小京都&重要伝統的建造物群


北海道:小樽、函館、江差

東北:上山、樽下宿、米沢、山形、谷地、肘折温泉、酒田、金山、銀山温泉、金木、弘前、黒石、湯沢、増田、横手、六郷、角館、登米、岩出山、村田、白石、七ヶ宿、三春、大内宿、前沢、檜枝岐、会津若松、喜多方、金ケ崎、水沢、江刺、遠野、盛岡

関東:徳次郎、栃木、佐野、足利、古河、土浦、常陸太田、真壁、益子、川越、小川、嵐山、秩父、小幡、六合赤石、桐生

甲信越:村上、加茂、出雲崎、青梅、葛飾柴又、佐倉、佐原、大多喜、浜山手、鎌倉、鈴鹿長宿、小田原、遠州森、由比、松崎、下田、赤沢宿
妻籠、奈良井、木曾平沢、下諏訪、茂田井、海野宿、上田、松本、宿根木、相川、
須坂、小布、渋温泉、飯山、野沢、松代、白馬青鬼

東海:伊賀上野、伊勢、松坂、関、西尾、犬山、足助、岡崎、有松、尾張大野、常滑、半田、多治見、明智、岩村、馬籠、美濃、郡上八幡、高山、飛騨古川、白川郷

北陸:熊川宿、小浜、三国、大野、高岡、井波、城端、五箇山、越中八尾、白山白峰、加賀東谷、加賀橋立、金沢、輪島黒島

近畿:大津、神戸北野、室津、坂越、龍野、平福、竹田、出石、丹波篠山篠山城下、丹波篠山福住、奈良町、大和郡山、今井、竹内、高取、大宇陀、五条、洞川、湯浅、黒江、信達、富田林、池田、枚方、海津、木之本、長浜、醒井、彦根、五個荘、近江八幡、城崎、湯村温泉

中国:松江、広瀬、大森、温泉津、山口、岩国、柳井、下津、倉敷、矢掛、備中高梁、吹屋、勝山、足守、津山、大原、倉吉、智頭、唐戸、長府、佐々並市、仙崎、萩、津和野、東一口、伏見、京都産寧坂、京都祇園新橋、京都島原、京都上賀茂、京都嵯峨鳥居本、亀岡、美山、東舞鶴、西舞鶴、伊根、加悦、鞆の浦、上下、尾道、竹原、西城、御手洗、宮島)

四国:引田、脇町、貞光、東祖谷山村 山村落合、丸亀、塩飽本島、内子、大洲、卯之町、道後温泉、土佐中村、赤岡、安芸、吉良川
九州:椎葉村、美々津、飫肥、豊後高田、中津、日田、鉄輪温泉、杵築、知覧、入来麓、出水、大村、長崎東山手、長崎南山手、雲仙神代小路、島原、平戸、臼杵、佐伯、豊後竹田、山鹿、宇城松合、崎津、人吉、有田、伊万里、呼子、小城、備前浜宿、嬉野塩津、朝倉秋月、筑後吉井、八女福島、八女黒木、柳川、門司港
沖縄:首里、壺屋
。竹富島
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十九弾:岩手県小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏巡り観光
2020年9月12-13日
 

東北地方の岩手県に足を運び、岩手県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏6か所(金ケ崎、水沢、江刺、釜石大観音、遠野、盛岡)を訪れました。

12日16:55伊丹空港出発
18:15花巻空港到達、レンタカーで北上に向かう。
19:00北上駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
13日5:30レンタカーで出発

金ケ崎:金ケ崎町は、岩手県南西内陸部の胆沢郡北部に位置し、北は北上市、東は北上川を境として奥州市江刺区、南は胆沢川を境として奥州市水沢区、南から西にかけては奥州市胆沢区と接しています。
 地勢は、西部の奥羽山系の駒ケ岳を有する山岳高地から東部の平坦地との間に1,300m以上の標高差があり、西から東にかけては、緩い傾斜となっています。

水沢:岩手県の内陸南部にかつて存在した市。
商人の街、偉人の街、天文台の街、鋳物の街、みちのくの小京都として知られる。
周辺自治体と合併し、現在は奥州市の中心部に位置する。

江刺:2006年(平成18年)2月20日に、水沢市、胆沢郡胆沢町、前沢町、衣川村と合併して奥州市となり、消滅した。
現在は奥州市の北東部を占める。

釜石大観音:釜石の海と街を見下ろす高台に立つ、高さ48.5mの魚藍観音像。明峰山石応禅寺の発願により、幽界・明界の平和を祈念して建築されました。 釜石大観音施設内には、お釈迦様のご遺骨を納めた仏舎利塔、不動明王を祀る不動殿などが隣接しています。 観音様の内部は13階に分かれており、その胎内には三十三観音や七福神が祀られています。11・12階には展望台が設けられ、海抜120mからの眺めが楽しめます。

遠野:遠野地方の古民家は「南部曲り家」と呼ばれるものがほとんどで、現在では住居にしている家庭も少なくなっています。
「曲り家」とはL字型になっており、人が住む母屋と馬小屋がつながっている住居で、馬はかけがえのない人間の友であり、同じ屋根の下で暮らしていました。
曲り家は昔の生活が垣間見れる、懐かしい空気、時間を肌で感じ取れる場所です。

盛岡:岩手県の県庁所在地「盛岡市」は、岩手県の内陸部、県の中央よりやや北西に位置しています。どこか懐かしい雰囲気を感じさせる盛岡には、歴史的建造物やクラシカルなカフェが多く点在しており、レトロな街並みを巡る旅が楽しめます。石川啄木や宮沢賢治が青春時代を過ごした文学の街でもあり、古き良き街並みが今も残っていますよ。また、「盛岡三大麺」と言われる「わんこそば」、「盛岡冷麺」、「盛岡じゃじゃ麺」などのグルメも欠かせません。

16:00終了、花巻空港に向かう。
17:00花巻空港到達。
18:55花巻空港出発
20:30伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の岩手県に足を運び、岩手県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏6か所(金ケ崎、水沢、江刺、釜石大観音、遠野、盛岡)を訪れ楽しみました。

金ケ崎、江刺、釜石大観音は初めての訪れ、金ケ崎、江刺の街並みの散策、癒され、釜石大観音は巨大観音で圧倒され又内部も見学でき、立派な観光名所でした。

コロナ感染者が少ない岩手県、マスクはほとんどの方が装着していますが、盛岡の街並みは多くの人が訪れ賑やか、郊外の大型店も人がいっぱい、観光名所は人が少なくひっそりしていますが、地元の人は活気に満ち溢れています。






















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十八弾:北海道南部小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏巡り観光
2020年9月5-6日
  

北の北海道南部に足を運び、北海道南部に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏4か所(函館、江差、函館達磨大師、登別温泉閻魔像)を訪れました。

9月5日15:30伊丹空港出発
17:15新千歳空港到達、レンタカーで函館に向かう。
22:00函館市内のホテル到着後就寝。
6日5:30レンタカーで出発
函館:「世界三大夜景」に数えられる函館山からの夜景は、函館観光において絶対に外せない観光スポットです。
函館山からの夜景は感動的で、街からこぼれる光がまるで芸術作品のように煌きます。函館山山頂からの夜景は有名ですが、昼間の眺望も素晴らしく、晴れた日には津軽海峡から津軽半島を望むことができる360度ビューが広がります。ベイエリアでひときわ目を引く赤レンガの建物が「金森赤レンガ倉庫」です。赤レンガ倉庫群の「函館ヒストリープラザ」「金森洋物館」「BAYはこだて」と、周辺にある「はこだて海鮮市場本店」、「函館西波止場」さえ押さえておけば、函館や北海道のお土産がほぼすべて手に入ると言っても過言ではないほど海産物からお菓子、スイーツまであらゆるものが充実しています。ベイエリアのほど近く、函館山の麓に広がる坂の多いエリアが「元町エリア」です。多くの歴史的建造物が立ち並び、異国情緒漂う景観が楽しめます。
函館を代表する観光スポットです。この地域は坂道が多く、歴史的建造物がいくつも存在し、函館の名所として外せない観光スポットです。

江差:北海道文化発祥の地と呼ばれている江差町に和人が住み始めたのは、歴史上では 1189 年、源義経が衣川で自刃した後に藤原泰衡の一族がこの地に上陸(渡党)したのが最初だと言われています。江戸時代には、日本海航路の北前船によるヒノキアスナロ(ヒバ)、ニシンの交易により人口も三万人を超え、いわゆる「江差の五月は江戸にもない」と謳われる程、商業の町、文化の町として発展・繁栄を極めました。
民謡の王様と言われる「江差追分」をはじめとする伝統芸能や生活文化など有形・無形の遺産が数多く伝承・保存されている他、江差沖で座礁沈没した江戸幕府の軍艦「開陽丸」が復元され、幕末のロマンを漂わせております。
北海道の中で最も早く開港した港町のひとつが江差町です。江戸時代から明治時代にかけて繁栄を築いた江差町には、数多くの歴史的・文化的遺産があります。この貴重な景観を後世に伝え、訪れる人に楽しんでもらおうと、歴史を生かすまちづくり事業として整備されたのが「いにしえ街道」です。歴史的資源が数多く集積している下町地区の中歌町、姥神町一帯の旧街道を拡張し、残存の商家、民家や土蔵などを再生して、多くの観光客を迎え入れています。

函館達磨大師:達磨大師に深く帰依した個人が、独特の存在感をもつ巨大な達磨大師像を独力で建立。現在は高龍寺に寄贈され、同寺の上湯川法務支所として、地域信仰の拠点となっている。
湯の川温泉街から車で10分ほど、幹線道路の交差点に接する丘陵に、赤い衣を着た巨大な達磨大師像が鎮座しています。その姿は、付近を通る際にも木立の合間から垣間見ることができるほどの存在感。横から見ると意外にスリムで、どことなくユーモラスな表情が魅力です。元は私設の達磨大師像として市民に広く知られていたものが、1997(平成9)年に高龍寺へ寄贈され、同寺の上湯川法務支所として2名の僧侶が常駐する地域信仰の拠点となりました。
この達磨大師像は、1877(明治10)年生まれの斉藤キワさんが、大正末期に夫と死別した後に、夢の中で達磨大師に出会って深く帰依する中で、奈良の達磨寺にあるような達磨像のある修行の道場の建立を発願し、1951(昭和26)年に建立したもの。自らの手で彫り上げて自宅の敷地内で祀っていたものを、キワさんの没後、娘の斉藤ミサヲさんが守り続け、高龍寺に寄贈しました。鎮座から64年経った2015(平成27)年には修復が行われ、建立当時の姿を取り戻しました。階段の途中に建つ標柱に「精神統一坐禅達磨大師 、昭和二十六年八月一日、建設者斉藤キワ七十七・・・不動明王、八大竜王」と刻されているように、境内には達磨大師像のほか、本尊の達磨像と掛け軸が納められた小堂、キワさんが自ら作った独特な風貌の不動明王像や八大竜王も一緒に祀られているほか、キワさんの胸像も達磨大師像に寄り添うように建てられています。場所は、函館市街地から南茅部へ向かう道道83号線(函館南茅部線)と、トラピスチヌ修道院や市民の森に通じる市道などが交わるところ。バス停「トラピスチヌ入口」のすぐ近くです。

登別温泉閻魔像:登別温泉といえば北海道を代表する温泉地である。登別温泉最大の源泉でもある「地獄谷」にちなみ鬼にまつわるエピソードや置物、鬼の像などがたくさんある。しかし、登別には鬼だけではなく閻魔(えんま)様もいるのだ。
登別温泉のメインストリートである極楽通り商店街にひときわ目を引く建物がある。それが閻魔堂だ。普段は穏やかな表情の閻魔様が座っているのだが、1日に6回ある「地獄の審判」の時間になると、顔がみるみる真っ赤になり怒った表情に変わり人間の悪事に裁きを下すのだ。閻魔様の前にはエンマ帳と大きな釜がある。エンマ帳に願い事を書いてその大きな釜にお金を入れると、地獄の審判が下り願いが叶うと言われている。おみくじもあるので閻魔堂に立ち寄った際には運試しなどいかがだろうか。地獄の審判の時間は10時・13時・15時・17時・20時・21時となっている。
閻魔様は昭和39年(1964)から始まった「登別地獄まつり」の30周年を記念し、平成5年(1993)に登場した。「登別地獄まつり」とは8月の最終土曜日曜に開催される登別温泉最大のお祭りで、地獄谷に住む鬼達を敬い五穀豊穣を願うものである。この祭りの主役となるのが閻魔堂の閻魔様だ。地獄祭りの地獄大行列では閻魔堂から出てからくり山車に乗り込み、先頭に立って温泉街を練り歩く。座高5.2メートル、立つと6メートルという巨体で進む姿は圧巻。

15:00終了、新千歳空港に向かう。
16:30新大阪駅到達。
17:50新千歳空港出発
19:45伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道南部に足を運び、北海道南部に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏4か所(函館、江差、函館達磨大師、登別温泉閻魔像)を訪れ楽しみました。

函館、江差は何回か訪れたことのある観光名所、2か所の大仏は、初めての訪れで、ユニークな大仏で笑いを伴った観光巡りでした。







 
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十六弾:長野県小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2020年8月22-23日
  

甲信越地方の長野県に足を運び、長野県北部に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区7か所(須坂、小布、渋温泉、飯山、野沢、松代、白馬青鬼)を訪れました。

22日14:00新大阪新幹線のぞみで出発
14:56名古屋駅到達。
15:05名古屋駅しなので出発
17:54長野駅到達、レンタカーで長野駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
22日6:00レンタカーで出発

須坂:須坂市は、江戸時代に須坂藩主堀氏の館町として、また大笹街道と谷街道の交差する場として、数々の商取引きが行なわれました。その後明治から昭和にかけて製糸業で隆盛を極めました。市街地に現存する蔵は明治から昭和にかけて建築されたものが多く、蔵を生かした商店、博物館、美術館など当時を偲ぶことができます。また郊外には、素晴らしい大自然の宝庫が見られ、今なお愛され続ける温泉も旅人達を癒してくれます。

小布施:小布施は北信濃にあって千曲川東岸に広がる豊かな土地です。特に千曲川の舟運が発達した江戸時代には、交通と経済の要所として栄えました。当時は定期的な市「六斎市」がたち、人、物、情報が集まる北信濃の文化的中核ゾーンでした。交通のクロスポイント「逢う瀬」が現在の地名の由来と言われています。「六斎市」の面影は現在も毎年1月に開かれる「安市」に引き継がれています。
人が行き交い集まる歴史の中で、当地では独特の文化が花開き、多くの文人墨客が訪れました。小林一茶や葛飾北斎も小布施の魅力に引き付けられた客人の一人で、ここに残された多くの作品は、今でも私たちを魅了しています。
小布施は観光用に作られた街ではありません。伝統的に生産されて来た栗菓子製造などの産業や、育まれ継承されてきた独自の文化は、そのまま現在の街に自然と溶け込み活かされています。小布施において「文化」とは過去のものではなく現在そのものです。 遠方からの訪問者をお迎えするホスピタリティは、はるか昔より受け継がれてきました。住む人も訪れる人も幸せになれる町づくりのために様々な取り組みがなされています。たとえば「オープンガーデン」。住む人が心を込めてつくった自宅の庭をも来訪者に公開し、楽しんでもらおうという試みです。これは町内全域にくまなく広がり、小布施が「花のまち」として呼ばれるまでにもなりました。

渋温泉:地面を掘ればすぐお湯が出てしまうというくらい、源泉が数多く存在する渋温泉。温泉王国といわれる長野県でもまれな、豊富な湯量と泉質が自慢です。渋の全ての旅館と外湯は100%源泉掛け流し。源泉によって成分が異なるので、鉄分が多く褐色を帯びたものから白濁するもの、緑がかったもの、無色透明など地中から湧き出たままの温泉が味わえます。効能も神経痛から美肌までさまざま。目的や体調に合わせて湯めぐりをお楽しみください。

飯山:長野県のもっとも北に位置する飯山市は、唱歌「ふるさと」「朧月夜」などにも歌い継がれてきたような、郷愁の情景が今なお息づく悠久のふるさとです。豊かな自然風土のなかで独特の文化や歴史、伝統と人情が育まれ、趣深い寺の町並みや奥深く続く森や高原、四季の彩りをたたえる農作物など、土地土地にさまざまな魅力があふれています。
平成27年3月に北陸新幹線・長野~金沢間が開通し、「飯山駅」が誕生しました。全国各地からのアクセスがぐっと便利になりました。

野沢:日本で唯一、村の名前に「温泉」がついている野沢温泉村。冬の間は雪に覆われるこの地に湧き立つ温泉を発見したのは、聖武天皇(724~748年)の時代の僧・行基であるという説、また修行中の山伏が見つけたという説など諸説あります。いずれにしても、いにしえの時代から温泉地として知られてきた野沢温泉。その湯は、村民の生活と深く関わりながら、地域の共有財産として大切に守られてきました。

松代:松代町(まつしろまち)は、大河ドラマ「真田丸」でもお馴染みの真田家が治めていた松代藩のあった場所で、古くからの城下町の風情が残っている町です。真田十万石の城下町では至る所で真田家の家紋「六文銭」を見ることができます。
江戸時代に真田家が治める以前には武田信玄率いる武田家の領地だったこともあり、有名な「川中島の戦い」も松代城址、かつての海津城の周辺でも起こっています。また、幕末期に活躍した佐久間象山の出身地でもあります。

白馬青鬼:長野県北西部、北アルプスこと飛騨山脈の麓に広がる白馬村。冬はスキー、夏は避暑地として有名なこの地には、「青鬼(あおに)」と呼ばれる集落が存在します。
山の中腹にたたずむ小さな集落ではありますが、そこには江戸時代から明治時代にかけて建てられた大型古民家が密集して建ち並び、まるで昔話の世界に迷い込んだような雰囲気に浸ることができるのです。
くねくねとした山道を登って行くと、突如として視界が開け、大型の伝統家屋が視界に飛び込んできます。14棟の主屋と7棟の土蔵が肩を寄せ合って並ぶその光景はまさに圧巻の一言。迫力ある風景に、思わず目を見張ります。
青鬼集落は国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されていますが、特に観光地化されている訳ではなく、昔ながらの素朴な山村集落の散策を楽しむことができます。

14:00終了、松本駅に向かう。
15:05松本駅到達。
15:24松本駅しなので出発。
17:30名古屋駅到達。
18:35新大阪駅到達。

今回の旅行、
甲信越地方の長野県に足を運び、長野県北部に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区7か所(須坂、小布、渋温泉、飯山、野沢、松代、白馬青鬼)を訪れ楽しみました。
関西はまだまだ猛暑、長野県は比較的涼しい、30度以下で過ごすことができました。7つの点在する名所、気持ちよく散策しながら回ることができました。何回か訪れたことのある観光名所、白馬青鬼は初めての訪れ、山奥に位置する村、風情を感じました。























飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十三弾:新潟県佐渡小京都重要伝統的建造物群保存地区・塔観光
2020年8月1-2日
  

新潟県佐渡に足を運び、佐渡に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・塔3か所(妙宣寺、宿根木、相川)を訪れました。
1日15:35伊丹空港出発・
16:35新潟空港到達、バスで新潟駅に向かう。
17:30新潟駅付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
2日6:00歩いて佐渡汽船港に向かう。
6:40佐渡汽船到達。
7:55佐渡汽船ジェットフォイルで出発
9:05佐渡両津港到達、レンタカーで巡る。

妙宣寺:妙宣寺:佐渡配流の日蓮に仕え、熱心な法華経信者となった遠藤為盛(阿佛房日得上人)。1278年、妻の千日尼と共に自宅を寺として開いたのが始まりと伝わります。かつては佐渡守護代竹田本間氏の居城で、今もどことなく城跡の雰囲気を残しています。境内には、県内唯一の五重塔はじめ、「正中の変」で佐渡配流となった日野資朝の墓などがあります。

宿根木:中世から港があり、佐渡金山繁栄期の17世紀を経て、江戸後期から明治初期にかけては北前船稼業として発展。小さな入り江に面して、船板などを利用した板壁の民家100余棟が密集する町並みは、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。民家3棟が公開(有料)されており、集落全体が船の仕事に従事した歴史を今に伝えます。

相川:相川は、金山とともに発展し、明治以降も佐渡の行政の中心地として栄えてきた歴史のある街です。
街の中には、その歴史を感じさせる建物や町並みが今も見ることが出来ます。 史跡や観光施設も多くあります。
細く入り組んだ路地の多い相川の街は、車を降りてゆっくりと歩いて回るとより楽しめます。 坂が多いので、運動不足な人はちょっと息が切れるかもしれません。

13:30両津港に向かう。
14:00両津港到達。
14:30佐渡汽船ジェットフォイルで出発。
15:35新潟港到達、バスで新潟駅経由して新潟空港に向かう。
17:00新潟空港到達。
19:05新潟空港出発。
20:05伊丹空港到達。

今回の旅行、新潟県佐渡に足を運び、佐渡に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・塔3か所(妙宣寺、宿根木、相川)を訪れ楽しみました。

2回目の訪れの佐渡観光、歴史的建造物、街並みを散策し癒されました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十二弾:北海道小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏観光
2020年7月23-24日
  

北の北海道に足を運び、北海道に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏4か所(北海道大観音、小樽、 札幌涅槃大仏、御霊供養大仏)を訪れました。

23日15:30伊丹空港出発
17:20新千歳空港到達、レンタカーで札幌市内に向かう。
18:30札幌市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
24日6:00レンタカーで出発、芦別方面に向かう。

北海道大観音:北海道大観音は設計石本建築事務所、建設清水建設によって平成元年竣工しました。構想は昭和50年からあり、昭和53年用地買収、その頃から中に設置される仏像の製作が開始されました。平成25年に宗教法人天徳育成会に所有権が移り、北海道天徳大観音と改称され、現在は一般の人は立ち入ることができません。完成時は宗教法人に属さず、「どなたでもお楽しみいただける観光の聖地」ともうたわれていました。
北海道大観音を有した北の京芦別の起源は昭和45年に開業した芦別レジャーランドです。浴場、プール、日本庭園、十二支園、ホテル五重塔、ホテル三十三間堂等の施設がありました。北海道大観音は他の施設とは若干離れた高台に位置していたため、園内にはモノレールが設置されていました。

小樽に向かう。

小樽:札幌駅から快速列車で30分強で足を伸ばせる小樽。明治~大正期には近代化によって大いに繁栄し、戦前には貿易港として、またニシン漁の拠点として港を中心に繁栄しました。そんな時期に作られた近代的な建物や倉庫、運河が、今なおそのままの姿で残っているため、街全体がノスタルジックな雰囲気に包まれています。

札幌方面に向かう。

札幌涅槃大仏:北海道を代表する洞爺湖・支笏湖を横目に453号を札幌に向けてひた走る。その道すがらにあるのは、北の大地に横たわる黄金の涅槃像。佛願寺大涅槃聖堂という寺院のシンボルと化している。この涅槃像の出身は函館。
恵山モンテローザという温泉施設のシンボルとして存在していたが、施設の併設に伴い長い間放置&売りに出されたそう。
そのことを、新聞記事で涅槃像の存在を知り、引き取るために交渉。見事、引き取ることが決まったが、課題は函館から200キロ以上の距離をどう運ぶかが課題に。結果、涅槃像をぶつ切り(200パーツほど)に分けて運び、現地で組み立てたそう。組み立て期間は4ヶ月、恐るべき執念だ。さて、こちらの佛願寺、建物自体も新しく清潔感がある。御朱印をもらえるので収集マニアは必見。ちょっとしたカフェとかも併設されている。

御霊供養大仏:御霊供養大仏は、この拝殿は、世界的な建築家 安藤忠雄氏により、皆様の大切な御霊を見守るお顔を除いて、全てがラベンダーの丘に抱かれる設計となっており、『頭大仏』と名付けられました。原石4,000tより選別・加工し57魂より構造され、高さ13.5m総重量1,500tの石像大仏です。

15:00終了、新千歳空港に向かう。

16:00新千歳空港到達。
17:50新千歳空港出発。
19:45伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道に足を運び、北海道に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区・大仏4か所(北海道大観音、小樽、 札幌涅槃大仏、御霊供養大仏)を訪れ楽しみました。

3か所の大仏は、初めての訪れで巨大大仏、圧巻しました。

小樽は何回か訪れたことのある観光名所、GO TO TRAVELにもかかわらず、観光客は間皿、以前の訪れと比べて賑やかさに欠けていました。コロナ感染者数の増加でまだまだ自粛されているのでしょうね。










 











飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十一弾:石川県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年7月18-19日
   

北陸地方の石川県に足を運び、石川県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(白山白峰、加賀東谷、加賀橋立、金沢、輪島黒島)を訪れました。

18日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神、北陸自動車道経由して福井インター下車。

白山白峰:白山市は石川県の南東部に位置し、市域には白山を水源とする手取川が縦断する。白山北西麓は旧白峰村にあたり、谷部に集落が点在する。白峰地区は旧白峰村の中心となる集落で、白山の西を流れる手取川沿いに展開する。寒暖の差が激しく、冬期の積雪は2メートルを超える厳しい自然環境にある。白峰地区はかつて牛首と称し、その成立は不詳であるが、史料上は16世紀には成立していたことが確認できる。この地方の主たる産業は、養蚕、製炭および焼畑による畑作である。養蚕の始まりは古く、少なくとも16世紀半ばまでさかのぼると考えられる。 保存地区は、東西約230メートル、南北約960メートル、面積約10.7ヘクタールの範囲である。集落は、手取川西岸の細長い河岸段丘上に形成される。敷地が限られていたため、主屋が通りに面して建ち並ぶ特徴ある街路景観を持つ。地区中央部には、社寺および大家が居を構え、これらを囲む石垣が連なり、特徴ある景観を形成する。主屋は、二階建もしくは三階建とする。上層階を養蚕の場とするために、江戸時代からすでに多層階の主屋が普及していた。屋根は切妻造で、年代の古いものは、下屋や軒庇を設けないため、土蔵のようであることが特徴である。二階以上では、柱を半間ごとに立てるために、窓が半間幅の縦長の形状となり、二階には薪の搬入口として使用されたセドと呼ばれる開口部を設ける。また、雪下ろしの作業のために屋根にあがる大はしごが常設されており、特徴的である。さらに外壁は、下地にナルと呼ばれる直径2センチメートルから3センチメートルの木の枝を使用し、非常に厚い。これらの特徴は、いずれも豪雪に対応したものであり、気候風土に即した建築の特徴をよく示している。白山市白峰伝統的建造物群保存地区は、山間部の狭隘な敷地に形成された特色ある集落構成をもち、豪雪という気候風土や養蚕という生業に即して発展成立した地方色豊かな伝統的建造物群がよく残り、厳しい自然環境にある山村集落の歴史的風致をよく残し、我が国にとって価値が高い。

加賀東谷:加賀市の東南の山間部に位置し、大日山を源とする動橋(いぶりはし)川と杉ノ水川の上流域に点在する荒谷(あらたに)町、今立(いまだち)町、大土(おおづち)町、杉水(すぎのみず)町の4集落からなる。
さまざまな理由から現在は過疎化が進んでいるが、平成23年11月29日、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたことにより、注目が集まっている。
民家の屋根は赤瓦で葺かれ、煙出しが設けられており、この地の景観を特徴づけている。

加賀橋立:この加賀橋立は、近世前半までは茅葺民家が建ち並ぶ半農半漁の集落であったようです。
18世紀半ばから北前船の船主となる者があらわれ、寛政8年(1796)には船主34名と船頭8名が確認でき、次第に北前船にかかわる人が居住する集落へと発展しました。
明治5年(1872)に大火になるものの、速やかに痛手から立ち直って、より豪壮な住宅を再建し、復興を遂げました。
しかしその後、汽船や鉄道輸送が発達したため、北前船は輸送の主役の座を追われ、明治後半から船主や船数が減少し、衰退していきました。
明治大火前の「橋立古絵図」と現在の街路や地割を比べると、江戸末から明治初頭の集落の基本構成が、今も変わらずに残されています。
宅地は周囲を塀や石垣で囲み、建物や塀の基礎石、石垣、参道や宅地の石段や石敷には淡緑青色の笏(しゃく)谷石(だにいし)が使用され、集落に柔らかな質感と独特な風合いがあります。

19:20金沢西インター付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

19日6:30車で出発、

金沢:「加賀百万石」の城下町として栄えた金沢には日本三名園の一つである兼六園や玉泉院丸庭園などがあり、街を歩けば江戸時代の町風情を感じられるひがし茶屋街、長町武家屋敷跡などもあります。金沢城から南にある寺町寺院群では忍者寺として有名な妙立寺が、若者が集まる香林坊付近には金沢21世紀美術館や石川県立美術館などアートの世界を堪能する施設があります。その他、伝統工芸である金箔作りを学べる安江金箔工芸館など、文化的思索に耽ることができる観光地となっています。

輪島黒島:石川県能登半島の輪島門前町にある黒島地区は、江戸時代から明治時代にかけての海運で活躍した北前船の隆盛に沸いた港町。今でも当時のおもかげが色濃く残る街並みは、漆喰の白壁と能登特有の黒い屋根瓦による美しいモノトーンが特徴。狭く入り組んだ路地が、さらに街並みの味わいを深くしています。2009年に、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定された歴史ある街並みを、ゆっくりと散策してみましょう。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、北陸地方の石川県に足を運び、石川県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(白山白峰、加賀東谷、加賀橋立、金沢、輪島黒島)を訪れ楽しみました


白山白峰、加賀東谷、加賀橋立、輪島黒島は初めての訪れ、門前町、港町等、歴史的建造物の街並み癒されました。

金沢は何回も訪れたことのある観光名所、再確認しながら巡りました。








 



















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三十弾:富山県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年7月11-12日
  

北陸地方の富山県に足を運び、富山県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(高岡、井波、城端、五箇山、越中八尾)を訪れました。

11日13:36新大阪駅サンダーバード、北陸新幹線で出発
17:06富山駅到達。富山駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

12日8:00レンタカーで出発

高岡:富山市に次ぐ富山県第2の都市、高岡市。かつて加賀藩主前田利家公の長男である利長が築いた、高岡城の城下町であったことでも知られています。伝統的建造物などが残されており、日本遺産に認定。美しい海岸やドラえもんゆかりのスポットも楽しめます
高岡市には「山町筋」という土蔵造りの家屋が建つ街並みが残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。 山町とは、"高岡御車山祭(たかおかみくるまやままつり)"での"御車山"をもつ町のことをいいますが、その昔、豊臣秀吉の使用した御所車が前田利長によりこの町民にあたえられ、それぞれの町が伝統工芸により絢爛豪華に仕上げています。
高岡市には、加賀藩二代目藩主前田利長が築いた高岡城の跡が「高岡古城公園」として残されています。公園にはお城は残されていませんが、貴重な石垣が見どころでお濠の水面や歴史が感じられる石垣の景観は見ておきたいところ。お濠には春と秋の期間限定で遊覧船が運行、小さなお子さま連れにも人気です。桜の名所としても知られており"日本さくら名所100選"に選定されています。
高岡市内には、日本三大仏の一つともいわれている「高岡大仏」があります。地元の銅技術によってつくられている大仏は、高さ約7メートル強、全体では16メートル弱の大きさ。30年という長い年月をかけて造られていますが、1933年、歌人である与謝野晶子が訪れた際に"鎌倉大仏より美男"と評されたともいわれていますので、訪れておきたいスポットの一つです。
加賀藩二代目藩主前田利長公の菩提寺「瑞龍寺」。広い境内を囲んでいる回廊、規則的に並ぶ障子、壮観な白壁、古い梁などの造りは見事な景観です。通路の左右には、壮観な緑の芝生と法堂を中心に回廊が続いており、"仏殿"には素晴らしい彫刻が施されています。1997年、仏殿、法堂、山門の三棟が近世禅宗様建築の代表作として国宝に指定されています。

井波:日本一の木彫りの町として知られる南砺市の井波地区。井波彫刻はこの地の古刹・真宗大谷派井波別院瑞泉寺の歴史とともに生まれました。2018年5月、「木彫刻のまち井波」の歴史・文化の魅力を伝えるストーリー≪宮大工の鑿(のみ)一丁から生まれた木彫刻美術館・井波≫が日本遺産に認定。今後は国の支援を受けながら、有形・無形の構成文化財を整備・活用してこのストーリーの魅力を国内外へ発信し、日本遺産を通じた地域活性化が図られます。

城端:越中の小京都とも呼ばれる古い町並みが残る城端。伝統ある城端絹や、300年以上続く曳山祭りなどこの地で代々受け継がれてきた歴史を見ることができる。
小さい町ながら標高差があるため、坂の町として知られる城端。車が通らない情緒ある坂や小路も多いので、徒歩で楽しむのがおすすめ。
城端絹は戦国時代からの歴史が伝わる絹織物。江戸時代に加賀藩の庇護で発展、小松(石川県)の製品とともに『加賀絹』として珍重された。往時は五箇山や福光の繭や生糸を使用して作られた。絹の滑らかさと手織りの風合いが美しい。

五箇山:五箇山は、富山県の南西端、庄川沿いに位置する自然豊かな地域です。立ち並ぶ合掌造りの建物、のどかな山村風景、どこか懐かしい小さな山里が点在します。その中で、相倉(あいのくら)集落と菅沼(すがぬま)集落が岐阜県白川郷荻町集落と一緒に1995年 「世界遺産」に登録されました。日本を代表する文化遺産に多くの方が訪れています。
五箇山は今も人々が生活する暮らしの場です。昔と変わらない小川の流れや田んぼのあぜ道、合掌造りの家々・・・必要以上に人の手が入っていない素朴でこじんまりとした農村集落は、日本の原風景そのもの。また、五箇山は民謡の宝庫として知られ、「こきりこ」や「麦屋節」「といちんさ」などの民謡がうたい踊りつがれ時代を越えて息づいています。

越中八尾:「おわら風の盆」で全国的に有名な富山市八尾町。その中心部を走る石畳のまち並みで、一般家屋も色や形を統一しており、江戸時代のまち並みの佇まいを残しています。石畳舗装、無電線化の整備が行なわれ、昭和61年には「日本の道100選」に選ばれました。

18:00富山駅到達。
18:35富山駅北陸新幹線、サンダーバードで出発
21:44新大阪駅到達。

今回の旅行、北陸地方の富山県に足を運び、富山県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(高岡、井波、城端、五箇山、越中八尾)を訪れ楽しみました。

天候不順もあり、観光客は少なく、道路も渋滞がなく、スムーズに観光巡りできました。


























 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十八弾:福島県小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2020年6月20-21日
  

東北地方の福島県に足を運び、福島県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(三春、大内宿、前沢、檜枝岐、会津若松、喜多方)を訪れました。

20日14:50伊丹空港出発
16:00仙台空港到達、レンタカーで福島県三春方面に向かう。

三春:樹齢1000年以上と推定される国指定天然記念物のベニシダレザクラで、日本三大桜のひとつに数えられています。薄紅色の小さな花を枝いっぱいに咲かせ、その姿が滝のように見えることから名がついたとも言われています。
場所によってさまざまな表情を見せてくれますが、正面からの花と幹は圧巻です。
福島県のほぼ中央部、阿武隈山系の西裾に位置し、郡山市の北東に隣接している。町のほとんどが標高300~500mの丘陵地で、ゆるやかな山並みが続いている。気候は内陸性気候で、冬の降雪は少なく、夏もあまり暑くない。

19:00会津若松方面に向かう。
18:00会津若松駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

21日4:00レンタカーで出発

大内宿:福島県南会津【大内宿】は、江戸時代に会津若松市と日光今市を結ぶ重要な道の宿場町として栄えました。
現在も江戸時代の面影そのままに茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並び、昭和56年には国選定重要伝統的建造物郡保存地区に指定されています。
この大切な村・宿場の景観を未来の子供たちに引き継いで行くために、住民憲章を作り「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り景観の保存にと伝統的な屋根葺きの技術習得、継承に全員で取り組んでいます。

前沢:前沢集落は、平成23年6月に「南会津町前沢」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
明治40年、集落のほとんどの建物を焼失した大火の後に周辺地域の大工の手により一斉に再建されたため、統一的な意匠による景観が形成されました。
家屋(主屋)は、茅葺屋根でその構造から直家とL字型の中門造(曲家)に分類され、中門造が多くを占めています。
中門造は、かつて家族同様に大切にされてきた農耕馬と人が一緒に生活する構造となっており、妻面には、明かり取りの窓、梁と貫の木組み、前包の彫刻、狐格子など意匠性の高い造りとなっています。
集落内には、中門造り(曲家)13棟を含む伝統的家屋が19棟あり、現在も人々の暮らしが息づいており、日本の原風景を今に残しています。

檜枝岐:檜枝岐村(ひのえまたむら)は、福島県会津地方南西部に位置し、南会津郡に属する村。
1889年(明治22年)4月1日に誕生した。日本有数の「特別豪雪地帯」。平家の落人伝説が残る。村民の姓は「星」「平野」「橘」で占められる。
神にささげる奉納歌舞伎として行われてきた檜枝岐の伝統歌舞伎です。その昔、江戸で歌舞伎を観劇した農民が、見よう見まねで村に伝えたのがはじまりと言われています。以来、親から子へと270余年に渡り継承され、衣装作りから化粧など裏方もすべて村人が行っています。昔のままの歌舞伎の姿を鑑賞できることもあり、現在では遠方からも多くの歌舞伎ファンが訪れています。

会津若松:会津地方の中心、会津若松と言えば鶴ヶ城・白虎隊の飯盛山などが有名で、5年前の大河ドラマ「八重の桜」の舞台でもありますが、市町地の中心、大町四ツ角から西に延びる七日町通りは、観光客をはじめ全国の商店町からも注目を集めています。明治元年の戊辰戦争での戦火で市街の殆どが灰塵と化したあと、明治から昭和初期の繁栄を極めた時代に有力商人が建てた建物が商店町として市内各所に残っていました。この町並みも高度成長期に衰退しましたが、蔵や洋館、木造商家など奇跡的に残っていた建物を再生して、大正浪漫ただよう町並みとして復活されました。喜多方の蔵の町並みとは全く違う雰囲気で、懐かしい気分になれる町歩きができます。秀吉から会津の地を与えられた蒲生氏郷は91万余石を領し、家康・毛利輝元に次ぐ有力大名でした。領主は江戸初期に蒲生~上杉~加藤とめまぐるしく代り、寛永20 (1643) 年、保科正之が最上から移封されたあと、松平姓が与えられ、徳川御三家に次ぐ大名として幕末まで続きました。中世の城下町を近世の城下町若松を造ったのは蒲生氏郷で、理想的な自由経済都市建設という信長の夢を実現しようと町づくりに着手しました。武士と町人の雑居が改められて、郭外の町割りを定めて商人・職人の居住地を定め、市を開くことを許しました。これによって武家屋敷と町人町が区別され、今まで郭内にあった、大町・馬場町が郭外に移されました。町並みとしての七日町辺りは、氏郷の城下町整備によって大町が郭内から今の位置に移ってきた時にできた町で、大町札辻より西に行く越後・出羽両国に通じる町道に沿った町でした。交通の要衝なので旅籠屋が多く、幕末には城下全町の旅籠屋95軒中、七日町だけで30軒を数えていました。戊辰戦争での壊滅的な被害の復興を支えた有力商人たちが建てた店舗や店蔵・土蔵・伝統的な様式の民家が、大町から七日町の通りに残ります。只見線の七日町駅の東から国道118号線にぶつかる辺りの1km余りには、土蔵造りの店、レンガ造りの土蔵、洋風な近代建築と、様々な建物が通りに面して建っています。特筆すべきは、明治期以後の洋風建築が数多く残っていることです。

喜多方: 喜多方小田付は、本市の中心市街地に位置し、天正10年(1582年)に町割が行われ、近村から定期市(いち)が移されました。近世には酒や味噌、醤油の醸造業も盛んになり、会津北方の交易の中心地として発展してきました。江戸時代末期までに成立した道路、水路、宅地割が良く残されており、その上に店蔵など多様な土蔵等が建ち並ぶ町並みは、在郷町・醸造町としての特徴的な歴史的風致を形成しています。

15:00仙台空港に向かう。

16:30仙台空港到達。

17:35仙台空港出発
18:55伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の福島県に足を運び、福島県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(三春、大内宿、前沢、檜枝岐、会津若松、喜多方)を訪れ楽しみました。

すべてが今まで訪れたことのある観光名所、時間をかけてゆっくり散策観光しました。

尚福島空港行きの飛行機を予定していましたがコロナの影響で欠航、近くの仙台空港に変更いたしました。
仙台空港から福島県会津若松には車で2時間弱かかります。早朝出発で観光時間を稼ぎ回りました。





























 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十七弾:長野県小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2020年6月13-14日
 

甲信越地方の長野県に足を運び、長野県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区8か所(妻籠、奈良井、木曾平沢、下諏訪、茂田井、海野宿、上田、松本)を訪れました。 

13日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神、中央自動車道経由して中津川インター下車

妻籠:中山道は古くは東山道と呼ばれ機内と内陸部を結ぶ道路として知られていましたが、妻籠宿戦国時代に入ると戦略的に重要視され飛躍的に整備されました。妻籠宿も室町時代末期には宿場町として成立していたと推定され、関ヶ原の合戦の際には中山道を進軍していた徳川秀忠は妻籠宿(木曽郡南木曽町)で東軍の勝利の報告を知ったと言われています。江戸時代に入り中山道(木曽路)が整備され慶長7年に宿場として67宿を制定し、妻籠宿は正式に宿場町として認められています。妻籠宿妻籠宿には本陣、脇本陣、問屋が置かれ江戸時代初期までには口留番所が設置されるなど重要視され大平街道が交差していた交通の要所として多くの人達が行き交いました。妻籠宿は大きく宿場、寺下、在郷と分かれ、宿場では木造2階建て、切妻、平入りで2階部は出桁造りで張り出し比較的間口の広い建物で構成しています。寺下は光徳寺の門前町として発展し上・下嵯峨屋など間口が狭く比較的規模の小さい町屋で構成され、在郷は農家建築と町屋が混在しています。妻籠宿は明治時代以降、主要交通が街道沿いから外れた為、現在でも旧中山道宿場町の町並みを色濃く残り昭和51年に重要伝統的建造物群保存地区に昭和56年長野県自然保護条例の郷土環境保全地区に指定されています。

奈良井:奈良井宿(塩尻市)は戦国時代に武田信玄が街道を整備した際、宿駅として設置された事が都市的な起源とされます。奈良井宿慶長5年の関が原の戦いでは徳川秀忠の徳川本隊が中山道を西上し重要性が改めて認識されています。慶長7年に本格的に中山道が整備され六十七の宿場が設置され伝馬制度も整備されました。奈良井宿もその一翼を担い、特に中山道の中でも最大の難所と呼ばれた鳥居峠を控えていた事で、奈良井宿で多くの旅人や物資の運搬者が宿泊や休息で利用した為、大きく発展し「奈良井千軒」と称される程に繁栄しました。奈良井宿奈良井宿は南北約1キロ、東西約200m、宿場の両端には守護神となる神社が鎮座し山裾には5つの寺院が境内を構えていました。奈良井宿は上町、中町、下町の3町で構成され、宿場町を経営する主要施設である本陣、脇本陣、問屋は中町に集中して設けらました。町並みを形成する町屋は概ね木造厨子2階建、切妻、平入、鉄板葺(旧石置き屋根)、2階正面は前に張り出す出桁造、2階外壁両端には防火用の袖壁、1階には下屋庇(小屋根)が設けられています。現在も良好な町並みが保たれ昭和53年に国の重要伝統的建造物群保存地区の選定されています。

木曾平沢:木曽平沢(塩尻市)は中山道沿いに発展した町ですが正式な宿場町ではなく、鳥居峠を控え「奈良井千軒」とまで言われた隣接する奈良井宿の枝郷でした。木曽平沢慶長3年に奈良井川の対岸にあった中仙道(中山道※木曽路)を現在のように付け替え、さらに慶長7年に街道の整備が行われた際、町割が行われ木曽平沢町が形成されたと推定されています。寛永2年の大火により多くの建物が焼失、その為、新たな町割では木曽平沢主屋と街路との間にはアガモチと呼ばれる空地を設けたり、隣の主屋同士も近接させず敷地奥にあるヌリグラ(漆塗りの作業場)への通路にするなど火災への工夫が見られます。基本的な主屋は2階建て、又は中2階建て、切妻、平入、板葺石置屋根で間口が3間が多く、ヌリグラは通常の土蔵より開口が大きくとり漆器の作業に適した建物になっています。木曽平沢は全国的にも少ない漆器生産の町として特徴ある町並みで伝統的町屋や塗蔵など多数現存していることから平成18年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

塩尻方面に向かう。

18:30塩尻市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

14日6:00車で出発

下諏訪:長野県の下諏訪町は、諏訪大社の総本社・下社が鎮座する町として、多くの観光客が訪れます。古くから温泉の出る宿場町として栄えていたのですが、実は近年、町にはセンスの良いお店が増えているのです。季節のメニューが人気のカフェや、アンティーク好きにはたまらない古道具屋、古い旅館を改装したゲストハウスなど、これらすべてが徒歩圏内に凝縮しているのです。

茂田井:望月宿から芦田宿へと続く旧中山道の間の宿。白壁と土蔵の続く静かな道筋は、旅人が気軽に立ちよれる雰囲気に満ちています。
旧中仙道沿いに用水が流れ、それに沿って古い家並みが続き、江戸時代の落ち着いた景観を残している。

海野宿: 北国街道が開削された寛永2年当時は海野宿(東御市)と田中宿は合宿でしたが寛保2年の大洪水で海野宿田中宿が大被害を受けると本陣が海野宿のみとなり本宿となりました。海野宿には本陣1軒、脇本陣2軒が設けられ参勤交代で宿泊や休息で利用する大名や善光寺詣での参拝客、佐渡金山で採掘された金や鉱物の輸送などで大変賑わいました。延享3年に記録された「海野宿屋敷割図」には総延長約6町宿場の東西に枡形、中央に水路が設けられ両側には103軒の家屋が軒を連ねていたとされ25頭の馬が物資や書簡などの物流を支えていました。海野宿明治時代に入ると宿場制度が廃止されると海野宿にある本陣や脇本陣、旅籠などの旅館業が急速に衰退し、変わって養蚕業が発達します。現在見られる海野宿の町並みの中にも元々旅籠だった建物を改築し養蚕場とし屋根上部に「気抜き」と呼ばれる煙出しの小屋根を揚げている様子が随所に見られます。養蚕業は大きな富をもたらし、海野宿の町並みの特色の1つでもある「袖うだつ」を外壁の両側に上げる家が増え現在見られるような特徴ある町並みが形成しました。海野宿は現在も良好な町並み保存され昭和62年には重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

上田:千曲川が流れ、菅平や美ヶ原高原に囲まれた自然豊かな長野県・上田市。真田三代の郷としてよく知られる「上田」は、古くから信州の政治や文化の要として歴史を紡いできた町です。自然豊かな「上田」には、その環境と相応した素晴らしい観光名所が数多く点在しています。中でもJR東日本・しなの鉄道・上田電鉄が乗り入れている「上田駅」の周辺の中心エリアには、「上田城跡公園」の他、真田一族由来の寺社仏閣や、古い町並み等など、魅力溢れる観光スポットが数々あり、散策するのに絶好の場所です。

松本:松本市は、北アルプスの麓に広がる人口約24万人の街です。市内には「国宝松本城」をはじめ、重要文化財に指定されている「旧開智小学校校舎」、城下町の面影を残す「縄手通り」や「中町通り」など、多くの観光スポットがあります。特に「国宝松本城」は国内外から大勢の観光客が訪れる人気のエリアです。

16:00終了帰路に向かう。

今回の旅行、甲信越地方の長野県に足を運び、長野県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区8か所(妻籠、奈良井、木曾平沢、下諏訪、茂田井、海野宿、上田、松本)を訪れ楽しみました。

殆どが訪れたことのある観光地、木曾平沢、茂田井、海野宿は、始めての訪れで、茂田井、海野宿は立派な宿場町で感動しました。

尚数か所に道路通行止め、迂回を余儀なくされました。昨年の豪雨、台風、今年の地震の影響によるのか。
  



















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十五弾:広島県小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2020年5月30-31日
  

中国地方の広島県に足を運び、広島県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地7か所(鞆の浦、上下、尾道、竹原、西城、御手洗、宮島)を訪れました。

30日13:38新幹線のぞみで出発、
14:39福山駅到達、レンタカーで出発

鞆の浦:福山駅から南へ14kmの瀬戸内海沿岸のほぼ中央に位置する鞆の浦。古くから潮待ちの港として栄え、万葉集にも詠まれています。また、日本で最初の国立公園に指定された瀬戸内海を代表する景勝地の1つです。波穏やかな瀬戸の海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶのどかな風景は心洗われます。江戸時代には北前船の寄港地としても栄え、朝鮮通信使も幕府の慶賀などのために度々寄港。福禅寺が迎賓の場所として使われました。福禅寺本堂隣の「対潮楼」は1690年頃に客殿として建てられたもので、賓客の宿舎として使われました。座敷からは瀬戸内海の絶景が広がり、朝鮮通信使の従事官の李邦彦が「日東第一形勝」(対馬より東で一番美しい景い勝地という意)と賞賛しました。鞆の浦は国内外との交易で栄えた港で歴史に名高い旧跡や遺構も多く残されています。最近では、映画のロケ地や演歌の舞台となるなど、注目を集めています。2018年5月には、鞆の浦の港町文化をテーマとしたストーリー「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町~セピア色の港町に日常が溶け込む鞆の浦~」が日本遺産に認定。一つの地域が国の「重要伝統的建造物群保存地区」、ユネスコ「世界の記憶」と合わせて3つの評価を受けているのは、国内で鞆の浦だけです。

上下:広島県の府中市にある上下町は、かつて石見銀山からの銀の集積中継地であったため、幕府直轄の天領として地域の政治・経済の中心地でした。そのため現在でもその面影を残す白壁・なまこ壁の美しい建物が並ぶロマンあふれる町並みが残っています。
またこの上下は「分水嶺」と呼ばれる山脈の上の境目の町で、ここに降った雨は北は日本海へ、南は瀬戸内海へと2つの川に分かれて流れる、という地理的な特徴を持つ町でもあります。

18:30尾道駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

31日6:00レンタカーで出発

尾道:自然の良港を持つ尾道は、平安時代の嘉応元年(1169年)、備後大田荘(後、高野山領)公認の船津倉敷地、荘園米の積み出し港となって以来、対明貿易船や北前船、内海航行船の寄港地として、中世・近世を通じて繁栄をとげました。港町・商都としての発展は各時代に豪商を生み、多くの神社仏閣の寄進造営が行われました。
 海を望む階段や坂道、路地越しに見える尾道水道、点在する寺院など、歴史を凝縮した景観に魅かれ、この地で「暗夜行路」の草稿を書いた志賀直哉、尾道の女学校に通った「放浪記」作者の林芙美子、この地をこよなく愛し描き続けた小林和作をはじめ、多くの文人墨客が足跡を刻みました。また、近年では数々の映像作品の舞台となり映画のまちとしても有名です。
 明治31年(1898年)、県内では広島市に次いで2番目に市制を施行し、周辺市町村との合併(※)を経ながら市域を拡大して、緑豊かな北部丘陵地域から尾道水道周辺地域を経て独特の多島美を有する瀬戸内海地域に至る、多彩な資源を有するまちになりました。
 歴史と文化に溢れる島々を結び、全長約70kmの海の道をサイクリングで満喫できるしまなみ海道をはじめとする新たな魅力と歴史・伝統に育まれた資源を活かし、他にはない魅力的な価値を持つまちづくりを推進しています。
 瀬戸内のほぼ中央に位置し、山陽自動車道、瀬戸内しまなみ海道に加え、平成27年(2015年)3月に全線開通した中国やまなみ街道(中国横断自動車道尾道松江線)により、広域拠点としての機能は高まり、まさに「瀬戸内の十字路」としての発展が大いに期待される都市です。

竹原:海地区は,古くから海運の要として繁栄した地区であり,JR忠海駅の北側には潮待ち港として港町の歴史ある建築物が多く残っており,南側には大久野島への玄関口である忠海港や瀬戸内特有の風光明媚な自然景観などの地域資源を有しています。

西城:駅の東側に多くの酒造施設が密集し、レトロな洋館社屋を前に構え、赤い煉瓦煙突を看板代わりにした西条独特の酒造会社スタイルの醸造元や、白い漆喰と黒い海鼠壁とのコントラストが美しい土蔵造りの酒蔵群、千本格子の町家造りも残るバラエティに富んだ町並みを散策してみてはいかがでしょう。駅の西側にも二軒の蔵元があり、カフェやレストランなどもやっています。

御手洗:「御手洗(みたらい)」という地名の起こりは、神功皇后が、三韓侵攻の時、この地で手を洗われたという事から、呼ばれるようになったという伝説があります。もう一点は、901年、菅原道真公が大宰府に左遷されたとき、九州に向う途中で、この地に船を着け、天神山の麓で、口をすすぎ、み手を洗われ、お祈りをしたという伝承が残っています。現在、この麓に天満神社が祀られ、「菅公御手洗いの井戸」として、深い信仰を集めています。お正月の書き初めにこの井戸の若水を使うと文字が上手になるといわれています。江戸時代より風待ち、潮待ちの天然の良港とされていた御手洗は人と情報が集まる要衝地として十八世紀に入って急速に発展した。四軒の「茶屋」が置かれ花街として歴史に色を添えた遊女達。夕暮れ時、聞こえる三味の音、無数の宿の灯りなど、海面に映える隆盛の輝きは黄金の島にふさわしい景色だったことでしょう。今は江戸時代の家並みと史跡から伺い知ることが出来ます。

宮島:宮島は、太古からその島の姿と、弥山[みせん]を主峰とする山々と、昼なお暗い原始林に覆われた山容に霊気が感じられたところから、周辺の人々の自然崇拝の対象となっていました。嚴島神社は、社伝によりますと推古元年(593)に佐伯部[さえきべ]の有力者であった佐伯鞍職[さえきくらもと]により現在の場所にご創建されたと伝えられています。大同元年(806)に、僧空海(弘法大師)が唐から帰朝し、京の都へ帰る途中に宮島をご覧になり、島から霊気を感じ、ここは霊場に違いないと弥山に御堂を建て、百日間の求聞持[ぐもんじ]の修法をされました。このとき修法で使われた火が、今なお弥山霊火堂で燃え続けている「消えずの火」です。久安2年(1146)に、平清盛が安芸守に任ぜられました。清盛公は、夢枕に立った老僧から「嚴島神社を造営すれば、きっと位階を極めるであろう。」という示現を受け止め、嚴島神社を深く信仰し、当時の寝殿造りを模して造営され、また舞楽を大阪四天王寺から移したほかに、清盛公をはじめ一門により法華経を写経し、清盛の願文[がんもん]と共に奉納された写経が平家納経で、国宝中の国宝と言われています。このほか甲冑や刀剣をはじめ等美術工芸品を奉納するなど、都の文化を宮島に移しました。また社領を増やすなど厚い庇護をいたしました。都からは、清盛公をはじめ平家一門のほか、後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院・中宮徳子らの皇族や貴族が社参しています。平家は壇ノ浦に滅びましたが、その後の鎌倉幕府や室町幕府、地元の領主大内氏や毛利氏、また、豊臣秀吉も篤く信仰し庇護いたしました。人々が宮島に住み始めたのは、鎌倉時代末と思われます。初めに、神職や供僧が住み、そして庶民が住み始めたと思われます。戦国時代、中国地方の有力者であった大内義隆は、宿老の陶晴賢[すえはるかた]の謀反により長門大寧寺[だいねいじ]で自刃してしまいました。義隆と盟友関係にあった毛利元就は、晴賢に兵を向けましたが、兵力は陶軍がはるかに優勢であったので、策を謀り、宮島の北に位置する宮ノ尾に城を築き陶軍を宮島に誘き寄せました。弘治元年(1555)9月のことです。陶軍は、2万の兵を宮島に上陸させ、まず勝山城(多宝塔付近)に本陣を置き、続いて宮ノ尾城が良く見える塔の岡に置いて攻めたてましたが、守りが堅くなかなか落とすことができませんでした。元就は、10月1日おりからの暴風と暗闇にまぎれて対岸の地御前[じごぜん]から3千5百の兵を引き連れて密かに包ヶ浦[つつみがうら]に上陸し、塔の岡の背後の尾根である博打尾[ばくちお]に登り、一気に陶の本陣めがけて攻め下りました。陶軍は、混乱し戦うすべもなく敗走しました。陶軍の勇将弘中隆包(ひろなかかね)は、絵馬ヶ岳(駒ヶ林)に敗走して自刃し、晴賢はわずかな手勢を引き連れ大江の浦に落ち延びましたが、自刃し果ててしまいました。この戦いを「厳島合戦」といい「日本三奇襲戦」の一つといわれています。毛利氏は、陶氏を滅ぼし中国十カ国のほか豊前や伊予を支配し強大な勢力を誇る戦国大名になりました。毛利元就・隆元父子は、天神社を創建し、反橋[そりばし]や大鳥居の再建や社殿の廻廊を張り替え、また能舞台を寄進し演能するなど、その後の嚴島神社の発展に大きく寄与しています。豊臣秀吉は、天正十五年(1587)戦没将兵の供養のため、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に命じて大経堂(千畳閣)を造立いたしましたが、慶長3年(1598)秀吉が亡くなったため、完成間近で工事は中止されました。完成していれば桃山時代の美術工芸の粋を集めた素晴らしい建物になっていたことでしょう。江戸時代になると、福島正則が安芸国の藩主となり商業・廻船業を保護いたしました。続いて藩主となった浅野氏も継承し、宮島は交易の中継基地として発展し、歌舞伎や大相撲・富くじなどが催され、瀬戸内地方文化の中心地としても栄えました。僧誓真[せいしん]は、広島で米屋を営んでいましたが、一念発起、宮島光明院で仏門に入り了単[りょうたん]上人の導きを受けました。当時から島には多くの貴人・文化人・商人・参拝客が訪れていましたが、これという宮島の産業がないことを嘆き、弁財天の琵琶をヒントに杓子を考案して島民に教え普及いたしました。
また水不足を解消するために井戸を掘り(誓真釣井)、雁木[がんぎ]を造るなど宮島の恩人の一人として今でも慕われ、光明院の近くにはその遺徳を称え誓真大徳碑が建立されました。 慶応元年(1865)尊皇倒幕を推進する長州藩とそれを押さえようとする徳川幕府の間で第二次長州戦争が起こりました。慶応2年(1866)大願寺が休戦交渉の場所となり、幕府海軍奉行勝安房守(勝海舟)と長州の広沢正臣らで休戦会談が行われました。明治元年(1868)神仏分離令が発令され、廃仏毀釈[はいぶつきしゃく]運動が起こり、宮島に多くあった寺院が廃寺となりましたが、主な7ヶ寺が残り、嚴島神社や千畳閣・五重塔にあった仏像が寺院に移されるなど少なからずの混乱がありました。明治8年(1876)に傷みの進んでいた大鳥居が建て替えられました。何年もかかって主柱となる材料(楠の自然木)を探し出し、宮崎県の現在の西都市と香川県の丸亀市から調達し、他の部材は広島市や宮島内で調達し再建されました。初代の総理大臣伊藤博文(1841~1909)は、弥山三鬼大権現を篤く信仰し宮島をたびたび訪れています。弥山三鬼堂や大願寺の掲額(現在は歴史民俗資料館に展示)は、伊藤公の直筆といわれています。また、伊藤公は浄財を集め、私財をあてて、弥山登山道を整備いたしました。大正12年(1923)宮島全島が国の史跡名勝に指定され、昭和25年(1950)には瀬戸内海国立公園に指定され、また平成8年12月には、嚴島神社が原爆ド-ムと共にユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録されました。嚴島神社は、ご創建以来、台風や落雷などの自然災害や厳島合戦・神仏分離令などのため、再建・修復の繰り返しで今日の姿があります。

17:00終了、広島駅に向かう。

18:00広島駅到達。
18:42広島駅新幹線のぞみで出発
20:07新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の広島県に足を運び、広島県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地7か所(鞆の浦、上下、尾道、竹原、西城、御手洗、宮島)を訪れ楽しみました。

上下、御手洗は初めての訪れで散策巡りました。重要伝統的文化地区の街並みは何処も類似していることが多いですが初めての訪れは新鮮味を感じながら巡り楽しめました。
他の重要伝統的文化地区は何回か訪れたことがあり過去の記憶を確認しながら巡りました。

尚緊急事態宣言解除により、人も車も増えていますがまだ以前の賑やかさには程遠いです。これから徐々に増えていくでしょうね。感染防御対策しながら訪れることですね。



























飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十九弾:静岡県・山梨県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年4月18-19日
   

静岡県・山梨県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(遠州森、由比、松崎、下田、赤沢宿)を訪れました。

18日13:48新大阪新幹線ひかりで出発
15:13浜松駅到達、レンタカーで出発

遠州森:遠州森町は静岡県西部の山間地にあり、三方を小高い山々に囲まれ、町の中央を清流「太田川」が流れ、どこか京都に似た風情を感じる町。 その昔、火伏せの神「秋葉山(あきはさん)」へ通ずる秋葉街道の宿場町として賑わい、今も街道脇に残る格子戸の町家や路地裏の土蔵はその時代の名残です。 大正12年(1923年)7月、森町を訪れた地理学者「志賀重昂(しがしげたか)」は、山紫水明のこの町を「小京都」と称賛し、以来遠州の小京都と呼ばれるようになりました。

由比:由比は、東海道16番目の宿場町として、近代では農業と漁業を中心に栄えてきました。由比本陣は、宿場の中央に位置し、約1,300坪の広大な敷地でした。現在は、文化資源を保存する場、文化活動の場、市民憩いの空間として本陣跡地に「由比本陣記念館」「正門・塀」「記念館庭園」「東海道広重美術館」「物見塔」「由比宿交流館」等を整備し、由比宿本陣公園として親しまれています。公園内には、芝生公園、池などがあり、憩いの場としてくつろぐことができます。

19:00新富士駅付近のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

19日7:30レンタカーで出発

松崎:松崎町は、伊豆半島の南西部に位置する小さな海辺の町。あの大ヒット小説『世界の中心で、愛を叫ぶ』のドラマロケ地としても知られています。そんな松崎町を象徴するのが、蔵の壁などでよく見られる黒と白の幾何学模様「なまこ壁」の建造物。現在190棟余り残っており、昔ながらの風情ある景観を保ち続けています。ほかにも豊富な湯量が自慢の「温泉」、東日本では珍しい石積みの美しい棚田「石部の棚田」など、自然と歴史を楽しめるスポットがたくさんあります。

下田:伊豆半島の南端に位置する下田。幕末期、黒船で来航したペリー提督とアメリカ海軍が歩いたとされるペリーロードをはじめ、下田には日本の開国史にまつわる歴史名所が点在しています。また国内有数の美しいビーチも見逃せません。

赤沢宿:早川町赤沢は中世の頃から、聖地身延山と霊場七面山を結ぶ参道の宿場として知られて来た。
江戸時代初期、徳川家康の側室・お万の方の功績により、七面山の女人禁制が解かれたこと、同・中期頃になり山岳信仰の富士講、身延講などの講が盛んになったこと等の影響もあり、七面山への参詣者は急増した。また、それに伴い七面山の参道が整い、途中には寺や坊が置かれるようになると、自然と赤沢の宿の利用者も多くなり講中宿場としての形態が次第に整ってきた。
明治の初期には参詣客を案内する強力、駕籠人足、荷を専門に運ぶ荷背負い業も増え、赤沢34戸の内9軒が旅籠屋を営むようになったのである。
大正から昭和期にかけて、身延線の開通と共に参詣客が急増し、赤沢宿も隆盛をきわめたが、迂回道路の整備や交通の便が良くなるに従い、昭和30年代頃から宿を利用する者は激減してきている。
選定を受けた赤沢宿は、近世から昭和初期にかけて七面山への講中宿・旅籠として発達してきた。集落にはこの往時の隆盛の過程を示す伝統的建造物や民具が多く、保存状態も良い。町並や参道、敷地の形態、石畳、古道、石段など周囲の山々と良く調和し、歴史的自然的景観をよく残している。
伝統的家屋の建築年代は、古いものでは寛政4年(1792)や、天保4年(1833)の物がある。当時は小屋組構造、平入切妻屋根、草葺き屋根や笹板葺き石置屋根が一般的であった。旅籠屋も平屋であったが、明治中期から大正期にかけで、入母屋2階建に増築されている。

15:00終了、静岡駅に向かう。

16:00静岡駅到達。
16:07静岡駅新幹線ひかりで出発。

17:57新大阪駅到達。

今回の旅行、静岡県・山梨県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(遠州森、由比、松崎、下田、赤沢宿)を訪れ楽しみました。

コロナウイルスの影響で全国緊急事態制限、外出自粛要望、あえて免疫下げない、人に接しない方法で外出旅行しました。

在来線、新幹線はがらすき、レンタカーの移動は、人と接しない、ホテル、レストラン、売店もがらすき、観光名所もほとんど人がいない、人と接触を避けて旅行しました。結果的に問題なく人との接触は避け、太陽の光を浴び、適度な運動、ストレス解消の癒された観光巡り、免疫を十分に上げることができました。

人と接しないことを守ることができれば外出旅行は免疫を上げる意味で有効でした。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十七弾:神奈川県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年4月4-5日
  

関東地方の神奈川県に足を運び、神奈川県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区
4か所(横浜山手、鎌倉、鈴鹿長宿、小田原)を訪れました。

4日13:39新大阪新幹線のぞみで出発
15:47新横浜駅到達。新横浜駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

5日8:00レンタカーで出発、重要伝統的建造物群保存を巡る。

横浜山手:横浜山手地区は、明治から外国人居留地として外国人たちが暮らしてきた場所で、今でも異国情緒満点のエリアです。
全体が高台にあるので海や街並みの眺望もよく、とても気持ちのいい散策コース。外国人墓地や山手イタリア庭園で、
明治維新や文明開化に貢献した外国人の生涯や生活を偲び、港の見える丘公園のベンチで美しい夜景を楽しめる。 

鎌倉:古都の風情を残す鎌倉は、日本初の武家政権「鎌倉幕府」誕生の地として歴史を感じさせるスポットが多く、
一方に相模湾、三方を山に囲まれた豊かな自然があり、首都圏でも有数のベッドタウンと位置付けられています。
鎌倉の中心にある鎌倉を代表するスポット、鶴岡八幡宮から材木座海岸まで伸びる参道がメインストリートの若宮大路。
路地に入ると古民家を改装したカフェや教会や古い洋館などの発見も!
また、若宮大路と並列して八幡宮から鎌倉駅までを繋ぐ小町通りでは、お土産屋さんなどが軒を連ねます。

鈴鹿長宿:相模川の河岸段丘に育まれた湧水。人々はこの豊かな湧水と生活を共にしてきました。湧水が龍源院の蛍を、鈴鹿明神の森を育て、番神水の流れは、
静かな街並みに潤いを与えています。自然と人間の調和、そのような街並みを探訪してみましょう。

小田原:小田原市は、古くから東海道の宿場町として、また小田原北条氏以降には城下町として賑わいをみせました。
その後、明治後期から昭和初期にかけては温暖な気候と風光明媚な小田原の地に当時を代表する政財界人や文化人たちによって別邸などが建築され、
注目を集めました。
 また、小田原北条氏の時代に全国から優れた職人が集められ、優れた技術がもたらされ、そこに小田原の豊かな自然の恵みが融合し、
蒲鉾や干物などの水産加工業や小田原漆器をはじめとする木工業といった小田原固有の文化が形成されました。

15:00終了、新横浜駅に向かう。
16:00横浜駅到達。
16:19横浜駅新幹線のぞみで出発。
18:52新大阪駅到達。

今回の旅行、関東地方の神奈川県に足を運び、神奈川県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区
4か所(横浜山手、鎌倉、鈴鹿長宿、小田原)を訪れ楽しみました。

コロナウイルスの影響を受けにくい観光巡り、屋外の人通りの少ない観光名所、移動は安全な車で巡りました。
新幹線はがらすき、インターネット予約で確認でき、逆に安全、屋外の観光名所もかなりすいていました。

車での移動、屋外の人通りの少ない観光名所はコロナウイルスの影響は少ないようです。





















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十四弾:京都府小京都重要伝統的建造物群保存地区観光第二弾
2020年3月14-15日
 

京都府中部北部に足を運こび、京都府中部北部に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(亀岡、美山、東舞鶴、西舞鶴、伊根、加悦)を訪れました。
14日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、京都縦貫自動車道経由して亀岡インター下車

亀岡:京都に一番近い小京都として知られているのが、亀岡です。豊かな自然が育んだ歴史や文化が香る亀岡は、明智光秀によって築かれた亀岡城を中心とした城下町です。

美山:京都市の北部、南丹市に位置する美山は、その名の通り美しい山々に囲まれた、静かな里。かやぶき屋根の民家が建ち並ぶ「かやぶきの里」などフォトジェニックな観光スポットや、豊かな食材を利用したグルメ・おかいものスポットが点在し、四季折々の見どころがあります。なかでも冬は、かやぶき屋根に降り積もる雪景色がひときわ美しく、人気のシーズンとなっています。

東舞鶴:京都府の北、日本海に面している舞鶴の地。美しい海岸線と、明治・大正のレトロな雰囲気を感じさせる赤れんがの建築物のコントラストが美しい街です。旧日本海軍ゆかりのノスタルジックな雰囲気が味わえる舞鶴の魅力、舞鶴は日本海の若狭湾に面した町です。東西にわかれた舞鶴湾とリアス式海岸をもち、天然の良港として昔から多くの人が往来し、栄えていました。約1万年前から舞鶴の地に人が住み始めたといわれています。関が原の戦いの際、戦火はここにも及びました。徳川家康の東軍についた細川幽斎が田辺城(舞鶴城)に籠城し、西軍の攻めを迎え撃ちました。江戸時代に京極高三が田辺藩(舞鶴藩)3万5千石を立藩、これが一般的に舞鶴市の始まりと言われています。城下町や港湾の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築きます。その後牧野氏が丹後田辺藩を引き継ぎ、牧野氏3万5千石の城下町として幕末まで栄え続けました。

西舞鶴:西舞鶴地区は城下町として栄えたエリアで、今も当時の寺町の景観などの面影を所々に残しております。とれとれセンターでは日本海で水揚げされた新鮮な海鮮を味わうことができます

18:30天橋立付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

15日7:30車で出発

伊根:京都府にある日本海に面した伊根湾は、荒々しい日本海のイメージとはうってかわった、静かな入り江。そんな伊根湾沿いには、1階部分が船のガレージになっている舟屋が約230軒立ち並び、その独特の景観から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

加悦:京都府北部・丹後地方に江戸時代から昭和初期にかけて栄えた丹後ちりめん。隆盛をきわめた当時の町並みが残る由緒ある街道。織物工場をはじめ、当地方と京都市内を結ぶ交流の拠点として盛えたいろんな店の名残がありその面影をしのばせる。
平成17年(2005)12月27日に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、京都府の中部北部に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(亀岡、美山、東舞鶴、西舞鶴、伊根、加悦)を訪れ楽しみました。

コロナウイルスの影響で自粛傾向、比較的安全な車での移動、人込みを避けての観光名所めぐり、この時世どの名所も観光客が少なく大阪の町中より感染の影響は少ないと判断し巡りました。
当分の間人込みの少ない屋外の観光名所を訪れる予定です。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十三弾:沖縄県竹富島小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年3月7-8日

沖縄県の離島、石垣島からフェリーで20分に位置する竹富島に足を運び、竹富島に点在する重要伝統的建造物群保存地区を訪れ散策しました。

7日14:55伊丹空港出発
17:05那覇空港到達
17:45那覇空港出発
18:45石垣空港到達、バスで石垣港に向かう。
19:30石垣空港付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
8日11:00出発、石垣港に向かう。
11:30石垣港、フェリーで出発
11:50竹富島港到達、散策

竹島:竹富島の家々は、琉球石灰岩の石垣、ふく木の防風林、屋根は赤瓦といった伝統的な建築様式をふまえていて、古い沖縄の集落景観をそのまま残しています。昭和62年に県内で初めて、全国では24番目の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。赤瓦の屋根にシーサーを置くのは、魔除けの意味合いがありますが、瓦葺き職人が自分の仕事の証として、残った赤瓦と漆喰で作るようになったことがはじまりといわれています。白い砂を敷き詰めた道、道路の両側や石垣越しに四季を問わず咲く花々も南国特有の雰囲気を醸し出しています。
年2回、浜から砂を運んで集落の道や民家の庭に敷き詰めたり、建物の建設や建て替えに厳しい制限をもうけるなど、島民の力によってこうした風景が守られています。

14:00終了、竹富港に向かう。
14:20竹富港フェリーで出発。
14:40石垣港到達、?華街散策。

16:15バスで石垣空恋に向かう。
17:00石垣空港到達。
20:10石垣空港出発。
22:15関西空港到達。

今回の旅行、沖縄県の離島、石垣島からフェリーで20分に位置する竹富島に足を運び、竹富島に点在する重要伝統的建造物群保存地区を訪れ散策し楽しみました。

4回目の竹富島訪れ、重要伝統的建造物群保存地区を重点的に回りました。

コロナウイルスの影響で外国人の訪れは数少ないですが、日本人は比較的安全な南の島、竹富島に変更したのか賑わっていました。殆どん方が安心しているのかマスクをしていませんでした。
 



 







飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十弾:高知県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年2月15-16日
 

四国の南部、高知県に足を運び、高知県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所(土佐中村、赤岡、安芸、吉良川)を訪れました。

15日17:55伊丹空港出発。
18:40高知空港到達、レンタカーで四万十方面に向かう。
21:10四万十市内のホテル到着後就寝。
16日7:30レンタカーで出発、四万十川周辺観光

土佐中村:京都一条家の荘園として栄えた高知・中村。三方を山に、そしてふたつの川に挟まれた京に似た地形で、町の西を流れる四万十川を桂川に、東を流れる後川(うしろがわ)を鴨川に見立て、その後方に連なる山並みを東山と呼びました。そして、東西南北に走る碁盤目状の通りを設け、整然とした町並みを作り上げました。
起源は室町時代。応仁の乱の戦火を避けるため、関白一條教房公はここ中村(現・四万十市)に中村御所を構えました(現在の一條神社)。都を懐かしんだ一條公は、京都を模した碁盤の目状の街づくりをしました。昭和21年の南海大地震で昔ながらの街並みはほとんど残されていませんが、現在でも碁盤の目の街並みや鴨川や東山など京都に見立てた地名やゆかりの神社などもあちこちに残っていますし、「大文字の送り火」や土佐一條公家行列「藤祭り」、「一條大祭」などの京文化の名残りもあります。

高知から室戸方面に向かう。

赤岡:高知県東部、旧赤岡町(現、香南市)のその店はとても不思議な店である。江戸時代、土佐浜街道の在郷町として発展した赤岡町、中2階切妻造り平入りの商家 が連なる商店街の一角にある。白壁の豪壮な建物は築200年を超える元蝋燭屋。目の前の土佐浜街道を大名行列が通ったこともあれば、測量のために赤岡を訪 れた伊能忠敬が泊まったこともある。

安芸:安芸の地名は十六世紀までこの地帯を支配していた安芸氏に由来します。戦国時代は長曽我部一族、江戸時代になると土佐藩主になった山内一豊が納めた土地であり、安芸には家老の五藤家が入り、当時の武家屋敷は土居廓中と呼ばれて今も残っています。同じく江戸期の建物である岡御殿は豪商の屋敷だったものです。安芸は三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎や童謡の作曲家である弘田龍太郎も輩出しています。童謡が刻まれた曲碑が市内の各所に作られ、童謡の町を目指しているのもその所縁です。町のシンボル的な存在になっているのが、明治時代にすべてを手作りによって作られた野良時計と呼ばれるもので、百十年に渡って旧家の屋根で時を刻んでいます。この野良時計は安芸城跡に近く、周辺には武家屋敷や歴史民族資料館などの見所が集まっているため散策のしやすさもおすすめポイントです。

吉良川:その昔、良質な木炭と薪が取れることから「土佐備長炭」の積み出し港として大いに栄えた吉良川。
土佐漆喰を使った白壁と、台風などの強い雨風から町屋を守るためにつけられた水切り瓦が独特の景観をつくっている。その町並みは、どこかなつかしい時代へタイムスリップしたような感じ。
高知県で初めて、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された吉良川町。明治期に建てられた漆喰壁の商家や、水切 り瓦の蔵が立ち並び、日本の懐かしい町並みを今に残しています。また台風常襲地として、風雨から家を守るために、河原石や浜石でつくられた外壁”石 ぐろ”も、室戸ならではの独特の景観です。

15:00高知空港に向かう。
17:00高知空港到達。
20:00高知空港出発。
21:15関西空港到達。

今回の旅行、四国の南部、高知県に足を運び、高知県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所(土佐中村、赤岡、安芸、吉良川)を訪れ楽しみました。

生憎雨で視界が悪く移動に時間が掛かりました。

カヌーなどで何回か訪れたことのある四万十川、今回は四万十川領域に点在する観光名所を時間をかけて巡りました。
午後からは高知室戸方面に向かい3か所の重要伝統的建造物群保存地区を散策しました。

帰りの飛行機ですが天候不順のため出発が遅れ、伊丹空港の離着陸時間条件21:00までに間に合わず関西空港到達となりました。












京都府小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年2月11日
 

近場の京都に足を運び、京都に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区7か所(東一口、伏見、京都産寧坂、京都祇園新橋、京都島原、京都上賀茂、京都嵯峨鳥居本)を訪れました。

6:30車で出発、第二京阪経由して久御山インター下車

東一口:久御山町の北西部に位置し、木津川氾濫原の北部にある巨椋池(おぐらいけ)の池水の流出入口であったが、干拓後の現在もまお水郷の様相を残している。
文禄3年(1594)伏見築城を開始した秀吉は、それに関連するものとして宇治川を伏見城下に迂回させ、巨椋池畔の各所に堤防を築いて、そこに流入していた緒河川と巨椋池を分離した。
その後巨椋池は東・西一口地区のみを唯一の池水流出入口とした。それにより巨椋池は大内池や中内池などのいろんな池に分断された。
そして農民は巨椋池沿岸の随所に新田を拓いたが、低湿な土地であったため、数年に一度は洪水の被害を受け、不安定な農業であった。
半農半漁の集落東一口村は、江戸はじめには伏見弾正町・三栖村・小倉村と共に巨椋池の漁業権を与えられていたが、常にその中核をなし、度々起こる漁場を巡る争いでも、東一口が勝訴している。
漁業鑑札の配分では文化8年(1811)には弾正町2枚・小倉村3枚・三栖村5枚に対して東一口村は7枚所有し、漁業従事者は74人で、圧倒的な優位で巨椋池漁業を行っていた。
江戸時代の東一口村は巨椋池西岸の大堤防の片側に盛土して家が建ち並ぶ東西に細長い集落で、全長1,300m、最大幅100m、最小幅27m内外の集落であった。
そして、今でも他の山城地区の農村集落で見られない特異な町並を形成している。干拓されたとはいえ、集落の南北には水郷を思わせる排水路が通り、集落の拡張が見込めないので、江戸時代のままの集落形態が残っている。
東一口集落の中程に大きな長屋門を構えた山田家がある。本山田とよばれ、江戸時代からの大庄屋で、淀川・巨椋池の漁業者の代表として君臨した家で、巨椋池漁業関係の古文書や古地図を多く所有している。
明治39年に第一次淀川改修工事が竣工して、巨椋池と宇治川が切り離された。昭和8年から巨椋池の干拓工事が始まり昭和16年に完了したが、久御山町辺りは大都市近郊の農業地帯でありながら、近年まで都市化が進まなかった。久御山町に発展の兆しが見えたのは、昭和41年に国道1号線枚方バイパスが町の中央部を貫通して以来で、その後は目覚しい発展を遂げている。

伏見:伏見:酒どころとして有名な伏見も、宇治と同じく水と関わりの深いまち。以前「伏水」と書かれていたこともある、全国でも屈指の名水が湧き出る土地だ。良い水は、酒造りに欠かせないため、ここで酒造りが盛んに行われたのも当然の成り行きといえる。
そして伏見は、日本の歴史に深く関わっている土地でもある。有名なところでは、幕末の戊辰戦争で旧幕府軍と新政府軍が初めて激突した鳥羽伏見の戦場。坂本龍馬が大坂から船を使い、京都に入る際の定宿としていた寺田屋があったことも多くの人に知られているところだ。水と歴史にまつわる話が数多く残る伏見。

京都産寧坂:京都産寧坂:豊臣秀吉の正妻(ねね)が子供の誕生を念じて坂をあがり清水寺にお参りしていたことからその名がついたとされています。東山の観光地として有名で、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。二年坂を介して北にある八坂神社、円山公園、高台寺、法観寺と南にある清水寺を結んでいるため、観光客が絶えず、土産物店や料亭が並んでいます。

京都祇園新橋:京都祇園新橋:寛文6年(1673)祇園社領の中の弁財天町等の外六町正徳2年(1712)元吉町、末吉町等の内六町が開かれ今日まで一貫して繁栄してきた。
その間、江戸時代の町民の大衆文化の浮世草子浄瑠璃、歌舞伎音曲の舞台となり絢爛豪華を極め今も伝統芸能として継承発展している。
現在では新橋通と白川南側、切通しぞいの町並み一帯は「重要伝統的建造物群保存地区」として指定され、建築学上からも重要な文化財とされているが、特に新橋通は、石畳に両側には黒の千本格子の出格子、二階からはすだれの下がった、祇園独特の町家茶屋様式の建物が建ち並び、祇園の中でも最も祇園情緒あふれる印象的な町並みとなっている。

京都島原:京都島原:豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。  島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾域が女歌舞伎を催したとき、優れた傾域を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。  また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた

京都上賀茂:京都上賀茂:京都市西部、北区の一地区。旧上賀茂村。北山山地に発する賀茂川が京都盆地に流出する谷口にあたる。平安遷都以前から賀茂氏が居住し、賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)(上賀茂社)は賀茂氏の氏神であった。神社は1994年(平成6)世界文化遺産に登録。また神社の神官の住まいが並ぶ社家(しゃけ)町は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。古くから野菜の産地であり、漬物用のスグキナの栽培が盛んであるが、近年は急速に都市化されている。京都産業大学がある。大田神社境内の野生のカキツバタ群落は国指定天然記念物。

京都嵯峨鳥居本:奥嵯峨鳥居本は愛宕神社の門前町としての性格と農村としての性格を合わせ持ち発展してきた町であり、わらぶき屋根の農家風民家や町家風民家が周囲の美しい自然景観を背景に並ぶ情緒有る町並みが残っています。昭和54年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

15:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、近場の京都に足を運び、京都に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区7か所(東一口、伏見、京都産寧坂、京都祇園新橋、京都島原、京都上賀茂、京都嵯峨鳥居本)を訪れ楽しみましたました。

何回か訪れたことのある観光名所、時間をかけ散策し京都の重要伝統的建造物群保存地区を巡りました。

 






















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百九弾:愛媛県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年2月8-9日


四国の中心地、愛媛県に足を運び、愛媛県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所(内子、大洲、卯之町、道後温泉)を訪れました。

8日18:00伊丹空港出発
18:50松山空港到達、レンタカーで内子方面に向かう。
20:10内子市内のホテル到着後食事を済ませて就寝。
9日8:00内子を散策。

内子:内子町(うちこちょう)とは、愛媛県の中央、松山市の南西にある町。ハゼの流通で財をなした商家が建ち並ぶ町並みが自慢の隠れた観光名所です。
1982年に国の重要伝統的建造物群保存地区として文化庁の選定を受けており、歴史的な価値も非常に高い町でもあります。
歴史的な建造物が数多く残る内子町。その町並みはまさしく大正ロマンにあふれています。ぶらり町歩きをしてみれば、どこか懐かしい気持ちになりながら、さながら昔にタイムスリップをしてしまったような錯覚を覚えることもあるでしょう。

10:00レンタカーで出発、大洲に向かう。

大洲:大洲市は、肱川の流域にある大洲城を中心に発展した旧城下町です。『伊予の小京都』と呼ばれる大洲は市の中央部を清流「肱川」が流れており昔ながらの街並みや、美しい田園風景・山並みが特徴です。歴史を感じさせる、ノスタルジックでどこか懐かしい場所や美しい自然を満喫できる美しい場所など情緒あふれる名所の数々が今も息づいています。
町並みの中心に位置する「おはなはん通り」は、連続テレビ小説のロケ地。古き良き日本の懐かしい風景を眺めながら、ゆったりと散策するのがおすすめです。また、川沿いの景勝地に佇む数奇屋造りの建造物「臥龍山荘(がりゅうさんそう)」では、肱川を借景に眺めながら呈茶を楽しむことも。ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで一つ星に選ばれています。

卯之町に向かう。

卯之町:妻入りと平入りの町家が混在し、白壁、半蔀(はじとみ)、格子、持ち送りなどの伝統的な建築様式が残る町並みで、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
また、大正期建築の教会や明治期建築の開明学校校舎などの洋風建築も点在しています。江戸時代には、宇和島藩の在郷町として栄え、二宮敬作、楠本イネらも往来した通りとして知られています。

道後温泉に向かう。

道後温泉:兵庫の有馬温泉、和歌山の白浜温泉とともに、日本三古湯のひとつに数えられる愛媛の道後温泉。なかでも道後温泉は、文献上もっとも歴史が古い温泉といわれています。聖徳太子や夏目漱石などの歴史的偉人も通った名湯で、街も風情たっぷり。
駅前の商店街を通り抜けると、ありました! 道後温泉のシンボル「道後温泉本館」がお目見えです。3000年の歴史を持つ日本最古の温泉とあって、その重厚な存在感に圧倒!

明治27年に改築された建物は国の重要文化財に指定されていて、そのノスタルジックな外装は、「千と千尋の神隠し」に登場する「油屋」のモデルのひとつと言われています。

15:00松山空港に向かう。
16:00松山空港到達。
19:25松山空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、四国の中心地、愛媛県に足を運び、愛媛県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所(内子、大洲、卯之町、道後温泉)を訪れ楽しみました。
観光は4か所のみで時間はたっぷりあり、ゆっくり散策して巡りました。
どれも何回か訪れたことのある観光名所で過去の記憶を思い出しながら散策観光しました。






















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百八弾:沖縄県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年2月1-2日
 

日本の南方沖縄県に足を運び、沖縄県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区2か所(首里、壺屋)を訪れました。

1日14:55伊丹空港出発
17:05那覇空港到達。モノレールで旭橋下車、駅前のホテル到着後、国際通りを散策し食事を済ませて就寝。
2日9:30出発、モノレールで首里城駅下車。
首里城:首里城(しゅりじょう)公園は、首里城正殿を中心とした有料区域と無料区域の城内、守礼門(しゅれいもん)や園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)、円覚寺(えんかくじ)跡、弁財天堂(べざいてんどう)といった周辺文化財からなる公園です。一般駐車場のある首里杜館(すいむいかん)はレストセンターとなっており、公園内の案内やレストラン、売店があり観光の休憩所として多くの来館者に利用されています。
創建年代は不明ですが、第一尚氏による三山統一後に王城として確立されたとの記録があります。第二尚氏の尚真(しょうしん)王らによって拡張、整備されました。城外には守礼門など2門あり、琉球石灰岩の切石を積み上げた城壁には歓会門や瑞泉門、白銀門などの城門が設けられました。内郭には百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれる正殿と、その前面左右に南殿、北殿が相対して建てられています。沖縄戦で焼失しましたが、一部が復元整備され、1992年「首里城公園」として開園しました。
2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。

那覇市金城町にある「金城町(きんじょうちょう)石畳道」は長さ300mあり、琉球石灰岩が敷かれた石畳道で首里城から続いています。尚真王の時代(1477~1526)に首里城から南部へ行く道として造られたそうです。戦争で一部なくなり300mしか残っていませんが、両脇に沖縄の古民家があり、風情あふれる場所です。この石畳道は沖縄県指定文化財です。

壺屋:壺屋は1682年に琉球王府の政策で開窯した窯場。歴史と伝統を引き継ぎながら、現在は店舗40店が販売し、20軒余りの工房が「壺屋焼」を作り続けている。古いのぼり窯の見学や工房での焼物作り体験(要問合せ)もできる。博物館も併設されていて石畳も風情がある。新垣家の窯が国指定文化財に指定された。陶芸工房や直営店が数多く並ぶエリア

15:00モノレール県庁前で乗車、那覇空港に向かう。
15:20那覇空港到達。
18:00那覇空港出発。
19:55伊丹空港到達。

今回の旅行、日本の南方沖縄県に足を運び、沖縄県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区2か所(首里、壺屋)を訪れ楽しみました。
コロナウイルスの影響なのか行きの飛行機はかなりすいており、横になって寝れるほどでした。

首里城は何回か訪れたことのある観光名所、今回は火災による焼けただれた首里城を確認し早く復興再現するのを期待しています。
観光は2か所の訪れとなりますので時間は十分あり、できるだけ歩いてゆっくり観光名所を観察しました。

首里城から金城町の石畳を下り、壺屋まで歩きました。壺屋は初めての訪れで多くの壺屋のお店がが石垣が続く路地に繋がり存在していました。
国際通り過ぎ那覇空港に向かいました。

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百七弾:福岡県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年1月25-26日

九州の中心地福岡県に足を運び、福岡県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(朝倉秋月、筑後吉井、八女福島、八女黒木、柳川、門司港)を訪れました。

25日13:39新大阪新幹線のぞみで出発。
16:07博多駅到達、駅前のホテル到着後
17:00友人と待ち合わせて夕食。
22:00ホテルに戻り就寝。
26日8:00レンタカーで出発。
朝倉方面に向かう。

秋月:城下町としての秋月の歴史は、鎌倉時代に秋月氏が古処山(こしょざん)に山城を築いたことから始まります。秋月氏16代によって支配された後、江戸時代には福岡藩主となった黒田氏12代によって、秋月の治世が行われました。鎌倉~江戸を経て明治時代までの長きにわたって城下町として栄えた秋月には、現在も多くの史跡が保存されていることから、重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。
その美しい城下町の景観から、筑前の小京都とも評される秋月。春は桜、秋は紅葉の名所としても名高く、多く人々が観光に訪れていますよ。まるで当時にタイムスリップしたかのような雰囲気を漂わせる城下町の魅力はもちろんのこと、周囲の田園風景と調和した様子は見事です。美しい四季折々の自然の中でゆったりとした時間を楽しむのにぴったりの秋月。季節の訪れと共に訪ねたい福岡県のおすすめ観光名所です。

吉井方面に向かう。

筑後吉井:うきは市吉井町は福岡県南東部の筑後川中流域に位置し、江戸時代を通じて城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿駅として機能した。また、江戸時代中期以降には商品作物の栽培・加工及びその集散や、「吉井銀(よしいがね)」と称された有力商人の金融活動などにより繁栄した。
 うきは市吉井町のほぼ中央部にある筑後吉井保存地区は、豊後街道の街路沿いに漆喰塗の重厚な町屋が連続する町並みと災除川と南新川沿いに広がる屋敷群からなっている。明治2年(1869)の大火を契機として、吉井では草葺きの町屋にかわって瓦葺塗屋造が普及し、経済の最盛期であった大正期にほぼ現在みる町並みが形成された。保存地区の伝統的建造物は街道沿いに建つ町屋や土蔵を主体として、川沿いの屋敷地内に建つ主屋や土蔵・付属屋、要所に建つ社寺建築、川沿いの石積護岸や石段及び石橋等の石造物で構成されている。保存地区では、これら約250件の伝統的建造物と屋敷庭園及び川沿いの樹木について、保存の処置が取られている。
  本保存地区は、町屋や土蔵が連続する町並みと、豊かな緑に包まれた屋敷や社寺建築、さらに吉井の経済基盤を支えてきた河川や水路などが一体となって歴史的風致を形成しており、筑後地方の商業都市として、特色ある歴史的景観を伝えている。

八女方面に向かう。

八女福島: 八女市の中心市街地・福島は天正15年(1587)筑紫広門が築いた福島城を、慶長5年(1600)関が原の戦いで功を上げ、筑後一円32万5千石(柳河城を本拠とした)に抜擢された田中吉政が、支城として大修築し、城下町をつくった後、大きく栄える。福島城は三重の堀によって囲み、中堀・外堀の南半には城を迂回する往還道路に沿って「町人地」を配したと考えられる。町人地の敷地はこの往還道路と中堀・外堀の間に短冊状に地割がなされている。
 元和6年(1620)当地は久留米藩有馬豊氏の支配下となり、福島城は廃城となったが、町人地はその後も八女地方の交通の要衝の地として、また、経済の中心地として発展する。福島は城下町としては短期間であったが、その間に都市の主要な骨格ができたと思われ、今も本丸跡、城堀跡の水路、屈曲した道路網等当時の面影を残している。

八女黒木:
黒木地区は福岡県筑後地方の南東部に江戸期以降の重厚な町家や蔵が旧往還道(旧豊後別路)沿いに残るとともに、矢部川の堰や木橋、町中を流れる水路、矢部川対岸の棚田や石積みなどの水利にまつわる文化遺産が、我が国にとって価値が高いと評価されました。県内では、うきは市筑後吉井(在郷町)、朝倉市秋月(城下町)、八女市八女福島(商家町)に続いて4地区目、全国で85番目の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。明治41年(1908)、民俗学者の柳田國男は当地を訪れ、路傍の小溝の水が早く流れ清らかなこと、また町並みに並木が植えられた梅やざくろ、やまなしに印象を深くし、知人あての書簡にエピソードとして書き送っています。町並みは、明治後期から大正期にかけて洋風建築もみられるようになり、時代の波にのってクライマックスを迎えました。
柳川方面に向かう。

柳川:柳川の観光といえば、柳川城の堀割をどんこ舟でめぐる川下りを楽しんだあと、史跡や資料館をめぐったり、名物のうなぎのせいろ蒸しを食べたりするのが定番。堀割沿いには柳川ゆかりの作家たちの文学碑や歌碑があり、柳川の歴史を知っておけば、よりいっそう楽しめること間違いなし。下船後にゆっくり歩いてめぐるのもいい。柳川藩主立花家の歴史を紹介する国の名勝「柳川藩主立花邸 御花」の庭園はぜひ見ておきたい。

門司方面に向かう。

門司港:福岡・北九州にある「門司港レトロ」は、大正ロマンの雰囲気が漂うレトロな建物が立ち並んだスポットです。県外からも多くの観光客が訪れる街で、昔懐かしく美しい景観が魅力の港町。レトロな街の雰囲気や潮風を感じながら、街歩き、重要文化財の「門司港駅」や雑貨店やカフェがある「新海運ビル」、実物車両を見られる「九州鉄道博物館」、名物の焼きカレー「ベアフルーツ」や食べログ1位になった「京寿司」などがあります。

小倉駅に向かう。

18:45小倉駅新幹線のぞみで出発。
21:01新大阪駅到達。

今回の旅行、九州の福岡県に足を運び、福岡県に点在する
小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(朝倉秋月、筑後吉井、八女福島、八女黒木、柳川、門司港)を訪れ楽しみました。

6か所とも何回か訪れたことのある観光名所、再確認しながら散策観光しました。

柳川と門司港は観光客で賑わっていましたが他の観光名所は少なく寂しく感じました。




 






















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百七弾:佐賀県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年1月18-19日
 

九州の佐賀県に足を運び、佐賀県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区(有田、伊万里、呼子、小城、備前浜宿、嬉野塩津)を訪れました。

18日16:55伊丹空港出発。
18:20長崎空港到達、レンタカーで武雄に向かう。
19:10武雄駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
19日7:00レンタカーで出発。

有田:
内山地区は江戸時代に設けられた上の番所(泉山)から、下の番所(岩谷川内)の約2Kmにわたる地区です。江戸・明治・大正・昭和の各時代に建てられた、和風・洋風の建物が美しく調和して立ち並んでいます。表通りには商家や商業施設、裏通りには窯元の屋敷や作業場が集っています。この地区一帯は、1991年(平成3年)、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

伊万里:伊万里市は、伝統ある伊万里焼をはじめ、肥前磁器の積出港として繁栄した伊万里津の歴史や文化、あるいは、本市の特産品の伊万里牛や伊万里梨、車エビなど他の地域にはない特色ある優れた観光資源を数多く有しています。なかでも「秘窯の里・大川内山」は歴史と伝統、技法を受け継いだ窯元が立ち並び、市街地においても伊万里津と伊万里商人の活躍を表現した「からくり時計」や白壁造りの建物などがあり賑わいをみせています。

呼子:九州の北西部、東松浦半島の突端に位置する佐賀県唐津市の呼子町(よぶこちょう)。目の前に横たわる加部島(かべしま)が玄界灘の荒波から港を守る呼子の地は、昔から天然の良港として栄えてきた。そんな小さな港町は、全国に知られる“イカの町”でもある。
鯨組主 中尾家屋敷は呼子の朝市通りのはずれにある古いお屋敷で、古くから知られた小川島・呼子の捕鯨を取りしきる組頭・中尾家が住まいしていたそうです。屋敷は広く、土蔵は捕鯨資料館にもなっていました。

小城:「小城市」は、佐賀県のほぼ中央に位置し、北は秀峰天山をのぞみ、広大で肥沃な佐賀平野、南には潮風が薫る有明海と、豊かな自然環境に恵まれたまちです。
中でも、北部の小城町は中世の千葉氏や近世の小城鍋島藩の城下町としての豊かな歴史と文化に恵まれ、九州の小京都と呼ばれおり、心癒す豊かな自然と美しい風景として、「さくら名所百選、日本歴史公園百選」の小城公園の桜、秀峰天山に源を発する「全国名水百選」の清水川の清流、心なごむ農村の原風景「日本の棚田百選、全国農村景観百選」の江里山の彼岸花と棚田、夏の風物詩で、祇園川に乱舞する源氏ボタルは「ふるさといきものの里」にも選ばれています。

備前浜宿:肥前浜宿は中世(鎌倉・室町時代)にさかのぼる古い歴史を持った町で、港町・宿場町として近世(江戸時代)から近代(明治・大正・昭和)を通じて栄えてきました。経済力と豊かな地下水、おいしいお米によって酒造りが盛んとなり、現在でも大型酒蔵が建ち並んでいます。これらの歴史の中で、肥前浜宿には多くの白壁土蔵や茅葺町家などの伝統的な建物が残り、往事にタイムスリップした景観・イメージをつくっています。浜川をはさんで北側の大村方・八宿・中町のいわゆる『酒蔵通り』には白壁土蔵造りの町家や蔵があり、南側の庄金や舟津には茅葺町家がありと、地区によって景観が大きく変化することも町並みの特徴となっています。

嬉野塩津:嬉野温泉の隣に位置する嬉野市塩田町。ここは江戸時代に長崎街道の宿場町として栄え、また有明海の干満の差を利用した川港「塩田津」があり、物資の集散地でした。通りには今も白壁の大きな家々が立ち並び、一帯は「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。
嬉野市塩田(しおた)町は佐賀県南西部に位置し、多良岳(たらだけ)山系のすそ野に広がるまち。三方を山に囲まれ、まちの中央部を塩田川が流れています。有明海へ注ぐこの川は干満の差を利用して船が行き来し、川港となったまちは「塩田津」と呼ばれて発展していきます。天草からの陶石がここで荷揚げされて有田町や伊万里市、波佐見町(長崎県)へ、帰りの船には米や やきものなどが積まれ、大川市を経て大阪などへ運ばれていったといいます。
 「塩田津」には廻船問屋や商家が立ち並び、周辺には和紙や鍛冶、石工の職人たちが住み、まちは大変賑わいました。

16:00終了、長崎空港に向かう。

17:00長崎空港到達。
18:55長崎空港出発
20:15伊丹空港到達。

今回の旅行、九州佐賀県に足を運び、佐賀県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区(有田、伊万里、呼子、小城、備前浜宿、嬉野塩津)を訪れ楽しみました。

有田、伊万里、呼子、小城は何回か訪れたことのある観光名所、備前浜宿、嬉野塩津は初めての訪れでした。
最近外人の観光客が増え、メジャーな観光名所は人盛りで賑わっていますが、マイナーな観光名所は外人も少なく寂れていましたが今回訪れた比較的マイナーな観光名所も外人の観光客も少ないですが見られるようになしました。
どこの観光名所も外人パワーで観光客が増加しているようです。



   
 


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百三弾:山口県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年12月7-8日
   

中国地方の最西端山口県に足を運び山口県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地6か所(唐戸、長府、佐々並市、仙崎、萩、津和野)を訪れました。

7日14:25新大阪新幹線のぞみで出発
15:50広島駅到達
15:55広島駅新幹線こだまで出発
17:06新下関到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
8日8:00レンタカーで出発、

唐戸:下関駅・唐戸エリアは、中世より九州や大陸へ渡航する船が出入りする港町として栄えてきました。
これまでの歴史の中で有名・無名問わず様々な人が行き交い、留まり、この地に多くの足跡を残してきました。そのため、唐戸エリアには様々な時代の史跡が存在しています。下関の中でもとりわけ多くの観光スポットが唐戸エリアに集中しているのは、明治の市制施行以来、市役所をはじめとして主要な施設がこの地に建てられ、下関市の中心地となっているためです。

長府:平成25年度の「都市景観大賞」の都市空間部門 大賞を受賞!長府は、古代から中世にかけて政治・文化の中心地として栄え、近世に入ると毛利秀元が初代長府藩主となり城下町が誕生しました。
しかし元和の一国一城令によって廃城となり、現在石垣だけが残っています。現在みる町並みは、毛利氏がこの地に居を構えて以来の藩政時代に築かれた大小数々の武家屋敷跡で、山手に入ると侍町があり、家老職など格式の高い家臣が住んでいた屋敷町です。今も多く残る門長屋や土塀は、風雪にたえて来た年輪の重みを伝えています。

佐々並市:佐々並市は、萩市の南部を占める旧旭村の南縁に位置する農村集落で、かつての萩城下町と三田尻(防府市)を結ぶ萩往還の中間点に位置することから、参勤交替の際などに藩主が休息する御茶屋を中心とした、宿駅機能を有する集落として栄えました。
 佐々並市の町並みは、江戸初期に農業を基盤としつつ、萩往還の整備に伴って宿駅機能を備えた町並みとして成立し、近年に至るまで町並みの地割に大きな変化はなく、かつこの町並みの特徴を示す建築物や工作物、環境物件が現在まで数多く残っています。
平成23年に国選定重要伝統的建造物群保存地区に選定され、堀内地区・平安古地区(昭和51年選定)、浜崎(平成13年選定)と合わせ、萩市の重伝建地区数が4地区となり、ひとつの市町村に所在する数としては京都市とともに全国最多となっています

仙崎:古くからの漁港の町仙崎は、風情のある小さな路地が点在する時間のゆったり流れる静かな町です。
長門市の観光名所といえばやはり青海島の海上アルプスです。海から望む奇岩の数々はまさに絶景! クジラの形をしたカラフルな観光船で回ります。
仙崎出身の童謡詩人・金子みすゞさんを偲んで建てられた「金子みすゞ記念館」は往時を再現した 金子文英堂やみすゞの部屋展示ギャラリーなどで構成された誰もが楽しめる場所です。
近郊では、湯本の大寧寺・三隅の「香月泰男美術館」・油谷の棚田・日置の千畳敷・ 秋吉台・秋芳洞などが見所です。

萩:城下町の古い町並みや萩焼、そして吉田松陰、高杉晋作など維新の原動力となった勤皇の志士たち などなど「来てみるまでは、萩が山の中にあると思っていました。」とおっしゃる方が意外に多いのですが、萩は日本海に面しています。阿武川の下流が松本川と橋本川に分かれ、それぞれが日本海へと通じる三角州の上に発達したまち、つまり、水の都ともいえるのが萩のまちです。
そして、三角州の西端写真中央に、ぽつんと見えるきれいな三角形の山が指月山(しづきやま)で、いまから約400年前、この山のふもとに萩城が築城されました。慶長9年(1604)、関ヶ原の合戦の後、毛利輝元卿(毛利元就の孫)が防長二州36万石の居城として萩城を築城し、明治維新に至るまでの約260年間にわたって、萩は防長二州の中心として栄えました。
その城下町のたたずまいや、当時の町割りなどがよく残されていて、江戸時代の城下町絵図をそのまま用いることができる『古地図で歩けるまち』です。

島根県津和野方面に向かう。

津和野:山の緑に映える朱の鳥居が印象的な城下町、津和野。山陰の小京都として名高いこの街には、蒸気機関車の終着点、城下町時代の古いたたずまいを残す殿町通り、千本の鳥居からなるトンネルが壮観な太鼓谷稲荷神社など、数々の癒しのスポットがあります。歴史を感じる建物も多い。
“明治維新胎動の地”であり歴史が息づくまち・萩は、屋根のない広い博物館=「萩まちじゅう博物館」。世界遺産「明治日本の産業革命遺産」や大地と人とのつながり「萩ジオパーク」など、歴史、文化、そして美しい自然とみどころがいっぱいです。

16:30終了、徳山駅に向かう。
18:10徳山駅到達。
18:35徳山駅新幹線のぞみで出発。
20:18新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の最西端山口県に足を運び山口県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地6か所(唐戸、長府、佐々並市、仙崎、萩、津和野)を訪れ楽しみました。

何回か訪れたことのある、歴史的深い町、山口県の近くに位置する津和野まで足を延ばし歴史的建造物巡り癒されました。























 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十九弾:東京・千葉県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年11月9-10日

関東地方の東京・千葉に足を運び、東京・千葉に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(青梅、葛飾柴又、佐倉、佐原、大多喜)を訪れました。

9日13:53新大阪新幹線のぞみで出発
16:15品川駅到達、品川プリンスホテルに向かう...
17:00品川プリンスホテルで講演会に出席。
20:00懇親会、
21:00就寝。
10日7:00レンタカーで出発青梅に向かう。

青梅:東京の人気観光地、青梅市。昭和レトロな魅力あふれるこの街では、青梅駅周辺にある青梅赤塚不二夫会館や昭和レトロ商品博物館といった、観光地をめぐるのが定番。御岳山エリアまで足を運べば、ハイキングや御岳渓谷のウォーターアクティビティも楽しめます

葛飾に向かう。

葛飾柴又:人気シリーズ映画「男はつらいよ」の主人公・寅さんの故郷としておなじみの東京・葛飾区柴又エリア。「柴又帝釈天」「矢切の渡し」「寅さん記念館」などの観光スポットは、映画の世界そのままの人情味あふれる古き良き日本の面影が残っています。他にも、名物「草餅」はもちろん、名庭園で有名な山本亭やレトロカフェや喫茶、甘味処などのとっておきのおすすめです。

千葉に向かう。

佐倉:江戸時代の暮らしを感じられる武家屋敷に、かつて侍が歩いた竹林の小道。佐倉城を中心に発展した千葉県佐倉市は、今も城下町の面影を残す街並みが魅力です。

佐原:“北総の小江戸”と呼ばれる人気観光地、千葉県香取市佐原(さわら)。水郷の町でもあり、小野川沿いを中心とした地区は、江戸の雰囲気そのままに土蔵造りの商家や町屋が軒を連ね、大祭では豪華絢爛な山車が引き回されることでも有名です。

大多喜:千葉県の南東部に位置する大多喜町。西方には、房総半島を代表する観光名所養老渓谷があります。また、大多喜町内には2本のローカル鉄道が走っていて、流れる時間もとってもゆったり。さらに、大多喜城が見下ろす大多喜の城下町には今も江戸時代以来の商家が残り、「房総の小江戸」とまで称される観光スポットです。

16:00東京駅に向かう。

18:30東京駅到達。
19:20東京駅新幹線のぞみで出発。
21:50新大阪駅到達。

今回の旅行、東京・千葉県に点在する小京都重要伝統的建造物群5か所を訪れ楽しみました。何回か訪れた観光名称、重要伝統的建造物群を重点的に観察しながら観光いたしました。
当日は祝賀御列の儀のパレード、昼間は渋滞もなくスム‐ズに移動できましたが帰りのアクアライン手前から大渋滞、東京駅まで3時間かかりました。お疲れさまでした。




















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十四弾:埼玉県・群馬県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年10月5-6日
  

関東地方の埼玉県・群馬県に足を運び埼玉県・群馬県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区7か所(川越、小川、嵐山、秩父、小幡、六合赤石、桐生)を訪れました。

5日13:33新大阪新幹線のぞみで出発
16:03東京駅到達、上野東京ラインで大宮に向かう。
16:50大宮駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
6日6:00レンタカーで出発

川越:川越の歴史は古く、縄文時代にはすでに人々が生活していたことが多くの古墳群から知られています。川越の地名の由来といわれるのは、鎌倉時代の武士・河越氏です。娘が源義経の正室になるなど幕府の御家人として力を持ちました。その後この地を治めた上杉氏の家臣であった太田道真・道灌父子が川越城を築き、川越城下町が形成されていきました。
江戸時代、川越藩は江戸の北の守りとして重要視され、藩主には有力大名が配置されました。寛永15年(1638年)の大火後、藩主となった松平信綱により新河岸川の舟運(しゅううん)と城下町が整備されると、川越は流通の中継地として発展していきます。地元の農産物や特産品が江戸へ運ばれ、なかでも川越唐桟織は江戸で人気を博しました。逆に江戸からは最新の文化が持ち帰られたことから、川越は小江戸と呼ばれました。
しかし繁栄した川越を明治26年(1893年)、再び大火が襲います。この火事により川越の中心街のほとんどが焼失してしまいました。そこで川越の商人たちは、耐火性を備えた建築として蔵造りに着目します。今も残る蔵造りの町並みは、当時の商家の名残りであり、江戸の情緒を今に伝える川越観光の見どころとして欠かせないものになっています。

小川:埼玉県中部の比企郡、その西部地域の要となる小川町は、ユネスコ無形文化財・細川紙を生む和紙の里です。小川町には、約1300年続く手すき和紙以外にも、たくさんの観光があるんですよ。小川町は和紙ができる場所だけに、清らかな大自然の宝庫です。

嵐山:埼玉県の中西部に位置する嵐山町(らんざんまち)。町名の由来は、槻川の渓谷の美しさを、京都の嵐山(あらしやま)になぞらえたことによります。
武蔵嵐山とも呼ばれるこの町の観光の魅力は、山間の景色だけではありません!源氏の内乱の舞台となったのを皮切りに、鎌倉幕府の有力御家人や室町時代の関東管領、そして戦国時代の関東の覇者後北条氏などが、現在の嵐山町内に拠点となる城館を構えました。その城跡のいくつかは、貴重な遺構を今に伝える観光スポットとなっています。

秩父:秩父駅から徒歩3分の場所に鎮座する秩父神社は、その歴史2100年。御本殿は、名工 左甚五郎により施された多くの彫刻で飾られています。「よく見て・よく聞いて・よく話す」として親しまれる「お元気三猿」は、どこか愛らしい表情。例年20万人以上の人出でにぎわう「秩父夜祭」はユネスコの無形文化遺産に登録された例大祭です。12月3日夜から翌朝にかけて続く豪華絢爛な山車の引き回しや、冬空に打ち上がる花火が街全体を熱と活気で包みます。

小幡:“織田信長の次男・信雄から8代、152年にわたり城下町として栄えた小幡。国指定名勝の大名庭園「楽山園」をはじめ、用水路「雄川堰」や武家屋敷、道幅14mの中小路など江戸時代の面影を残す、まち並みが広がります。

六合:中之条町六合地区は、群馬県北西部に位置する広大な山里で、長野県と隣接した場所にあります。6つの村が合わさり、「六合(くに)」となりましたが、古事記の『天地四方を以って六合と為す』にちなんだという俗説もあります。「六合の里温泉郷」で知られる六合エリアでは、手つかずの自然にあふれた美しい景観を望むことができます。

桐生:群馬県の桐生市はかつて絹織物の産地として栄えた町でもあります。桐生で織物が始まったのは奈良時代と言われている、とても長い伝統が受け繋がれている町です。江戸時代には京都の西陣から技術を習得し、本格的な大量生産も開始。「西の西陣、東の桐生」と呼ばれた絹織物の名産地だったのです。

そんな歴史の残る街、桐生市は、独特なノコギリ形状の屋根を持つ工場が数多く建てられてきました。現在も桐生には約200棟のノコギリ屋根が残るとされています。大正時代から残る建物も数多く、観光施設や店舗として再利用するなど、街を巡ればあちこちで見かけられます

17:00終了、大宮に向かう。

18:10大宮到達。

18:32大宮駅上野東京ラインで出発
19:05東京駅到達
19:13東京駅新幹線のぞみで出発
20:45新大阪駅到達。

今回の旅行、関東地方の埼玉県・群馬県に足を運び埼玉県・群馬県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区7か所(川越、小川、嵐山、秩父、小幡、六合赤石、桐生)を訪れ楽しみました。

埼玉県、群馬県の広範囲の歴的建造物巡り、移動に時間かかりましたが小京都重要伝統的建造物群保存地区の散策癒されました。



















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十三弾:新潟県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年9月28-29日
  

甲信越地方の日本海に東西細長く位置するに新潟県に足を運び、新潟県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区3か所(村上、加茂、出雲崎)を訪れました。

28日14:20伊丹空港出発
15:20新潟空港到達、レンタカーで新潟市内のホテルに向かう。
16:40新潟市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
29日7:00レンタカーで出発

村上:新潟県最北・最東の市。面積は1,174.24km2で県内最大。人口は約6万人で燕市に次いで8位。
かつては村上藩の城下町として栄え、現在でも市中に武家町、商人町の面影が残る(詳細は#名所・旧跡・観光を参照)。中心街では町屋再生などの各種プロジェクトが進んでおり[1][2][3]、2008年度には都市景観大賞「美しいまちなみ大賞」を受賞[4]、2016年には「プロジェクト未来遺産2016」に選定されている[5]。
村上市の特産品 鮭北限の茶どころとして有名。三面川の鮭のほか、牛肉(村上牛)が名物。瀬波温泉や粟島航路など観光都市としての側面が強い。
皇后雅子の先祖、小和田家ゆかりの地でもある。

加茂:加茂市は新潟県のほぼ中央に位置し、古くから北越の小京都といわれています。県立自然公園粟ヶ岳を水源とする加茂川の清流は、三方を山に囲まれた市街地を縦貫して信濃川に注いでいます。
産業形態は、県下でもまれな複合産業が集積し、木工、繊維、電気器具、機械、金属、皮革製品、 食料品等の産業が新しい技術や設備を導入して躍進を続けています。また、「桐たんす」といえば加茂と 言われるほど、その技術と品質は、全国的に高い評価を受けています。
観光面でも、加茂市の花「ユキツバキ」 の群生地として脚光を浴びており、加茂山公園を中心として 「雪椿まつり」 が毎年4月に開催され、ミス雪椿公開審査会・市民茶会など、多彩な行事が繰り広げられます市街地は三方を山に囲まれ、加茂川が貫流している。都市の起源は平安時代に遡り、青海神社の門前町として栄えたのが始まりである。古くから京都との関わりがあった事や、中心街の落ち着いた町並みから「越後の小京都」とも呼ばれる。


出雲崎:江戸時代、徳川幕府の直轄地(天領)であった出雲崎は佐渡金銀の荷揚げや北前船の寄港地で、北国街道の宿場町として栄えました。廻船問屋街、旅館街が立ち並び、それに伴い遊廓も発展していきました。様々な業種が集まり近隣の農家の二男、三男は「天秤棒1本持って出雲崎へ行け」といわれるほど働き口に不自由ないところでした。
当時の人口はこの小高い丘と日本海に挟まれたわずかな平場に約2万人もいたと言われ、人口密度は越後一でした。よって、多くの人が居住できるように、また、当時は間口の広さに税金を掛けられていたことから二間や三間半といった間口が狭く奥行きの長い妻入り家屋が軒を連ね、約4㎞にも及ぶ妻入りの街並を形成しました。

16:00終了、新潟空港に向かう。
17:00新潟空港到達。
19:20新潟空港出発

20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、甲信越地方の新潟県に足を運び、新潟県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区3か所を訪れ楽しみました。

個々の名所が離れており、移動に時間がかかりましたが、数少ない3か所、時間が十分ありゆっくりと散策して癒されました。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十弾:兵庫県・鳥取県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年9月7-8日
   

近畿中国地方の日本海沿いに位置する兵庫県北部、鳥取県に足を運び、県内に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所(城崎、湯村温泉、倉吉、智頭)を訪れました。

7日12:30車で出発、近畿中国舞鶴北近畿豊岡自動車道経由して
15:00城崎到達。

城崎:城崎温泉は、温泉寺の開祖である道智上人という僧が衆生済度の大願を発し、一千日の祈願をしたことにより開かれた温泉と伝える。のちに聖武天皇の勅を得て、道智上人が温泉寺を開創した。以後多くの人に親しまれ、桂小五郎も一時ここに潜んだという。志賀直哉の『城の崎にて』は、彼が1913年事故に遭い、当地で療養した折の経験を元にしている。 開湯1300年の歴史を持つ兵庫県随一の名湯地。石造りの太鼓橋がかかる小さな川と柳並木は城崎温泉の代表的な風景。温泉街には7軒もの外湯が点在し、展望露天風呂の「さとの湯」や岩窟風呂の「一の湯」等、それぞれ趣の違う温泉浴を楽しめる

西に向かう。

湯村温泉:兵庫県美方郡新温泉町大字湯(旧温泉町、旧国但馬国)にある温泉。
平安時代(848年)開湯という歴史ある山陰の山峡にある閑静な湯治湯。「湯けむりの郷」と称し、また1981年のNHKドラマ「夢千代日記」(吉永小百合主演)のロケ地としてその風情が全国に知られるようになり、以来「夢千代の里」とも称する。


鳥取方面に向かう。

鳥取市西部の湖山池付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

8日8:00車で出発

倉吉:倉吉市は、情緒ある伝統的な町屋づくりの商家と白壁土蔵が並ぶ「倉吉市打吹玉川伝統的建造物群保存地区」をはじめ、歴史と共に培われた文化・芸術が織り成す名所・旧跡・歴史街道、東大山山麓の白金の湯「関金温泉」など、歴史・文化・自然を楽しんでいただけるスポットが多くあります。
玉川沿いに連なる白壁土蔵群は、吉市打吹玉川伝統的建造物保存地区に指定されており、「県民の建物100選」にも選ばれています。

智頭:智頭宿は、上方へと向かう主要道であった「智頭往来」の宿場町。江戸時代には、参勤交代で江戸へと向かう鳥取藩の最初の止宿であり、藩主の宿泊や休憩の場となる御茶屋や奉行所、制札場が置かれていた要所です。
重厚な大門で人々を出迎え、3000坪という広大な敷地に部屋数が40以上ある邸宅、7棟の蔵、美しい日本庭園を持つ「石谷家住宅」。

14:00帰路に向かう。


今回の旅行、近畿中国地方の日本海沿いに位置する兵庫県北部、鳥取県に足を運び、県内に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所(城崎、湯村温泉、倉吉、智頭)を訪れ楽しみました。

何回か訪れたことのある、観光名所、小京都重要伝統的建造物群保存地区として訪れ、前回と違った見方で訪れ楽しめました。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十九弾:宮城県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年8月31-9月1日
  

東北地方で中心となる宮城県に足を運び、宮城県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(登米、岩出山、村田、白石、七ヶ宿)を訪れました。

8月31日15:25伊丹空港出発
16:35仙台空港到達、レンタカーで名取市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

9月1日7:30レンタカーで出発、小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り。

登米:今は登米(とめ)市の一地区の登米(とよま)町ですが,2005年の合併までは登米(とめ)郡登米(とよま)町でした.
仙台藩では一国一城令の後も城を各地にもち,要害と称していました.ここも登米要害(城名としては寺池城)があり,支城のようになってました.町は要害に付随する城下町のような町で,それに加えて北上の水運などで栄えていました.奥の細道でも「戸伊摩(といま)といふ処に一宿して平泉に至る」という記述があります.写真は武家屋敷のある通り.明治になって一時的に県庁がおかれたりしたため,明治の洋風建築などもあります.明治の小学校「旧登米高等尋常小学校校舎」は重文です.登米はスレートの産地だったのでスレート屋根が多いです.明治になってドイツあたりから技術をとりいれたようですが,日本建築によくあっているように思います

岩出山:大崎市岩出山の天王寺追分には出羽街道と上街道の分岐点がある事から、岩出山付近は古来より交通の要所となっていたようです。その為か岩出山には推古天皇元年(593)には国内の4か所に建立された四天王寺の1つが建てられ、前九年合戦の折には源義家が鍋倉山八幡神社に戦勝祈願するなど歴史の古さを感じる事が出来ます。中世に入ると岩出山(岩手沢)は大崎氏の支配下に入り軍事的拠点の1つとして重視され、家臣である氏家弾正が岩手沢城(後の岩出山城)を築きます。しかし、大崎氏は戦国時代末期、豊臣秀吉による「小田原の陣」に参加しなかった事から奥州仕置きにより改易となります。大崎氏はこの処置に不服で葛西氏など共に大一揆を起こし(伊達政宗の陰謀説が有力)各地で反乱し、徳川家康や伊達政宗が鎮圧にあたります。岩出山にある実相寺には徳川家康が40日間滞留したと伝えられ、家康から500石の御朱印地を寄進を受けています。一揆制圧後、伊達政宗が会津若松城(福島県会津若松市)から岩出山へ領地替えとなり、それに先立ち家康の家臣榊原康政が岩出山城(岩手沢城)を改築し政宗を迎え入れます。政宗は岩手沢を岩出山に改名し、会津若松や米沢(山形県米沢市)から多くの寺院を呼び寄せ城下町建設に精を出し12年間統治を行います。関ヶ原の戦い後の慶長8年(1603)に政宗の仙台開府に伴い多くの寺院は仙台へ随行しますが、岩出山の歴史性や交通の要所の意味合いからも重要視され四男宗泰が1万5千石で岩出山を統治しする事になります。一国一城令により岩出山城は要害となりますが、有備館の整備など教育や、都冷泉家より御輿入れがなされると回遊式池泉庭園などの京文化や地場産業などにも力を入れ今日に繋がる町づくりを展開しています。明治維新後は玉造郡役所が置かれるなど周辺から中心的立場を持ち後に岩出山町が発足さらました。2006年に大崎市へ合併。現在の岩出山は旧商人町だった通りが拡幅され昔の風情が一辺しましたが、有備館や鍋倉山八幡神社、実相寺など歴史ある社寺が多く、内川周辺の散策路など整備され「小京都」として認定されています。

村田:村田町は宮城県南部の内陸部に位置し,仙台市の南に接する。村田町のほぼ中央,盆地の北端に保存地区がある。15世紀に村田城が築かれ,江戸時代には,伊達家の家臣が領主として館(やかた)を構える。館の東に領主の家臣たちの武家地,そしてその東に町人地が配された。資料では,遅くとも18世紀後期には,町人地が成立していたことが確認でき,このうちの本町(もとまち)と荒町(あらまち)が保存地区に当たる。江戸時代には,上方(かみがた)や江戸との交易を行って,紅花の集散地として栄え,明治には繭の集散地,その後も仙南地方の商業地として栄えた。村田町村田伝統的建造物群保存地区は,近世から近代にかけて商業地として栄えた東西約180メートル,南北約470メートル,面積約7.4ヘクタールの範囲である。敷地は,南北道路に面して短冊形(たんざくがた)に割られ,敷地の北に建物を寄せて建て,敷地の南を敷地内通路とする。道路に面しては,北に寄せて店が建てられ,その南に門が建てられる。その結果,道路に面して,店と門が交互に並ぶ,特徴的な町並みとなっている。また,道路に面する店は店舗専用建築とし,その背後に居住施設である主屋(おもや)を別棟で建てることも特徴的である。店の多くは土蔵(どぞう)造りとする。店は厚い土壁で覆われ,窓や扉は,段々を付けて外部から火が入らないように工夫された掛子(かけご)塗りとし,壁面には平たんな瓦を貼って目地を漆喰(しっくい)で盛り上げた,なまこ壁が多用され,重厚かつ意匠的にも発展した形式とする。一階は店舗として使用され,前方を土間とし,後方に床(ゆか)を張って帳場(ちょうば)とし,土間と帳場の境には,上下にスライドして開閉をする摺揚戸(すりあげど)を残すものもある。門は,軒を支える部材などに彫刻を施し,戸口の上には欄間を飾り,意匠的にも見所が多い。村田町村田伝統的建造物群保存地区は,近代になって意匠的に発展した当地方特有の店と門が交互に並ぶ特徴ある町並みを良く残し,さらには,敷地内の主屋,土蔵,納屋などが良く残り,特徴ある歴史的風致を良く残し,我が国にとって価値が高い。

白石:宮城県の白石市は、蔵王連峰のふもとに広がる豊かな自然が残る街です。自然がいっぱいの名所や、癒しの時間を過ごすことのできる温泉街がたくさんあります。
城下町の街並みが残っていたり、「弥治郎こけし」などの伝統工芸品や、言い伝えの残る場所といった歴史の重みを体感できる観光スポットもたくさんあり、見所が盛りたくさんです。
白石城は白石市の中心部にあった平山城で、復元工事では、史実に忠実に、城廓として機能した文政6年再建後の最晩年の構造による三階櫓(天守閣)、大手門として本丸の一部を復元。建物は、日本古来の建築様式に基づき、数百年の歳月に耐え得る、全国的にも数少ない、木造による復元を採用したもので学術的にも評価を得られ、さらに市民の誇りとなり得る『白石市のシンボル』として復元

七ヶ宿:白石市の西側に接している町で、町のほとんどが南蔵王に含まれる山地になっています。七ヶ宿町の由来は太平洋側と日本海側とを結ぶ七ヶ宿街道沿い(ほぼ現国道113号線)に七つの宿場が設けられていたことに由来しています。この七つの宿場のうち小坂峠側の上戸沢宿と下戸沢宿は白石市に属しています。七ヶ宿町に属していた5つの宿場のうち町の中心であった渡瀬宿は平成3年に七ヶ宿ダムが完成したため水没してしまいました。現在、町の中心は関宿地区に移転しており国道沿いに渡瀬宿の記念碑がたてられています。
滑津宿(なめつ)には本陣となった安藤家本陣など往時を偲ばせる建物が残っています。他に二井宿峠に向かって峠田宿・湯原宿があります。
見どころとしては、県内最大のダムである七ヶ宿ダム、南蔵王 不忘山の麓にある長老湖や約30mの川幅いっぱいに流れ落ちる大迫力の滑津大滝(なめつおおたき)などがあります。
七ヶ宿はそば街道として、町をあげてPRされており街道沿いのそば店で各店自慢の味を楽しむことができます。

16:00終了、仙台空港に向かう。

17:00仙台空港到達。
18:45仙台空港出発。
20:10伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方で中心となる宮城県に足を運び、宮城県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(登米、岩出山、村田、白石、七ヶ宿)を訪れ楽しみました。

何回か訪れたことのある観光名所、城下町内の武家屋敷、伊達家の別荘、往時の繁栄を伝える豪勢な店蔵、街道の宿場町の旅籠の名残を伝える家等、歴史的建造物、重要伝統的建造物群保存地区巡り、癒されました。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十七弾:秋田県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年8月3-4日
   

東北地方のきりたんぽや稲庭うどんなど有名グルメが満載、男鹿市のなまはげや横手市のかまくら、大仙市の全国花火競技大会など魅力的なイベントも満載で、県北エリアには伊勢堂岱遺跡や大館城など歴史文化を垣間見ることのできるスポットも豊富で、中央エリアには風の松原や菜の花ロード、県南では法体の滝や川原毛地獄などがあり自然の魅力も充分満喫できる秋田県に足を運び、秋田県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所を訪れました。

3日16:40伊丹空港出発
17:55秋田空港到達、レンタカーで湯沢方面に向かう。
18:50湯沢駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
4日5:30レンタカーで出発観光。

湯沢:小野小町生誕の地と伝えられる市内には、遺跡も数多くのこり、秋田美人を思わせる奥ゆかしい情緒が漂い、訪れる人を魅了します。また、「湯沢」の名のとおり、市内には小安峡温泉、秋の宮温泉郷などが点在する”いで湯の宝庫”。山あいの秘湯や迫力の大墳湯、多彩な温泉が、この地ならではの旅情を演出します。
そして、湯沢は同時に全国に誇る物産のまち。日本三銘うどんとして有名な稲庭うどん、八百年の歴史をもつ川連漆器、全国に名を知られてた老舗のお酒などが有名です。

増田:江戸時代から商家の集まる町として栄えた秋田県横手市増田エリア。
?蔵の町”として知られるこの町を南北に走る中七日町通りには、数々の木造の町家が建ち並び、レトロな雰囲気を楽しみながら散策できます。

横手:秋田県の南部に位置する横手市。伝統行事の「かまくら」やB-1グランプリの「横手やきそば」で知られる横手市は、歴史上名高い「後三年の役」ゆかりの史跡や桜の名所「真人公園」、伝統的な町並みが続く「増田町」など、見どころも多い街。

六郷:六郷湧水群は昭和60年に環境庁から全国名水百選に選定され、平成7年には国土庁の水の郷に認定されました。また、水源の森百選、甦る水百選、遊歩百選などにも認定され、湧水群が存在する美郷町は水の5冠の街として知られています。秋田県美郷町には奥羽山脈を水源とする小河川が扇状地を形成し、その扇状地ある六郷に清水が湧出しています。昔は水量が豊富なことから百清水と呼ばれていましたが、現在は湧水量が減少して60余りになりました。

角館:角館の今に続く町並みをつくったのは芦名(あしな)氏で、江戸時代のはじめ1620年(元和6年)のことでした。その後は佐竹北家の城下町として栄えました。  
 玉川と桧木内川に沿いに市街地が拓け、三方が山々に囲まれたこの町は、歴史ある武家屋敷と桜並木が美しい、まさに「みちのくの小京都」と呼ぶにふさわしい風情を漂わせた観光名所です。
 町は「火除(ひよけ)」と呼ばれる広場を中心に、北側は武家屋敷が建ち並ぶ「内町(うちまち)」、南側は町人や商人が住む「外町(とまち)」に区分されました。

16:00秋田空港到達
18:30秋田空港出発。
19:55伊丹空港到達。

今回の旅行東北地方の秋田県に足を運び秋田県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所(湯沢、増田、横手、六郷、角館)、を訪れ楽しみました。

角館は何回か訪れたことのある武家屋敷の町、東北地方では有名な観光名所、外人観光客も多く賑わっていました。時間をかけてゆっくり散策観光予定でしたが余りの暑さで道が広くどこでも車を止めることが来たため車でいくつかの武家屋敷を訪れました。

湯沢、横手の町は秋田県では大きい街ですが、都会と比べるとかなり地味な街、観光名所も多くなく、短時間で巡ることができました。



























飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十六弾:青森県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年7月20-21日
   

東北地方の最北端青森に足を運び青森に点在する小京都重要伝統的建造物群保存3か所と岩木山、20kmに及ぶ桜並木を訪れました。

20日16:20伊丹空港出発
17:50青森空港到達、レンタカーで青森市内に向かう。
18:30青森市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
21日7:00レンタカーで出発小京都重要伝統的建造物群保存を巡る。

金木:青森県北西部,津軽平野北部にある五所川原市北部の旧町域。 1920年町制。 1955年嘉瀬 (かせ) 村,喜良市 (きらいち) 村の2村と合体。 2005年五所川原市,市浦村と合体して五所川原市となった。西部は,江戸時代弘前藩の新田開発によって米作地域となり,東部は津軽山地で大部分が国有林。中心の金木地区は 1930年に五所川原-中里間に津軽鉄道が開通,また太宰治の生家「斜陽館」がある。芦野公園は桜の名所。芦野池沼群県立自然公園に属する。

弘前:青森県の西部に位置し、桜の名所としても有名な青森県・弘前市。津軽藩の城下町として発展した街ですが、明治時代には教会やモダンな洋館なども多く建てられており、現在でも和と洋が色濃く残るハイカラな雰囲気のエリアです。また、城下町の名残が街の様々な場所に残っており情緒あふれるエリアですので、街歩きにもピッタリ。

岩木山:岩木山は、津軽平野南西部に位置する二重式火山で、山容は円錐形、山頂は三峰に分かれ、標高は1625mと県内で一番高い山です。
山麗には温泉が湧出し、昭和41年に8合目まで津軽岩木スカイラインが完通しました。
昭和50年には50番目の国定公園に指定され、9合目付近では6月~7月頃に岩木山特有の高山植物「みちのくこざくら(別名イワキコザクラ)」が咲きます。
山頂からは、八甲田連峰や津軽半島の権現崎と十三湖、なだらかな弧を描く七里長浜、そして鯵ヶ沢から大戸瀬まで、遠くは北海道の松前崎まで見渡せます。

桜並木:弘前市の西に位置する岩木(いわき)地区。別名「津軽富士」とも呼ばれる美しい霊峰・岩木山(いわきさん)の麓の町に、4月下旬~5月上旬に見頃を迎える「世界一の桜並木」と呼ばれるスポットがあります。総延長約20kmにわたる県道沿いに約6,500本の桜が咲き誇る様子は、思わずシャッターを切りたくなるほどの迫力と美しさ!そんな桜並木を撮影できるおすすめの絶景スポット。

黒石:黒石駅から10分ほど歩くと中町こみせ通りがあります。一歩踏み入れると江戸時代と錯誤してしまいそうな街並み。こみせというのは、雪よけの屋根のことです。所謂、雁木造と言われるものでアーケードに似ています。夏は熱い日差しを避け、冬は積もる雪から守ってくれる、そんな先人たちの思いが詰まっています。
この中町こみせ通りは、黒石藩政時代から残る歴史的な通路です。そしてこの通りには国の重要文化財の『高橋家』をはじめ造り酒屋、住家などもあります。ほんの数100mの長さに凝縮されている歴史が伝わります。浴衣を着てふらっとお散歩なんて情緒がありますよね。

16:00終了、青森空港に向かう。
16:30青森空港到達。

18:25青森空港出発
19:55伊丹空港到達

今回の旅行、東北地方の最北端青森に足を運び青森に点在する小京都重要伝統的建造物群保存3か所と岩木山、20kmに及ぶ桜並木を訪れ楽しみました。

弘前の町は何回か訪れたことがあり、今回は時間もあり、散策してしっかり町を巡りました。

小京都重要伝統的建造物群保存とは別に1つは12年前訪れた岩木山、前回は天気が悪く、車で行ける8合目では視界が悪く、展望できませんでしたが今回はリベンジ、天候よく、視界よく、澄み切った景色を望むことができました。
2つ目は桜並木、20km及ぶ世界最大級の桜ロード、12年前は植えたばかりで1mぐらいの若木でしたが12年過ぎた今回は立派な大木になり圧巻でした。桜シーズンに訪れたいですね。

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十四弾:栃木県・茨城県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年7月6-7日
  

関東地方の栃木県・茨城県に足を運び、栃木県・茨城県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9ヶ所(徳次郎、栃木、佐野、足利、古河、土浦、常陸太田、真壁、益子)を訪れました。

7日13:53新大阪新幹線のぞみで出発
16:23東京駅到達
16:36東京駅やまびこで出発
17:26宇都宮到達、宇都宮駅前のホテル到着後繁華街で友人と待ち合わせ食事を済ませる。
22:30就寝。
8日5:15レンタカーで出発、反時計回りで小京都重要伝統的建造物群保存地区9箇所を巡る。

徳次郎:徳次郎は、栃木県宇都宮市の北西部、篠井富屋連峰の南西麓を流れる田川の西岸一帯、半蔵山東麓部の地名である。明治初期までの徳次郎六ヶ郷(上徳次郎村、中徳次郎村、下徳次郎村、門前村、田中村、西根村)の地域で、平安時代以後戦国時代までは旧日光街道(古道)沿道の西根、田中、門前が、また江戸時代には日光街道の宿場町徳次郎宿が栄えた。その後大網村、上横倉村、下横倉村、上金井村、下金井村と合併し富屋村大字徳次郎となるが、太平洋戦争終結後は宇都宮市に統合されている。東端を南流する田川の沖積平野部(田原台地)と宝木台地東端部から成る。
奈良時代に日光の久次良一族によって日光二荒山神社を遷したとされる智賀都神社や、戦国時代に宇都宮氏家臣の新田氏(新田徳次郎)によって築城された徳次郎城、江戸時代に二宮尊徳によって設けられた二宮堰などといった歴史的構造物も残されている。
付近の半蔵山一帯は徳次郎石の採石場であったと云われ、当時は大谷石と並びこの地の特産品であったが、埋蔵量が少なく現在は廃れている。
奈良時代に日光の久次良氏(久次郎氏)の領地となり、平安時代末期に宇都宮氏が勃興するとその支配下に入るが、たびたび久次良氏との勢力抗争の舞台となり、戦国時代には宇都宮国綱家臣の新田徳次郎により徳次郎城が築かれる。安土桃山時代に宇都宮氏が改易されると没落するも、江戸時代には日光街道が整備されその宿場町として大いに栄えたが、徳次郎宿は江戸末期に天領化されて真岡代官所の管轄となる。この時代に二宮尊徳や吉良八郎の手により西原の治水事業が進められ、田川に堰が設けられ宝木台地に引水された(宝木用水(現在の新川))。

栃木:栃木市(とちぎし)は、栃木県の南部にある人口約16万人の市。栃木県内人口は宇都宮市、小山市に次ぐ第3位。市街地には蔵造りの家屋が並ぶ街並みが保存されていることから小江戸、小京都、関東の倉敷などと呼ばれ、観光地としての人気も高い。また、市南部にはラムサール条約登録湿地に指定されている渡良瀬遊水地を保有している。

佐野:佐野市(さのし)は、栃木県の南西部(安足)に位置する市。旧安蘇郡および足利郡の一部であり、2005年2月28日に旧佐野市、安蘇郡田沼町、同郡葛生町の新設合併により発足した。人口は12万人で足利市に次ぎ栃木県では第5位、近年は佐野ラーメンとアウトレットモールでも有名である。

足利:足利市(あしかがし)は、栃木県南西部にある市。古くは足利庄が栄えて清和源氏義家流・足利氏発祥の地としても知られ、フランシスコ・ザビエルが「坂東の大学」と呼んだ有名な足利学校がある。足利学校は2015年4月に日本遺産に認定された[1]。

古河:県の最西端に位置し、栃木県、埼玉県と境を接し、「関東のドマンナカ」を自称する古河市。渡良瀬川、利根川が流れ、水との関わりの深い土地柄でもあります。市の北西に広がる渡良瀬遊水地は自然の宝庫で、ヨシの茂みや湿地が多く、野鳥やトンボ、チョウなどの格好の生息地となっています。そして桃の花などが咲き誇る古河公方公園(古河総合公園)は、自然景観を生かした公園として日本で初めてユネスコの「メリナ・メルクーリ国際賞」を受賞しました。また、古河城出城跡にある歴史博物館や古河文学館、街角美術館などの施設も点在し、散策に訪れる観光客も多く見られます。

土浦:土浦は、土浦駅からすぐのところに霞ヶ浦が広がり、昔から水運や漁などで栄えた町です。バスの路線数も豊富でターミナル駅として機能しているので、つくば方面への観光客も出入りする事が多いです。土浦市内には江戸時代の宿場町の風情が色濃く残る地域があったり、霞ヶ浦の自然を体験出来る公園やサービスがあったりと観光要素が満載!様々なジャンルの観光スポットがあります。

常陸太田:茨城県常陸太田市は北東部に位置し、南北40kmと縦に長い地域です。山と緑に囲まれた穏やかな街で古くから林業が盛んな土地でもあります。そんな常陸太田市にはメディアにもたびたび紹介される有名な観光スポットや、古くから受け継がれ72年ごとに大祭礼が行われる西金砂神社のような由緒正しき観光スポットなど、様々な魅力的な観光スポットがたくさんあります。

真壁:真壁の町割りは、戦国時代末期の真壁氏時代に形づくられ、江戸時代初期の浅野氏時代に完成したといわれています。その時代からほとんど変わらない町割りの中に、蔵や門などの歴史的建造物が息づいています。
真壁は江戸時代から明治・大正にかけて、この地方の文化・産業の中心地として栄え、隆盛を誇った商家の人たちが次々と蔵や門などを建てました。市街地には、300余棟の見世蔵・土蔵・門などがあります。
平成22年6月29日には、この真壁地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 
全国で87地区目、関東地方では4地区目、県内では初となります。


益子:美しい自然と穏やかでありながらエネルギーにあふれた人々が暮らす町、益子町。
陶器の産地として、海外にもその名が知られています。
なだらかに広がる田畑に小高い山や丘、春には水鳥が舞い降り、冬は薄氷に覆われる池、いちご、ブルーベリー、ぶどう、なし、りんごなど里を彩る四季の恵み・・・。
初めて訪れる人にも、どこか懐かしさを感じさせる町です。
そんな風土を背景に生まれた「益子焼」は、艶のあるなめらかな肌をもつ、たっぷりとした厚手の器。手のひらで包むと、じんわりとあたたかさが伝わってきます。
民芸運動の拠点として大正時代から内外の陶芸家たちを受け入れてきただけあって、進取の気性に富む土地柄も大きな魅力です。
住んでみると、観光では知り得ない益子の新しい顔を発見し、奥深さを味わえることでしょう。

17:30終了、宇都宮駅に向かう。
18:30宇都宮駅到達。
18:59宇都宮駅やまびこで出発
19:49東京駅到達
20:00東京駅新幹線のぞみで出発
22:23新大阪駅到達

今回の旅行、関東地方の栃木県・茨城県に足を運び、栃木県・茨城県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9ヶ所(徳次郎、栃木、佐野、足利、古河、土浦、常陸太田、真壁、益子)を訪れ楽しみました。

二回目の訪れである歴史的な街、散策して歴史を振り返り再確認しながら楽しめました。




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十二弾:山形県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年6月22-23日
 

東北地方の山形県に足を運び、山形県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所(上山、樽下宿、米沢、山形、谷地、肘折温泉、酒田、金山、銀山温泉)を訪れました。

22日16:20伊丹空港出発
17:35山形空港到達、レンタカーで山形市方面に向かう。

18:30山形市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
23日5:00レンタカーで出発、上山方面に向かう。

上山:かみのやま温泉駅から徒歩約15分の場所にある上山城。戦国時代には最上氏の最南端の城壁としてそびえたちました。1692年に幕命によって取り壊されてしまいましたが、1982年に現在の城郭風の郷土歴史資料館として再現されました。展望台までのぼると、かみのやま温泉の町並みや、蔵王連峰を一望できますよ。城内にはかみのやまの歴史や文化を紹介する展示があるので、そちらもぜひご覧になってください。
春には城周辺に桜が咲き誇り、桜の名所としても知られるスポットです。

樽下宿:羽州街道の宿場町として、江戸時代には参勤交代や出羽三山詣で賑わいをみせた楢下宿。現在も残る茅葺屋根の古民家や石造の眼鏡橋など街道の歴史を感じさせる景観が広がります。
宮城県七ヶ宿から金山峠を越え、上山にぬける羽州街道の宿場町が楢下宿です。江戸時代の参勤交代の際には、新庄藩や庄内藩、秋田佐竹藩、遠くは津軽藩など、日本海側の十三藩がこの宿場町を利用したといわれています。

米沢方面に向かう。

米沢:米沢市は山形県の最南端に位置し、山形の母なる最上川の源流、吾妻連邦のすそ野に広がる米沢盆地にあります。冬は寒さが厳しく特別豪雪地帯に指定されていますが、スキーと温泉が楽しめます。その他の季節は恵まれた大自然をたっぷりと楽しめますし、イベントも多く開催され、1年を通して人気の観光エリアです。
現在のまちの原型は上杉家臣の直江兼続によって作られました。戦国のスーパースター上杉家ゆかりの地としても有名ですね。伊達正宗も米沢で生まれ、24歳までこの地で過ごしたそうです。人気の観光名所も上杉家と米沢城が中心となっています。ゆかりの人物のファンも満足のスポットが多くありますし、戦国時代を知るにはとても良い処だと思います。もちろん田んぼアートと温泉でただただまったりするのもお勧めです。

山形市方面に戻る。

山形:戦国大名の最上義明が、五十七万石の城下町として整備したのが山形。駅の近くにあり、今は博物館や郷土館のある霞城(かじょう)公園は明治維新までのお城だった。ただし、藩として山形は江戸末期のころの石高はわずか五万石程度にまで落ち込んでいた。古くからの特産は染料となる紅花で、これが京都へ送られ、西陣織りなどに使われて縁を深めた。
山形には近世の建物も残っており、ルネッサンス様式の文翔館(旧県庁舎・議事堂)、山形市郷土館、教育資料館が見所。特に、文翔館は重厚な雰囲気を持つ。山形市郊外にあり、松尾芭蕉が「閑さや〜」と歌ったことでも知られる山寺(立石寺)は、慈覚大師により千百年前に創建されたもの。近くにはには山寺芭蕉記念館もあり、多くの観光客が訪れる。
石段を登り始めると、次第に移り変わる景色がある。夏の五穀豊穣を願う田植え踊りから始まった「花笠まつり」は、東北を代表するお祭り。冬になると蔵王の樹氷が見事だ。

酒田方面に向かう:

谷地:山形県,山形盆地の西部,河北町の中心集落。旧町名。寒河江川扇状地の北部にあり,最上川の船着場として栄え,ベニバナや米の取引が盛んであった。かつては全国一の草履表の集散地であり,現在ではスリッパの製造が地場産業となっている。

肘折温泉:出羽三山のひとつに数えられる月山の麓から流れる銅山川沿いに、共同浴場や温泉宿が立ち並ぶ。温泉街一帯には、遥か昔に湯治場として栄えていた当時の様子を偲ばせるような、ひなびた雰囲気が漂う、趣きのある景観が魅 力。 長い年月を経て愛されてきた肘折の湯にまつわる名所も点在しており、名所を巡るのも楽しみのひとつ。

酒田:江戸時代、酒田が北前船の港として栄えた歴史を持つのは、庄内地方が米の一大産地だったことによる。最上川の河口に港町だった酒田は、川村瑞賢が北前船の西回り航路を整備したことで、一気に江戸時代の主要港町に踊り出ることになり、それは「西の堺、東の酒田」と謳われたほどだ。
北前船による交易では、人や荷物の往来だけではなく、京文化も一緒に運ばれてきた。日本一の大地主として、藩主以上の力を持った豪商・本間家などが登場するのもそのころだ。井原西鶴の「日本永代蔵」に北国一の米商人として登場する鎧屋も実は酒田の商人。今はやや閑散とした雰囲気のある中心部だが、市内を歩くと随所に繁栄の跡を感じることができる。
また、当時の豪商が収集した文化財は、今では美術館などで公開されている。
港町としてのシンボルとなるのが、山居倉庫(さんきょそうこ)で、百年を経た今でも実際に使われているから驚く。
市内には港町の面影をあちらこちらに見ることができる。六角灯台も自慢のひとつで、至る所で六角形をモチーフにしたモノを見かける。
「古寺巡礼」などで知られる写真家・土門拳の出身地でもあり、氏の業績を記念して作られた土門写真記念には遠方より訪れるファンも多い。

新庄方面に向かう。

金山:金山町の中心部をめぐる農業用水路の大堰は町のシンボルであり町民たちの憩いの場としても利用されていて、辺り一体を大堰公園といいます。夜にはライトアップも行われ幻想的な世界へ連れて行ってくれます。春から秋にかけては堰に鯉が200匹放流されていて眺めているだけで満足できます。

銀山温泉:銀山温泉は、山形県の北東部・尾花沢(おばなざわ)市にある人気の観光温泉地です。銀山川の両岸に、大正時代の洋館ムードあふれる旅館が建ち並ぶ銀山温泉。そのノスタルジックな街並みが注目を集め、訪れる観光客が増えています。奥羽山脈の山麓にある銀山温泉は、16世紀の初めに栄えた延沢(のべさわ)銀山で働いていた鉱夫が発見したといわれています。昔ながらの湯治場の情緒が、今もなお色濃く残っています。

17:00山形空港に向かう。

17:30山形空港到達。

18:05山形空港出発。

19:25伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の山形県に足を運び、山形県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所(上山、樽下宿、米沢、山形、谷地、肘折温泉、酒田、金山、銀山温泉)を訪れ楽しみました。

何回か訪れた観光名所も多く、散策し再確認しながら観光し癒されました。

広範囲のドライブ観光、車少なく、信号も少ない、渋滞なく、ストレス感じなく巡り堪能しました。





















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十九弾:岐阜県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年6月1日-2日
 

滋賀県に足を運び、足を運び、滋賀県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所(多治見、明智、馬籠、美濃、郡上八幡、高山、飛騨古川、白川郷)を訪れました。

1日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神自動車道経由して多治見インター下車

多治見:多治見といえば焼き物、とくに織部焼で知られています。町には陶磁器を販売する店がいたるところにあります。とくにオリベストリートは、商家や土蔵などを残しながら、古い街並みを形成しています。しかも重厚さに目を見張ります。
 また新町銀座アーケード街にも蔵造りの商家が見られます。さらに小路町付近、御幸公園付近にも古い町家や蔵が残されています。御幸公園は西浦邸の本宅跡で,付近一帯は多治見陶磁器の発祥の地と言われているそうです。

明智:町の有志がボランティアで、町の活性化のために取り組み、いろいろな事情を克服しながら活動し、また行政もこれにタイアップして進めています。大正村は大正のイメージと心、そして人々の郷愁をこの町に留めるといった、いわば物質的なものより精神的な要素が強く、日本中の人達がその時代を偲ぶメッカとなることを究極と考えています。大正村役場、大正村資料館ほか、大正の文化に関する資料の収集や展示を整備し、総ての人達が大正の風情にひたれる環境をつくるために努力しています。 情報化の激しい波が押し寄せるこの時代にあって、静かな山あいの町、明智町は、製糸を地場産業として栄えた大正の頃の姿そのままに、風俗、建物をはじめ、生活文化そして人情や自然にいたるまで大正のた たずまいを残しています。
日本大正村は、ただ古い物を集めて見せるのではなく、人々の生活が息づく中で「大正」を感じてほしい、町ぐるみ大正の博物館です。

岩村:江戸時代の町並みが残る山間の城下町。慶長6年(1601年)、松平家乗は標高717mの城山を整備し、岩村川の北に武家町、南に町人町を配した。町人町には生活用水・防火用水として天正疎水がつくられた。城の現存物は石垣のみとなったが、城下には岩村本通りを中心に古い町家が多く残り、本町の母屋の約4分の1は江戸時代の建物。秋祭りでは、東の八幡神社と西の武並神社を結ぶ町並みを、御輿渡御が数百メートルの行列となって往復する。

馬籠:馬籠宿は、石畳が敷かれた坂に沿う宿場町。日常から離れ、水のせせらぎ、小鳥のさえずり、街道を横切る風を感じながら、粋なひとときをお過ごしいただけます。宿場の中間地点には、この地が生んだ文豪・島崎藤村の生家跡(本陣)も資料館として馬籠の歴史を伝えています。

関方面に向かう。

関市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

2日5:00車で出発。

美濃:上有知の町は金森長近によって造られたもので400年の歴史を持つ。一番町と二番町、それをつなぐ4本の横町によって目の字型となっている。町は上、中、下に三区分され、金森長近が以前に造った高山の町並と似ている。金森長近は長良川の上有知港を開き、それと町を結んで交通の便を図った。上有知町を造った金森氏は在城10年にして断絶し、その後一時幕領となったが、まもなく尾張藩領となって明治に至った。上有知は街道により郡上、飛騨への物資集散地となり、さらに岐阜、桑名方面への舟運によって商業が大繁盛し中濃屈指の町となった。この町は丘の上にあるため水の便が悪く、古来度々の火災に遭った。特に享保8年(1723)の大火によって町は全滅した。その時、町民の防火意識の高揚により一番町、二番町の道幅を従来の二間から四間に拡幅することになった。この時の町並が現在の町並である。特に古い形態を残しているのは、現在の泉町のうだつ連棟と旧今井邸のあたりで、江戸時代の姿をよくとどめている。次に古い町家が残っているのが本住町、魚屋町あたりで、町民のうだつへのあこがれを示す片側だけのうだつの松久邸や完全防火をめざした旧武藤邸の姿など貴重な遺構である。さらに相生町の小坂邸の美しいむくり屋根のある国重文の家は、特に注目をひく。常盤町の重厚な土蔵つくりの構えなど後世に残すべき重要な文化遺産の宝庫といえよう。外部から見るうだつの町はすばらしいが、旧今井邸の内部に見られる店の構えも古い時代の商人の生活がうかがえるのが楽しい。特に美しい庭や茶室に一流商人の庭と茶道に対する趣味の高さと、文人好みの教養の深さが知られる。うだつの町には、それにふさわしい町人文化が発達したことも忘れられない観点であろう。

郡上八幡:岐阜県郡上市の真ん中に位置する「郡上八幡(ぐじょうはちまん)」は、小京都として人気がある城下町。シンボルである郡上八幡城の西南には、職人町や鍛冶屋町などの古い町並みが広がっています。また「水の郷百選」に選ばれた郡上八幡は、名水として知られる宗祇水をはじめ、豊かな湧水に恵まれた清流の町でもあります。町屋の軒下には水路が流れ、水舟の合理的なシステムには感心するばかり。水路や小径が点在する風情あるたたずまいに癒されます。国の重要無形民俗文化財に指定された「郡上おどり」は郡上八幡の夏の風物詩。なかでもお盆の4日間に開催される「徹夜おどり」は、観光客も一緒に踊って明け方まで盛り上がります。

高山:飛騨高山の古い町並は定番の観光スポット!ガイドブックによく載っている、タイムスリップしたかのような光景を見ることができます。高山を訪れたら絶対に外せない散策場所の1つです。上一之町、上二之町、上三之町が「さんまち通り」と呼ばれており、名物のみたらし団子や飛騨牛の握りを食べながら散策するのがおすすめ!商人の町として栄えた江戸時代の雰囲気を楽しめます。宮川朝市は日本三大朝市の1つとしても知られており、地元の人や多くの観光客でにぎわう飛騨高山の名物!高山市の中心を流れる宮川沿いで、ほぼ毎日開催されています。地元の新鮮な野菜を買ったり、食べ歩きの定番みたらし団子を食べたり、ご当地の名産品を味わいましょう。また、もう1つの朝市、陣屋前朝市も徒歩圏内なので、早起きして高山名物である朝市をはしごするのもおすすめです!「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で二つ星を獲得した高山陣屋は、江戸時代の時代劇ファンにはたまらないスポットです!もともと高山城主金森長近の下屋敷だったものが徳川幕府の直轄地となり、江戸から代官や郡代(ぐんだい)が来て役所となりました。この役所は“陣屋”と呼ばれ全国に60ヶ所以上ありましたが、現在、建物が残っているのはなんとここだけです!年貢に関する展示や奉行所でおなじみの“お白洲”、罪人に関する展示なども数多くあり、ぜひ時間を取ってゆっくり立ち寄りたいスポットです。高山陣屋の目の前で開催している陣屋前朝市は、毎朝6時30分頃から12時まで開かれ、地元野菜や山菜などの食品、民芸品などが販売されています。宮川朝市に比べてお店は少ないですが、そのぶん人が少なめなので、落ち着いて買い物をしたい方におすすめです。

飛騨古川:石造りの瀬戸川沿いを、右手に白壁土蔵街、左手には「水呼びの亀」が守る円光寺を見ながらのんびりと散策。飛騨古川の象徴的ともいえる景色が続きます。瀬戸川を悠々と泳ぐ1,000匹もの鯉に餌をあげるのも散策の楽しみのひとつ。絵になる町並みで記念写真を撮りながらじっくりと歩きたくなる道です。

白川郷:岐阜県の白川郷合掌造り集落は、1995年に世界文化遺産に登録されました。ミシュランで3つ星として掲載された日本を代表する人気観光地で、田んぼに囲まれた中に茅葺屋根の家が点在する山村の景色は、まさに日本の原風景。城山展望台、和田家、旧遠山家民俗資料館などは、日本人なら一度は訪れたい定番観光地です

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、岐阜県に足を運び滋賀県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所(多治見、明智、馬籠、美濃、郡上八幡、高山、飛騨古川、白川郷)を訪れ楽しみました。

城下町、宿場町、商業町、合掌通リの集落、明治大正にかけてのレトロな建物街並み等、歴史的建造物がいっぱいの町を訪れ散策し癒されました。

世界的メジャーで知れ渡っている、高山、世界遺産の白川郷は、多くの外人観光客で賑わっていました。
その他の地区は、外人観光客はほとんどいなく、日本人観光客が数少ないですがぽつりぽり見かけた観光名所でした。
インスタ、ツイーター等で拡散すれば外人観光客が増え賑わうことを願います。

 























飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十八弾:福井県滋賀県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年5月25日-26日


福井県、滋賀県に足を運び、点在する小京都重要伝統的建造物群保存11箇所を訪れました。

25日12:30車で出発、第二京阪、名神、湖西道路経由して小浜方面に向かう。

熊川宿:熊川宿は若狭街道の物資流通の中継地点として繁栄した宿場町である。集落としての成立は不明であるが、天正15年(1587)に若狭の国主となった浅野長政が諸役免除などの保護を行い、宿場としての基礎を築いたと考えられている。
 保存地区は東西方向に通る若狭街道沿いに形成された旧宿場町の大部分を占める延長約1.1㎞、幅約100mの範囲で、東より上ノ町(かみんちょう)、中ノ町(なかんちょう)、下ノ町(しもんちょう)で構成される。街道沿いには前川と呼ばれる水路が流れ、屋敷への出入口に石橋がかかり、所々に「かわと」とよばれる石組の洗い場が設けられている。緩やかな屈曲と勾配を持つ街道に沿って、平入と妻入の主屋が入り交じって建ち並び、変化ある景観が形成されていいる。

小浜:奈良時代以前から、若狭湾に面し、海の幸に恵まれた若狭一帯は、天皇家の食料である「御贄(みにえ)」を送る「御食国」として、都の食文化(≒和食文化)を支えてきました。
 平安時代に入ると海上交通の要地となり、海を隔てて向き合う大陸や朝鮮半島をはじめ、日本各地から多くの文化や品物、人が流入してきました。
 近年、“鯖街道”(鯖街道資料館)と呼ばれる幾筋もの道によって都に新鮮な海産物が送られ、京都からは最新の文化が伝わり、若狭小浜に繁栄をもたらしました。
 「文化財の宝庫」(小浜の文化財一覧)とも呼ばれる小浜市を含む都につながる街道沿いには、平安時代の仏像や鎌倉時代に創建された寺院が数多く残っています。平安貴族が深く帰依した天台宗、真言宗という密教的な信仰との関係を示している「十一面観音像」という仏像が数多く残されていることからも、都との深いつながりがうかがえます。 また、小浜にある明通寺の伽藍は鎌倉時代に建てられたもので、本堂と三重塔は国宝に指定されています。
 室町時代初期の1408年、将軍足利義満への贈り物として象やダチョウなど、当時珍しい動物を積んだ“南蛮船”が交易基地として発展を続けていた小浜に入港しましており初めて「象」が日本に上陸したまちとなりました。
 戦国時代から江戸時代にかけ、小浜の領主はたびたび変わりましたが、徳川三代将軍家光の時代、幕府老中酒井忠勝が小浜藩主となり以来幕末まで酒井家のもと、城下町小浜は若狭中心都市として栄えました。当時の廣峰神社の祭礼“小浜祇園大祭”からも小浜の繁栄状況がうかがえます。
 大陸や都との交流でもたらされた寺院や神社・仏像・お祭りなどの伝統行事、往来の歴史のなかで育まれた独自の食文化など、すばらしく多彩で密度の濃い往来文化遺産群が今も大切に伝えられている”御食国 若狭おばま”は、1500年ものさまざまな歴史と文化に彩られ、今なお時を超えて人々を魅了してやみません。

鯖江方面に向かう:

鯖江駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

26日5:00車で出発、三国方面に向かう。

三国:福井県一の大河「九頭竜川」の河口に位置する坂井市三国町の三國湊は、千年以上昔の文献にも「三国」という地名の記述があるほど昔から栄え、歴史がある町です。
古来より三國湊は、九頭竜川やその支流「足羽川」などを使った水運による物流の拠点で、戦国時代の武将「朝倉義景」が居城を構えた「一乗谷朝倉氏遺跡」内の庭園跡には、船によって運ばれてきた東尋坊周辺の岩が庭石として残っています。また、朝倉氏の後福井を治めた「柴田勝家」も水運を重視し足羽川近くに居城「北の庄城」を構え、荷揚げ用の港を設けていました。
江戸中期になると、狭い範囲で行っていた水運・海運が、それらの港をつなぐ海上航路へと発達し、「北前船交易」が始まります。三國湊においても、海運で上方(関西)・瀬戸内・山陰・東北・北海道から物品が集まり、物流の一大集積地としてにぎわいだすと、湊町には北前船を所有する廻船問屋をはじめ、様々な物品を販売する商店らが軒を並べ、町は大きく発展しました。
その繁栄は、明治に入ってもしばらく続きましたが、鉄道が開通し、物流の中心が船から鉄道へ移りだすと、次第にその輝きを失っていきました。
三國湊には、北前船が残していった歴史・文化はもちろんのこと、格子戸が連なる町家、豪商の面影が残る歴史的建造物など、情緒ある町並みが残ります。

大野方面に向かう:

大野:織田信長から大野城主に任じられた金森長近が、京都にならって東西南北に碁盤の目状に整備したのが始まり。時は戦国時代。このころになると、激しかった一向一揆の抵抗もほぼ平定されていた時期になる。天守閣も造られたが、大火で焼失。現在あるのは復元によるもので中は郷土資料館と展望台になっている。
地形的には周囲を千メートル級の山々に囲まれた盆地で、その間を美濃街道が走っていた。
藩主は何度も代わったが、中でも土井利忠は西洋文化に興味を持ち、早くから世界へ目を向けていた藩主だった。また、藩政改革でも辣腕を振るったことから、金森長近とともにお城跡に銅像がある。
名水百選のひとつの”御清水”は観光客にも人気の場所。水環境が優れていることからイトヨの生息地としても知られるようになり、本願清水 イトヨの里といった施設も造られている。これらは、山々に降り積もった雨や雪が地下水となり湧き出たもの。大野の湧き水はお清水(おしょうず)と古くから生活する人々の命だった。
歩いて楽しいのは、古くから碁盤の目状に整備された街並みにお寺が並ぶ寺町。この場所に寺院が集められたのは、もちろん防衛上の意味もあった。
七間通りでは4百年の歴史を持つ「七間朝市」が、春分の日から十二月末まで開かれる。

びわ湖方面に向かう。

海津:琵琶湖の北端、海津湾の東に波食によって突き出た岩礁地帯です。琵琶湖国定公園の中でも有数の景勝地で、「暁霧(ぎょうむ)・海津大崎の岩礁」として、琵琶湖八景の1つに数えられています。断崖が湖に迫る岬の端に真言宗智山派の大崎寺が建ちます。
 また、春には樹齢80年を越える老桜から次世代へ引き継ぐ若木まで約800本の華麗なソメイヨシノがびわ湖岸約4kmにわたり続きます。例年、見頃は4月上旬~中旬となり、近畿圏では遅咲きの桜名所として知られています。この美しい景観を後世に継承していくため、地元「美しいマキノ・桜守の会」が中心となり保全活動にも取り組んでいます。
 付近は1年を通じて雄大な奥琵琶湖の自然が満喫でき、快適なドライブコースまたはサイクリングコースとしても人気です。また、海津東口からは、自然遊歩道「近江湖の辺の道」が整備され、快適な散策が楽しめます。

木之本:長浜市「木之本」には、北国街道の宿場町として賑わった古い町並みが残っています。木之本地蔵院を中心として、昔ながらの佇まいで醤油醸造元・造り酒屋・町家などがあり、老舗としての深い歴史が感じられるでしょう

長浜:羽柴秀吉が初めて城持ち大名となって開いた城下町、長浜。
江戸時代には大通寺の門前町や北国街道の宿場としても栄え、 現在でもその町並みを活かした黒壁スクエアはガラス工芸を中心としたショップや工房のほか、郷土料理が楽しめるお店などが軒を連ねる人気のスポットです。 また現存する日本最古の駅舎や長浜盆梅展が開催される慶雲館など明治の建築物も残りノスタルジックでモダンな町並みにも出会えます。

醒井:中山道61番目の宿場町。醒井の地名の由来ともなった「居醒の清水」を源流とした地蔵川の流れに沿って、今も風情ある町なみが続いています。醒井宿には全国でも珍しく、宿場をきりもりした施設「問屋場」が昔のままの姿で残っており、往時のにぎわいを伝えています。中山道醒井宿は湖北八景に選ばれています。霊仙山の水神と参詣者の仏縁を結んでいた伝説があり、山の湧水を水源とする地蔵川に沿って形成された中山道の宿場町。江戸時代に醒井宿を通過する大名や役人に人足や馬を提供した施設が今も残り、完全な形で復元されています。

彦根:彦根城は関ヶ原の戦後、徳川家康の命により井伊直継と直孝が20年の歳月をかけ元和8(1622)年ごろに完成させた。城内には国宝の天守をはじめ、太鼓門櫓、天秤櫓、西の丸三重櫓など重要文化財が数多く残る。とくに入母屋の屋根に唐破風を設けた三層三階の天守は必見。
夢京橋キャッスルロードは彦根城の南西、外堀に架かる京橋から真っ直ぐ南へ延びる通り。江戸時代の町並みを再現した約350mの通り沿いには、みやげ物店、食事処、甘味処などが軒を連ねる。

五個荘:五個荘金堂地区は近江商人ゆかりの地として知られており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
町並みを歩くと舟板塀や白壁をめぐらした蔵屋敷があり、清らかな水が流れ錦鯉が優雅に泳ぐ掘割が縦横に走っています。
金堂地区では近江商人屋敷3邸(外村宇兵衛邸・外村繁邸・中江準五郎邸)と金堂まちなみ保存交流館が公開されており、近江商人の本宅の佇まいを知ることができます。
平成27年には日本遺産「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」に認定されました。

近江八幡:滋賀県のほぼ中央に位置する「近江八幡市」。水郷のまちとして知られ、屋形船で水路を回遊する「水郷めぐり」が人気。織田信長ゆかりの見どころも多く、歴史ロマンを感じられるスポットも点在しています。

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、福井県、滋賀県に足を運び、点在する小京都重要伝統的建造物群保存11箇所を訪れ楽しみました。

主に歴史的建造物、歴史の町を訪れ、どれも観光客の多いのに驚きました。霊場、城跡巡りはマイナーで観光客はあまり見受けませんが、メジャーな観光地は多くの人で賑わっていました。何回か訪れたことのある今回の観光地、数年前と比べて格段の差で大勢の人で活気に満ちていました。

歴史的建造物とその街並み、寺町、港町、城下町、宿場町、癒されました。

 
  































飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十六弾:愛知県小京都&重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年5月11日-12日
 

愛知県に点在する小京都&重要伝統的建造物群保存8か所(西尾、犬山、足助、岡崎、有松、尾張大野、常滑、半田を訪れました。

11日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神自動車道経由して小牧インター下車

犬山:犬山城下町は犬山城の築城に伴い、もともとあった町を整備して作られました。商人や職人の同業者を近くに住まわせて、町の発展を促したとされ、鍛冶屋町・魚屋町などの町名に名残が見られます。また、町の中央部に町人町を置き、それを囲むように侍町を配置したほか、城下町の外周を木戸や堀、土塁等で取り囲む総構えの城下町として守りを固めていました。現在も江戸時代と変わらない町割り(町の区画)がそのまま残り、江戸から昭和までの歴史的な建造物が立ち並びます。そして、なんと言っても国宝犬山城と有楽苑の国宝茶室如庵をお見逃しなく。国宝が一つの町に二つもあるのはとてもめずらしい。

東名高速経由して

足助:足助の町並みは、戦国時代には原型が形成され、江戸初期には今のような町割りが出来上がりました。
現在の町並みは、安永4年(1775)の大火後に、防火を意図して漆喰で軒先まで塗り固めた塗籠造りの町家が建ち並び、今日にその面影を伝えています。
妻入りや平入りの変化に富んだ家並みが約2Kmにわたって続き、平成23年6月、愛知県で初めての国の重要伝統的建造物群保存地区(通称:重伝建)に選定されました。

18:00岡崎方面に向かう。

岡崎:岡崎市は旧三河国のほぼ中央に位置する市で、面積は愛知県第3位。徳川家康が生まれた地として知られており、家康にゆかりのある史跡や寺社などの観光スポットがたくさんあります。また、市内には一級河川の矢作川(やはぎがわ)が流れ、豊かな自然も感じることができる町です。
江戸時代から受け継がれている岡崎の味「八丁味噌」を味わうのも、岡崎観光には欠かせません。とにかく目いっぱい遊びたい!という人にも満足できるスポットが岡崎市にはたくさんあります

岡崎市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて終了、し食事を済ませて就職。

12日6:30車で出発、

西尾:西尾市は山・川・海に囲まれた豊かな自然が自慢の土地で、ぜひ訪れてみたい観光スポット満載の素敵な街。忠臣蔵で知られる吉良上野介ゆかりの地でもあり、人気の高いアートの島「佐久島」もあります。
また、西尾市は日本一の抹茶の生産地として知られ、そのルーツは13世紀まで遡ります。江戸時代にはお茶栽培が盛んに奨励され、明治に入って本格的な生産が始まりました。西尾と抹茶は切っても切れない関係!名古屋や浜松からも近いので、ドライブがてら観光をして、お抹茶で一服。

有松:旧東海道の古い街並みが残る有松は、名古屋市街並み保存地区に指定されています。江戸時代にタイムスリップしたかのような長屋が軒を連ね、とても風情がある街です。
名物は400年続く有松絞り。有松絞りの歴史を学べる施設で、絞りを体験して自分だけの記念品を作ったり、旧絞り問屋の蔵の中に設置された石窯で焼かれた素朴で美味しいパンを食べたり、新旧が交わった可愛い有松絞り製品の中からお気に入りを探したり、老舗の絞り屋で大人な色合いの製品に見とれたりして、和の雰囲気に浸る。

尾張大野:大野町はかつて「大野湊(おおのみなと)」と呼ばれて栄えた港町です。川岸には米倉が並び、尾張藩の海運関係の役所も置かれていました。海運により町には富が蓄積され今でも多くの社寺や町々の家並みに繁栄した時代の面影が見られます。

常滑:愛知県常滑市は焼物「常滑焼」で有名な街ですが、やきものの街としての雰囲気や陶芸体験、グルメなど子供から大人まで楽しめる観光スポットがたくさんあります

半田:半?市は、江?時代から醸造業や海運業などで栄え、商業や製造業を中?に発展してきました。こうした歴史を今に伝える4つの象徴的な?所として、半?市の観光は、「??・蔵・南吉・?レンガ」といわれています。また近年では、歴史的な建築物などを?かした、新たなスポットやイベントも年々増加しています。

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、愛知県に点在する小京都&重要伝統的建造物群保存8か所(西尾、犬山、足助、岡崎、有松、尾張大野、常滑、半田を訪れました。
今回は城下町の重要伝統的建造物群保存が多く、城めぐりを制覇してからの再度の訪れ、お城より周辺の城下町を重点的に散策し癒されました。

 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十二弾:岡山県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年3月30-31日
  


中国地方の岡山県に足を運び岡山県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所を訪れました。
30日12:30車で出発、阪神中国山陽自動車道経由して岡山方面に向かう。

下津:鷲羽山の西麓に広がる港町で備前岡山の南の玄関口。江戸時代中期以降は商港として栄え北前船の寄港地ともなりました。

倉敷:幕府の天領であった倉敷は、倉敷川の水運を利用して米をはじめとする物資の集散地として発展してきた。その後も天領時代の蔵と倉敷川を生かしながら時代の変化に応じた町並みづくりをしてきている。

18:00岡山駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

31日7:30車で出発。

矢掛: 岡山県小田郡矢掛町は、岡山県の南西部に位置し、人口15,839人(2008年7月末現在)の旧山陽道 の宿場町で知られる町です。矢掛町には街並み保存地区や国指定重要文化財もあり、町の景観にも力を入れています。矢掛本陣は国指定重要文化財です。 当時、大庄屋で酒造業を営む石井家が本陣職にあたりました。参勤交代で大名や公家、幕府役人の宿所に使われた屋敷は建築の粋をこらしており、当時の繁栄を現在に伝えています。本陣の予備にあてられ、当時、宿場の両替商で庄屋役でもあった髙草家が選ばれました。特に白壁、張瓦の堅固な建築様式が美しいです。本陣から400mの所にあり、本陣と共に国の重要文化財に指定されています。

備中高梁:美観地区の紺屋川筋、庭園の素晴らしい頼久寺は特に見応えがある。江戸時代は水運を利用して発達した町で、タバコの産地である。つい最近までJTの工場もあった。盆地の中にあり、高梁川が昔のたたずまいを残す町を静かに流れている。鎌倉時代に臥牛山に砦が築かれたのが、城下町としての始まりになる。天守閣のあるお城としては日本一高い場所にある備中松山城が町の自慢だが、このお城は江戸時代の城主・水谷勝宗による改修によるもので、ほぼ当時の姿を残している。庭園が美しい頼久寺は足利尊氏の建立したもの。
美観地区の紺屋川筋、城下町らしく武家屋敷沿いの道は、気持ちのいい散策路になっている。見所はいろいろあるが、古いモノなら何でも並べたような郷土資料館が、庶民の生活様式などがわかって面白く勉強にもある。武家屋敷は二百石程度の侍の屋敷だったもの、醤油の製造場でもあった商家資料館もある。

吹屋:銅山とベンガラの町として栄えたころの町並みがよく保存されていることから昭和41年県のふるさと村に指定され昭和52年国の「重要伝統的建物群保存地区に」選定されている。町全体がベンガラ色に染まっているのが印象的。

勝山:出雲街道の宿場町として栄えた勝山。今でも昔ながらの白壁の土蔵、格子窓の商家、古い町並みが残っており、岡山県で最初に「町並み保存地区」に指定されました。今では“のれん”が勝山のシンボルになっていて、町のあちこちで観光客の目を楽しませてくれます。また、室町時代に始まったとされる高瀬舟の発着場跡が、旭川沿い約700mに渡って残り、玉石積みと白壁の景観が往時の賑わいを偲ばせています。

足守:旧出雲街道の宿場町で、三浦藩の城下町です。格子や白壁の美しい商家が並び石州瓦で葺かれた屋根が白壁とあいまった県北らしい町並みです。電線が地中化されてきれいに整備されています。

津山:古くは美作国府・国分寺が置かれた政治・経済の中心にあり、旧出雲街道の要衝として栄えた。街道沿いに歩くと古い町並みが残っている津山。防衛上の拠点として配置された寺院もよく今日まで残っている。津山盆地の中を吉井川が流れ、水運を利用して高瀬船も往来していた。江戸時代の二代藩主の森長継が京都から作庭師を招集して、仙洞御所をまねて造園させたのが衆楽園。長い池に四つの島を配置し、中国山地を借景した名勝として知られる。城跡には天守閣などはないが、鋭い石垣が鶴山公園として残っており、名城らしい面影を見ることができる。特に桜の季節になると美しい姿を見せる。室町時代にもお城はあったが、応仁の乱の余波で廃城となり、本格的に築城されたのは江戸時代に入ってからである。この地を治めた森家は、本能寺の変で織田信長とともに討ち死にした森蘭丸に繋がり、お城も弟忠政が築城したもの。江戸時代に入ると松平家が変わって入城し外様大名を卒業した。市内は武家屋敷町、町人町、商人町と分かれていた地域が、今も面影を少し残している。中でも城東地区一帯がよく残っており、小路も歩いていても楽しい。

大原:旧因幡街道の宿場町大原宿です。参勤交代で鳥取藩主池田侯が宿泊するようになると宿場としてにぎわいを見せました。数寄屋づくりの御殿や唐破風の御成門をもつ本陣、長屋門をもつ脇本陣が残っています。電線が地中化され、きれいに整備された町並みです。

17:30帰路に向かう。

今回の旅行、中国地方の岡山県に足を運び、岡山県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所を訪れ楽しみました。

今まで何回か訪れたことのある観光名所、大阪から車で走行距離850kmの長距離長時間のドライブ観光でした。




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十八弾:徳島県香川県重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2019年3月2-3日


四国の瀬戸内海に面した徳島県・香川県に足を運び、徳島県・香川県に点在する重要伝統的建造物群保存地区6か所を訪れました。

2日12:30車で出発、阪神、明石淡路自動車道を経由して、引田方面に向かう。

引田:昔ながらの景観を今に伝える引田の古いまち並みは、引田の氏神である誉田八幡宮から本町通り沿いにかけて残り、大きな商家や赤壁の醤油醸造所、入り組んだ路地など、閑静な通りにはアンティークな趣きが漂います。特に松の下近傍には引田御三家といわれる旧庄屋の「日下家」、醤油業の「岡田家」(かめびし)、酒・醤油業の「佐野家」(旧井筒屋)の家屋敷が軒を並べています。

池田方面に向かう。

脇町:四国の玄関口である徳島市から西へ約40km。清流・吉野川沿いに『うだつの町並み』が今も残る美馬市脇町がある。
ここ脇町は、鎌倉中期に築かれたとされる脇城の城下町として栄え、“最初の戦国天下人”と呼ばれた三好長慶によって町並みが形成された。
鳴門から池田までを結ぶ撫養(むや)街道と讃岐越えの峠道に面した交通の要衝であり、吉野川の水運にも恵まれたことから商業の街として発展し、特に阿波の特産品である『藍』で財を成した豪商たちが、脇町の当時のメインストリートだった南町通りに競って屋敷を構えた。
こうして“うだつの上がる町”が誕生したが、時代が移って藍染めに使われる『藍』が化学染料へと変わると、『繭』や『葉煙草』の集積地へと変化。また、大正3(1914)年に吉野川の南岸に鉄道が開通し、陸上運送のための道路が開通すると商売の中心地が変わり、メインストリートだったはずの南町通り一帯にはいつしか古いうだつの町並みだけが残された。

貞光:北町から南町ヘと続く通りには江戸後期から大正にかけて建築された商家があり、その多くがうだつを上げています。町にはうだつの上がった建物が約50軒あります。特に二層うだつが何軒も続く中町から南町にかけての景観は壮快です。当時の趣を残そうと1998年には「貞光町町並み保存条例」が施行され、商店の顔、また町の貴重な文化遺産として、うだつは現在も住民の生活とうまく調和しています。
つるぎ町貞光のうだつは、脇町のうだつとは少し違い、うだつの前半分が一段低く二段式になっています。二層うだつと呼ばれ全国的にも珍しいもので、二段式になった防火壁に立派な屋根がある重厚なものです。正面には家ごとに異なる美しい絵模様が施され、重層な美術工芸としても貴重です。

17:30池田駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

3日7:30車で出発、祖谷方面に向かう。

東祖谷山村落合:

丸亀方面に向かう。

丸亀:高さ日本一の石垣に鎮座して400年の歴史を刻む丸亀城。大手門から見上げる天守は威厳に満ち、夕暮れの天守は優しさをまとって、心を和ませます。
400年の時を経た今日でも決して色あせることなく、自然と調和した独自の様式美をはっきり現在に残しているのです。

12:10丸亀港から高速艇で本島に向かう。
12:30本島到達、散策。

塩飽本島:塩飽水軍、塩飽廻船の根拠地として栄えた港町で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。細く入り組んだ道に伝統的な建物が並ぶ美しい町並みが楽しめる。例年、勤労感謝の日には、笠島まち並ふれあい祭りが開催される。

14:15本島高速艇で出発
14:35丸亀港到達、帰路に向かう。

今回の旅行、四国の徳島県・香川県に足を運び、徳島県・香川県に点在する重要伝統的建造物群保存地区6か所をおとずれ楽しみました。
何回か訪れたことのある観光名所、数少ない離島での観光名所のある本島での散策観光癒されました。

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十七弾:熊本県小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2019年2月23-24日
 

九州の熊本県に足を運び、熊本県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所(山鹿、宇城松合、崎津、人吉)を訪れました。

23日17:20伊丹空港出発
17:20熊本空港到達、レンタカーで熊本市内に向かう。
18:10熊本市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
24日7:30レンタカーで出発、小京都重要伝統的建造物群 保存地区巡り

山鹿:山鹿市は熊本県北部に位置し、福岡・大分の両県と境を接しています。市の北部には美しい山間地域と清らかな渓谷・渓流があり、中央部から南部にかけては、菊池川水系の恩恵を受けた田園地帯が広がる自然豊かな都市です。また、豊富な湯量と良質な泉質で知られる山鹿温泉郷をはじめ、古き町並みを今に伝える豊前街道、国指定重要文化財「八千代座」、国指定史跡「鞠智城」などの多くの文化財を有しています。
毎年、8月15日・16日の2日間にわたり行われる「山鹿灯籠まつり」は、千人灯籠踊りや花火大会、たいまつ行列など盛りだくさんの内容で行われ、全国から多くの観光客が訪れています。和紙と糊だけで作られる伝統工芸品の金灯籠を頭に掲げた女性達が優雅に舞う「山鹿灯籠踊り」は、幻想的な灯りのページェントとして九州を代表する夏の風物詩となっています。

宇城松合:松合は八代海に面する港町。湾岸の富岡往還に沿って古い町家が連なり、そこから内陸に入った春の川沿いの谷に農家が点在する、奥行きのある町並みが特徴的です。松合は江戸時代に舟運の拠点になったところで、文政年間(1818~30年)に熊本藩が魚介類を取り扱う役職を設置して以降、いっそうの発展を見ました。安政2(1855)年には舟溜まりや防波堤が完成し、明治時代にかけて熊本随一の漁港として賑わいました。町の最盛期は明治30(1897)年ごろで、そのころここには魚屋、船問屋、味噌や醤油の醸造家が軒を連ねていました。しかし明治32年、宇土半島の北海岸に鉄道(三角線)が開通すると、急速に衰退してしまいました。町並みを特徴づけるのは白壁の町家です。谷間の狭い土地にある松合では家屋が密集し、火災も頻発しました。明治時代だけでも24年、26年、42年と、40戸以上を焼失した火災が三度起きています。外壁をしっくいで塗り固めた町家は、防火対策のものだったのです。

崎津:2018年7月に世界遺産登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。その構成遺産のひとつ「崎津教会」は天草下島の小さな漁村の集落にあります。「海の天主堂」とも呼ばれ、日本家屋の漁村らしい風景に突然現れるゴシック様式の教会。クリスマスシーズンには静かな集落のイルミネーションも神聖です。禁教の中、250年もの間信仰を守り抜いたキリシタン。長く信者に守られた教会と、集落です。

人吉:熊本県南部に位置し、市街の中心を東西に日本三急流のひとつ「球磨川」が流れている人吉市。
鎌倉時代から明治になるまでのおよそ700年間、この地を相良氏が統治し、今でもその歴史文化遺産が数多く残る城下町です。
人吉市には、平成20年に国宝指定を受けた青井阿蘇神社や日本三急流での球磨川下り、城下町の風情を味わうことができる石畳の鍛冶屋町通り、気軽に立ち寄ることができる公衆浴場もある人吉温泉など、1年を通して楽しめる観光スポットも多数あります。

17:00終了。
18:00熊本空港到達。
19:05熊本空港出発
20:20伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の熊本県に足を運び、熊本県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区4箇所を訪れ楽しみました。

今まで何回か訪れたことのあるこの地区、歴史を振り返りながらの散策、癒されました。
 












飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十四弾:奈良県、和歌山県、大阪府重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年2月2-3日
 

近畿圏の奈良県、和歌山県、大阪府に足を運び、各々に点在する重要伝統的建造物群保存地区
14箇所を訪れました。

重要伝統的建造物群保存地区:文化財保護法でいう伝統的建造物群保存地区とは、城下町・宿場町・門前町・寺内町・港町・農村・漁村などの伝統的建造物群およびこれと一体をなして歴史的風致を形成している環境を保存するために市町村が定める地区を指す。この制度は、文化財としての建造物を「点」(単体)ではなく「面」(群)で保存しようとするもので、保存地区内では社寺・民家・蔵などの「建築物」はもちろん、門・土塀・石垣・水路・墓・石塔・石仏・燈籠などの「工作物」、庭園・生垣・樹木・水路などの「環境物件」を特定し保存措置を図ることとされている。

市町村は都市計画法に基づく都市計画または条例により伝統的建造物群保存地区を定め、文部科学大臣は市町村の申し出に基づき、その価値が特に高いものを重要伝統的建造物群保存地区として選定することとされている。2018年(平成30年)8月現在、日本全国で43道府県98市町村の118地区が選定されている。

2月2日12:30車で出発、奈良方面に向かう。
奈良県の重要伝統的建造物群保存地区巡り。

奈良町:平城京造営にその起源を持つ奈良町は、特産の刀や剣などの産業が発達し、また、南都詣でなどの観光によって、中近世を通じて大きな反映を誇ってきました。当時の宅地割りや町割りが残され、細い街路に沿った低いまちなみが展開しています。

大和郡山:美しい石垣の郡山城、城下町はその東に広がります。今でも雑穀町や豆腐町、鍛冶町、紺屋町などの町名が残り、路地には生活感漂う界隈空間が見られます。「藍染町家遊び箱本館」、造り酒屋や呉服商の町家、遊郭跡、見所がいっぱいです。

今井:戦国時代に、浄土真宗称念寺の寺内町として発達し、江戸時代になると堺と並ぶ自治特権が与えられた。豪商が軒を連ね、「大和の金は今井に七分」といわれるほどの繁栄をみせた。東西600m、南北300mの範囲に江戸時代以来の伝統的民家や商家が密集し、そのうちの8軒は重要文化財に指定されている。国の重要伝統的建造物群保存地区。

竹内:「難波より飛鳥の都に至る大道を敷く」と日本書紀推古天皇21年(613年)の条に記されている、日本最古の官道です。街道沿いには、瓦葺の大和棟の家屋も点在しています。

高取:高取町土佐のまちなみは、高取藩の城下町として形成され、街道筋には多くの商家が建ち並び、繁栄してきました。札の辻より上は、今でも武家屋敷が残り、静かなたたずまいの中にかっての面影を残しています。今は石垣を残すだけになった高取城は山上に築かれた典型的な山城で、その規模は日本一と言われました。

17:30八木方面に向かう。
18:30八木駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
3日7:30車で出発。

大宇陀:奈良県宇陀市大宇陀にある「松山地区」は、明日香村から約30分位の所にあります。2006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されたました。古いまちなみが今も残る町の名前です。古くから城下町として発展し、その町並みが今も生活の場としながらも景観を保ったまま残っている地区です。

宇陀松山が拓かれたのは、戦国時代「宇陀三将」と呼ばれた一人秋山氏の築いた城の城下町として発展してきました。以後、様々な時代の変遷を経ながら、今の松山の町並みが作られてきました。

「松山地区」は、保存地区に選定された古い町並みの散策はもちろん、町並みの隙間からふと顔を出す自然の表情や、何年も姿を変えていないような店の軒先など、時間の止まったようなゆったりした空気も魅力です。

近くに温泉もありたびたび「松山地区」は散策するのですが、とても癒される素敵な街です!


五条:江戸時代の初期、二見城主・松倉重政が年貢諸役を免許し、五條村と二見村の間に新町村をつくりました。紀州街道沿いで城下町、宿場町・市場町として栄え、重みのある古い民家が多く残っています。

洞川:洞川(どろがわ)温泉郷は大峯山から発し熊野川の源流ともなっている山上川のほとり、標高約820m余りの高地に位置する山里で、その冷涼な気候から関西の軽井沢とも呼ばれるところです(洞川の気候・天気)。どことなくなつかしく、昭和の時代にタイムスリップした雰囲気を漂わせるまちなみには、旅館・民宿が20数軒、そのほかに土産物店や陀羅尼助丸を製造販売する店13軒や各種の商店が軒を連ねています。

和歌山県に向かう。

湯浅:醤油醸造など商工業を中心に発展した湯浅の町並みは、その重厚な歴史的風致を今日によく伝えていることから価値が高いと評価され、平成18年12月19日に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。「通り」と「小路」で面的に広がる特徴的な地割と、醸造業関連の町家や土蔵を代表とする近世から近代にかけての伝統的な建造物がよく残されている地区です。

黒江:「黒江塗」と呼ばれるこの地域の漆器は、日本四大漆器の産地として全国的にも有名。川端通り周辺には、昔の漆器職人たちの住居兼職場や問屋が今も残り、一部では漆器製品の販売も行われている。京風で独特の「紀州連子格子」、また、建物が通りに対して斜めに「のこぎり歯」状に雁行した形で建つ独特の景観は、「黒江の町並み」と呼ばれ多くの観光客が訪れる

大阪方面に向かう。

信達:熊野街道沿いの信達宿にある「梶本家の藤」は、昭和53年に植えた野田藤が見事に育ち、4万もの花房をつけ、4月中旬から下旬の花見の頃には、毎年「ふじまつり」が開催され、遠方からの花見客でにぎわいます。まつり期間中は、藤棚のそばに観賞台が設置され、上から眺める藤は、まるで薄紫の雲海のようです。夜にはライトアップが行われ、街道沿いにも「熊野街道花あかり」としてランタンが設置されます。また、駅からの順路には紫紺の幟旗が設置され、市民ボランティアガイドが街のあちこちで案内を行うなど、いまや泉南の春の祭りとして定着しています。期間中の休日などには、紀州家ゆかりの信達宿本陣跡「角谷家」も特別公開されます。

富田林:大阪府南東部の南河内(みなみかわち)地方に位置する富田林 (とんだばやし)市。中心部の旧市街地には江戸時代中期以降に建てられた民家(商家、町家)が約40軒、往時の姿そのままに保存・継承されています。富田林の名前の由来にもなった、富田が芝と呼ばれた荒地は、今から約450年前、戦国時代の最中に興正寺別院 (一向宗・浄土真宗)を中心に宗教自治自衛都市・寺内町 (じないまち)として開発され、発展しました。今も戦国時代の東西南北の碁盤目状の町割(都市計画)を留めています。

池田:大阪府北西部、猪名(いな)川東岸に位置する市。
古くは呉服里(くれはのさと)と呼ばれた。中世豪族池田氏の本拠地。江戸時代は市場町として栄えた。江戸時代の池田酒の伝統を受け継ぎ、清酒醸造業が盛ん。自動車とその関連機器、光学レンズなどの工場がある。植木生産が盛ん。大阪国際空港(伊丹空港)、池田市立五月山動物園、インスタントラーメン発明記念館がある。

枚方:京,大坂の中間で大発展、大坂-京の中継地として三十三石船が立ち寄ったところです。年貢米,各種商品作物の集散地で大きく発展しました。宿場は延長1.5kmに及び,問屋,本陣,脇本陣,旅籠,茶屋,町家などがぎっしり。

17:30終了。

今回の旅行、近畿圏の奈良県、和歌山県、大阪府の広範囲に点在する重要伝統的建造物群保存地区14か所を訪れ楽しみました。
今まで何回か訪れたことのある観光名所で、比較的観光客が多くて賑やかな地区とひっそりして観光客があまり見かけない地区と大きく分かれていました、いずれにしても歴史的建造物地区巡り癒されます。

 





























飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十三弾:大分県九州四十九院薬師巡礼&重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年1月26-27日
 

九州の大分県に足を運び、大分県に点在する九州四十九院薬師霊場8か所、重要伝統的建造物群保存地区3か所臼杵、佐伯、豊後竹田を訪れました。

26日18:00伊丹空港出発
19:00大分空港到達、レンタカーで別府方面のホテルに向かう。
20:00ホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
27日7:30レンタカーで出発。霊場、重要伝統的建造物群保存巡り。

観海寺:口碑に曰く、奈良時代・養老二年(元正天皇)約一二八〇年前仁聞菩薩始めて錫を此地に駐め温泉を拓き、諸々の病者して入浴せしめ後、丘に一宇を建立し観海寺と称す。當時一刀三?の薬師如来の尊像を彫刻し本尊仏となす。

とあり奈良朝、六郷満山を開いた僧、仁聞の開基とされております。

現在の観海寺は昭和13年に再興されたもので禅宗系・曹洞宗です。

新しい資料では豊後の国主大友宗麟の古文書が発見され、約440年前に当観海寺が有ったことが証明されました。

当寺には後白河法皇の第3皇女・式子内親王(百人一首和歌の名手)御墓や、幕末の有志二条義実公御墓・特攻撃隊憩翼の碑があります。

大山寺:

神護寺:

龍興寺:創建は延文3年(1358)大友七代泰氏が大野川をさかのぼった川添村に建立、高獄禅師を招いて開山した。

当初は大友氏の祈願所であったが、宗麟の重臣・吉岡宗歓が鶴崎に居城を構え、城下町を整備したとき龍興寺を近くの三軒町に移した。

元禄元年(1688)湛堂和尚が堂宇を再建、師の柏翁祖棟を請うて中興開山した。ついで大用素道和尚の代に弁財天をまつり、鎮守堂・地蔵堂など建立、壮大な伽藍美を誇ったが、その一方で河川の氾濫に悩まされていた。

降って、昭和7年にようやく大野川改修工事が行われ、龍興寺も現在地に移転することになったが、この間に歴史的事件が勃発した。
その一つが明治7年に起こった熊本藩士の仇討ち、また昭和の工場誘致にからむ割腹事件などもそうで、いずれも龍興寺が悲劇の舞台に利用されたという。

當陽寺:中世以降、大友氏が所領して戦国大名に成長、二十一代宗麟の代には、九州北部の六カ国を有す大大名となった。
当時の宗麟は、ポルトガルや明国と貿易、またキリスト教を信仰して、自ら洗礼名ドン・フランシスコと名乗った。

天正9年(1581)南国の覇者・島津義久の軍勢を迎えて宗麟は、自ら十字架の旗を座かせて日向国に出陣した。この道中、キリスト教を奉信する兵士のなかには、所在の社寺を破壊する者もあったという。

當陽寺もそうした輩に焼討ちされて、文書などを焼失した。創建は定かでないが、寛文年間(1661〜73)河野九兵衛が再建して、丹生中村の庄屋・池見家の門を移した。

当時は、臼杵月桂寺の末に属す。

島津氏に敗退した宗麟は、天正元年(1573)家督を義統に譲り、臼杵城を築いて隠居した。同14年、島津軍の攻撃に遭って義統は、府内城を出て豊前竜王城に逃れた。當陽寺が焼討ちに遭ったのはこの戦か、世に「水丸合戦」ともいう。

河野九兵衛は、伊予河野氏の一族である。

臼杵:現在の臼杵の街並みは、美濃(岐阜県)から慶長5年(1600)に入封した稲葉氏によって築かれたもの。江戸時代は臼杵藩5万石の大名であった稲葉氏は、明治までの約270年間にわたって臼杵を統治した。

大きな特徴として挙げられるのは、臼杵城を中心に商家が立ち並んでおり、その外側を武家屋敷や寺院が取り囲んでいるところ。屋敷や記念館などを城の周囲を回るように散策してから、最後に臼杵城址へ行くのがおすすめだ。

臼杵(うすき)の城下町には、江戸時代の風情を残す細い道が残っています。そんな曲がりくねった道やカギ型通りなどを、ぶらぶらと歩くのが臼杵の楽しみ方です。歴史深き街の中でも、「二王座歴史の道」は特に雰囲気のある場所で、二王座は徳川3代目将軍・家光の乳母である春日局(かすがのつぼね)が、一時住居にしたといわれます。石畳の路地に、白壁の武家屋敷や古い蔵、寺院などが軒を連ねています。

二王座にある「旧真光寺」は無料休憩所兼ギャラリーとして開放されており、2階から二王座歴史の道が一望できます。特に雨の日は、濡れた石畳が黒く光り、より風情を感じられる景色が広がります。

佐伯:バスターミナルのある大手前(大手門跡)から山際通りを通って養賢寺へと至る700メートルほどの道のりは、「歴史と文学の道」として整備されています。落ち着いた雰囲気のこの通りは、城下町としての街並みを残し、道沿いには豊後佐伯城で現存する唯一の遺構である「櫓門(やぐらもん)」などの歴史スポットに加えて、「国木田独歩館」や明治期のジャーナリスト・矢野龍渓の生家跡など、文学的な施設も並びます。

時間と体力に余裕がある人は、歴史と文学の道を少し外れて、豊後佐伯城の跡地である「城山」に足を運んで。ひっそりとした照葉樹林の中に残された石垣と、頂上から遠く四国の山々までを望む眺望は、散策の目的としてもおすすめできますよ。

豊後竹田:大分の玄関口であるJR『大分』駅から豊肥本線に乗って約1時間30分、大分県竹田市(たけたし)は人口約2万3000人の小さなまちだ。

小さいながらも観光資源は実に豊富で、かの作曲家・瀧廉太郎が『荒城の月』の構想を練ったとされる岡城の城壁が今も残されており、岡藩時代の繁栄ぶりを窺わせる城下町のまち並みには『武家屋敷通り』と呼ばれる石垣と土塀の路地が続く。また、近年では『竹田の隠れキリシタン』のミステリーが話題となり、全国からこの小さなまちに観光客が押し寄せている。

正平寺:崇竣天皇御即位元年(西暦587年)釈正覚上人が初め犬ヶ岳に長福寺を創立し、その後寺を当山に移し一寺を建立したのが当寺の開創である。

天平勝宝四年(752年)勅願所と定められ、以来山を「桧原山」、寺を「正平寺」と称するようになった。安和二年(969年)大講堂が建立され、以来、国府の所管するところとなり、鎮護国家の祈願道場として豊前山岳仏教の修験霊場として英彦山・求菩提山と共に隆盛をきわめた。

大字中畑、福土の二村が寺領であったが、黒田氏中津城主の時(1587年)米百石を附して没収された。細川、小笠原氏を経て、奥平氏に至り、山上における全ての堂宇の営繕を負担され、奥平富之進昌高氏は天明七年(1787年)上宮本堂を建立された。

明治初年正平寺を本寺として九ヶ坊の末寺を有したが、明治維新の変革により山林全部を国有林に編入され、明治11年3月庫裡消失、同21年山火事により上宮本堂を焼失したため、石龕三宇を建立して本尊を安置している。明治23年宗達により大分県下一円福岡県京都郡と併せて天台宗務支所となった。

明治29年、又不幸にして大講堂・鐘楼・みこし三体・当寺縁起、その他宝物一切を焼失し、現在の講堂は明治35年に復興したものである。平成13年、県下最大の梵鐘が復興された。

県指定無形民俗文化財である「お田植祭」は神仏習合の名残をいまに伝える貴重な行事である。


長安寺:

岩戸寺:

17:00大分空港に向かう。
18:00大分空港到達。
19:30大分空港出発。
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の大分県に足を運び、大分県に点在する九州四十九院薬師霊場8か所、重要伝統的建造物群保存地区3か所臼杵、佐伯、豊後竹田を訪れ楽しみました。
霊場は今回もそれほど大きくなく中規模で地味でした。
重要伝統的建造物群保存地区は何回か訪れたことがあり再確認できました。
今回で九州四十九院薬師を無事制覇しました。
 



















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十八弾:兵庫県お城・城下町巡り&小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2018年12月8-9日
 

摂津・播磨・丹波・但馬・淡路と、それぞれ異なる魅力に溢れる5つのエリアがあります。北は日本海、南は瀬戸内海に接し、変化に富んだ美しい景観を楽しめるのも魅力。世界遺産「姫路城」、雲海に浮かぶ「竹田城」、異国情緒漂う「神戸」、伝説と花の島「淡路島」等、人気観光スポットが数多くある兵庫県に足を運び、兵庫県に点在する比較的マイナーなお城5か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所を訪れました。

8日12:30車で出発、阪神高速経由して神戸に向かう。
お城・小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り。

伊丹城:築城年代は定かではないが南北朝時代には伊丹氏の居城であった。 南北朝時代には数々の戦が摂津国で行われ、伊丹城でも数々の功城戦が行われ、時には落城している。
天正2年(1574年)織田信長は茨木城主荒木村重に命じて、池田城主池田氏と伊丹城主伊丹氏を攻め滅ぼし、荒木村重を摂津国守護として伊丹城へ置いた。 村重は伊丹城を有岡城と改名して城の大改修を行った。
天正6年(1578年)播磨国三木城主の別所長治が織田信長に叛くと、つづいて村重も織田信長に叛き有岡城に籠城した。この時、黒田孝高が村重を説得するために赴いたが、そのまま捕えられて幽閉された。信長は池田・塚口・食満・加茂・倉橋・原田・刀根山に軍勢を配して有岡城を包囲し、長期戦にはいった。天正7年(1579年)村重は近習を連れて夜陰に紛れて有岡城を脱し、尼崎城へ逃れた。城主が存在しないまま籠城を続けていたが遂に裏切り者が出て、周囲を固める砦が破られ天正7年(1579年)末に落城した。
その後、信長は池田之助を城主に置いたが、天正11年(1583年)美濃国へ転封となり羽柴秀吉の直轄領となって廃城となった。

尼崎城:元和3年(1617年)戸田氏鉄によって築かれた。 古来より近畿と西国を結ぶ要所である尼崎には、戦国時代には細川氏によって城郭が築かれていたという。
豊臣時代からの尼崎郡代である建部氏は、元和元年(1615年)大坂夏の陣の戦功により一万石の加増をうけ尼崎藩を立藩するが、元和3年(1617年)播磨国林田へ転封となった。
代わって近江国膳所より五万石で入部した戸田氏鉄は、幕命により尼崎城を築き、以後譜代大名が続いて明治に至る。

鷹尾城:山城部分を「鷹尾城山城」平城部分を「芦屋城」と区別していうこともある。阿波の細川澄元の畿内進出の防衛最前線基地として、細川高国が「鷹尾山の天険を利用して、早急に山城を築け」と瓦林正頼に命じたと言われている。
鷹尾城は築城後よりすぐに芦屋河原の合戦の中心となり、赤松義村軍の猛攻にあい瓦林正頼らは鷹尾城からおちのびたが、船岡山合戦より赤松義村軍が兵をひいたのを見計らい、瓦林正頼は鷹尾城を改修するとともに越水城を築城しこれを本城とし、鷹尾城は家臣の鈴木与次郎に守らせ越水城の支城とした。その後記録が残っていないので、越水城が廃城となった同時期に鷹尾城も廃城になったと思われる。(

神戸北野:北野・山本地区は明治以来、雑居地として発展してきたことから、異人館と呼ばれる洋風建築と和風建築が混在し、独特の町並みを形成してきました。
エキゾチックで個性的な景観を保全・育成するために、神戸市では明治・大正・昭和初期の33件の洋風建築物と7件の和風建築物を伝統的建造物として認定していますが、これら以外にも異人館をはじめとする伝統的遺産が現存しています。

洲本城:築城年代は諸説あり定かではないが室町時代後期に安宅氏によって築かれた。 天正9年(1581年)安宅氏は羽柴秀吉に破れ降伏する。 天正10年(1582年)仙石秀久が城主となるが天正13年(1585年)脇坂安治が城主となり大改修した。
大坂夏の陣後はその功により阿波徳島の蜂須賀氏に加増され重臣の稲田氏が城代となった。

17:00姫路方面に向かう。
18:30姫路市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
9日7:30車で出発。

室津:江戸時代、参勤交代時に諸大名の乗船、下船地として賑わったとか。最盛期には、一ツ屋・薩摩屋・筑前屋・肥前屋・肥後屋・紀伊国屋と呼ばれる六つの本陣があったそうです。通常は一つの宿場町に一つの本陣がほとんどだったと言うので、当時の賑わいはすごいものだったのでしょう。残念ながら今は、本陣跡として「本陣 薩摩屋跡」などの石碑が残っているだけでした。
室津に残る江戸期の建物は回漕問屋「島屋」を資料館にした室津海駅館と海産物問屋「魚屋」を改装した室津民俗館で、これら2軒の商家以外には昔ながらの町並みは残っていませんでした。それでも町屋のほとんどが和瓦の屋根で統一されていてノスタルジックでとても良い雰囲気でした。

坂越:江戸時代から廻船業で栄えた港町。国指定記念物の原生林が茂る生島が目の前に見える。旧坂越浦会所から、国道250号方面へ行く道の両脇に古い街並みが残る。造り酒屋・奥藤家の堂々たる建物や坂越まち並み館(などをゆっくり見学したい。

龍野:播磨の小京都ともいわれる脇坂藩5万3000石の城下町。うすくち醤油に代表される産業の町でもある。鳥かごを伏せたような鶏籠山のふもとに脇坂安政が城を構えたのが寛文12年(1672年)。清流揖保川のほとりには、今も家老門や武家屋敷、醤油蔵がたたずみ、しっとりとした情緒を感じさせる。龍野城跡など見どころが集まる旧市街は道が細いので徒歩が便利。童謡「赤とんぼ」を作詞した三木露風や哲学者の三木清など、龍野ゆかりの文化人の資料館も見ごたえがある。

平福:400年前の景観が今なお残る街並。

街道沿いに建つ家々の格子やウダツといった意匠、佐用川沿いに連なる川座敷や土蔵群など、因幡街道の宿場町として栄えた名残が多く残る街並が魅力の佐用町を代表する観光スポット。また、江戸時代から続く醤油醸造元"たつ乃屋"や、宮本武蔵初決闘の地など、長い歴史を持つ平福ならではの魅力もたくさんある、

竹田:城下町は初代藩主中川秀成(ひでしげ)(1570~1612年)が整備。碁盤の目のように広がる区画は岡藩繁栄の象徴とされ、殿町の武家屋敷通り(歴史の道)は土塀と石垣がある江戸時代の屋敷13軒が並び、築200年の建造物もある。
 市は1979年に旧市街地の町並み保存を目的に「市史跡等環境保存条例」を制定。2016年に「市景観条例」に移行し▽入り母屋・切り妻の和風瓦屋根の推奨▽高さ15メートル以内▽原色は使わない近隣のバランスに配慮した色彩―を定めた。江戸時代~戦前の日本家屋29棟が国や県、市の文化財として登録、指定を受けた。
 市はさらに20棟を登録文化財候補として挙げ、所有者に対して「竹田の財産を残しませんか」と提案、交渉を進める。空き家の場合は、空き家バンクを通じて利用希望者を探している。2年前に地域おこし協力隊として東京都から移住した小笠原順子さん(37)は、殿町にある築88年の木造住宅を購入した。「竹田で子育てをして、趣がある町並みを守りたい」と話す。
 重伝建は城下町や宿場町など建造物群と環境が保存された地区。市町村が都市計画や条例で区域を定め、文部科学大臣が市町村の申し出により、価値が高いものを選ぶ。
 城下町は江戸時代の商家や武家屋敷、明治~昭和の建造物が混在し、建造物群として認められていない。

出石:豊岡市は兵庫県の北東部に位置しています。市域の南東部にある出石は、出石川と東の山塊から流れ出る谷山川との合流部付近に位置し、有子山を背にして北に広がっています。現在の出石は、慶長9年(1604)頃、小出吉英が出石城を築城するとともに城下町を整備したことにはじまると考えられています。
 保存地区は、出石城跡をはじめとして、近世後期における城下町の町割や敷地の間口割をよく残すとともに、近世から近代に建てられた町家や寺社建築、武家屋敷など、但馬地方における城下町の歴史的風致を今日に良く伝えています。

丹波篠山篠山城下:城下町における保存地区の範囲は、国指定史跡篠山城跡とその周囲に町割りされた旧武家町、旧商家町からなり、東西約1,500メートル、南北約600メートル、面積約40.2ヘクタールに及びます。旧武家町は篠山城の外堀に面して上級武士の長屋門を残し、城の西に位置する南北の通り-御徒士町通りには天保元(1830)年の大火直後に建てられたとされる茅葺入母屋造りの武家屋敷を残し、通りに面して土塀と棟門を配します。旧商家町は、江戸時代末期から大正期に建てられた町家を連たんして残します。篠山市篠山伝統的建造物群保存地区は、天下普請による篠山城跡を核とし、武家町や商家町の町割りを残すなど、近世の城下町の基本的構造を良く残すと共に、武家屋敷や近世から近代にかけて建てられた商家及び寺院など、城下町の要素を全体としてよく残し、その歴史的風致を良く今日に伝え、全国でも価値が高い町並みであると評価され、平成16(2004)年12月10日付けで国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に選定され、平成19(2007)年2月には城下町篠山の町並みが美しい日本の歴史的風土100選に選ばれました。

丹波篠山福住:篠山城下から京都に向かう宿場町、福住地区。平成24年12月に国の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。丹波地方独特の商家の建物が多くみられ、宿場町の面影が色濃く残る町並み。素朴な雰囲気がお散歩にぴったりです。

三木城:築城年代は定かではないが別所氏によって築かれたと云われる。 別所氏の系図については定かではないが、赤松則村(円心)の弟敦光が別所五郎左衛門を名乗ったのが始まりと云う説や、赤松季則の次男である頼清が、永暦元年(1160年)に加西郡在田荘別所村に移り、別所城を築いて居城とし別所氏を称した説などがある。
史料に登場するのは6代別所則治で、文明15年(1483年)守護赤松政則が山名氏に大敗し国人層の信頼を失い堺に逃亡、翌年には浦上則政に家督を廃された。 この時、別所則治が前将軍足利義政にとりなして家督を安堵させ、文明17年政則に従軍して播磨に入国した。
戦国時代に入ると守護赤松氏の勢力は衰退し、別所氏はしだいに自立することとなり、天文7年(1538年)と翌8年には尼子氏の侵攻にあったが、これを撃退した。 天文23年(1554年)三好氏が有馬重則を助けて播磨に入国し別所氏の諸城を落とすと、別所氏は三好に属した。 しかし三好氏が織田氏によって勢力を削がれると、別所氏は織田氏に通じ三好と対立、天正6年(1578年)には毛利氏に付き、織田軍の羽柴秀吉と対立する。秀吉は三木城を完全に包囲し周辺の諸城を落とした後、別所長治以下一族が自害し落城した。
その後は天正13年(1585年)摂津国茨木より中川秀政が入城するが、朝鮮の役で没した。弟秀成が継いだものの禄高は半減となり、文禄3年(1594年)豊後国岡に転封となった。
慶長5年(1600年)池田輝政が姫路に入部すると、三木城には伊木忠次が三万石で在城したが、元和の一国一城令によって廃城となった。

17:00終了、帰路に向かう。
今回の旅行、兵庫県に足を運び、兵庫県に点在する比較的マイナーなお城5か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所を訪れ楽しみました。

今回も地味なお城が多いが洲本城は立派な石垣がしっかり残っており感動しました。
小京都重要伝統的建造物群保存地区は何回も訪れたことがあり再確認しました。
今回で全国のお城1000箇所を訪れ制覇し無事終了しました。
 

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十七弾:三重県お城・城下町巡り&小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2018年12月1-2日
 

観光資源が豊富で、F1が開催される鈴鹿サーキットをはじめ忍者発祥の地と言われる伊賀エリアなど魅力あるスポットが数多く存在する。お伊勢参りで有名な伊勢神宮には国内外から多くの参拝者が足を運び、横丁ではグルメも楽しむことができ、複合リゾート施設志摩スペイン村やナガシマスパーランドなどレジャースポットも豊富な三重県に足を運び、三重県に点在する比較的マイナーなお城9か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所を訪れました。

1日12:30車で伊賀方面に向かう。

伊賀上野:伊賀エリアのおすすめご当地情報をご紹介。伊賀エリアには薬師寺、上野公園、赤目四十八滝などの観光スポット、上野天神祭、伊賀焼陶器まつり、名張川納涼花火大会などの観光イベント、赤福、いちご大福、てこね寿司などのご当地グルメがあります。
伊賀上野は、三重北西部に位置し、忍者の里として知られ、奈良街道と伊賀街道の要所であり、宿場町として栄えました。上野城の城下町としても栄えました。東京にも似た名があるため、伊賀上野と呼ばれています


丸山城:丸山城は「天正伊賀の乱」の要因となった城です。北畠氏の養子となった織田信雄(北畠信意)は1578年(天正6年)、伊賀の領国化を図るために重臣の滝川雄利に命じて丸山城を築かせましたが、これに反発した伊賀の国人たちによって攻められ、一揆軍に占領されました。その後、第一次、第二次と二度にわたる伊賀侵攻の末、伊賀を完全に領国とし、雄利を再び城主としました。雄利が松ヶ島城に移った頃に廃城となったと思われます。城址は伊賀随一と評されるほどの規模で、削平した曲輪跡をはじめ、土塁や堀切などの遺構が良好に保存されています。また本丸跡にある天守台上には、大正時代に建立された丸山城址の石碑があります。

名張城:天正13年(1585年)松倉勝重によって築かれた名張城が始まりとされる。 上野に転封となった筒井定次は家臣松倉勝重に八千石を与え名張城を築かせた。 天正15年(1587年)松倉重政は家禄を捨て定次との主従関係を切り奈良興福寺成自院に入った。これは酒食に溺れる定次を勝重・重政が父子が諌言したが聞き入れられなかった為ともいわれるが定かではない。
重政は後に豊臣秀吉、徳川家康に仕え肥前国島原六万石を得た。
寛永12年(1635年)伊予国今治から藤堂高吉が領地替えで名張に入り陣屋を築いた。 名張藤堂家は独立した大名とはなれず、伊勢国津の藩内領主という位置付けであった。

霧山城:康永元年・興国3年(1342年)北畠顕能によって築かれたと云われる。
北畠氏は村上源氏で京の北畠に居住した公家であったが、建部3年・延元元年(1336年)後醍醐天皇が吉野山に遷幸の時に北畠親房が南伊勢に下向し、玉丸城を拠点として勢力をのばした。
足利氏はこれに対して幾度となく玉丸城を攻撃し康永元年に落城、顕能は多気郡に逃れた。その後、南北朝の合体や後小松天皇譲位による南北決裂などもあったが、南朝方は次第に勢力を削がれ北畠氏も一守護大名となっていった。
永禄12年(1569年)織田信長が南伊勢に侵攻すると、北畠具教は大河内城に籠城し抵抗したが、やがて信長の次男信雄を北畠の養子として家督を譲ることで和解した。具教は三瀬館に潜み信雄に対抗しようとしたが天正4年(1576年)信雄の命によって暗殺された。

18:00多気市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
2日7:30車で出発。

伊勢:古くから「日本人の心のふるさと」として親しまれてきた伊勢神宮。広大な森林の澄んだ空気に心が洗われます。昔町めぐりも魅力的。敷地の広い伊勢神宮は、時間をかけてゆっくりとめぐりましょう。古くからの習わしでは、外宮を参拝してから内宮を参拝します。両宮ともに「御正宮(ごしょうぐう)」→「別宮(べつぐう)」の順にお参りを。
参拝後は、お伊勢さんの門前町「おはらい町」散策へ。川沿いの石畳にレトロなお店が軒を連ね、昔懐かしい町並みを楽しめます。そして賑やかなのが「おかげ横丁」。老舗和菓子店や、名物・伊勢うどんを食べられる店、和風の可愛い雑貨屋さんなど、入ってみたいお店がいっぱい!


松坂:江戸時代に商業の町として栄え、豪商のまちとなった松阪。今も城跡や武家屋敷が残り、レトロな風情が町並みに漂います。
松阪もめんの粋な着物姿で散策してみるのもおすすめ。本場の松阪牛は逃せません。

松ヶ島城:永禄10年(1567年)頃、北畠具教が築いた細首城が始まりと云われる。 具教は織田信長の侵攻に備え家臣日置大膳亮に守らせた。 永禄12年(1569年)の織田軍の侵攻では日置大膳亮は細首城を焼いて大河内城に籠城した。 信長の次男信雄が北畠氏の養子になり家督を継ぐことで和議が成立すると信雄は田丸城を築きこれを本拠とした。 しかし田丸城が焼失すると細首城を改修し松ヶ島城と改名した。 本能寺の変の後は羽柴秀吉によって蒲生氏郷が入城したが氏郷は新たに松坂城を築いて本拠を移したため廃城となった。

木造城:貞治5年・正平21年(1366年)木造顕俊によって築かれた。 顕俊は北畠顕能の次男で木造城を築き木造氏を名乗った。 二代目の俊康は京都に住み足利将軍と親しかった為、本家北畠氏の南朝と対立した。
永禄12年(1569年)織田信長の南伊勢侵攻によってそれに従い信長の次男信雄が北畠氏の養子となり家督を嗣ぐことで和解した後は、それに従った。

上野城:織田信長の弟、信包が、津城の仮城として1570年に改修築城した伊勢上野城。お市にとっては兄である信長に攻められ、浅井長政(お市の夫、三姉妹の父)が自害した後、信長の計らいにより、お市と三姉妹が移り住んだお城です。江は0歳から7歳までを過ごしました。その後、廃城となり、後に津藩主、藤堂高虎により取り壊され、現在は城郭の跡のみ残っています。
標高38mの伊勢街道沿いの台地に造られたこの城からは、伊勢湾や鈴鹿連峰が一望でき、展望台となった今でも当時の景色が偲ばれます。

神戸城:築城年代は定かではないが天文19年(1550年)頃に神戸具盛によって築かれたと云われる。 神戸氏は伊勢平氏関氏の一族で、関盛政の長子関盛澄が鈴鹿郡と河曲郡内二十四郷を領し、沢城を築いて神戸氏の祖となったと云われる。
永禄10年(1567年)神戸友盛のとき、織田信長の家臣滝川一益の侵攻を受けたが、高岡城に籠もった山路弾正がこれを凌いだ。翌11年(1578年)にも織田氏が攻め込み、神戸友盛は信長の三男信孝を養子として迎えることで和睦となった。
元亀2年(1571年)信長は神戸友盛を沢城に隠居させ、信孝を神戸城主に据えた。その後、友盛は近江の蒲生氏に預けられたが、これに反発した山路弾正らは神戸城奪還のために高岡城で挙兵しようと画策したが、計画が発覚して弾正は切腹となり、高岡城には小島兵部が置かれた。

正8年(1580年)神戸信孝は神戸城を拡張して五重の天守を設けた。 天正10年(1582年)信孝は四国攻めの総大将として堺にて渡航の準備をしていたが、本能寺の変が勃発して中止となり、秀吉に合流して明智光秀を討った。その後、信孝は岐阜城に移り神戸城には小島兵部が入った。信孝はその後、賎ヶ岳合戦に際して柴田勝家と結んで岐阜城で挙兵したが、羽柴秀吉によって岐阜城が攻められ降伏して開城し、知多の野間大坊で自刃した。
天正15年(1587年)水野忠重が三河国刈谷より移ったが、文禄元年(1592年)再び三河国刈谷に移り、滝川雄利が城主となった。

関:関宿は、古代から交通の要衝で、日本三関の一つ「鈴鹿関」が置かれ、江戸時代には東海道五十三次47番目の宿場町として、参勤交代や伊勢参りの人々で大変賑わいました。そして現在、旧東海道の宿場町のほとんどが旧態をとどめない中にあって、江戸時代から明治時代に建てられた古い町家が200軒あまり残っており、往時の姿を色濃く残していることから昭和59年に東海道の宿場町としては唯一国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

峯城:築城年代は定かではないが正平年間(1346年~1370年)に関盛忠の五男峯政実によって築かれたと云われる。
峯氏は政実以降六代続いたが、天正2年(1574年)峯八郎四郎盛祐が伊勢長島の合戦で討死すると弟与八郎が幼小であったため、岡本下野守が峯城主となった。
天正11年(1583年)滝川一益の家臣滝川儀太夫益重によって攻められ峯城は落城するが、羽柴秀吉が大軍を率いて峯城を包囲し、数ヶ月の籠城の末に兵糧が尽きて儀大夫は開城した。この戦いの後、織田信雄の家臣佐久間正勝が入城した。
天正12年(1584年)秀吉と信雄が対立すると、小牧・長久手合戦の前哨戦として秀吉は蒲生氏郷、関長門守などに命じて峯城を攻めさせ、わずか数日で落城した。

長嶋城:寛元3年(1245年)藤原道家によって築かれたのが始まりとされる。 文明年間(1469年~1487年)伊藤重晴が再び築城した。
元亀元年(1570年)一向宗願証寺の門徒が長島城を攻めて伊藤氏を滅ぼした。 更に一向宗は矢田城の滝川一益を追って、織田信長の弟興長を自刃される。
元亀2年(1571年)織田信長は大軍をもって長島城を攻めるが落とせず、退陣で殿を勤めた氏家卜全が討死した。 天正2年(1574年)三度目の長島城攻略によって落とすと、滝川一益を城主として北伊勢を領した。
天正11年(1583年)滝川一益は柴田勝家に味方して羽柴秀吉に敵対するが、勝家が秀吉によって滅ぼされると一益もまた攻められ、所領を没収された。その後は、天野景俊、原胤房、福島正頼が城主となる。
・慶長6年(1601年)福島正頼は大和国宇陀に転封。
・慶長6年(1601年)上野国阿保より菅沼定仍が二万石で入封、元和7年(1621年)定芳の時、近江国膳所に転封。
・慶安2年(1649年)下野国那須より(久松)松平康尚が一万石で入封、元禄15年(1702年)忠充の時、除封。
・元禄15年(1702年)常陸国下館より増山正弥が入封、以後明治に至る。

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、三重県に足を運び三重県に点在する比較的マイナーなお城9か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所をおとずれ楽しみました。

比較的地味な城跡、何回か訪れたことのある小京都重要伝統的建造物群保存地区(伊賀上野、伊勢、松坂、関)訪れ今回で兵庫の城跡のみとなりました。


















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十六弾:山口県お城・城下町巡り&小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2018年11月24-25日
 

角島、秋吉台、錦帯橋などの観光スポット、関門海峡花火大会、萩焼まつり、七夕ちょうちんまつりなどの観光イベント、ういろう、瓦そば、夏みかん菓子などのご当地グルメがあり、山陽地方の県で、かつて周防国と長門国であった土地は毛利家に支配されていました。江戸時代には長州藩と称して幕末の動乱を主導している山口県に足を運び、山口県内に点在する比較的マイナーなお城6か所、小京都山口重要伝統的建造物群保存地区2か所を訪れました。

24日16:05新幹線のぞみで新大阪駅出発
18:34徳山駅到達、駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
25日8:00レンタカーで出発、お城、小京都伝統的建造物群保存地区巡る。

徳山城:慶安元年(1687年)毛利就隆によって築かれた。 就隆は毛利輝元の二男で元和3年(1617年)周防国都農郡を中心に三万石を分地されたことに始まる。
就隆は寛永2年(1625年)に下松に陣屋を構え、寛永11年(1634年)四万五千石の大名として正式に諸侯に列した。慶安元年(1648年)に野上村に居館を移し、慶安3年(1650年)に地名を徳山と改め徳山藩となった。
正徳5年(1715年)三代元次のとき、宗家である萩藩との境界にある松の木を巡って騒動となり、幕府から「本家に対する非礼」を理由に元次は改易、出羽国新庄藩へお預けとなって徳山藩領は萩藩に還付された。
享保4年(1719)領民の藩再興運動もあり、元次が家督を次男の元堯に譲って新たに三万石が与えられ徳山藩が再興となった。天保7年(1836年)就馴のとき幕府より城主格を賜り、石高も四万石に改められた。これによって「御館」と呼ばれていた居館は「御城」や「御殿」と呼ばれるようになった。

鞍掛城:築城年代は定かではない。 大内氏の重臣杉隆泰は鞍掛三万石を与えられ鞍掛山城を居城とした。
弘治元年(1555年)厳島合戦によって陶晴賢が毛利元就に破れると一度は毛利氏に降った。 しかし再び大内氏に従うべく内通したが密書を奪われると毛利氏によって攻めら落城、隆泰は千数百名の城兵と供に討ち死にした。

岩国:豊かな自然に恵まれ、山口県最大の河川である錦川が美しい景観をかたちづくりながら瀬戸内海に注いでいます。市の中心地域には、都市機能が集積し、南部の玖珂盆地では、交通の利便性を生かした工業団地が形成されています。観光都市としての一面も持ち、岩国城跡や錦川に架かる錦帯橋など、多くの観光資源に恵まれ、市域中央から山代地域には、温泉や自然景勝地などを生かした観光、交流施設があります。

東郷山城:詳細不明、東郷峠付近

柳井:柳井は、瀬戸内海交易の要衝として中世の時代から商業都市として栄えました。江戸時代には、岩国藩の御納戸と称され、その商圏は、近隣の各藩領だけでなく、九州一円から瀬戸内海の各地に及んでいました。
その商家の家並みが残る同地区は、柳井津でも最も早く開かれた旧町の西半分にあたり、東西方向の本町通りの両側に続く約200メートルの家並みと、 このほぼ中央から南側の柳井川に通じる掛屋小路からなります。
明治以降もこの地域は中心街として栄え、現在もなお江戸・明治期の商人の家系を継ぐ者が所有し、一部は現在も営業されています。
柳井市のもっとも重要な観光資源であり、年間多くの観光客が訪れます。 

上関城:築城年代は定かではないが室町時代に村上吉敏によって築かれたと云われる。能島村上氏の村上義顕の子村上吉敏によって築かれ、代々村上氏によって上関を通行する船舶から通行税を徴収するための拠点となった。
天文20年(1551年)大内義長から将軍家への進納の米二千石を積んだ船は、宇賀島水軍の警護を受け通行税を払わずに航行すると、三島村上水軍はこれを安芸国蒲刈にて迎撃した。大内義長は上関より村上氏を追い出して宇賀島水軍に守らせたが、間もなく村上氏が奪還して再び村上氏の所領となった。

若山城:築城年代は定かではないが文明2年(1470年)に陶弘護が吉見氏に備えて築城されたものと考えられている。天文19年(1550年)には陶晴賢が大内義隆を攻撃する前に大改修したという。厳島の合戦後、晴賢の子長房が守衛していたが、晴賢によって殺された杉氏の一党杉重輔が挙兵して押し寄せ、味方と間違えて城門を開いたところ攻められ落城した。

敷山城:敷山城跡は矢筈ケ岳の8合目あたりに位置する。ここはもともと敷山験観寺という山寺である。南北朝時代に足利尊氏が九州から反転して湊川の戦いで楠正成に勝利し上京、天皇が逃げた比叡山攻略に取り掛かった。そのとき周防国衙の役人清尊、教乗、大内弘道、小笠原長光などが挙兵しここに籠城する。しかし、尊氏によって派兵された大軍によりわずか10日あまりで落城する。

山口:山口市は、豊富な緑や清澄な水を有する自然に満ちた都市となっています。また、大内氏時代や明治維新関連の歴史や文化資源が今に残されており、湯田温泉などを含めて、観光地としての魅力も備えた都市となっています。

17:00帰路に向かう。
18:00徳山駅到達。
18:34徳山駅新幹線のぞみで出発
20:18新大阪駅到達。

今回の旅行、山口県に足を運び、比較的マイナーなお城6か所、小京都山口、重要伝統的建造物群保存地区2か所をおとずれ楽しみました。
今回もお城は地味で案内板も少なくたどり着くのに苦労を要しました。中には城址公園に変貌し整備されていた城跡もあり散策を楽しめました。

小京都山口、伝統的建造物群保存地区、岩国、柳井は何度か足を運んだことがあり、再確認できました。
 






















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十五弾:滋賀県お城・城下町巡り&小京都大津観光
2018年11月22-23日
 

日本のほぼ真ん中に位置し、その中央に県土の約6分の1を占める日本最大の湖・琵琶湖を抱え、周囲には緑豊かな山々や田園風景が広がる、水と緑の豊かな自然にふれ合うことができるところです。悠々と水をたたえる琵琶湖と周囲が織りなす美しい風景は、季節の移ろいに応じた折々の景観として楽しむことができます。びわ湖の雄大さと変化に富んだ風景は、「琵琶湖八景」や「近江八景」として風光明媚な景色を紹介しています。また、交通の要衝の地でもあり、古くから文化・経済の先進地として栄えたこの地には、古刹・名刹の歴史ある寺社や戦国時代をはじめとする英傑たちの足跡、歴史情緒が残る町並みなど、奥深い歴史文化があり、国内有数を誇る歴史文化資産は、今もなお県内のそれぞれの地域で大切に守り伝えられています滋賀県に足を運び滋賀県に点在する比較的マイナーなお城10か所と小京都と承認されている大津を訪れました。

22日12:30車で第二京阪,京滋バイパス経由して南郷インター下車、お城巡り

大石城:大石城は舌状尾根の先端部に築かれ、細い道を挟み両側一帯が城域で群郭式の構造であったと推測される。
主郭は、東西52m×南北35mの方形で周囲に土塁を、東背後に見張り台を兼ねた巨大な土塁と堀切を配し、西前面に一段低い副郭(東西22m×南北24m)を備えている。虎口は平虎口で西と南東隅に開いている。北側は断崖となっているが、南側が茶畑で高低差がほとんどなく土塁と空堀で画す程度で、防御が弱く思われる。

小川城:築城年代については諸説あり定かではないが、一般的には鎌倉時代末期に前関白近衛家基に従って設楽庄に入部した鶴見長実が嘉元3年(1305年)に築城したのが始まりと云われる。
鶴見長実の子、鶴見道宗が城主となり、弟行俊は小川氏を称して代々続いたが、長享元年(1487年)に多羅尾和泉守に敗れた小川成俊は山城国和束庄へ逃れ、以降は多羅尾氏の所領となった。
天正10年(1582年)本能寺の変によって織田信長が倒れた際、堺見物をしていた徳川家康が伊賀越えで所領に戻る際に設楽で一夜を明かしたのが、この小川城と伝えられる。 文禄4年(1595年)に多羅尾光太の娘が豊臣秀次に嫁いでいたことから、秀次に連座して改易されたが、その後に徳川家康に召し出されて旗本となり、江戸時代には多羅尾代官陣屋を構えている。これは多羅尾光俊・光太父子が守護した恩に報いたものといわれる。

新宮城:甲賀郡中惣遺跡群(寺前城,村雨城,新宮城,新宮支城,竹中城)の一つとして国指定史跡となっている。
新宮城は磯尾川の西岸にあり、北東へ伸びた尾根に築かれている。谷を挟んで南には新宮支城がある。
新宮城は南西端の最高所に主郭を置き、北東へ伸びた尾根に曲輪を展開する。 主郭は方形で高土塁が巡り、南西側は深い空堀で遮断し土橋が架かる。虎口は北と東にあり、北虎口は北下の堀切に出る。東虎口は二郭へ通じ、二郭は鈎状に屈折した虎口が付き、さらに北東下の段へと続く。二郭の北下には両側から土塁状の伸びた空間があり、池なのか虎口なのかよくわからない地形がある。麓付近には大きな平段がいくつか展開している。

水口城:寛文11年(1634年)徳川家光の上洛の宿館として小堀遠州によって築かれた。 築城に際しては水口岡山城の石垣を転用してたという。
天和2年(1682年)加藤明友が石見国吉永より二万石で水口城主となり水口藩を立藩した。

日野城:築城年代は定かではないが大永年間に蒲生定秀によって築かれたと云われる。
永禄11年(1568年)織田信長による観音寺城攻めで、蒲生賢秀は中野城に籠城したが伊勢国神戸友盛の仲介により人質をだして信長に降った。この時人質として出されたのが後の蒲生氏郷である。
本能寺の変で信長が討たれた時、蒲生賢秀は安土城二の丸を預かっていたが、その悲報を聞いた賢秀と氏郷は信長の妻子を中野城へ移し光秀の誘いに応じなかった。
天正12年(1584年)蒲生氏郷は伊勢国松坂へ転封となり、その後は田中吉政、長束正家が城代となり、慶長8年(1603年)廃城となった。

長光寺城:築城年代は定かではないが鎌倉時代中期に佐々木政尭によって築かれたと云われる。 元亀元年(1570年)南近江に侵攻した織田信長は長光寺城を攻め落とし柴田勝家を配置した。 六角氏は城を奪還するために攻め寄せ勝家は籠城して耐える。 意を決した勝家は味方を鼓舞するため兵に水を飲ませた後に水瓶を割って討って出た。これが「瓶割り柴田」の異名となって後世に語られている。

17:00近江八幡方面に向かう。
17:30近江八幡駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

23日7:30車で出発、お城巡り

岡山城:南北朝期に佐々木氏の支城として築城され、永正五年(1508年)に足利十一代将軍義澄が六角氏の重臣伊庭氏と伊庭氏の家臣九里氏を頼って都より落ち延びて来て岡山城に入った頃より本格的な改修がされたものとの事です。この事態は六角氏と伊庭・九里両氏との間を悪くし、義澄が永正六年(1509年)に当城で病死して以後、永正十七年(1520年)、ついに六角定頼はこの城を攻め開城させました。後、大永五年(1525年)に伊庭氏・九里氏が再び籠りましたが、六角氏に破れ城も廃城になりました。

八幡山城:天正13年(1585年)豊臣秀次によって築かれた。 近江国四十三万石の領主となった豊臣秀次によって築かれ、城下町は安土より移されて発展、近江商人発祥の地としても知られる。
天正18年(1590年)秀次は尾張国清州へ転封となり、かわって大溝より京極高次が二万八千石で城主となった。しかし永禄4年(1595年)関白豊臣秀次が太閤によって自害させられると、京極高次は大津へ六万石で転封となり、聚楽第とともに八幡山城も廃城となった。

浅小井城:大古、沙々木神社豊浦冠者行実の息浅小井次郎盛実の後裔深尾氏第十代加賀守元泰が足利将軍義政の幕下にあって当地を領有後、十一代元範は佐々木(六角)高頼の命により文亀元年(1501年)に築城しました。十二代元秀、十三代元忠と続き、永禄年間にこの城を伊庭氏が領有を画策したが、六角承禎義賢はそれを避け、甲賀武士の山中大和守俊好に与えますが、永禄十一年(1568年)に織田信長の侵攻で落城しました。その後の安土城築城後、城はこの地の豪族の伊佐志摩守に預けられ、信長の鷹狩の際は伊佐氏別邸に立ち寄り休息したと伝えられます。天正十二年(1584年)秀吉は池田秀氏<池田氏は近江源氏佐々木氏の流れで甲賀池田を発祥と六角氏に属していたが観音寺騒動の際六角氏を離れ、信長の近江侵攻時は織田氏に属しました>にこの城を与えますが、池田氏が文禄四年(1595年)に伊予大洲に転封し当城は破却されました。

山崎山城:詳細不明。城主は山崎氏が伝えられる。

大津に向かう。

小京都大津巡る。

大津:今から約1350年前、天智天皇により遷都された歴史の街、大津。日本最大の湖である、びわ湖に寄り添うように南北に広がるこの土地には、世界文化遺産・比叡山延暦寺や日本遺産である石山寺、かるたの聖地としてアニメや映画の舞台にもなった近江神宮をはじめとする多くの観光スポットに溢れています。また、「美肌の湯」として知られるおごと温泉や、夏はウォータースポーツ、冬はスキーなどのアクティブリゾートなど、おすすめスポットや1年を通じてのイベントも盛り沢山!もちろん、日本三大和牛のひとつである近江牛や、様々な湖魚料理など、お楽しみグルメもいっぱい。

石山寺:良弁開山の東寺真言宗大本山で西国三十三霊場第13番の観音霊場。諸堂宇は景勝地の自然と調和している。境内は巨大な硅灰石(天然記念物)の上に建てられており、寺名の由来となっている。

瀬田の唐橋:近江八景「瀬田の夕照」(せたのせきしょう)の主題である「瀬田唐橋」は、別名「瀬田橋」や「長橋」とも呼ばれ「唐橋を制するものは天下を制する」と言われ、古来より京都ののど元を握る交通・軍事の要衝として重視され、瀬田橋が戦の歴史舞台になって千八百年になりますが、特に有名なものは、古くは、大津京が幻の都となった大友皇子と大海人皇子(おおあまのおうじ)の『壬申(じんしん)の乱』をはじめ、『寿永の乱』、『承久の乱』『建武の乱』など幾多の戦乱の舞台ともなりました。織田信長の瀬田橋の架け替えは、比叡山焼き討ちの4年後、天正三年(1575)に諸国の道路修理を命じ関税を免除するとともに、瀬田城主、山岡景隆と木村次郎左ヱ右衛門を奉行に任命し、近江の朽木などから木材を調達し、長さ百八十間(約350m)、幅四間(約7m)の一本橋をわずか3ヶ月という突貫工事で架け替えさせたといわれています。

三井寺:天台宗寺門派の総本山で、観音堂は西国三十三所観音霊場第十四番札所。大友皇子の皇子・大友与多王が父の霊を弔うために寺を創建し、天武天皇に「園城寺」という勅額を賜ったことが名前の由来。また、境内には天智・天武・持統の三帝の産湯に用いられたという霊泉があり、「御井の寺」と称されたことから「三井寺」と呼ばれるようになった。金堂をはじめ、国宝や重要文化財の数は圧巻で、近江八景「三井の晩鏡」でも知られている。春は1000本の桜とライトアップ、秋は紅葉とみどころが多い。

坂本:比叡山延暦寺、日吉大社の門前町として栄え、穴大衆と呼ばれる石工集団の手による「穴大衆積み」という石積が特色づけている町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。約50ヵ寺も残る延暦寺の高僧の隠居所「里坊」には、借景や自然石を利用した見事な庭園があり、普段は非公開の庭園などが拝観できる社寺・庭園めぐりも開催されています。春の桜と秋の紅葉の時季は特に見ごたえがあり、多くの観光客で賑わいます。

浮御堂:近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺という。平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。現在の建物は昭和12年の再建によるもので、昭和57年にも修理が行われ、昔の情緒をそのまま残している。境内の観音堂には、重要文化財である聖観音座像が安置されている。

光徳寺:真宗大谷派の寺院で創建は1361年(康安元年)覚忍により開創されたと伝えられています。
浄土真宗中興の祖である蓮如のために、自らの首を差し出すよう父源右兵衛を説得し、切らせて差し出したという漁師親子の殉教物語があります。
本堂前には「堅田源兵衛父子殉教之像」があります。

延暦寺:伝教大師最澄が比叡山に草庵を結んだことに始まる天台宗総本山。標高848mの比叡山全域を境内とする寺院で、日本仏教の母山と言われている。広大な寺域は100余りの建造物があり、延暦寺の総本堂である根本中堂(国宝)や大講堂などがある「東塔」、最澄作の釈迦如来を本尊とする釈迦堂やにない堂などがある「西塔」、横川中堂や元三大師堂などがあり、静寂に包まれた「横川」の三つのエリアに分かれている。戦国時代に織田信長の焼き討ちにあいましたが、豊臣秀吉や徳川家康などにより復興され、平成6年に世界文化遺産に登録された。

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、滋賀県に足を運び、滋賀県に点在する比較的マイナーなお城10か所、小京都に承認されている大津を訪れ楽しみました。
今回のお城、かなり地味で案内板もなく見つけるのが苦労したお城が多く、大変でした。
小京都の大津にある歴史的建造物、石山寺、瀬田の唐橋、三井寺、坂本、浮御堂、光徳寺、延暦寺何回も訪れたことがあり再確認しました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十九弾:島根県お城・城下町巡り&小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2018年6月30日-7月1日
  

中国地方の日本海に東西細長く位置し、日本の中国地方の日本海側である山陰地方の西部をなす県。県庁所在地は松江市。離島の隠岐島、竹島なども島根県の領域に含まれる。旧国名は出雲国・石見国・隠岐国であり、現在でも出雲地方・石見地方・隠岐地方の3つの地域に区分されることが多い。全国では鳥取県に次いで2番目に人口が少ない島根県に足を運び島根県に点在する比較的マイナーなお城8か所、小京都重要伝統的建造物群保存4か所を訪れました。

6月30日18:15伊丹空港出発。
19:05出雲空港到達、レンタカーで松江市内に向かう。
19:40松江市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
7月1日7:30レンタカーで出発、お城、小京都重要伝統的建造物群保存を巡る。

松江:宍道湖に面した松江の風景はここにしかないものだ。特に松江城の天守閣に立って眺めると湖が海のように見えるためその感が強い。日本を代表する平城である「松江城」を築いたのは堀尾吉晴で、その後は松平家が十代に渡って松江を治めている。特に七代藩主の松平治郷(不昧公)は茶人としても有名で、当時の茶室の明明庵も保存公開されている。お堀に沿って武家屋敷の塀が並ぶ通りを、家老の塩見家の屋敷があったことから塩見縄手と呼んでいる。

後に「知られざる日本の面影」など数々の作品で日本を紹介した小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、松江で英語の教鞭を取っていたころに過ごした家(元々は武家屋敷)が記念館と隣り合わせて立っている。

小泉八雲は日本では、怪談の作者として有名だが、国際的には日本の研究家として知られていた。

市内から少しだけ離れたところにある松江しんじ湖温泉は人気の温泉。

また、松江は古代出雲文化圏の中心地でもあったため、市内には山代二子塚、神魂神社などの古墳古社がある。律令時代の出雲国庁もこの地にあった。

満願寺城:満願寺城は宍道湖と日本海を繋ぐ佐蛇川の入口に面した標高27m程の丘陵に築かれている。

東麓にある満願寺の裏山が城山で、遺構は丘陵全体に拡がっていたようであるが、現在は墓地や警察学校の敷地になっている。

遺構が良好に残るのは満願寺の裏にある墓地の南、宍道湖に面した丘陵部分で高い切岸に囲まれた曲輪の北西下を横堀が巡り、そこから二条の短い竪堀が落ちている。

白鹿城:築城年代は定かではないが永禄年間(1558年~1569年)に松田氏によって築かれたと云われる。

尼子十旗の一つで、毛利氏侵攻のときの城主松田誠保の父満久は尼子晴久の姉婿である。満久は備前国松田一族の松田満重の次男である。

永禄6年(1563年)に毛利元就による侵攻では吉川元春が真山城を向城として築き攻めたて、まず小白鹿が陥落、月山富田城の尼子義久からの援軍も撃退され落城した。 このとき、毛利元就は大森銀山の坑夫を使い地下道を掘らせて井戸を抜いたという。 誠保は落城後隠岐へ逃れ、元亀元年(1570年)布部山合戦に参加している。

新山城:平安時代に平忠度が築いたとの伝承があるが定かではない。

永禄6年(1563年)毛利元就による出雲侵攻で尼子氏の居城月山富田城の重要な支城である白鹿城を攻略するための向城として吉川元春が築いて陣を置いた。 白鹿城攻略後は真山城をこの地方の拠点とし、多賀元信を城主とした。

永禄12年(1569年)毛利氏が兵力の大半を率いて豊後大友氏との戦いに向かうと、再興をはかった尼子勝久は隠岐を経由して忠山城に入り、勝久は各地に激を飛ばして将兵を集め、真山城を落としここを本拠として出雲回復を狙う。 尼子方は月山富田城を囲んだが、天野隆重の謀略により落とすことができず、毛利方が九州から帰国すると次第におされ、元亀2年(1571年)真山城も吉川元春の攻撃により落城し、尼子勝久は織田信長を頼って落ちた。

十神山城:築城年代は定かではない。城主は松田備前守で安来荘の荘官であった。 応仁の乱では山名氏に属し月山富田城の尼子清定を攻めたが撃退され逆に十神山城は清定に攻められ落城した。

尼子氏の持城となった十神山城は尼子十砦の一つに数えられ、松尾遠江守が在城した。 毛利氏によって月山富田城が攻められ落城する頃には毛利氏部将の安芸国草津城主児玉就忠によって落城した。

勝山城:築城年代は定かではない。 古くは滝山城と呼ばれ尼子十砦の一つとして数えられ、城主は田中三良左衛門といわれる。

現在残る遺構は永禄年間(1558年~1570年)に出雲に侵攻した毛利氏によって築かれたもので、 京羅木山城砦群とも呼ばれるように尼子氏の本城月山富田城を見下ろす京羅木山にはいくつかの陣城が築かれ、勝山城もその一つであった。

広瀬:この町は佐々木義清が雲隠の守護となって富田城に入城してから山陰地方の中心へとなっていった。1607年(慶長12年)、堀尾吉晴が移城のために松江城の築城に着手してから富田は急速に荒廃したが、1666年(寛文6年)、松平近栄によって広瀬藩が創設、再び城下町の面影を取り戻した。しかし、同年の秋、大洪水によってこれまでの富田の市街地は流されてしまう。その後、新たに富田川の西部に広瀬町の中心街となる町が建設され、名前も広瀬と改められ、現在に至る。

熊野城:熊野城は標高280mの要害山山頂に築かれている。

要害山は山頂から南と東に尾根が展開しており、熊野城もこの尾根に階段状に曲輪を展開している。東麓には「土居成」と呼ばれる屋敷地があり熊野氏の居館があった所とされている。また西麓にも「城屋敷」という地があり天野氏の屋敷跡と伝えられる。

現在山は中腹から上が酷く荒れており、密集した竹藪をかき分け何とか山頂の主郭に至ったものの、城の遺構を詳しく見て回るような状況ではなかった。東尾根から登ったので、こちらからは階段状になった曲輪群を確認できたが、南尾根に展開する曲輪群は確認していない。東側の中腹から麓近くまで非常に細かな階段状の段が展開している。

三笠城:築城年代は定かではないが牛尾氏によって築かれたと云われる。 牛尾氏は信濃国の神氏の支流中沢真直が大原郡牛尾荘を領して牛尾氏を名乗った事に始まる。尼子十旗の一つ。

その後、出雲国守護京極氏に従い、戦国時代には尼子氏の重臣となったが、尼子義久が毛利氏に降ると毛利氏に属した。

尼子勝久を大将に尼子再興軍が興ると三笠城主牛尾弾正忠は尼子方として五百騎を率いて参陣する。再興軍は出雲国へ上陸すると破竹の勢いで出雲を制圧するも、富田城を落とす事ができず、急を知って九州より毛利軍の主力が引き返してくると、それを迎え撃つべく布部山に陣を置いたが支えきれずに敗走する。牛尾弾正忠は一旦三笠城へ退き、毛利方に属していた高平城の牛尾大蔵を攻めるも、毛利氏の援軍によって逆に三笠城は落城した。

三沢城:嘉元2年(1304年)に三沢為長によって築かれたと云われる。 三沢氏は信濃豪族で木曾義仲の後裔あるいは片切氏(片桐)の分流飯島氏とする説がある。 本丸の東屋にある三沢氏の歴代当主では、後者の飯島氏を採用している。

信濃国飯島城主飯島為光は承久3年(1221年)の承久の乱で戦功を挙げ、出雲国三沢郷の新補地頭を賜った。その後、為長がはじめて三沢に来住し、三沢氏を名乗り三沢城を築いたという。

三沢氏はタタラ製鉄などで地盤を固め、為時のときに布広城を築き、信濃守為忠は横田荘へ進出、永正6年(1509年)遠江守為忠のときに藤ヶ瀬城を築いて居城を三沢から移した。しかし、享禄4年(1531年)三沢為国のとき尼子氏が背後の「桶ヶ嶺」から攻められ藤ヶ瀬城は落城、三沢氏は尼子氏に降った。

天文8年(1539年)尼子晴久が安芸国吉田郡山の毛利氏を攻めた際には、三沢為幸が従軍し、首級十三首をあげる活躍をしたが元就の馬廻から射出された矢を七本受け、元就家臣井上七郎に討ち取られた。

為幸が討死したとき嫡子為清はわずか四歳であったが、天文10年(1541年)大内義隆が尼子の富田城を攻めたときには他の出雲の国人衆と同様に大内氏に従った。しかし、富田城攻城戦のさなか、三沢氏は大内氏に降っていた出雲の国人衆と大内氏を裏切って再び尼子方となり、大内軍は敗走した。

大内義隆が陶晴賢に討たれ、その陶晴賢も毛利元就に討たれ大内氏が滅亡すると、毛利元就は尼子領へ侵攻した。三沢為清・為虎父子は毛利氏に降り、尼子氏が滅んだ後に尼子再興軍が蜂起した際も毛利氏に従って各地を転戦した。

天正17年(1589年)三沢為虎は三沢領を没収され毛利輝元に幽閉された。その後、釈放されて長門国厚狭郡に一万石の所領が与えられた。関ヶ原合戦後も毛利氏に属し、毛利秀元を当主とする長府藩が立藩されると付家老として二千七百石が与えられ、三沢氏は家老として代々続いた。

大森: 大田市大森銀山伝統的建造物群保存地区は,幕府 直轄地約4万8千石,約150か村の中心の町で あった。銀山は14世紀初めに発見されたと伝えら れ,産銀量は17世紀初頭にピークをむかえ海外に も輸出された。町並みは銀山川沿いの谷間に延び る約2.8キロの範囲で,代官所跡や郷宿,武家屋 敷,商家などが現存し,背後の山裾には社寺や墓地, 石切り場なども残され,鉱山町の歴史的景観を良 好に伝えている。

温泉津: 大田市温泉津伝統的建造物群保存地区は,天然の 温泉が湧き出る港町で,中世より石見銀山の外港 として発展してきた。狭隘な谷を切り開いた約 80 0メートルの町並みは,近世の地割をよく残している。 江戸末期から昭和初期にかけて建てられた町屋を 中心に,旅館や社寺などの多様な建造物が並んで いる。それらが周囲の海や山とともに,港町・温泉 町の景観を形成している。

7月1日19:35出雲空港出発
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行中国地方の日本海に東西細長く位置する島根県に足を運び比較的マイナーなお城8か所、小京都重要伝統的建造物群保存4か所をおとずれ楽しみました。
今回のお城は山城が多く、かなり地味で案内板のみで遺残はほとんどが見受けられませんでした。
一方小京都重要伝統的建造物群保存巡りは、何回も訪れたことのある松江、松江城、小泉八雲の屋敷、武家屋敷、昔を忍ばせ感動でした。
他の重要伝統的建造物群保存巡りは中世の街並みの散策癒されました。
 















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十六弾:小京都重要伝統的建造物群保存地区&九州四十九院薬師霊場観光
2018年3月10日-11日
 

九州の北西に位置する長崎県に足を運び、長崎県に点在する九州四十九院薬師霊場4か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所を訪れました。

3月10日17:30伊丹空港出発。
18:50長崎空港到達、レンタカーで大村市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
11日7:00レンタカーで出発、霊場、歴史的建造物巡り。

大村:県内随一の花の名所として知られ、『日本の歴史公園百選』の地に選定されている大村公園は、大村藩主の居城であった玖島城跡にあります。城の石垣は当時のまま残っており、その他も多くの史跡を残しています。春は桜に始まり、ツツジ・花菖蒲と約3カ月間花の季節が続きます。大村公園の桜は『日本さくら名所百選』の地に選定を受けており、花弁が60~200枚にもなる国指定天然記念物「オオムラザクラ」をはじめ約2,000本の桜が、期間中、公園一帯をピンク色に染めます。また桜・花菖蒲と城跡との共演は風情があり、絶景です。
東には広範囲に武家屋敷群跡が見られます。

平仙寺:当寺の現在地での開山は天正16年(西暦1588年)といわれています。開山は堯珍法師で、堯珍は、もと島原温泉山七百坊惣座主でありました。

天正年中に島原領多以良村其外近隣の耶蘇教徒(キリシタン教徒)が温泉山(雲仙)の堂社仏閣を残らず焼失してしまいました。堯珍は二矢を負って島原領湯江に逃れ、さらに賊徒の来襲を恐れて遂に諫早(当時は伊佐早という)に着き、船越村本坊に住しましたが数年を経て、鼻祖竜造寺家晴公、二代直孝両代の庇護を迎ぎ、平山山平等院平仙寺に安住しました。

のち諫早家代々の安泰と領内安寧の祈祷寺として応分の寺領を与えられ、それより、代々法印住職となり、この間諫早家並びに藩からの寄進とともに諫早藩家老職の早田家からも、薬師寺建立や、この護持のための田畑の寄附などが多く寄せられ繁栄しました。一方、寺伝には比叡山延暦寺の直末にして、末寺には慈眼院と触内四坊(福緊坊、蓮乗坊、長円坊、願成坊)とともに愛宕社、八幡社、祇園社など多くの神社を支配下に置き、諫早藩の祈祷寺として隆盛しましたが、明治維新の神仏分離布告により諫早家の庇護も絶え、末寺の一寺四坊はみな廃絶となり、寺領はことごとく上地されました。さらに祝融の災に見舞われて、旧観に徴することが出来ず茅葺の仮堂でもありました。

さらに追い討ちをかけるように昭和20年の農地解放令によって、すべての田畑も失い、栄枯盛衰を余儀なくしました。時を経て昭和42年第26代亮締師により、旧諫早家の建物を買取り本堂とくりに改築されましたが、古家であったことから、現在職代の昭和59年庫裏等を新築、さらに土地区画整理事業を契機に、位牌堂を備えた会館および山門を新築し現在に至ります。

開山堯珍法師により当代までが27代であります。

長崎東山手:東山手の居留地は、大浦の商館と海を見下ろす高台に位置し、ポルトガル、 アメリカ各国領事館や礼拝堂が建ち、 当時は領事館の丘とも呼ばれていました。 主要なものとしては、国指定重要文化財の東山手十二番館、旧長崎英国領事館などがあります。 この他、オランダ坂の石畳の道と石垣や、石溝、石標類など 、居留地時代を偲ばせる土木工作物、大きな樹木などが数多く残っており、長崎市東山手の町並みは、居留地の地割を示す歴史的風致とともに、洋風住宅群をよく残しており、価値が高いといえます。

長崎南山手:長崎市南山手地区は、 東山手と同じ居留地であり、主として住宅地に使われていた区域です。長崎湾を見下ろす眺望の良い丘の上に位置しています。
幕末から明治にかけての洋風住宅として、 旧グラバー住宅をはじめ、旧リンガー(弟)住宅、旧オルト住宅が現存しており、 松が枝町では、旧香港上海銀行長崎支店や旧長崎税関下り松派出所などが港に面して建ち、いずれも国宝や重要文化財に指定されています。
地区の中心から南側は、現在でも静かな住宅地で、 明治時代初期から中期にかけての洋風住宅建築が比較的良好に残っており、長崎市南山手の町並みは、 居留地の地割を示す歴史的風致とともに、初期の洋風住宅群などをよく残しており、価値が高いといえます。

雲仙神代小路:神代小路の起源は、17世紀後期に神代鍋島家四代当主鍋島嵩(たかし)就(なり)が神代城の東側に武家地を造成し、その北西隅に陣屋を構えたことに始まる。神代小路は近世、近代を通して今日まで閑静な住宅地として維持されてきた。 
 保存地区は、東西約250m、南北約450m、面積約9.8haの範囲で、通りの脇には水路を通し、切石または玉石積の石垣や手入れの行き届いた生垣が並んでいる。
 各敷地は、奥行も間口も大小様々であり、形も不整形である。敷地内には旧武家屋敷の住宅の主屋や長屋門、門倉などが建ち、通り沿いの石垣や生垣のほぼ中央に出入口を開く。石垣や生垣で桝形を築き、主屋の玄関を隠すものが多い。
主屋は表側南部に式台玄関、次の間及び座敷を並べ、裏側や北部に土間及び台所、居間、納戸などを置き、近世武家住宅の形式を現在に伝えている。
このように、保存地区は、江戸時代中期の地割りを良く残す武家町で、敷地内に江戸時代の主屋や長屋門などによる武家屋敷の構成を保ち、小路沿いの生垣や石垣、水路などにより特徴のある景観を構成するなど、歴史的風致を良く今日に伝えている。

島原:島原城の西に接した上新丁、下新丁、古丁、中ノ丁、下ノ丁、江戸丁、新建に扶持取り70石以下の徒士屋敷約700戸が軒を連ねていました。

鉄砲隊の居住地であったことから、一帯は鉄砲町とも呼ばれていました。

各丁の道路の中央には水路を設け、清水を流して生活用水としていましたが、防災・防火の見地から片側に移設。

けれど下の丁の町並みだけは、住民のご協力を得て「武家屋敷町並み保存地区」として定め、昔どおりに保存されています。

現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、延長406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みで山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒が一般に無料開放され、当時の武家生活の様子が偲ばれます。

また武家屋敷休憩所では白玉に独特の蜜をかけた郷土の味「寒ざらし」を味わうことができます。

龍泉寺:開創は不詳。

奈良時代、現在の地域に大きな集落があり祈願所が設けられていたことで、およそその頃の開創と推測される。

元亀3年(1572年)12月、三方原合戦に敗れた徳川家康公が境内の阿弥陀堂に身を隠し難を逃れたという記録から、それより以前から堂宇が存在していたと思われる。

現存の記録より
当寺創建の由来は、正親町天皇の御宇天正2戌年(1574年)、住僧把公(津叟把公和尚)なる者、村民と協力して堂宇を建立す。仍って開基と称す。
同暦、本寺龍秀院玉山和尚(玉山全瑳)を請して開山となす。
その後、寛政9年(1797年)龍秀院13代懐峯東州なる者、檀徒と協力して本堂を再建す。当暦に至って322年の星霜を経とあり、現在の本堂は215年経っている。

祇園寺:祇園寺は天台宗比叡山延暦寺を本山と仰ぐ寺院です。

針尾山感神院祇園寺は、松浦鎮信平戸藩候の発願で、針尾瀬戸を臨む現在地に承応元年(1652)開山、一圓岳老法印の開基と伝えられる。

祇園寺はもと曹洞宗の寺であった。その寺を鎮信公が平戸藩に、はじめて天台宗寺院の樹光寺を開創した折、末寺とし、天台宗としたという平戸藩の史料がある。

藩候建立の趣旨は藩内鎮護・安泰の祈願寺とあわせ、徳川秀忠公の霊を弔う香華所という記録もある。

本尊は開山時、薬師如来であり、その後阿弥陀如来で、現在は如意輪観世音菩薩という歴史的な変遷がある。

明治維新の神仏分離令までは祇園宮(戸御崎神社)の別当寺で、神仏習合の寺社であったことを窺い知る史料・伝統風習が今も息吹を伝える。

薬王寺:本尊は薬師如来。前身は養性庵と称す。天正14年(1586)4月5日、現薬王寺の背後の丘陵地にあった井手平城が落城。その後6年、文禄元年(1592)平戸藩主・松浦隆信の命により、洞谷山を城持山と改称した。

元禄年中(1688〜1704)菖海素休和尚の代に、養性庵の寺地から城跡の現在地に移転、再建された。このとき平戸瑞雲寺九世。大虚舜道和尚を開山に迎え、併せて井手平城合戦の戦死者の追善供養が営まれたという。

井手平城は、天正14年(1586)大村・有馬の連合軍に敗れて落城、城主の岡甚左衛門を筆頭に城兵のほとんどが戦死した。

これを哀れみ藩主の松浦隆信が養性庵を移転、再建して、戦死者の霊を弔ったのが薬王寺の創まりである。

平戸:平戸市大島村神浦の町並みは、江戸時代初期(17世紀初頭)に形成された漁村集落を起源とするが、江戸前期(17世紀後半頃)に捕鯨の創業を契機として大きく発展した。江戸時代中期(18世紀)の鯨組廃業後も跡地の再開発によって、海側に新たな町並みが成立するなど、漁師のほか商人や職人が多く居住し、漁業と商工業を経済基盤とした港町として発展を続け、豊かな町並みが形成された。
 保存地区は、東西約700m、南北約650m、面積約21.2ヘクタールの範囲で、神浦集落と海、河川の水面、周辺の高台に建つ寺社、や墓地を含む範囲である。
 中心部は幅約3mの細街路の両側に町家が建ち並ぶ。街路の山側は敷地奥行が浅く、中世末期から近世初頭にかけて成立した敷地であるのに対し、海側は敷地奥行が深く、寛文の鯨組創業による埋め立てによって陸地となり享保の廃業により町家化した敷地である。
 地区内に建つ町家の主屋の多くは切妻造桟瓦葺、平入で、前面は一階と二階の柱筋を揃え、腕木庇を付ける。平面は、片方に通り土間、他方に室を並べる。街路の屈曲にあわせて台形の平面が多く、部屋境を食い違いにするなどした巧みな間取りが特徴である。
 街路の山側では敷地の奥行がないため主屋のみの住宅が多く、主屋は奥行方向に二室を並べる平面が多い。海側は敷地の奥行があるため、主屋は奥行方向に三室を並べる平面が多く、敷地奥に離れをもつものもある。
 特に山側敷地では狭小な敷地を反映して早くから二階を居室として利用し、主屋は比較的軒高が高い。表構えは大正時代まで出入口を含めて、摺上戸とし、その後は引違戸に変化している。
 地区内には斜面地を利用するためにつくられた石垣や石段などが遠見番所や天降神社周辺で見られる。地区内各所に残る共同井戸は昭和40年(1965)まで主要な水源として使用され石造の井戸や周囲の石畳がほぼそのまま残されている。
 平戸市大島村神浦伝統的建造物群保存地区は、近世から近代にかけての離島の歴史的風致を残すとともに、中世末期から近世初期にかけて成立した漁村集落が鯨組の創業と廃業という出来事を経て近世的な港町に変容していった姿を今日に良く伝えている。

16:00終了、長崎空港に向かう。
17:30長崎空港到達。
19:20長崎空港出発。
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の長崎県に足を運び、長崎県に点在する、九州四十九院薬師霊場4か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所をおとずれ楽しみました。

数か所は何回か訪れたことのある小京都重要伝統的建造物群保存地区、違った角度からの訪問、癒され、感動しました。
初めて訪れた小京都重要伝統的建造物群保存地区、武家屋敷の広大な敷地、新鮮味があり、歴史を感じながらの散策楽しめました。


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十二弾:鹿児島県九州四十九院薬師巡礼&重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2018年2月3日-4日
 

九州地方の南端に位置する鹿児島県に足を運び、鹿児島県に点在する九州四十九院薬師霊場3か所、小京都知覧、重要伝統的建造物群保存地区の入来麓、出水の武家屋敷群を訪れました。

31610伊丹空港出発

17:25鹿児島空港到達、レンタカーで指宿方面に向かう。

19:00指宿手前のホテル到達、周辺を散策し食事を済ませて就寝。

4日7:30レンタカーで出発、霊場、歴史的建造物巡る。

 

光明禅寺:

 

知覧:全国の小京都の中でも最も南に位置する知覧は、江戸期に作られた南国特有の武家屋敷のある町だが、第二次世界大戦中は特攻隊基地があった悲しい歴史を持つことでも有名です。かつての飛行場跡地の近くには「知覧特攻平和会館」があり、特攻隊員の写真と遺品の資料が昭和の負の歴史を今に伝えています。海から引き上げられた当時の零戦、屋外には隊員が寝泊まりした三角兵舎(復元)、観音像には隊員の名前を記した巻物が収められており、街を歩けば、道路に沿ってたくさんの石灯籠があり、歴史を今に伝えています。高倉健主演映画の「ホタル」の舞台にもなったことでも知られています。

知覧に残る江戸時代の武家屋敷は、七戸が一般公開され、一部ではあるものの庭園も見ることができます。これらの武家屋敷は鹿児島城を内城とする外城と呼ばれ、鹿児島城の周囲に衛星のように配置されていました。もちろん、戦時には防衛ラインとなるもので、知覧の武家屋敷郡はその中のひとつ。島津は関ヶ原の合戦においては西軍に属していたため、幕府との戦の可能性もあったことがその背景としてあります。反面、京都から新しい様式を取り入れていたことが伺える一面もあります。

武家屋敷は、石造りの上にイヌマキと呼ばれる生垣があるのが特徴で、庭園では、森邸のみが池泉式庭園で、ほかは水を使わない枯山水式庭園です。遠くに見える母ヶ岳を借景とし、四季を通じて美しさを見せてくれます。

また、知覧は九州一のお茶の産地でもあり、生産量としては静岡に次ぐ規模です。

本通り線まで出ると、鯉の泳ぐ清流溝も見ることができます。

 

妙円寺:

 

鎮国寺:

 

入来麓:入来は、鎌倉時代に地頭職であった関東の渋谷氏がこの地に入り「入来院」と名乗って支配した荘園でした。
昭和4年アメリカのエール大学の教授朝河貫一氏により入来院家に伝わる「入来院家文書」が翻訳され、『入来文書』として刊行されたことによって有名になりました。
現在の入来麓武家屋敷の町並みは中世から江戸期にかけて出来たもので、特徴は樋脇川の石を使用した玉石垣とその石垣の上に植えられた茶やイヌマキなどの生垣。

入来のほぼ中央部に位置する麓地区は、四隣に威を振った薩摩藩随一の堅城(山城)である清色城を中心に川原石を使った玉石垣による整然とした区画割、武家屋敷門(茅葺門)、大手門前の濠や広馬場、下門口を備えたお仮屋跡など多くの史跡・文化財が残っています。
近世になって整備された街路と地割が旧態をとどめ、屋敷割りもよく残っていて歴史的価値が高いとされています。
また現在はほとんどの屋敷跡に民家があり生活感もあります。

立派な長屋門などは残っていませんが、門から敷地をのぞくと玄関までの折れ曲がったアプローチや古木、石倉など当時の面影がしのばれます。
薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の行政区画に分けて統治。
武士団を鹿児島市内の本城に集結させず、領地内に分散して統治し、その統治の中心を麓と呼びました。

入来麓は薩摩藩麓の一つで中世の名残を残す町並みとしてよく保存されていることから、2003年12月に鹿児島県では知覧武家屋敷群、出水麓武家屋敷群に次いで国(文化庁)の重要伝統的建造物群保存地区(武家町)に選定されました。

出水:出水市の麓町を中心とした住宅地一帯は、
平成7年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

出水麓は、出水郷に赴任する薩摩藩士の住宅兼陣地として、
中世山城である出水城の麓の丘陵地帯を整地して作られたところです。
その整地には、関ケ原の戦いの前年(1599年)、本田正親が初代地頭に着任してから、
3代地頭の山田昌巖の治世下まで、約30年かかりました。
出水麓は、薩摩藩内で最も規模が大きく、藩内のほかの麓は、出水に倣ったといわれています。

16:00鹿児島空港に向かう。

18:00鹿児島空港到達。

19:25鹿児島空港出発。

20:35伊丹空港到達。

 

今回の旅行、九州の南端、鹿児島県に足を運び、九州四十九院薬師霊場3か所、小京都知覧、重要伝統的建造物群保存地区、入来麓、出水の歴史的建造物を訪れ楽しみました。

鹿児島城の外城である、知覧、入来麓、出水の武家屋敷群の散策、時に今年の大河ドラマの撮影地知覧は多くの観光客が訪れ賑わっていました。

雪がちらつく悪天候での観光、寒さを耐えながらの武家屋敷群の散策堪能しました。












 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十弾:大分県小京都&重要伝統的建造物群保存地区&お城・城下町巡り観光
2017年2月4-5日
   

九州の源頼朝に守護を任じられた大友氏が長く治め、南北朝の内乱が終息したころ、大内氏が九州に進出し豊前守護となり、両者は対立するが、大内氏が胸氏の謀反などで衰退し、大友氏が掌握した大分県に足を運び、比較的マイナーなお城5か所、重要伝統的建造物群保存地区5か所を訪れました。

4日15:00伊丹空港出発。
15:55大分空港到達、レンタカーで城めぐり。

国東半島巡る。

安岐城:築城年代は定かではないが応永年間(1394年~1428年)に飯塚城主の田原親幸によって築かれたと云われる。
室町時代の田原親宏は一時豊後から追放されており、大友宗麟のときに帰参が許されると国東郡安岐郷を与えられた。このとき安岐城が拠点として整備された。
天正8年(1580年)田原親宏の跡を巡る家督争いで、大友宗麟が次男親家に田原家の家督を継がせようと画策した。親宏の養子であった田原親貫は毛利氏などに援軍を求めてこれに対抗し、安岐城でも田原氏と大友氏で激戦が繰り広げられたが城は大友氏によって落城した。
文禄2年(1593年)豊臣秀吉によって大友義統は改易となり、一万五千石が熊谷直陳に与えられ安岐城主となった。この熊谷氏の時代に近世城郭に改修された。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では熊谷直陳に西軍に属して美濃国大垣城を守っていたが、内応によって落城し直陳は討たれた。

富来城:弘長元年(1261年)富来忠文あるいは正安元年(1299年)富来忠政によって築かれたと云われる。
富来氏は代々大友氏に仕えるが18代実直、実信父子は耳川合戦で戦死、19代鎮久は朝鮮の役で戦死するなど衰退した。
文禄2年(1593年)豊臣秀吉は大友義統を改易とすると、垣見家純に二万石を与えて城主とした。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で垣見家純は西軍に属して美濃国大垣城を守っていた。このとき、豊後国では石垣原合戦で大友氏を下した黒田孝高がその勢いに乗じて富来城を包囲したが、留守を守る垣見理右衛門は城を固く守り落城しなかった。しかし、家純が守っていた大垣城は東軍に内応した諸将が出て落城、家純も討死した。この急報を聞いた理右衛門は開城降伏した。

田原城:

18:00豊後高田方面に向かう。
19:00豊後高田市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
5日7:30レンタカーで出発、城、重要伝統的建造物群保存地区巡る。

豊後高田:大分県豊後高田市は、古い時代が息づく町。
千年の時を越えて受け継がれてきた美しい自然、六郷満山(ろくごうまんざん)文化の歴史が織り成す豊かな風土、古い町並みや伝統行事など、古き良き時代を知り、触れることができる町です

高田城:建久7年(1196年)高田掃部介重定によって築かれたと云われる。 高田氏は大友氏の豊後下向に随従してきたという。
文禄2年(1593年)豊臣秀吉は大友義統を改易し、美濃国長松城主竹中重利(重隆)に一万三千石を与えて高田城主とした。重利は竹中半兵衛の従兄弟にあたり、この竹中氏の時代に城が拡張された。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で重利は西軍に属して近江の瀬田橋の警固を務め、その後丹後国田辺城攻めに加わったが、黒田官兵衛の誘いに応じて東軍に寝返り、戦後所領を安堵された。
翌慶長6年(1601年)重利は三万五千石で府内に転封となり、寛永16年(1639年)豊前国龍王から松平重直が入封する。
正保2年(1645年)重直は木付に転封となり寛文9年(1669年)丹波国福知山の松平忠房が肥前国島原に転封となると飛領地として豊州陣屋が設けられた。

真玉城:文和2年・正平8年(1353年)真玉重実によって築かれたと云われる。 それ以前に在地豪族の大神系真玉氏が居たが、文和2年に大友氏一族の木付頼重が兄頼直より真玉荘七十町を譲られ大友系真玉氏の祖となった。
天正18年(1590年)真玉氏9代統寛は豊臣秀吉による小田原城攻めに参陣するため竹田津港に向かう途中で家臣山田兼佐の謀反により落命。これによって真玉氏は滅亡した。

中津に向かう。

中津:大分県の中津は歴史を感じることができる町である。江戸時代の城下町を再現した町並み、幼少の福沢諭吉が過ごした家などが存在する。

日田に向かう。

日田:日田市は、北部九州のほぼ中央、大分県の西部に位置し、福岡県と熊本県に隣接した地域です。また、周囲を阿蘇・くじゅう山系や英彦山系の美しい山々に囲まれ、これらの山系から流れ出る豊富な水が日田盆地で合流し、筑後・佐賀平野を貫流しながら、流域住民と福岡都市圏住民の生活や産業を潤しています。さらには、古くから北部九州の各地を結ぶ交通の要衝として栄え、江戸時代には幕府直轄地・天領として西国筋郡代が置かれるなど、九州の政治・経済・文化の中心地として繁栄し、当時の歴史的な町並みや伝統文化が、今なお脈々と受け継がれています。

別府に向かう。

鉄輪温泉:日本1位の湧出量を誇る別府では、408本のゆけむりが出ており、その大半を鉄輪がある鉄輪地区が占めています。

杵築に向かう。

杵築:大分県の北東部に位置する杵築市は杵築城や武家屋敷跡など、歴史的な景観を今も残している城下町で、南北の高台には武士が、その谷あいには商人が住んだという日本唯一の「サンドイッチ型城下町」ともいわれています。「

15:00大分空港に向かう。
15:30大分空港到達。
16:25大分空港出発。
17:20伊丹空港到達。

今回の旅行、九州大分県に足を運び、比較的マイナーなお城5か所、重要伝統的建造物群保存地区5か所を訪れ楽しみました。
お城に関しては今回も地味で際立ったものはなかったが重要伝統的建造物群保存地区はそれぞれ個性があり散策して楽しむことができました。
豊後高田は小さなレトロな商店街、中津は中津城を中心に周囲にお寺、武家屋敷が点在する城下町、日田はエリアも広く現在も活気があり観光客も多いビッグなレトロの商店街、鉄輪温泉は日本一温泉量の多い温泉町、杵築は杵築城を中心として二つの高台に武家屋敷が点在し、谷は商人の町、それぞれ特色があり個性的な重要伝統的建造物群保存地区巡り堪能しました。












 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十九弾:宮崎県小京都&重要伝統的建造物群保存地区&お城・城
下町巡り観光
2017年1月28-29日
  

九州の守護大名の伊東氏が権力を持つが、木崎原の戦いで島津氏に大敗を喫すると、豊後の大友氏を頼り、島津氏と大友氏は激しく争い、最終的には豊臣秀吉の九州統一によって争乱にピリオドが打たれた宮崎県に足を運び、比較的マイナーなお城2か所、小京都1か所、重要伝統的建造物群保存地区3か所を訪れました。

28日17:55伊丹空港出発
19:05宮崎空港到達、レンタカーで延岡方面に向かう。
21:05延岡駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
29日8:00レンタカーで出発、歴史的建造物巡り。

延岡城:築城年代は定かではないが中世の縣城(あがた)がその前身である。
近世延岡城を築いたのは高橋元種で、豊臣秀吉による九州征伐により松尾城に封ぜられた豊臣大名である。元種は慶長6年(1601年)に延岡城の築城を開始し、慶長8年(1603年)に完成した。

松尾城:文安3年(1446年)土持宣綱によって築かれたと云われる。
縣庄を本拠として勢力を張った縣土持氏は宣綱の時、松尾城を築いて西階城より移り、康正2年(1456年)一族の財部土持氏とともに都於郡城の伊東氏と戦ったが敗れ、翌長禄元年(1457年)には財部城は伊東氏によって包囲され、開城して財部土持氏は滅亡する。
その後、縣土持氏は伊東氏と門川城、日知屋城などを争って度々戦うが、元亀3年(1572年)木崎原の戦いで島津氏に敗れた伊東氏は瞬く間に衰退し、天正5年(1577年)伊東義祐は都於郡城を捨てて大友氏を頼って落ち延びた。これによって島津氏と大友氏の巨大勢力の狭間に立つこととなった縣土持氏は、島津氏、大友両氏に通じて命脈を保とうとするも、天正6年(1578年)大友氏の大軍に攻撃され落城し滅亡した。
その後、耳川合戦で大友氏を敗った島津氏の所領となったが、天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の後は高橋元種が入封し、慶長8年(1603年)延岡城を築いて移るまでの居城であった。

椎葉村:椎葉村(しいばそん)は、ちょっぴり悲しい平家落人伝説で全国に知られた宮崎県北西部にある東臼杵郡の村です。いまも各地からの観光客が絶えない日本三大秘境のひとつ平家落人伝説の郷。

美々津:江戸、明治時代の白壁土蔵の町並みが残る。昔から海の交易の拠点として歴史を刻み、関西との交流の主役となった廻船問屋の活躍がしのばれ、往時の文化的な遺産を大切にした町づくりが行われている。

飫肥:飫肥は、天正16年(1588)から明治初期までの280年間飫肥藩・伊東氏5万1千石の城下町として栄えたところです。武家屋敷を象徴する門構え、風情ある石垣、漆喰塀が残る町並みは、昭和52年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
昭和53年に復元された大手門を中心に、松尾の丸や藩校振徳堂、伊東家の歴史を綴る貴重な資料が展示されている飫肥城歴史資料館があります。また、 商人町通りには樽を店頭に置いた商家や、格子に壁燈籠、番傘を飾った商家が軒を連ね、町を流れる堀割の清流など、江戸時代を彷彿とさせる町並みが楽しめます。

16:00終了、宮崎空港に向かう。

17:30宮崎空港到達。
19:30宮崎空港出発。
20:35伊丹空港到達。
今回の旅行、九州宮崎県に足を運び、比較的マイナーなお城2か所と小京都1か所、重要伝統的建造物群保存地区3か所を訪れ楽しみました。
今回から初の小京都、重要伝統的建造物群保存地区巡り、日本の中世の街並みの散策、癒されますね。
これから全国の中世の街並み散策、楽しみです。