甲山古墳、経塚古墳、兜塚古墳、亀塚古墳、武蔵府中熊野神社古墳。本門寺)を訪れました。

29日13:45新大阪駅新幹線のぞみで出発
15:56新横浜駅到達、レンタカーで鎌倉方面に向かう。

三渓園:三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開されました。175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治35)頃から造成が始められ、1914年(大正3)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至りました。三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「神輿振」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。その後、戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至ります。

鎌倉大仏:「露坐の大仏」として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121t を測るこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏( 盧舎那仏) に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有しています。北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは1252( 建長四) 年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられています。もっとも、創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていません。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、1334( 建武元) 年および1369( 応安二) 年の大風と1498( 明応七) 年の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができます。以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門( 泰祐) の喜捨を得た祐天※・養国の手で復興をみました。尊像の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけたのも、祐天の事績にほかなりません。今日、創建750 年余を経た尊像は、仏教東伝の象徴として、国内外、宗派の別を問わず数多の仏教徒の信仰を集めています。

大船大仏:釈迦は菩提樹の下で坐禅をされ悟られたといわれ、その禅の教えは釈迦より28代を経て達磨大師に受継がれました。 その達磨大師の禅を日本に伝えられたのが道元禅師。道元禅師が開かれた福井県の永平寺、道元禅師の教えを弘め曹洞宗団を形成された瑩山禅師が開かれた神奈川県の總持寺を両大本山とするのが曹洞宗です。 大船観音寺は大本山總持寺の直末寺で、本尊は、聖観世音菩薩を祀っています。

18:30鎌倉付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
30日5:30レンタカーで出発、東京に向かう。

上野大仏:昭和のはじめまで<span style="font-size: 18px;"><strong>首のない状態で上野公園の大仏山に安置</strong></span>されていました。もともとは、1631年(寛永8年)に越後村上城主の堀直寄により粘土製の大仏が造られました。ですが、正保4年(1647年)、5月14日の地震で首がもぎ落ちました。明暦、万治年間(1655~61)には木食浄雲という僧により、7メートル程の大仏が建造されました。元禄年間(1688~1704)には、輪王寺宮公弁法親王によって、この上に大仏を守る大仏殿が建造されました。その後、地震や災火のたびに、復興されましたが、大正12年(1923)の関東大震災で再び首がもぎ落ちさらに、公園整備のために大仏は取り払われました。あげくのはてには、顔面部以外が戦争用途のために消失するという、信じられないくらい気の毒な運命を持った、大仏様です。かろうじて、寛永寺に保管されていた顔の表面部がレリーフ状となって、もともとの場所に安置されています。

摺鉢山古墳:上野公園内にある全長約70mの前方後円墳。後円部径約43m・高さ約5m、前方部最大幅約23m、葺石は未確認だが、埴輪片が出土している。内部構造は不明。5世紀頃の築造。
古墳がある上野公園一帯は博物館や美術館、寺社、動物園、図書館、研究所などの文化施設や観光名所が集中しているが、古墳好きの皆さんには東京国立博物館をオススメしたい。平成館考古展示室や東洋館横に保存されている石棺は必見である。上野公園は春になると桜が狂い咲き、多くの花見客で賑わうので、是非その時期に行ってみよう。

猿楽塚古墳:古墳時代後期に築造された直径約20m・高さ約5mの円墳。
区指定史跡、1976(昭和51)年指定。
この古墳が「猿楽町」の由来となっている。近くにもう1基あるらしいが、詳細は不明。

芝丸山古墳:東京都港区芝公園。東京タワーから見下ろせる芝公園の中に、5世紀後半築造と考えられている前方後円墳「丸山古墳」があ る。明治時代の有名な人類学者で日本考古学会の草分け的な存在である、東京大学の「坪井正五郎」が発掘・調査したことで 知られている。この周辺にはかっては11基の円墳を従えていたとされ、昭和33年に周辺が大規模開発されるまで、まだ数 基が残存していたという。今はこの「芝丸山古墳」と、すぐ近くの港区三田にある「亀塚古墳」が残るのみである。

飛鳥山古墳群:武蔵野台地の東北のヘリに位置する飛鳥山。全体が日本で最初の都市公園、飛鳥山公園となっていますが、そのなかには古墳が眠っています。飛鳥山公園の旧渋沢庭園内にある円墳群ですが、近年までたんなる庭園内の丘として扱われ、発掘調査もされていませんでした。実は飛鳥山の南北に連なる台地には古墳が多数つくられていたのです。

十条台古墳群: 「十条台古墳群」は、北区中十条2丁目に所在する3基の円墳と、付近に存在する「十条富士塚」からなる4基の古墳群です。十条2丁目に所在する3基の古墳は開発が進んでいるために墳丘は残されていませんが、平成2年(1990)に個人住宅建設にともなう発掘調査により周溝が検出され、1号墳、2号墳、3号墳と名称がつけられています。さらに平成9年(1997)には、別の地点の発掘調査にて1号墳の周溝の続きが、平成24年(2012)には2号墳が検出されています。
 画像の道路の突き当たりのあたりが3基の古墳の所在地ですが、周辺は開発が進み宅地が密集しているため、残念ながら古墳の痕跡を観察することは出来ません。

 「1号墳」は、規模直径約23m、周溝の幅は約3mの円墳であるとされています。周溝からは円筒埴輪、朝顔形埴輪のほか、須恵器や土師器も出土しています。「2号墳」は直径約13m、周溝の幅約1.8mの円墳で、覆土中より土師器杯や高杯などが出土しています。また、「3号墳」は周溝の検出範囲が狭いために規模は不明であるものの、円墳ではないかと考えられているようです。
この3基の古墳から南に100mほど離れた地点に、有名な「十条富士塚」が所在します。この富士塚は発掘調査はされていないため詳細は不明ですが、古墳の上に盛土をして築かれたと考えられており、この富士塚を含めた直径100mほどの範囲が「十条台古墳群」とされているようです。今後の周辺調査次第では、更なる古墳群の広がりも十分に考えられるかもしれません。。。

赤羽台古墳群:この古墳の所在するこの一帯は、かつては隣接する八幡神社の境内の森だったそうですが、砲兵連隊の駐屯地として整地された後に戦後の宅地開発などもあり、ほとんどの墳丘は削平されていたそうです。その後、東北新幹線建設に関連する工事に先立つ発掘調査が行われて、合計15基の円墳が確認されました。現在はそのほとんどが星美学園の敷地になっており、この古墳群は「赤羽台古墳群」と呼ばれています。「赤羽台1号墳」はこの中で唯一墳丘の痕跡の残っている古墳で、径31mの円墳とされていますが、削られてかなり小さくなっているようです。

宝莱山古墳:この古墳は、多摩川流域最古の前方後円墳で、荏原古墳群の最初の首長墓です。最近の発掘調査から全長97メートルあまり、4世紀前半の築造と推定されます。昭和9年(1934年)の宅地造成工事で、埋葬施設が発見され、倣製四獣鏡ぼうせいしじゅうきょう(注釈)、勾玉まがたま、ガラス製丸玉、鉄剣などが出土しました。
これらは、剣、玉、鏡の「三種の神器」と同様のもので、この古墳が初期大和政権と強い関係にあったと考えられます。

玉川台古墳群:

おおくら大仏:平成6年秋のお彼岸に完成。特徴は佛さまの大きさが高さ8メートル、重さ8トン、ブロンズ製である。
この大仏様は、光背に四菩薩をはいした久遠実成の本佛お釈迦様を現している。久遠実成の本佛とは、法華経の一番有り難い佛さまで、佛の命が過去から現在、未来へと永遠に続くことを表し、その佛さまを拝む人類の生命、そして地球上のすべての生きとし生けるものの命が永遠であることを説いたお釈迦様の姿である。
台座から一回転できるようになっている。朝9時から夕方5時までは、本堂の方向を向いた南向きになっている。夕方5時から翌朝9時までは世田谷通りの方向を向いていて、交通安全や世界平和を祈念している。もし貴方が大佛さまをお参りされるとかならず、大佛さまは貴方のほうを向いて見守ってくださいます。

亀甲山古墳:の古墳は、南武蔵を代表する多摩川流域最大の前方後円墳で、全長107メートルあまりあります。近年の多摩川流域の古墳研究から、4世紀後半の築造と推定されます。

経塚古墳:全長40~42m、高さ5mの円墳。
幅10m以上の周溝がめぐり、経典を埋めたという伝承から経塚と呼ばれ、現在は道路で分断されているが元は泉龍寺の境内にあった。築造時期は5世紀後半と推定。

兜塚古墳:兜塚古墳は、昭和62年(1987)と平成7年(1995)に行われた確認調査により、墳丘の残存径約43m、周溝外端までの規模約70m、高さ約4mの円墳と考えられます。周溝の一部の状況から、円墳ではなく帆立貝形の古墳の可能性も指摘されています。墳丘の本格的な調査を実施していないため主体部などは良くわかっていませんが、土師器や円筒埴輪が出土しています。円筒埴輪の年代から6世紀前半の築造年代が考えられています。
兜塚を含む狛江古墳群は南武蔵で最大規模の古墳群と推定されていますが、墳丘の形状を留めているのは僅かで、本古墳は良好な状態で遺存している貴重な古墳といえます。狛江古墳群では二ヶ所の主体部が発掘調査され、神人歌舞画像鏡、鉄製刀身、玉類、金銅製馬具などが出土した亀塚古墳が有名です。亀塚古墳は5世紀後半から6世紀初頭ころの狛江古墳群の盟主墳と考えられますが、兜塚古墳は亀塚古墳の次世代の盟主墳と考えられています。

亀塚古墳:全長40m、高さ6.9mの帆立貝式前方後円墳。
3つの埋葬施設から鏡(歌人歌舞画像鏡)、装飾品(金銅製毛彫飾板)、武器、馬具などの副葬品が出土し、被葬者を渡来人と考える学説が提示されたが、渡来人が東国へ移住したと思われる時期等を考えるとその可能性は低いようである。出土した埴輪片などから築造時期は5世紀末から6世紀初頭と推定。

武蔵府中熊野神社古墳:武蔵府中熊野神社古墳は、飛鳥時代の7世紀の中頃(今から約1350年前)に築造された古墳であり、四角い墳丘(ふんきゅう)の上に丸い墳丘が重なった形で、上円下方墳と呼ばれています。この形は、古墳時代の終わり頃に造られるようになった、全国的にも非常に希少な形の古墳です。武蔵府中熊野神社古墳は、国内の発掘調査により確認され、石が()かれている上円下方墳の中では最大規模であり、もっとも古いものです。

本門寺:弘安5年(1282)9月日蓮聖人は9年間住みなれた身延山を下り、病気療養のため常陸の湯に向かう途中、池上宗仲公の館で病が重くなり足を留められた。そのとき、宗仲・宗長兄弟が寄進した山上のお堂を「長栄山本門寺」と命名し開堂供養をされたのが本門寺のはじまりである。日蓮聖人は10月13日に御入滅されたが、「日蓮聖人御入滅の霊場」として第二祖日朗聖人以来七百余年の法灯を伝えている。

18:00新横浜駅到達。
18:39新横浜駅新幹線のぞみで出発
20:48新大阪駅到達。

今回の旅行、関東地方の東京都、神奈川県に足を運び、東京都、神奈川県に点在する大仏・古墳・塔11ヶ所(三渓園、鎌倉大仏、大船大仏、上野大仏、猿楽塚古墳、芝丸山古墳、摺鉢山古墳、飛鳥山古墳群、十条台古墳群、赤羽台古墳群、宝莱山古墳、玉川台古墳群、おおくら大仏、亀甲山古墳、経塚古墳、兜塚古墳、亀塚古墳、武蔵府中熊野神社古墳。本門寺)を訪れ楽しみました。

鎌倉大仏以外は初めての訪れ、新鮮味、歴史を感じながら散策観光し満喫しました。


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十四弾:福岡県・大分県・宮崎県・熊本県大仏・古墳観光
2020年8月8-10日
  

九州の福岡県・大分県・宮崎県・熊本県に足を運び、福岡県・大分県・宮崎県・熊本県に点在する大仏・古墳12箇所(博多大仏、竹原古墳、南蔵院涅槃像、香山昇龍大観音、日岡古墳、別府大仏、稲積昇龍大観音、高鍋十一面観音、大釈迦座像、鍋田横穴墓群、チブサン古墳、久留米救世慈母大観音)を訪れました。

8日13:38新大阪駅のぞみで出発
16:06博多駅到達、レンタカーで巡る。

博多大仏:東区馬出4丁目に称名寺(時宗)が建っております。境内には大仏台座跡が残っており,昭和19年頃まで大仏様がありましたが,日本軍の命令により軍需材料用として供出されてしまい現在はありません。唯一白毫(びゃくごう)のみが大切にほかんされています

竹原古墳:竹原の諏訪神社の境内地にある竹原古墳は、装飾古墳として歴史・美術史的に高く評価されていて、国の指定史跡になっています。竹原古墳は、昭和31年3月18日に、若宮町(現宮若市)在野の考古学者で九州考古学会員の清賀義人氏らによって発見されました。奥壁の絵が発見された時の「神秘的なものを感じ、特に雄渾な龍や翳に驚嘆し、すごい壁画だ」という感想が残されています。

南蔵院涅槃像:高野山真言宗の別格本山でもあり、その境内の一角に位置するこの釈迦涅槃像はブロンズ製では世界一とされています。その大きさは、全長(横の長さ)41メートル、高さ11メートル、重さ約300トンというスケール!! とにかく間近でみるとその大きさを肌で感じることができます。
このお釈迦様の左手にはよく見ると、五色の布が垂れ下がっていて、正面のお参りする場所にその紐が両端から垂れ下がっています。参拝者が皆、この五色の布をギュッとにぎってお参りします。なぜ五色なのかというと、お釈迦様が悟りを開いたときに「五色の光」が現れたからとのこと。参拝されるときはぜひお釈迦様の左手に繋がっているこの五色の紐を握ってから、参拝されることをおススメします。

18:30篠栗市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

9日6:00レンタカーで出発

香山昇龍大観音:原鶴温泉を一望できる香山の山頂付近にそびえ立つ「香山昇龍大観音」は、知る人ぞ知る開運、金運のパワースポット。
台座を含め28メートルの高さを誇る観音像で、昇龍観音としては日本一の大きさです。観音様の周囲を一巡すると一徳の利生があり、二度巡ると観音様が影身に添ってその人を守護し、悪事災難の身代わりをするといわれています。

日岡古墳:若宮八幡宮の境内にある日岡(ひのおか)古墳は、全長74m、高さ5mの装飾古墳で、6世紀前半に造られたといわれています。後円部には横穴式石室があり、奥の壁面には同心円文、わらび手文、三角文などの幾何学的な文様が、周囲の壁には武具、魚、船、馬、獣などが、赤・白・緑の3色を使い分けて描かれています。その芸術性の高さから、県を代表する装飾古墳のひとつとして国の史跡に指定されています。現在は天井部分の石が崩落しているため、上からのぞき込む形での見学となります。

別府大仏:像高24mの鉄筋コンクリート製の阿弥陀如来の大仏で、コンクリートに遺骨や遺髪を混ぜた骨仏である。
蓮華座の内部が三層構造になっており、1階には戒壇巡りと大ホールが設けられ、2階には三十三観音、八十八ケ所の写し霊場があり、3階には不動明王、薬師如来、大日如来、双子権現、文殊菩薩、善光寺菩薩などの6体の仏像が祀られていた。
1989年(平成元年)に解体されており、現存しない。

稲積昇龍大観音:全国名水百選の白山川に黄金燦然と輝く稲積昇龍観音菩薩立像は、その影を映し参拝の人々を大慈大悲の観音菩薩の優しい微笑みと限りなき慈愛に満ちた眼差しで包み、その苦しみや災難を受止められ願いを叶えてくれる大変有難い菩薩です
龍は昔より、大蛇が山に千年、川に千年、さらに海に千年棲み天に昇って龍となり、自在に雲を起こし雨を呼ぶと言われています。その龍も一度、観音菩薩の法威に触れると仏敵守護に転じ、菩薩の法威と龍の神通力を加えて参拝者に大悲代受苦の御恵を与えると伝えられています
この稲積昇龍観音菩薩立像は、高さ二十二米で県下一番を誇り、稲積水中鍾乳洞兼光世治社長の宿願で、世の平穏と地域住民の無事息災を祈り、さらに参拝者の救済を願い、本年八月、この地に建立開眼しました。

高鍋十一面観音:持田古墳群の霊を慰めるために故岩岡保吉翁が開山。八十八ヶ所札仏と岩岡氏自身が刻んだ石像が700体以上あり、なかには6メートルを超える巨大なものもあります。町北部の丘陵地に位置し、日向灘も一望できる絶景地。見学は自由です。

16:00熊本に向かう。

17:30熊本駅付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
10日6:00レンタカーで出発

大釈迦座像:熊本県玉名市の山中にある「大釈迦坐像」が建立されています。高野山真言宗 弘泉寺・奥之院 小岱山釈迦院にこの大釈迦如来像がいます。弘泉寺住職の野内一念僧正が世界平和を祈念し10年の歳月をかけて1979年昭和54年に手造りにて建立されました。全体像の大きさは、総長38.5メートル、幅は18メートル、顔の大きさが7.2メートルの大きさがあるコンクリート佛である。コンクリート製の頭部と崖を固めた体部から成ります。

鍋田横穴墓群:鍋田横穴群は、古墳時代後期(今から約1400年前)、熊本県北部を流れる菊池川の支流の岩野川に沿った崖面に作られた群集墓です。その崖面には阿蘇大噴火でできた溶岩(阿蘇凝結熔解岩)が露頭した場所があり、古墳時代の人々はここに横方向の穴を掘って、お墓としました。鍋田第27号横穴慕の左外壁には、人物、弓、盾、馬、靫(ゆぎ;矢の入れ物)などが浮き彫りされています。山鹿市内では、このほか長岩横穴群や城横穴群など多数の横穴群が点在していますが、鍋田横穴群はわが国の装飾横穴の代表格と言えます。

チブサン古墳:
チブサン古墳は、古墳時代後期(今から約1500年前)に造られたお墓です。古墳は前方後円墳で、その内部に割り石を積み上げて作られた部屋(石室-せきしつ)が造られています。その石室の奥に石の棺おけ(石棺-せっかん)が置かれてあります。石棺の壁には赤、白、黒の三色で、丸や三角、菱形などの図が描かれていています。二つ並んだ円が女性の乳房に見えることから「チブサン」という名がついたと言われています。保存状態がとても良好で、熊本はもとより日本の装飾古墳を代表する古墳の一つです。

久留米救世慈母大観音:愛と光に満ちた慈顔あふれる世界の母、救世慈母大観音様は日本最大級・高さ62mの仏像であり螺旋階段で肩の所まで登られます。その間展望孔からは筑後平野・有明海、遠くは雲仙まで見渡すことが出来ます。白毫には直系30cmの純金の板に3カラットのダイヤモンドが18個ついています。又、胸の瓔珞には直径10 cmの水晶とその周囲には56個の翡翠が散りばめてあります。体内には天女の舞姿や万人拝仏の像、皆様方の家門繁栄、子孫長久、健康成就の為に、大日如来、釈迦如来、薬師如来様がまつられ水子供養や先祖供養の為に千体仏を安置致しています。夜間は照明燈により美しく浮かび上がった救世慈母大観音様を拝むことが出来まます。救世慈母大観音様は自分自身ではどうすることも出来ない一切の災いを取り除いて頂く有り難い御利益があると言われます。

10:00博多駅に向かう。
11:00博多駅到達。
11:15博多駅のぞみで出発
13:40新大阪駅到達。

今回の旅行、九州の福岡県・大分県・宮崎県・熊本県に足を運び、福岡県・大分県・宮崎県・熊本県に点在する大仏・古墳12箇所(博多大仏、竹原古墳、南蔵院涅槃像、香山昇龍大観音、日岡古墳、別府大仏、稲積昇龍大観音、高鍋十一面観音、大釈迦座像、鍋田横穴墓群、チブサン古墳、久留米救世慈母大観音)を訪れ楽しみました。

殆どが巨大大仏、民間が造作したものが多く、成金が象徴ゆえに建設されたように思われます。又数か所の大仏は老朽により解体し土台のみ存在していた。



















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十三弾:新潟県佐渡小京都重要伝統的建造物群保存地区・塔観光
2020年8月1-2日
  

新潟県佐渡に足を運び、佐渡に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・塔3か所(妙宣寺、宿根木、相川)を訪れました。
1日15:35伊丹空港出発・
16:35新潟空港到達、バスで新潟駅に向かう。
17:30新潟駅付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
2日6:00歩いて佐渡汽船港に向かう。
6:40佐渡汽船到達。
7:55佐渡汽船ジェットフォイルで出発
9:05佐渡両津港到達、レンタカーで巡る。

妙宣寺:妙宣寺:佐渡配流の日蓮に仕え、熱心な法華経信者となった遠藤為盛(阿佛房日得上人)。1278年、妻の千日尼と共に自宅を寺として開いたのが始まりと伝わります。かつては佐渡守護代竹田本間氏の居城で、今もどことなく城跡の雰囲気を残しています。境内には、県内唯一の五重塔はじめ、「正中の変」で佐渡配流となった日野資朝の墓などがあります。

宿根木:中世から港があり、佐渡金山繁栄期の17世紀を経て、江戸後期から明治初期にかけては北前船稼業として発展。小さな入り江に面して、船板などを利用した板壁の民家100余棟が密集する町並みは、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。民家3棟が公開(有料)されており、集落全体が船の仕事に従事した歴史を今に伝えます。

相川:相川は、金山とともに発展し、明治以降も佐渡の行政の中心地として栄えてきた歴史のある街です。
街の中には、その歴史を感じさせる建物や町並みが今も見ることが出来ます。 史跡や観光施設も多くあります。
細く入り組んだ路地の多い相川の街は、車を降りてゆっくりと歩いて回るとより楽しめます。 坂が多いので、運動不足な人はちょっと息が切れるかもしれません。

13:30両津港に向かう。
14:00両津港到達。
14:30佐渡汽船ジェットフォイルで出発。
15:35新潟港到達、バスで新潟駅経由して新潟空港に向かう。
17:00新潟空港到達。
19:05新潟空港出発。
20:05伊丹空港到達。

今回の旅行、新潟県佐渡に足を運び、佐渡に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・塔3か所(妙宣寺、宿根木、相川)を訪れ楽しみました。

2回目の訪れの佐渡観光、歴史的建造物、街並みを散策し癒されました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十二弾:北海道小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏観光
2020年7月23-24日
  

北の北海道に足を運び、北海道に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏4か所(北海道大観音、小樽、 札幌涅槃大仏、御霊供養大仏)を訪れました。

23日15:30伊丹空港出発
17:20新千歳空港到達、レンタカーで札幌市内に向かう。
18:30札幌市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
24日6:00レンタカーで出発、芦別方面に向かう。

北海道大観音:北海道大観音は設計石本建築事務所、建設清水建設によって平成元年竣工しました。構想は昭和50年からあり、昭和53年用地買収、その頃から中に設置される仏像の製作が開始されました。平成25年に宗教法人天徳育成会に所有権が移り、北海道天徳大観音と改称され、現在は一般の人は立ち入ることができません。完成時は宗教法人に属さず、「どなたでもお楽しみいただける観光の聖地」ともうたわれていました。
北海道大観音を有した北の京芦別の起源は昭和45年に開業した芦別レジャーランドです。浴場、プール、日本庭園、十二支園、ホテル五重塔、ホテル三十三間堂等の施設がありました。北海道大観音は他の施設とは若干離れた高台に位置していたため、園内にはモノレールが設置されていました。

小樽に向かう。

小樽:札幌駅から快速列車で30分強で足を伸ばせる小樽。明治~大正期には近代化によって大いに繁栄し、戦前には貿易港として、またニシン漁の拠点として港を中心に繁栄しました。そんな時期に作られた近代的な建物や倉庫、運河が、今なおそのままの姿で残っているため、街全体がノスタルジックな雰囲気に包まれています。

札幌方面に向かう。

札幌涅槃大仏:北海道を代表する洞爺湖・支笏湖を横目に453号を札幌に向けてひた走る。その道すがらにあるのは、北の大地に横たわる黄金の涅槃像。佛願寺大涅槃聖堂という寺院のシンボルと化している。この涅槃像の出身は函館。
恵山モンテローザという温泉施設のシンボルとして存在していたが、施設の併設に伴い長い間放置&売りに出されたそう。
そのことを、新聞記事で涅槃像の存在を知り、引き取るために交渉。見事、引き取ることが決まったが、課題は函館から200キロ以上の距離をどう運ぶかが課題に。結果、涅槃像をぶつ切り(200パーツほど)に分けて運び、現地で組み立てたそう。組み立て期間は4ヶ月、恐るべき執念だ。さて、こちらの佛願寺、建物自体も新しく清潔感がある。御朱印をもらえるので収集マニアは必見。ちょっとしたカフェとかも併設されている。

御霊供養大仏:御霊供養大仏は、この拝殿は、世界的な建築家 安藤忠雄氏により、皆様の大切な御霊を見守るお顔を除いて、全てがラベンダーの丘に抱かれる設計となっており、『頭大仏』と名付けられました。原石4,000tより選別・加工し57魂より構造され、高さ13.5m総重量1,500tの石像大仏です。

15:00終了、新千歳空港に向かう。

16:00新千歳空港到達。
17:50新千歳空港出発。
19:45伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道に足を運び、北海道に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏4か所(北海道大観音、小樽、 札幌涅槃大仏、御霊供養大仏)を訪れ楽しみました。

3か所の大仏は、初めての訪れで巨大大仏、圧巻しました。

小樽は何回か訪れたことのある観光名所、GO TO TRAVELにもかかわらず、観光客は間皿、以前の訪れと比べて賑やかさに欠けていました。コロナ感染者数の増加でまだまだ自粛されているのでしょうね。










 











飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十二弾:京都府・福井県・石川県・富山県・岐阜県・長野県・山梨県・静岡県・愛知県・三重県・滋賀県大仏・古墳・塔観光
2020年5月2-6日


近畿・北陸・甲信越・東海地方に位置する京都府、福井県、石川県、富山県、岐阜県、長野県、山梨県、静岡県、愛知県に点在する大仏、古墳、塔50ヶ所(岩船寺、浄瑠璃寺、海住山寺、宝積寺、醍醐寺、教王護国寺、方広寺大仏、清水寺、法観寺、金戒光明寺、仁和寺、智恩寺、金剛院、明通寺、那谷寺、ハニベ巌窟院、加賀大観音、妙成寺、新湊弁財天、高岡大仏、飛騨国分寺、光前寺、大法寺、前山寺、信濃国分寺、安楽寺、新海三社神社、平和観音、大石寺、井川大仏、油山寺、三明寺、刈宿の大仏、聚楽園大仏、愛宕山厄除弘法大師、興正寺、甚目寺、布袋大仏、佐吉大仏、岐阜大仏、新長谷寺、日吉神社、真禅院、大観音寺、西明寺、金剛輪寺、長命寺、常楽寺、園城寺、石山寺)を訪れました。   

2日10:00車で出発、京都方面に向かう。

岩船寺:岩船寺は、京都府と奈良県の境にあるかつては南山城当尾(とうの)村と呼ばれ、さらにそれ以前には小田原と称される地域に位置する。山号は「高雄山(こうゆうざん)」院号は「報恩院」である。 ここは平安遷都までは「山背国(やましろのくに)」と書かれ、奈良・平城京が文化の中心であった時代には、まさに山々の背後にあたる場所であった。それ故に南都仏教の影響を強く受けており、平城京の外郭浄土として興福寺や東大寺にいた高僧や修行僧の隠棲の地となり、真の仏教信仰にそそがれた地域であった。また「当尾(とうの)」の地名は、この地に多くの寺院が建立され三重塔・十三重石塔・五輪石塔などの舎利塔が尾根をなしていたことから「塔尾」と呼ばれたことによる。

浄瑠璃寺:浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、京都府木津川市加茂町西小(字)札場(にしお ふたば)にある真言律宗の寺院。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基(創立者)は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する。本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場する。

海住山寺:鎌倉時代の五重塔の貴重な遺構であり、総高17.7mと、室生寺に次いで小さい。貞慶が舎利を安置するために建立を始め、その没後建保2年(1214)に完成した。 全体的に細身だが、初重に設けられた吹放ちの裳階が安定感を与える。また内陣を厨子風に造り、8枚の扉に一体ずつ、華麗な彩色で梵天・帝釈天などの天部や比丘像が描かれる。

宝積寺:宝積寺(ほうしゃくじ)は寺伝では神亀元(724)年に聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩が建立したと伝えられる真言宗の寺院です。寺宝を多く有しており、建造物では桃山時代に秀吉が一夜で建てたと伝えられている「一夜の塔」と呼ばれる三重搭が重要文化財に、本堂及び山門は京都府の登録文化財に指定されています。

醍醐寺:醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天暦5年(951)に完成した。京都府下最古の建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものといわれている。

教王護国寺:東寺(教王護国寺)の五重塔は日本一の高さを誇る木造塔(54.8メートル)。826年(天長3年)、弘法大師(空海)が金堂に続いて創建に着手した建物。存命中の完成は叶わず、没してから約50年後に創建されたという。しかし、創建塔は1055年(天喜3年)の落雷で焼失。その後も3度の焼失があった(耐震構造のため地震で倒壊したという記録はない。)。現在の五重塔は、1635年(寛永12年)の焼失後、1641年(寛永18年)に明正天皇の詔を奉じて徳川家光が復興に着手したもので、1644年(寛永21年)に再建された(国宝)。内部には、心柱を大日如来に見立て金剛界四仏像と八大菩薩像が安置され、壁や柱には金剛界曼荼羅や八大龍王、真言八祖像が描かれている。

方広寺大仏:かつて存在した、奈良の大仏を超える「日本一大きな大仏」を紹介している豊臣秀吉が建立させた「方広寺の大仏殿」は、昭和48年まで京都にあったそう完成した大仏の高さは約19メートルで、完成した翌年に地震で崩壊したという


清水寺:国の重要文化財に指定されている清水寺三重塔は平安時代初めの承和14年(847)に桓武天皇の皇子葛井親王が建立したものと伝えられ、江戸時代の寛永9年(1632)に古様式にのっとり再建されたものです。全体が朱色に塗られた本瓦葺の建物で、3間四方で高さは約31メートル近くあり、茶わん坂などの街筋からも眺められます。春4月の放生池の南に咲き揃う桜の花の上に頭を出す三重塔などが象徴的な光景となっています。重内部には大日如来像がお祀りされていますが一般には公開されていません。室内は極彩色の飛天・龍や密教仏画で飾られているようです。

法観寺:八坂の塔(やさかのとう)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院で、聖徳太子が592年に創建したと伝えられています。正式名称は「法観寺」ですが、境内にある高さ46mの五重塔が八坂・東山を代表的する建築物であることから「八坂の塔」と呼ばれて親しまれています。

金戒光明寺:金戒光明寺の三重塔(文殊塔)は、1633年(寛永10年)、徳川二代将軍秀忠の供養ために建立され(国の重要文化財)、黒谷の北西にあった中山宝幢寺(ほうどうじ)の本尊だった文殊菩薩像が安置された。中山宝幢寺は応仁の乱の兵火で廃寺となり、本尊の文殊菩薩像は近くに建てられた小堂に祀られていたという。1633年(寛永10年)に金戒光明寺の方丈に移され、三重塔が建立されると本尊として安置された。文殊菩薩像と脇侍像は運慶作と伝えられている。蓮池に架けられた極楽橋は、春日局が架けた木造の橋を、三重塔を建立する際に石橋に造り替えられたという。

仁和寺:仁和寺の五重塔は、1644年(寛永21年)、徳川三代将軍家光の寄進によって建立された(国重文)。塔身32.7m、総高36.18m。東寺の五重塔と同様に、各層の屋根がほぼ同一の大きさに造られ、江戸期の五重塔の特徴をよく表しているという。内部には大日如来と、その周りに無量寿如来などの四方仏を安置。柱や壁面には真言八祖、菊花文様などが描かれている。

智恩寺:円 形の塔身の上重に相輪をあげ、下重には方形の裳階(もこし)を付けた形式の塔婆を多宝塔といいます。丹後国守護代で府中城主延永修理進春信によって建立さ れたこの多宝塔は、室町時代のものとして丹後地方唯一の遺構です。明応九年(1500年)三月に釿(ちょうな)初めが行われ、翌十年四月に落成したこと が、上重連子(れんじ)窓の裏板や来迎壁の背面、上重の柱(八角形)に記された墨書きにより知られます。 下重には来迎柱が立ち、前方に須弥壇をつくって中央に大日如来が安置されています。籠神社別当大聖院の智海が、来迎壁の背面に片足を上げた不動明王を描いており、「八十余歳書之 智海」の署名があります。下重の軒廻りは拳鼻(こぶしばな)付の出組(一手先斗きょう)とし、中備として中央は二つ斗(双斗)、両脇間には間斗束(けんとつか)を置いています。和様を基調としたなかで、この二つ斗と拳鼻は天竺様(大仏様)、唐様(禅宗様)の手法として採用されています。 左右に大きく広がる上重の屋根は柿葺で、これを四手先の斗きょうが支持しています。上重と下重をつなぐ漆喰の亀腹が小さいのは古風であるといえます。

金剛院:金剛院は高丘親王(後の真如法親王)が天長年間(824~833年)に創建した。 三重塔はもともと平安時代に平忠盛が建てたというが、現在の塔は室町後期に再建されたものである。

17:00東舞鶴駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

3日7:30車で出発、福井方面に向かう。

明通寺: 明通寺は、大同元年(806)、征夷大将軍坂上田村麻呂の創建と伝えられる真言宗の寺院である。三重塔は、初層平面方3間(4.18m)、高さ約22m檜皮葺の建物である。上層にゆくにしたがって寸法を減らしていくことで、均等のとれた美しい姿が作り出されている。寺の縁起では文永7年(1270)の建立とされる。様式的にもよく整った和様でおさめられており、優美で落ち着いた建物である。

石川方面に向かう。

那谷寺:境内参道の突き当たりの石段を登ると、三重塔が建つ。方3間、3層、檜皮葺で、相輪の先端までの高さが11.5メートルの小さなかわいい塔である。初層中央の四天柱の中に鎌倉時代の胎蔵界大日如来を安置し、心柱は2層目から相輪までのびている
この塔は、禅宗様を基調としており、きわめて安定した外観をもっている。軒先に目をやると、初層の軒の出から、2層目の軒先が急に小さく、3層目ではわずかに小さくなっており、初層が、どっしりと2、3層を受けていて安定感を見せている。また相輪の全高に対する割合が30パーセントを占め、通常の27パーセント前後よりも大きいことが姿を美しくしている。初層の柱間の壁板には、護摩堂と同じく、唐獅子と牡丹の浮彫が彫られ、桟唐戸の浮彫とともに華麗である。

ハニベ巌窟院: 初代院主の彫塑家・都賀田勇馬氏が、石切り場だった洞窟をアトリエとして作品を制作。ハニベ巌窟院が設立されたのは昭和26年のことである。駐車場正面にド~ンと置かれた巨大な仏頭。平和への祈りが込められた「ハニベ釈迦牟尼大仏」で、高さは15m。下からのぞき込むと圧倒的な迫力だ。水子供養のための緑色の小さな人形がぎっしりと並んだ様も圧巻。その数18000体。入口に置かれたノートには、メッセージが多く書き込まれている。奥の棚には衣料や人形や玩具が沢山納められていた。子供を思う親の気持ちが伝わってきて、家族を大切にしようという気持ちになる。

加賀大観音:石川県加賀市にある珍スポット、観音院加賀寺です。73mもある巨大な観音像が遠くからでも目を引くのですが、このお寺、現在はほぼ廃墟状態なのです。というのも、この巨大観音像やそのお寺は、バブル期の1987年に建設された「ユートピア加賀の郷」というテーマパークの一大呼び物として建立されました。このテーマパークは、巨大観音像、遊園地、温泉宿泊施設の3つのエリアからなり、開園当初は人気を博していましたが、次第に客足が遠のき、2000年には遊園地と温泉宿泊施設が閉鎖に追い込まれました。現在では、観音像とその周辺施設のみが「観音院加賀寺」としてかろうじて営業しています。


妙成寺:方3間の五重塔で、屋根は柿葺。野面石上に土台を置き、その上に初層の柱を建てる。柱は円柱。心柱は径約3尺で礎石上に建つ。初層の4周には、擬宝珠高欄を付けた切目縁を巡らす。4周の各中央間の入口には桟唐戸を入れ、人物・鳥獣・植物の浮彫がはめこまれてあり、柘榴などの題材に桃山時代の気風を残す。2層目より上は、柱間寸法をたるき3本ずつ逓減し、4周に組高欄を巡らしている。組物は各層ともに和様三手先組とし、中備は間斗束とし、外観は和様を主調とする確かな形を見せているが、初層内部には和様・唐様の折衷様式が用いられている。棟札によれば、大工は「越前北庄住坂上越後守嘉紹」であり、建仁寺流の越前坂上一門の手になったことが知られ、坂上嘉紹は山上善右衛門の父の坂上右近ではないかと考えられている。元和元年(1615)に加賀藩3代藩主前田利常の命によって着工し、同4年(1618)に完成した。相輪を含めた総高34.18メートル。

富山方面に向かう。

新湊弁財天: 富山新港近くに造成された港の見える緑地帯に、美しい弁財天が静かに立っています。放生津潟にあった弁天島の少童社の祭神を胎内神として納め、平和と港の守護の願いを込めて建立されたものです。

高岡大仏:富山県高岡市にある、高さ約16メートルの阿弥陀如来坐像「高岡大仏」は、日本三大佛に数えられ昭和8年(1933年)の造立以降、市民から親しまれる象徴的な存在となっており、地元民は敬意を込めて「だいぶっつぁん」(『大仏様』を表す呼称)」と呼んでいます。歴史小説家「井沢元彦」と、高岡大仏を心から敬愛するメンバーが、そんな「だいぶっつぁん」の魅力に迫り、知られざる逸話の数々を綴ります。

岐阜方面に向かう。

飛騨国分寺:境内には室町時代に建てられた国重文の国分寺本堂があり、その東側に玉垣で囲われた塔心礎石が据えてある。飛騨国分寺は天平13年(741年)の詔により天平勝宝9年(757年)ごろまでには完成していたらしく、この心礎は創建当時のものと推定される。礎石の形状はほぼ方形を呈し、上面に円柱座を造り出し、その中央部に円形の穴があけられる。礎石の寸法は、径約2メートル四方、地上高さ約1メートル、円柱座径133センチメートル、高さ1センチメートル、円穴径58センチメートル、深さ29センチメートルで、ほぞ穴式心礎である。石質は地元で「松倉石」と呼称しており、リュウモン岩である。過去に移動されて、原位置を保っていない。現寺域及び周辺からは布目瓦を出土する。軒丸瓦は、5個の蓮子をもつ中房の周囲に細形単弁八葉の蓮花文を配し、外区に珠文帯をめぐらす。軒平瓦は、二重圏の中に左右対照の唐草文を配する。現在の三重塔は岐阜県の文化財に指定され、文政4年(1821年)に竣立したものである。過去には、創建の塔が弘仁10年(819年)に炎上、斉衡年中(854年から857年)に再建している。また、応永年間(1394年から1428年)さらに兵火にかかり、その後再建されたが戦国時代に損傷、元和元年(1615年)再建したと三福寺小池家文書「国分寺太平釘図」に記録されている。寛政3年(1791年)、大風で吹き倒されてから31年後に建てられたのが現在の三重塔である。昭和27年、本堂の解体修理をする際床下を発掘調査して礎石と玉石を確認しているが、桁行7間、梁間4間の金堂建物と推定されている。金堂と心礎の位置関係は推定の域を出ない。ちなみに、昭和63年辻ヶ森三社境内で発掘調査がなされ、高さ1メートルの版築基壇上に桁行7間、梁間4間の金堂建物礎石列が発見された。国分寺と国文尼寺金堂が確認されたことにより、奈良時代における飛騨の歴史が大きく判明した。

17:00関市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

4日7:30車で出発、長野方面に向かう。

光前寺:光前寺の開山は貞観2年(860)不動明王を御本尊として、本聖上人によって開かれたそうです。三重塔は、南信ではこの光前寺にあるものが唯一の塔で、文化5年(1808)に再建されたものです。高さは約17m。非常に良く均整がとれており、県の有形文化財(県宝)に指定されています。 光前寺はかつて、戸隠山、善光寺、更級八幡神宮寺、 佐久津金寺とならぶ“信濃五大寺”の一つとして数えられていた天台宗の大寺です。その寺領は、現在でも県下随一の広さを誇り、巨木に囲まれた寺領には弁天堂・山門・客殿・庫裏・本堂・三重搭が立ち並んでいます。また、庭園は国の名勝に指定され、参道の石垣の隙間には珍しい光苔も自生するなど、見所の多いこの光前寺には、毎年大勢の観光客が訪れています。

大法寺:大法寺三重塔は、正慶二年(1333年)に建てられました。和様の建築様式が正確に守られ、奈良や京都の建築物にそん色しない美しさを持つこと、周囲の風光との調和が美しさを際立たせていることなどから、国宝に指定されております。 訪れた人がふり返り塔を眺めたことから「見返りの塔」の名でも親しまれており、日本一美しい塔とされております。

前山寺:塩田平の南方、東前山の集落の山麓にあるのが有名な前山寺です。今この寺にはりっぱな三重塔があり、その三重塔や本堂などをとりまく自然がすばらしいので、いつもたくさんの参詣客で賑〔にぎ〕わっています。前山寺の創建は何時のことか分かりませんが、今から600年ばかり前に、四国の讃岐〔さぬき〕(香川県)の善通寺〔ぜんつうじ〕(弘法大師の生まれたところ)から、長秀上人という偉〔えら〕いお坊さんがやってきて、この寺を大きくしました。そのころのこの地方の一番の勢力者は、塩田城(お寺のすぐ西側の谷向こうに遺跡が残る)を守っていた村上氏(坂城)であったといいますから、もともと前山寺は塩田城の祈願寺(安全を祈る寺)という性格をもっていたものと考えられます

信濃国分寺:今から1200年ほど前、朝廷は信濃とか越後とかいう国々に国分寺(僧寺と尼寺があった)という寺を建てさせ、国家の平和を祈らせました。信濃の国では上田市の東方、今の信濃国分寺資料館のまわりに建てられたのですが、その大きさは、今の「しなの鉄道」の線路をこえて、はるかに南の方まで拡〔ひろ〕がっていました。すばらしく大きな建物でしたが、建ててから300年位の間に、この地方の戦いや災害によって、すっかり姿を消してしまいました。その後、この地方の人々の心からの願いによって、国分寺は再び建てられることとなりました。場所は一段高い土地につくられ、三重塔まであるりっぱな寺ができました。薬師如来をお祀〔まつ〕りしましたので、土地の人は薬師堂と呼んでいました。しかし、国分寺であったころから、毎月八日の日に和尚さんが、お経を上げることになっていましたので「八日堂〔ようかどう〕」ともいわれました。とくに正月の八日にはお参りする人々がたくさんありましたので、今では上田の「八日堂」といった方がよく知られています。

安楽寺: 国宝指定、昭和27年3月29日、文化財保護法の規定により「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝」として国宝に指定された。塔は本堂の裏を登った山腹にあり(別掲全景写真参照)松の緑に映えて、重厚なたたずまいがどっしりと空間を支えている。建立年代は従来鎌倉末期、または室町初期といわれ定説がないが、安楽寺が鎌倉北条氏の外護によって栄えた寺で、開山が入宋僧、二世が中国よりの帰化僧であり、共に北条氏との交渉も深いので、北条氏滅亡後、これほど立派な塔婆の建立の契機を考えにくいことなどから、寺運の最も栄えた鎌倉時代末期に建てられたものと思われる。建築様式は禅宗様(鎌倉時代に宋から禅宗に伴って伝来した様式で唐様(からよう)ともいう)八角三重塔で、初重に裳階(もこし)(ひさしまたは霜よけの類)をつけた珍しい形式であるうえに細部もまた、禅宗様の形式からなり類例が少ない。内部は8本の母屋柱によって、内陣と外陣(げじん)とに分かれ、周囲を外陣とし、化粧屋根裏をあらわし、八角形の内陣は高床を張り、天井は中央に点蓋をつり、その周囲に小天井を張ったあまり見られぬ形式である。内陣には建立当時の八角の仏壇をおくが、この形式もまた珍しいものである。塔は印度のスツーパを起源とし、元来仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安したものだが、中世以降は特定の人物または戦死者の供養に建てられた例が多い。資料が乏しく造塔の起源は詳かでないが、この塔もおそらくそのような目的で建てられたものと思われる。内外共に巧みな意匠と、類例の少ない形式よりできているこの塔は、西大寺(奈良)法勝寺(京都)などの八角塔婆が失われた今日、わが国に残された唯一の八角塔婆であり、かつ、禅宗寺院に残る塔婆としても極めて貴重な遺構である。

新海三社神社:新海三社神社は、その創建は不詳ながら、興波岐命(おきはぎのみこと)を主神として東本社に祀り、その父神・建御名方命を中本社に、伯父神・事代主命を西本社に祀ります。特に興波岐命が、新開神(にいさくのかみ)とも称されることにより、「佐久」の地名の由来ともいわれるほか、諏訪湖の御神渡の「佐久の渡」は、興波岐命が湖上にて父神とご参会された跡とされています。古来佐久三庄三十六郷の総社と言われた新海三社神社は、広大な社地を有し、境内の古墳からは蕨手刀(わらびてとう)が出土や、武神としても崇敬あつく、源頼朝による社殿の修理再興の口碑、武田信玄が箕輪城攻めの際における戦勝祈願の願文も残されています。入口の大きな鳥居をくぐると遠くに大ケヤキと大スギが立ち並ぶ参道が暗い影を落としています。その先の石段を上ると、拝殿が正面に見え、その脇には神楽殿があり、非常に静かな佇まいは、とても落ち着いた雰囲気を感じさせてくれます。拝殿と神楽殿は共に木造の簡素な装飾で、大きな社叢の中に静かに鎮座しているように見えます。拝殿後方には、西本社、中本社、東本社の三つの社殿が並んで建っており、素木で作られた拝殿の質素な雰囲気とは一変し、西本社と中本社は朱と彫刻が見事な流造となっています。また、西本社と中本社の間には、御魂代石(みたましろいし)の石幢(せきとう)があります。一番右の東本社は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)・桧皮葺(ひわだぶき)で、母屋の柱貫木鼻(はしらぬききばな)の笹模様などに時代的な特徴が示され、国の重要文化財に指定されています。当社の奥には、室町時代末の永正12年(1515年)の建造物で、東社と共に国の重要文化財として指定された三重塔があり、その建築様式は三間三重塔婆(さんけんさんじゅうのとうば)・柿葺(こけらぶき)で、禅宗様と和様を折衷した建築当時の特性をよく示しています。

平和観音:湯田中駅から徒歩約25分。温泉街からも近い山のふもとの平和の丘公園に「世界平和観音」はあります。正式名称は「世界平和聖観世音菩薩」。温泉街をやさしい眼差しで見守っています。なんといっても驚くのはその大きさ!重さ約22t、高さは約25mにもなります!現存する金属製立像では東洋一の大きさと言われています。この観音像、実は2代目。昭和初期にこの場所に33mの「聖観音菩薩」が建立されましたが、数年で戦争のために台座を残して解体されてしまったそうです。その後10年以上たってから再建の声が高まり、昭和39年世界平和の祈願をこめて再建されたのが現在の「世界平和観音」なのです。

山梨経由して静岡方面に向かう。

大石寺:日蓮正宗の総本山で富士五山の一つ。国指定重要文化財の五重塔や県指定有形文化財の三門・御影堂など古い木造建築などが建ち並び,訪れる信者が多い。

18:00清水市内ホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

5日17:30車で出発

井川大仏:歯科医の佐藤平一郎氏ご夫妻が、60年間の健康に感謝をこめて4年かけて作った大仏です。高さ11m、昭和55年11月1日に開眼しました。春と秋に大仏祭が行われてます。歯にご利益があると言われています。2018年に改修工事が行われ、建立当時の美しさを取り戻しました。

油山寺:油山寺は大宝元年(701年)、行基によって創建されたと伝わる。 749年には孝謙天皇が、 眼病平癒のために寺内の「るりの滝」で眼を洗浄したら全快したので、勅願寺に定められたという。
 この三重塔は、1572年の兵火により寺院が焼失した後、1574年から再建を開始されたものだが、工事には長い年月を費やされたことで 知られ、完成したのは慶長16年(1611年)のことである。

愛知方面に向かう。

三明寺:三明寺は寺伝によれば大宝2年(702)の創建で、南北朝時代に禅宗として復興されたという。現存する三重塔は解体修理の際に発見された墨書により享禄4年(1531)の建立であることが知られる。初層は三間四方で四周に縁を廻らし、柱間には四面とも長押を通して、中央間に桟唐戸を吊り、両脇間には目透しの無い連子窓(れんじまど)を設ける。柱上の組物は手先が三つ前へ出る三手先斗で、前方斜め下へ突き出る尾垂木が付く。内部には来迎柱を二本立て、前に須弥壇(しゅみだん)を置く。二層目は手摺の先端を刎ね上げた刎高欄(はねこうらん)付きの縁を廻らし、初層同様の組物を載せ、和様で統一する。三層目は擬宝珠高欄付きの縁を廻らし、柱には上部を細く丸めた粽(ちまき)を付け、柱上には厚板状の横材である台輪(だいわ)を載せて禅宗様の尾垂木付き三手先斗を置く。軒も初層・二層は平行垂木であるが、三層目は放射状の扇(おおぎ)垂木とし、和様と禅宗様を層によって使い分け、外観に変化を付けた美しい塔である。(

刈宿の大仏:西尾市の常福寺(じょうふくじ)は、長徳年中(995~998)に源満国が母の菩提のために建てた天台宗寺院が始まりとされ、現在は浄土宗西山深草派に属しています。本堂には平安時代の不動明王立像(市指定文化財)が安置されています。
境内には、この界隈のランドマークとして親しまれている「刈宿の大仏(かりやどのおおぼとけ)」というコンクリート製の大仏さまが鎮座しています。昭和初期に、海難者の冥福を弔うのと、漁師の安全を祈願し建立されたもので、そのため大仏さまは海の方角を向いています。台座を含めた高さは約14m。像内へ入って胎内めぐりをすることもでき、内部には阿弥陀如来像が祀られています。

聚楽園大仏:名鉄聚楽園駅から見上げると、森の中から顔を出す大仏。1927年に、昭和天皇のご成婚を記念して開眼供養されました。高さは18.79メートルもあり、奈良や鎌倉の大仏よりも大きい大仏です。一帯は東海市指定文化財に指定されており、市のシンボルとしても多くの人に親しまれています。
大仏は高台にあるので、周りの景色を見渡すと、製鉄所などの立ち並ぶ風景や東海市の街並みも一望できます。

愛宕山厄除弘法大師:退養寺の東隣に建つ高さ10メートルほどの巨大な弘法大師像。愛宕大師とも。浅野祥雲作。昭和6年(1931年)に瀬戸電気鉄道が鉄道利用者の増加を狙って観光用に作ったもの。

興正寺:寺は、八事山と云い、高野山真言宗の別格本山である。貞享3年(1686)に高野山から移った天端円照によって開かれ、貞享5年(1688)2代尾張藩主徳川光友の許可を得て伽藍を建立したという。境内は広大で、東西2山に別れ、東山は高野山の奥院を擬して、尾張高野ともいわれる。西山は、南から総門、中門、五重塔、本堂を中心軸状に並べた伽藍配置をとる。五重塔は文化5年(1808)に建立されたもので、大工は森甚六辰清であった。五重塔は初重柱間3.94m、総高26.34mの中規模な塔婆である。この塔は、上層にあがるほど屋根が小さくなる逓減率(ていげんりつ)の割合が低く細長い、塔身の長さに対して相輪が短いなど、外観の比例に江戸時代後期の特徴がみられる。塔全体は装飾をひかえた和様でまとめられ、組物は三手先、中備には初重が蓑束(みのづか)、二重以上では撥束(ばちづか)をのせ、二重・三重目と四重・五重目の高欄の形式を変えるなどの工夫もみられる。心柱は初重の心礎上から立ち上がり、初重の内部や組上げ構造には古風な手法が残っている。四天柱間には、仏壇を設けて四面に金剛界四仏を配し、心柱に穴を穿(うが)って本尊大日如来が祀られている。県下では唯一の五重塔である。(

甚目寺:甚目寺は尾張四観音の一つで、現在は真言宗に属する古刹である。現存する三重塔は寛永4年(1627)、東門は寛永11年(1634)の建立とされる。
三重塔は各層とも三間四方で柱は全て円柱、屋根は本瓦葺である。初層には擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)を付けた縁を廻らし、東側の正面中央に5段の木階(もっかい)を設ける。二層目・三層目の縁には先端を刎ね上げた刎高欄(はねこうらん)を付す。各層ともに四面の柱間は中央を両開き板戸、脇間を目透かしの無い連子窓(れんじまど)とする。また柱上の組物も各層とも手先が三つ前に出る三手先斗(みてさきときょう)を用い、斗には斜め下前方に突出する尾垂木(おだるき)が付く。
江戸時代の建立でありながら和様の伝統を遵守した優美な三重塔である。
東門は二本の主柱の前後に四本の控柱が付く四脚門(しきゃくもん)で、切妻造、銅板葺、主柱・控柱とも円柱の大型で雄大な門である。(

布袋大仏: 本尊の御嶽薬師尊は誓願をすると病気を除き、不具を癒し、悟りへの道に到達するといわれています。
 開祖は布袋町在住の故前田秀信氏で体が弱かったこともあり、御嶽薬師尊を信仰され、名古屋市内で鍼灸医を開業、評判がよく多くの人が詰めかけたという話です。四十三歳のとき夢のお告げがあり、人々を病気の苦難から助けようと建立を決意されました。そこで、後の世の人々に立派なものを残したいと願い、御嶽薬師尊を勧請し、私財を投げうって教会を開くことになりました。ときは昭和二十四年で終戦の直後、生活は困窮を極め、生きることがやっとの時代でした。その年に地鎮祭を行い、完成まで実に五年の歳月を費やし、すべてが手作業で整地やコンクリート練りが行われ、昭和二十九年三月二十四日に開眼、その日を記念し毎年春季大祭日とし賑わっています。御嶽薬師尊は「布袋の大仏」の愛称で親しまれ、高さが十八メートルあります。

岐阜方面に向かう。

佐吉大仏:佐吉大仏は、美濃の聖人永田佐吉翁によって、宝暦9年(1759)に建立された青銅の釈迦牟尼仏です。諸国巡礼の旅先で大病にかかった佐吉翁が、神仏に祈り全快したことを感謝して建立したと伝えられています。仏像の高さは、石の台座を含め全体で4.9m、台座の周りは8.3m。作は、江戸の鋳物師 西村和泉守藤原政時です。御堂は明治24年(1891)の濃尾震災で焼失し、現在の御堂は昭和37年(1962)に再建されました。佐吉大仏は背中に扉がついており、胎内が空洞になっています。これは胎内に経典などを納めるために使われたもので、希望者の方は胎内に入ることが可能です佐吉翁は、江戸時代中期の美濃の国羽栗郡竹ヶ鼻村の出身です。佐吉は慈悲の精神、至高の親孝行、匿名で行う数々の社会奉仕など、その徳の素晴らしさにより、地域の尊敬を集めてきました。また、「美濃聖人」と称せられ、二宮尊徳などと同様に、国定教科書に採用された偉大な人物です。佐吉翁の墓は竹鼻町の本覚寺にあり、多くの方がお参りに訪れます。

岐阜大仏:日本三大仏の一つに数えられるこの大仏は乾漆仏としては日本一の大きさを誇ります。天保3年4月(1832年)に、実に38年の歳月を費やして完成しました。堂の高さ25.15m、廻り19.39m、仏像は坐像で、高さ13.7m、耳の長さ2.1m、鼻の高さ0.4m。大イチョウを直柱として、骨格は木材で組み外部は良質の竹材と粘土で造られ、その上を一切経で糊張りし漆を塗り金箔を置いたものです。胎内には薬師如来がまつられています。
私たちに微笑みかけられているようなそのやさしい表情と荘厳さ、そして静寂な大仏殿の中はまさに癒しの空間です。

新長谷寺:1222年(貞応元年)後堀河天皇の勅命により、空海の四世護認上人が開山したという。 その後2度の焼失があったがその都度再建される。現在の堂塔はほとんどが室町時代~江戸時代建立のものである。 この三重塔は、二階堂出羽守行藤の息女理秀尼により、徳治2年(1307年)に建立されたと伝えるが、火災で消失。現在の三重塔は、寛正4年(1463年)に再建されたものである。

日吉神社:日吉神社境内にある国の重要文化財の三重塔は、収蔵庫にある重要文化財の十一面観音坐像・地蔵菩薩坐像、本殿前にある県重要有形民俗文化財の百八燈明台などとともに、現在も神仏習合の名残りを留めている。この三重塔は、室町時代後期の永正年間(1504年~1521年)に斎藤利綱(としつな、守護代斎藤家の一族、室町・戦国時代の武将、歌人)によって建立されたと伝えられている。その後、天正13年(1585年)稲葉一鉄(戦国・安土桃山時代の武将)が修造したことが現存する棟札で知られる。江戸時代の文政5年(1822年)に修理が行われ、明治になってからも明治24年(1891年)の濃尾地震で相輪(棟の最上部にある金属で作られている部分)に被害が生じ、明治30年(1897年)に修理を行った。大正13年(1924年)4月17日、文部省告示第85号で古社寺保存法第4条の「特別保護建造物」としての指定を受けた。この時の指定説明によると、「斗?(ときょう、建築物の柱上にあって軒を支える部分)其他ノ手法頗(すこぶ)ル雄大ナリ」とあり、構造形式は「三間三層塔婆、?葺(こけらぶき、木材を細長く削りとった板で葺いた屋根)」としている。なお、昭和4年(1929年)に国宝保存法ができると、「特別保護建造物」は「国宝」となり、さらに、昭和25年文化財保護法が制定され、「重要文化財」となった。昭和17年から21年にかけて国庫補助による半解体修理が行われ、その際屋根が檜皮葺(ひわだぶき、檜(ひのき)の樹皮で葺いた屋根)に改められた。その後、昭和36年屋根葺替修理、37年災害復旧による部品修理、平成6年(1994年)左義長の時の火災による被害修理、11年には前年の台風7号による被害修理、そして22年の落雷による被害修理、このように多くの災害を乗り越え、人々の努力によって三重塔は歴史遺産として現在に伝えられている。

真禅院:真禅院の前身は、天平11年(739年)に行基により創建された『象背山宮処寺』であるという。 後に最澄によって南宮神社と習合されて寺号を『神宮寺』と改めた。この三重塔はもともと、天平13年(741年)建造で、関ヶ原合戦で焼失したが、徳川家光によって1642年に再建されたものである。 相輪が非常に長いため、三重塔としては屈指の高さ25.4mを誇る。 真禅院は他に、平安中期以前に造られた梵鐘を有するなど、美濃地方屈指の歴史を持つ寺院である。

18:00彦根駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。


6日11:00滋賀県を巡る。

大観音寺:「南無開運寶珠大観世音菩薩」と一心称名し観音様の周囲を一巡すると、十徳の利生があり、三度巡ると観音さまが影身と添ってその人を守護し、悪事災難の身代わりをされ、貧者には福を授け、病気の者は健康にし、子供のない者には子供を授け、運を開き、福を授けて下さる救世大慈悲の有難い観音さまです。

西明寺:湖東三山の一つに数えられる天台宗の寺。平安時代、仁明(にんみょう)天皇の勅願により三修上人が開山したと伝えられます。戦国時代には兵火のため荒れ果てていましたが、江戸時代中期に望月友閑(もちづきゆうかん)によって再興されました。
 門をくぐると参道が続き、山坊跡の石垣が散在しており、平安、鎌倉、室町時代を通じて祈願・修行(しゅぎょう)道場として栄えたことがうかがわれます。幸い織田信長の兵火を免れ、飛騨(ひだ)の匠によって建立された本堂や三重塔や二天門が残されています。
 本堂は、鎌倉時代初期に建立された建造物で、釘を一本も使わない純和風建築です。鎌倉の様式がよく保存され、国宝第一号に指定されています。
 本堂の右方に立つ三重塔は、総檜(そうひのき)の優美な姿の塔といわれ、初層内部に極彩色で金剛界の三十二菩薩など鎌倉時代の極楽浄土が描かれています。本堂と同じく釘を一本も使わない純和風建築で、国宝に指定されています。正面両脇に増長天(ぞうちょうてん)、持国天(じこくてん)を祀る二天門は、室町時代に建立され、重要文化財に指定されています。
 また、紅葉の名所としても有名ですが、不断桜があり、紅葉と桜を同時に見ることができます。

金剛輪寺:鎌倉期に元寇の役の戦勝記念として建立された雄大な本堂は国宝に、左上段に建つ三重塔、本堂前の二天門は重要文化財に指定されております。本堂内の不動明王立像他十躰はいずれも鎌倉初期で重要文化財、間近に拝むことができて見事なものです。

長命寺:市の北西端、長命寺山(333m)の標高約250mの山腹にある寺院。西国三十三カ所第31番札所で、「八千年や柳に長き命寺、運ぶ歩みのかざしなるらん」という詠歌のとおり、「寿命長遠」の御利益があるとされています。3世紀後半から4世紀初頭の景行天皇の時代、武内宿禰(すくね)がこの山で長寿を祈ったといい、開基は聖徳太子と伝えられます。
 平安時代前期に寺院の基盤ができたと考えられており、その後、近江守護佐々木定綱(さだつな)が戦死した父の菩提を弔うために、平安時代後期に本堂をはじめ、釈迦堂・薬師堂・太子堂・護摩堂(ごまどう)・宝塔・鐘楼・仁王門などを建立しました。現在の社殿は戦国時代中期に兵火で焼失したあと再建されたものです。
 湖岸のそばから808段といわれる長い石段を登ると、諸堂の屋根の線が美しく重なりあっています。千手観音を本尊とし、聖観音・十一面観音・毘沙門天など多くの国指定の重要文化財が安置されており、その他、建造物のすべてが県あるいは市の指定文化財になっているという由緒ある寺院です。四季を通じて多くの参詣者が全国から訪れ、湖辺近くの山腹風景も美しいです。

常楽寺:奈良時代中期に良弁(ろうべん)が開いた「阿星山五千坊(あぼしやまごせんぼう)」の中心であり、平安時代初期には長寿寺とともに歴代天皇の尊崇が厚かったといいます。
 山門に続く広い境内の木立の参道の奥に、国宝指定の和様の大きな本堂がどっしりと立ち、古寺らしい落ち着いたたたずまいを見せています。現在の本堂は、南北朝時代に再建されたもので、中央には秘仏の木造千手観音坐像が安置されています。また、本堂横の石段を登ると、すぐれた形姿の三重塔があり、背後の樹林が美しい調和を見せています。
 寺宝である仏涅槃図(ほとけねはんず)や源信(げんしん)が描いたといわれる浄土曼荼羅図(じょうどまんだらず)、良弁が愛用したと伝えられる錫杖(しゃくじょう)などは、いずれも国指定の重要文化財で、建造物・彫刻・絵画・工芸品と多彩な古文化財が多くあります。

園城寺:園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。一般には「三井寺(みいでら)」として知られる。
「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺では一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

石山寺:石山寺(滋賀県大津市)の多宝塔は、鎌倉時代の建久5年(1194年)に建立されたもので、建築年が明確なものとしては日本最古の多宝塔。もちろん国宝に指定されています。和歌山・金剛三昧院(こんごうさんまいいん)多宝塔、大阪・慈眼院(じげんいん)多宝塔に並び、日本三名塔のひとつにも数えられています。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、近畿・北陸・甲信越・東海地方に位置する京都府、福井県、石川県、富山県、岐阜県、長野県、山梨県、静岡県、愛知県に点在する大仏、古墳、塔50ヶ所(岩船寺、浄瑠璃寺、海住山寺、宝積寺、醍醐寺、教王護国寺、方広寺大仏、清水寺、法観寺、金戒光明寺、仁和寺、智恩寺、金剛院、明通寺、那谷寺、ハニベ巌窟院、加賀大観音、妙成寺、新湊弁財天、高岡大仏、飛騨国分寺、光前寺、大法寺、前山寺、信濃国分寺、安楽寺、新海三社神社、平和観音、大石寺、井川大仏、油山寺、三明寺、刈宿の大仏、聚楽園大仏、愛宕山厄除弘法大師、興正寺、甚目寺、布袋大仏、佐吉大仏、岐阜大仏、新長谷寺、日吉神社、真禅院、大観音寺、西明寺、金剛輪寺、長命寺、常楽寺、園城寺、石山寺)を訪れ楽しみました。  

今回もコロナウイルスの影響で外出自粛規制、あえて行動し、高速道路、観光地、ホテルがらすき、飛沫感染、接触感染を避け、免疫を上げて移動しました。 







 































 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十一弾:奈良県・和歌山県・大阪府、大仏・古墳・塔観光
2020年4月28-30日
   

近畿地方の奈良県、和歌山県、大阪府に足を運び、奈良県、和歌山県、大阪府に点在する大仏・古墳・塔38か所(霊山寺、薬師寺、興福寺五重塔、興福寺三重塔、奈良大仏、法起寺、法隆寺、百済寺、當麻寺東塔、當麻寺西塔、南法華寺、談山神社、室生寺、箸墓古墳、黒塚古墳、東殿塚古墳、ホケノ古墳、石舞台古墳、岩谷古墳、野口王墓古墳、鬼の俎、雪隠古墳、飛鳥大仏、壷阪寺、金剛三味院、金剛峯寺、長保寺、根来寺、青岸渡寺、慈眼寺、金剛寺、叡福寺、勝鬘寺、大山古墳、誉田御廟山古墳、軽里大塚古墳、四天王寺、如意寺、石切大仏)を訪れました。

28日12:30車で出発,奈良方面に向かう。

霊山寺:三重塔、三間三間の桧皮葺、総高17メートルの小塔で弘安6・7年(1283・1284)頃の建立と推定される。鎌倉期の純和様式で、各重中の間板扉、両脇の間連子窓、組物もよく整ったその姿勢は華麗である。初重内部全面に巨勢金岡筆と伝わる極彩色の壁画(非公開)がある。

薬師寺:東塔、薬師寺で唯一創建当時、1300年前より現存している建物で、平成21年より解体修理が始まり、令和2年の春に修理が完了します。落慶法要・落慶慶賛法要が行われます。

興福寺五重塔:塔の高さは50.1メートルに及び、日本の仏塔としては京都、東寺の五重塔に次ぐ規模を誇り、奈良県内における建築物の中でも最も高い建築物の一つとなっています(創建当初の塔は45メートルほど)。
また、初層(1階部分)部分は8メートル四方と、広々とした空間となっており、興福寺にあるもう一つの塔「三重塔」と比べると非常に大きな建築物となっています。
建築様式としては、現在の塔が室町時代に再建されたものであるため、中世らしい豪快さを持ち合わせた建築となっていますが、軒の出に深みがあるなど奈良時代の創建時の五重塔の様式を随所に残した復古主義的なものにもなっています。
ちなみに、外から見ると五重塔は、5つの層(階)に分かれているように見えますが、実際に内部から見ると、初層(1階部分)を除いては全くの「空洞」になっており、中心に伸びる「心柱」という巨大な柱を軸とする形で、5層(階)部分まで吹き抜けの空間になっています。

興福寺三重塔:奈良で最も有名なお寺である「興福寺」。「興福寺」と言えば、多くの人が思い浮かべるのは、京都の「東寺」と並んで重厚で壮大な姿を見せる存在である「五重塔」。奈良市内の各地からも見える存在は、観光客にとっても奈良市民にとっても大変親しみのある存在としてよく知られたものとなっています。しかし、興福寺には、実はもう一つ立派な「塔」があるのです。それが、お寺の西側にひっそりと佇む「興福寺三重塔」。
こちらは「三重塔」と言うからには、五重塔ほどの規模はありませんが、高さは約20メートルに達し、重厚な本瓦葺の建築は十分な迫力と美しさを漂わせる存在となっています。

奈良大仏:聖武天皇は、政変や反乱などが相次ぐ当時の社会不安を、仏法の力によって解消しようと(鎮護国家思想)、全国に国分寺の創建を推進する一方、大仏造立を発願。 東大寺の本尊として世界最大の金銅仏、盧遮那仏(るしゃなぶつ)の造営が始まり、天平勝宝4年(752年)に開眼法会が盛大に行われました。
毘盧遮那(ビルシャナ)=サンスクリット語のヴァイローチャナの音訳で、太陽・光明の意、華厳経の教主です。平安時代の密教で宇宙の根本仏とされる大日如来は、ビルシャナ仏から展開した仏です。

法起寺:法起寺は別名、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれており、平成5年に法隆寺とともに、世界文化遺産に登録されました。この寺は、推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられています。創建の由来については『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘によって判明します。それによると、推古30年(622)2月22日、聖徳太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したといわれています。その後、舒明10年(638)に福亮僧正が聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武14年 (685)には恵施僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)3月に塔の露盤を作ったとされています。

法隆寺:日本最古の塔である五重塔は、五重目の軸部が初層の半分の大きさになっており、これに深い軒の出が相まって安定感を与えています。その軒を雲肘木が優しく支えて、見る人を飽きさせません。
心柱の下にある心礎には、仏舎利が納められています。

百済寺:高野山真言宗の寺院です。「日本書紀」によると、639年に聖徳太子が平群郡に建立した熊疑精舎をこの地に移して「百済大寺」と名付けたとされています。戦火により皇極天皇が再建しますが、現在の三重塔(重要文化財)は鎌倉期の建築です。また天武天皇の時代に、伽藍を高市郡に移し、大官大寺と称したとされます。本堂内陣には本尊・毘沙門天が祀られています。

當麻寺東塔、當麻寺西塔:奈良は藤原京の西、日が沈む位置にあることから太古より聖なる山として崇められていた二上山(ふたかみやま)。その麓に位置する當麻寺は、当地の有力豪族である当麻氏の氏寺として、長い歴史を歩んできた古刹である。聖徳太子の義母兄弟である麻呂子親王(まろこしんのう)が612年に建立した万法蔵院(まんぽうぞういん)を起源に持ち、後の681年に、麻呂古王の孫にあたる当麻国見(たいまのくにみ)が現在の位置に移したとされる當麻寺は、長大なる歴史を有する寺院だけあって、その境内には貴重な建造物や寺宝が数多く残されている。中でも、対で残る古塔としてただ唯一の例である東塔と西塔は、個々の古塔としての建築的価値と相まって、それぞれ国宝に指定されている。

南法華寺:伝承によれば大宝3年(703年)に元興寺の弁基上人により開かれたとされる。 三重塔は、明応6年(1497年)に竣工したとされており、宝永7年(1710年)に大修理が行われたという。

談山神社:室町時代(重要文化財 )父・藤原鎌足の追福のために、長男・定慧と次男・不比等に よって西暦678年に建立されました。 現存の塔は、享禄5年 (1532)の再建で、木造十三重塔としては、世界唯一のものです。 唐の清涼山宝池院の塔 を模して建てられたと伝えられています。 高さは約17メー トルあり、屋根は伝統的な檜皮葺きです。 神仏混淆時代の名残であると同時に、談山神社のシンボル的な存在です。


室生寺:奈良時代末期、この地で皇太子山部親王(後の桓武天皇)の病平癒の祈願が、興福寺 の五人の高僧によって 行われ、これに卓効があったことから、勅命により、興福寺の賢璟によって室生寺の開基となった。 賢璟が793年に没した後は、 弟子の修円に引き継がれ造営された。 この室生寺で最も古い建造物と見られるのが、この朱塗りの五重塔で、800年頃の建立、つまりは修円が 造営中に建立されたものと思われる。 屋外にある日本の木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎ2番目に古く、江戸時代以前に建立された屋外の木造五重塔では、日本最小である。

18:00樫原駅付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
29日7:30車で出発

箸墓古墳:陵墓「大市墓」。奈良盆地の東南部、箸中微高地上に築造された全長約276mの前方後円墳。
墳丘の詳細な調査は行なわれていないが、後円部径約156m・高さ約26m、前方部幅約130m・高さ約17m、後円部5段・前方部4段築成と考えられている。表面には葺石が確認されているほか、特殊器台形埴輪や二重口縁壺の破片などが採集されている。墳丘周辺部では桜井市教育委員会や奈良県立橿原考古学研究所などによる発掘調査が行われており、周濠や外堤、墳丘と外堤を結ぶ渡り堤が確認されている。採集された埴輪や周濠部で出土した土師器などから、前方後円墳としては最古級にあたる3世紀中頃~後半の築造と推定されている。

黒塚古墳:全長約130mの前方後円墳。大和古墳群にある。平成9(1997)年8月から発掘調査が開始され、後円部中央の竪穴式石室から、1面の画文帯神獣鏡や33面の三角縁神獣鏡などの副葬品が完全な形で出土した。一つの古墳からの三角縁神獣鏡の出土数としては全国最多である。三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から贈られたとされる「卑弥呼の鏡」と呼ばれるもので、大和の中心部で見つかったのは初めてであるだけに、邪馬台国論争を左右する重要な手がかりになるものとして、注目を集めている。築造は3世紀後半から4世紀前半頃で大和政権の有力人物の墓と推測されている。

東殿塚古墳:萱生町・中山町に所在する全長139メートルの前方後円墳です。基底部の長方形区画は全長175メートルの規模があります。1997年におこなわれた発掘調査では、周濠と周堤帯がみつかりました。この調査では埴輪祭祀の遺構が見つかり、埴輪が多量に出土しました。3世紀後半に築造された古墳時代前期前半の古墳と考えられます。

ホケノ古墳:全長90メートル、後円部径60メートル、高さ8.5メートルの纒向型の前方後円墳で、周濠が確認されている。大神神社は、この古墳を豊鋤入姫の墓に比定している。現在は、古墳の葺石や前方部の埋葬施設等が復元されている。
3世紀中頃に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の一つです。古墳は東方より派生した緩やかな丘陵上に位置し、古墳時代前期の大規模集落である纒向遺跡の南東端に位置します。

石舞台古墳:国営飛鳥歴史公園内石舞台周辺地区の中央に位置するわが国最大級の方墳です。墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈しているという独特の形状です。天井石の上面が広く平らで、まるで舞台のように見えるその形状から古くから「石舞台」と呼ばれています。30数個の岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンとかなりの重量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれます。被葬者は明らかではありませんが、7世紀初頭の権力者で、大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父でもある蘇我馬子の墓ではないかといわれています。

岩谷古墳:墳丘は完全に残った一辺がない為確定できないが上八角下方墳の可能性があり下段の一辺が45mとすれば当時としては最大クラスの古墳となり被葬者として斉明天皇の可能性もでてくる(河上邦彦氏)
石室内の石材は全て切石加工された日本でも最も精美な石室のひとつであり「岩屋山式石室」の標識となっている。尚、目地の漆喰は後世のもので築造時からあったのかは不明。
石室入口の天井部分に幅8cm、深さ5cmの窪んだ溝があり一般的には閉塞の施設とする考えもあるが河上邦彦氏は床部分に何もない事や雨の日の実見で「雨水が石室内に入り込まないようにする水切りの為」との説を提起されている。
羨道の奥の部分の天井石が一段低くなっている。これは羨道を長く見せようとする遠近法を利用したという説と羨道を前後に仕切る施設があったのでは?との説がある。
調査時に玄室(玄門付近)から径1m、深さ0.8mの穴が見つかり中には砂利が詰まっていた。つまりは排水用の集結穴で排水と湿気抜きの設備であった。

野口王墓古墳:天武・持統天皇が埋葬された陵墓として宮内庁が管理している。同庁が公表した復元案によると、墳丘は八角形で5段構造となっていて、最下段は1辺約15m・対角辺約40m、全体の高さは約7.7mを測る。墳丘全体を凝灰岩の切石で覆われ、最上段は高さ約3mと他の段より高く、仏塔のような構造だったと推定されている。1235(文暦2)年に盗掘されたことが複数の文献に残されているが、京都・高山寺で発見された『阿不幾乃山陵記』によると、埋葬施設は横口式石槨とみられ、漆塗りの木棺や骨蔵器が納められていたという。7世紀後半の築造。陵墓名・檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)。

鬼の俎、雪隠古墳:欽明陵の近くの道路をはさんで別々に置かれている巨石二つのことで、上にあるのを爼、下のを雪隠という。これは古墳の石槨の底部と蓋がバラバラになったもので、欽明陵の陪塚の一つが崩れ落ちたものと推測されているが、一方では未完成のまま放置されたものとの説もある。呼び名の方は、昔旅人が、この辺りにさしかかると霧がかかり、行き悩んでいる所へ鬼が現われ、旅人を爼の上で料理したのち、下の雪隠で用を足したという伝説から来ている。

飛鳥大仏:御本尊の「釈迦如来坐像」は、銅製で国の重要文化財に指定されています。605年(推古天皇13年)、時の天皇が聖徳太子や蘇我馬子や皇子とともに発願し、鞍作鳥(百済の仏師)によって造られた日本最古の大仏。
こちらの大仏様は、高さは約3メートルで銅は15トン、黄金30キロを用いて造られました。他所の大仏様と比較すると小ぢんまりとしてるのですが、大きさとは違った迫力を感じられます。
奈良の大仏様などと比べると、お顔が少し面長に感じられるでしょう。諸説ありますが、創られた時代が違うことと、当時はまだ国内で仏像を創る技術を持ったものはいなかったとされるため、百済の仏師が渡来して創られたから「百済ならではのテイスト」が入ったではないかと言われています。また、左右それぞれ見る方向により大仏様の表情が違って見えるのです。
平安・鎌倉時代の二度の火事により建造物は焼失しましたが、奇跡的に大仏様は全焼を免れ後に修復を受けました。建造物が再建されるまでの間は野晒しになっていたこともありますが、1400年以上の間、飛鳥の土地に鎮座されています。

壷阪寺:高取城跡から西へ下ったところにある壷阪寺。ここは、大宝三年(七○三年)建立の、古くから観音信仰が盛んに行われた霊場です。平安時代を代表する随筆のひとつ『枕草子』の中で清少納言によって「寺は壷阪、笠置、法輪」と賞賛されるこのお寺は、西国三十三ヶ所めぐりでも六番札所として、今も訪れる人は絶えることがありません。境内にあるのは国の文化財に指定されている礼堂や三十塔、そして天竺渡来の大観音石像。これはインドで壷阪寺が行った社会活動に対し、インド政府より感謝の意を表して贈られた石仏で、延べ八万人の日本とインドの石工によって、四年七ヶ月の歳月をかけて彫りあげられました。この壮大なスケールの観音様は、石像としては世界最大の大きさを誇っています。

金剛三味院:高野山の塔頭の一つ金剛三昧院には、1223年に北条政子が源頼朝と実朝を弔うために 造らせた多宝塔が建っています。
非常に繊細な建物で、ディテールも細やか、緻密に作られていて、同じ 高野山壇上伽藍にある西塔と比べると、その優しい表情がよくわかる建物です。
この多宝塔を見ると、奈良興福寺の三重塔を思ってしまいます。 1143年に造られ、1180年に消失、その後直ぐ再建された三重塔は、 崇徳天皇の中宮皇嘉門院が造ったと伝えられていますが、 近くにある五重塔と比べると非常に繊細で鎌倉期の特徴をよく表しています。
どうも女性が発願すると、このような優しい表情になるようです。

金剛峯寺:比叡山延暦寺が伝教大師によって開かれたころ、高野山金剛峯寺が弘法大師空海によって開かれた。
ごく初期の伽藍建築についてはわからない。空海は唐から帰国後、弘仁七年(八一六)に朝廷から寺地を賜わった。
空海の生存中は草庵があった程度のようである。
延暦寺の場合、それぞれの中心建築「中堂」が重要であったが、金剛峯寺ではこのような堂よりも「塔」が中心であった。
空海が示寂したころには宝塔二基が工事中だったというから、これからも塔(多宝塔、その最大規模のものが大造が中心であったことが知られるであろう。空海在世中に大塔・講堂(金堂)・僧房があったとするのは時期的に早すぎるようで、
大塔が完成したのは延喜のころになる。


長保寺:本堂・塔・大門とそろって国宝である寺は奈良の法隆寺と長保寺だけです。
紀州徳川家歴代の廟所があります。約1万坪の広さで、山中に広く展開する廟所は他に例がありません。
藩主廟所は大名墓所としては全国一の規模です。長保寺は長保2年(1000)に一条天皇の勅願によって創建され、鎌倉時代に現在の伽藍の姿が整いました。

根来寺:根來寺(ねごろじ)を開創された覚鑁(かくばん)上人は肥前国藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)で生まれました。13歳で京都・仁和寺の寛助僧正に従い出家得度し、奈良と京都を往復しながら仏教を学び、20歳になると高野山に登り、真言密教の復興に努力しました。
やがて鳥羽上皇の庇護を受け、長承元年(1132)に学問探究の場である「伝法院」、修禅の道場である「密厳院」を高野山上に建立します。同時に根来近郊の岡田・山東・弘田・山崎の荘園と本寺豊福寺(のちに根來寺)を院宣により賜り、覚鑁上人を筆頭とする大伝法院は大いに隆盛しました。
さて、大伝法院・弘田荘、根来には豊福長者(とよとみちょうじゃ)が建てた葛城山系の山岳信仰をおこなう草庵がありましたが、覚鑁上人は、その豊福寺(ぶふくじ)の境内に、末寺の学問所として「円明寺」と「神宮寺」を造られ、康治2年12月12日(1143)に円明寺にて49歳の生涯を閉じられました。
覚鑁上人の入滅後、大伝法院は高野山で発展し十三堂塔が建立されましたが、仁治3年(1242)に焼失。その後、正応元年(1288)頃、頼瑜(らいゆ)僧正が大伝法院の僧侶の教学(学び)の拠点を根来に設けました。
頼瑜僧正の学風は聖憲尊師に受け継がれ「新義教学」として大成しました。中世根来寺は多くの学僧を抱える「学山根来」であったことが、伝えられた多くの聖教史料から近年明らかになりました。当時の根來寺境内を示す「根来寺伽藍古絵図」には、覚鑁上人の法灯を守る法会を営む堂塔伽藍と中性院に代表される教学を伝受する300~400の院家が描かれております。
戦国時代、大きな勢力を備えた根來寺は、当時の様子を書いた宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にも紹介されています。しかし、こうした強大な寺社勢力を危惧した豊臣秀吉は天正13年(1585)3月に紀州根来に攻め入り、大塔・大師堂などの2~3の堂塔を残して全山焼失してしまいました。
その後しばらく復興を許されませんでしたが、やがて紀州徳川家の外護を受けて、大門・伝法堂・不動堂など主要な伽藍が復興され、また、東山天皇より覚鑁上人に「興教大師」の大師号が下賜されました。
現在 根來寺は新義真言宗の総本山として、興教大師の御廟を守り続けております。葛城連峰の端に、広い境内を有し、国宝に指定される日本最大の木造の『大毘廬遮那法界体性塔』(だいびるしゃなほっかいたいしょうとう)通称「大塔」のほか、宗祖 覚鑁上人独自の教学をあらわす大伝法堂には、重要文化財の本尊大日如来(だいにちにょらい)・金剛サッタ(こんごうさった)・尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)を安置しています。本尊三尊像と国宝大塔は興教大師覚鑁が高野山大伝法院に創建したかたちをそのまま根來寺において再興した姿を現し、法灯がうけつがれました。史蹟・根來寺境内は中世の佇まいを残し四季折々桜・青葉・紅葉が変化に富み多くの参拝者の目を楽しませています。


青岸渡寺:那智山は熊野三山の一つ。熊野信仰の霊場として長い歴史がある。もともと那智の滝を中心にした神仏習合の一大修験道場だったが、明治初期に青岸渡寺と那智大社に分離した。今も寺と神社は隣接していて、双方を参拝する人が多い。

17:00泉佐野市のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
30日7:30車で出発

慈眼寺:ご本尊・・・・・地蔵願王大菩薩今をさかのぼること、およそ1400年前三草山清山寺を取り囲む
四十九院の一坊としてこの地に自雲庵という宿坊があった。この宿坊こそ現在の慈眼寺である。
大いなる暦の流れにより、三草山清山寺は焼失(織田の戦火による)してしまったが
神山村の村民の手により、ご本尊(千手観音)は当寺の境内に観音堂としてまつられている。又、この観音様は「娘とオオカミ」というはなし(「まんが日本昔ばなし」)にあるように願掛観音としても知られている。この他にも、能勢町初の画廊として「榧の木画廊」を併設している。

金剛寺:文化財の街として知られる大阪府河内長野市。その中でも、貴重な建築物や仏像など数多く残るのが、奥河内の名刹・金剛寺です。南朝ゆかりのお寺でもあり、境内には史跡も多く、歴史好きな方にもおすすめ。特に、南朝天皇と北朝上皇が同時期に暮らした珍しい場所として知られます。

叡福寺:太子町は二上山の西麓に位置し、周囲3km四方の狭い谷間にある町である。この谷を磯長谷(しながだに)という。この谷には、6世紀後半以降に在位した敏達・用明・推古・孝徳の各天皇の陵とされる墳墓が点在することから「王陵の谷」とも呼ばれている。叡福寺は、この王陵の谷にある聖徳太子の陵とされる北古墳の前にあり、古来より太子墓を守護し奉祀する寺院として建立されたと伝えられている。

大仙古墳:エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、南側の履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約34.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。葺石と埴輪があり埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、鹿、家などが出土しています。

誉田御廟山古墳:所在地は羽曳野市ですが、校区のすぐ東に隣接しています。総長700mを越える巨大な前方後円墳で、応神天皇陵に治定されています。墳丘長は425mで、堺市の大仙古墳(仁徳天皇陵)に次いで2番目の大きさですが、表面積や体積(143万m3以上)では仁徳陵を上回り、全国一の巨大前方後円墳です。古市古墳群の中でも、とびぬけた大きさです。

軽里大塚古墳:別名「前の山古墳」。全長200mの前方後円墳。後円部径106m・高さ20m、前方部幅165m・高さ23m、3段築成で葺石・埴輪・造出しを備え、墳丘の周囲には幅30~50mの濠が盾形にめぐっている。内部構造の詳細は不明。後円部で確認された円筒埴輪列などから5世紀後半の築造と推定されている。景行天皇の皇子・日本武尊が埋葬された陵墓として宮内庁が管理している。陵墓名・白鳥陵(しらとりのみささぎ)。
世界文化遺産(百舌鳥・古市古墳群)、2019(令和元)年登録。

四天王寺:四天王寺の五重塔は593年に創建され、その後幾多の雷、火災で焼失したものの、その度に再興され現在に至っています。現在の五重塔は戦争時の大阪大空襲で焼失したものを1959年にした8代目となり非木造建築物で内部に入ることができます。この五重塔最上階からの眺めはまさに絶景といえる光景です。

勝鬘寺:愛染堂の歴史は、今を遡ること1400年ほど昔の飛鳥時代、西暦593年(推古天皇元年)、聖徳太子は、敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる四天王寺を建立されました。 その中の施薬院は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与えられるようにと四天王寺の北西の角(現在の愛染堂の場所)に建立されたのです。当時の面積は現在より一層広大であり、また、建立の意味あいからいうと、我が国の社会福祉事業発祥の地とも言えます。

石切大仏:東大阪市の石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)近くに鎮座するのが石切大仏。精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の4代目・阪本昌胤氏が創業地である東大阪市石切町に建立したのが、知る人ぞ知る石切大仏です。

14:00終了。

今回の旅行、近畿地方の奈良県、和歌山県、大阪府に足を運び、奈良県、和歌山県、大阪府に点在する大仏・古墳・塔38か所(霊山寺、薬師寺、興福寺五重塔、興福寺三重塔、奈良大仏、法起寺、法隆寺、百済寺、當麻寺東塔、當麻寺西塔、南法華寺、談山神社、室生寺、箸墓古墳、黒塚古墳、東殿塚古墳、ホケノ古墳、石舞台古墳、岩谷古墳、野口王墓古墳、鬼の俎、雪隠古墳、飛鳥大仏、壷阪寺、金剛三味院、金剛峯寺、長保寺、根来寺、青岸渡寺、慈眼寺、金剛寺、叡福寺、勝鬘寺、大山古墳、誉田御廟山古墳、軽里大塚古墳、四天王寺、如意寺、石切大仏)を訪れ楽しみました。

今回もコロナウイルスの影響で外出自粛、あえてステイホームでの免疫の低下、家族内感染の悪影響を考慮して、人込みを避けての比較的マイナーな観光名所を訪れました。奈良公園、明日香、高野山、ほとんど人はいません、飛沫感染は考えられない、何処にウイルスが付着しているかもしれない、接触感染防止の消毒をマメにして感染防御し、免疫を上げて観光しました。

今後も理屈を考えながら自己流の感染防御して、又免疫を上げて、観光巡りを行いたいと思います。


































飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十弾:山口県、島根県大仏・古墳・塔観光
2020年4月25-26日
  

中国地方の山口県、島根県に点在する大仏・古墳・塔3か所(大聖青不動明王、瑠璃光寺、有福大仏)を訪れました。
25日14:02新大阪駅新幹線のぞみで出発
15:54新山口駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
26日8:00レンタカーで出発

大聖青不動明王:「三大不動明王霊場」(赤不動・青不動・黄不動)設立と「山口県十八不動三十六童子霊場」設立のために建立された。この青不動は「山口県十八不動三十六童子霊場」の第十二番の不動明王。中に仏舎利が収められている。

瑠璃光寺:大内氏前期全盛の頃、25代大内義弘は現在の香山公園に、石屏子介禅師を迎え香積寺を建立しました。義弘は応永6年(1399年)足利義満と泉州で戦い戦死。26代弟・盛見は兄の菩提を弔うため、香積寺に五重塔を造営中、九州の少貳勢と戦って戦死。五重塔はその後、嘉吉2年(1442年)頃落慶しました。
それからしばらくの時を経た関ヶ原の合戦の後、毛利輝元が萩入りし、香積寺を萩に引寺。跡地に仁保から瑠璃光寺を移築しました。これが今日の姿です。全国に現存する五重塔のうちで10番目に古く、美しさは日本三名塔の一つに数えられ、室町中期における最も秀でた建造物と評されています。

有福大仏:1360年の歴史があるとされる江津市有福温泉町の有福温泉。温泉街を見渡す高台にある大仏殿には、高さ約3メートルの仏像・有福大仏が鎮座し、優しいまなざしで温泉客らを見守っている。
大仏は同町を訪れた大分県出身の彫刻師・佐藤泰梁氏が、1938年ごろ制作。現在、被爆者療養所・有福温泉荘が立地する場所に佐藤氏の住まいがあり、大仏が安置されていたが、同町で商店などを経営していた河野勲さん=故人=が「多くの人に大仏を見てもらいたい」と61年、温泉街高台に大仏殿を建て、大仏を移した。

16:00終了、新山口駅に向かう。

17:50新山口駅のぞみで出発
19:43新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の山口県、島根県に点在する大仏・古墳・塔3か所(大聖青不動明王、瑠璃光寺、有福大仏)を訪れ楽しみました。

今回も自己流のコロナ対策、在来線、新幹線ほとんど人がいなく、ホテルも、近くの居酒屋もお客さん少ない。
山口から島根県浜田方面の高速道路、殆ど車が走っておらず、サービスエリアはどこも閑散としていました。3か所観光場所もマイナーな名所もあり、人と会わない。

濃厚接触どころか人と接しない、太陽光を浴び、適度な運動、ストレス解消、癒され、免疫を上げることができました。

人と距離を置いて、飛沫感染を防止し、ドアノブ等の接触感染防止のまめな消毒、適度な運動、太陽光を浴びての免疫向上して、観光旅行、楽しめました。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十六弾:広島県大仏、古墳、塔観光
2020年3月28-29日
  

中国地方の広島家広島県に足を運び、広島県に点在する大仏・塔10箇所(明王院、耕三寺、向上寺、天寧寺、西国寺、浄土寺、厳島神社五重、多宝寺、不動明王、救世観音大尊像)を訪れました。

28日13:38新大阪駅新幹線のぞみで出発
14:39福山駅下車
15:00レンタカーで巡る。 

明王院:愛宕山中腹近くにあり、眼下に草戸千軒町遺跡を見渡す明王院は、中道山円光寺明王院と称し、国宝の「本堂」「五重塔」を有する真言宗大覚寺派の古刹として知られています。
もとは西光山理智院常福寺といい、大同2年(807)弘法大師の開基と伝えられています。
その後、鎌倉時代後期の南都西大寺流律宗の勧進活動や草戸千軒の繁栄の影響もあり、鎌倉時代末期に本堂再建、室町時代前期に五重塔を建立など、"中世・西国屈指の寺院"になります。
元和5年(1619)、水野勝成が福山藩主として入府してからはその庇護を受けます。
三代水野勝貞は常福寺に、城下神島町の歴代藩主の祈願寺となっていた明王院を合併し、当時の住職宥仙は、寺号を明王院と改め今日に至ります。
合併後の明王院は、本山として末寺四十八寺を擁していたといわれます。

耕三寺:浄土真宗本願寺派の寺院・耕三寺を博物館の一部として公開しているほか、快慶作宝冠阿弥陀如来坐像や佐竹本三十六歌仙断簡紀貫之などの重要文化財を含む館蔵品を仏教美術・近代美術・茶道美術の各展示館でご覧いただけます。
また、フォトジェニックスポットとして人気の大理石彫刻庭園・未来心の丘も併せて楽しめます。

救世観音大尊像:本堂東翼廊の左、八角円堂の後方に造顕されている、奈良・法隆寺夢殿の御本尊、秘仏救世観音が手本。像高だけで10m(33尺3寸)あり、宝冠、台座などを加えた総高は15mにもなる大露仏である。
鉄筋コンクリートで固めた基礎の上に鉄心を組み、コンクリートと漆喰を併用し肉付けした上に塗装しているものだが、こうした工程による仏像の造立、同様の技術は例がなく当時、耕三師自ら陣頭に立ち、労苦を惜しむことなくかつて培った鉄の加工技術を遺憾無く発揮され完成に導いている。

向上寺
室町初期建立の曹洞宗のお寺です。
潮音山の山頂にある国宝三重塔は、永享4年(1432)に建立されたもので、全体の高さは19mあります。
和様唐様の混合様式で内部全体にも極彩色が施され、室町初期で最も美しく優れているものの一つに数えられています。


18:30尾道駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

29日7:30レンタカーで出発



天寧寺:尾道三山のひとつ、千光寺山の中腹にある「天寧寺」は、尾道らしい景色が望める定番スポット。国の重要文化財に指定される「三重塔」や、明治初期から寄進され、全部で526体ある「五百羅漢像」などの見どころがあります。天寧寺は、尾道の由緒ある7つの古寺(持光寺・天寧寺・千光寺・大山寺・西國寺・浄土寺・海龍寺)をお参りする「尾道七佛めぐり」のひとつになっており、古寺めぐりをしながら尾道の魅力に触れることができます。

西国寺:天平年中(729?749)、行基菩薩創建と伝えられる真言宗醍醐派の大本山。
山門である仁王門には室町末期作の2体の仁王像が安置されており、その健脚にあやかり2mを超える巨大な草履が奉納されています。
その仁王門ほか金堂や足利六代将軍・義教の寄進と言われる三重塔など数多くの重要文化財を抱える尾道を代表するお寺のひとつです。
柴燈護摩(火渡り神事)や節分会など新春の訪れを告げる祭りや桜が咲くシーズンには、多く人でにぎわいます。
また裏手の西國寺山(摩尼山)には「摩尼山八十八ケ所」として道中に地蔵が安置されており、頂上付近のタンク岩からは尾道の眺望を楽しむこともできます。
「尾道七佛めぐり」のお寺のひとつにも数えられています。

浄土寺:浄土寺は遠くはるか飛鳥の昔、聖徳太子の開創と伝えられ、中国地方屈指の古刹です。瀬戸内海の要津として発展した尾道の里人が心寄せる寺として港の繁栄と共に、それぞれの時代の町の衆に支えられ、鎌倉時代末よりおよそ七百年の時代を重ねております。境内の西に沈む夕日は浄土の世界を想わせるかの如く光り輝き、日の出の光に照らされた 本堂、阿弥陀堂、多宝塔は荘厳の一言です。

不動明王:広島県呉市にある源宗坊寺(真言宗)公式サイト  1906年(明治39年)に稲田源宗坊により建立された本寺院は、独特の仏像が山間の境内に点在し、戦後、駐留外国人も畏敬の念を表し、神々の谷として知られておりました  竹林、紅葉、清らかな名水や鳥の鳴き声等、四季折々の表情を見せる本寺院


厳島神社五重:和様と禅宗様が融合されて,みごとな構成をなす五重塔である。室町時代の応永14年(1407)創建と言われ,露盤(ろばん)下品軒覆の鉄板鋳銘から戦国時代の天文2年(1533)に改修されたことがわかる。九輪を鋳造した廿日市鋳物師(いもじ)山田壱岐守の名もあげられている。
初重の柱は上部を金襴巻(きんらんまき)とした朱漆塗で,それぞれ彩色の寄附者の名が記されている。内陣の天井は雲竜,来迎壁は表に蓮池,裏に白衣観音,周囲の壁板は瀟湘(しょうそう)八景を添景とした真言八祖の壁画である。

厳島神社多宝寺:嚴島神社西の丘にある高さ15.6mの多宝塔は、大永3年(1523年)に建立されたと伝えられます。弘治元年(1555年)の厳島合戦では、陶晴賢が真っ先に陣所を設けた場所です。純和様を基調としながら上層部に天竺様、内部は禅宗様を取り入れた建築様式で、上層は円形、下層は方形、屋根は上下とも方形となっている珍しい構造です。明治の神仏分離令で管理するものがいなくなり一時は朽ち果てかけていましたが、篤志家によって救われ、本尊だった薬師如来像は大願寺に遷されました。周辺は桜の名所で、夜間ライトアップされたその姿は嚴島神社の美しい背景ともなります。


16:00帰路に向かう。

18:00福山駅到達。
18:19福山駅新幹線さくらで出発

19:36新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の広島家広島県に足を運び、広島県に点在する大仏・塔10箇所(明王院、耕三寺、向上寺、天寧寺、西国寺、浄土寺、厳島神社五重、多宝寺、不動明王、救世観音大尊像)を訪れ楽しみました。

関東茨城県の取手に行く予定でしたが、首都圏コロナウイルス発生増、天候降雪とのことで広島県にシフトしました。

トラブル発生、新幹線で寝過ごして福山に降りれず、広島まで行、引き返して福山に戻りました。
又尾道の寺院周辺の道、両サイド石垣の狭い道、左ドアミラーが石垣に接触し壊れ、テープで止めて走行しました。レンタカーですので、ドアミラーの交換費用と車の休業補償が発生するため、携帯電話でマツダの営業所を探し連絡し、10件目でドアミラーのパーツの在庫がある営業所を見つけ修理していただきました。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十五弾:兵庫・岡山・愛媛・香川・高知・徳島大仏、古墳、塔観光
2020年3月19-22日
  

兵庫・岡山・愛媛・香川・高知・徳島に点在する大仏、古墳、塔(兵庫大仏、但馬大仏、淡路島世界平和大観音、吉備古墳、如意寺、石峯寺、八幡神社、一乗寺、斑鳩寺、大滝山、真光寺、長福寺、本蓮寺、遍照院、宝福寺、備中国分寺、石手寺、熊谷寺、竹林寺、室戸青年大師像)を訪れました。

19日12:30車で出発兵庫方面に向かう。

兵庫大仏:身の丈11m。青空をバックに堂々とそびえるのは日本三大仏の一つと称する「兵庫大仏」。迫力たっぷりのその御姿は、拝むだけでご利益がありそう。明治時代に建立された初代大仏は、戦時中の金属回収で供出されたため、現在の大仏は平成3(1991)年に再建された2代目。能福寺は天台宗の古刹であり、境内には、平清盛の廟所や神戸事件で切腹した備前藩士滝善三郎の碑など、史跡も多い。

如意寺:縁起によれば、如意寺の開基は法道仙人といわれ、天竺の五百持明仙の一人、光英菩薩の全身という。 推古天皇の御世に櫨谷に飛来し、当山にて山翁(毘沙門天)より霊木櫨の地蔵菩薩の造立をたくされ、孝徳天皇の勅をえて大伽藍を設けた。 平安時代には慈覚大師円仁によって、常行堂、文殊堂が建てられ今日の基をなした。近世にあっても、比叡山滋賀院門跡末寺の格式と、御朱印寺領四十三石を賜わり、今日に至る。

石峯寺:古義真言宗、山号は巌嶺山。法道仙人の開基とされ、白雉2年(651年)孝徳天皇より多大の叡感を得て、勅願寺として建立されました。鎌倉時代には一里四方の寺領を有し、僧坊72を数えましたが、嘉吉の乱の兵火で全山の殆どを焼失しました。その後再建されましたが、往時の隆盛には及ばず、現在は十輪院、竹林寺、極楽院の3坊を数えるのみです。

八幡神社:創祀の由来については諸説があるが、社伝によれば、平清盛が福原に遷都した治承4年(1180)、京都石清水八幡宮を勧請したことに始まるという。
 『太平記』元弘3年(1333)摩耶城合戦の条に「八幡林」の名があるのは、当社の森のことである。戦国時代は荒廃していたが、天正年間(1573~)に林播磨が修築し、その孫林清兵衛が寛政7年(1795)本殿などを改築した。さらに領主の石河氏が奈良の春日大社の旧社殿を移して、社殿を造営したのが現在の建物であるという。また、厄神宮本殿は県重要文化財に指定されている。斗きょう部、蛙股並びに妻組等、細部手法もその頃の技風を存する。向拝柱間を1間として、3間社の通則を破って広く構えた平面意匠は、この種建築の平面形の変遷を知る好い遺例である。阪神淡路大震災(1995)で全壊したが、現在は彩色も鮮やかに復興されている。

一乗寺:孝徳天皇勅願寺。開山法道仙人。御本尊聖観世音菩薩。創建白稚元年(650)。 三重塔(国宝)、聖徳太子及天台高僧像十幅(国宝)など文化財多数。 法華山は古来八葉の蓮華の山に喩えられ、桜・新緑・紅葉が美しい都塵を絶した浄域である。

斑鳩寺:姫路とたつの市にはさまれた太子町に位置する聖徳太子開基の天台宗寺院です 。法隆寺の荘園「鵤荘」(いかるがのしょう)があり、法隆寺創建から、一千年弱にわたり、法隆寺を経済的に支えてきました。現在は比叡山を本山にする天台宗の寺院です。

淡路島世界平和大観音:大阪市西区を中心にビジネスホテルやオフィスビル、賃貸マンションなどを経営しているオクウチグループの創業者である故・奥内豊吉氏が出身地の淡路島に建立した巨大な観音像である。建立記念碑には「全世界の平和と繁栄と万民の幸福を祈願する」と記され、台座部分のビル1階は豊清山平和観音寺となっているが、館内はもっぱら奥内氏のコレクションを展示するスペースで、宗教施設というよりは私設ミュージアムの趣の方が強い。
おそらくは観光客を呼び込むことで地域への貢献も目論んだはずなのだが、展示品の内容や管理がお粗末で観光業界からはほとんど顧みられることもなく、一部好事家たちの間で“B級観光地”として話題になる程度にとどまっている。

但馬方面に向かう。

17:30養父市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

207:00車で出発、岡山方面に向かう。

但馬大仏:現代建築の技術の粋と伝統美が見事に調和した高さ40mの重層寄棟づくりの巨大な建物です。屋根には、鴟尾(高さ2.7m、重さ1.1t、金箔1.8万枚)が二体、空高く金色に光り輝いています。殿内の三方の壁には806体の石仏が安置されていますが、一体一体が手作りで、それぞれの表情や衣が個性にあふれています。参拝される多くの方々の祈りを石仏にこめて、年を経ていつか、1200体安置にと完成される日が待たれます。

大滝山:紫陽花寺として有名な唐僧鑑真開基の福生寺がある。三重塔は国の重要文化財。

真光寺:真光寺は、もと兵庫輪田の崎島「光明福寺」に創まり、宗祖一遍上人が念仏勧進の全国遊行の旅の途中、この地に立ちより1289年(正応2)8月23日観音堂に於いて臨終しました。その後兵庫の信者達によって、荼毘(火葬)に付され、霊骨を五輪塔に納められ、お木像を御影堂に祀り、その遺徳を崇めました。その後二祖真教上人は、伏見天皇に奏して「真光寺」の寺名を拝受し、播州守護職赤松円心より寺領を寄進され、七堂伽藍は荘厳を極め、寺地は三十八町四方に及んだといわれています。次いで後醍醐天皇より「西月山」の山号を勅賜され、南朝の皇族「尊観法親王」が住持されてからさらに念仏の大道場として繁栄しました。その後再三の兵禍や火災に遭遇し、その都度再建されました。近年に至っては、1945年(昭和20)3月、第二次世界大戦で空襲に遭い全山消失してしまいました。現在の本堂は昭和37年再建されたものです。更に1995年(平成7)1月の阪神・淡路大震災により御廟所、観音堂、鐘楼が倒壊し、1998年(平成10)5月に再建復興しました。観音堂の御本尊はその昔、輪田岬の海底より霊光を放っているのを、漁師が引上げてみると観音様の御像であったので、お祀りしたのが始まりであると伝えられています。また戦前、山門の横に池があり、石亀が多数放生されていたので、通称「亀の寺」と親しまれてきましたが、都市計画のため境内が縮小され、現在は池はありません。なお、一遍上人御廟所の五輪塔のある玉垣内は文化財として県史跡に指定されています。寺宝として絵巻物紙本着色『遊行縁起』10巻(国重文指定)を所蔵しています。一遍上人御歌  「旅ごろも 木の根かやの根いづくにか 身の捨てられぬところあるべき」

長福寺:明徳年間(1350年頃)に真言宗の寺院になった長福寺は奈良時代(757年)、唐の高僧鑑真和尚が開基したと伝えられ、当初は真木山(まきさん)の山頂にありました。しかし度重なる火災により、昭和3年に寺院が、昭和26年に三重塔が現在の場所に移りました。高さ約22m、鎌倉時代の建築様式を伝える三重塔は、鎌倉時代中期の弘安8年(1285年)に天台宗の円源上人によって建立されました。

本蓮寺:本堂と番神堂と中門は国の重要文化財に、三重塔と祖師堂は県の重要文化財に指定されています。また、小堀遠州作の見事な庭園や多くの文化遺産が残され、朝鮮通信使が宿泊した名刹にふさわしい格調が漂います。2017年10月には、「朝鮮通信使に関する記憶」がユネスコの世界記憶遺産に登録されています。

遍照院:遍照院(へんじょういん)。倉敷の町の西のはずれ、高梁川に近い田園地帯にある寺。きょう最後の寺となる。時刻ももう午後6時をまわっている。境内は3つのエリアに分けられる。白壁に囲まれて建つ客殿エリア(左写真右側)、門もなく立ち入り自由な本堂エリアと、その前の広場の三重塔エリアである。

宝福寺:宝福寺は臨済宗東福寺派の寺院で、本山京都東福寺と結びつきが強く、地方の中でも有力な禅宗寺院です。古くは天台宗の寺院でしたが鎌倉時代中頃に県内ではいち早く臨済宗に改宗しました。盛時には塔頭・学院五十五、山外の末寺三百余を数えたと伝えられています。また、画聖雪舟が修行した寺として有名です。
 建造物では三重塔が最も古く解体修理の際、永和二年(1376)の墨書銘が発見されています。この塔は岡山県下二番目の古塔としても貴重です。
その他の建物は戦国時代の戦火で消失したと考えられますが、歴代の住職の努力で復興され、禅宗様式の広がりをもつ重厚な構造となっています。
 宝福寺は七堂伽藍を整えた、岡山県に残る近世禅宗寺院の代表的な建物といえるでしょう。静かな境内では、春は新緑、秋には紅葉と訪れる人を楽しませてくれます。

備中国分寺:市南部のアカマツにつつまれた丘陵地のほぼ中心部に位置し、聖武天皇の発願によって創建された国分寺の一つです。建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建されました。境内にそびえる五重塔は、県内唯一のもので吉備路の代表的な景観となっています。

吉備古墳:現在の岡山県と広島県東部にわたる地域は、広大な吉備世界を形成しており既に弥生時代から豊かな稲作農耕を背景に吉備世界に共通する文化が広がっていた。
その吉備世界の中心地にある岡山市高塚の弥生集落・高塚遺跡から古代中国の貨幣である「貨泉」(かせん)が平成元年一括して大量25枚も出土した。
(※高塚遺跡=平成元年岡山自動車道建設に伴う発掘調査で発見)
これだけ大量の発見は全国でも例のないことで、吉備世界は早くから中国大陸の影響を強く受けて発展きてきたと思われる。
そんな吉備世界では弥生時代後期中葉における吉備独特の壺形土器(上東式土器)が出現し、また、これが変化発展して、吉備全域に共通する「特殊器台型土器」や「特殊壺型土器」と呼ばれる特異な土器が誕生した。これと同時に、特殊器台型土器や特殊壺型土器を伴った盛土による大型の弥生墳丘墓が発達、吉備に新しい時代が到来したのだ。
特殊器台型土器とその上に載せる特殊壺型土器は、葬送儀礼のとき死者に対して食べ物を供えるため用いられたものと考えられている。

17:00福山市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

21日7:00車で出発愛媛方面に向かう。

石手寺:愛媛県下の国の重要文化財(建造物)49のうち7つが石手寺にあり、そのなかでも仁王門は国宝。
石手寺は道後温泉から1km程と近く、四国遍路の元祖といわれる衛門三郎伝説ゆかりの寺としても知られ、愛媛県を代表する四国八十八ヶ所霊場の1つです。
広大な敷地には重要文化財の建造物のほか、七転八起を祈る元気石やマントラ洞窟、四国八十八ヶ所お砂撫で(おすななで)など見どころ満載なお寺。
また、観光ガイドブックの『ミシュラングリーンガイドジャパン』で1つ星にも選定され松山観光の定番スポットとして人気です。
大勢のお遍路さんや観光客が訪れているのはもちろん、四国の弘法大師ファンの中心的なお寺であり、初詣の参拝者数は愛媛県内トップの24万人以上と、地元でも多くの人々に愛されています。

高知方面に向かう。

竹林寺:土佐の高知の播磨屋橋で坊さんかんざし買うを見た…で有名な「よさこい節」の舞台であるほか、学僧・名僧があつまる「南海第一道場」とされた学問寺院としても知られる。鎌倉から南北朝時代の高名な臨済宗の学僧、夢窓国師(1275?1351)が山麓に「吸江庵」を建てて修行、2年余も後進の育成に努めた。また、門前横には高知が生んだ世界的な植物学者、牧野富太郎博士(1862?1957)の記念館と県立牧野植物園があるように、土佐の信仰や文化の中心地とも、土佐随一の名刹ともいわれた。
縁起では、神亀元年ころ、聖武天皇(在位724?49)が中国・五台山に登り、文殊菩薩に拝した夢を見た。天皇は、行基菩薩に五台山の霊地に似た山容を見つけるよう命じた。行基菩薩はこの地が天皇の霊夢にふさわしいと感得、自ら栴檀の木に文殊菩薩像を彫り、山上に本堂を建てて安置した。その後、大同年間(806?10)に弘法大師がここに滞在して瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復、霊場にされたという。慶長6年(1601)に山内一豊公が土佐初代藩主になって以来、歴代藩主の帰依が厚く、祈願所として寺運は隆盛した。「文殊堂」と呼ばれる本堂は、江戸時代前期の建立で国の重要文化財。この他、山門左手の宝物館には藤原時代から鎌倉時代にかけての国指定重要文化財の仏像17躰が収蔵されており、まさに県内きっての文化財の宝庫といえる。
眼下に高知の市街が眺められ、瓢箪形に食い込んだ浦戸湾が美しく広がって見える。

室戸青年大師像:若き日の弘法大師(空海)は室戸岬を修行地として選び、難行苦行の末多くの悟りを開いたと言われています。
この像は昭和59年11月、大師の徳を慕う信者や一般の方々の寄進によって建立されたもので、青年空海の力強い生き方がしっかりときざみ込まれています。 高さ21m(台座5m含)

徳島阿南に向かう。

19:00阿南市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

22日8:00車で出発。

熊谷寺:四国霊場のなかで最大級の仁王門を構える。縁起によると弘仁6年、弘法大師がこの地の閼於ヶ谷で修行をされていた。その折、紀州の熊野権現があらわれ「末世の衆生を永く済度せよ」と告げられ、5.5センチほどの金の観世音菩薩像を授け、虚空はるかに去っていったという。大師はその場にお堂を建てて、霊木に自ら一刀三礼して等身大の千手観音像を彫造し、その胎内に金の尊像を納めて本尊にされた、と伝えられている。境内にその鎮守堂があり、熊野権現が祀られている。元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記』には、「境内は清幽で、谷が深く、水は涼しく、南海が一望できる。千手観音像の髪の中には126粒の仏舎利が納められてある」とあり、当時の境内の様子がうかがえる。元禄のころ(1688?1704)までに幾度か火災にあった説もある。ただ、昭和2年(1927)の火災では本堂とともに弘法大師作のご本尊も焼失している。その後、歴代住職の尽力により本堂は昭和15年に再建されたが、第二次大戦で工事が中断、ようやく同46年に堂宇の全容が完成、新造された本尊の開眼法要が営まれた。前述の仁王門は、貞享4年(1687)の建立で、徳島県の指定文化財である。和様と唐様の折衷様式で、間口は9メートル、高さは12.3メートル。2層目の天井や柱には極彩色(ごくさいしき)の天女の姿などが描かれている。大師堂に安置されている弘法大師坐像は室町時代の作で、県指定の文化財である。

12:00帰路に向かう。

今回の旅行、兵庫・岡山・愛媛・香川・高知・徳島に点在する大仏、古墳、塔(兵庫大仏、但馬大仏、淡路島世界平和大観音、、吉備古墳、如意寺、石峯寺、八幡神社、一乗寺、斑鳩寺、大滝山、真光寺、長福寺、本蓮寺、遍照院、宝福寺、備中国分寺、石手寺、熊谷寺、竹林寺)を訪れ楽しみました。

バンコク渡航の予定でしたがコロナウイルスの影響で国内旅行に変更しました。

比較的感染可能性の少ない個人の車で多くの観光客が集まりにくい屋外の観光名所を巡りました。

やはりマイカーでの訪れが多く、観光バスは全く見られませんでした。