霊場

北海道:明王寺、蜜修寺、招福寺、弘法寺奥の院、浄徳寺、吉祥院、弘聖院、善福寺、八葉峰寺、雷音寺、覚良寺、長高寺、弘仙寺、大心寺、高徳寺、龍光寺、孝恩寺、観照寺、観霊院、真如、院札幌別院、大照寺新栄寺、立江寺、弘清寺、精周寺、不動院、日光院、仁玄寺、考徳寺、密厳寺、金剛寺、本弘寺、菩提院、遍照寺、亮昌寺、壮栄寺、不動寺、清瀧寺、大正寺、千光寺、瀧泉寺、高野寺、善導院、神山教会、大宝寺、遍照寺、真言寺、丸山寺、金峰寺、眞久寺、旭山廟、春光の丘寺、真勝寺、大照寺、光元院、千体山観音寺弘徳寺、丸山寺、金剛寺、郷芳寺、眞弘寺、眞弘寺大師堂、望洋寺、日高寺、龍徳寺、円昌寺、妙龍寺、地蔵寺高野、山寺(金剛閣)、高野山寺、新正寺、真隆寺、松光寺、弘真寺、照覺寺、照覺寺(三味堂)、大阿寺、不動院、実心寺、実心寺、観音堂、法弘寺、光願寺、弘法寺、観音寺奥之院、密厳寺、西端寺、高野寺、清隆寺、善照寺、波切不動寺、泉福寺、春宮寺、弘照寺、富良野寺、弘道寺、大照寺、大聖寺

東北:愛敬院、斗蔵寺、名取千手観音堂、金剛寺観音堂、紹楽寺、秀麓斎、西光寺、五大堂、三聖堂、大仰寺、梅渓寺、箟峯寺、松景院、興福寺、長谷寺、長承寺、大徳寺
永福寺、聖福寺、正覚院、天台寺、長根寺、福泉寺、興性寺、黒石寺大樹院、光明院、慈恩寺、勝竜寺、青森寺、弘法寺、最勝寺、大圓寺、國上寺、普傳寺、嶺梅院、多聞院、吉祥院、玉蔵院、遍照院          大寺、達谷西光寺、観福寺、円通寺観音寺、新山観音寺、徳寿院、大祥寺、六角堂、大慈寺、華足寺、観音寺、補陀寺、金剛寺、龍角寺、正善寺、大日坊、相応寺、観音寺、大聖寺、天王寺、医王寺、太龍寺、会津薬師寺、圓養寺、徳善寺、常福寺、中尊寺、毛越寺、長泉寺、普門寺、大善寺蛸浦観音
関東:杉本寺、岩殿寺、安養寺、長谷寺、勝福寺、長谷寺、光明寺、星谷寺、慈光寺、正法寺、安楽寺、慈恩寺、浅草寺、弘明寺、四萬部寺、真福寺、常泉寺、金昌寺、語歌堂、卜雲寺、法長寺、西善寺、明智寺、大慈寺、常楽寺、野坂寺、慈眼寺、今宮坊、少林寺、西光寺、定林寺、神門寺、龍石寺、岩之上堂、観音寺、童子堂、音楽寺、法泉寺、久昌寺、円融寺、大淵寺、橋立堂、長泉寺、法雲寺、観音寺、法性寺、菊水寺、水潜寺、千葉寺、高蔵寺、那古寺、清水寺、笠森寺、龍正院、圓福寺、清龍寺、大御堂、楽法寺、西明寺、観世音寺、大谷寺、中禅寺、水澤寺、長谷寺、満願寺、佐竹寺、日輪寺、薬師寺、延命寺、如法寺、萬善寺、照明寺、西生寺、国上寺、本覚院、青龍寺、仙城院、不動院、真城院、悉地院、法光院、乙宝寺、法音寺、
泉薬寺、安養寺、乗福寺、海蔵院、如法寺、本都寺、宝積院、妙圓寺、華蔵院、遍照院、阿弥陀院、妙楽院、宝光院、慈眼寺、不動院、総持寺、西福寺、延命寺、徳聖寺、圓福寺、寛益寺、法華寺、根立寺、正円寺、普談寺、福隆寺、光明院 、実相院、最勝寺 、大泉寺、蓮光院 、多聞寺 、明蔵寺、 長福寺、極楽寺 、密蔵院 、密乗院 、報恩寺 、金泉寺、十楽寺 、善照寺 、宝蔵寺、 円満寺 、般若寺、 西光寺 、華蔵院、真蔵院 、形蔵院 、正法寺 、長命寺、道場寺、三寳寺、如意輪寺、多聞寺、全龍寺、徳蔵寺、圓乘院、實蔵院、新光寺、普門院、全徳寺、金乘院 、妙善院 、松林寺 、慈眼寺、徳林寺 、蓮花院、法明寺、寶生寺、龍蔵寺、宝光院、極楽寺、真福寺、慈眼寺、證光院、五智院、弘誓寺 不動院、龍徳寺、圓福寺、遍照寺、普光寺、寶蔵寺 法音寺、寶珠院、養智院、大福寺、泉盛寺、薬照寺 、東光寺、龍圓寺、高正寺、圓照寺、浄心寺、観音寺、圓泉寺、靈巖寺、聖天院、勝音寺、瀧泉寺、長念寺、福徳寺、法光寺、天龍寺(子ノ権現)、八王寺

中部: 曹源寺、 極楽寺 、 普門寺、延命寺、常福寺、極楽寺、 伝宗寺、 明徳寺、 観音寺、 安徳寺、東光寺、海潮院、 福住寺、安楽寺、興昌寺、 洞雲院 、 平泉寺、観音寺、 光照寺 、海蔵寺、 光照院、龍台院 、 常楽寺 、大日寺、蓮花院 、徳正寺、 円観寺、葦航寺、影現寺、 弥勒寺、誓海寺、誓海寺禅林堂、 永寿寺、 正法寺、医王寺、 利生院、 宝乗院、北室院、 性慶院 、成願寺、 遍照寺 、 正法禅寺、西方寺、 医徳院 、 大光院 、浄土寺、 影向寺、西方寺、天龍寺、 岩屋寺、奥の院、 泉蔵院、如意輪寺、大宝寺 、持宝院 、良参寺、吉祥寺、瑞境寺、光徳寺、池口寺、徳音寺、瓊林院、常楽寺、満願寺、中禅寺、妙見寺、宝蔵寺、信濃国分寺、善光寺、照光寺、平福寺、温泉寺、長圓寺、清光寺、江音寺、高徳寺、無量寺、香福寺、仲仙寺、華厳寺、圓鏡寺、乙津寺、大聖寺、寂光院、長福寺、大徳寺、貞照寺、地蔵寺、満徳寺、甚目寺、護国院、長久寺、建中寺、七寺、宝生院、萬福院、福生院、 寶珠院、興生寺、大学院、笠覆寺、密蔵院、安養院、大御堂寺、野間大坊、法山寺、報恩寺、曹源寺、来応寺、玉泉寺、安楽寺、高讃寺、洞雲寺、宝全寺、大膳院、相持院、中之坊寺、三光院、宝蔵寺、慈光寺、地蔵寺、慈雲寺、浄蓮寺、正法院、誕生堂、密厳寺、正法院、誕生堂、密厳寺、如意寺、福生寺、妙楽寺、妙楽寺、栖光院、龍蔵寺、観福寺、弥勒寺、観音寺、清水寺、玄猷寺、地蔵寺、円通寺、長寿寺、興生寺、萬沢寺、萬休寺、北辰寺、慈恩禅寺、密蔵寺、福寿寺、広福寺、正福寺、仏徳寺、長久寺、常久寺、林昌寺、長国寺、宗久寺、高徳寺、東円寺、医王寺、長岳寺、運松寺、雲彩寺、真浄寺、浄瑠璃寺、光明寺、寶心寺、願興寺真光寺、洞雲寺、江馬下館、寿楽寺、安国寺、飛騨国分寺、相応院、清傅寺、禅昌寺、温泉禅寺

近畿:青岸渡寺、金剛宝寺(紀三井寺)、粉河寺、施福寺(槇尾寺)、葛井寺、南法華寺(壺阪寺)、龍蓋寺(岡寺)、長谷寺、法起院、南円堂、三室戸寺、上醍醐准胝堂、正法寺(岩間寺)、石山寺、園城寺(三井寺)、元慶寺、観音寺(今熊野観音寺)、清水寺、六波羅蜜寺、頂法寺(六角堂)、行願寺(革堂)、善峯寺、穴太寺、総持寺、勝尾寺、中山寺、花山院菩提寺、清水寺、一乗寺、圓教寺、成相寺、松尾寺、宝厳寺、長命寺、観音正寺、華厳寺、四天王寺、清水寺、法楽寺、京善寺、報恩院、大融寺、国分寺、不動寺、大龍寺、無動寺、鏑射寺、成田山明王院、安岡寺、岩屋寺、蔓殊院門跡、圓満院門跡、無動寺明王寺、北向山不動院

中国:観音院、大雲院、摩尼寺、三仏寺、長谷寺、大山寺、木山寺、誕生寺、法界院、円通寺、蓮台寺、西大寺、余慶寺、正楽寺、宗隣寺、功山寺、観音寺、大照院、洞春寺、龍蔵寺、漢陽寺、般若寺、明王院、浄土寺、西國寺、千光寺、向上寺、仏通寺、三瀧寺

四国:霊山寺、極楽寺、金泉寺、大日寺、地蔵寺、安楽寺、十楽寺、熊谷寺、法輪寺、切幡寺、藤井寺、焼山寺、大日寺、常楽寺、国分寺、観音寺、井戸寺、恩山寺、立江寺、鶴林寺、太龍寺、平等寺、薬王寺、最御崎寺、津照寺、金剛頂寺、神峰寺、大日寺、国分寺、善楽寺、竹林寺、禅師峰寺、雪蹊寺、種間寺、清瀧寺、青龍寺、岩本寺、金剛福寺、延光寺、観自在寺、龍光寺、佛木寺、明石寺、大寶寺
岩屋寺、浄瑠璃寺、八坂寺、西林寺、浄土寺、繁多時、石手寺、太山寺、円明寺、延命寺、南光坊、泰山寺栄福寺、仙遊寺、国分寺、横峰寺、香園寺、宝寿寺、吉祥寺、前神寺、三角寺、雲辺寺、大興寺、神恵院、観音寺、本山寺、弥谷寺、曼荼羅寺、出釈迦寺、甲山寺、善通寺、金倉寺、道隆寺、郷照寺、天皇寺、國分寺、白峯寺、根香寺、一宮寺、屋島寺、八栗寺、志度寺、長尾寺、大窪寺、洞雲山、碁石山、観音寺、隼山、古江庵、堀越庵、田ノ浦庵、向庵、常光寺、庚申堂、西照庵、観音堂、岡ノ坊、栄光寺、清滝山、大師堂、極楽寺、一ノ谷庵、石門洞、木下庵、佛ヶ滝、清見寺、峯之山庵、本堂、安養寺、誓願寺庵、阿弥陀寺、櫻ノ庵、薬師堂、風穴庵、正法寺、誓願寺、愛染寺、長勝寺、保寿寺庵、林庵、釈迦堂、明王寺、光明寺、松風庵、保安寺、佛谷山、西ノ滝、浄土寺、湯舟山、地蔵寺堂、多聞寺、栂尾山、毘沙門堂 東林庵、遊苦庵、宝幢防、旧八幡宮、本覚寺、宝生院、光明庵、 観音堂、行者堂、浄源坊、西光寺、奥の院誓願の塔、 甘露庵、江洞窟、浄土庵、大乗殿、蓮華庵、松風庵、光明庵、等空庵、瑞雲堂、松林寺: 瑠璃堂、長勝寺、滝の宮堂、滝湖寺、奥の院笠ヶ滝、 救世堂、円満寺、大聖寺、金剛寺、三暁庵、 藤原寺、観喜寺、 雲胡庵、薬師庵、観音寺、恵門ノ滝、 吉田庵、福田庵、運海寺、本地堂、当浜庵、海庭庵、楠霊庵、 十楽庵、岩屋寺、岩屋寺大師堂、観音堂、法南寺、善女庵、亀甲庵、宝幢庵、利益庵、西蓮庵、 正覚庵、海岸堂、白光庵、無量寿庵、寿気庵、医王庵、付属庵、海南庵、潮音堂、 車南庵、金光庵、大山寺、蜜厳寺、東禅寺、明王院、最明寺、鯖大師本坊、正光寺、慈眼寺、加茂不動院、長善寺、不動院、箸蔵寺、蜜厳寺、大瀧寺、繁昌院、浄土寺、天福寺、不動明院、香西寺、聖代寺、海岸寺、不動坊、妙音寺、萩原寺、不動寺、神野寺、最勝堂、地主庵、善徳寺、吉祥庵、極楽寺、竹林庵、三角庵、弥勒寺、高龍寺、妙法寺、布留坊、双深庵、示現庵、前札、仏浄庵、宥信庵、同番、浄花庵、海照庵、證林庵、蓮花庵、大聖庵、證明寺、潮音寺、宝珠庵、常住庵、千光寺、三光庵、蜜乗庵、大慈庵、利生庵、善福寺、鶴林寺、平等庵、洗厳堂、三門堂、光明堂、釈迦庵、浄土庵、五大院、誕生庵、不動堂、西大寺、千行堂、福蔵寺、常楽庵、光明庵、西照庵、永楽庵、薬師堂、照月庵、万福寺、随心庵、灌潮庵、極楽寺、極楽寺、宗安禅寺、大善寺、牛頭山、昌清庵、櫛野辺堂、万性寺、道場庵、霊仙寺、金剛院 、遍照坊、般若庵、大来庵、普光寺、五光庵、福寿庵、供養堂、紫雲庵、知足庵、蓮台庵、太山寺、光音寺、成願寺、地蔵寺、円福寺、浄土寺、極楽寺、明星寺、金毘羅寺、隻手薬師、道音寺、西林寺、大蓮寺、八坂寺、理正寺
 
九州:東長寺、般若寺、光明寺、不動寺、大日寺、龍王院、不動院、浄心院
大師寺、明王寺、南琳寺、興徳院、如意輪寺、隆照寺、明王院、金剛頂院、正法寺、金倉寺、明観寺、法善寺、西教院、東蓮寺、善覚寺阿弥陀院、徳泉寺、不動院、真光寺、普門院、三明院、神護寺、大楽寺、光明院、蓮華寺、金剛頂寺、福寿院、賢龍寺、蓮城寺、大日寺、海岸寺、興山寺潮満寺、西明寺、長久寺、香泉寺、貫川寺、行真寺、中野寺、永願寺、龍仙寺、光明寺、天長寺、弘泉寺、不動寺、大歓寺、光明寺、大国寺、剣山寺、峰浄寺、薩摩薬師寺、法城寺、本蔵院、金剛寺、蓮華院誕生寺、金剛寺、大勝寺、護国山仏性院金剛乗寺、医王寺、願成寺 、高寺院、観蓮寺、勘代寺、生善院 、龍照寺、延命寺、東前寺、浄漸寺、大智院、西光寺、>光輪寺、東漸寺、西福寺、御橋観音寺、善福寺、海心寺、鎮国寺、鎮国寺奥の院、宗像観音寺、観音寺、法蔵寺、誓願寺、千如寺大悲王院、隆善寺、眞光寺、本明院、高田虚空蔵堂、高田阿弥陀堂、高田観音堂、高田十一面観音堂、中町延命寺、下町薬師堂、補陀洛寺、中町屋島寺、篠栗公園大日寺、篠栗恩山寺、遍照院、金出大日堂、珠林寺薬師堂、金出観音堂、金出神峰寺、弘照院、妙音寺、観音坂観音寺、雷音寺、萩尾薬師堂、萩尾阿弥陀堂、呑山観音寺、天王院、五塔ノ滝観音堂、大宝寺、明石寺、鳥越観音堂、山手観音堂、山手薬師堂、山王薬師堂、山王寺、山王釈迦堂、山王釈迦堂、山王薬師堂、延命寺、篠栗地蔵堂、城戸千手観音堂、城戸大日堂、城戸病奪り薬師堂、田ノ浦排師堂、城戸釈迦堂、城戸文殊堂、南蔵堂、城戸ノ滝不動堂、神変寺、松ヶ瀬地蔵堂、松ヶ瀬阿弥陀堂、最教寺奥の院、開元寺、金剛寺、鶴林寺、大聖寺、宝光院、西光密寺、無動院、東光寺、光明寺、高野寺、誕生院、蓮厳院、大定院、分寺、南林寺、安国寺、種因寺、薬師院、福聚寺、相円寺、国分寺、明星寺、浄土寺、幸福寺、全長寺、極楽寺、今山大師寺、昌龍寺、光明禅寺、妙円寺、鎮国寺、光厳禅寺、法泉寺、西厳殿寺、相良寺、金剛乗寺、平仙寺、龍泉寺、祇園寺、薬王寺
 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十四弾:岐阜県中部四十九薬師霊場&お城・城下町巡り観光
2018年11月17−18日
 

長野県と岐阜県を中心に、山梨・愛知県にまたがりアルプスの山懐にいだかれ、温泉地にも恵まれた大自然の中の巡拝コース中部四十九薬師霊場で岐阜県に点在する霊場10か所、お城11か所を訪れました。

17日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神経由して小牧インター下車、霊場巡り。

願興寺:縁起 人皇五十二代嵯峨天皇の弘仁六年(815年)天台宗宗祖伝教大師が比叡山より東国巡錫の砌り、御嵩の地にお宿りになりますと、遠近の人々が忽ち集まり仏教信者となり、大師は布施屋(無料宿泊所)を作らしめ、薬師瑠璃光如来の尊像を彫刻して安置された。その後、正暦四年(993年)一条天皇の御代に、皇女が剃髪して行智尼と称し、この地に正宝庵を結んで住まわれ、朝夕本尊薬師如来を礼拝せられたところ長徳二年二月七日(996年)、寺の西南にあたる尼ケ池より金色の御光が四方に輝き亘り一寸八分の御尊像が蟹の背に乗って池の面に浮かばれましたので、行智尼は、この尊像を迎え奉って本尊の腹中に納められました。このこと畏くも天聴に達し勅命により、七堂伽藍を建立し、大寺山願興寺の寺号を賜りました。俗名「蟹薬師可児大寺」はこの因縁によるものです。その後、幾多の兵火あって堂宇は炎上したものの、本尊をはじめ御尊像24体は恙がなくお移し大正三年(1914年)に国宝に指定され、今は国の重要文化財となっている。

真光寺:縁起 何時の頃か当地の里人達は、行基菩薩作の薬師如来像を招来してきて、形ばかりの小堂を建立して日夜尊崇怠りなく、このこと次第に近隣に伝わり、皆共々に相携えて参詣日毎に多し、やがて堂宇の狭小を感ずるや、人々相議して堂宇を拡張再建して一寺とした。
 信徒等は、加治田村の龍福寺第四世陽南大和尚を、懇請して開山第一世となす。爾来、順栄、順林、恵珀、道仙、師順、恵湛、玄苗、萬密、文青、穆洲と十世を経て現在第十二代となる。この間、第八代玄苗師の頃、火難に遭い、諸堂全焼、その後間もなく再建されて現在の伽藍とはなったが、そのために創建の年次も不明となった。

洞雲寺:縁起 当山は嘉吉三年(1443)将軍足利義勝公の寄付地により却庵寂永禅師の開基であり、文明十八年以降、瑞浪市開元院より交互性特派遣、慶長九年(1604)開元院十世梵的和尚中興開山となり慶長十三年(1608)西尾丹後守、寺領を寄進、殿宇を再建し永風を唱え大龍峯窟を全備した。
 通称田代山寺と呼ばれ山上にあったのを昭和三十三年に現在地に移転新築した。
 本尊 聖観世音菩薩。 脇仏 地蔵菩薩・昆沙門天
 別仏 東方薬師如来・阿弥陀如来・文珠菩薩・大黒尊天
    弁財尊天・水子地蔵菩薩・稲荷大明神・金比羅大権現
 当山薬師如来は寛永十七年(1640)殿宇と共に建立し今日に至る。又、町内4ケ所に薬師堂あり。
 病苦に悩むものには回春の光明を与え、貪苦に苦しむものには福徳を施与し、身体健全と家門隆昌の薬師如来様であります。

17:00関方面に向かう。
17:30関市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
18日7:30車で出発。
霊場、お城巡り

篠脇城:築城年代は定かではないが南北朝時代に東氏村によって築かれたと云われる。 東氏は下総国千葉氏の支族で、承久の乱(1221年)の功により郡上郡山田荘の新補地頭職を得て東胤行が下向して阿千葉城を築いたことに始まる。
四代東氏村は当時勢力を誇っていた鷲見城主鷲見氏との距離が近すぎることと、南朝方の拠点である越前からの来襲に備えるために、篠脇城を築いて居城を移したといわれる。
東氏は代々文武両道で続後撰集、続拾遺集、新続古今集などに入っていた。 応仁の乱が勃発すると東氏は東軍の細川氏に味方したが、美濃国守護の土岐は西軍の山名氏に味方した。この結果、応仁2年(1468年)守護代斎藤妙椿の攻撃を受け、激戦の末落城した。このとき関東に下向していた東常縁は「あるが内に斯かる世ーしも見たりけり、人の昔の猶も恋しき」と詠んだ。人づてに聞いた妙椿は自分に詠を贈ってくれたら所領を返そうと約束すると、「吾世経むしるへと今も頼む哉、みののお山の松の千歳を」をはじめ十首の和歌を贈ったという。これを受けた妙椿は約束通り所領を全て返還したという。
その後、十二代常慶の時、天文9年(1540年)と翌年の天文10年に越前国朝倉氏の攻撃を受け、この時はかろうじて撃退するが、東殿山に赤谷山城を築いて居城を移した。

小鷹利城:築城年代は定かではない。姉小路氏の庶流向氏(小鷹利氏)累代の居城とも云われるが、それを直接示す史料は残っていない。
天正11年(1583年)(あるいは10年)に向家の幼君右近を後見していた牛丸又太郎重親が、逆心を起こして横領を企てた。重臣後藤重元はこれを察知して右近を伴って城を脱し、角川へ逃れたが、重親が差し向けた追っ手に角川村で追いつかれ、重元は防戦して戦死、右近は逃げ延びて母方の縁を頼り常陸の佐竹氏に仕え、向右近宣政と名乗ったという。

蛤城:築城年代は定かではない。 応永年間末期に藤原師言が築いたとの伝承もあるが、天文年間に古川二郎による築城とも云われる。
その後は塩屋筑前守の城となり筑前守は上杉謙信、後は織田信長に従ったが天正11年に討死したという。
その後は一時三木氏の勢力にあったが、三木自綱が金森長近によって討たれると金森氏の城となり、金森可重が入城したが、増島城を築いて居城を移し廃城となった。
この城は「蛤城(はまぐりじょう)」とも呼ばれるが、これは飛騨へ入国した金森氏がこの城へきたとき、城内に蛤石があったため、以後蛤城と呼ばれるようになったのだという。

増島城:築城年代は定かではないが天正15年(1587年)に金森長近によって築かれた。 越前国大野城の金森長近が飛騨国の三木氏を滅ぼして飛騨に入部すると、増島城を築いて蛤城の金森可重を城主とした。
長近が没すると可重は金森氏を継いで高山城へ入り、増島城には長子金森重近を置いた。しかし可重が没した後に金森氏を継いだのは重近ではなく四男の重頼で、この結果重近が京都へ出て茶道に生きた。
元和5年(1619年)一国一城令によって廃城となり、その後は古川旅館として金森氏の別邸として存続されたが、元禄5年(1692年)金森氏は出羽国上山へ転封となり、その領地が天領となって破却された。

小島城:築城年代は定かではないが南北朝時代に姉小路氏によって築かれたと云われる。 姉小路氏は公家で三条実房の子公宣が京の姉小路に住んで姉小路氏を名乗った事に始まる。飛騨の姉小路氏は姉小路家綱が建武新政の際に飛騨国司となり、信包城(向小島城と推定されている)を居城としたことに始まるという。
姉小路家綱は南朝方によって国司に任命されたことから、おもに南朝方として戦っていた。その後、姉小路氏は小島氏・古川氏・向氏の三家にわかれる。
戦国時代になると京極氏の被官であった三木氏が台頭し、小島氏はそれに属していたが、天正13年(1585年)羽柴秀吉の命によって飛騨国に侵攻した越前国大野城の金森長近によって攻められ、小島城は落城した。

江馬下館:築城年代は定かではないが江馬氏によって築かれたと云われる。 江馬氏の出自は定かではないが、鎌倉北条一門または伊豆の江間氏の一族といわれる。
江馬氏下館は南東にある高原諏訪城を詰城とした館である。 江馬氏は高原諏訪城を本城として北飛騨一円に城を築き、北飛騨の雄として勢力を誇っていた。しかし戦国時代には越後国上杉氏、甲斐国武田氏に翻弄される。 江馬時盛ははじめ甲斐の武田氏に通じ、南下して姉小路氏を攻め勢力を延ばしたが、越後の上杉氏が飛騨に侵攻して降伏した。しかし永禄7年(1564年)武田信玄は山県昌景に命じて飛騨に侵攻すると、再び時盛は武田氏に通じ、翌年には武田氏とともに越中へ侵攻した。
武田氏よりの時盛に対して、嫡子輝盛は上杉氏に好意を寄せ父子の関係は悪化、時盛は三男信盛に家督を譲ろうとするが信盛は輝盛にはばかってそれを受けず、時盛は従弟の洞城主麻生野直盛の子慶盛を養子にしようとした。天正元年(1573年)ついに輝盛は父時盛を暗殺し、洞城を攻めて麻生野慶盛を自害させ、弟信盛・貞盛を追放して江馬氏の家督を継ぐ事となった。
天正10年(1582年)三木氏の後ろ盾であった織田信長が本能寺の変で死んだことを機に、輝盛は南飛騨の三木氏を攻めるべく出陣する。しかし吉城郡荒城川において大将江馬輝盛は三木氏の将牛丸又太郎によって討ち取られ、江馬軍は総崩れとなり、本城である高原諏訪城も落城した。
その後、江馬時政という人物が再興し、天正13年(1585年)飛騨に侵攻した金森長近に協力して姉小路氏(三木氏)を滅ぼすが、同年金森氏に反抗して一揆を起こし、金森氏に滅ぼされた。

高原諏訪城:築城年代は定かではないが江馬氏によって築かれたと云われる。

寿楽寺:縁起 創建は不祥だが所蔵する写本大般若経や祈祷札の墨書から推察するに、応永五年(1399)三月、記載の祈祷札(県指定文化財)に宮谷寺末寿楽寺とある。室町時代すでに寿楽寺が存在したことは確かであろう。元禄二年(1689)高山の素玄寺八世古林道宣和尚が中興開山して以来、曹洞宗を継承して現在に至る。本堂は宝暦五年(1756)六世和和尚の代に再建した。単層入母屋造り、間口七間の見事な構えである。
  本尊の薬師如来は、厨子入り秘仏である。資料によると天保十一年(1840)春三月に御開帳されている。脇間の十六羅漢像も威厳ある像である。棟続きの観音堂は明治十二年(1879)本田家が寄進した。鐘楼は昭和五十九年に建立された。

安国寺:縁起 建武の中興を成した足利尊氏直義は、禅僧、夢窓疎石の薦めで後醍醐天皇と元冠以来幾多の戦乱に露と消えた兵達の霊を弔う為、一国一寺一塔の大願を発し、六十六国二島に安国寺が設立された。
  飛騨の安国寺はその一つとして貞和三年(1347)少林寺を母胎として創設された。当時は七堂伽藍と九ケ寺の塔頭を備え、繁栄していたが、天文・永禄の頃、飛騨戦乱のため兵火にかかり、そのほとんどを焼失した。その後飛騨平定され、寛文の頃、南叟和尚の尽力で再建され今日に至っている。
 当山の薬師如来、日光・月光菩薩は、もと本町半田の山腹にあった横河山安寧寺の御本尊であった。安寧寺は安国寺と同時期に兵火にかかり、御本尊のみ難を逃れ、一時は民家に御座されていたが、安国寺再建の折、当所に移入し、堂宇を新たに建立して安置されたものである。行基菩薩の作と伝えられている。御像は寄木造りで永い間風雪に曝された為か彩色が殆ど剥落し、木地が露わになり、処々に胡粉の跡が伺える。このことが却って当山薬師如来の信仰を深めている趣がある。古来より十七年毎に大開帳を行っている。他に国宝経蔵、重文開山像等がある。

飛騨国分寺:縁起 聖武天皇の勅願により全国六十余州に建立された「金光明四天王護国之寺」は、国分寺と称せられる鎮護国家の祈願道場です。
 当山は、飛騨の国の国分寺として、天平十八年(746)に行基菩薩が開創された当国第一の古刹です。境内には、樹齢一千二百年の大いちょう(天然記念物)が繁っており、創建当初にそぴえていた七重大塔の礎石(国史跡)と共に寺歴を物語っております。
 市内最古の建造物である本堂(国重文)には、行基菩薩御作と伝えられる本尊薬師如来(国重文)をはじめ、旧国分尼寺本尊の聖観音(国重文)、恵心僧都御作と伝えられる阿弥陀如来(県重文)等が安置されており拝観することが出来ます。
 毎月八日の縁日には「薬師如来供祈願会」が巌修され心願成就祈願の信者さんが沢山参詣されます。
  また、当地方の女性は、安産腹帯を本尊薬師如来より授かる習わしが古来より伝えられており、更に母乳の出にくい母親は薬師如来よりいただけると御本尊へ祈願されます。
 境内の三重塔(県重文)は当国唯一の塔建築で、文政四年 (1821)に再建されており、内陣には真言宗の御本尊大日如来が安置されている。

相応院:縁起 当院は明治以前までは隣にある桜山八幡宮の別当寺で長久寺と称しておりましたか、明治初年の排仏毀釈によって廃寺となりました。当時の住職兼神職でありました桜山識雄和尚は、代官所(高山陣屋)へお願い状を出して必死に仏教を守られました。
 その結果高野山での飛騨の大名金森家の菩提寺であった相応院が飛騨の国との御縁でその寺号と金森可長近公寄進の雲上阿弥陀三尊・涅槃図・不動尊図等を譲り受け、現在地に本堂を建立致しました。長久寺は高山の裏鬼門に当るので不動尊像をお祀りして鬼門除けと住民の安全等を祈願する神仏混淆のお寺でしたので、その不動尊像・弘法大師像・歓喜天像・聖観音像・十一面千手観音像・弥勒菩薩像等をお祀りしております。又、当院には円空仏が二体あります。一体は稲荷さんで、もう一体は薬師如来です。高山市史に長久寺は山伏寺とも書いてありますので、円空さんも飛騨へ来られた折に立ち寄られ、何体か刻まれた事と思いますが前述のとおり排仏毀釈で古文書等はなく、縁起は代々伝わっている話のみです。
 円空薬師如来は本堂左側にお祀りしてあり、裏山には修行大師像がお祀りしてあります。

清傅寺:縁起 当山は、清寧天皇(480)までさかのぼると記されていますが、富山での大火で一部が焼失し、詳しいことは解りません。
 又、白山開山と伝えられる泰澄和尚が創設したお寺とも言われております。天平年間 聖武天皇のころ、皇帝健康にすぐれなく、ある時、泰澄和尚が、白山の麓に一堂を創設し、皇帝の病気平癒、国家泰平、万民安穏、五穀豊穣を祈念し、日々白山を見奉り、供養したところ、元気になられた。その後も泰澄和尚は御堂に籠り祈願を続けたと言うことです。堂守六代まで焼きましたが、八十二代後鳥羽帝の時、国乱が起り堂守中絶していたのを、永享五年三月、無量寿院賢興大僧正の高弟子、成伝律師が再興しました。
 その後加賀の守、前田家の祈願所となり、次男利次が富山藩として分家した時、富山へ移り、代々領主の祈願所となっておりました。しかし明治の改正により寺録を失い、同十三年の大火で殆ど焼失、その後、当山第19世下切弘道和尚により飛騨に移され現在に至っております。
 白山の仏の本地は十一面観音菩薩で当山も本尊は十一面観音です。脇仏に薬師如来が祀られています。飛騨仏師「信二良」作です。形像は、鉢を持する薬師様で、法隆寺の薬師様によく似た面長の美しい面であります。寺伝によれば姫薬師と呼ばれ女性に信仰があります。

鍋山城:築城年代は諸説あり定かではないが、一般的には天文年間に平野豊後守安室によって築かれたと云われる。 平野氏は安室の父右衛門尉の時に信濃国より飛騨国へ入国し三仏寺城主となり、安室の時代に鍋山城を築城(または修築)してここに移り、鍋山氏を名乗ったと云う。
安室は家の安泰をはかるため、実子の左近大夫を差し置いて三木氏より三木自綱の弟顕綱を養子に迎えたが、顕綱は安室を毒殺して左近大夫をも追放した。
追放された左近大夫は越前国大野城の金森長近を頼って落ち、天正13年(1585年)羽柴秀吉の命によって飛騨国へ侵攻した金森長近に加わって三木氏を攻め、再び飛騨へ復帰することとなった。しかし金森氏の飛騨入封後、その処遇に不満があり広瀬氏・江馬氏などと呼応して一揆を起こすが、金森可重によって鎮圧された。
飛騨国を制圧した金森長近はこの鍋山城へ入って政務を行ったが、高山城を築いて居城を移し廃城となった。

高山城:築城年代は定かではないが永正年間(1504〜1521年)に高山外記によって築かれた天神山城が前身である。高山氏は飛騨国守護京極氏の家臣で守護代をつとめた多賀出雲守の一族という。
永禄元年(1558年)桜洞城主三木自綱と高堂城主広瀬宗城によって高山氏は滅ぼされると、自綱は叔父の三木久綱を天神山城主とし、天正7年(1575年)松倉城を築いて居城とした。
天正13年(1585年)三木自綱は越中の佐々成政と結んで羽柴秀吉と対立すると、羽柴秀吉の命によって越前国大野城主金森長近が飛騨国へ侵攻し、自綱は高堂城と広瀬城が落城すると降伏、最後に残った三木秀綱の籠る松倉城も落城して三木氏は没落した。
飛騨へ入部した金森長近ははじめ鍋山城を居城としていたが、天正16年(1588年)天神山城を改修して高山城と改称し居城とした。
元禄5年(1692年)金森氏六代金森頼時は出羽国上山へ転封となり、以後飛騨国は江戸幕府直轄領となって高山陣屋によって治められ、高山城は廃城となった。

松倉城:築城年代は定かではないが天正7年(1579年)頃に三木自綱によって築かれたと云われる。また一説に永禄年間(1558年〜1570年)に自綱の父良頼の頃に築かれたとも云われる。
三木氏は応永18年(1411年)京極高員の代官として三木正頼が益田郡竹原郷に下向したことに始まると云われる。四代三木直頼のときに益田郡の大半を横領して桜洞城を築いて居城とした。五代良頼の時代になると大野郡へ進出して飛騨国司の姉小路家を滅ぼし、六代自綱のときには高原諏訪城主の江馬氏などを降して飛騨大半を平定した。
天正13年(1585年)三木氏は秀吉と対立する越中の佐々成政と結んだことから、秀吉の命を受けた越前国大野城主金森長近の侵攻を受けた。このとき自綱は広瀬城におり、松倉城には秀綱が籠城して金森軍と戦ったが内応者が現れ落城し、秀綱は城を脱して信濃へ逃れる途中に土民に襲われ死んだという。
三木氏の後に飛騨に入封した金森氏は高山城を居城として築き、松倉城は廃城となったと云われるが、現在残る主郭部の石垣などの遺構は、他の三木氏に関係する城から高石垣などの遺構が確認できないこともあり、金森氏など織豊系の武将によって改修されたものとも考えられている。

萩原諏訪城:天正13年(1585年)佐藤秀方によって築かれた。 天正13年(1585年)越前国大野城主金森長近は羽柴秀吉に命によって飛騨へ侵攻し、三木自綱を敗って飛騨を平定した。これによって金森氏は飛騨を与えられ高山城を築城して居城とし、姉婿の佐藤秀方に命じて桜洞城を廃して諏訪城を築かせこの地方を治めさせた。
元和の一国一城令によって廃城となったが、その後も金森旅館として存続する。しかし、元禄5年(1692年)金森氏が出羽国上山へ転封となると破却された。

禅昌寺:平安時代の創設と言われる臨済宗妙心寺派の禅寺。中国宋朝の様式を伝える建築物は「天下の名刹」として威容を誇っている。境内には金森宗和が造園した名勝指定の庭園「萬歳洞(ばんざいどう)」や茶室、雪舟筆の大達磨像等多くの寺宝の他、樹齢1200年を超える国指定天然記念物の大杉や勅使手植えのゆかりの梅など見どころ満載。予約をすれば座禅体験もできる。

温泉禅寺:縁起 文永二年(1265)湯ガ峰からの温泉の湧出が突然止まってしまう。その翌年、毎日のように飛騨川の河原に舞い降りる一羽の白鷺に村人が気づく。不思義に思った村人がその場へ行ってみると、温泉が湧いていた。空高く舞い上がつた白鷺は、中根山の中腹の松に止まり、その松の下には光輝く一体の薬師如来が鎮座していた・・・。これが下呂に伝わる白鷺伝説であり温泉寺開創の縁起である。 白鷺に化身し、温泉の湧出を知らせたこの薬師如来を本尊とするのが、瞥王霊山温泉寺である。下呂富士と呼ばれる中根山の中腹に建ち、創建は寛文十一年(1671)。江戸元禄期以降、北海道開拓に尽力したことで知られる初代飛騨屋久兵衛の父、武川久右衛門倍良が、萩原・禅昌寺八世剛山和尚を開山に迎え、建立した寺である。下呂温泉を、草津・有馬とともに天下三名泉として初めて全国に紹介したのが、室町時代の五山僧・万里集九である。(「梅花無尽蔵」より)以来、下呂温泉にはたくさんの湯治客が訪れるようになり、江戸中期には年間三万人を数えた。温泉寺にも、花柳病などの湯治客がお籠りし、朝夕薬師如来を拝みつつ、湯治の未、無事病気平癒した人達の残した絵馬が、今でも本堂に数多く残されている。また、願い叶わずこの地で命絶えた人達の過去帳も残っている。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、岐阜県に点在する中部四十九薬師霊場10か所、お城11か所を訪れ楽しみました。
霊場は立派なものが多く、城跡は案内が十分でなく、たどり着くのに時間がかかりました。
帰りの高速道路、紅葉帰りの車が多く渋滞に巻き込まれ時間がかかりました。



 




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十三弾:中部四十九薬師霊場観光
2018年11月10−11日


長野県と岐阜県を中心に、山梨・愛知県にまたがり、アルプスの山懐にいだかれ、温泉地にも恵まれた大自然の中の巡拝コース、中部四十九霊場の長野・岐阜・愛知に点在する20ヶ所を訪れました。

10日12:30車で出発、第二京阪・京滋バイパス・名神を経由して
13:00犬山に到着、霊場巡り
萬沢寺:縁起 当山は、正治年間、畠山荘司重忠の創建なり、後に兵火にかかり、建物は全て焼失す。文明三年(1471)現在地に移り、寛文八年(1668)天台宗より、臨済宗妙心寺派に転宗す。
 当山に安置する薬師如来は、秘仏にして、古来より十七年毎に、御開帳を行う。

萬休寺:縁起 当寺は臨済宗(禅宗)妙心寺派に属し、寛永年間に美濃の清泰寺第三世北州和尚を勧請して創建されました。ここにお祀りする円空仏薬師如来はその昔、円空上人がこの地に度々投宿して行願を果たされた折、世話になった村の老若男女の無病息災と延命長寿を祈念して奉納されたもので、土地の纐纈家としてお祀りされていたものを、真に霊験新たかにしてもったいないと、後に薬師堂を建てて奉安し、以来村人の手により例年三月十二日を縁日として大祭供養が行われるようになりました。大正十五年越美南線が開通して当寺も移築されることになり、その時に庚申様と弘法様を併せて新たにお祀りしています。

北辰寺:縁起 下田薬師如来 美並村史に依れば、下田薬師堂は大正十二年(1923)に再建されたものであったが、その後堂守りの死去によって無住となり荒廃の恐れもあり、区民がこれを惜しみ昭和二十三年に北辰寺に移築したが、開山堂として使われ、本来の薬師如来像は、片隅に安置される結果となった。現住二十二世は、昭和五十年(1975)発願、一階を観音堂、二階を薬師堂として完備、正位に安置することが出来た。
 『そもそも紀州室の人、直阿上人諸国行脚の途次、この地に留錫して数日、一夜夢に薬師如来が現れて、昔、空海上人行脚のとき、桜木を以て一刀三礼、謹刻して桜宝山の本尊として、春秋五百余年寺門繁栄、村内結縁の衆、信心浅からず、星移り、世乱れて僧坊悉く散逸した故に、桜木の中に身を隠した。今又汝が仏神信仰の志あるを見て告げ知らす。疑心あることなかれ。と即ち直阿上人桜の木の老朽ちたる根元を掘ってこの像を発見し、一宇を建立、弘治三年四月八日大法要を営んだ。時の領主遠藤但馬守は、十二善神を寄進、併せて黄金十枚、米二五俵を祈念科として給う』とある。弘治二年五月(1556)のことである。(薬師縁起序)

慈恩禅寺:縁起 慶長十一年、八幡城主遠藤但馬守慶隆公が開基となり、京都大本山妙心寺の円明国師を勤請しその高弟半山禅師を迎え釈迦如来を本尊とし創建された。臨済宗妙心寺派の寺院。元文三年「護国」の称号と青蓮院宮一品親王の書なる勅額を下賜、又、棠林和尚代には禅堂が開かれた。惜しいかな、明治二十六年大水害にて裏山が崩壊し山門、勅使門のみ残し、全て埋没。時に明治天皇、勅使片岡侍従を差し使わされお見舞を賜わる。三年後に復興され今日を迎える。
 当山の薬師如来は行基菩薩御作と伝えられる。正徳五年、愛宕山に薬師堂を建立する。明治十六年境内に移転安置され現在に至る。又、寺宝「薬師如来十二神将」絹本の軸は県重要文化財の指定を受け秘蔵されている。境内御堂に下半身の病に功徳を有す鳥枢沙摩明王も安置している。当山奥庭「てっ草園」は創建半山禅師の作庭。雄大な岩山を背景とし池の周囲に紅葉を加え絶えず響き渡る滝の音が幽玄で豪壮な雰囲気を醸し出す。池泉廻遊式且つ座観式の室町様式庭園である。初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色など、それぞれに趣き深く、四季の移り変りを味わうことが出来る。

17:00小牧方面に向かう。
18:00小牧市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
11日7:30車で出発、霊場巡り。

密蔵寺:縁起  密蔵院の開山は慈妙上人です。鎌倉時代の嘉暦三年(1328)に建てられ、医王山薬師寺が本当の寺名です。密蔵院と呼ばれるのは後伏見院の御病気の折、慈妙上人が召されて加持祈祷をした結果治ったので、密蔵院の号とそれを書いた勅額を賜ったことからです。(現存)この熊野の地に寺を建てられたのは、奈良時代現在の小牧市大山に今は「大山廃寺」と呼ばれる比叡山延暦寺と同じくらいの天台宗本山が建てられたが、宗派争いによって焼かれた。
 本尊の木造薬師如来立像(国指定重要文化財)は、秘仏です。八百余年前の藤原時代に造られたもので、顔と胴とをつなぐ檜材の寄木造りで、彫りが浅くお顔や姿がやさしく美しい像です。高さは1メートルにも足らない小型のお薬師様です。

福寿寺:縁起 本尊「聖観世音菩薩」
 当寺は、昔、瑞浪市日吉町半原に瑞浪市の古刹開元院の末寺としてあったが、明治五年排仏毀釈で檀徒が神道に改宗し、寺の維持が困難になった。その後、日吉町細久手出身の同志の元で当地多治見市へ移転されたもので、寺の古文書等は無く、寺の歴史は不明です。
 薬師瑠璃光如来は、当寺住職が個人でお祀りし家族の身体健康を祈り続けてきたもので、中部四十九薬師霊場会に参加し、本尊の脇仏としてお祀りしてあります。

広福寺:縁起 当寺は、妻木の領地にして寛永二年(1625)三河の国加茂郡挙母村出身の雲外霞公首座が有志を募り一寺を開基しようと妻木村崇善寺中興開山清厳和尚に請願する。清厳和尚は、その請願を領主源頼利へ訴えて許され小刹を建立し、禄高七石二斗を付与される。寛永十三年(1636)崇禅寺第二世龍和尚が住職し、衆庶が檀徒となったので開山となられる。十七年後妻木権左エ門頼利が没せられたので法号を広徳院殿即心安休大居士として開基とする。
  萬治二年(1659)妻木城減禄の為寺領を還納して無縁となる。
 当寺は始め慈門山広徳寺と言っていたが、山間僻地で信徒参拝に不便のため、辛沢へ移転した。(当山中興物現和尚の時代で元禄年間かと思われる)明治二十四年岐阜県庁の許可を得て同地にあった寿陽山保福院を、慈門山広徳寺に合併し両寺の○印の字を合わせて新しい山号及び寺号を決定し同年八月一日に寿門山広福寺となる。
 明治三十四年一月四日夕、本堂と庫裡(共に旧広徳寺の建物)を全焼した。当地は年々水害を被り且つ頗る偏遇で信徒の参拝・布教に不便を感じていたので、当時薬師堂のあつた現在地(上田)移転を決め、薬師堂を境内仏堂として合併することを出願し大正七年四月二四日岐阜県庁の許可を得て大正九年六月七日移転合併した。

正福寺:縁起 当山は今より約四百四十年前の永緑年間、当地の住人福岡庄蔵なる者、自ら庵主(盛岩常林庵主)となりて庵を結び寺を草創した。慶長十八年(1613)庵主示寂後は一定の庵主なかりしも、寛永十年(1633)恵那郡馬場山田村盛久寺四世白峯林太大和尚を請し開山とした。十代大要禅英和尚法地開山に尽力し、天保三年(1832)盛久寺十二世自回厳道大和尚を請して法地となり爾来現在に至っている。
 本堂建物は四代一雲円秀和尚の代、寛保四年(1744)に、又庫裡は五世霊山梅苗大和尚の代、元治元年(1864)に建立されたものである。
 本尊薬師如来は木瓜厨子裏の頌文に依ると、聖徳太子の御真作とされている。四代裔元鉄苗和尚の発願にて、宝歴六年(1756)に仏工鈴木民部なる者に依頼して、脇仏として、日光菩薩、月光菩薩を彫刻し、木瓜厨子に納めて奉安した。
 当地は明治年間鉄道が敷かれる以前は、中馬街道の宿場として人馬の往来激しく、万病に霊験あらたかな仏様として、参詣者も多かったと聞いているが、現今は過疎の地となり参詣者も少ないが、御薬師様の御利益と霊泉(柿野温泉)の力によってか、高齢者が多い。

仏徳寺:縁起 当寺は明治三十五年火災に遭い全焼し記録等を失ったため、創建の年次など不明である。大正二年現在地に本堂を建立して、現在に至っている。
 当寺の薬師如来は、昔、山中にあつた瑠璃光山林泉寺に祭られていたが、いつの頃か廃寺となり当寺内に薬師堂を建立し、お祭りされました。作者、年代等は不明であるが古いものには間違いない。
 現在十二神将は五体程残っているのみである。昔より近隣の人々は眼病やその他の病にも御利益のある仏様として参拝者が多く、参拝者には、甘酒の接待がされていました。

長久寺:縁起 駄知薬師堂は、昭和十年発行の駄知町略誌に『当町上本町に薬師堂が在る。現在の拝棟礼によると元禄十六年(1703)に建立されており、この薬師如来は元、大峯山頂にあったが火災にかかり今の所に移ったもので 御利益誠にあらたかなため 信仰が非常に篤いものがあったと言う。
 伝説に、この薬師寺火災の時、薬師像の霊光は尾張の熱田の海にまで達し、魚が捕れなくなったため漁夫達はその光を尋ねて、はるばる当地に来て焼け跡より尊像を今のところに移し祀ったと言う。
 後、安永八年に地蔵様・弘法様を合祀し、毎年旧十月十一日を以て例祭とす。露天商来たり両側に連なり遠近よりの参詣者引きも切らず、商売繁盛、縁結びの御加護ありて今に信仰篤きものがある。
 尚、十二月二十二日頃冬至には弘法大師縁日として東濃は勿論各地より善男善女来籠して参詣するもの多く、節分には除厄豆撒きの祈祷に来る者、近来その数夥しきを見る。とあり歴史は古く、御利益あらたかなお薬師様が安置されいます。
 諸行事は今も続き、節分豆まき・お薬師祭り・冬至弘法祭り等の行事にて皆様に親しまれております。

常久寺:縁起 およそ、五百年前(室町時代・文亀元年・1501)京の光月源公禅師、全国を巡錫してこの地に来る。草庵を建て、開山を京は花園の本如実性禅師を勧請して、龍遊山(元禄十五年昌沢山と改む)常久寺と称するをもって草創となす。
 聖観世音菩薩を本尊とし、延命地蔵尊と達磨大師を脇尊(共に市文化財)となして、前立は慈母観世音菩薩をまつる。
 縁あって、秘仏「薬師如来」が隣刹の天台寺末の堂より、明治の始め当山に遷座する。
 大般若経六百巻。釈迦十六善神図、釈迦涅槃像(共に市文化財)等と篤い信仰を仰ぐ。
 何時の頃からか、誰言うとなく「中風(脳卒中)封じ・ぼけ封じ」として“安楽のお薬師様”と呼ばれ、深い信仰を集めるようになった。
 特筆すべきは、病が全快したり、願い事がかなったとき、「おかげさま参り」と言って、家族揃って御礼参りをする寺として名高い。

林昌寺:縁起 当寺は今から凡そ一二五〇年前、聖式天皇の頃、草伯という僧が行基菩薩作の薬師如来を本尊とする七堂伽藍を建立し、医王山瑠璃光寺と名付け、この地は仏法興隆の一大霊地であった。
 しかし、天文の頃諸国に兵乱が起り当山は武田勢の兵火にかかり仏閣・院坊ことごとく焼失した。
 その時、不思議にも当山の薬師如来は霊験あらたかにして、猛火焔々なる中を火の玉となって北の方、薬師ケ滝に非難して日夜光明を放っていた。村人達が相寄りこれは瑠璃光寺の薬師仏にまちがいないと、ますますその信仰を高めていた。
 この時、中西城主遠山氏の母堂、仏法帰依の心篤く恵月庵を建立して、薬師如来を奉移し併せて観音仏、阿弥陀仏の旧像を安置して礼拝供養をしていた。
 寛永二年(1625)山田村盛久寺三世の開基にて一寺を再建し寺号を医王山、林昌寺と改め薬師如来を恵月奄より迎えて本尊となし今日の隆盛に至っている。
 霊験利益、諸病平癒、諸願成就、安産、縁結び、皮膚病霊水あり 林昌寺入口に、爪切地蔵尊がある。長方形の粗末な石に浅い線で彫刻してある。弘法大師一夜の作と伝えられる。瑠璃光寺由来の仏として八月十六日には煙火の祭典を行う。

長国寺:縁起 大宝 二年(702)行基菩薩が自ら観音像を刻み、観音堂を建立して安置された。 これが長国寺の 草創である。永正八年(1511) 大井周辺の神社仏閣は兵火によりことごとく焼失した。長国寺も伽藍全てを失った。 元亀三年(1572) 春、曹洞宗の體巌雲如大和尚を招いて開山とし、長国寺は再復興された。現在地に移されたのは延宝年間(1673〜80)のことである。

宗久寺:縁起 萬松山宗久寺は、元和二年(1616)岩村藩代官、鈴木主馬入道宗久なる者、村人の願いにより新地(年貢を納めなくてもよい土地)に寺を建立して、宗久の名をとり宗久寺と名付け開基となり大井長国寺より、長国二世葉山嫩奕大和尚を迎えて開山とし今日に至る。その間、嘉永六年十月四日大火に遭うて全焼し、時の住職十一世天領秀暁和尚は猛火に入りて共に焼死せらる。
 その再興に、中野長栄寺より金瑞俊猊大和尚を拝請し、檀信徒はもとより村人一丸となつて奮闘精進、安政六年(1859)秋に全伽藍が再建された.その伽藍も永年の風雪により、いたみがひどく昭和六十年本堂・山門の大改修を行い、特に本堂の屋根は古代様式に葺き上げ面日を一新しております。
 当山の薬師如来は、山門から本堂に向って右側の薬師堂にある。石仏で全高一五八センチ、裏には「薬師如来之像也」と銘文があり花崗岩に彫られているお顔は、人間味や面白味があり、ユニークで親しさを覚える石仏の為、石工が銘文を残したと思われる。
 通称「はだか薬師様」と呼ばれ、母乳・出来物等に功徳あるとされ、昔は桑や楮の木と竹で作った錐の連を薬師様の首にかけて祈願したそうである。明治十八年東野の宮之前より移転されました。

高徳寺:縁起 蛙薬師瑠璃光如来(高徳寺第二本尊)
 南朝の忠臣和田政忠は、後醍醐帝の孫伊良親王に供奉し信州より下りここに駐留し、この巨岩に薬師如来を祀り南朝の長久と配下の病気平癒を祈願した。元中四年の昔である。後世かわず薬師と称され治病信仰の仏とあがめられ、木曾義仲の観音堂も併せ祀られた。
 天文年間に普門院として苗木藩主四代遠山友春の帰依を受け弟入道宗云を初代院主とし、諸堂完備し仁王門も営まれ近郷に繁栄を極めた。明治三年九代友清は、大名行列しここへ仏参した入道五十年忌である。普門院は、明治三年苗木藩の排仏毀釈に取り毀され跡形なく鳥有に帰した。その後昭和九年に至り現在の仏像が再建開眼され蛭川村社の杵振り踊りが奉納された。

東円寺:縁起 本尊「出世薬師如来」は弘仁五年(814)伝教大師(最澄)の作と伝えられ、造像様式からみて弘仁仏の代表作と評価され、大正十四年国宝の指定を受けた。(昭和二十八年国重文替)
 この薬師如来が中山道中津川宿の狐堂にあった頃、堂前を乗馬のまま通る者は必ず落馬するので街道に対し、後ろ向きに安置した。
「後ろ向き薬師」の異名はその霊現あらたかさを物語り、江戸の始めより今日まで近郷の人々より尊崇されている。
 貞享元年(1684)春翁和尚が、代官山村公にこの地を請い一字を建立し仏像を移した。
 出世薬師如来は右手をあげ、左手は掌を上に膝にのせ薬壺をもっているが、この壺は後補されたものである。古い薬師如来は薬壺を必ずしも持っていない。日光・月光菩薩の脇侍を伴い、十二神将を加える場合が多いが、この如来は始めから独尊仏として造像されたらしい。造像様式は寄木造彫眼像で顔は満月のようにまるく彫りは浅い方で胸部から下はやや扁平で膝高が低い。

医王寺:縁起 当寺の建立は定かではないが、戦国時代の兵火の厄に遭う事再三、法灯中絶に至ったが、天文十三年(1544)中興開山して現在に至る。
 本尊薬師如来は、聖武天皇の勅命により、行基菩薩一刀三礼の御作と伝えられる。
 子供の夜泣き・疳虫封じ・家内安全等、祈祷を願う人多し。

長岳寺:縁起 当寺は弘仁年間伝教大師により創建され、本尊は定朝作十一面観世音である。また、木槌山観照寺(現廃寺)の本尊薬師如来(おそそ薬師)が祭られ、縁結びの仏として最近は厄除けの瓢箪を授けている。また、子授け薬師、子宝薬師と呼ばれ信仰を集めている。
  武田信玄公が三河からの帰途、駒場の山中で亡くなり、この寺にて火葬にされたと伝えられている。信玄公遺品を蔵す。
 また、天明の飢饉に亡くなられた人々の供養のため千二百八体の地蔵尊が安置されている。

運松寺:縁起 当山は、小笠原長清が伊賀良庄を領有した時、寺院用地として除地し、その後、小笠原貞宗(1294-1350)の時、除地の中央に、禅宗の長熊山運松寺をたて開山した。然るに天正十五年(1581)小笠原信嶺が武州本庄へ移封後、寺は荒廃したが、慶長六年(1601)伝策和尚が来て浄土宗となり、翌、慶長七年、知恩院直末となった。本堂は以前には現在の位置より北で一段高台にあったが、明治二年長熊紳社の祭典の際、打ち上げ花火の流星によって焼失し、明治十五年現在の本堂を再建した。本尊は阿弥陀如来である。
 当山の薬師如来は、和銅七年(714)行基菩薩の御作、御丈尺二の尊容である。小笠原定基は小野の郷にて武田晴信と軍陣を構えた時、風眼になり当薬師に参籠し満願の夜になって如来大悲の御声を賜った定基は直ちに薬師の霊跡十二ケ所巡拝祈願をすると不思議にも眼病は平癒した。定基は歓喜と報謝の念から天文十一年(1542)十二ケ所に御詠歌を奉納して、堂宇を営み代々に伝え信心相続させました。城主信嶺の時、基所替により十二薬師は廃され堂宇は大破に至った。寛文二年(1662)当山の住職は別に薬師の尊像を作り行基菩藤の御作を御腹籠として 往昔の如く堂宇を建立しました。なお、兵火に遭っても尊体より光明を現し兵火を消滅してしまう神秘の霊験のあらたかな薬師如来である。

雲彩寺:縁起 薬師堂所在地 上郷町別府・臨松庵 堂宇の建立は万治三年(1660)と言い伝えられる.
 本尊薬師瑠瑞光如来は行基の作と伝えられ、お身丈四十一センチの座像で八・三センチの胎内仏を内蔵する仏像である。脇侍日光・月光両菩薩は共に三十五センチの立像にて貞亨三年(1686)の作、十二神将は極彩色の見事な像で当地井出一門の仏師佑正の作で天明四年(1784)の作である.
 創立時は現在地より川下約1キロの薬師垣外にあったが年々雨季の氾濫により、しばしば堂宇危険に遭う為、現在地庚申原に明治七年移して祭祀した。
 往時二年つづきの不作に悩まされた農民達が薬師如来に祈願し五穀成就したと伝えられ、祈念すれば必ず成就すると村人達崇敬する所である。 
 諸病平癒(特に眼・耳病)の霊験あらたかな薬師如来で近隣十二薬師霊場の十一番札所でもある。

真浄寺:縁起 当山で祀られている薬師如来医現閤は寺より南方、下の平の医泉寺跡にあって医泉寺薬師と呼ばれております。
 久寿元年比叡山の栄運僧都が行基菩薩の謹作といわれる薬師如来を奉持して当地に巡錫し古くより霊泉湧出せるこの地に薬師堂を建立して祭祀し天台宗医泉寺が創立されました。
 約四百年後の天文二年、荒廃した医泉寺薬師堂を再興した。真浄寺二世天裕和尚は、真浄寺の末寺として管理しました。
  寛永十七年火災により堂宇全てを焼失しましたが、日光菩薩・月光菩薩・十二神将は難を免れて現在村の重要文化財になっております。慶安二年堂宇を再建、薬師如来も新たに迎えられて医泉寺薬師とし
て再興法地開閉されましたが維持困難の為、真浄寺が管理することになり今日に至っております。医現閤の前より湧出せる霊泉による小川の湯は薬師霊泉の湯として万病に効験ありと親しまれ、如来の大悲心は病める人の応病与薬・抜苦与楽の利益があります。

浄瑠璃寺:縁起 縁起書に「観誉僧都、大島川に沿って上ること十八丁、仁王山、間の洞の樹間に出現した薬師如来を感見して感激し、その地に本堂その他の堂塔伽藍を建立し、また鎮守として比叡山から日吉山王権現を勧請し、山号を大嶋山、院号を医王院、寺号を瑠璃寺と名づけた」と誌されてある。
 天永三年(1112)比叡山竹林院観誉僧都が、堂所へ瑠璃寺を創建し、七十二年後、比叡山北渓宝乗上人が来往し恵性坊(現在地)へ移転、更に二年後、恵性坊ヘ七堂伽藍五重塔を建立し堂所を奥の院と呼ぶ。建久三年(1192)源頼朝の祈願所となり寺領を得た。
  永録七年(1564)武田信玄の祈祷所依頼を兼住の比叡山東塔正覚院豪盛僧正が断わるも信玄は条目をよせた(現存)天正十年(1582)織田氏の伊那侵攻で全山焼失のため、住職は本尊を奥の院へ移し隠棲した。その後、堂所へ再建され十七年後、再度恵性坊へ移転された。寛文十二年(1672)本堂(現在のもの)を再建し、秘仏薬師如来の初開帳を奉修した後、随時、鐘楼・石仁王・客殿・庫裡・表門・弁天堂・六地蔵石像等の再建が行われた。
 本尊薬師如来並びに脇仏は藤原時代の作です。昭和九年国宝、同二十四年国重要文化財に指定された。同四十年には、慈選大僧正昇補、各界の要望により、公開仏とし開帳奉修をした。

光明寺:縁起 寛文十三年(1673) 山吹領主・三代 座光寺為実が隠居後、吉田村にあった日蓮宗立法寺を現在地に移転して開基、僧日理が開山した。元禄十二年(1699)本寺の谷中感応寺が天台宗に転宗したので、僧慶演が天台宗に改めた。寺名も光明寺と改称する。
 一方 「高森町誌」には開基、座光寺丹後守家第三代為実公、深く仏法を信じ家を為治公に譲りて隠居、寛文十三年(1673)現在の新田の北に庵室を建て白衣観音を安置し、吉田より立法寺を移して寺名とす、と記されている。
 現在、この白衣観音は桂堂に納められ今なお信仰が篤い。境内には伊那谷では類を見ない推定600年の名木「黒松」がある。 番外の薬師瑠璃光如来は座像で三寸と小さいながらも黄金に輝いている。説には江戸時代の作という。

寶心寺:縁起 当山は高野山真言宗に属し、排仏毀釈の影響を受けた当地に開山光城和尚が当地住民の要請により、昭和二十六年高野山より止錫し再興され中興開山、以来藤戸山寶心寺と号す。
 当山の薬師如来は、霊石(さすり仏)で近年付知川右岸堤防にて不思議な霊気現象により、お陰を戴いた地域住民が発掘し当山に安置したもので以来「瑠璃光さすり仏」として、石をさすり至心に祈願すれば不思議な効験が戴けると言うことで毎日多数の信者が参拝に訪れる。又、御堂の薬師如来尊像は播磨西国八番札所で「涙観音」で知られる稲富山円融寺より勧請安置されたもので、古くより信仰されているお薬師様である。
 又、当山には、岐阜県重要文化財に指定されている明兆(南北朝時代)の画いた十六羅漢(十六幅)をはじめ、大般若経を木の皮にサンスクリット語で記した「貝葉」等を蔵している。
 例年五月十三日には、霊石出現記念法要として「ほうろく灸祈祷」が奉修され多数の参拝者が訪れる。又、一月八日は付知恵比寿大祭十月二十日は本尊弘法大師の御影供法要が盛大に巌修される。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、長野県・岐阜県・愛知県に点在する中部四十九霊場2か所を訪れ楽しみ癒されました。
西日本の霊場立派な寺院が多いですね。満足です。


   
































飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十二弾:中国無錫観光
2018年11月3−4日
  

アジアの大国、中国に足を運び、上海から高速鉄道で45分の位置にあり、中国南部に位置し、上海から130km離れた街、かつて錫鉱石の採掘量が多い土地でしたが、漢代初期のころまでに採掘し尽くしてしまい、そこから「錫の無い街」と呼ばれるようになりました。三国志に登場する呉の発祥の地であり、3,000年の歴史を持つ「江南の名城」と中国では呼ばれていますが改革開放以降、日本企業の進出も目覚ましい、太湖を中心とした風光明媚な観光地から霊山大仏や水滸城、三国城など中国ならではのスケールを持つテーマパークまで、あらゆる観光客が楽しめる無錫を訪れました。

3日10:10関西空港日本航空で出発
12:05上海浦東空港到達。リモーターカー、メトロで上海駅下車。
15:00上海駅高速鉄道で出発。
15:42無錫駅到達。メトロで南禅寺下車、清名橋古運河景区散策。

南禅寺:無錫でお土産探しをするならここ。古刹「南禅寺」を中心に広がる繁華街で、伝統工芸品店から無錫の中高生に人気のアニメショップ、ファッション雑貨店などがずらり。地下にもお土産屋さんが並んでいます。

清名橋古運河景区:昔ながらの街(老街)がある。別名は清名橋古運河景区。運河の周囲には昔ながらの建物が広がっている観光スポットだ。この運河から一歩、道を入ると、飲食店を中心に商業街が展開されている。清名橋古運河景区は、2014年6月に世界文化遺産に認定された京杭大運河(黄河、長江など、全長1,797km)の一部。
この清名橋古運河景区は全長5.5km。2010年6月、中国歴史文化名街に認定され、観光スポットして多くの人が訪れている。清名橋古運河景区の歴史は古く、10世紀ごろにできたようだ。派手な商業街のようなところではなく、独特の雰囲気ただよう観光地だ。

18:20市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
4日7:30タクシーで蠡園に向かう。
8:00蠡園観光、その後歩いて?頭渚公園に向かう。

太湖:江蘇省と浙江省にまたがる湖・太湖は、琵琶湖の3倍の面積を有する巨大湖。蘇州側の湖畔よりも観光地が集中しているのが無錫側太湖の特徴で、テーマパークや史跡も湖沿いにあります。もっともよく知られている観光地点は「?頭渚」。遊覧船や山の上から広大な風景を眺めることができます。無錫きっての桜の名所でもある。

?頭渚公園:無錫のシンボルでもある二つの山、錫山と恵山に挟まれた公園です。緑豊かで、地元のお年寄りたちとのんびりなごめる(現地の60代以上は入場無料だそう)だけでなく、史跡めぐり、登山、古鎮散策、お寺めぐり、庭園めぐりも楽しめるんです。明代に建てられたお寺や古民家、庭園、宋代に架けられた橋など、数100年から1000年の歴史を持つ見どころがいっぱい。

9:30タクシーで恵山古鎮に向かう。

恵山古鎮:まるで昔の中国にタイムスリップしたような、古い建物が建ち並ぶ観光スポットです。格安でグルメを楽しめる屋台がずらりと並んでいたり、お土産屋さん、旧家が連なっています。食べ歩きを楽しんだり、お買い物をしたり、ぶらりと散策するのに適している場所です。
徒歩とメトロで無錫駅に向かう。
12:00無錫駅到達。
12:57無錫駅高速鉄道で出発。
13:40上海駅到達。メトロ、リニアモーターカーで上海浦東空港に向かう。
15:30上海浦東空港到達。
17:45上海浦東空港日本航空で出発。
21:00関西空港到達。
今回の旅行、アジアの大陸、中国に足を運び、上海から高速鉄道で45分に位置する無錫を訪れ、水郷の町を散策して観光いたしました。
毎回中国旅行、アクシデントが付き物でしたが今回は問題なく観光できました。
強いてあげると?頭渚公園を散策中、市民マラソンに出くわし、さすが中国2万人のランナーでした。大勢のランナーのため橋を通過するのに30分待たされました。

一方ラッキーなことがありました。帰りの飛行機、特典航空券を利用していましたがビジネス席に空きがあったため無料でアップグレードしていただきました。ビジネス席、快適で立派なフランス料理も出てきました。
ビジネス席を利用しますとエコノミー席利用できなくなりますね。
海外旅行の飛行機の旅はアウトドアスポーツと考えています。
体力のある限りエコノミー席で頑張ります。


飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十九弾:北海道八十八ヶ所三十三観音&お城観光
2018年10月13−14日
 

北の北海道に足を運び、富良野、帯広、網走、旭川のエリアに点在する北海道八十八ヶ所、三十三観音、お城8か所を訪れました。

13日15:30伊丹空港出発
16:40羽田空港到達
17:55羽田空港出発
19:35旭川空港到達、レンタカーで旭川市内のホテルに向かう。
20:50旭川市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
14日5:15レンタカーで出発富良野方面に向かう。

春宮寺:明治38年6月、炭屋実雄が京都から来道し、当現在地に説教所を開設したが、何か理由があったのか、2年後には後任者を決めて、説教所を去ることになる。
 炭屋実雄が後任者の谷澤正道に宛てた手紙が何通が残っており、北海道行きをためらう谷澤正道を説得する苦心の跡がうかがわれる文面である。説教所は神楽岡の高台の続きにあり、離宮造営地として設定されただけあり、上川盆地と大雪山を一望に収める風光明媚の地だった。
 明治44年、辛苦の中で「春宮寺」寺号公称の許可を得た。
春宮寺のいわれは、この辺一帯が御料地であったので、皇族の安泰を祈る気持ちから、皇太子を意味する春宮とした。
 本堂は大正6年の建立。寺近くのアオダモの原生林を払い下げてもらい、用材とした。建築には金釘は1本も使わず、大木を上手に用い、木組みで造られている。

弘照寺: 明治34年頃、開拓で入植した大師信者が当時の上富良野村東中に大師堂を建立し、大師講を組織したのが当寺の前身であり、その後、明治38年富山県出身の岩田實乘が晋住し、真言宗説教所としたのが弘照寺の開創である。その後、寄進のあった現在地に堂宇を建立し、大正8年に移転をした。昭和6年寺号公称が許され、また、岩田實乘が目白僧園にて修行の折、師事をした釋雲照和上から山号を賜り、「慈雲山弘照寺」と称して現在に至る。

富良野寺:富良野寺の開基は前住職宮田戒応師の祖父宮田俊人で佐賀蓮池藩の下級武士宮田儀満の子である。
 俊人がどんな理由で渡道を決意したかは不明だが、古丹別の説教所に空きのあることを高野山普賢院住職から知らされ、そのすすめもあってのことと想像されている。天塩国古丹別は日本海も稚内近くの海岸線から、数キロ山すそに入った小村だった。俊人が「北海道天塩国古丹別説教所担当依(ママ)嘱候事」なる辞令をたずさえ来道したのは明治三十九年、四十歳の夏である。しかし当時の古丹別が辺境の地でありすぎたことや、この土地の将来性などを考え早々に見切りをつけ、開教の適地を上川地方にもとめた。
 上川地方の中心地旭川は軍都景気に沸き立ち人口が急増し、それが近郊にまでおよび各宗の説教所が布教を開始、教線がみごとに拡張されているのをみた。そこで俊人は情報を得るため現金峰寺の前身、真言宗布教所に秋山亮範を訪ね、富良野地方の開教の可能性を知らされた。
 富良野駅に降り立つや俊人は托鉢をしながら市街を一巡すると、一夜の宿のお接待を受ける。
 一介の托鉢の僧に温かくその日の宿をお接待したのは、倉前惣太だった。倉前惣太はしばらく俊人を自宅において面倒をみ、八月盆になると徳島や淡路出身の真言宗徒の家を教えて棚経に歩かせ、それが縁となって開創の気運が高まるのである。
 俊人はここに布教所開創の決意をかため、秋に北海道をいったん離れ翌四十年五月家族と共に再渡道、ただちに仮り住まいの借家で布教活動を開始した。そのとき高野山から下付された弘法大師像は現在脇士として祭られている。大師像の台座の裏には「元文五庚申」(一七四〇)の記録がある。

帯広方面に向かう。

エクエピラチャシ:ユクエピラチャシは道内でも最大級のチャシ跡です。「ユク・エ・ピラ」とはアイヌ語で「シカ・食べる・崖」という意味です。陸別に伝わる英傑でリクンベツ(陸別)の首長、カネランにちなんで「カネランチャシ」とも呼ばれていますが、詳細はわかっていません。また、火山灰で覆われているため、まるで夏でも雪が残っているような白いチャシとしても知られています。

網走方面に向かう。

桂ケ岡チャシ:北海道網走市郊外のニクル丘陵にある北海道の先住民アイヌの築いた砦跡。「桂ヶ岡砦跡」が正式名称。国指定史跡。北海道内にはアイヌ民族が築いたチャシと呼ばれる砦の跡が700以上確認されているが、ニクル丘陵に残る桂ヶ岡チャシは大小2つのチャシからなる北筒式土器などを出土する集落跡をともなった大規模な砦跡で、大小2つの長円形、鏡餅状の郭跡や竪穴住居跡、貝塚などが残っている。アイヌ民族はかつて、この丘の上のチャシでチャランケ(談判)をしたことから「チャランケチャシ」などともよばれる。桜の名所として知られる桂ヶ岡公園内にある。同公園内には網走市立郷土博物館もある。

弘道寺:明治二十七年説教所として開設。以来六代の住職により大師の法燈が受け継がれてきております。
境内地の四脚門をくぐると右手に鐘楼堂・オホーツク曼茶羅(新四国八十八ヶ所)つつじ・石楠花の花園を巡り坂を上りきると修業大師がお迎えを致します。

旭川に向かう。

大照寺:明治28年讃岐(香川県)・伊予(愛媛県)の2団体が開拓に入植すると共に、郷里の雲風山国祐寺(現香川県三豊市)本尊のご分霊である聖観音を祀る小庵を結び、覚動和尚が錫を留め開創。以来、大師信仰を育む寺として信仰を集め、また、不動明王、弘法大師、十一面観音像は、何れも高野山より勧請した霊尊であります。 
昭和62年には現本堂の建立、平成元年には、北海道三十六不動尊霊場第4番札所として、その法灯を輝かせ、1月17日の初本尊大護摩供には老若男女が所願成就を祈念し、多数の檀信徒の参詣があり、厄除招福宝剣加持により、その法縁に浴しています。 当山はオンコ(一位)の寺としても知られ、希望者には種を分けています。

大聖寺:

15:10旭川空港到達
16:20 旭川空港出発
18:10羽田空港到達
19:20羽田空港出発
20:35伊丹空港到達

今回の旅行、北の北海道に足を運び、富良野、帯広、網走、旭川に点在する、霊場、お城8か所を訪れ楽しみました。

走行距離600kmでドライブ観光、自然の中、渋滞なく、真っ直ぐな広い道、広大な敷地、平野の走行、ストレスなく、何回来ても最高の北海道のドライブ観光、満喫しました。  








飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十四弾:北海道八十八ヶ所霊場&三十三観音&お城城下町巡り観光
2018年9月1−2日 
 


日本の北端、北海道道東地方に足を運び、道東地方に点在する北海道八十八ヶ所霊場、三十三観音、お城7か所を訪れました。

1日15:30伊丹空港出発。
16:40羽田空港到達。
17:45羽田空港出発。
19:20釧路空港到達、レンタカーで釧路市内に向かう。
18:00釧路市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
2日5:00レンタカーで出発、霊場、OK城めぐり。

チャシ:アイヌ語で「柵囲い」を意味し、砦、祭祀の場、見張り場など多目的な用途で使われていたとされます。
北海道内でチャシ跡は500ヶ所ほど確認されており、根室市内には32ヶ所のチャシ跡が残り、うち24ヶ所は「根室半島チャシ跡群」として国指定史跡に指定されています。また、平成19年には日本城郭協会が定める日本100名城のひとつ(お城番号1番)として選定されました。
根室市内のチャシ跡が築かれた正確な年代は不明ですが16〜18世紀頃とされています。
根室市内のチャシ跡は、海を臨む崖上に、半円形や方形の濠を巡らせた「面崖式」(めんがいしき)のチャシ跡が多く、濠を組み合わせた大規模なものが多いことで知られています。
現在、見学先として整備されているのはノツカマフ1号・2号チャシ跡とヲンネモトチャシ跡の2ヶ所です

高野寺:厚岸町の町名の由来はアイヌ語の「アッケケシ」(牡蠣の多いところ)からきているとおり牡蠣が名産の町です。 高野寺の本堂内から見える厚岸湾は絶景であり、お盆過ぎから見え始める夜のサンマ船の漁火は幻想的なほどです。 
開基者は不明ですが様々な行者がこの寺を訪ね修法をなされました。 
本尊は不動明王。そして北海道八十八ヶ所第39番札所として薬師如来をお祀りしています。 
是非とも御参拝者の方々には、境内から「空と海」を眺めながらお大師様と共に自分自身をふり返りながら心の会話を楽しんでいただきたいのであります。

チャルコロミオチャシ:チャシは、1号・2号の二つのチャシから成るとされていますが、両者は一体だった可能性もあります。両者を合わせると長さ220メートルにも及び、既存のチャシの中では最大規模を誇ります。加えて、和人の城郭風にいえば多数の曲輪を海岸沿いに並べ、三重の壕を掘り巡らせた複雑な縄張りをしています。今回色々なチャシを見て回りましたが、その多くは単郭式でせいぜい2つ程度の曲輪しか有していないことと比較して、相当に特徴的です。

清隆寺:明治初め頃より、祖先以来真言宗に帰依するもの当地に移住し、同24年市内に1棟新築寺院創立の準備中、本山等に僧侶の來根を図るに、同25年9月、新義真言宗北海道開教巡教師、細川 憲明(卓静)師来根、請われて住職に就任、創立に着す。
師は、明治に入り、藩学の教育より、福井にて出家、多年に亘り諸師に事教二相を学び時に、師恩に報いんとして、北海道開拓地にての開教を発願、本山よりの認可を得て、兄弟子、久志卓動師(旭川市 真久寺開基)ともども陸路旭川に到り、後、分かれて、陸路石北等を踏破言語を絶する困苦のすえ、30日を費やし根室に到着したものなり、その後、教化布教に努め、次第に壇信徒増え、機熟し、本堂建立、明治27年1月時の新義真言宗管長 高志大了大僧正開教の為に開眼し給う、
本尊 不動明王の御尊像(附両童子)、弘法、興教両大師の御尊像、創立補助金300円を添えて寺号公称の準備を促す、
明治30年3月25日「新義真言宗 護国山 清隆寺」として、寺号公称を許可される。

根室半島チャシ跡群(オンネモトチャシ):離島を除くとは本土の最東端(もちろん、北海道の最東端)でもある納沙布岬(のさっぷみさき)からほど近いところ(約2km)にオンネモトチャシ跡があります。
根室半島チャシ跡群の中で代表的であり、尚且つ観光しやすいのが、オンネモトチャシになります。
冬はもちろん雪深いところで、足がはまったりするので、雪がない季節の訪問がお勧めです。
とは言え夏は、草が茂っていてよく分かりませんので、見学に良い季節は5月とか9月辺りなのではと存じます。
立派な建造物など何一つ何も無いですが、日本百名城のひとつです。

善照寺:大正の初めこの地に入植した奥萬蔵(後に得度し沙弥観廣)が、弘法大師尊像を祀り、大師堂を営んだのが当寺の始まりです。当地は、四国出身の入植者も多く、この大師堂は開拓の人々の心の支えとなっていました。その後、開教の志を持って岡山県より来道した矢吹善照が赴任。昭和14年、多くの篤信者に寄進を頂き本堂を新築、川北説教所として地域の信仰の中核となしましたが昭和19年、心臓発作で遷化。後を継いだ矢吹弘照が、昭和21年「観廣山 善照寺」と寺号公称し、檀信徒強化、環境整備に務め、現在の形を作り上げました。 
今の本堂は、平成元年に新築したものです。銅板葺き入母屋造りの重厚な姿は木々に囲まれ、大変美しく、特に秋の紅葉はみごとです。

波切不動寺:当山は北海道八十八ヶ所中最も東に位置し、弘法大師のお膝元である高野山と同じく、世界遺産である知床の羅臼町にあります。市街地より少し離れたひかりごけ生息地、マッカウス洞窟付近の小高い山の上にあり、霊場本尊である波切不動明王は、本堂へ上がる階段手前右側のお堂に祀られています。羅臼町の基幹産業は漁業で、当山の目前には国後島を挟む根室海峡を航行する船舶が見られます。海上安全などの諸祈願所として約50年前に開かれて以来、町内外の漁業者を中心に信仰されてきました。 
なお、境内の滝にある不動明王は永く知床の海を見守ってきた事を物語っています。 
地域がら落石や野生動物に遭遇する事がありますので十分注意してください。

泉福寺:泉福寺は、道東中標津町市街から15km程離れた計根別にあります。根釧原野が広がる酪農地帯で、武佐岳や標津岳を眺望できる自然豊かなところです。昭和11年、鎌倉の浄光明寺徒弟竹村文榮師が、泉涌寺派開教師を拝受致し、北海道に開教を志し来道。真言宗泉涌寺派布教所を設立。本山は京都・皇室の菩提所御寺泉涌寺。 
泉福寺年中行事の節分では、星供養護摩祈願会を厳修し、御守札や福豆の授与、豆まき、齋食(さいしょく)接待等もあり、多くの参拝者で賑わっています。また、大聖牛王尊像を鐘楼堂石室に安置し、牛の供養と乳牛安全・酪農振興を日々祈念しています。春には、正御影供法要と併せて大聖牛王尊大祭、四国八十八ヶ所霊場お砂踏みを行っています。

14:00終了。釧路空港に向かう。
14:30釧路空港到達。
15:10釧路空港出発。
16:55羽田空港到達。
19:25羽田空港出発。
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、日本の北端、北海道道東に足を運び、道東に点在する霊場、比較的マイナーなお城7か所を訪れ楽しみました。

道は広く真っ直ぐ、車、信号少なく、渋滞もなくストレスのないドライブ観光、何回来ても北海道のドライブは最高、満喫しました。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十九弾:広島県中国三十三観音巡り観光
2018年4月7日−8日


中国地方に点在する山陽路から山陰路へとつづく中国三十三観音巡礼の7か所を訪れました。

7日19:08新大阪新幹線さくらで出発
20:14福山到達。駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
8日:8:00レンタカーで出発、霊場巡り。

明王院:平安時代の大同2年(807年)弘法大師が開かれたと伝えています。その頃は福山市の前身である草戸千軒の港町が門前町として栄えていました。本尊十一面観世音菩薩は、伝教大師一刀三礼の霊像で平安初期一木彫の秀作と言われ重要文化財であります。
  鎌倉時代、元応3年、住持頼秀の時、紀貞経の寄進により、国宝の現本堂(観音堂)が再建されました。南北朝時代、貞和4年住持頼秀の時、広く庶民の浄財により五重塔が建立されました。一文勧進の塔と呼ばれ国宝になっています。全国の中5番目の古塔です。
  江戸時代、初代藩主水野勝成は福山城を築き、裏鬼門鎮守のため、当寺を御祈願所と定め、末寺48を統べる大寺とし、五重塔、本堂、大門などの大修理を施すとともに、護摩堂、庫裡、書院、弁天堂、愛宕神社、十王堂等を建立しました。
  昭和時代、昭和34年から昭和大修理が始まり、五重塔本堂の解体修理を始め7棟の文化財修理を終え、防災設備も完了しました。
  京都嵯峨大覚寺を本山とする真言宗寺院です。

浄土寺:尾道三山の一つ瑠璃山を背にした備後の名刹・浄土寺は聖徳太子によって創建(推古天皇の24年)された真言宗泉涌寺(京都、皇室の御菩提所)派大本山です。

 本尊は聖徳太子御作とされる秘仏・十一面観世音菩薩で、古くから『身代わり観音』として信仰されています。
  鎌倉時代末、奈良・西大寺の定証上人が七堂伽藍の堂塔を再興しましたが、20年後に全焼し、当地の富豪・道蓮、道性夫妻により再建されました。

 瀬戸内有数の良港・尾道は、古くから交通・経済などの要地であり、浦人たちの信仰が集まっていた当山は、公武両方から重要な拠点として外護されました。建武の中興の際は、後醍醐天皇から因島地頭職寄進の綸旨を賜り、一方足利尊氏公も参篭し祈祷をしました。以後、足利家の家紋・二つ引き両を寺の定紋としています。室町時代には蓮如上人も参篭され、江戸時代以降は港町尾道の繁栄と共に寺門興隆し現在に至っています。

 殊に日本三名塔の一つで、国宝の多宝塔をはじめとする文化財の宝庫としても知られ、1400有余年の法燈を継承しています。

西國寺:西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山である。
 治暦2年の罹災後、平安朝白河天皇の勅命によりまた正和元年花園天皇より綸旨を受け、法燈は高く輝き、伽藍の規模は正に西国一という意味を込め、西國寺と名付けられ、天仁元年には、勅願寺となる。
 治暦炎上により本尊行基作薬師如来は焼滅したが、永保元年、讃岐善通寺の七仏薬師のご一体が紫雲に乗って来飛、金堂に安座され賜うと伝えられる。現在の本尊・薬師瑠璃光如来である。
 境内の平地面積は、15700平方メートルに及ぶ。
 観光尾道のシンボルとされる長さ約2メートルの大草履の仁王門をくぐり、108段の石段を登れば、緑の中に朱塗の金堂・三重塔・大師堂・不動堂・持仏堂等が並び、さらには幕末の哀歌を語る大方丈と華麗な密教伽藍を配し、眼下に横たわる尾道水道と共に、絢爛たる一大絵巻が四季折々に展開される。
 弘法大師の霊跡として、加持祈祷の道場として年中多くの善男善女を迎えている。

千光寺:大宝山権現院千光寺は大同元年(806年)の開基で中興は源氏の名将多田満仲公と伝えられています。
 大宝山(通称・千光寺山)の中腹、海抜約100mに位置しており、眼下に尾道水道や向島、因島などの瀬戸内海の島々、遠景に四国の連山が眺められる素晴らしい景観です。

 珍しい舞台造りの本堂(貞享3年・1686年)は別名「赤堂」とも呼び親しまれ、林芙美子も放浪記の中で「赤い千光寺の塔が見える」と書いています。
 本尊・千手観世音菩薩は聖徳太子の御作と伝えられ、33年に一度開帳する秘仏。昔から「火伏せの観音」と称せられ、火難除けに霊験あらたかです。今は所願成就の観音様としてお詣りが絶えません。

 尾道は夏は涼しく、冬は暖かい気候で昔から災害も少なく過ごしやすい土地柄です。その上、海の幸に恵まれ人情味豊かな町です。
 尾道は往古より港町として栄え、風光明媚なことから多くの文人墨客が訪れています。中でも頼山陽は「6年重ねて来たる千光寺」と漢詩にも詠んでいます。

向上寺:本四架橋の一つ、尾道・今治ルートの風光明媚な瀬戸内海に浮かぶ小島、生口島。尾道寄りに因島、愛媛県よりの大三島にはさまれた芸予諸島の一つ。この辺りは平安時代より海路の重要な所として数多くの神社仏閣が造営されており、早くより拓けていました。
 向上寺は応永7年(1400年)、地頭・生口守平公が瀬戸田潮音山の観音の霊場に一寺を建立し、臨済宗佛通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和尚(1323〜1409年)を迎えて開く。

 聖観世音菩薩(秘仏)を本尊とし、古来、災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺として崇敬されてきました。
 この向上寺一帯は潮音山公園となり、緑に映えて国宝の朱塗りの三重塔がひときわ異彩を放つ。特に海からの眺めは、紺碧の空と海、松の翠に塔の朱が幅の絵を創ります。
 境内周辺には巨岩が並び、多彩な顔ぶれの先人たちの句が刻まれており「文学のこみち」となっており、 県の重要文化財でもある鐘楼の音色は、除夜の鐘として全国に放送されました。

仏通寺:水墨画によくある中国の風景に似た岩山肌の山間道を、曲りくねった渓流に沿って山中に入ること、山陽道より約8キロ、うっそうと樹木の繁る佛通寺の門前に至る。巨大な千年杉の林立、あたり一帯厳しい禅刹の気魄が漂う。
 御開山大通禅師お手植と伝えられる、羅漢槙の大樹の傍の巨蟒橋(きょもうきょう)を渡ると佛通寺山門。巨蟒橋はその名の通り、聖地の結界に巨大なうわばみが横たわり、仏法を守護せんとしているもの。この橋を渡ることで、偏(ひとえ)に身も心も清浄無垢になり、仏殿に修行を誓う解脱の門に等しい橋となる。
 山門を入ると、仏殿が厳然と鎮まる。碧巌古松(へきがんこしょう)の参禅道場として600年の法灯の歴史を刻む、臨済宗の大本山である。
 千年杉が亭々と林立する石径を上ると多宝塔と石仏の群、開山禅師の塔所・含暉院(たっしょ・がんきいん)は開創当時のただずまいを今に伝える。堂中には佛通禅師と大通禅師、両開山禅師の尊像が尚居ますが、如くに端坐して佛通寺の今日をじっと見守って居られる。

三瀧寺:7つの川を有する広島デルタの北西、三滝山(宗箇山)の中腹に位置する三瀧寺は、原爆によって廃墟と化し、艱難辛苦の後、近代的な都市へと再生した広島には数少ない、趣深き寺である。

 境内入口の上に立つ多宝塔は、元は和歌山県の広八幡神社にあったが、原爆死没者の慰霊のためにこの三瀧寺に移築され、毎年8月6日と秋の多宝塔 本尊・阿弥陀如来御開帳法要の折には、慰霊法要が厳修され、幾十万もの犠牲者の菩提が念じられている。

 街から程遠からぬ場所でありながら、境内は深山幽谷の風情があり、瀬音を耳にしながら苔むした参道を歩むと、日常空間から離れ、仏様の世界に身を置いたようであり、広島市民によっては安らぎの聖地、心の故郷となっている。

 曾ては多くの修行僧が滝にうたれ、岩窟で禅定に入り、幾つもの堂塔を構えていたようであり、今は緑陰の下、静けさが漂い、忘れられた何かを思い起こさせる地となっている。

18:00終了。
19:01広島駅新幹線みずほで出発、
20:24新大阪駅到達。

今回の旅行、広島県に点在する中国三十三観音の7か所をおとずれ楽しみました。
ほとんどの霊場が立派な寺院で感動いたしました。
すべての中国三十三観音巡り終了致しました。


   













飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十六弾:小京都重要伝統的建造物群保存地区&九州四十九院薬師霊場観光
2018年3月10日−11日
 

九州の北西に位置する長崎県に足を運び、長崎県に点在する九州四十九院薬師霊場4か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所を訪れました。

3月10日17:30伊丹空港出発。
18:50長崎空港到達、レンタカーで大村市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
11日7:00レンタカーで出発、霊場、歴史的建造物巡り。

大村:県内随一の花の名所として知られ、『日本の歴史公園百選』の地に選定されている大村公園は、大村藩主の居城であった玖島城跡にあります。城の石垣は当時のまま残っており、その他も多くの史跡を残しています。春は桜に始まり、ツツジ・花菖蒲と約3カ月間花の季節が続きます。大村公園の桜は『日本さくら名所百選』の地に選定を受けており、花弁が60〜200枚にもなる国指定天然記念物「オオムラザクラ」をはじめ約2,000本の桜が、期間中、公園一帯をピンク色に染めます。また桜・花菖蒲と城跡との共演は風情があり、絶景です。
東には広範囲に武家屋敷群跡が見られます。

平仙寺:当寺の現在地での開山は天正16年(西暦1588年)といわれています。開山は堯珍法師で、堯珍は、もと島原温泉山七百坊惣座主でありました。

天正年中に島原領多以良村其外近隣の耶蘇教徒(キリシタン教徒)が温泉山(雲仙)の堂社仏閣を残らず焼失してしまいました。堯珍は二矢を負って島原領湯江に逃れ、さらに賊徒の来襲を恐れて遂に諫早(当時は伊佐早という)に着き、船越村本坊に住しましたが数年を経て、鼻祖竜造寺家晴公、二代直孝両代の庇護を迎ぎ、平山山平等院平仙寺に安住しました。

のち諫早家代々の安泰と領内安寧の祈祷寺として応分の寺領を与えられ、それより、代々法印住職となり、この間諫早家並びに藩からの寄進とともに諫早藩家老職の早田家からも、薬師寺建立や、この護持のための田畑の寄附などが多く寄せられ繁栄しました。一方、寺伝には比叡山延暦寺の直末にして、末寺には慈眼院と触内四坊(福緊坊、蓮乗坊、長円坊、願成坊)とともに愛宕社、八幡社、祇園社など多くの神社を支配下に置き、諫早藩の祈祷寺として隆盛しましたが、明治維新の神仏分離布告により諫早家の庇護も絶え、末寺の一寺四坊はみな廃絶となり、寺領はことごとく上地されました。さらに祝融の災に見舞われて、旧観に徴することが出来ず茅葺の仮堂でもありました。

さらに追い討ちをかけるように昭和20年の農地解放令によって、すべての田畑も失い、栄枯盛衰を余儀なくしました。時を経て昭和42年第26代亮締師により、旧諫早家の建物を買取り本堂とくりに改築されましたが、古家であったことから、現在職代の昭和59年庫裏等を新築、さらに土地区画整理事業を契機に、位牌堂を備えた会館および山門を新築し現在に至ります。

開山堯珍法師により当代までが27代であります。

長崎東山手:東山手の居留地は、大浦の商館と海を見下ろす高台に位置し、ポルトガル、 アメリカ各国領事館や礼拝堂が建ち、 当時は領事館の丘とも呼ばれていました。 主要なものとしては、国指定重要文化財の東山手十二番館、旧長崎英国領事館などがあります。 この他、オランダ坂の石畳の道と石垣や、石溝、石標類など 、居留地時代を偲ばせる土木工作物、大きな樹木などが数多く残っており、長崎市東山手の町並みは、居留地の地割を示す歴史的風致とともに、洋風住宅群をよく残しており、価値が高いといえます。

長崎南山手:長崎市南山手地区は、 東山手と同じ居留地であり、主として住宅地に使われていた区域です。長崎湾を見下ろす眺望の良い丘の上に位置しています。
幕末から明治にかけての洋風住宅として、 旧グラバー住宅をはじめ、旧リンガー(弟)住宅、旧オルト住宅が現存しており、 松が枝町では、旧香港上海銀行長崎支店や旧長崎税関下り松派出所などが港に面して建ち、いずれも国宝や重要文化財に指定されています。
地区の中心から南側は、現在でも静かな住宅地で、 明治時代初期から中期にかけての洋風住宅建築が比較的良好に残っており、長崎市南山手の町並みは、 居留地の地割を示す歴史的風致とともに、初期の洋風住宅群などをよく残しており、価値が高いといえます。

雲仙神代小路:神代小路の起源は、17世紀後期に神代鍋島家四代当主鍋島嵩(たかし)就(なり)が神代城の東側に武家地を造成し、その北西隅に陣屋を構えたことに始まる。神代小路は近世、近代を通して今日まで閑静な住宅地として維持されてきた。 
 保存地区は、東西約250m、南北約450m、面積約9.8haの範囲で、通りの脇には水路を通し、切石または玉石積の石垣や手入れの行き届いた生垣が並んでいる。
 各敷地は、奥行も間口も大小様々であり、形も不整形である。敷地内には旧武家屋敷の住宅の主屋や長屋門、門倉などが建ち、通り沿いの石垣や生垣のほぼ中央に出入口を開く。石垣や生垣で桝形を築き、主屋の玄関を隠すものが多い。
主屋は表側南部に式台玄関、次の間及び座敷を並べ、裏側や北部に土間及び台所、居間、納戸などを置き、近世武家住宅の形式を現在に伝えている。
このように、保存地区は、江戸時代中期の地割りを良く残す武家町で、敷地内に江戸時代の主屋や長屋門などによる武家屋敷の構成を保ち、小路沿いの生垣や石垣、水路などにより特徴のある景観を構成するなど、歴史的風致を良く今日に伝えている。

島原:島原城の西に接した上新丁、下新丁、古丁、中ノ丁、下ノ丁、江戸丁、新建に扶持取り70石以下の徒士屋敷約700戸が軒を連ねていました。

鉄砲隊の居住地であったことから、一帯は鉄砲町とも呼ばれていました。

各丁の道路の中央には水路を設け、清水を流して生活用水としていましたが、防災・防火の見地から片側に移設。

けれど下の丁の町並みだけは、住民のご協力を得て「武家屋敷町並み保存地区」として定め、昔どおりに保存されています。

現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、延長406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みで山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒が一般に無料開放され、当時の武家生活の様子が偲ばれます。

また武家屋敷休憩所では白玉に独特の蜜をかけた郷土の味「寒ざらし」を味わうことができます。

龍泉寺:開創は不詳。

奈良時代、現在の地域に大きな集落があり祈願所が設けられていたことで、およそその頃の開創と推測される。

元亀3年(1572年)12月、三方原合戦に敗れた徳川家康公が境内の阿弥陀堂に身を隠し難を逃れたという記録から、それより以前から堂宇が存在していたと思われる。

現存の記録より
当寺創建の由来は、正親町天皇の御宇天正2戌年(1574年)、住僧把公(津叟把公和尚)なる者、村民と協力して堂宇を建立す。仍って開基と称す。
同暦、本寺龍秀院玉山和尚(玉山全瑳)を請して開山となす。
その後、寛政9年(1797年)龍秀院13代懐峯東州なる者、檀徒と協力して本堂を再建す。当暦に至って322年の星霜を経とあり、現在の本堂は215年経っている。

祇園寺:祇園寺は天台宗比叡山延暦寺を本山と仰ぐ寺院です。

針尾山感神院祇園寺は、松浦鎮信平戸藩候の発願で、針尾瀬戸を臨む現在地に承応元年(1652)開山、一圓岳老法印の開基と伝えられる。

祇園寺はもと曹洞宗の寺であった。その寺を鎮信公が平戸藩に、はじめて天台宗寺院の樹光寺を開創した折、末寺とし、天台宗としたという平戸藩の史料がある。

藩候建立の趣旨は藩内鎮護・安泰の祈願寺とあわせ、徳川秀忠公の霊を弔う香華所という記録もある。

本尊は開山時、薬師如来であり、その後阿弥陀如来で、現在は如意輪観世音菩薩という歴史的な変遷がある。

明治維新の神仏分離令までは祇園宮(戸御崎神社)の別当寺で、神仏習合の寺社であったことを窺い知る史料・伝統風習が今も息吹を伝える。

薬王寺:本尊は薬師如来。前身は養性庵と称す。天正14年(1586)4月5日、現薬王寺の背後の丘陵地にあった井手平城が落城。その後6年、文禄元年(1592)平戸藩主・松浦隆信の命により、洞谷山を城持山と改称した。

元禄年中(1688?1704)菖海素休和尚の代に、養性庵の寺地から城跡の現在地に移転、再建された。このとき平戸瑞雲寺九世。大虚舜道和尚を開山に迎え、併せて井手平城合戦の戦死者の追善供養が営まれたという。

井手平城は、天正14年(1586)大村・有馬の連合軍に敗れて落城、城主の岡甚左衛門を筆頭に城兵のほとんどが戦死した。

これを哀れみ藩主の松浦隆信が養性庵を移転、再建して、戦死者の霊を弔ったのが薬王寺の創まりである。

平戸:平戸市大島村神浦の町並みは、江戸時代初期(17世紀初頭)に形成された漁村集落を起源とするが、江戸前期(17世紀後半頃)に捕鯨の創業を契機として大きく発展した。江戸時代中期(18世紀)の鯨組廃業後も跡地の再開発によって、海側に新たな町並みが成立するなど、漁師のほか商人や職人が多く居住し、漁業と商工業を経済基盤とした港町として発展を続け、豊かな町並みが形成された。
 保存地区は、東西約700m、南北約650m、面積約21.2ヘクタールの範囲で、神浦集落と海、河川の水面、周辺の高台に建つ寺社、や墓地を含む範囲である。
 中心部は幅約3mの細街路の両側に町家が建ち並ぶ。街路の山側は敷地奥行が浅く、中世末期から近世初頭にかけて成立した敷地であるのに対し、海側は敷地奥行が深く、寛文の鯨組創業による埋め立てによって陸地となり享保の廃業により町家化した敷地である。
 地区内に建つ町家の主屋の多くは切妻造桟瓦葺、平入で、前面は一階と二階の柱筋を揃え、腕木庇を付ける。平面は、片方に通り土間、他方に室を並べる。街路の屈曲にあわせて台形の平面が多く、部屋境を食い違いにするなどした巧みな間取りが特徴である。
 街路の山側では敷地の奥行がないため主屋のみの住宅が多く、主屋は奥行方向に二室を並べる平面が多い。海側は敷地の奥行があるため、主屋は奥行方向に三室を並べる平面が多く、敷地奥に離れをもつものもある。
 特に山側敷地では狭小な敷地を反映して早くから二階を居室として利用し、主屋は比較的軒高が高い。表構えは大正時代まで出入口を含めて、摺上戸とし、その後は引違戸に変化している。
 地区内には斜面地を利用するためにつくられた石垣や石段などが遠見番所や天降神社周辺で見られる。地区内各所に残る共同井戸は昭和40年(1965)まで主要な水源として使用され石造の井戸や周囲の石畳がほぼそのまま残されている。
 平戸市大島村神浦伝統的建造物群保存地区は、近世から近代にかけての離島の歴史的風致を残すとともに、中世末期から近世初期にかけて成立した漁村集落が鯨組の創業と廃業という出来事を経て近世的な港町に変容していった姿を今日に良く伝えている。

16:00終了、長崎空港に向かう。
17:30長崎空港到達。
19:20長崎空港出発。
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の長崎県に足を運び、長崎県に点在する、九州四十九院薬師霊場4か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所をおとずれ楽しみました。

数か所は何回か訪れたことのある小京都重要伝統的建造物群保存地区、違った角度からの訪問、癒され、感動しました。
初めて訪れた小京都重要伝統的建造物群保存地区、武家屋敷の広大な敷地、新鮮味があり、歴史を感じながらの散策楽しめました。


















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十五弾:熊本県お城・城下町巡り&九州四十九院薬師霊場観光
2018年2月24日−25日
  

九州の西に位置し、室町時代に、古くから同地で力を持っていた菊池氏が守護になり、阿蘇氏、名和氏、相良氏などが各地を支配するが、争乱で絶えなかった、やがて大友氏が肥後に進出し、龍造寺氏、島津氏と対立することになった熊本県に足を運び熊本県に点在するお城6か所、熊本県にに点在する九州四十九院薬師霊場5か所を訪れました。

24日17:30伊丹空港出発。
18:40熊本空港到達、レンタカーで熊本インター下車、インター付近のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
25日8:00レンタカーで出発、霊場お城巡り。

光厳禅寺:

法泉寺:法泉寺のご本尊は、聖観世音菩薩、脇本尊として薬師瑠璃光如来をお祭りしています。
法泉寺の開創は、1293年(永仁元年)鎌倉時代です。今年から遡ること715年前です。

鐘楼堂は古くなっていたものを終戦50年の平成7年に改修して、戦争の為に供出してなくなっていたものを50年ぶりに「平和祈念梵鐘」として造りました。
午前6時と午後6時に世界中で戦火の犠牲になられた方々のご冥福をと恒久平和を願って鳴り響いています。

西厳殿寺:

菊の池城:築城年代は定かではないが延久年間(1069年〜1074年)に菊地則隆によって築かれたと伝わる。

十六代菊池武政のとき菊池城に居城を移した後は菊池十八外城の一つとして利用された。

守山城:築城年代は定かではないが正平年間(1346年〜1370年)に菊池氏によって築かれたと云われる。 菊池氏は太宰府官藤原政則の子孫とされ、藤原則隆のときに肥後に下向し菊の池城を築いたという。十六代菊池武政のとき、菊の池城から隈部城へと居城を移した。

南北朝時代には南朝の有として肥後国を中心に九州全土にその勢力をのばしたが、北朝方の今川了俊が九州に下向してくるとその勢力は衰退した。

兼朝の時、肥後国守護職を回復し戦国時代に続くが大友氏に破れ嫡流が途絶えた。 菊池氏が滅亡すると赤星氏の勢力下になるが、隈部氏によって追い出され、隈部館から隈部氏が移り居城となる。

隈部氏は北侵する島津氏に降伏したが、豊臣秀吉による九州征伐で秀吉に降伏し本領を安堵された。しかし熊本に入封した佐々成政が検地を行うとこれに反発して挙兵し、成政が菊池城に押し寄せると城村城に籠もってこれに対抗した。これがきっかけとなって肥後国衆一揆が広まり、成政は謹慎の後に切腹、隈部氏もまた嫡流は断絶した。

鞠智城:築城年代は定かではないが7世紀後半に大和朝廷によって築かれた。 天智2年(663年)朝鮮半島白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷は九州・中国・四国地方に山城を築いて唐・新羅連合軍の来襲に備えた。

九州では大宰府を中心に基肄城や大野城を築いて防衛線としており、鞠智城は前衛である大野城などへの武器・食糧の供給基地として築かれたと考えられている。

結局大陸から日本への侵攻はなく、その後は役所として利用され10世紀半ばまで存続していたようである。

隈部館:築城年代は定かではないが隈部氏によって築かれた。 隈部氏は大和源氏宇野氏の末裔で菊地氏に仕え隈部の名字を与えられたと云われる。

隈部氏は菊池家臣団において城氏や赤星氏らと並び重要な地位にあった。菊池氏が没落すると大友氏や龍造寺らと結んで勢力を拡大し、天正6年(1578年)には赤星氏を隈府城から追放し、隈府城を本城として移った。

隈部氏はその後、肥後に入封した佐々成政に従ったが、隈部親永は成政の検地に反発して挙兵する。これが肥後国人一揆の発端となったが豊臣秀吉が派遣した援軍に降り、隈部氏は滅亡した。

相良寺:

金剛乗寺:

田中城:築城年代は定かではない。古代豪族和邇氏の末裔といわれる和仁氏累代の居城である。

天正15年(1587年)佐々成政の検地に対して隈部城の隈部親永が反発して国人一揆が発生すると、和仁氏と坂本城主辺春親行などが田中城に籠城して成政に抵抗した。佐々成政は国人一揆を押さえ込もうとしたが、逆に隈本城に攻め込まれたため撤退し、豊臣秀吉に援軍を求めた。秀吉は小早川・立花・鍋島などの諸将に命じて田中城を攻撃させ、安国寺恵瓊の謀略によって辺春氏が寝返り落城した。

筒ケ嶽城:築城年代は定かではない小代氏によって築かれたのが始まりとされる。 小代氏(しょうだい)は武蔵国入間郡小代郷発祥で武蔵七党の一つ児玉党に属していた御家人で武蔵国小代館に住んでいた。

宝治合戦の功により小代重俊が肥後国野原荘の地頭職に任ぜられ、文永8年(1271年)には鎌倉幕府より蒙古襲来に備えて野原荘へ下向するよう命ぜられ、 小代重泰(重康)らの兄弟が下向したことに始まる。

小代氏は以降、肥後国北部の有力国人として代々続き、はじめ大友氏、ついで龍造寺氏、島津氏に属し、豊臣秀吉の九州征伐では秀吉に従って所領を安堵され、肥後に入国した佐々成政、加藤清正そして細川氏の家臣となって近世まで続いた。

17:00終了、熊本空港に向かう。
17:30熊本空港到達。
19:10熊本空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の熊本県に足を運び、熊本県に点在するお城を6か所、九州四十九院薬師霊場5か所を訪れ癒されました。
山の頂、畑の中、公園の中に位置する、様々な城跡、楽しめました。















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十二弾:鹿児島県九州四十九院薬師巡礼&重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2018年2月3日−4日
 

九州地方の南端に位置する鹿児島県に足を運び、鹿児島県に点在する九州四十九院薬師霊場3か所、小京都知覧、重要伝統的建造物群保存地区の入来麓、出水の武家屋敷群を訪れました。

31610伊丹空港出発

17:25鹿児島空港到達、レンタカーで指宿方面に向かう。

19:00指宿手前のホテル到達、周辺を散策し食事を済ませて就寝。

4日7:30レンタカーで出発、霊場、歴史的建造物巡る。

 

光明禅寺:

 

知覧:全国の小京都の中でも最も南に位置する知覧は、江戸期に作られた南国特有の武家屋敷のある町だが、第二次世界大戦中は特攻隊基地があった悲しい歴史を持つことでも有名です。かつての飛行場跡地の近くには「知覧特攻平和会館」があり、特攻隊員の写真と遺品の資料が昭和の負の歴史を今に伝えています。海から引き上げられた当時の零戦、屋外には隊員が寝泊まりした三角兵舎(復元)、観音像には隊員の名前を記した巻物が収められており、街を歩けば、道路に沿ってたくさんの石灯籠があり、歴史を今に伝えています。高倉健主演映画の「ホタル」の舞台にもなったことでも知られています。

知覧に残る江戸時代の武家屋敷は、七戸が一般公開され、一部ではあるものの庭園も見ることができます。これらの武家屋敷は鹿児島城を内城とする外城と呼ばれ、鹿児島城の周囲に衛星のように配置されていました。もちろん、戦時には防衛ラインとなるもので、知覧の武家屋敷郡はその中のひとつ。島津は関ヶ原の合戦においては西軍に属していたため、幕府との戦の可能性もあったことがその背景としてあります。反面、京都から新しい様式を取り入れていたことが伺える一面もあります。

武家屋敷は、石造りの上にイヌマキと呼ばれる生垣があるのが特徴で、庭園では、森邸のみが池泉式庭園で、ほかは水を使わない枯山水式庭園です。遠くに見える母ヶ岳を借景とし、四季を通じて美しさを見せてくれます。

また、知覧は九州一のお茶の産地でもあり、生産量としては静岡に次ぐ規模です。

本通り線まで出ると、鯉の泳ぐ清流溝も見ることができます。

 

妙円寺:

 

鎮国寺:

 

入来麓:入来は、鎌倉時代に地頭職であった関東の渋谷氏がこの地に入り「入来院」と名乗って支配した荘園でした。
昭和4年アメリカのエール大学の教授朝河貫一氏により入来院家に伝わる「入来院家文書」が翻訳され、『入来文書』として刊行されたことによって有名になりました。
現在の入来麓武家屋敷の町並みは中世から江戸期にかけて出来たもので、特徴は樋脇川の石を使用した玉石垣とその石垣の上に植えられた茶やイヌマキなどの生垣。

入来のほぼ中央部に位置する麓地区は、四隣に威を振った薩摩藩随一の堅城(山城)である清色城を中心に川原石を使った玉石垣による整然とした区画割、武家屋敷門(茅葺門)、大手門前の濠や広馬場、下門口を備えたお仮屋跡など多くの史跡・文化財が残っています。
近世になって整備された街路と地割が旧態をとどめ、屋敷割りもよく残っていて歴史的価値が高いとされています。
また現在はほとんどの屋敷跡に民家があり生活感もあります。

立派な長屋門などは残っていませんが、門から敷地をのぞくと玄関までの折れ曲がったアプローチや古木、石倉など当時の面影がしのばれます。
薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の行政区画に分けて統治。
武士団を鹿児島市内の本城に集結させず、領地内に分散して統治し、その統治の中心を麓と呼びました。

入来麓は薩摩藩麓の一つで中世の名残を残す町並みとしてよく保存されていることから、2003年12月に鹿児島県では知覧武家屋敷群、出水麓武家屋敷群に次いで国(文化庁)の重要伝統的建造物群保存地区(武家町)に選定されました。

出水:出水市の麓町を中心とした住宅地一帯は、
平成7年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

出水麓は、出水郷に赴任する薩摩藩士の住宅兼陣地として、
中世山城である出水城の麓の丘陵地帯を整地して作られたところです。
その整地には、関ケ原の戦いの前年(1599年)、本田正親が初代地頭に着任してから、
3代地頭の山田昌巖の治世下まで、約30年かかりました。
出水麓は、薩摩藩内で最も規模が大きく、藩内のほかの麓は、出水に倣ったといわれています。

16:00鹿児島空港に向かう。

18:00鹿児島空港到達。

19:25鹿児島空港出発。

20:35伊丹空港到達。

 

今回の旅行、九州の南端、鹿児島県に足を運び、九州四十九院薬師霊場3か所、小京都知覧、重要伝統的建造物群保存地区、入来麓、出水の歴史的建造物を訪れ楽しみました。

鹿児島城の外城である、知覧、入来麓、出水の武家屋敷群の散策、時に今年の大河ドラマの撮影地知覧は多くの観光客が訪れ賑わっていました。

雪がちらつく悪天候での観光、寒さを耐えながらの武家屋敷群の散策堪能しました。












 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十一弾:宮崎県九州四十九院薬師巡礼観光
2018年1月27日−28日
 

九州の東南に位置する宮崎県に足を運び、九州は大陸との交易の窓口であり、早くから我が国にもたらされた薬師信仰も、九州各地に深く寝ずいている。全行程1600キロ、九州七県にまたがる薬師霊場巡りは、大自然の生気を吸収して心身ともに癒される旅、九州四十九院薬師巡礼の宮崎県に点在する霊場87か所を訪れました。

27日19:50伊丹空港出発
21:00宮崎空港到達、レンタカーで宮崎駅方面に向かう。
21:35宮崎駅前のホテル到達、就寝。
28日8:00レンタカーで出発、霊場巡り

明星寺:『宮崎市誌』には、建暦2年(1212)松平七郎兵衛尉上総入道景清公の創建。天正11年(1583)徳尭隣公禅師が開山したと伝う。

入道景清といえば、平家の武将、源頼朝に対する怨念を断つため自ら両眼を挟り取り、霧島山中に幽栖した。没後に洞を建ててまつったのが生目神社で、いまも眼病平癒に篤い信仰がある。

降って、寛文3年(1663)清水与右衛門が堂宇を再興、永平寺三十世慧輪永明禅師を請うて中興開山した。

その後、文政3年(1820)七堂伽藍は火災に遭う。明治四年(1872)廃仏の法難により廃寺となるが、同13年、帝沢寺の恭山満堂和尚が復興、法灯を継承して現在に至る。


浄土寺:

幸福寺:

全長寺:

極楽寺:

今山大師寺:

昌龍寺:五百年ほど前、肥後から招来した薬師仏を祀る薬現寺として八戸地区に建てられました。
その百年後、現在地に移り曹洞宗昌竜寺となりました。昌竜寺の十世住職は、聖・如意輪・子安の三観音を迎え、八戸滝(60メートルの大瀑布を誇る名勝)を雨乞いの霊場としました。とくに安産、繁昌、交通安全の霊場としてにぎわっています。
また村中に、約三百年前、延岡用水を開いた恩人の藤江監物(ケンモツ)父子の終焉地があり、菩提寺となっています。
お寺の境内には、監物堂が建てられ、延岡城二の丸書院の絵天井が保存されており、ご本尊には約3トンの石からくりぬかれた不動明王が安置されています。

十年前本堂が再建されましたが、すべての木材が町内の木でまかなわれ、しかも格天井は、多摩美大教授宮いつき先生監修による「絶滅危惧種」が描かれ、全国に紹介されました。薬師霊場となってからは「薬師健康にぎり仏」が、平家伝説の持仏として重宝され、九州中から受けに来られるほどです。
また、心と体を護る「薬師心身健康守り」も大変人気があります。背景に祖母傾国定公園をいただく、高千穂の神々に護られた仏の里で、どうぞ心身を清らかに休めて下さい。


15:30終了、宮崎空港に向かう。
17:00宮崎空港到達。
19:15宮崎空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、九州宮崎県に足を運び、宮崎県に点在する九州四十九院薬師霊場7か所をおとずれ楽しみました。
各々の霊場の規模は中等度で派手さはなく、地味で人も少なく寂れていました。マイナーな霊場巡りですね。
次回は鹿児島県に点在する九州四十九院薬師霊場を訪れる予定です。

 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十弾:埼玉県武蔵野三十三観音巡礼観光
2018年1月20日−21日
 

関東地方の埼玉県に点在する、東京の西北、武蔵野の面影が色濃く残っている西武池袋線の沿線に点在する霊場、比較的都心に近い石神井から、深い緑におおわれた武蔵野丘陵の所沢周辺へ、さらには深山を思わせる飯能方面へと分布している武蔵野三十三観音霊場の19番ー33番までの霊場を訪れました。

20日13:30新大阪駅新幹線のぞみで出発
16:10東京駅到達、タクシーでお台場日航ホテルに向かう。
16:30日航ホテル到着。
17:30講演会出席
20:00懇親会
22:00就寝。
21日7:30ホテルのタクシーで出発
8:00品が駅前でレンタカーで出発、埼玉方面に向かう。
霊場巡り

東光寺:法栄山遍照院東光寺と称するが通称「東光寺」と呼ばれている。入間市小谷田にあり、お茶畑を望む高台にある。
真言宗豊山派に所属し、本尊は不動明王で作者年代ともに不詳。当寺の創立年代は定かでないが中興開山は印融法印である。永正16年(1519)寂、墓碑当寺墓地に現存する。当山の伽藍は昔現在の南方300メートルの所にあり、広大な寺領を有していたが、数度の火災にあい、堂宇什器什物悉く灰塵に帰す。従って古書記録等全てを失い事実沿革を明瞭にする事ができない。
現存する本堂は寳暦元(1751)年霊妙和尚により現存の所に建立されたものである。
当山には武蔵野三十三観音霊場第19番東光寺奉納された梵鐘が2基ある。1基は延宝2年(1674)時の領主である五味家の菩提寺であったときのもの。他の1基は昭和63年新宿丸山園によるもので、鐘楼堂にはこの梵鐘が架かっている。また、当山は奥多摩新四国八十八ヶ所弘法大師霊場の第46番札所となっている。

龍圓寺 :参道を上ると、正面の本堂をはさんで右に庫裡(納経所)、左に観音堂等がある。観音堂には、千手観世音が安置されており、縁起によれば、10センチほどの金の佛像で小名田谷の井戸から出現したという。小名田谷は、地頭、市川氏が住んだ屋敷跡で、観世音出現の井戸の近くには稲荷の小祠があったとか。現在は、寺の東側に稲荷と井戸観音を祠り、復旧させた形をとっている。
寺は、建仁の頃この地に草庵を結んだ僧寂蓮が、この千手観世音菩薩像を安置したのに始まるという。その後数度の火災にあい、堂宇を鳥有に帰したが、この間、宝永6年(1709)に入寂した僧俊誉が中興となっている。
神仏共存の地区で、村社の祭典には境内にも仮屋が立ち、その起点となる。神田ばやし隠岐流(市無形文化財)や鉦はり(双盤)の保存活動も、寺中心に進められている。裏手には、武蔵野三十三観音霊場第20番龍円寺国分寺瓦をやいた登り窯跡の「かま跡公園」、境内には、狭山茶、唐桟織ゆかりの碑もある。弘法大師奥多摩新四国霊場第41番。

高正寺:武蔵野に細長く東西に延びる加治丘陵の北斜面に位置する当山は、今から約800年ほど昔鎌倉時代の初期、この地の豪族金子余市近範公によって開創された古刹である。
近範公は当時この加治丘陵で製鉄業を営む(今でもこの丘陵からは良質の砂鉄が出る)豪族で、その戒名を高正寺殿関叟常鉄大居士と称し、諏訪神を守護神としていたところから、当時は現在諏訪山萬齢院高正寺と称する。本堂には近範公の持念秘仏、虚空蔵菩薩を安置し、御前立聖観世音菩薩が札所霊場本尊である。
当山の聖観音像は、左の御手に蓮華蕾ではなく、開花した蓮華拈じておられる飛鳥形式の御影である。20番札所龍圓寺からは、徒歩約20分の峠道であるが、この坂道を金子坂といい近範公の砦跡と伝えられている。武蔵野三十三観音霊場第21番高正寺また仏子駅(古くはブッシと読んでいた模様で、この地に鉄仏師がいたのではないかの説あり)から徒歩約8分、境内には金比羅堂招福殿等の諸堂があり、また裏山の中腹には、奥多摩新四国八十八霊場第69番本尊を祀っており、現在曹洞宗に属する禅寺である。

圓照寺:当山は真言宗智山派光明院正覚院圓照寺と称し、平安の初期宗祖弘法大師龍燈桜の奇瑞を感じ、霊泉を加持して堂宇を創立したと云う。鎌倉時代の初期には、武蔵丹党の加治氏の菩提寺として円照上人が、弁財天を勧請し諸堂を整備して開山となった。その後寺は加治家と盛衰を共にし、やがて三浦氏の助力で僧朝弘が中興開山となり、寺域は拡大され、徳川幕府より朱印15石を賜り、明治初年寺領を奉還して現在に至った。本尊は加治氏の守り本尊とされた阿弥陀三尊が安置され、本堂は元禄年間の再建にかかるものだが、わずかの円柱と天井裏床下などをそのまま生かし、昭和38年に改築した。
境内には、安永年間に再建した北向不動尊を始め、心字池の中央に厳島より加治氏勧請の弁財天が安置され、毎年1月14日には大祭でにぎわう。本堂の一角に札所本尊如意輪観音(小野賢一郎氏寄進)が安置されている。武蔵野三十三観音霊場第22番円照寺史蹟として、元弘3年5月22日在銘の板碑他5基が国の重文指定をうけ収蔵されている。又本堂内には各界名士染筆寄進の絵馬数百点が奉納されている。

浄心寺:当山は明応〜文亀年間(1500頃)の草創といわれ、本尊に阿弥陀三尊を安置している。当初は瑞林院と号したともいわれる。開山の聚栄常福和尚は永正8年(1511)に示寂。武蔵野三十三観音霊場第23番浄心寺のち慶長12年(1607)市内飯能の本寺能仁寺5世吉州伊豚和尚を中興開山として再興され、現住まで17世に至る。開基は当地の土豪岩沢氏、瑞林院殿月叟浄心居士(没年不詳)で現寺号はこれによっている。現在も檀中に子孫が続いている。
六世梁観禅棟和尚は若年江戸駒込吉祥寺に遊学し、学業成就を寺中の毘沙門天に祈願、見事首席となった。帰郷後報恩の為に附近の堤家より伝来の毘沙門天像を譲り受け安置した。以来学業成就、商売繁昌の信仰が高まり明治初年より1月7日の大祭は信徒数万人が群集し、だるま市が開かれるようになった。霊場本尊の十一面観世音は附近の本明院の本尊であったが廃寺となった為当山へ武蔵野三十三観音霊場第23番浄心寺移されたもの。身代わり観音といわれ災難除けの信仰がある。当寺は武蔵野七福神、高麗坂東9番、奥多摩新四国10番霊場でもある。

観音寺 :当寺は、飯能の商店街の西端に位置し、市民の心のよりどころ「天覧山(てんらんざん)」を北に、南に飯能河原が望める、緑と清流につつまれた自然豊かな場所にあります。
真言宗智山派に属し、ご本尊は如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)。体内に弘法大師作の秘仏が納められていると伝えられています。また西国33番・坂東33番・秩父34番の観音霊場の各ご本尊の写しを合わせた百観音も勧請されています。
境内には、文殊菩薩、不動明王、毘沙門天、大歓喜天(だいかんきてん)、荼枳尼天(だきにてん)、弁財天、大黒天、布袋尊などもまつられており、中でも天狗地蔵は、子供の健やかな成長を祈る人たちからの信仰が厚く、また不動堂の寿老人は、武蔵野七福神のひとつとして正月には多くの参拝者でにぎわいます。
その他、江戸天明期に檀家で当地方の俳人加湧轍之武蔵野三十三観音霊場第24番観音寺(かわくてつし)の肝いりで建立された俳聖芭蕉の句碑や戦中戦後を通じて俳界で活躍した水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)の句碑もあり、訪れる人の心をなごませています。

圓泉寺:縁起によれば、天長年間(824〜834)に弘法大師遊化の折り、草堂を建立し、金銅唐仏(現在は木像)の十一面観音菩薩をまつり、傍らに小院を建立し、圓泉寺と名付けたと伝えられている。その後衰微し、享保年間(1716〜1735)中興開山慶秀が再建したといい、また、本堂は、火災に困り焼失し、天保15年(1844)4月に再建された。
不動明王をご本尊とし、他に薬師如来などをまつるが、特に武蔵野七福神の『福禄寿』は、「福」「禄」「寿」の功徳を授けてくれるといわれ、正月には、多くの参拝者で賑わっている。このご朱印帳の書き方は、ここだけのもので、福・禄・寿の3文字を使い、お顔の形になるようにかかれている。
小高い所にある妙見堂は、平将門の信仰した妙見菩薩をまつり、『平松の妙見さま』としてしたわれているが、この御神体は、将門の影武者の綿貫(平)豊八が拝受し、落ちのびた後、武蔵野三十三観音霊場第25番円泉寺綿貫家で守護してきたものを、江戸時代境内にお堂を建立し、まつられた。12月3日の大祭には、近在よりたくさんの人が参拝にみえる。

靈巖寺:関東平野の西端、関東山地との境を高麗川が蛇行して東に向かって流れている。北西の山々が、冬の季節風を防ぎ、緑と清流に恵まれたこの地は、1300年前(霊亀2年)大陸からの渡来人によって、高い文化がもたらされた。靈巌寺は、この歴史ある高麗の里にある。
当寺のすぐ裏、高麗川の対岸には、高麗神社があり、その宮司は、当時の高麗郡長、若光王の男子直系の子孫といわれる。
当靈巖寺は、千有余年前、満行上人によって開山され、蛇行する川が造った地形が箕の形をしていたことから箕輪山、満行院と命名、又境内や高麗川の岩壁に巨岩が湧出しているところから靈巖寺と寺号が出来た。寺の前には広大な水田が開けて有名な「田植え地蔵」の伝説も残るが、水田は明治43年の大水害によって悉く流失し今は牧場、養鶏場、桑畑、工場と化してしまっている。

聖天院:当山は、遠く1250年の昔、高句麗からの渡来人高麗王若光の菩提寺として建立された。若光は、続日本記703年の条に「従五位下高麗若光に王姓を賜う」とあるように朝廷からもその能力を認められ、武蔵国高麗郡の長として祖国の技術をもってこの地の開拓・発展に大いに治績を収めた人物である。
古い歴史と自然に恵まれた高麗郷であるが、とりわけ当山は後方に深い緑に包まれた山をひかえ、高台に位置する広大な境内からの眺望はすばらしく高麗郷随一である。本尊不動尊・高麗王若光守護仏聖天尊(出世開運)の霊験はまことにあらたかで、武蔵野三十三観音霊場としても名を馳せ、老若男女の御参詣日々に多く、山水を存分にとり入れた庭園は四季折々の風情に移ろい、霊域としてまことにふさわしいものがある。
かねてより宮様方をはじめ、各界地名・文化人、児童学生などあらゆる方々の武蔵野三十三観音霊場第26番聖天院ご参詣見学をうけ、当山を訪れた方々は深い感銘と貴重な人生の糧を得られております。

勝音寺:鎌倉建長寺72世勅諡佛印大光禅師、久菴僧可大和尚(上杉兵庫頭憲将公の子息にして応永24年正月26日寂・78歳)阿弥陀如来を本尊として、応永3年8月創立。江戸初期罹災し4世隣藝和尚(平沢の金剛寺駒高の安州寺を創立)により再興するも、亦々天保8年本堂を焼失し現在に至る。
観音堂(現在仮本堂)本尊千手観音菩薩(坐像1尺7寸)脇佛不動明王、毘沙門天(共に立像1尺2寸)を安置する。詳細不明なれど、相模国鎌倉の佛師定朝作と伝える、延文5年佛師周防法橋朝尊により修補、その後享保年間、昭和60年にも再修復現在に至る。(市指定文化財)
尚、慶安2年幕府徳川家より、観音堂領としての五石の御朱印を賜る。又寺宝として大般若経600巻、南北朝時代康安2年、下野国佐野庄の住人比丘昌旭が書写したもので「一巻百札観音懺法武蔵野三十三観音霊場第27番勝音寺一坐楞厳咒一反及金剛経一巻心経七巻読誦諸願供養書比丘昌旭大檀那浄心禅尼一人」と記されてある。(市指定文化財)
高麗坂東観音霊場30番、武蔵野三十三観音霊場27番札所。

瀧泉寺 :平安時代に開山された当山は、はじめ、京都仁和寺、御室御所の直末であったが、時が移り現在は、真言宗智山派に属している。寺のすぐ前を県下一の清流、高麗川が流れ、市の鳥で清流の宝石ともいわれる「かわせみ」もよくみかけられる。
近年は写佛の会が盛んになり、平成4年の秋には、10年、延2000人がかりの64畳分の胎蔵曼陀羅天井(本堂外陣)が完成した。現在は胎蔵曼陀羅と対をなす、金剛界曼陀羅の写佛天井画をはじめている。この他、本尊千手観音の功徳を余すところなく体験するために、千手観音千体写佛(持物手写佛)も同時に行われている。写佛に興味のある方も、そして無い方も是非お出かけ下さい(写佛とは…仏様の図を下絵にし、上に紙を重ねて仏様の姿を写し描きすることです)。
また、日本の貴重な花ハスも数多く栽培されている。これは完成した胎蔵曼陀羅と本尊千手観音が別名蓮華王と称されることに因んで奉納されているものであるが、武蔵野三十三観音霊場第28番瀧泉寺花の美しさを愛でることもさることながら、枯れゆく姿も観照していくところに当山のハス栽培の意義がある。8月には観蓮会なども開かれる。

長念寺:慶長3年飯能の能仁寺4世格外玄逸によって再中興開山された曹洞宗の古刹である。蔵する所の古文書やかつてこの境内にそびえ立っていた唐様式の観音堂(延享元年高倉寺に再建、現在国宝)など考えると開山は相当古く由緒深い寺院と考えられる。天文3年大石定久の肝煎で再興され、小田原北条との縁の深かった事も想像される。天正19年家康により10石の寺領を得て復活し慶長3年に再中興された。聖観音を本尊とし(県指定文化財)、高麗坂東27番の霊場でもある。
享保19年、領主黒田直邦の熱意で400年経過した古い堂を改築されたが、この堂は現在正法寺境内、岩殿観音に移され再建されている。
寺の境内には当時盛んであった武蔵野三十三観音霊場第29番長念寺名残と思われる南北朝頃の青石塔婆が多く保存され、また滝山城主大石定久や八王子城主北条氏照の寺領に関する文書や徳川家康の朱印状、黒田直邦関係の寺宝もあり歴史的価値の高い寺院である。奥武蔵の紫陽花寺と云われ、参道、境内に咲き競う赤白の紫陽花の花見客でにぎわっている。

福徳寺:建暦2年(1212)の創立で、開山は、宝山禅師と伝えられている。永く無住であるが檀家一同の深い信仰心に護られて今日に至っている。
御本尊聖観世音菩薩様は、参道正面の本堂に奉安されているものの拝観はできない。本堂より下の位置にある国指定の阿弥陀堂内には、県指定の善光寺様式の一光三尊の阿弥陀三尊像が居られ、重要文化財を護持している寺として有名である。
所在は、秩父街道(国道299号線)を吾野へむかう途中に東吾野駅がある。この先を200米程で右へ折れて虎秀谷を400メートルの所に美しい緑の中に御堂が見えて来る。
福徳寺の御納経所は、国道299号線を吾野方面に1200メートルほど行くと、同じ臨済宗建長派の禅寺興徳寺がある。
尚、福徳寺の阿弥陀堂は、例年4月15日と11月14日の午前10時頃から12時頃まで御開帳している。
武蔵野三十三観音霊場第30番福徳寺
また、7月16日には、大施餓鬼会の法要が厳修され、その時を含めて、年3回は、聖観世音菩薩様と、阿弥陀三尊如来様を拝むことができる。

法光寺:第31番札所曹洞宗法光寺は西武線吾野駅下車徒歩2分の所にある。ご本尊は延命地蔵菩薩であるが、本堂前の観音殿に木彫十一面観世音菩薩が祀られている。奥の院が裏山約1キロメートル、西武建材株式会社の採掘所内の鍾乳洞の中にある。この観音窟は鎌倉・甲州・武州の関東三大岩殿山と言われていた。当初のご本尊は残ってないが、貞和2年10月(1347)の刻名のある石龕(せきがん)が残されていた。考古学者柴田常恵先生の発願で再興、香取秀真先生の鋳造による十一面観音が石龕の厨子の中に安置してある。また正面には鷲尾順敬先生の額『妙好華殿』が飾ってある。新編武蔵風土記によると、その昔行基菩薩作のご本尊が祭られていたとある。
又、別本岩殿山縁起書によると、聖武天皇の御宇天平年中行基菩薩の開基で、東北行脚の折りこの洞窟で眠っていた折り白馬童子が現れ『汝山頂の霊木を以て十一面観世音の尊像を彫刻しここに安置せよ』とのお告げを受けた。翌朝彼のご神木を見つけ、歓喜して尊像を彫刻し安置したとある。また同所には約4メートルの滝や不動明王の魔崖佛の彫刻・弘法の硯水・馬の歪跡等の見所もある。

天龍寺(子ノ権現) :当寺は奥武蔵自然公園内、正丸峠・伊豆ヶ岳と続く山々の東端、標高640メートルの山の頂上にある。当山の開創は、延喜11年(911)に子ノ聖が十一面観音をお祀りし、この地に天龍寺を建てられたことにはじまる。その後、子ノ聖を大権現と崇め、本尊としてお祀りし、現在に至っている。
子ノ聖が当山へ初めて登山したおり、山麓にて鬼類に襲われ腰から下に火傷を負い苦労したことがあり、「足腰の病に悩める者、誠の心で我を念ずれば、必ず霊験を授けん」という遺言を子ノ聖が残したことから、足腰守護の神仏として世に広く知られ信仰されている。明治の頃には、人力車組合や荷車組合の方々の信仰が厚く、現代では、農家や職方、スポーツ選手等足腰強健を願う方、足腰守護を願う中高年の方々の参拝が絶えない。 武蔵野三十三観音霊場第32番子ノ権現天龍寺
さらに、当寺では往古より、本尊様へ履物を奉納し、各自の願をかける慣しがあり、境内にある日本一の鉄のわらじは、その信仰的シンボルとされている。
また、当寺を起点に正丸峠方面や竹寺方面への登山道は、『関東ふれあいの道(下記参照)』に指定され、多くの山の愛好家にも親しまれている。

八王寺:医王山薬寿院八王寺と称し、本尊「牛頭(ごず)天王」を拝し、本地仏「薬師如来」を祀る神仏習合の姿を今に見る、東日本唯一の遺構である。1000年の歴史を有する山岳仏教の道場として、多くの参拝者が登山される。
海抜500メートルに位置し、茅葺きの本殿は牛頭天王を祀り、丑年に開帳の特別行事が修される。春夏秋冬境内の移りゆく景色は素晴らしく、特に春(3月〜6月)と秋(9月〜12月)に接待される精進料理は、季節の味わいが好評で、住職の話が楽しい。
ハイキングコースにも組まれており、日帰りのハイキングとして手軽に歩ける。新春は、初詣の登山も車で済み、境内より、新宿、池袋の高層ビル街が望め、静かな山上での祈願が受けられる。
武蔵野三十三観音霊場第33番竹寺(八王寺)武蔵野三十三観音霊場三十三番の結願寺であり、三十三ヶ寺の願をここで終える。奥武蔵俳句寺としても親しまれており、文人墨客も多く参拝され、客殿等に絵馬や色紙短冊など多くが掲げてあり、これを見るのも楽しみである。

14:00終了、品川に向かう。
16:20品川駅到達。
16:50品川駅新幹線のぞみで出発
19:40新大阪駅到達

今回の旅行、関東地方の埼玉県に点在する武蔵野三十三観音の19番ー33番まで訪れ癒されました。今回は武蔵野三十三観音の第二弾目で前回は東京から埼玉の比較的にぎやかな場所に点在していた霊場でしたが今回は埼玉県の西北西の田園風景を望みながらの霊場巡り、渋滞もなく、車の少なく、すんなり訪れることができました。霊場の規模は中規模で派手さはありませんでした。
尚最終の32番33番は険しい山の中で道が狭く勾配が強くたどり着くのに時間がかかりスリルを味わいながらの走行でした。今回で武蔵野三十三観音巡り無事終了しました。

















  
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十九弾:福岡県九州四十九院薬師巡礼観光
2018年1月13日−14日
 

九州の最大の都市のある福岡県に足を運び、古来、九州は大陸との交易の窓口であり、早くから我が国にもたらされた薬師信仰も、九州各地に深く寝ずいている。全行程1600キロ、九州七県にまたがる薬師霊場巡りは、大自然の生気を吸収して心身ともに癒される旅、九州四十九院薬師巡礼の福岡県に点在する霊場8か所を訪れました。

13日17:42新大阪新幹線のぞみで出発
20:10博多駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
14日  8:00レンタカーで出発、霊場巡り

国分寺:奈良時代、天平13年(741年)聖武天皇は、仏教による地方政治の安定と、文化の交流をはかるため、国ごとに国分寺と国分尼寺の建立を命じられました。この一連の流れに従い、当寺も、筑前の国の国分寺として創立されました。
当初は、絢燭豪華を極める大寺院で、その広大さは現在境内にのこる、大きな柱の礎石にも、容易にうかがい知ることができます。

その後、歴史の流れに従い数々の兵火により、本堂はおろか堂・坊舎まで焼かれ、ほとんど廃絶に近いまで荒廃していた時代もあったとか...

たまたま武蔵の国から来られた、廻国の修行僧が、形ばかりの草堂を再建した。
その後、数十年を経て元文年間(1736年)に中興の師、俊了、国中に浄財を募って小堂を建立した。

天明年間(1781年)に至り、僧・忍龍、山門を修理する傍ら、福岡黒田藩の長老・黒田美作より田地の寄付を受け寺の財産とする。

明治24年(1891年)中興一世・原 崇寿・本堂を再建し、坊舎を修繕しようやく一寺としての体裁を備うるようになった。

その後、二世・原 寿海・三世 原 法仙(尼僧)と住職を引き継ぎ昭和27年(1952年)3月 壇徒総代の絶大な協力のもと、台風と白蟻の被害に荒れる本堂を国庫の補助を受けて、大修理を行った。

四世・原 善信は、昭和27年(1952年)7月、母、法仙より住職としての業務を引き継ぎ。
昭和36年(1961年)6月、重要文化財である薬師如来を、火災から完全に守るため、壇信徒の支援を得て、その収蔵庫を完成させ万全を期した。
また、昭和49年(1974年)には、講堂兼庫裏50坪を改築し、壇信徒の集会等の場所を提供した。
なお、前記昭和27年住職の業務を引き継いでから、平成6年(1994年)7月人寂までの間、よく布教の拡大に勉め、納骨堂7堂を建立したほか、斎場兼納骨堂として新館四階建てを建立し、今日にいたっている。

南林寺:桓武天皇の命により、時の比叡山の僧最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)は藤原葛麿を長とした遣唐使の一行として、筑前国那の津(博多港:一説には平戸)から船出した。
途中暴風雨のため入唐断念を余儀なくされた。しかし、最澄は「無事に唐の国に渡ることが出たら、お礼に仏像を刻み、寺を建立し衆生を救うため一生を捧げます。」と祈って無事に唐の国に到着した。
翌年帰国後、最澄は誓願を果たすために筑前の山々を訪ね、夜須郡の白山(現在の朝倉市秋月古処山)の麓で霊木を見出し、七体の薬師像を一刀三礼して謹刻され開眼供養を行った。最初の一体を秋月に安置する予定であったが一夜にして七体の仏様は無くなってしまったのである。

最澄は仏のお告げにより上座郡長洲(朝倉市長洲)に最初の一体を見つけその地に南林寺を建立した。大同元年(西暦806年)のことである。

安国寺:

種因寺:『桂川町史』には、比叡山延暦寺末、弘仁元年(810)伝教大師が開基した。本尊に薬師如来を安置、説に伝教大師が謹刻した七仏薬師の一つであるという。
以来、職盛して大伽藍を有した。古図によると本堂・回廊・楼門・五重塔・鐘楼・仁王門・御供屋などが建ち並ぶ堂々たる構えであった。

こうした大伽藍も、戦国時代に大友宗麟と島津貴久の兵火に擢災。暦応2年(1339)8月、霊山という僧が中興したとあるのは、元号の間違いか、元禄9年(1696)崇福寺古外が撰した縁起一巻を蔵す。

薬師院:

福聚寺:

相円寺::御本尊の薬師如来は、行基作と伝えられている高さ272cmの木造坐像です。山の上の鍾乳洞の中の本堂に安置されています。

本堂まではダム脇の参道を歩き、250余段の石段を登らなければならず、九州四十九院薬師霊場の中で最も難所だと言われていますが、参道脇の数多のお地蔵様を見ることができ、本堂前から見下ろすたっぷりとした水をたたえたダムを抱く景観は、参拝なさった多くの方々に好評です。

4月上旬には境内や寺院周辺の桜、6月下旬から7月上旬にはあじさいが目を楽しませてくれます。

国分寺:豊前国分寺は天平13年(741年)、聖武天皇が天下泰平と鎮護国家の祈願を込め建立を命じた寺院で、全国68箇所(66国と2島)に建立された「国分寺」の一つであり、境内地は、昭和51年(1976年)に国指定史跡に指定されています。

豊前国分寺のシンボルといえる三重塔は、明治29年(1896年)に建立されたもので、昭和32年(1957年)に福岡県の有形文化財に指定され、昭和60年(1985年)に全面解体修理が行われました。

17:00終了、博多駅に向かう。
18:10博多駅到達。
18:33博多駅新幹線のぞみで出発
21:01新大阪駅到達

今回の旅行、九州福岡県に足を運び、福岡県に点在する九州四十九院薬師霊場8か所を訪れたのしみました。
大都会福岡博多ですが郊外に出ると田園風景、見渡す限り田んぼ、畑でいっぱい、田舎を感じます。その中に点在している霊場、車での移動も含めて癒されました。











 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十七弾:愛媛県伊予十三仏霊場巡り観光
2017年12月9日−10日
 

四国の愛媛県に足を運び、民間信仰として始まり、これが大衆化して全国に広まったといわれる、十三仏信仰、現在でも十三仏像を一尊ずつ本尊として安置し、各寺院は、境内地、堂宇、植生などにそれぞれ違った趣を持ち、四季折々伊予の古刹をめぐる信仰と癒しの小旅行として楽しめる伊予十三仏霊の15か所霊場を訪れました。

9日18:00伊丹空港出発
18:50松山空港到達、レンタカーで松山市内に向かう。
19:30松山市内のホテル到着後?華街を散策し就寝。
10日7:00仏霊場巡り。

太山寺:愛媛県松山市にある真言宗智山派の寺院。瀧雲山(りゅううんざん)、護持院(ごじいん)と号す。本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第五十二番札所。伊予十三仏霊場の第三番札所。

光音寺:

成願寺:

地蔵寺:

円福寺:

浄土寺:愛媛県松山市にある真言宗豊山派の寺院。山号は西林山(さいりんざん)。院号は三蔵院(さんぞういん)。本尊は釈迦如来。四国八十八箇所霊場の第四十九番札所であり、伊予十三仏霊場の第二番札所である。

極楽寺:

明星寺:

金毘羅寺:

隻手薬師:

道音寺:

西林寺:愛媛県松山市高井にある真言宗豊山派の寺院。清滝山(せいりゅうざん)、安養院(あんよういん)と号す。本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第四十八番札所。伊予十三仏霊場の第八番札所。

大蓮寺:は愛媛県松山市にある真言宗豊山派の寺院である。山号は青岸山。本尊は十一面観音。伊予十三仏霊場第一番札所(不動明王)。境外仏堂として、四国八十八箇所番外札所の小村大師堂(通称・札始大師堂)がある。

八坂寺:愛媛県松山市にある真言宗醍醐派の寺院。熊野山(くまのざん)、妙見院(みょうけんいん)と号する。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所霊場の第四十七番札所であり、伊予十三仏霊場第十番札所である。

理正寺:

16:00終了、松山空港に向かう。
18:00松山空港到達。
19:20松山空港出発
20:15伊丹空港到達。

今回の旅行、四国の愛媛県に足を運び、愛媛県に点在する伊予十三仏霊場の15か所を訪れ楽しみました。
ほとんどの霊場が、以前四国八十八箇所霊場巡りで訪れたことのある霊場で立派な霊場でした。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五弾:新潟県越後八十八箇所霊場巡り観光第四弾
2017年8月5−6日
   

日本海に東西細長く面した政令都市新潟県に足を運び、新潟県に点在する越後八十八箇所霊場の第四弾涅槃のエリアの22か所の霊場を訪れました。

5日17:35伊丹空港出発
18:35新潟空港到達、レンタカーで三条方面に向かう。
19:20三条駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
6日7:00レンタカーで出発、霊場巡り。

法明寺:

寶生寺 :

龍蔵寺 :

宝光院 :

極楽寺 :

真福寺:

慈眼寺:

證光院 :

五智院 :

弘誓寺 :

不動院 :

龍徳寺:

圓福寺 :

遍照寺 :

普光寺 :

寶蔵寺 :

法音寺:

寶珠院:

養智院:

大福寺:

泉盛寺 :

薬照寺:

16:30終了、新潟空港に向かう。
17:20新潟空港到達
19:05新潟空港出発
20:15伊丹空港到達。

今回の旅行、日本海に東西細長く面した新潟県に足を運び、越後八十八箇所霊場第四弾涅槃のエリアの22か所の霊場を訪れ楽しみました。

霊場は立派に活気のある霊場と寂れた霊場とにはっきり分かれ力の入れようの違いがよくわかりました。

今回で越後八十八箇所霊場の88か所すべてを巡り終了いたしました。











 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百弾:武蔵野三十三観音巡り観光
2017年6月10−11日

石神井公園から飯能市に向けて走る西部池袋線、沿線にひろがる風景は東京都心から次第に山間の地へと移り変わり、自然の息吹に心が癒され、大都会のすぐ近くにある魅力いっぱいの観音巡り武蔵野三十三観音の18観音を訪れました。

10日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:20品川到達、タクシーでザ・プリンスパークタワーに向かう。
16:45ザ・プリンスパークタワー到達、講演会に出席
20:30講演会・懇親会終了後、東京駅前で友人と談話
23:00ザ・プリンスパークタワーに戻り就寝。
11日7:30ザ・プリンスパークタワータクシーで出発
7:50東京駅八重洲口到達、
8:00レンタカーで出発、霊場巡り。

長命寺 :
西部池袋線の石神井公園駅北口を出て、東に800メートル、練馬高野台駅より北に150メートル行くと左側に大門が見え、門前に『東高野山長命寺』と書かれた石碑が見えてくる。当山は和歌山県にある高野山奥之院を模して寺域が作られており、江戸時代中期より「東の高野」として江戸市民の信仰を集めていた。本尊は寛永17年(1640)に大和長谷寺小池坊(奈良県)の秀算が長谷寺本尊十一面観音を模し、同木にて観音像を作り金堂(観音堂)に安置したが、これまでに2度の火災に見舞われたが復興されている。金堂より西北部にある奥之院には、長命寺開基である慶算阿闍梨が、高野山にて感得した弘法大師像が安置されている。奥之院に到る参道には多くの供養塔が建てられ、御廟橋や蛇柳が配せられている。大師堂の周囲には十三仏石像、閻魔十王石像等の石仏郡が整然と配置され、この一帯の景観は石仏群の迫力と残された自然により、霊場として深い静寂を漂わせている。これらの石仏群は東京都の史跡に指定されている。また、当山は府内八十八ヶ所霊場の17番とされている。

道場寺 :
本山の開創は遠く天平元年(729)と伝えられている。時移り、鎌倉建長寺開祖、蘭溪道隆大覚禅師を請し、建長5年(1253)参学の道場とした。その後藤原景村の養子北條輝時は、姓を豊嶋兵部大輔とし、堂宇を整え香華所とし豊嶋山道場寺と号したのが応安5年(1372)である。しかし豊嶋氏は文明9年(1477)に太田道灌に敗れ、諸堂宇は灰燼に帰した。100余年を経た永禄5年(1562)に、北條氏康より寅朱印(土地等の免税の許可書)を拝領し、寺宝として保存されている。その后、法燈の絶えるをうれいて、開基和尚は勝光院2世を請し開山とし、慶長3年(1598)に中興した。現在の堂宇は天平の往時を偲び、唐招提寺金堂を模し、堂内には木彫りの三尊仏、等身大の聖観世音像及び薬師如来が安置されている。境内には山門、鐘楼、三重塔(総欅材)が建立されており、特に三重塔内の金銅薬師如来坐像台座に、スリランカ国より拝受の仏舎利も奉安されている。ほかに豊嶋泰経一族の墓並びに練馬区最古の青石塔婆(文応元年・1260)他、出土した土器石器もある。

三寳寺 :
寺伝によれば応永元年、鎌倉大楽寺の大徳幸尊法印が、石神井郷小仲原の地に錫を止めて豊島一族の祈願寺として一宇の浄舎を建立したのを嚆矢とする。以後勅願寺として尊崇され、小田原北条氏や徳川氏より寺領を寄進されるなど、寺運隆盛であった。山門は三代将軍家光がお成りになったことに因んで御成門と称し、将軍家累代の祈願所とし、無本寺として独礼の寺格を以て遇せられた。また関東十一談林のひとつとして60余ヶ寺の末寺を有し、5ヶ村の鎮守である氷川神社をはじめ、三寳寺池中の島弁財天、水天宮、愛宕社などの別当であった。境内の大黒天堂は開運出世福徳無盡の尊として参詣絶えず、地階の子育千体地蔵尊は檀信徒自ら彫刻した1000体の地蔵尊をお祀りし、更に天井にも檀信徒の画いた天井画数十枚を配して荘厳されている。武蔵野三十三観音のほか、御府内八十八ヶ所、関東三十六不動などの札所として参詣者が多く、特に境内の奥之院は高野山のそれを模し、八十八ヶ所お砂踏霊場は四国霊場の風光が感ぜられる。文久年間など2度の火災に遇い寺宝を灰燼に帰したため、御成門のみ当時の面影を残している。

如意輪寺 :
如意輪寺は、具(つぶさ)には光明山福生院如意輪寺という。真言宗智山派に所属して、総本山は京都東山七条の智積院である。如意輪寺草創の正しい年代は不詳であるが、古過去帳記載の中興第七世と思われる恵定法印(正保4年・1647)の五輪塔が、現存住職墓碑では最古のものである。また下田氏一族の墓地には、寛永16年(1639)、慶安5年(1651)等の古碑があり、江戸時代初期の資料として貴重である。この他にも、応長元年(1311)、嘉吉4年(1441)、寛正2年(1461)等の板碑も保存されていることから、当寺の開創は相当古いものと推定される。当山の本尊は本来不動明王であったが、本堂消失後、新本堂建立とともに、金剛界大日如来(鋳造、享保5年製作)を本尊として安置し、観音堂には如意輪観世音を奉祠する。明治25年の火災により本堂庫裡共に全焼して、本尊不動明王や古文書などもすべて焼失しているが、境内東南隅にあった観音堂は難をまぬがれて、大正2年(1913)現在地に移築され、保谷の観音さまとして皆に親しまれている。現在、武蔵野三十三観音霊場第4番札所、多摩新四国八十八ヶ所霊場第35番札所となっている。

多聞寺 :
武蔵野の面影を残す当地に悠久の歴史を秘めて佇む当山は、真言宗智山派に属し元仁年間(鎌倉時代)に草創され、天満宮を安置して梅本坊と号している。凡そ100年の後、祐観上人が止住して毘沙門天を本尊とし、寳塔山吉祥院多聞寺と寺号を改めたが、天満宮は今なお本堂に祠られ学問の神として参詣者も多く訪れている。更に毘沙門天は七福神のひとつに数えられ、除災招福の功徳尊として信仰されている。また、当山は武蔵野三十三観音霊場第5番の札所の他、多摩四国八十八ヶ所第37番の札所でもあり、東久留米市七福神巡りの1寺でもある。また、10月14・15日には『獅子舞』が境内一杯繰り広げられ、市内はもちろん近郷在住から大勢の見物客が訪れ勇壮な舞に酔いしれている。
この『獅子舞』は江戸時代のはじめ頃、伊勢から東久留米市南沢に伝えられたもので多聞寺境内と鎮守南沢氷川神社で五穀豊穣の年の秋祭りに実施される。
今日では、3年ないし4年ごとに行われている。


全龍寺 :
当山は慶長元年並木主水正安松を開基とし、浄牧院九世玉室應珍和尚の開山である。貞享4年、明治13年と2度の火災によって記録及び什物の類は殆ど焼失し、詳細は不明である。清瀬市内6ヶ寺の中、15石の御朱印寺は全龍寺只1ヶ寺のみである。戦前は中清戸の3分の1は寺有地であったが、農地解放により20町余を失い、現在境内地は3000坪足らずになった。

徳蔵寺 :
徳蔵寺は福寿山と号し、臨済宗大徳寺派に属する。開山は璧英宗趙禅師で、御本尊は白衣観世音菩薩(白は清浄菩提心を表し、白衣で石上に座す)で、武蔵野三十三観音霊場第7番の札所であり、また狭山観音霊場第11番札所にもなっている。境内は、もと板倉氏の屋敷跡であったといわれ、「新編武蔵風土記稿」には土塁や塀の跡が残っていたといわれている。従って忠誠の文化財である板碑や宝篋印塔等、境内から数多く発掘され保存されている。また元文2年(1737)当寺9世億厳儀厚代建立の本堂は昭和57年、客殿、庫裡と共に改築されて現在に到っている。徳蔵寺板碑保存館は昭和43年、多くの方々のご協力により鉄筋あぜ倉造り、2階建が完成、元弘の碑(国重要文化財)を中心に板碑約150基、石器、土器やその他の物を展示し、一般の方々が拝観できるようになっている。秋の彼岸の最終日保存会員が参集し、保存館内で板碑供養会や歴史講演会が行われている。

圓乘院 :
狭山丘陵は東西に約10.5キロメートル、周囲30キロメートルの楕円形をしているが、東村山市と東大和市に沿った丘陵の谷間を利用して、飲料水を蓄えるダムが昭和9年に完成した。これが村山貯水池(多摩湖)で、多摩川の水を引き入れて貯水し、貯水量は約1953万立方メートルといわれる。徳蔵寺から東村山駅(西口)を経て東大和市に入り、西武武蔵大和駅ガードをくぐると多摩湖への入口がある。この先、案内板に従い右に折れて丘陵を登っていくと鐘楼門があり、本堂が見えてくる。寺は武蔵野の台地に静かにたたずみ、平成4年には、山容の整備が施され東大和市から二十景の随一に指定され、手入れのいきとどいた境内は身がひきしまりやすらぎを覚える。寺伝によれば賢誉法印(平治元年−1159−入寂)が始祖で、古くは延寿院とよび、上の屋敷にあった草庵は風災にあい、慶長12年(1607)現在地に移る。第二十世の慶範法印代に紀州根来寺より錐鑽(きりもみ)不動尊を写して本尊とし、24世宥専法印は寺の再興を図り中興第1世となった。本堂正面須弥檀には札所本尊如意輪観音がご安置されている。

實蔵院 :
もと野老山正福寺(ところさんしょうふくじ)と呼び、現在は単に野老山と号し、真言宗豊山派に属している。寺歴については、宝暦3年と文政7年の2度の大火で、古文書、縁起類、一切烏有に帰して詳らかでないが、戦前供出した古半鐘には、正平7年新田義興によって開基されたとの銘があった。現在の本堂は、嘉永3年に再建され、本尊は大日如来、同本尊の脇侍として、聖観世音菩薩が安置されている。なお当寺は旧鎌倉街道に沿っており、この野老とは、現在の所沢の古い名称であり、このことによっても創立が古いことを証明していると思われる。なお昭和29年本堂の修繕及び庫裡の改築が行われた際、貞治4年(1365)8月8日建立の弥陀一尊種子板碑、應永11年(1424)2月2日建立の弥陀一尊種子板碑、並びに享徳3年(1454)9月30日の金箔押 弥陀三尊種子板碑が発見され、保存されている。宝暦年間(1751−64)の中興開山を慧海阿闍梨と伝えられており、現在の住職は、墓誌によって第23世に当たっている。

新光寺 :
当寺の創建は定かではない。新光寺略縁起に、遊石山観音院と号し、本尊の聖観音は、行基大士の作と伝え、慶安2年(1649)に観音堂領として、幕府から六石の朱印が出されている。寛政2年(1790)の寺社書上には、「三間四面のお堂」と記録されている。草堂に観音像を安置したのがこの寺の始まりであろうか。また、『新編武蔵風土記稿』や『吾妻鏡』『武蔵野話』『江戸名所図絵』などの地誌に、建久4年(1193)源頼朝が那須野へ鷹狩に向かう途中、ここで昼食をとった折り、その時の幕舎の地を寄進している。その後元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉攻に向う途中、当寺に立寄り戦勝を祈願したことなどが記載されている。更に、聖護院門跡道興准后の『廻国雑記』に、野老沢の観音院に、福泉と言う山伏がいて、酒の肴にとろろいもを出したので『野遊のさかなに山いもそいて、ほりもとめたる野老沢かな』と書いている。当寺は旧鎌倉街道の傍にあって、この附近が所沢の地名と集落発生のところとされている。

普門院 :
縁起書によれば、本尊は不動明王にして往古は一草宇であったが、後昇格して一寺に列したという。開創は天平宝字年間、弘法大師巡錫の際此に至り、人々のために三ツ井戸(西所沢東川のほとり)を加持祈念した。其時本尊不動明王を親刻し、井ノ南丘に草宇を構えて安置したもうと伝えられている。元来西所沢町の東川のほとりにあったものを、寛文年中に開創地より、現今の字地に移し現在に至る。三ツ井戸付近の地は幽谿緑樹繁茂し、堂宇腐蝕甚しく、興廃を繰りかえしてきた。尚三ツ井戸の水は衆病を除き、寿命無量の益ありとして無量寺といわれ、明治・大正・昭和と年移り、現在に至る。参道から門に入る左手前に、北向の六地蔵菩薩がお祀りされている。昔から子供の守本尊として夜泣き、病気など母親の悩みごとなどを解決して下さる、霊験あらたかなお地蔵さまである。

全徳寺 :
近年、所沢市郊外も急速に宅地化がすすみ、武蔵野特有の雑木林の面影は少なくなってしまったが、そんな中でも狭山茶の畑が点在していて、まだ緑が残っている静かな環境の中に全徳寺は建っている。山門・本堂・客殿等の建築は平成元年に完成したものであるが、寺伝によれば、永禄年間(1560頃)に、開山の顧山明鑑和尚が、地区内にあった無住の数寺を統合したものと言われている。ちなみに、顧山明鑑和尚は、永禄11年1月6日遷化と石碑にある。本堂には、本尊釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩の三尊仏と、観音堂には、普悲観世音菩薩が安置されている。釈迦三尊、普悲観音は、地元在住の仏師、皆川閑慶師の作で、特に、釈迦如来の胎内には、十二支の守り本尊が納められており、最近は、十二支の守り本尊詣りも増えてきた。近くには、新田義貞の鎌倉攻め(1333)で有名な、小手指原古戦場や、由緒ある北野天神社もあり、さらには、狭山湖へのハイキングコースにもなっている。

金乘院:
本尊千手観世音菩薩は行基大士の作、弘仁年間弘法大師の開基と伝えられ、此の地を千手ヶ谷と称し、一心に観世音を信ずる者には、必ず諸願を成就せしむと云われ、信仰されて来ている。昔、弘法大師がこの地を通り、山の中から不思議な光が出ているのを見られ、入って来た所、小さな祠に観音菩薩の祀られているのを見つけ、その晩此の祠に一夜の宿をとられた。当時此の地方に悪病が流行し住民が難儀しているのを見て、翌日から千座の護摩を修行され、その折に本堂右裏の池の水を閼伽水として使われたといわれている。後に住民が此の水を飲んだ所、病人はたちまち良くなり、再び明るい生活に戻ったと云われており、現在の境内の水はすべて此処から引かれている。現在の本堂は宝暦年間に再建されたもので、本尊千手観音菩薩の左に毘沙門天、右に不動明王、更に聖観世音菩薩、聖徳太子、二十五菩薩など多くの諸尊像が祀られており、当時からの絵馬が堂内外に多く現存している。

妙善院:
曹洞宗妙善院は、旧前沢村(東久留米)浄牧院の末寺で、本尊は白衣観世音、行基の作といわれる。惣門より山門をくぐり、本堂に至る。山門には仁王様と2階には十六羅漢様が安置、左手に地蔵堂、右手に慈母観音像を仰ぎ、鐘楼堂を同じく右に見ながら、又時代に即応した、幼稚園、保育園を右手に見ながら、水屋で身も心も浄めて参拝する。当寺は天正年間(1570年代)今から400有余年前、源義家の後孫、徳川の旗本、沢次郎左衛門の開基とされ、開山は阿山呑碩大和尚で、現在が18世である。歴代沢家の菩提寺として護持され、由緒ある寺院。沢吉縄は、徳川家康に仕えて関ヶ原の戦いに参戦するなどの働きをした武将で、子孫は以後徳川幕府の旗本として歴代将軍に仕えた。元禄年間には常陸国新治郡などにも知行地を与えられ600石取りとなった。代々当寺を菩提寺とし、天明5年(1785)には開基盆供料として金百疋を奉納、嘉永7年(1854)には、一族の幸良が描いた幸純ならびに幸洸・幸得の画像2幅(市指定文化財)が奉納された。ほかに、沢氏系図、徳川家康画像なども残されている。

松林寺 :
吟龍山松林寺は、道元禅師を開祖とする曹洞宗の寺院である。所沢市安松にある長源寺を本寺とし、安永9年(1780)から嘉永3年(1850)にかけて、伽藍の整備を完了するも、大正2年に火災に遭い、本堂、庫裡等ほとんどの伽藍を焼失した。しかし翌大正3年には仮本堂を再建し、昭和40年には梵鐘を再鋳、昭和46年には庫裡を新築し、そして昭和51年に現本堂を建立した。本尊は松久朋琳作の釈迦牟尼仏である。さらに平成3年に薬師六角堂を再建し、現在の姿となる。この薬師堂の本尊、薬師瑠璃光如来は、明治18年、東京上野の寛永寺山内、成就院より縁あって、当寺に奉祀され、長らく常吉薬師として親しまれてきた。近年特に老朽荒廃が著しく、総桧造り銅板葺き六角堂として、あらたに日光菩薩、月光菩薩の両脇侍を新彫りし、仏画十二神将を奉祀、仏具荘厳具一式を新添して、新築建立されたものである

慈眼寺 :
西部新宿線、狭山市駅西口より徒歩で約7分。狭山市駅交差点のところにある。交差点の交通量が多く、近くに航空自衛隊入間基地もあり騒々しいところであるが、境内へ入ると大木に囲まれているためかしばし喧騒を忘れさせてくれる。しかし時折飛び立つジェット機の騒音やヘリコプターの振動には閉口させられてしまう。時間のある方は本堂を横切り墓地の一番奥まで行くと、自衛隊航空機の離発着が見られ、さらにそこから一望する秩父の山々や狭山の町並みは巡礼の疲れをしばし癒してくれる。本堂内には本尊、十六番観音「聖観世音菩薩」とその奥に狭山市指定文化財の「阿弥陀如来像」が安置されている。墓地より市街へ下る裏道には、「黒こげ地蔵(別名  イボとり地蔵)」がひっそりと祀られている。その由来は、入間川は戦後まで宿場町として栄え多くの遊郭が存在していたが、肉体的・精神的にも病に侵された遊女達の深い信仰を受け、常に線香の煙やロウソクの灯が絶えずそのススで真っ黒になってしまったことからその名が付いたと伝えられている。

徳林寺 :
狭山市駅西口下車。歩8分余りで徳林寺に着く。駐車可。まず本堂へ。納経所は庫裡。茶所あり。トイレ可。当山の創立は、元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの合戦にこの地に本陣館を置き、その守護仏として聖観音を安置し、地頭小沢主税が開基となり当寺が建立された。この聖観音が武蔵野霊場のご尊像であり、お像は唐からの渡来仏と伝えられている。台座と光背は鎌倉時代の作といわれ総金箔押しの豪華な秘仏である。また当寺は、文和元年(1352)から約7年の間、足利基氏が坂東武者を補佐として関東管領の入間川御所(入間川殿)が置かれた。また初期の宗旨は明らかではないが、天文元年(1532)に曹洞宗(禅宗)に改宗された。慶長年間上州より当地に移住した綿貫庄左ェ門が当山の中興開基となり、綿貫家は豪商で名を轟かせ、狩野派の御絵師などを抱えており、当山にはその筆になる仏画の軸物があり、その中で釈迦八相図・涅槃図は市指定文化財になっている。平成5年に本堂造立を完成。周囲のビルの立ち並ぶ街の中、木造の優美な伽藍は、堂宇の安らぎを与えてくれる。

蓮花院:
蓮花院は、入間市春日町に在って真言宗智山派に属し、世音山蓮花院妙智寺と云い、院号をもって公称としている。開山当時の古記伝等は現存していないが、口碑によると建仁元年(1201)6月「新古今集」の代表的歌人として名高い寂蓮法師が東国巡行の際、黒須川を渡り里人とはかり堂閣一宇を創立し、千手観世音を本尊としたと云う。境内に開山寂蓮法師の古碑が現存している。広大なる境内は、けや木や杉の大木におおわれ、いちょうや楓も多く、特に夏の間咲き続ける百日紅や秋の紅葉の美しさと、池を配した日本庭園のたたずまいは、あくまで静寂にその景観の美しさは稀に見る浄域で往昔新田義貞が鎌倉攻めの途上、必勝を祈願した黒須観音の存在で名の在る古刹である。現在の観音堂は、天保6年(1835)に再建されたもので、精巧な彫刻と併せて、内陣の格天井には、格間165枚に、東松山出身の狩野派画家江野梅青の手による花鳥の色彩絵が、見ごとに描かれている。また、当寺所有の鰐口は県指定の重要文化財で直径38センチの重量感あふれた作品である。

15:30終了、東京駅に向かう。
16:30東京駅到達
16:47東京駅新幹線のぞみで出発
19:20新大阪駅到達

今回の旅行、土曜日は東京ザ・プリンスパークタワーで講演会に出席し宿泊、翌日の日曜日はレンタカーで武蔵野エリアに点在する武蔵野三十三観音の18か所を巡り楽しみました。
中規模の寺院がほとんどで比較的集中して点在していましたので訪れることが容易でゆっくり回りました。
次回は残りの15か所を訪れたいと思います。


 


























飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十八弾:新潟県越後八十八箇所霊場巡り観光
2017年5月27−28日


甲信越地方の東西に細長く日本海に面した新潟県に足を運び越後八十八箇所霊場の第三弾発心の道場23か所を巡りました。

27日17:40伊丹空港出発
18:40新潟空港到達、レンタカーで柏崎方面に向かう。
20:00柏崎駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
28日7:30レンタカーで出発、霊場巡り。

光明院 :

実相院:

最勝寺 :

大泉寺:

蓮光院 :

多聞寺 :

明蔵寺:

長福寺:

極楽寺 :

密蔵院 :

密乗院 :

報恩寺 :

金泉寺:

十楽寺 :

善照寺 :

宝蔵寺 :

円満寺 :

般若寺:

西光寺 :

華蔵院:

真蔵院 :

形蔵院 :

正法寺 :

16:00終了、新潟空港に向かう。
17:00新潟空港到達。
19:10新潟空港出発
20:20伊丹空港到達。

今回の旅行、新潟県に点在する越後八十八箇所霊場の発心の道場23か所を巡り楽しみました。
中等度の規模の寺院が多く、数か所は整備されず、傷んでいた寺院が見られました。
お参りに来られる方も少なく寂れていました。

次回は最後のエリア、浬槃の道場エリアを訪れる予定です。















  
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十五弾:九州八十八箇所&佐賀県お城巡り観光
2016年12月10−11日
 

九州の小規模な国人に過ぎなかった龍造寺氏が、龍造寺家兼の時代に飛躍し、肥前で権力をふるう戦国大名となる、一時は島津氏、大友氏と並び九州の支配を分け合うが、龍造寺隆信の死後、配下の鍋島氏に実権が移る佐賀県に足を運び佐賀県に点在する九州八十八箇所霊場の12か所、比較的マイナーなお城8か所を訪れました。

10日17:30伊丹空港出発
18:50長崎空港到達、レンタカーで大城方面に向かう。
19:50大城市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
11日7:30レンタカーで霊場・お城巡り。

獅子城:築城年代は定かではないが治承年間から文治年間(1177年〜1190年)頃に源披によって築かれたと云われる。 源披は松浦党の祖源久の孫にあたり、この一帯を領して築城したが、子の源持の時代に平戸へ移った為、廃城となったという。その後、戦国時代に日在城主鶴田兵部大輔直(ただす)の弟、鶴田兵庫介前(すすむ)によって再築城された。

金剛寺:寺伝によれば、当山ご本尊は、上松浦の要として当山より南に半里の地に在りし獅子ヶ城に代々守り本尊として 伝えられていた尊像で、別名を厄除け千躰大師と称します。
 城主鶴田氏衰退後、永年岩間に端座せしが、明治三十年三月。 縁あって当地に大師堂を建立し安置し奉るが当山の始めなり。
 なお、厄除け千躰大師の名の由来は、一切衆生の願いの数だけ、その尊いおすがたを千にも万にも千々に分かち、 人々の災厄をしりぞけ、衆生を救わんとのお誓いによるものです。

岸岳城:築城年代は定かではないが、波多氏によって築かれたと云われる。 波多氏の居城としては八幡神社の裏山に波多城がある。 波多氏は、源久の次男特を祖とする松浦党の一族で波多氏を名乗った。
16代波多盛が嫡子なく没すると、後室の妹の子を17代波多親として迎えたが、これに不満を抱いた重臣日高氏は岸岳城を乗っ取った。後室は龍造寺氏に岸岳城の奪還を依頼、日高氏は松浦氏に援軍を依頼したが、松浦氏の到着前に龍造寺氏が攻め寄せ、日高氏は岸岩城を破棄したという。
波多氏はその後豊臣秀吉による九州征伐に参陣せず、秀吉の怒りに触れたが減封のみで存続、しかし文禄の役からの帰国途中で改易となり常陸国筑波山麓へ配流となった。

鶴林寺:九州の西北端に位置し、唐津・玄海灘を臨む、古くから大陸と日本を結ぶ海洋の要港であった。近くには、虹の松原の景勝があり、唐津くんちも全国に知られている町である。
ご本尊は薬師如来・子安弘法大師を安置し、安産、子育ての加持祈祷の寺として信者様に知られ、境内は不動明王、十三仏を配置し、地元では子安さんとして知られている寺であり、松井寳堂師が開基、ひたすら弘法大師の教えを実践。
吉原山の山号は、○信者に結縁している。この土地は吉原氏の所有で先祖の地を寺院に提供その功徳を称して山号にした。

大聖寺:唐津城、唐津焼、虹の松原で有名な唐津市。その中心部、駅より徒歩5分ほどの場合に大聖院は位置します。周りは寺町の名にふさわしく寺院が立ち並びます。もともとこの寺は秀吉の時代、北波多村というところにあり、岸岳城主波多三河守の祈願寺として名を大法寺と称した。岸岳城落城の後火災に会い、その後慶安元年に大僧都興玄大和尚により唐津に移転され名を大聖院と改号した。
山門を入れれば正面に入母屋造りの本堂がある。本尊は不動明王様で参拝の方々の願いを一身に受け止めてくださいます。また一緒にお祀りされているお大師様は、もともと讃岐の金比羅様の境内にありその後、明治初年に四国善通寺にお移りされ明治7年大聖院に御遷座なされました。
開運厄除け・道中安全に特にご利益ありといわれております。また、本堂には開運福徳大黒天、唐津神社本地佛十一面観世音菩薩(8月17日のみご開帳)・銅造如来坐像も安置されています。山門より右手屋上に大きな修行大師像がお祀りされております。昭和7年の御遠忌に建造されましたが戦国中に没収、昭和26年に再建されました。

徳川家康陣:徳川家康は文禄の役の時、武蔵国江戸城主二百四十万石の大名である。家康は名護屋で在陣しているが渡海はしていない。
徳川家康の陣は名護屋浦を挟んで東西にあり、こちらが西が本陣、東が別陣である。 その規模は西側の方が小さい。

住吉城:築城年代は定かではないが後藤氏によって築かれた。 後藤氏は塚崎城を居城としていたが、天正14年(1586年)20代家信の時に住吉城を居城とした。 しかし、慶長4年(1599年)火災により焼失したことで再び塚崎城へ居城を移し廃城となった。

宝光院:世界に名声高い有田焼の地に有って周りは県立公園の黒髪山と龍門峡を背にし、流れる水は百選の1つで、初夏にはホタルが舞うという背景に小さな寺が有ります。
御本尊は十一面観世音(秘仏)で、参拝者の願いや苦しみを取り除いて頂いています。
開山は修験者達がお参りされる人の願い事や、五穀豊穣を祈願したと言い伝えが有って、現在も引き継いで御本尊に祈念しております。境内には水子堂が建っていますが、各方面より多数の人達が供養に訪れています。各地でも、水子、子育て丈の(供養・祈願)お堂が有るのは大変珍しいと思います。
又、本堂の側には御大師様が安置されていて厄除大師としてお参りされています。寺全体が明るく、心が清らかになる寺です。どうぞお誘いあわせでお参りください。

西光密寺:古来より山岳信仰の霊山として名高く、 佐賀県立自然公園でもある黒髪山のほぼ頂上にあります。  弘法大師さまが入唐求法の途上で遣唐使船が平戸係留の間に、 無事の渡航を祈念して黒髪山にご登嶺され、 無事にご帰朝の後にはお礼参りに再びご登嶺あり、 不動明王を爪彫りされ安置されたのが寺の始まりと伝えられています。 (この不動明王は今は佐世保市の黒髪山大智院にお祭りされています) 
 現在の西光密寺のご本尊は、 黒髪三所権現の本地仏といわれる、薬師如来、 阿弥陀如来、千手観音の三体の掛け仏さま(秘仏)です。 多数ある山中の石造物等から、 往時の信仰の深さが偲ばれます。

無動院:室町時代創建の当山は、約600年もの間、黒髪山修験道とともに、繁栄してまいりました。境内には重要文化財指定の六地蔵尊石塔、近隣の人々に篤く信仰を受ける眼病平癒の黒髪眼不動尊、子供の安全発育を願う子育地蔵尊等心の安らぎが得られる静かな佇まいのお寺です。心を癒しにおいでください。
 また、九州三十六不動霊場第二十六番札所としての信仰も受けております。
土曜日は住職による寺子屋書道教室も開講され、小学生の賑やかな声が聞こえ京都嵯峨書院九州支部にもなっています。

東光寺:佐賀県西部に位置する三間坂は長崎県境を塞ぐ神六山の裾野に拓けた盆地で、信仰の中心は黒髪山に縁起している。
東光寺は国道35号線から南に入ったところに在り、参道を分けて左側に幼稚園が営まれている。寺史には弘法大師が巡錫の砌り黒髪山に西光密寺(大智院)を創建されたとき、その末寺として建立されたと伝えられているが、阿忍僧正をもって中興開基としている。阿忍僧正は天文十六年(1547)、東光寺を再建して本尊に薬師如来を安置した。脇持は阿弥陀如来と聖観音を合祀し、後の明暦二年(1656)城主茂和の命により黒髪大権現を勧請して鎮守神と崇め、神仏合体の信仰を宣揚した。
脇持の阿弥陀如来は安阿弥の作と伝え、厨子に願文が書されている。それによると『曰奉造厨子一字信心。大檀那後藤藤原純明公。権少僧都阿忍。天文十六年卯月八日 東光坊』とある。その後、領主(後藤家)の崇信は篤く、元亀三年(1573)貴明は仏殿を造営し、寛文七年(1667)茂紀は仏像の修復に寄与するなど、代々料米を下附して外護につとめられた。しかし、明治三年の神仏分離令によって鎮守社は近くに独立移転し、東光寺も寺運の衰退気味になるも、法灯は継承され先代隆堅和尚により現在のように伽藍が整備された。
寺宝として現存する兼好法師撰、小倉山京極定家筆「真髪山紀事」の古文書は、弘法大師と黒髪山との関係を知る上での貴重な史料である。
 身丈二十センチほどの観音像(制作年代不詳)に異国の信仰が偲ばれる。右手の結んだ印が親指と中指で十字の形をしており、隠れキリシタン観音と呼んでいる。美術品としてみる仏像の価値観より、祈りという信仰の心を覗くことができる。また、白く美しい正観音(ボーンチャイナ)も信仰を集めている。

塚崎城:築城年代は定かではないが元永年間(1180年〜1120年)に後藤氏によって築かれたと云われる。 後藤氏は藤原北家利仁流で塚崎荘の地頭となり下向したと云われる。
天正14年(1586年)20代家信の時に住吉城へ居城を移したが慶長4年(1599年)火災により焼失したことで再び塚崎城を修復して居城を移した。

光明寺:武雄温泉は古くからの湯治場として多くの人々の癒しの場として親しまれて参りました。光明寺は「南無薬師諸病疾除の瑠璃の寺肥前湯の町尽きぬことなし」と詠歌に歌われている様に、温泉の守護として土地の人々に見守られながら今日に至っております。
 また明治26年より武雄新四国発願所としてお彼岸等には、市内を中心に420カ所以上のお堂や寺院などを住職が先頭に立ち檀信徒の方々と巡拝し、広く信仰を集めております。また、境内や参道には多くの石仏が手作りの赤い胸当てを掛けてお参りの方々を暖かく迎えておられます。

高野寺:大同元年(西暦八〇六年)弘法大師さまが中国、当時の唐の国の都長安にて密教を学ばれ、九州博多に帰朝され九州各地を行脚しておられた折、この土地が紀州の高野山に似ておることからこの地を肥前の高野山と定められ、草の庵を結ばれたのがこの寺の始まりと伝えられる。その折、現在の穀倉地帯の佐賀平野は原野でこれを開墾するには、人口を増やさねばと、一体の観音さまを刻み、この観音さまに祈ると子供が授かり安産で元気に育つと申され現在も子宝観音として、子授け、安産、子育ての祈願が絶えない。 
また、佐賀多久藩の祈祷寺として代々帰依を受け、残される古文書には、「いかなる咎人も高野寺の境内に走りそうらえばその罪を許される」と云う近世の駆け込み寺の役割もしていた罪障消滅の道場である。境内には平地に珍しい高山植物のシャクナゲが樹齢三百年以上を含めて千本以上あり、毎年四月初旬より開花し大勢の花見の客でにぎあう。平成十八年(西暦二千六年)、開創千二百年を記念として、焼失後百十八年ぶりに、新しく本堂、会館など建立し境内を整備し弘法大師の教えを今に伝えておる。

須古城:築城年代は定かではいが天文年間(1532年〜1555年)に平井氏によって築かれたと云われる。平井氏は少弐氏の一族で少弐資頼の二男盛氏の子経氏が平井氏を称したのが始まりとされる。その後、千葉氏の家臣となり有馬氏に備えてこの地へ配されたという。
有馬氏に備えて杵島の地にいた平井氏は、大永5年(1525年)平井経則は有馬氏に寝返り、以後有馬氏に従って千葉氏と戦った。天文年間(1532年〜1555年)に須古城を築いて居城とし、支城として男島城と杵島城を築き弟に守られた。
平井経治は永禄6年(1563年)から天正2年(1574年)までの間に、龍造寺隆信によって四度攻められ、天正2年(1574年)ついに落城し平井氏は滅亡した。
その後、須古城は龍造寺氏の属城となり、天正6年(1578年)(一説に天正9年)に龍造寺隆信が隠居すると須古城へ移り居城とした。しかし、天正12年(1584年)龍造寺隆信は有馬・島津連合軍との戦いで討死し、須古城は隆信の弟龍造寺信周の居城となり、須古鍋島家の祖となった。

潮見城:潮見城跡は橘氏が長嶋の庄の総地頭としてこの地に、潮見山の要害を利用して築城

鹿島城:文化4年(1807年)鍋島直彜(なおのり)によって築かれた。 鹿島藩ははじめ常広城にあったが、度重なる水害の為、幕府の許可を得て高津原に築城した。

誕生院:誕生院は、真言宗の中興の祖であり、新義真言宗の開祖である興教大師覚鑁聖人の誕生の地に建てられた祈願のお寺です。境内5200坪の中には、金堂、本堂、鐘楼堂などが建ち、桜、藤、つつじ、しゃくなげ、もくせいなど四季折々の花が咲き乱れる香煙縷々として絶えることなく今日に至ります。御本尊は、皆様の身代りになって下さる錐鑽身代不動明王さまです。
年間通じて、覚鑁聖人のご誕生になられた聖地として安産祈願や誕生祈願、又、涙を流す慈悲深き水子地蔵さまには多くの方々に参拝戴いております。皆様も、是非、ご気軽にご参拝戴き、私生活や仕事を忘れて、諸仏諸菩薩のご利益を受け、ひとときのやすらぎを求めてはいかがでしょうか。

蓮厳院: 祐徳稲荷神社の膝元。平安時代から続く古刹で、本堂と庫裡は藁葺き屋根。庫裡は県内では少なくなったクド造りとなっています。 一見寺とは思えないたたずまいです。 ご本尊阿弥陀如来2体と薬師如来1体は国の重要文化財で全国でも数少ない定朝様式の仏様として知られています。 平安時代から今日まで、人々は手を合わせ諸願成就と、ご先祖様の菩提を祈る寺でございます。
又、当山奥之院岩屋山興法寺は真儀真言宗の祖、覚鑁上人(興教大師)幼少の折の修行聖地であり、当山は上人13歳で仏門に入る時本山二利寺寛助大僧正の弟子になられた勝縁の寺としても知られています。 平安仏に手を合わせ、心身の平安をお祈り下さい。お参りをお

大定院:当山は慶長年間に、藩主 鍋島直澄公が開基となり、権大僧都 阿金和尚の開山と伝えられている。
 永代 米穀数十石を毎年修繕費として下附され、鍋島藩の祈願寺として法燈隆昌をなす藩の厚い庇護を受けていたが、 明治4年の廃藩の際に寺領没収され、その後の資助が絶え堂宇荒廃する。
 明治12年、嬉野町より当地に移転し、鍋島藩ゆかりの吉田焼陶業の繁栄と領民の福祉、また、鍋島直澄公の霊牌を安置し祈願所とされている。

16:30終了。
17:30長崎空港到達。
19:20長崎空港出発。
20:35伊丹空港到達。
今回の旅行、九州佐賀県に足を運び、佐賀県に点在する九州八十八箇所霊場12か所、比較的マイナーなお城8か所を訪れ楽しみました。
観光名所の少ない佐賀県、マイナーなお城にもかかわらず、整備され案内板もあり今回はすんなりと見つけることができました。
霊場の立派な寺院が多く満足いたしました。
今回で九州八十八箇所霊場は制覇いたしました。 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十四弾:九州八十八箇所&長崎県お城巡り観光
2016年12月3−4日
 

九州北西部に位置し、対馬や五島列島など島々が多く、様々な勢力があり、強力な水軍を擁する松浦党が発展し、大村氏も長く存在感を示したが、戦国時代が到来すると勢力地図は一新、秀吉の直轄地となる長崎県に足を運び、長崎に点在する九州八十八箇所霊場2か所、比較的マイナーなお城11か所を訪れました。

3日17:30伊丹空港出発
18:40長崎空港到達、レンタカーで佐世保方面に向かう。
20:10佐世保市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
4日7:30レンタカーで出発、霊場、お城巡り。

最教寺奥の院:最教寺は、大同元年(806)弘法大師が唐から帰朝した時、初めて護摩を焚いたところといわれる。現在、奥の院には大師の護摩石と坐禅石があり、住時をしのぶことができる。慶長十二年(1607)平戸藩主松浦鎮信が高野山最教寺を復興、真言教学の学問所である談義所を合併し、大和国長谷寺の空盛上人を中興開山として招いた。
また、その二年後、奥の院を建立している。西の高野山と呼ばれるだけあって、広大な境内である。駐車場からは、脇より境内に入ることになるが、本来の参道は楠が並ぶすばらしい石段が続く。切妻造の山門を入った正面が入母屋造の本堂で、安永三年(1774)の建築である。本尊は虚空蔵菩薩を拝することができる。

開元寺:弘法大師空海は、密教の奥義を学ぶため、唐(中国)に渡ることを目指した。そして、延暦二十三年(804)三十一歳の時、留学生として第十六回遣唐使船で難波を出航。その時の大使は藤原葛野麻呂。伝教大師最澄や義心、橘逸勢なども、同じく入唐して いる。瀬戸内の各所に立ち寄りながら九州に至り、最後に日本を離れたのが、田ノ浦である。寺号の由来は、嵐など苦労の末、弘法大師が十二月の終わりに唐に上陸後、一ヵ月の間とどまった福州の寺院が開元寺で、近年にその寺号を称したものである。入唐山開元寺 というが、お寺であるわけではなく、顕彰碑と法要殿があり、顕彰碑には『弘法大師唐渡解纜之地』と刻まれている。石碑には、石造の厨子のなかに、弘法大師の石仏が安置されている。また、法要殿においては五月に『田ノ浦法要』が勤修される。弘法大師の時代と同じ風景を見、大師の心の内を垣間見ることのできる霊場である。

日の岳城:中世以来、平戸松浦氏の居城は御館をはじめとしていくつかの変遷をみるが、26代(初代藩主)鎮信(法印)が、それまでの白狐山城(勝尾岳城)を棄城して、現在平戸城のある亀岡に築城を着工するのは、慶応4年(1599)のことで松浦氏が戦国大名を脱して近世大名へと転換をはかる時期と符合する。ところが城は完成を待たずに鎮信みずからの手で焼き払われてしまう。オランダ商館設置に象徴される平戸城下の発展と領内のキリシタンの存在に向けられた幕府の猜疑と不信をとくことが理由であったと考えられるが、はっきりした理由は不明である。
 以後、藩主は約100年間城を持たず御館に居住していたが、元禄16年(1703)、5代藩主棟(たかし)の再築願いが許可され、翌(宝永元)年着工、亨栄3年(1718),6代藩主篤信(あつのぶ)の代に完成する。焼却以前の平戸城を日の岳城とよび再築後は亀岡城、玄武城、朝日岳城の名でよばれた。現在の天守閣は昭和37年(1962)の築造である。

梶谷城:築城年代は諸説あるが松浦氏の始祖源久(みなもと ひさし)によって築城された。

直谷城:築城年代は定かではない。 城主は志佐氏で、松浦清の次男貞を初代としており、松浦氏の勢力拡大とともに志佐一帯に勢力を伸ばしここを居城とした。
八代志佐義の時代には壱岐の湯岳を領有して朝鮮貿易も行っている。 明応年間(1492年〜1501年)志佐純勝のとき、大村氏と龍造寺氏の連合軍に攻められ落城、五島へ逃れたことにより直谷城は空城となった。
その後の平戸・田平合戦によって里城の峰氏は田平一帯を松浦氏に譲り直谷城に入り志佐の名跡を継いで志佐純元と名乗った。
寛永2年(1625年)志佐純昌のとき御厨に移封となり直谷城は廃城となった。

三城城:永録7年(1564年)大村純忠によって築かれたと云われる。
三城をめぐっては三城七騎籠(さんじょうななきごもり)が有名で、これは元亀3年(1572年)塚崎城主後藤貴明・平戸城主松浦隆信・高城城主西郷純尭の連合軍に囲まれたおり、城主大村純忠と主たる武将七騎(大村純盛,朝長純盛,朝長純基,今道純近,宮原純房,藤崎純久,渡辺純綱)で籠城し守り通した戦いである。
三城は慶長4年(1599年)に喜前が玖島城を築城し拠点を移すまでの本拠地であった。

玖島城:慶長4年(1599年)大村喜前によって築かれた。 大村氏は藤原純友の後裔を称し、純友の孫直澄が肥前国藤津郡・彼杵郡・高来郡の三郡を与えられ、彼杵郡大村郷に住んで大村氏を称したことに始まるとされる。 喜前の時、玖島城を築き三城より居城を移した。
大村純前は有馬晴純の次男純忠を養子に迎え家督を継がせた。これが初のキリシタン大名として知られる大村純忠である。純忠は永禄6年(1563年)洗礼を受けてバルトロメウの洗礼名を与えられた。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に従い所領を安堵され、純忠の後に家督を継いだ大村喜前は、関ヶ原合戦で東軍について小西行長の宇土城を攻め、二万八千石弱の所領を安堵された。
大村氏は家臣団を再編する機会がないまま大名となったため、藩主の経済力が極めて低く、これを解決するため「御一門払い」と呼ばれる家臣団の整理を断行し、庶家一門十五家の所領八千石余を没収し、領内の総検地を行った。

俵石城:築城年代は定かではないが室町時代に深堀氏によって築かれたと云われる。 深堀氏は相模国三浦荘発祥の三浦氏の一族で建長7年(1255年)八浦荘地頭職を得て能仲が下向して深堀氏を名乗った事に始まる。
鎌倉時代以降一貫してこの地を治め、江戸時代には佐賀藩鍋島氏の家老として深堀陣屋を築いている。

諫早城:築城年代は定かではないが文明6年(1474年)頃に西郷尚善によって築かれたと云われる。 西郷氏は尚善の時に伊佐早次郎入道を討って、宇木城から諫早へ進出して船越城に入り、高城を築いてこれに移ったという。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に参陣しなかった西郷氏は所領を没収され、替わって龍造寺家晴が諫早に入部し一万石余を領した。家晴の子直孝の時、諫早氏を名乗り諫早家は独立した大名であったが、直孝が病身で江戸でのご奉公ができないとの理由で大名を破棄し佐賀藩の家老となった。諫早氏は高城城を居城として維持していたが、五代茂門の時、財政難によって城が維持できなくなり、東麓に諫早陣屋を構えて居城とした。

鶴亀城:築城年代は定かではない。神代氏代々の居城であったと考えられるが、神代氏の出自は詳らかではない。筑後や肥前にも神代(くましろ)氏がおり、龍造寺隆信と争った神代勝利などが著名であるが、この神代(こうじろ)氏は別系統である。
南北朝時代の神代式部貴益と戦国時代の神代兵部大輔貴茂が知られる。貴茂ははじめ日野江の有馬氏に属していたが、龍造寺隆信の勢力が及ぶとそれに従い、天正5年(1577年)には龍造寺軍が神代に着船すると神代貴茂は龍造寺隆信を饗応した。
天正12年(1584年)龍造寺隆信が有馬・島津連合軍と沖田畷で戦い討死すると、龍造寺方となっていた島原の豪族は有馬方へと寝返る中、神代貴茂は龍造寺方として踏みとどまり、有馬氏によって攻められた。しかし神代城は難攻不落であったため攻め落とされることはなかった。貴茂は有馬氏と和議を結ぶべく多比良城に招かれたが、その帰路謀殺されてしまった。当主を失った神代城も落城し神代氏は滅亡した。

深江城:応永年間に鎌倉幕府の引付奉行安富奉嗣が深江の地頭職となって以来、この地を領した。 天正5年、佐賀村中城主龍造寺隆信が高来郡の征討を企て、日之江城主有馬鎮貴と対決した際には、安富純治・純泰父子は有馬勢の主力として戦っている。
 天正10年、有馬鎮貴が島津氏と手を組み、再度龍造寺隆信と戦った際には、龍造寺方となり深江城に籠城して戦っている。 その後、龍造寺隆信が沖田畷の合戦で敗死したため、安富純泰は佐賀に移り深江氏を称した。

原城:明応5年(1496年)有馬貴純によって築かれたと云われる。 日野江城を居城とした有馬氏八代有馬貴純によって支城として築かれたのが始まりと云われる。
慶長4年(1599年)有馬晴信は日野江城よりも住みやすくより堅固な城を築いているとイエズス会宣教使の報告書に記されており、これが原城と考えられている。慶長9年(1604年)にはほぼ完成し、三層の櫓や家臣の屋敷、教会も建設された。
慶長19年(1614年)有馬直純のとき日向国延岡に五万三千石で転封となり、元和2年(1616年)松倉重政が大和国五條より四万三千石で日野江に入封した。 松倉重政は新たに島原城を築いたため、原城の石垣や建物を島原城へ移し、原城は元和の一国一城令によって廃城となった。
寛永14年(1637年)島原の乱が勃発し、一揆側の総大将として天草四郎が農民二万数千とともに籠城する。天草四郎は小西行長の家臣益田甚兵衛好次の子と云われる。 これに対して幕府は板倉重昌を派遣し九州の諸大名を率いて原城を包囲した。幕府の討伐軍は幾度となく原城に攻め寄せたが、籠城していた一揆軍は城を固く守ってこれを寄せ付けなかった。一揆を鎮圧出来ない幕府は老中松平信綱を派遣して事態の収拾を図ろうとしたが、この知らせに焦った板倉重昌は原城に総攻撃を命じ、突撃して討死してしまった。老中松平信綱は十数万もの軍勢で原城を包囲すると兵糧攻めを行い、兵糧が尽きたころに総攻撃を仕掛け原城は落城、大将天草四郎時貞も討ち取られた。
この一揆の責任を問われ島原藩主松倉勝家は改易ののちに斬首刑となり、大名として唯一切腹ではなく斬首という厳しい処分が科せられた。

日野江城:建保年間(1213年〜1218年)有馬経澄によって築かれたと云われる。 有馬氏の祖は藤原純友あるいは平直澄とも云われるが詳らかではなく、有間庄の開発領主で始め有間氏を称し、後に有馬と改めたと考えられている。
有馬氏が最盛期を迎えたのは天文年間(1532年〜1555年)頃で有馬晴純の時である。 晴純は始め賢純と名乗っていたが、将軍足利義晴より晴の字を賜り晴純と名乗った。 島原半島から肥前東部を制しており、天正年間(1573年〜1592年)に龍造寺隆信が台頭してくるまでは、肥前で最大の勢力であった。
晴純のあと家督を継いだ義貞は、永禄6年(1563年)百合野の戦いで龍造寺隆信に大敗を喫し、以後衰退していく。義貞の家督を継いだ義純は家督相続わずか一年で急逝したため、義純の弟鎮純が家督を継いだ。この鎮純が後にキリシタン大名となった有馬晴信である。
天正5年(1577年)佐嘉の龍造寺隆信の軍勢が島原半島を侵攻すると、有馬氏もこれに対抗できず降った。しかし、天正10年(1582年)晴信は龍造寺を離反して深堀城を攻め、天正12年(1584年)には島津氏の支援を受けて沖田畷の合戦で龍造寺軍を敗り、龍造寺隆信は討ち死にした。天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で有馬氏は秀吉に従い所領を安堵された。
江戸時代に入り日野江藩四万石の大名となった有馬晴信は、慶長17年(1612年)岡本大八事によって所領没収の上甲斐国都留軍に配流となった。晴信の嫡男有馬直純は幼少の頃から家康の近習となって家康の養女国姫を娶っていたことなどから、父晴信の連座を免れ、家督相続のうえ日野江藩四万石を継承した。その後、幕府に転封を願い出て慶長19年(1614年)日向国縣五万三千石で加増転封となった。
有馬氏転封後、しばらく天領であったが、元和2年(1616年)大和国五條より松倉重政が四万石で入封した。重政は当初日野江城を居城としたが、島原城を築いて居城としたため廃城となった。

18:00長崎空港到達。
19:20長崎空港出発
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州北西部に位置する長崎県に足を運び、長崎県に点在する九州八十八箇所霊場2か所と比較的マイナーなお城11か所を訪れ楽しみました。

平戸から島原まで広範囲の霊場お城巡りでしたが、道も広く、車も少なく、スムーズに訪れることができました。















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十二弾:知多四国八十八箇所巡り観光
2016年11月19−20日
愛知県知多半島に足を運び、弘法大師ゆかりの愛知県知多半島に開かれた知多四国八十八箇所霊場第二弾の41か所を訪れました。

19日17:00車で第二京阪京滋バイパス新名神高速道路経由して半田の駅付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。 
20日7:30車で出発、知多四国霊場巡り。

密蔵院:

安養院:

大御堂寺:

野間大坊:

法山寺:

報恩寺:

曹源寺:

来応寺:

玉泉寺:

安楽寺:

高讃寺:

洞雲寺:

宝全寺:

大善院:

相持院:

中之坊寺:

三光院:

宝蔵寺:

慈光寺:

地蔵寺:

大智院:

慈雲寺:

浄蓮寺:

正法院:

誕生堂:

密厳寺:

正法院:

誕生堂:

密厳寺:

如意寺:

福生寺:

妙楽寺:

妙楽寺:

栖光院:

龍蔵寺:

観福寺:

弥勒寺:

観音寺:

清水寺:

玄猷寺:

地蔵寺:

円通寺:

長寿寺:

興生寺:

16:00終了帰路に向かう。

今回の旅行、愛知県知多半島に点在する知多四国八十八箇所霊場第二弾41か所を訪れ楽しみました。
知多半島の狭いエリアでの八十八箇所巡り、移動に時間がかからず多くの霊場を巡ることができました。
個々の霊場は立派なものが多く、ローカルな新四国にしては素晴らしかった。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十一弾:伊予大島八十八箇所&愛媛県お城巡り観光
2016年11月12−13日
 

開創二百年余りの歴史を有する島四国、のどかな瀬戸内の風景を心癒される伊予大島准四国霊場八十八箇所の16箇所と愛媛県のしまなみ海道に位置するお城三か所を訪れました。

12日17:25新大阪新幹線のぞみで出発
18:32福山駅到達、レンタカーで今治方面に向かう。
20:5今治港付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
13日7:00レンタカーで出発、伊予大島に向かう。
8:00伊予大島霊場巡り

牛頭山:
 
昌清庵:
  
櫛野辺堂:
  
万性寺:
 
道場庵:
  
霊仙寺:
 
金剛院:
 
遍照坊:
 
般若庵:
 
大来庵:
 
普光寺:

五光庵:
 
福寿庵:
 
供養堂:
 
紫雲庵:
 
知足庵:
 
蓮台庵:  

12:00しまなみ海道に位置する愛媛県のお城巡り。

甘崎城:天智天皇10年(671年)越智氏によって築かれたと云われ、最古の水軍城とされる。中世には村上水軍の水軍城として来島村上氏の部将村上吉継などが居た。慶長5年(1600年)今治に入封した藤堂高虎は弟の藤堂大輔を城主として城を改修、その死後は菅宇兵衛、桧垣五郎などが在城したという。慶長13年(1608年)藤堂高虎の伊勢国安濃津への転封により廃城となった。

能島城:応永26年(1419年)村上吉房によって築かれたと云われる。 村上吉房は村上義顕の三男で分家し築城した。
村上水軍三家のうち最も四国よりに拠点を構えた来島村上氏は主家河野氏の内紛に乗じて伊予本土にまで次第に勢力を拡大していく。 四代通康は河野通直が寵愛し後継者として指名した程であったが、これには河野家臣団の猛反発を喰らい反対派が来島を攻める第一次来島合戦が起こった。
天正10年(1582年)村上通総のとき、織田信長の部将羽柴秀吉の調略を受けて河野氏を離反し織田氏に付いた。河野氏は毛利氏とともに来島村上氏を攻め、通総は耐えきれずに来島城を脱して秀吉の元に逃れたが、鹿島城主で通総の兄である得居通幸は鹿島城を固く守って攻撃を退けた。
秀吉の元に逃れていた通総も羽柴氏と毛利氏が和睦したのち旧領に戻り、天正13年(1585年)秀吉による四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒を務めた。この功により風早郡一万四千石が来島通総に与えられ、通総は来島城を廃して鹿島城を居城とした。
慶長2年(1597年)来島通総は慶長の役で討死し、家督は次男の長親が継いだ。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で来島長親は西軍に属し、豊後国森一万四千石で転封となったが、三島村上氏で唯一江戸時代に大名となり、久留島氏と名を改め明治まで続いている。


来島城:応永26年(1419年)村上吉房によって築かれたと云われる。 村上吉房は村上義顕の三男で分家し築城した。
村上水軍三家のうち最も四国よりに拠点を構えた来島村上氏は主家河野氏の内紛に乗じて伊予本土にまで次第に勢力を拡大していく。 四代通康は河野通直が寵愛し後継者として指名した程であったが、これには河野家臣団の猛反発を喰らい反対派が来島を攻める第一次来島合戦が起こった。
天正10年(1582年)村上通総のとき、織田信長の部将羽柴秀吉の調略を受けて河野氏を離反し織田氏に付いた。河野氏は毛利氏とともに来島村上氏を攻め、通総は耐えきれずに来島城を脱して秀吉の元に逃れたが、鹿島城主で通総の兄である得居通幸は鹿島城を固く守って攻撃を退けた。
秀吉の元に逃れていた通総も羽柴氏と毛利氏が和睦したのち旧領に戻り、天正13年(1585年)秀吉による四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒を務めた。この功により風早郡一万四千石が来島通総に与えられ、通総は来島城を廃して鹿島城を居城とした。
慶長2年(1597年)来島通総は慶長の役で討死し、家督は次男の長親が継いだ。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で来島長親は西軍に属し、豊後国森一万四千石で転封となったが、三島村上氏で唯一江戸時代に大名となり、久留島氏と名を改め明治まで続いている。

18:00福山駅到達。
18:59福山駅新幹線のぞみで出発。
20:01新大阪駅到達。

今回の旅行、愛媛県しまなみ海道に足を運び、伊予大島に点在する八十八箇所霊場の16箇所と3個のお城を訪れ楽しみました。

伊予大島の八十八箇所霊場は初心者にはもってこい、険しい場所にはなく、距離も短く、四国八十八箇所霊場を訪れる前の練習の霊場巡りです。

今回3回目で伊予大島八十八箇所すべてを巡ることができました。

昼からは愛媛県のしまなみ海道に点在するお城を巡り、こちらも愛媛県のお城全てを終了いたしました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十弾:東海三十六不動尊巡礼観光
2016年11月5−6日


日本各地には様々な霊場、史跡巡りがあり、東海地方にも不動明王信仰の三十六不動尊霊場があります。愛知・岐阜・三重に点在する東海三十六不動尊巡礼の22箇所を訪れました。

5日12:30車で出発、第二京阪京滋バイパス名神高速道路を経由して米原下車、霊場巡り。
18:30小牧インター付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

華厳寺:

圓鏡寺:

乙津寺:

6日7:00車で出発、反時計回りで霊場巡り

大聖寺:

寂光院:

長福寺:

大徳寺:

貞照寺:

地蔵寺:

満徳寺:

甚目寺:

護国院:

長久寺:

建中寺:

七寺:

宝生院:

萬福院:

福生院:

寶珠院:

興生寺:

大学院:

笠覆寺:

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、愛知・岐阜・三重に点在する東海三十六不動尊巡礼の22箇所を巡り楽しみました。
東京から西の霊場はどれも立派、今回もスケールの大きな霊場を巡ることができ堪能しました。
次回は残りの愛知の海沿い方面と三重に点在する東海三十六不動尊巡礼を巡る予定です。













 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十五弾:新潟県越後八十八箇所霊場巡り観光第二弾
2016年10月1−2日
 

日本海に沿って東西細長く位置する新潟県に足を運び、越後八十八箇所霊場巡り第二弾、三条を中心とした菩提の道場第40番ー65番までの霊場26か所を巡りました。

1日17:40伊丹空港出発
18:45新潟空港到達、レンタカーで三条に向かう。
19:30三条駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
2日7:30レンタカーで出発、霊場巡り。

越後八十八ヶ所霊場めぐりは四国八十八ヶ所霊場の写し霊場として作られたそうです。歴史は「越後三十三ヶ所観音霊場」から比べるとずいぶんと新しいようです。弘法大師ゆかりの霊地をめぐるので宗派は真言宗となってます。本尊は「観音菩薩」から「大日如来」に「地蔵菩薩」、さらには「聖徳太子」と様々です。

泉薬寺:

安養寺:

乗福寺:

海蔵院:

如法寺:

本都寺:

宝積院:

妙圓寺:

華蔵院:

遍照院:

阿弥陀院:

妙楽院:

宝光院:

慈眼寺:

不動院:

総持寺:

西福寺:

延命寺:

徳聖寺:

圓福寺:

寛益寺:

法華寺:

根立寺:

正円寺:

普談寺:

福隆寺:

16:30終了。
17:00新潟空港到達。
19:15新潟空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、日本海沿いの新潟県に足を運び、越後八十八箇所巡り第二弾菩提の道場第40番ー65番までの26か所の霊場を巡りました。
のどかな田園風景を望みながらのドライブ霊場巡り満喫しました。
 









飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十三弾:北海道道東三十三観音&八十八箇所霊場&お城・城下町巡り観光第七弾
2016年9月21−22日


北の北海道の道東地方に足を運び北海道八十八箇所巡り1か所、三十三観音2か所、比較的マイナーお城2か所をめぐりました。

21日15:25伊丹空港出発
17:10新千歳空港到達、レンタカーで帯広方面に向かう。
20:10帯広市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
22日7:30レンタカーで出発釧路方面に向かう。

密厳寺:
明治30年代、徳島県出身の開拓者により大師堂が建立されたが、本別川沿いにあったため、明治40年4月の水害で流失。その後、開基住職豊沢文雄を迎え境内地を現在の高台にもとめ、明治42年本堂落成時に寺号公称の許可を得ました。大正4年豊沢文雄は根室本城寺に移り、大正6年二世福家仁龍入山、教線を拡張各地に大師堂を建立します。三世福家龍祥は昭和33年住職拝命し、48年には諸堂を建立し現在の寺観になりました。
平成18年四世福家立雲開基百年事業として諸堂内の大改修を行いました。 
40番御本尊は大正2年開創、昭和60年再興の北海道三十三観音20番千手観音と共に、本堂内に祀られ、巡拝者は本堂内に入ってのお参りを基本としています。


西端寺:明治25年頃、現在の米町に長谷部実玄和尚により開教、その後同33ヵ所霊場の函館の高野寺の住職西端良純和尚、有志の発起により建立される。明治32年8月14日西端寺と公称第四世住職近藤快應の手により市内春採33ヶ所、阿寒88ヵ所霊場を建立。五世住職福田快厳、高野山1150年記念事業として、諸堂、伽藍を新築、その折本山より「準別格本山」の栄を賜り、昭和46年9月管長猊下御親修のもと、本堂落慶、寺格昇格記念大法要を厳修される。

鶴ヶ岱チャランケチャシ:春採湖に突き出た岬の上にあり、二重の空堀をめぐらして構築されている。この地は湖の神線の遊び場という言い伝えが残る。

モシリヤチャシ:丘の上に構築された大きめのチャシ。見た目がお供え餅に似ていることから、このタイプのチャシは「お供え山型」と呼ばれる。

16:00新千歳空港に向かう。
16:30新千歳空港到達。
17:55新千歳空港出発。
19:50伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道道東地方に足を運び、北海道観音2か所、八十八箇所1か所、お城2か所をめぐり楽しみました。
広大な北海道、特に帯広、釧路地方は平野が広く、真っ直ぐな広い道、地平線を見ながら、ストレスなく、快適なドライブを楽しみながら霊場、お城を巡り満期しました。
 




飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十七弾:福岡県篠栗八十八箇所巡り観光
2016年7月23−24日

南の九州福岡県に足を運び、今から千二百年前にお大師様(弘法大師空海)が、真言密教を悟り唐の国(中国)より帰ってきた際に、若杉山(奥の院)を訪れ、加持修法によって人々を救済した地で新四国霊場の一つである篠栗八十八箇所めぐり第二弾篠栗地方に点在する11か所を巡りました。

23日21:26新大阪新幹線のぞみで出発
23:56博多駅到達、駅前のホテルで就寝。
24日10:00講演会出席
12:00講演会終了
12:15懇親会
13:00終了
JRで篠栗方面に向かう。
14:00城戸南蔵院前駅到達、霊場巡り

城戸千手観音堂:

城戸大日堂:

城戸病奪り薬師堂:

田ノ浦排師堂:

城戸釈迦堂:

城戸文殊堂:

南蔵堂:

城戸ノ滝不動堂:

神変寺:

松ヶ瀬地蔵堂:

松ヶ瀬阿弥陀堂:

17:00霊場巡り終了、タクシーで博多駅に向かう。
18:30博多駅新幹線のぞみで出発
21:05新大阪駅到達。

今回の旅行、博多で講演会に出席後、午後から篠栗方面の霊場11か所を歩いて巡りました。
小ぶりですが立派な霊場が多く、訪れる人も多く賑わい活気に満ちていました。

 











飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十五弾:北海道八十八箇所&三十三観音&お城・城下町巡り観光
2016年7月9−10日
   

北の北海道に足を運び、旭川から北部に点在する北海道八十八箇所10か所、三十三観音1か所、お城1か所を訪れました。

9日15:20伊丹空港出発
17:10新千歳空港到達、レンタカーで旭川に向かう。
20:05旭川駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
10日6:30レンタカーで出発、霊場、お城めぐり。

大阿寺:
小島秀元師が明治37年来道。石狩を経て、当地に錫を留め、翌38年教会を設立し布教活動を始めたのを当山の開創とします。大正4年霊光山大阿寺と寺号公称し、以来第二世秀澄師、第三世秀隆師、第四世真光尚如師と受け継がれ昭和59年より現住職真光昌雄師が就任しました。 市の区画整理で境内が削られた横長の境内に、庫裡と本堂(昭和54年建立)、納骨堂が一列に並びます。 
門を入って右に大師堂があり、本尊子安大師(石像)は、近隣女性の信仰を集め、いつとはなしに花が奉られ、着物が掛けられています。また、当寺は北海道八十八ヶ所霊場札所のほか、朔北七福神霊場になっています。本尊は毘沙門天で、毎年7月7日に七福神まつりを行い多くの信者で賑わいます。


不動院:
大正12年5月3日、故阿部昭忠師が現境内の霊水滝前に小堂宇を建立したのが始まりです。
師は不治の病におかされていたところ、明王突然枕辺に現れ「汝の病症は医師の治療のみにては全治するものに非ず、西方の小山の中腹に小滝あり、その水を服用せよ!必ず全治すべし、夢疑う可からず」と告げられたそうです。不思議に思いましたが、そのまま打ちすぎたところ再度同じ夢の示現があり、師は意を決して医師や看護婦の止めるのも聞かず4月7日退院し、友人の力をかり、ついに小滝を探しあて病気も平癒し、師は大いによろこびその霊験あらたかなるを感じ報恩の為小堂宇を建立しました。


実心寺・実心寺観音堂:
当山は明治42年、種野憲如師がこの地に錫を留め観音信仰を広めるために開教に専念。大正13年には本堂、庫裡を建立し、知水山・実心寺と寺号を公称。開基憲如師、第二世暁如師、第三世憲暁師、現住職第四世秀憲師と法灯を継承。 
昭和46年納骨堂、同53年現本堂、庫裡、同59年檀信徒会館を建立。 入所時には奈良県の吉野桜を移植し「さくら」の寺として永く親しまれていましたが、現在は10本程が春に彩りを見せ近隣の人々の心を癒しています。 
境内庭園の中には、十一面観世音菩薩像と西国三十三ヶ所観音霊場があります。
観音堂は、中に十一面観世音菩薩像、弘法大師像を奉安し壇信徒信仰の道場となります。


法弘寺:
人は生きていく上で、様々な煩悩や執着、それらから生ずる苦悩の中に生きておりますが、当霊場17番札所のご本尊のお薬師さまはそういった苦悩を癒すお力を持った仏様です。 また、27番札所の御本尊十一面観世音菩薩さまは、慈悲に満ちた相、衆生を仏道に導かんとする怒りの相などの十一のお顔をもたれる仏さまです。名寄市を含む道北は、冬はマイナス35度、夏は35度と1年の寒暖の差が70度近くになる自然の厳しい地域です。しかし、夏の猛暑、冬の酷寒・風雪に耐え、咲いた花はその強さゆえに美しいものです。 当山は開基住職以来、植物や庭園に造詣が深い住職が続いた事もあり、庭には四季折々・種々様々な花、高山植物が咲き誇り「花の寺」として、参詣者や道行く人々の目を楽しませております。ご参詣になられた際には、お薬師さま・観音さまに手を合わせた後、庭の花々の強さや美しさを堪能され、仏様のいのちの真中に生かされている喜びを感じていただきたく存じます。
第27番札所御本尊「十一面観世音菩薩」さまは、慈悲に満ちた相、衆生を仏道に導かんとする怒りの相などの十一のお顔を持たれる仏さまです。 観音さまの慈悲・怒りなどの様々なお顔は、自然と同じであるといえましょう。植物が秋に花や葉を落とすのはやがて来る冬の寒さに耐えんとするものであり、また次の世代に「いのち」をつながんとするためであります。 当山は植物や庭園に造詣が深い住職が続き、庭には多数の石仏・石塔のそばに種々様々な山野草が咲く「花の寺」であります。 観音さまに手を合わせた後、庭の花々に目と心を癒され、また仏さまの世界をお大師さまとともに歩む喜びとしていただければ幸いです。


光願寺:
光願寺の前身は通称真言宗説教所です。 
堂内に不動明王像並びに弘法大師像を奉安し、町内の信仰を集めていたようです。 
昭和25年此の地に新本堂を建立。 真言宗豊山派真珠山光願寺と公称。 「朔北七福神 寿老人霊場」 「北海道三十六不動尊霊場第八番札所」


弘法寺:
弘法寺のある美深町は人口6千人ほどの町で地名の由来はアイヌ語の「ピウカ」(石の多い河床)からつけられました。弘法寺は明治39年徳島県地蔵寺第24世服部智信により創立されました。 
本尊の弘法大師像は江戸初期の寛文6年、仏師藤原源衛門作が鎮座され、脇仏は平成18年開創の北海道八十八ヶ所霊場本尊薬師如来像と大正2年徳島県出身の女性、山本ラクが観音像奉納により開創した北海道三十三観音霊場第28番札所として本尊聖観世音菩薩像が奉安されています。 
また、本堂左側には文化2年京都大仏師塩釜浄而法橋作の精巧な造りの十一面千手観世音菩薩像も祀られている。


観音寺奥之院:
明治33年にお山の山頂に、人の姿をした木のこぶが発見され、留萌に逗留していた修行僧の夢枕に立ち「我、観世音の化身なり」と言われました。 
そのころ、病に伏せっていた尾作修妙師が同じような夢を見、「我を信仰すれば必ず病が完治するだろう」といわれて以来信仰する様になりました。またその修行僧により入佛開眼されて開基住職となり、尾作修妙尼は悩める人々を救い、現在は孫に当たる康勝師が住職を務めています。本尊天然佛聖観世音菩薩(奥の院)の右横に13番、14番の御本尊を奉安、平成11年に開基百年法要を厳修。 毎年、6月18日当山山頂護摩道場にて火渡り、2月4日節分豆まき法要を行っています。 
札所が山頂にある為、火気の使用はおことわりしています。また、お堂に入ることは出来ません。山頂まで約115段の石段があります。


浜益毛陣屋:浜益村(現石狩市浜益区)は石狩湾の北部、北海道の日本海側沿岸のほぼ中央に位置します。かつてはマシケと呼ばれ、松前藩独特の場所請負制度による益毛場所がありましたが、のちにこの場所を二分し、北方を増毛(現増毛町)、従来の益毛を浜益毛(のちに浜益)としました。
 安政6年(1859)年に荘内藩は幕府に西蝦夷地警備を命じられ、秋田藩領の増毛を除く浜益から天塩までを領地として与えられハママシケに陣屋を作って総奉行をおきました。
 この陣屋は浜益川を天然の堀とし、海岸から500mほど東に入った丘陵部に大手門を設け、5haほどの土地を開いて本陣とし、千両堀といわれる物資輸送のための運河を掘ったそうですが現在は残っていません。
 荘内藩は土地開墾に力を入れ、藩内から1300人余の農民のほか、日常生活に必要な大工・鍛冶・味噌・醤油などの職人に至るまで移住させました。しかし明治維新の際には全員帰国し、田畑は荒れ果ててしまったそうです。

15:00新千歳空港に向かう。

16:30新千歳空港到達。
17:55新千歳空港出発。
19:45伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道に足を運び、霊場11か所、お城1か所をドライブかねて訪れ楽しみました。
今回も広大な北海道のドライブ巡り、広いまっすぐな道、車が少なく、信号も少ない、ストレスを感じない、爽快なドライブ走行満喫いたしました。









飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十三弾:岩手県奥州三十三観音&お城・城下町巡り観光
2016年6月26−27日
 

東北地方の世界遺産で有名な奥州藤原氏の支配した平泉、その他にも源氏の流れを汲む名門武家、南部氏の遺構が数多く残され、また陸奥土着のさまざまな武家の居城が点在している岩手県に足を運び奥州三十三観音5か所、お城7か所を訪れました。

26日17:00伊丹空港出発
18:25花巻空港到達、レンタカーで北上方面に向かう。
19:10北上駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

27日7:00レンタカーで出発、霊場、お城めぐり。

二子城:築城年代は定かではないが和賀氏によって築かれたと云われる。 和賀氏の出自は定かではないか武蔵七党の一つ横山党の中条氏の後裔とも源頼朝の落胤とも云われる。二子城は和賀郡一帯に勢力を持ち天正18年(1590年)の奥州仕置によって滅亡した和賀氏の本城である。

岩谷堂城:築城年代は諸説あり定かではないが、鎌倉時代に千葉胤道によって築かれたと云われる。南北朝時代以降江刺氏が勢力を伸ばした為、葛西氏との争いが多くなり度々合戦が行われた。 明応4年(1495年)の合戦で江刺氏が敗れると岩谷堂城には葛西政信の孫重胤が城主となる。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかった葛西氏は、奥州仕置きによって改易となり、岩谷堂城には木村吉清の家臣溝口外記が入った。しかし、葛西大崎一揆との戦いで外記は討死、一揆鎮圧後は伊達政宗の所領となり、家臣の桑折摂津守が入った。万治2年(1659年)伊達宗規(岩城宗規とも)が岩谷堂要害五千石で転封となり、岩谷堂伊達氏となった。この宗規の時代に大手の移転など大規模な改修があった。その後は岩谷堂伊達氏が代々続いて明治に至る。

柳の御所:奥州藤原氏の「平泉館(ひらいずみのたち)」に比定され、政務の場であったと考えられている。

中尊寺:中尊寺は嘉祥3年(850)慈覚大師円仁を開創とする天台宗の古刹です。昭和33年別格大寺に昇格、天台宗東北大本山の称号が許されています。奥州三十三観音巡りの特別霊場(番外札所)でもあります。その後、12世紀のはいめに奥州藤原氏初代清衡によって大規模な堂塔の造営が行われました。藤原氏滅亡後、度重なる火災によって、多くの堂塔が焼失したなか金色堂だけが当初のまま残り、その堂内には奥州藤原氏のご遺体が納置されています。


毛越寺:岩手県平泉町に天台宗 医王山 毛越寺があります。特別史跡・特別名勝に指定されていますが、奥州三十三観音 特別霊場でもあります。毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、二代基衡から三代秀衡の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されています。

長泉寺:曹洞宗。元は天台宗のお寺であったが、衰退していたのを大原城主の大原広英が再興し、曹洞宗の寺となる。

普門寺:曹洞宗。草創は本山・永平寺より2年古い。開山した記外和尚は三度宗に渡航し、帰国の際に皇帝より宝物を賜り、現在も寺宝として残る。本尊の聖観音もその一つで県有形文化財。

大善寺蛸浦観音:別名「蛸浦観音」。ご本尊は本村小向の佐々木家にて寄贈したものという。尾崎山の麓の海岸にあり神社に祀られている。 

大槌城:大槌城(おおつちじょう)とは、岩手県上閉伊郡大槌町にかつて存在した日本の城(山城)。代々、大槌氏が城主を担当した。室町時代に大槌次郎によって築造されたといわれている[1]。浜崎城とも呼称されていた。規模は東西が700m、南北が100mに及ぶ。

鍋倉城:築城年代は定かではないが天正年間(1573年〜1592年)に阿曽沼広郷によって築かれたと云われる。 阿曽沼広郷は代々遠野保を領し横田城を居城としていたが、猿ヶ石川の度々の反乱に川向かいに住んでいる諸士の往来に不都合であったため、鍋倉山に新城を築いてた。この新城も横田城と称していたが、南部氏の治世となって鍋倉城と改称された。慶長5年(1600年)広郷の子広長のとき、南部利直に従って山形に出陣中に一族で鱒沢城主である鱒沢広勝の謀叛によって遠野を乗っ取られ、以後南部領となった。寛永4年(1627年)八戸から南部直義が遠野に約一万石で転封となり、城を改修して城下町を整備した。このとき横田城から鍋倉城へと改称した。直義は南部家の重臣として盛岡に居ることが多かったため、先代で養母である清心尼が遠野の政治に関わることが多かったようである。以降、八戸南部氏(遠野南部氏)が代々続いて明治に至る。

土沢城:慶長17年(1612年)南部氏によって築かれ、縄張は南部家臣野田内匠頭直盛が行ったという。最初の城主は新堀城主江刺隆直で二千石を与えて移駐させたという。南部氏は度々伊達氏と国境を巡って小競り合いがあり、伊達氏が築いた浮牛城に対する備えとして国境に近いこの地に拠点となる土沢城を築いた。江刺氏は葛西氏の重臣であり、奥州仕置きにより改易された葛西氏の旧臣を操る伊達氏を牽制する役目も担っていたとされる。 寛文10年(1670年)の総検地に際して廃城となり、その後も城内小路を統治所として七代続いたが江刺氏は天明元年(1781年)お家騒動によって断絶した。

花巻城:築城年代は定かではない。古くは前九年の役の安倍頼時の磐基駅に擬定されている。花巻城の前身は鳥谷ヶ崎城といい稗貫氏の居城であった。稗貫氏の出自は諸説あるが、鎌倉時代頃に稗貫郡に入部し、はじめ小瀬川館(あるいは瀬川館)を居城とし、ついで本館(十八ヶ城とも)、最後に鳥谷ヶ崎城を居城とした。永享8年(1436年)南部を支援した薄衣氏が稗貫氏の十八ヶ城を攻めた際にここに陣を構えていることから、鳥谷ヶ崎城の築城はそれ以後という。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかったため、稗貫広忠は奥州仕置で領地を没収され、鳥谷ヶ崎城には浅野長吉が滞在し、長吉は浅野重吉を目代として置いた。稗貫広忠は和賀義忠が浅野家臣後藤半七の籠る二子城を攻めた際、これに呼応して鳥谷ヶ崎城を攻め落とし奪還に成功した。しかし、天正19年(1591年)には一揆を平定する秀吉の軍勢に二子城・鳥谷ヶ崎城ともに落城し、稗貫広忠は大崎氏を頼って落ちたという。一揆平定後、南部家臣北秀愛が八千石を領して花巻城代となり近世城郭へと改修された。慶長3年(1598年)秀愛が死去すると替わって父北信愛が城代となる。 慶長5年(1600年)南部氏が山形に出陣中のときを狙って和賀忠親が一揆を起こし花巻城へ押し寄せた。一揆軍は本丸まで攻めよせたが、信愛は城内にいた13名の士卒と婦女子だけで持ちこたえ、北十左衛門の援軍が駆けつけ一揆軍を退けた。慶長18年(1613年)信愛が没すると南部利直の次男政直が二万石で城主となった。 政直没後は嗣子なく城代が置かれ、以後明治に至る。

17:00終了。花巻空港に向かう。
17:30花巻空港到達。
18:55花巻空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、東北の岩手県に足を運び、点在する奥州三十三観音5か所、お城7箇所をめぐり楽しみました。
藤原家やその他の武家で歴史的に深い岩手県、立派な霊場、立派なお城が目白押しでした。
ほとんどの城跡は城跡公園と変化し規模の大きさを物語っていました。

世界遺産の平泉は何回か訪れたことがありましたが整備ができすぎ、道路も広く、きれいに仕上げており、観光に力を入れすぎて逆に歴史を感じないような景観のような気がします。
整備しすぎてきれいすぎる、古さを感じない歴史を感じない、改築した建造物がほとんどで現存する歴的建造物は数少ないのは残念です。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十一弾:北海道八十八箇所霊場&北海道三十三観音霊場&お城巡り観光第5弾
2016年6月11日ー12日
 

北の北海道の道南に足を運び、点在する北海道八十八箇所11か所、北海道三十三観音4か所、お城2か所を巡りました。

11日15:45伊丹空港出発
17:10新千歳空港到達、レンタカーで苫小牧方面に向かう。

望洋寺:
当山は大正13年開基住職吉田守賢師が、この地に来錫し開教を始めた事に濫觴します。昭和2年幸町に不動院教会所を設立し認可を受け、その折、総本山智積院より下付された不動明王(二童子付)が、現本堂に安置の御本尊です。
昭和10年ころ、当初から目標でした寺号公称を目指し寺域創りに奔走します。昭和12年遂に現在地に移転しました。本堂を落成して望洋寺と寺号公称し、爾来、各行事を通じて教化活動も活発に展開し、檀信徒の安らぎの道場として基盤が確立されました。その後、納骨堂、大師堂、護摩堂、客殿等の諸堂が落成し伽藍の輪奐も整ってきました。20数年前より毎月写経会、大師講、護摩供、詠歌講を開催し、また毎年全国の霊場に巡拝し共に感動を味わっています。


白老陣屋:安政3年(1856),幕命により仙台藩が築いた陣屋跡。当時植えた松,土塁,堀がそのまま残されている。

18:30室蘭方面に向かう。

19:00室蘭駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
12日6:30レンタカーで出発、日高方面に向かう。

日高寺:明治四十三年香川県(三郷郡三野町旧吉津村)出身の琢磨宥文がこの地に説教所を建立したことをもって開山としています。
 宥文は明治四十一年四十歳のときに、北海道開教をすすめられ、香川県からやってきました。おそらく笠谷霊海(亮昌寺)、原田智巌(高野時)らのすすめがあったと思われる。
(北海道三十三観音よみがえった霊場 資延憲英著参照)
大正十五年に建立された八十八ヶ所霊場が、裏山に有り約一時間で巡ってくることができる。
当初は軟石作りの為、痛みも激しくなったので、平成五年九月に新しく八十八ヶ所を御影石にて建立をしました。

龍徳寺:高野山真言宗の末寺で、明治三十六年、旅の僧侶が説教所を建てる。明治四十一年大阪の宝珠院住職少僧都、仙田梁応が布教をはじめ説教所の設置を出願し、翌四十二年許可になった。寺号公称は大正十三年十一月認可となった。
明治四十五年本堂新築、昭和三十二年開創五十周年法会を営む。同四十三年納骨堂新築、五十一年庫裏、会館新築、六十二年山門新築、十五年本堂新築、開創百周年法会を営む。御本尊金大日如来、脇仏は馬頭観音、弘法大師尊像、平成二十六年現在寺歴百十一年である。

シベチャリチャシ:全道のアイヌを率い、和人と戦ったアイヌ民族の英雄シャクシャイン。銅像の建つ真歌公園は、そのシャクシャインが寛文9年(1669)、「寛文九年蝦夷の戦い(シャクシャインの乱)」で最後の砦とした場所である。
シャクシャインの乱とは、交易時の不平等に怒りを募らせたアイヌの長シャクシャインが、全道のアイヌに呼びかけ一斉に蜂起した争い。一時は道南地方(現長万部町国縫)まで攻め寄ったものの、松前藩の鉄砲隊に徐々に後退。最期は和議の申し出という口実のもとに謀殺され、砦も焼き払われたと伝えられている。

円昌寺:明治30年、開基龍長和尚は、神奈川県大磯町西小磯に在った白岩山円昌寺(東寺派)を現在地に移転し、寺号公証。 三石山円昌寺(本尊金剛界大日如来)創立。
明治42年本堂、庫裏新築。
明治45年裏山に、巡路三千米の新四国八十八ヶ所完成。真言宗各宗派連合長者土宜法龍師を導師として開眼法要。
大正4年龍神堂建立。
大正5年北海道三十三観音霊場 三十一番聖観世音像安置。(現在祀られている観音像は昭和53年再安置された聖観世音像である。)
大正15年鐘楼堂完成(現存)。昭和19年大梵鐘供出させられる。
昭和6年三石観音堂入佛開眼(優駿豊平号大印の等身像上に馬頭観音を安置)。
昭和30年堂宇祝融。昭和33年三世住職小笹典之師晋山。
昭和39年本堂再建落慶。昭和47年現梵鐘開眼供養奉修。
平成3年当山開基百年記念慶讃大法会執行。
年中行事:3月10日涅槃会、4月20日正御影供会、7月15日弘法大師降誕会お砂踏み、11月8日十夜法会。 山内のツツジの見頃は五月下旬から六月上旬です。

妙龍寺:妙龍寺は北海道小樽市にある寺院です。
明治15年に開山して以来、北海道の開拓とともに歩んできました。お寺の前には地獄坂という坂があります。
この坂の上には高校・大学があるのですが、その昔は建物が少なく、
山からの吹雪が容赦なく学生達に襲いかかっていました。
その様子を見て、誰が名付けたか地獄坂と呼ばれるようになりました。

地蔵寺:
当山は昭和3年4月40歳にて仏門を志した細川智隆和尚にて昭和5年10月24日高野山真言宗広尾教会を設立。16年10月8日遷化、同年11月千葉憲應師晋山、檀家強化に勤めましたが18年、室蘭市に転寺します。同年林賢修師晋山し、昭和21年5月岩手県に転寺しました。その後昭和21年5月宮下栄厳師が晋山する。27年には宗教法人地蔵寺と寺号公称し、昭和32年広尾新四国八十八ケ所開創のため21日間水だけの苦行断食し寺裏の丸山に開創しました。
春季大祭4月24日、秋季大祭は11月10日に厳修しています。 先代栄厳僧正は42年本堂、52年回向殿納骨堂を建立、境内整備にも努力し、昭和60年11月1日遷化。その後現住栄隆晋山、現在に至ります。祈祷を重点にし各種お払い、特に2月11日の星祭厄払いは盛大です


高野山寺(金剛閣)、高野山寺:
雄大な日高山脈のふもと、江戸時代から純度の高い砂金を産出する清流「歴舟川」が沃野を潤す大樹町。
当山は昭和の大仏師「松久宗琳」入魂の大日如来と不動・愛染両明王が、鎌倉様式を忠実に再現した本堂に鎮座する古刹です。
開基は大正6年、初代住持佐藤密道が、明治の末、遠くインド、ミャンマーを遍歴し、ミャンマーの名刹シェダゴンパゴダで五粒の仏舎利を授かり、当山に奉安したのを濫觴とします。また、開基がその師、高野山奥の院維那、八王子金剛院主「田和諦観大和尚」から伝えられた古佛十一面観世音及び弁財天をも奉安します。 
境内には樹齢二百年にも及ぶ松(一位)と桐が仲良くたたずんでいます


帯広方面に向かう。

新正寺:
明治末、伊藤キク37歳が、受戒し「栄心」と名のり、教会所設立、その後、新正寺となります。 
現本堂は御堂作りで大正2年、竹田忠三郎の寄進にて建立されました。 
古くから、加持、祈祷の寺である44番札所御本尊は、十一面観世音菩薩です。 
五穀豊穣の願いが込められています

真隆寺:
明治39年真言宗説教所として開山。大正15年に北海道開教を志した長谷川真隆和尚が当山説教所主任として着任、日夜真言密教の教えを広め加持祈祷などによる人々の救済に力を注ぎ、またその霊験あらたかでした。 
現在はスキー場のある明野の山に四国八十八ケ所霊場本尊の石仏を奉安し日増しに信徒が増加し永続維持の基盤ができ昭和6年寺号公称の認可を受けて第一世住職を拝命しました。 
真隆和尚遷化後は昭和26年英隆和尚が第二世住職を拝命し本堂、納骨堂など境内整備等は英隆和尚によってなされ、英隆和尚遷化後は隆憲和尚が第三世住職を拝命し現在の庫裏納骨堂、弘真閣は隆憲和尚によってなされました。現在、四国八十八ケ所霊場本尊の石仏は境内の北側に奉安されています。


松光寺:境内は観音。八十八ヶ所石仏があり四季をとおしてありがたい思いをいたします。

高野寺:
大正3年中富良野弘照寺開基住職岩田實乗師により高野山説教所として開基。昭和3年末富山県出身高野山で修学を積み釧路西端寺から来帯した大多賀清洞師夫妻が借地に建てた12坪の大師堂に定住して大師信仰の宣揚に勤めました。 
昭和11年本堂新築、同18年高野寺公称、十勝川温泉協会設立糠平八十八ケ所開創、糠平寺創立。更に昭和46年現在地に移転新築し同58年82歳で遷化の間、生涯を寺門興隆と教化に専念し、二代住職実忍に至ります。
堂内には、日本唯一英霊馬頭観世音菩薩、子安弘法大師、宇賀大明神、タイ国御請来仏舎利と降魔釈迦如来、本堂内に八十八ケ所御尊像が奉安されています。


弘真寺:
当山は大正10年、帯広近郊の川西村美栄に薬師如来を本尊とする利生寺の開基から始まります。
昭和4年には十勝四国八十八ケ所霊場を開創。昭和30年帯広市富士町に本堂を移転改築、昭和34年寺号を日月山 弘真寺に改め、昭和58年帯広市西24条南2丁目(西帯広)に伽藍を移転建立し現在に至っています。
祈願寺・供養寺として地域に根ざし熱心に手を合わせる参詣者がみられます。
十勝四国八十八ケ所霊場の他に、十勝管内6ケ寺院で干支の石を奉安している十勝北斗十二支めぐりでは、「寅」と「卯」を奉安しています


照覺寺、照覺寺(三味堂):
当寺は、昭和10年清水町御影の照明寺住職山本祐澄により当町に大師教会光明支部設置の許可を受け、大師信者である広瀬ヨノ宅にて教線を張ったのに始まり、その後、山本師の弟子前川光榮が引継ぎ高野山芽室教会となりました。 
昭和17年東2条5丁目に本堂を設立、昭和19年、西沼行貫が教会主管代務者となり、同24年寺号公称し開基住職に。 
師は寺門興隆と布教に心血を注ぎ寺院を整え、同45年行貫遷化後、師の妻行基尼は同47年行眞が晋山するまで寺を守りました。行眞は住職就任直後、足掛け6年かけ寺を現在地に移転し普請します。 
当山には行貫の弟子勇弘道が謹刻した千体の地蔵菩薩をおまつりしている御堂があり「北海道十勝北斗十二支 福徳神めぐり」の霊場(全六ケ寺)になっています。そのなかで、「申」と「酉」の守本尊とエトの霊石を奉安しています。
三昧堂は、当寺の施設の中にあるもので、住職が専ら修法する道場で、一般の檀信徒の入堂はできません。
ここの本尊は不動明王でその他、歓喜天、ダキニ天、龍神、聖徳太子などが奉安されています。



15:30新千歳空港に向かう。

17:00新千歳空港到達

17:55新千歳空港出発

20:10伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道に足を運び、道南に点在する北海道八十八箇所11か所、北海道三十三観音4か所、お城2か所を巡り楽しみました。

広々とした真っ直ぐな道、地平線を見ながらのドライブ、本州では味わえない風景、最高!、何回訪れても素晴らしい、癒されるドライブ霊場巡りでした。

札幌、旭川に点在する寺院は小規模の物が多かったですが、道南に点在する寺院は立派な建物が多く感動いたしました。何らかの歴史的背景によるものなのでしょうか。

何回も訪れたいドライブ観光、爽快で、癒されて、楽しめた北海道道南ドライブ霊場お城巡りでした。















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十弾:福島県東北三十六不動霊場&奥州三十三観音霊場巡り観光
2016年6月4日ー5日

全国で3番目に広い面積を誇り、雄大な自然と美味しい食べ物、そしてあたたかい人々が住む県です。 福島は大きく3つのエリアで分かれています。 豊かな大自然と会津藩士ゆかりの名所旧跡が点在する「会津地方」美しい花々とみずみずしい果実がいっぱいの「中通り」太平洋に面し、雄大な景観を眺める「浜通り」風土、文化、気候も違うそれぞれの魅力で訪れる人に驚きと感動を与えます福島県に足を運び、福島県に点在する東北三十六不動尊霊場6か所と奥州三十三観音4か所を巡りました。

4日15:40伊丹空港出発
16:50福島空港到達、レンタカーで郡山に向かう。
17:30郡山市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
5日7:30レンタカーで出発、霊場巡り。

相応寺:
相応寺は大玉村の中心部にあるが、不動堂である遠藤ヶ滝不動尊は安達太良山の麓にある。相応寺は、法相宗の高僧・徳一大師が大同二年(807年)眉岳に開基したが、高地は積雪も多く雷火の炎上も度々あった。応永年間(1394年)亀山の地に移り、更に永禄三年(1563年)実弁法印の代に現在地へ伽藍を造営した。元の寺跡にも石造りが現存する。遠藤ヶ滝不動尊は平安時代の遠藤武者・盛遠に因む。袈裟御前との恋に破れた盛遠が名を文覚と改め仏門に帰依し、若い頃、安達太良山中の瀑布において気を養ったことから冠して、遠藤ヶ滝と称するようになった。以来、遠藤ヶ滝不動尊と敬い人々の信仰を篤くしたが、この別当寺が相応寺であった。

観音寺:
福島県桑折町に、奥州三十三観音第十二番札所  浄土宗 大悲山観音寺があります。観音寺は宝治元年(1247)伊達家四代桑折西山城主政依が父義弘公の菩提を弔うため、京都・鎌倉にならい伊達五山の1ケ寺として建立された寺です。創建当初は天台宗であったが、真言宗の時代もあったといわれています。寛永13年(1636)に宗門改めの際、当時の住職が浄土門の出であったので、浄土宗に改宗、磐城専称寺の末寺となりました。

大聖寺:
福島県桑折町に 奥州三十三観音第13番札所  明王山 大聖寺があります真言宗豊山派のお寺です。

天王寺:
福島県飯坂に 臨済宗妙心寺派 香積山 天王寺があります。奥州33観音 第11番札所です。天王寺は大阪、谷中、富国の天王寺とともに日本四天王寺の一寺といわれ、用明2年(587)用明天皇が開基したと伝えられています。

医王寺:
福島市飯坂に 真言宗豊山派 瑠璃光山 医王寺がある。平安時代天長3年(826)に開基したお寺であり、奥州三十三観音 特別霊場であります。弘法大師作の薬師如来をおまつりし、霊験あらたかで数多くの人々の信仰を集め鯖野も薬師と呼ばれ親しまれております。また、佐藤家の遠祖、一族の菩提寺でもあります。

太龍寺:縁起によると、「当寺は寛永二十年(1643年)会津藩主保科正之公の開創なり。機外昭鑑禅師を開山とし百石(元禄年中墓地と振替、五十石となる)を賜る藩士の家中寺として栄えた」という。不動明王像は当初成就院にあったが、明治維新の神仏分離で成就院は吾妻山神社と改まり、仏像の多くは大龍寺十七世太宗玄義和尚が当寺に移した。そして不動講などを組織して信仰を鼓吹し、殊に信者の内に長寿の者が多くなり、いつしか長寿不動尊と崇められた。

会津薬師寺:当寺は天台宗医徳山薬師寺と号し、今より千二百余年に遡る。宝亀十年(779年)千寿院として草創された。のち嘉祥元年(848年)慈覚大師円仁が開基したと伝えられる会津屈指の古刹である。その後、平泉藤原氏が滅亡の際、藤田式部忠重の氏族、佐藤清純が平泉高館に祀ってあった薬師像を持ち帰り、建久元年(1190年)円鑁沙門が寺構を再建して薬師堂を造営し、これより薬師寺と称するようになった。
 近年に護摩堂を興して、希有の車不動尊を勧請した。


圓養寺:当寺は戊辰の役により荒廃し、人心が傷悴していた折り、及川照龍律師(明治四十年十月十七日没)が末広講を結成し成田山新勝寺の御分霊を勧請され明治二十一年十月二十八日、円養院として開基されたと伝えられています。第二世照輪師は弘敬講社を結成せられ信者の教化に尽力された。昭和九年に第三世金沢誠仁中僧正が晋山し、布教を重ねて昭和二十八年、円養寺と改め現在の山容に整えられた。

徳善寺:霊験あらたかな不動尊として広く世に知られている、山本不動尊の御本尊は弘法大師の御持仏といわれ渓流を眼下に50米の巨巖の洞窟に安置された世にも稀れな霊場で平城天皇大同二年(809)弘法大師の御開創であると伝えられています。御縁起によりますと弘法大師勅命により湯殿山開基の為東北へあんぎゃの途上当地方八溝山(1022米)系鬼頬山(701米)に住む悪鬼調伏祈願の為同山々腹に護摩坦(現在)を築き37日の不動護摩の秘法を修行せしに霊験空しからず結願に悪鬼退散し以来住民安穏なることを得て生業にいそしむことが出来たと云われます。弘法大師はこの地こそ不動明王有縁の地なりと感得し尊像奉安の霊地を当山の霊窟に求められたと伝えられます。この尊像は大師にお供して来た道隔阿闍梨がこの地に留まり草庵を結び、日夜供養と修法に精進致しましたので登山参拝の人々にて賑い諸堂宇の建立と相待って貴賤の耳目を驚かすと記録されております。爾来1170余年霊窟の不動尊として世に知られ賑わっております。

常福寺:天平六年(734年)東北地方に大地震あり、次いで疫病流行し病に臥すもの日夜相次ぎ、惨状目も当てられず。大和国鷲峰山の住僧源観上人はるかにこの悲報をききて憐み、善無畏三蔵伝来の秘仏薬師如来を護持して当地に来る。不動堂は開山以来いく度か山火事に遭い、現不動堂は明治四十八年に建立された。

18:15福島空港出発
19:25伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の福島県に足を運び、福島県に点在する東北三十六不動尊霊場6か所と奥州三十三観音4か所を巡り楽しみました。

今回も立派な霊場が多く、田園風景を見ながらドライブを楽しみ、霊場巡り癒されました。

 









飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十九弾:山口中国三十三所観音霊場巡り観光
2016年5月28日ー29日
 

山陽路から山陰路へとつづく三十七の観音霊場、四季折々、それぞれに美しい変化を見せる自然環境と、素朴な風土の中に待ち受ける古寺、名刹の山口県に点在する8か所を訪れました。

28日14:20新大阪新幹線のぞみで出発、広島でこだまに乗り換え
16:20新山口駅到達
17:00レンタカーで新山口駅北口のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
29日7:30レンタカーで出発、霊場巡り。

宗隣寺:宝亀8年(777年)唐より来朝した為光(威光)和尚が、故国に似たその景観を愛すると共に、山ふところの湧泉に霊感をうけて一寺を開き、松江山普済寺(ずんごうざんふさいじ)と名付けたのが創まりと寺伝はつたえた。

功山寺:元応2年、虚庵玄寂禅師開創で金山長福寺と号した。足利尊氏、足利直冬、長門守護厚東氏、大内氏等の帰依を受け隆盛を誇った。
 弘治3年大内義長が毛利元就に敗れ仏殿で自刃をした大内氏終焉の地であり、その後の戦乱で寺も荒廃し中世に誇った大内文化も衰退する。慶長7年毛利秀元が修復、寺門を興隆し、慶安3年功山寺と改称する。元治元年三条実美等七卿が潜居中に高杉晋作が門前で義兵の旗挙げをした維新発祥の地でもある。

観音寺:観音院は古くより"玉江観音"と呼ばれ、海の護り観音として崇められていた。また、大道無門に境内を開放していたので、幕末には志士たちが会合所として頻繁に利用、激論を交わしていたという。
  萩は三方を山に囲まれた盆地で、阿武川下流が岐れて松本川・橋本川となり、その三角洲に、毛利輝元が四年の歳月をかけて1604年に完成させた典型的な城下町である。維新前夜までの260年間毛利36万石の拠点であった。萩が辺境僻地であったために、幕末に藩庁を山口に移した後も、維新以後の大きな社会変革からも影響を受けることなく、城下町往時の面影遺構をそのままよく残している。

大照院:下克上による大内氏の悲劇の減亡(1551年)は戦国時代の真只中。大内氏の後を継いだ毛利元就は中国地方一帯10ヶ国を制した。元就嫡男輝元の頃は祿高121万石、豊臣五家老の一人であった。しかし、関ヶ原の戦(1600年9月15日)に敗れ、居城を広島から外寇防禦(がいこうぼうぎょ)の名目で辺境であった萩に、領国も周防・長門の防長二州、祿高36万9000石に減封、更に責任を問われて輝元は隠居、その子秀就が僅か6才で家督を継ぎ、萩毛利藩初代藩公となった。

洞春寺:山口は14世紀中頃から約200年間、戦国大名の雄として中国地方に割拠した大内氏の本拠地で、西の京と謳われるほど栄え、今尚大内文化の面影を色濃く残す街である。その中でも特に多くの文化遺産が見事に集積されたゾーンの中心をなす臨済宗の巨刹が洞春寺である。

龍蔵寺:龍蔵寺の創建は、奈良時代の文武2年(698年)神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)と崇められていた僧・役(えん)ノ行者小角(おづぬ)が豊後の彦山から飛来し、岩窟に熊野大権現を勧請(かんじょう)して秘法の護摩供を厳修したと寺縁起は伝える。その後、天平13年(741年)行基菩薩がこの霊窟に留錫(りゅうしゃく)し、草庵を結び自ら千手観音を謹刻(きんこく)し『龍蔵寺』と称したという

漢陽寺:漢陽寺は中国自動車道・鹿野ICから直ぐの所に位置する。寺裏山の潮音洞(ちょうおんどう)より流れ出る遺り水を活かし、古庭園を模して築庭された閑雅な雰囲気の『曲水の庭』に代表される様々なタイプの庭園(蓬莱山(ほうらいさん)池庭、九山八海の庭、地蔵遊化の庭など)と、精進料理が好評を得て名を馳せ、今では訪れる人も多く、マスコミに紹介されることも再々の有名寺である。

般若寺: 般若寺は、その名が示しますように用明天皇(聖徳太子の御父君)の勅願で、若くして亡くなられた般若姫の菩提を弔うため、姫の父である豊後の国(大分県)の満野長者が聖徳太子の師、恵慈和尚という方を開山として創建した真言宗の古いお寺です。

今回の旅行、中国地方に点在する、中国三十三箇所観音霊場の山口に位置する8か所を訪れ楽しみました。

今回も立派な寺院が多く、圧倒され、また癒されました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十八弾:越後八十八箇所霊場巡り観光
2016年5月21日ー22日


日本海に沿って東西に細長い県、新潟県に足を運び、玉瑞和尚)が1866年にここを巡礼して地域の人が幸せになるよう祈り15年かけて造った霊場です。玉瑞和尚は羅漢さんとも言われ親しまれています。ここは地すべりによって巨大な岩がどんどん転がって来てできた岩場でまさにジオ!自然の大地を感じることができる越後八十八箇所霊場の16カ所を巡りました。

21日17:40伊丹空港出発
18:45新潟空港到達、レンタカーで新潟駅前に向かう。
19:15新潟駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
22日7:30レンタカーで出発、霊場巡り。

薬師寺:

延命寺:

如法寺:

萬善寺:

照明寺:

西生寺:

国上寺:

本覚院:

青龍寺:

仙城院:

不動院:

真城院:

悉地院:

法光院:

乙宝寺:

法音寺:


18:00新潟空港到達
19:15新潟空港出発
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、日本海に沿って位置する新潟県に足を運び、越後八十八箇所の16か所をめぐり楽しみました。

比較的立派な霊場が多く感動いたしましました。

広々とした田園の中をまっすぐな道に車も人も少なく気分よく爽快にドライブしながら16か所の霊場巡り満喫しました。







飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十四弾:鳥取・岡山中国三十三所観音巡礼
2016年4月9ー10日

山陽路から山陰路へと続く三十七の観音霊場、四季折々、それぞれに美しい変化を見せる自然環境と、素朴な風土の中に待ち受ける小寺・名刹の中国三十三所観音巡礼の鳥取・岡山に点在する14箇所を巡りました。

9日15:30車で近畿中国自動車道経由して
18:30鳥取駅前のホテル到達。
19:00繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
10日8:00車で出発、観音巡り。

観音院:観音院は、太閤ヶ原(たいこうがなる)、本陣山などの連なる鳥取市東部を囲む丘陵地の山裾にあり、すぐれた環境に支えられている。名勝に指定されている林泉庭園が有名である。
  岡山の藩主池田忠雄が寛永九年(1632)年に薨ると、嫡男光仲が三歳で家督を嗣いだが徳川幕府(てだれ)の政策から備前は手先の国なれば幼少にて叶うべからず≠ニの達しで、因幡・伯耆の二州に国替された。ときに宇喜多興家・直家の菩提寺であった。岡山・露月山・光珍寺四世宣伝法印は、光珍寺を弟子豪弁(後の観音院二世)に譲り、帰依僧として随伴を命じられ、城山に近い栗谷に寺地を与えられて雲京山・観音寺を興し、城山より出現の聖観世音菩薩の尊像を賜り本尊とした。その後栗谷の寺地は御用地となり、寛永十六(1639)年頃上町の現在地に移り伽藍を整備し、補陀落山・慈眼寺・観音院と号した。
  光仲は殊のほか観音信仰に篤く、祈願所として庇護し御越年と九月に城内長久・万民安楽の祈祷を修していた。宝永六(1709)年二代藩主綱清の代に藩の祈願寺となり寺格の高い「八ヶ寺」の中に列した。明治維新に藩の祈願寺は廃せられたが、寺壇の協力・人々の信仰に支えられてて稍稍殷盛をたどり現在にいたっている。

大雲院:江戸時代、鳥取は池田三十二万石の城下町。初代藩主は徳川家康の曾孫である池田光仲公。公は曽祖父家康・東照大権現を祀るため東照宮を勧請、慶安三年(1650)に鳥取城の鬼門にあたる樗谿に東照宮を建立し、その祭礼を司る別当寺として本院を建立。当所は乾向山東隆寺淳光院と称し、東照宮の祭礼をすることと同時に、徳川将軍家位牌安置所として、上野寛永寺に埋葬された将軍の位牌を安置して年回法要を、更に、藩主の祈願所として定例・臨時の祈祷をしていた。  初代住職の公侃は藩主光仲の従兄弟で、歴代住職就任時に個別の寺院号となっていたが、江戸中期(1815年)に大雲院が常院号となった。樗谿には東照宮をはじめ本地堂・元三大師堂・護摩堂等を中心に多くのお堂が建ち、内坊四ヶ寺を持つ大寺院として因幡・伯耆ニ州の頂点に立つ寺として寺運は隆盛を見たが、明治維新の神仏分離令によって東照宮の別当職を免ぜられ現在地に移転したが、寺内の徳川将軍家の位牌堂では現在も法要が続けられており、常夜燈の灯りが消えることは無い。
 神仏分離令、あるいは鳥取大震災、農地解放策等の影響によって多くの堂宇、仏像や寺宝が大破焼失し、往時の三分の一程度しか現存しないことは悔んでもあまりある。  だがしかし、本堂中央に鎮座する阿弥陀三尊、それを取り巻く形で外陣ぐるりに、西国三十三番札所の観音像三十三体で、極楽浄土を表現した様はまことに圧巻、全国でも珍しく、さすが中国観音霊場の結願寺としての風格に唸らずにはおられない。

摩尼寺:摩尼寺は鳥取砂丘から国道九号線を跨ぎ、林道を深く入った山麓にあり、古くから因幡地方の信仰を集めてきました。本尊は千手観音菩薩、帝釈天を祀り湖山長者の伝説が伝えられている古刹です。
 境内は門前から急な石段を三百余り登ったところにあり、途中の仁王門から更に上段へと通じています。両側の繁みには石仏安置し、参詣者に菩薩の功徳を授けています。山門を入ると正面に千徳殿と呼ばれる本堂が重鎮し、丈六仏に近い四天王を中尊に聖衆郡像を安置しています。続いて十王堂と三祖堂があり、その前には藤原秀衡の病気平癒を祈願したという杉の切株も残っています。さらに奥まった台地に建てられた摂取殿には善光寺分身如来が祀られています。山頂の奥の院には、帝釈天が出現したという霊跡など多くの遺跡も点在しています。
  古くから、摩尼山には亡き人の霊魂が集まると信じられてきました。奥ノ院法界地の地蔵尊には多くの位牌が並び、霊魂を呼び戻したと伝える摩尼山の信仰が脈々と息づいています。

三仏寺:全山千古の原生樹海に覆れた標高九百米の三徳山。その山頂に近い壁立千仭の岩肌に、しがみつく様に建つ国宝投入堂。まさに仙界の趣きである。三徳山の峻厳の峯々に、如何なる技法を駆使したのか想像を絶するが、不動堂、観音堂、納経堂、鐘楼、地蔵堂、文殊堂の諸堂が建つ。山麓には三仏寺と皆成院、正善院、輪光院の三坊がある。即ち三仏寺は、一山寺院を形成し三坊で護持している。
 創建は文武天皇の慶雲三年(706)役ノ行者小角が開いた修験道の根本道場で、この自然崇拝の道場に、嘉祥二年(849)慈覚大師が堂塔を建立し、阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来の三尊仏を安置して三徳山三仏寺と号し、大いに信仰を集めた。
  鎌倉時代には源頼朝より寺領三千石他堂宇の寄進を受け隆盛を見るが、乱世に入り衰退の憂目をみる。
  足利時代には将軍義満の外護を受ける。しかし、戦乱の兵火に、あるいは明治維新時にと、栄枯衰退を繰返すも千三百年の間、信仰の力は今なお強く持続していることに感嘆せざるを得ない。

長谷寺:山陰路の要衝として古来より栄えてきた倉吉。標高208mの打吹山頂には打吹城があり、打吹山麓一帯は城下町の中心であった。長谷寺はこの城に登る途中に在る。城址を含めて山麓一帯は「さくら」「つつじ」が咲き乱れ、現在では「打吹公園」となり山陰随一と言われている。長谷寺は、急な山道を東参道、西参道共300m程登った所にあり、本堂は舞台造りで千社礼が無数にに貼り付けてある。寂びた御堂の佇いはこれこそ霊場の雰囲気そのものであろう。   長谷寺開山は養老5年(721)元明天皇の勅願による法道上人で、本尊に十一面観音を安置したと寺の縁起は伝える。長谷の寺号は大和初瀬に因んでおり、これは観音霊場の代名詞でもある。当時は寺領三百石、七堂伽藍を構えていたが、時代の変遷に衰微していった。が建久4年(1193)、前年鎌倉幕府を開いた源頼朝の命に依り寺運を再興する。寺梵鐘に明徳四年(1393)の銘がある。その前年に南朝は終焉。この辺りは後醍醐天皇に味方した南朝方、明徳は珍しい北朝の年号。いかにも時代は乱世、倉吉の中世は長谷寺が如何に大きく関わっていたかを物語っている。   弘治3年(1557)南条元次が打吹山に籠って豊臣秀吉と戦った折、堂塔は勿論寺域一帯焦土と化したが、不思議なことに唯一観音堂だけが難を免れた。人々は観音像の霊力に驚き、信仰は一段と深く篤くなったという。   慶長15年(1610)領主中村伊豆守が霊像のお加護を蒙り、寺の復興を計って伯耆大山寺より俊快阿闍梨を迎え、次いで松平相模守が祈祷所に定めたことで熾盛するが、その後荒尾家の庇護を受け明治維新を迎えた。

大山寺:修験道の道場として栄え、養老2年、金連上人が地蔵菩薩を祀ったのが開山と伝えられている。称徳天皇は、神仏習合の思想から地蔵菩薩を「大智明大権現」勅宣され、貞観8年、慈覚大師が留錫し、堂舎を建立して台密の法を伝え、引声阿弥陀経の秘曲を口伝し、天台宗の末寺に加わることとなった。
  承安元年、火災に遭い一山は悉く焦土と化し本尊も焼失。地方の豪族紀成盛長者は堂社を再建し、金銅の地蔵菩薩を初め鉄製厨子を奉納。
  室町期には多くの僧兵をかかえ比叡山、吉野山、高野山に劣らないほど隆盛を極め、元弘の役では船上山に名和長年が後醍醐天皇を奉ずると大山寺衆徒であった長年の弟・信濃坊源盛は一山の僧兵を引きつれ兄長年を助けた史実も残っている。慶長年間、豪円僧正が大山寺座主となり徳川幕府に願ったて3000石の地領を得、三塔に支院42坊を構えたが、明治維新の神仏分離の政策から衰退、昔日の盛観を見ることは出来ないが、尚三堂宇に10ヶ寺の支院を有し、貴重な文化遺産も多く保存されてい。

木山寺:当山は標高430メートルの山上にあり、老杉古柏の鬱蒼とした静寂な境内と、そして周辺一帯は郷土自然保護地域に指定され、誠に自然環境の美しい霊峰につつまれている。
  近隣には後醍醐天皇ゆかりの古桜醍醐桜があり、神庭の滝・鍾乳洞そして国の重要文化財である弘法大師作の不動明王を祀る勇山寺等々名所の多い地域である。
  当山の御本堂、医王の霊薬をもって全ゆる衆生の病気や迷いを救われる薬師如来である。鎮守神として木山牛頭天王と善覚稲荷大明神を祀る。このため本堂正面の寺額に牛頭天王と善覚稲荷の二神が刻まれている。参詣の人々は他の霊場寺院と異なるので不審に感ぜられる。これは往古の神仏習合の伝統が今日もなお継承されているからである。
  牛頭天王は本地の薬師如来が化身したお姿であり、善覚稲荷は本地十一面観音の化身である。この十一面観音を本尊として中国観音霊場になっている。

誕生寺: 誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地、建久4年法力坊蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたもの、すなわち誕生寺である。
  本堂須弥壇の位置は上人誕生の室のあった所。爾来八百数拾年の星霜を経て法灯絶えることなく全浄土教徒の魂の故郷と敬仰されている。
  中国三十三観音特別霊場であるとともに、法然上人(圓光大師)25霊場の第1番でもある。「法然上人誕生の地」として、岡山県の「史跡」に指定された境内には、誕生椋、無垢橋、産湯の井戸など、永き歴史を物語るものがある。
  法然上人の御両親は、当時多くの人に信仰されていた岩間の観音菩薩(柵原、本山寺)に21日の御祈願をされ、法然上人を授かったといわれる。

法界院:法界院の開山は天平年間(729)報恩大師と寺伝に伝わる。
  報恩大師は修験道の流れを汲む観音呪を修めた行者であり、備前の地に48ヶ寺を草創する。中国観音霊場寺院としては餘慶寺と正楽寺が共に749年に開創されている。
  法界院御本尊・聖観音は、桧の一木一体の稀有の霊像で、平安初期の貴重な作として国の重要文化財に指定されている。彫りは浅く裳の飾りも簡素だが、一部に胡粉が残っているところから極彩色であったことが窺える。聖徳太子御作とも伝えられている。
  境内は勇壮な構えの仁王門から質素な造りの二天門に至るが、二天門の左右に奉安する毘沙門天像と持国天像は、今は本尊脇仏として内陣に祀られているが、本尊に酷似した彫で隠れた文化財である。
  昭和63年に御開眼した、京都美術院国宝修理所所長、小野寺久幸大仏師の謹刻された桧の寄せ木造りの昭和の聖観音立像が、毎年4月21日の午前中に一般開扉されている。

円通寺:円通寺は、良寛和尚修行の寺として名高い。
 元禄11(1698)年、加賀の国金沢の名刹大乗寺の住職を退いた高僧徳翁良高和尚を開山として迎え、開創された補陀洛山円通寺庵が寺の起こりである。
  本尊は、行基菩薩作と伝えられる聖観世音菩薩像(星浦観音菩薩)。寺域一帯は岡山県指定の名勝地とした円通寺公園であり、すこぶる景勝の池である眼前に玉島湾や水島灘が光を湛える眺望は格別の風情である。良高和尚も当地を景勝地として称えている。
 安永8(1779)年、22歳の良寛は十世大忍国仙和尚の直弟子となり、正式に出家得度し国仙に随侍して当寺に安居、寛政7(1795)年頃まで修行した。当寺は、大正初年頃より良寛の修行地としての由緒を慕う来訪者が続いている。良寛遺墨として、漢詩、和歌、俳句なども所蔵している。
 当寺が修行の道場として伝統的風格を維持してきた根底に、求道三昧の先哲先聖の尊崇と、仏祖の願海に帰入しようとする信仰一途の檀信徒による寺門護持の篤き願行のあったことは言うまでもない。

蓮台寺:まかね吹く吉備の児島、その半島の霊峯 瑜伽山に蓮台寺はある。海抜300米、3万坪の境内をもつ別格本山である。
 今から1200年前(天平5・733年)奈良時代に行基菩薩が五塵の垢を洗う聖地瑜伽山に一寺を開き、阿弥陀如来、薬師如来の二尊を「瑜伽大権現」としてお祀りしたのが瑜伽山(由加山)蓮台寺の始まりです。
 当由加山にこもり行基菩薩自ら37日(さんひちにち)21日間の行を修し感得されたのが当山蓮台寺後本尊、十一面観世音菩薩であります。その後、室町初期に今弘法としてたたえられた増吽僧正が中興。中世にはすでに、瀬戸内海随一のお詣り所として栄え、現在の伽藍が整備されたのは江戸時代です。
 人々の願いを叶えるため仏が権の姿(権現神)として現れたのが「権現さま」瑜伽大権現は霊験あらたかで、「厄よけの権現さま」といわれ、備前藩主 池田継政(2代)以降、当権現への信仰は篤く、祈願寺として藩主自ら参拝になられました。(その時に宿泊使用された建物が「蓮台寺客殿」です。) 四国「金比羅大権現」と共に「ゆがのごんげんさま」として一生に一度は参詣諸祈願成就を祈る「両まいり」の大権現として信仰されました。
 永い歴史をもつ蓮台寺大伽藍には、権現堂、大師堂、観音堂、多宝塔、鐘楼堂、大日堂、妙見宮など多くの建造物が点在しています。 これらの建築群を重要文化財ゾーン(奥の院)として保護する為、平成十年に瑜伽三尊をお祀りする祈祷と供養の殿堂「総本殿」が完成。現在に至っています。
 総本殿の本尊十一面観音・瑜伽大権現・弘法大師は開運招福・厄よけ・病気平癒・先祖供養の「瑜伽三尊」として総本殿において、日夜祈念が行われ、今も1200年の歴史を経て「求めあれば威神力をもって必ず応じて」下さっています。 又、菊花御紋章入りの筋塀に囲まれた宮殿は、絵画を含め全てが県指定の重要文化財です。

西大寺:約1200年の歴史を誇る西大寺は、千手観世音菩薩様を本尊仏として古来より親しまれ信仰され、町衆の暮らし全般に影響を与えてきました。
  岡山県三大河川の一つ吉井川河口は、瀬戸内海に注ぐ水運の要衝にあって、また深い観音信仰と相まって発展してしてきたことは現在の古い町並みをもって、十二分にうかがい知る事ができます。広い境内には本堂をはじめ仁王門・三重塔・大師堂・経蔵・客殿・鎮守堂などが配され歴史の深さ、たいへんな繁栄ぶりが偲ばれます。
  鎮守堂には、一山の守護神である牛玉所大権現と金毘羅大権現が合祀され、会陽(裸祭り)は牛玉信仰が特異な行事に発展したもので、その起こりは開山住職・安隆上人が修正会を催したことによります。
  ともあれ町中にあって吉井川河畔に映る情景は、現代人の心を揺さぶるに足りる憧憬とも言えます。

余慶寺:吉井川の流れを見下ろす小高い山の上に上寺山餘慶寺は甍を連ねている。天平勝宝元年(749年)報恩大師によって開山された。
  往古には、東の山の峰から太陽が昇るのを拝むのに適した所といわれたことから、日待山日輪寺と称し、備前48ヶ寺のひ とつとして栄えた。
  平安時代には、慈覚大師が再興し本覚寺と改めた。その後、近衛天皇の勅願所となり上寺山餘慶寺と改め、国家の安泰と五 穀豊穣を祈願した。武家時代には赤松則宗公の信仰を得て、さらには宇喜多氏、池田藩主の尊崇と保護を得ておおいに栄えた。
  山内には本堂(観音堂)薬師堂、三重塔、地蔵堂、鐘楼、山王社、愛宕社、開山堂などの諸堂が伽藍を連ね、かつては7院 13坊といわれた支院は、恵亮院、本乗院、吉祥院、定光院、明王院、圓乗院の6院が現存している。
さらに山内は豊原北島神 社とも隣接し、平安時代より発展した神仏習合の姿を遺存している。

正楽寺:瀬戸内海岸線沿いは、一般的に柔らかな光が温かさを萬遍なく降り播くが、少し海岸線から入り込んだ正楽寺附近までくると、光が透明感をもち、やや鋭い清澄さが凛とさせる。それは寺背後の山の緑と土塀の白壁と竹林の静寂、更に極めて明確に整理された威風を漂わす重厚な寺構のせいであろうか。
  報恩大師甲開墓(749)の古刹である正楽寺は、信賢上人が鎌倉時代(1304)に現在地に伽藍を造営して発展の礎を確立、寺門は栄華を極めるが、元和元(1615)年大火災により全て消失、以来衰退するも宝永年間(1704)から文化7(1801)年までの約百年間をかけ、本堂・書院・庫裡・鐘楼・山門(仁王門)と建立、現在の寺構を整える。仁王門「雲と波」の彫刻は、大変貴重な芸術作品で壮麗な鎌倉時代の面影を残している。
 江戸時代には、備前池田藩の祈願所となり、寺には池田家代々の位牌が安置されている。
  正楽寺地名の蕃山は、陽明学を完成させた熊沢蕃山に由来するもので、その子孫が寺社奉行となり、正楽寺の中興に寄与した功績は尽大だったと伝える。

今回の旅行、中国地方の鳥取と岡山に点在する中国三十三観音所の14箇所をめぐり楽しみました。
噂通り立派な寺院が多く、癒やされました。

次回は島根・広島・山口に点在する中国三十三観音を徐々に攻めていきます。




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十弾:福岡県九州八十八ヶ所巡り&篠栗八十八ヶ所巡り観光
2016年3月5ー6日

南の九州に足を運び、福岡県を訪れ、九州八十八ヶ所10箇所、観光客を含めると年間百万人が訪れ、霊跡の地に創られた新四国霊場の一つである篠栗八十八ヶ所37箇所を巡りました。

篠栗八十八ヶ所:福岡県糟屋郡篠栗町に広がる景勝地に八十八カ所の札所があり、全国から多くの参拝者が集まります。 南蔵院を総本寺とする 篠栗霊場とも言われます。
唐から帰国した弘法大師(空海)が修行した霊験あらたかな土地で、1835年この地を訪れた尼僧慈忍が八十八カ所の創設を発願したのが始まりと言われています。

5日13:42新大阪駅新幹線のぞみで出発
16:11博多駅到達、レンタカーで霊場巡り。

海心寺: 津東山海心寺(シントウザン カイシンジ)は福岡県福津市にある高野山真言宗のお寺です。開祖 海範和尚により旧津屋崎町東町に草堂を建立し、高野山本覚院より弘法大師像を勧請し本尊としたのが始まり。 その後、二世 勉(ベン)和尚にて信貴山より毘沙門天を勧請され、現在の地に毘沙門天堂が建立されました。いまでは旧津屋崎町東町のお堂を「海心寺奥の院」 宮司のお堂を「毘沙門さん」として地域の皆様に親しまれております。

鎮国寺:長安の青龍寺で恵果和尚から密教の秘法を授かり、大同元年(806)にご帰朝された弘法大師は、先ず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲棚引くのを見られ、奥の院岩窟にて修法され、「この地こそ鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げをこうむり、一宇を建立し屏風山鎮国寺と号されました。
宗像三柱の御本地仏として、大日如来、釈迦如来、薬師如来の三尊を刻み、本尊と定められ、「真言秘密の大法を伝え得たるは、危難をお救い下さった不動明王様のお蔭に他ならず」と謹刻された不動明王立像は、現在護摩堂に安置され、霊験あらたかで遠近から篤い参詣が絶えません。
 境内は一年を通じて色とりどりの風景を楽しむことができます。正月から早咲きの淡紅梅が、2月には早咲きの桜も開花し、梅と桜の競演が楽しめます。4月は約40種類の桜が次々と咲き乱れ、ツツジやシャクナゲも境内を一層賑やかに彩ります。アジサイ、花蓮、彼岸花と続き、秋の紅葉は11月末から12月初旬が見頃です。

鎮国寺奥の院:長安の青龍寺で恵果和尚から密教の秘法を授かり、大同元年(806)にご帰朝された弘法大師は、先ず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲棚引くのを見られ、奥の院岩窟にて修法され、「この地こそ鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げをこうむり、一宇を建立し屏風山鎮国寺と号されました。
宗像三柱の御本地仏として、大日如来、釈迦如来、薬師如来の三尊を刻み、本尊と定められ、「真言秘密の大法を伝え得たるは、危難をお救い下さった不動明王様のお蔭に他ならず」と謹刻された不動明王立像は、現在護摩堂に安置され、霊験あらたかで遠近から篤い参詣が絶えません。
 境内は一年を通じて色とりどりの風景を楽しむことができます。正月から早咲きの淡紅梅が、2月には早咲きの桜も開花し、梅と桜の競演が楽しめます。4月は約40種類の桜が次々と咲き乱れ、ツツジやシャクナゲも境内を一層賑やかに彩ります。アジサイ、花蓮、彼岸花と続き、秋の紅葉は11月末から12月初旬が見頃です。

18:30宗像付近のホテル到着し食事を済ませて就寝。

7:00レンタカーで出発、霊場巡り。

宗像観音寺:宗像観音寺は宗像大社の包括に有り、閑静な住宅地で、国道3号線バイパス光岡の信号を北へ入りJR尾園踏切手前約30m位の場所を左折した所にあります。 開基の因は昭和28年に全海僧が外国航海中に度々夢の中に聖観音像が現れ当地に祭るようになり、時を経て全海僧の勧めもあって、妻和子も仏門に帰依して“光染尼”と改名し、現在住職を務めています。
昭和55年高野山の承認を得て、寺号を戴き宗像観音寺となり、平成7年9月本堂を建立。当寺境内には九州二十四地蔵3番札所一言地蔵尊・薬師如来・十三仏像・修行大師像・聖観音像等を祭っております。

観音寺:当地は、もとは鷲尾山といわれ、山頂の鷲尾神社(西暦十二年創建)の別当坊「東林寺」(天台宗、八五九年開創)があった。寛永十一年(一六三四年)黒田二代 藩主忠之公、幕府より謀反の疑惑(黒田騒動、日本三大騒動の一つ)を受け愛宕神に祈願したところ、ほどなく嫌疑が晴れたことから、山頂に愛宕神社を開創 し、別当坊「円満寺」(真言宗)を置いた。同年九月博多東長寺中興・快周大和尚導師のもと御遷座大法要が修行された。
以後、歴代藩主の御祈願所として信仰を集め山岳信仰の拠点として隆盛を極めた。明治三十四年(一九〇一年)の神仏分離令により「東林寺」は「円満寺」 とともに廃寺となり当地に観音堂を残こした。愛宕大権現の本地佛、御本尊勝軍地蔵尊は、この観音堂に迎えた。数々の苦難のたびに出現され奇跡を起こし、難 なく乗り越えられた御本尊様は、「諸難を除く愛宕権現」と詠われ、熱心な信仰を集め、特に、御百度参りや毎月の御1日(おついたち)参り、二十四日の(御 本尊縁日)には多数の信者で賑う。バスの参拝は山頂でバスを降りて階段を下り、参拝の間、バスは山を下り階下に移動して出発するのが便利。

法蔵寺:ベットタウン化する姪ノ浜の地において、高層マンションが立ち並び福岡市の中心になりつつある西区の中で、一歩旧道に入ると昔ながらの町並みが残る。この町並みの一郭に法蔵院がたたずんでいる。昭和初期 開山瑞光尼より建立された当寺は、今では霊場開創の祖と言われる。「
第三世覚誠和尚の誓願」であった「九州の地に八十八ヶ所を開創」し、人々に癒しと心のよりどころの地として、教えを伝承し たくさんの巡礼者をおまちしています。

誓願寺:創建安元元年(1175年)落慶法要導師栄西(開山)本尊は阿弥陀如来、但し誓願寺奥の院は毘沙門天裏山、毘沙門山といい「今津の毘沙門さん」 として、近郷に流布している。最盛期は1山42坊ありましたが、現在は大泉坊のみ現存してます栄西筆「誓願寺盂蘭盆一品経縁起」は国宝その他重要文化財等数多くありますが、国立博物館に寄託中です。 歴史は少々ありますが、お寺自体は質素で「心安らぐ境内」と好む人もボチボチいます

千如寺大悲王院:福岡、佐賀両県にまたがる背振山系の雷山(標高955m)の中腹に位置する千如寺は、寺伝によれば仏教公伝前の成務天皇48年(148)にインドの僧清賀上人によって開創されました。 鎌倉時代には、北に玄海灘を臨む位置にあるため、元寇に対する最前線の祈祷寺院として栄へ、最盛期には三百の僧坊があったと伝えられています。
 その後、室町から戦国の長い戦乱の中で、僧坊は荒廃し、千如寺のみを残すのみとなりましたが、宝暦3年(1753)福岡藩主の黒田継高公によって大悲王院が建立されました。  明治維新の神仏分離令により、雷神社の神宮寺であった千如寺は廃寺となり、本尊を始め全ての仏像、古文書等は大悲王院に移され、現在千如寺の法灯は大悲王院によって守り伝えられています。

隆善寺:隆善寺は玄界灘の美しい海と雷山山脈の深い山々に囲まれた“自然豊かな町”、“福岡のベットタウン”という二面性を持った自然と人工の調和した町、前原市にあります。 厄除開運・商売繁昌・病気平癒・学業上達等、種々の御祈祷・御祈願の寺で参拝者が絶えません。 ご本尊将軍地蔵菩薩は諸々の禍や様々な魔に対して、打ち勝たせてくれる地蔵尊です。 その他、境内には修行大師を始め、
十三仏・文殊菩薩わらべ地蔵などを安置しております。またお腹をくぐりご縁を願うカエルもいます

眞光寺:糸島市は、金印伝説で知られる「魏志倭人伝」に記された、伊都国に属し、当寺は 二丈岳(伝、二上山)登山口の一つに位置します。更に当寺周辺(旧糸島郡二丈町)は古 より神仏習合の地として、又、密教興隆の聖地とされていました。
眞光院は、大正年間、福岡県篠栗に開創、後に福岡市簀子町に移り、さらに平成元 年、仏様の導きとこの地へのご縁により当所へ寺院建立致しました。
この眞光院移築に際し、「因縁転化の道場」として大随求菩薩を御本尊にお迎え致 しました。大随求菩薩尊は「いかなる極悪重罪の人をも救い、いかなる願いをも叶え る」とされており、どんな人でも救ってくださるという大慈悲の仏様です。随求さん にお願いすると願い事が叶う、と熱心な参拝者も多くお見えになります。
また、当山鎮守の尊として清瀧大権現をお祀りしております。清瀧権現様は、「因 縁転化秘法」の主尊でもあり所願成就のため力を発揮してくださいます。また諸堂宇 には倶利伽羅不動明王、お綱大明神を奉安しております。
境内からは姫島が海を隔てて正面に見え、夕日が島々を赤く染め海に沈みゆく様は まさに極楽浄土の世界です。また背後の二丈岳からの清水(伏流水)が境内を潤しています。

篠栗方面に向かう。

本明院:

高田虚空蔵堂:

高田阿弥陀堂:

高田観音堂:

高田十一面観音堂:

中町延命寺:

下町薬師堂:

補陀洛寺:第七十九番「補陀洛寺(ふだらくじ)」は篠栗四国霊場の”打ち納め札所”としてJR篠栗駅からすぐの場所に位置する。
御本尊の十一面観世音菩薩は諸病緒難を除き、福徳を授かるといわれている。寺名の「ふだらく」は観世音菩薩の住むという補陀洛山(補陀洛浄土)に由来する。お遍路コースのゴール地点として春秋のお遍路シーズンには多くの参拝者が訪れる。
すぐ近くには旅館とお土産屋も並んでいるのでお遍路さんにとっては便利なお寺だろう。

中町屋島寺:

篠栗公園大日寺:

篠栗恩山寺:

遍照院:明治時代より100年以上の歴史を持つ遍照院。境内には6メートルを超える「修行大師像」が建立されており、この寺院のシンボルとして祀られている。
また、ここでは病気を治してくれるという言い伝えのある「病立切地蔵(やまいたちきりじぞう)」が安置してある。このお地蔵さまは何層にも衣装をまとっているが、ここに来て重い病気が治ったと、お礼の衣装を着せに来る参拝者が後を立たないという。このように県外からの参拝者だけでなくまた、地元の人からの信仰も非常に厚い寺院である。毎月第1日曜日(2・7月以外)午後1時より月例護摩を行っている。

金出大日堂:

珠林寺薬師堂:

金出観音堂:

金出神峰寺:

弘照院:初代住職は、明治35年、針ノ耳親子岩と本尊聖観世音菩薩の霊験にうたれて、札所の小さな庵に入庵して、熱心に布教活動を行なった。大正8年、ご利益を得て子宝に恵まれた夫婦が、子安観音像を奉納され、針ノ耳子安観音として知られるようになり、子宝・安産の仏様として多くの人に信仰されている。もう一つの見所の「十夜ヶ橋(とよがはし)」は、その昔、お大師様が愛媛県大洲地方を訪れた折、その地方はあまりにも貧しく、橋の下で一夜を過された。その夜が十夜のように感じられたことから「十夜ヶ橋」と呼ばれる橋がある。二代目住職が四国巡拝中に感得し、境内に橋を築いて、橋の下にお大師様を勧請した。観音祭は1・7月を除いて毎月18日に行います。また、1月の第4木曜と7月の第2木曜に奥之院参拝、それ以外の月の第2木曜に篠栗参りを行っております。車でお参りし、1年で2周します。初代住職は、明治35年、針ノ耳親子岩と本尊聖観世音菩薩の霊験にうたれて、札所の小さな庵に入庵して、熱心に布教活動を行なった。大正8年、ご利益を得て子宝に恵まれた夫婦が、子安観音像を奉納され、針ノ耳子安観音として知られるようになり、子宝・安産の仏様として多くの人に信仰されている。もう一つの見所の「十夜ヶ橋(とよがはし)」は、その昔、お大師様が愛媛県大洲地方を訪れた折、その地方はあまりにも貧しく、橋の下で一夜を過された。その夜が十夜のように感じられたことから「十夜ヶ橋」と呼ばれる橋がある。二代目住職が四国巡拝中に感得し、境内に橋を築いて、橋の下にお大師様を勧請した。観音祭は1・7月を除いて毎月18日に行います。また、1月の第4木曜と7月の第2木曜に奥之院参拝、それ以外の月の第2木曜に篠栗参りを行っております。車でお参りし、1年で2周します。

妙音寺:

観音坂観音寺:

雷音寺:ここは火伏せのお寺として信仰のある寺院。佐賀にて当時多発していた火災消滅を願って佐賀県の消防団の人たちがお参りを始めたところ、火災が減ったとのことで文化防災デーには毎年参拝しているというほど。また、そのせいかこの寺の住居の屋根下には“これがあると火災が起こらない”と言われる空の大きな蜂の巣があり、広く火伏せの寺として信仰が厚い。ちなみに、この寺名の由来は雷がお釈迦様の説教の音のように聞こえることから「雷音寺」となっているそうだ。毎月第4日曜日に護摩祈願を行っている。

萩尾薬師堂:

萩尾阿弥陀堂:

呑山観音寺:昔から“のみやまさん”の通称で親しまれている霊場「呑山観音寺」。年間の参拝者は100万人を超え、霊験あらたかなお寺としてご利益を求める祈願者が後をたたない。そんな呑山観音寺では年に三つの大きな行事を行っている。3月の第2日曜は「星まつり」では招福開運・商売繁盛を祈る“七福宝銭まき”を行っており、毎年1,500人以上の人でにぎわう。
8月第3日曜には「精霊まつり三大供養会」(流水灌頂会・水子供養万燈会・大施餓鬼会)、10月の第3日曜には千手観音秘法護摩供と大般若経600巻転読による“ご開帳大祈祷会”など大きな行事を行い、信仰を集めている。また、ここの見所としては水子地蔵尊(3,000体以上)や、弘法大師と稲荷大明神が祭られる大師堂と稲荷社などがあり、訪れた際にはぜひ参拝していただきたい。毎月第3日曜日、午前10時半より月例観音護摩法要が行われている。

天王院:もともとは紀州高野山にあった鎌倉時代創建の古刹だったが、明治以降に廃寺となっていたのを昭和48年に、この地に移し再建されたのがこの「天王院」だ。中国から帰国中のお大師さまを海難から救ったという波切不動明王を本尊とし、海上安全、大漁祈願はもとより人生の荒波を鎮めて運を切り開く開運出世の御仏として信仰を集めている。
また、ここの本堂は、篠栗の中でもっとも大きな本堂としても知られ、新緑や紅葉など四季折々の景色を楽しむ参拝者も多い。大きな行事としては、12月の第3土曜の夕方から翌朝にかけて30名の僧侶の介添のもと全国でも珍しい荒行“八千枚不動明王護摩大行”を行っており、篠栗霊場の一年の納め行事として恒例となっている。
また、本堂脇にある愛染堂には恋愛成就の仏様、愛染明王が祀られている。毎月28日、午前10時半より波切不動護摩法要が行われている。

五塔ノ滝観音堂:

大宝寺:鳴淵ダムのふもとに位置する大宝寺。ここは耳鳴平癒祈願の参拝者が多く訪れるお寺。ことのおこりは、ある時、耳鳴りに悩む方が、ここへ日参し、それが治り感謝の気持ちから耳鳴りの鈴が奉納されました。以来、今でも多くの方々がご祈願に参拝されています。また、縁結びのお寺としても有名で、良い縁にめぐり合えなかった参拝者同士がここで出会って結ばれたというなんともおめでたいご縁の寺でもあります。ここでは百萬辺大数珠くりや毎月第三日曜日(2月を除く)には月例護摩祈願祭を行っています。宇宙と自然と観音さまのパワーを授かって下さい。

明石寺:

鳥越観音堂:

山手観音堂:

山手薬師堂:

山王薬師堂:

山王寺:約3メートルの弘法大師坐像を安置する山王寺。これだけ大きな坐像は他に類をみないが、ここでの見所はこれだけではない。大師堂内には映画「無法松の一生」にて坂東妻三郎が実際に使用した人力車が奉納されているのだ。当時北九州からの参拝者であった大森重雄さんから昭和38年に奉納されたもので、過去には石原裕次郎や勝新太郎も使用したという逸話もあり、非常に貴重な人力車である。この他にも、本堂には本尊大日如来像や、本四国より勧請された蔵王権現像を祀っており、ここを訪れた際には一見しておくべきだろう。
毎月第2日曜と28日、午前11時より月例護摩供を行っている

山王釈迦堂:

山王釈迦堂:

山王薬師堂:

延命寺:

篠栗地蔵堂:

17:30博多駅に向かう。
18:35博多駅到達。
18:58博多駅新幹線のぞみで出発。
21:20新大阪駅到達。

今回の旅行、九州福岡に足を運び、福岡に点在する九州八十八ヶ所10箇所、篠栗八十八ヶ所37箇所を車で訪れ楽しみました。
九州八十八ヶ所の霊場は比較的立派なお寺が多く、一方篠栗八十八ヶ所の霊場はエリアも狭く、霊場も小ぶりでしたが、ルート、案内板がわかりやすく、駐車場も整備されており、時間のロスもなく巡ることができました。

両方の霊場は位置が集中していてエリアも広くなく、移動に時間がかかりませんでしたので、総霊場47箇所を巡ることが出きました。






















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十七弾:長崎県九州八十八ヶ所巡り観光
2016年2月13ー14日

九州に足を運び、江戸時代の鎖国の間、日本唯一の貿易港として中国やオランダとの文化の交流が盛んに行われていた長崎タウン、オランダの森の家を意味するハウステンボス、雲仙普賢岳を擁する高原リゾート雲仙と島原南蛮貿易の拠点として17世紀初めに日本初の商館が開かれた場所平戸・生月、西・東シナ海・玄界灘に浮かぶ離島(五島列島、壱岐、対馬)など多くの観光名所が点在する長崎県に訪れ、11箇所の長崎県に位置する九州八十八ヶ所を巡りました。

13日17:35伊丹空港出発。
18:55長崎空港到達、レンタカーで大村市内のホテルに向かう。
19:30大村市内のホテル到着後レストランで食事を済ませて就寝。

14日7:30レンタカーで霊場巡り。
島原方面に向かう。

龍照寺:島原外港から雲仙道路(国道57号線)を登ると約10分、 雲仙温泉からは島原方向に国道を下ると約15分、 寺に着くと巨大なお不動様(高さ13.8m)が出迎えてくれます。 境内からは雄大な普賢岳、有明海を挟んで対岸に玉名・熊本・天草の島々を望むこともできる 、すばらしいロケーションのなかにお寺があります。境内は明るく広々としており、山門・手水舎・本堂・護摩堂・大師堂(建立予定)・七福神堂・愛宕地蔵堂・庫裡などの寺構を整えています。
平成27年10月には、念願でありました新本堂落慶大法要を行いました。

長崎市方面に向かう。

延命寺:当山は1616年(元和2年)岡山より丁度、訪れていた龍宣和尚が当時流行していた新種の疫病平癒の為、祈願を行った処 御利益があったという事で長崎奉行の依頼で常駐し、当地で寺院を構えたのが始まりである。大正年間に入ると、「命を延ばす」、「いのちをつなぐ」という観点から老人福祉事業にも着手し、当時としてはめずらしかった、身寄りがない高齢者の為の生活施設「長崎養老院」を開設し、現在も養護老人ホーム「延命園」として続いている。

佐世保方面に向かう。

東前寺:東漸寺の門前には、天を突くような大きな楠があり、長崎県の天然記念物に指定されている。幹回りは約八メートル、高さは約二十メートル、樹齢約六百年。四方に枝を伸ばし、生命力をみなぎらさて、今なお青々と葉を茂らせている。幹にしめ縄を巻いており、 ご詠歌にも歌われる霊木である。和銅年間(708〜15)、現在の奥の院にあたる岩問山に行基菩薩が草庵を結び、薬師如来を安置したのが始まりと伝えられている。寛和二年(986)僧観海が、現在地に伽藍を建立。その後、衰微していたのを、寛永三年(1626)に教意法印が再建した。 本尊は、行基菩薩作の薬師如来でいつでも拝することができる。古色、歴史を感じさせる姿をしている。思わず手を合わせたくなるような尊像である。また、本尊の前に、一枚の鏡が置かれている。魔境といわれている。なぜ魔境というと、太陽などの光にかざすと、裏に刻まれた絵が映し出されるためである。何とも不思議な鏡であり、佐世保市の文化財に指定されている。

浄漸寺:奈良時代の養老二年(718)行基菩薩は、東大寺勧進のため全国を巡錫し、速木(現在の早岐)を訪れた折、楠木の霊木で薬師如来を刻み、堂宇を建立したのが浄漸寺の起源とされる。現在、早岐小学校の百段石と呼ばれている付近に、当時の境内があったという。以来、霊験あらたかな薬師如来として隆盛をきわめていたが、享保年間(1716〜36)に焼失、ただちに平戸松浦家によって再建されている。 藩の祈願所として、又早岐神社・住吉神社をも寺でお祭りしていた。この事は、当時の神仏混合の名残である。

大智院:弘法大師空海上人が若かりし日、留学僧として渡唐の途中、留学の目的達成を(現在の武雄市山内町の)黒髪山の大権現に立願され、 松浦郡田ノ浦の港から出航、唐の国長安(現在の西安)において青龍寺恵果和尚より真言密教を伝えられ、(大同元年)帰国の後、 博多に留まられていた際に、満願成就を奉告に再度黒髪山にご登嶺され、自ら爪で不動像を刻まれたのが発祥です。 この由縁によって爪刻不動明王(つまぼりふどうみょうおう)と呼ばれます。肥前国では弘法大師ご開基の最古真言道場です。

西光寺:西光寺は1687年に松浦藩の祈祷寺として現在の地に建立されたお寺です。本尊虚空蔵菩薩は、元は武雄市杉の岳にある行基菩薩が建立されたお寺にいらっしゃいましたが、約500年前に現西光寺の場所に虚空蔵菩薩が霊現されたことから、この地に移座されました。智慧や福徳を授けるという利益があり、弘法大師も若いころに虚空蔵菩薩のご修行に励まれ学業を成就なさいました。
 山内には長崎県天然記念樹「西光寺のオオムラザクラ」、佐世保市の指定文化財「野田フジ」、参道には「八十八ヶ所石仏群」があります。また、えびね、かのこゆりなど記念物などが現存します。
 西光寺では子育て地蔵をおまつりしており、多くのお子様方の成長を見守っております。
 また、「大難を小難に、小難を無難に。」西光寺大不動尊の霊前おいて交通安全お車祈願を随時いたしております。

光輪寺:市民の憩いの場所、中央公園の近く、医師会館や裁判所などがある高台に、光輪院の諸堂が建っている。入母屋造で妻入の毘沙門堂は、花頭窓を有する木造のお堂である。奈良信貴山から勧請された毘沙門天を安置する。赤い木造燈籠が、ワンポイントとして、おもむきを添えている。また、堀に沿って十三仏などの石仏が並ぶ。
本堂は、白い鉄筋コンクリートの建物。ギリシャの神殿のように丸い柱が四本立ち、宝形造の屋根には相輪が建っている。
本尊は、上品下生の阿弥陀如来。鎌倉時代の作と推定される古仏で、近年に修理されて、金色に輝いている。また、光輪院の諸尊で珍しいのは、本堂の裏側に祀られている魚籃(ぎょらん)観音立像である。魚籃観音は、観音の三十三応化身の一つで、魚が入ったかごを手に持つ。彫刻は少なく、滋賀県岩戸寺、東京魚籃寺など、あまり見られるものではない。九州では、平戸と生月島を結ぶ生月大橋の近く、生月大魚籃観音がある。

東漸寺:東漸寺の門前には、天を突くような大きな楠があり、長崎県の天然記念物に指定されている。幹回りは約八メートル、高さは約二十メートル、樹齢約六百年。四方に枝を伸ばし、生命力をみなぎらさて、今なお青々と葉を茂らせている。幹にしめ縄を巻いており、 ご詠歌にも歌われる霊木である。和銅年間(708〜15)、現在の奥の院にあたる岩問山に行基菩薩が草庵を結び、薬師如来を安置したのが始まりと伝えられている。寛和二年(986)僧観海が、現在地に伽藍を建立。その後、衰微していたのを、寛永三年(1626)に教意法印が再建した。 本尊は、行基菩薩作の薬師如来でいつでも拝することができる。古色、歴史を感じさせる姿をしている。思わず手を合わせたくなるような尊像である。また、本尊の前に、一枚の鏡が置かれている。魔境といわれている。なぜ魔境というと、太陽などの光にかざすと、裏に刻まれた絵が映し出されるためである。何とも不思議な鏡であり、佐世保市の文化財に指定されている。

西福寺:当山は、千有余年の昔より仙人山伏の修行道場として、この景勝寂奇岩怪石懸崖に清水の滝がある大洞穴の奥の院に庵を結んで修行していました。大正九年八月南有馬勢が直谷城に押し寄せて来た時、平戸城主と直谷城主の兵と合流して、弦掛の山に 陣を敷き有馬勢に向かって戦端に開き弓に弦を掛け戦った所で弦掛の地名があります。以後、この戦いで亡くなった霊を供養せんと庵を結んで法灯をかかげました。
明治以降、観世音菩薩の霊験あらたかなること、世に知れ渡り代々の先師はこのみ山に堂塔を建立し観世音菩薩を本尊とし、人々に信仰を集めています。

御橋観音寺:1240年前に名僧行基が海底で光を放つ大木から三体の観音像を敬刻し、開眼供養して東の海に流されたその内の1体が御橋観音寺となり現在まで信仰の霊地として栄えています。
また二条の大石橋をはじめ春は桜、秋は紅葉と平戸八景の景勝地としても有名です。当山のご本尊様は十一面観世音菩薩様で人々の様々な声を聞き救いの手を差し伸べてくださる非常に慈悲深い仏様です。どうぞ各種御祈願・供養等お気軽にご参拝下さい。

松浦方面に向かう。

善福寺:西海の玄界灘を臨む今福には、永長元年(1096)松浦党の始祖松浦久の築城した梶谷城があった。松浦久はここを拠点として一字名衆五十八家と称せられるほどに播廷し、鎌倉から室町時代にかけて水軍を組織して活躍した。 また文禄の役には秀吉の先陣として出陣し、異国にその名を馳せたが、現在は城跡を僅かに残している。 今福の港から入った山裾に善福寺は営まれている。 鐘楼門を構えた境内は静まり、本堂と前庭の趣が調和している。奥の院に至るとば口には、聖徳太子、修行大師、不動明王の石像があり、裏山、愛宕山周辺を囲うように 四国八十八ケ所霊場の石仏が祀られて、藜樹の道は精気が辺りに満ち幽幻に沈む。途中の岩窟には石像子安観音が安置してあり、秘かに村人の信仰が息づいている。 寺史によると、創建は建武二年(1335)寺上村に建立された。正平十年(1355)松浦直十三世が鰐口を寄進した。 現在、寺宝として護持し、県の文化財に指定されている。 その後、天正二年(1574)松浦親が薬師堂を建立し、阿尊和尚が本尊を勧請して開眼法要を営んだ。この頃、既に松浦党の庇護をうけて海上安全の祈願を厳修していた。善福寺は、寄進の宝物から寺史を新たにする。天和元年(1681)寺上村から仏坂免に寺領を移し、元禄八年(1695)堂宇を再建して目芳法印が開山したという。
 中興開基とみるべきであろう。寺史転変ありて、諸仏の修復を安政六年に行われた。明治四十二年に(1909)妙康法印によって現在地に移し法灯を継承している。本尊阿弥陀如来のほか、数体の諸尊を合祀した地方寺院の名刹である。

15:30長崎空港に向かう。

17:30長崎空港到達。
19:25長崎空港出発。
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州長崎県に足を運び、長崎県に点在する11箇所の九州八十八ヶ所霊場を巡り楽しみました。
長崎県の南から北にかけての広範囲に点在する霊場をレンタカーで巡り、移動に時間がかかりましたがなんとか11箇所の霊場を巡り堪能しました。立派な霊場盛りたくさんでした。次回は佐賀県の霊場巡りを予定しております。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十六弾:熊本県九州八十八ヶ所巡り&お城・城下町巡り観光
2016年2月10ー11日

室町時代に、古くから同地で力を持っていた菊池氏が守護となり、阿蘇氏、名和氏、相良氏などが各地を支配するが、争乱が絶えなく、やがて大友氏が肥後に進出し、龍造寺氏、島津氏と対立することになる九州熊本県に足を運び、九州八十八ヶ所13箇所、お城・城下町6箇所を巡りました。

10日17:40伊丹空港出発
18:50熊本空港到達、レンタカーで熊本駅に向かう。
19:30熊本駅付近のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

11日7:00レンタカーで出発、霊場巡り。

本蔵院:歴史は、阿蘇山から始まります。阿蘇山は本来、阿蘇神社の別当所として隆盛した西巌殿寺(天台宗・最栄読師開創)に総括された修験の山です。 有名な草千里には、かつて西巌殿寺の子院三十七坊が並び、修験の拠点となっていました。
しかし、明治の廃仏毀釈と修験道禁止令で、阿蘇修験は壊滅状態になりました。 西巌殿寺は山麓と山上にそれぞれ本堂を存続させていますが、子院三十七坊はいずれも廃されてしまいました。 後に、三十七坊の一院が熊本市迎町に移転し、真言宗に改宗したのが、満念寺本蔵院です。
さらに、昭和2年(1927)現在の本荘に移りました。 本尊は珍しい北向き不動明王。また、同じく本堂に祀られている弘法大師像は、人形師安本亀八の作です。

金剛寺:市街の中に在り、人々から中将姫の愛称で呼ばれている。創建は慶長年間(1596)斉藤又右門と称する人が開基したと伝えられている。
当初は熊本城の裏鬼門にあたる所にあって、加藤神社の別当を兼ねていたが、明治維新の廃仏毀釈に寺門は衰退していた。 明治25年(1892)増本法秀が現在の地に法灯をかかげ、由緒ある金剛寺を復興して維新の世情に弘法大師の教えを広めた。
しかし、昭和の戦火に焼失したが、寺門の再建に仏心をたぎらせ、新たな法灯を継承した。 以来、昭和58年に現在の秀和尼が本堂を再建して、祈りの道場を構えた。
中将姫の由来は、開基の斉藤又右門が霊示のお告げをうけて勧請したという。 中将姫といえば、奈良の当麻寺で出家した姫は、法如尼と改め阿弥陀如来に祈願していたところ、比丘尼が現れ、当麻曼荼羅を織り上げたと言う伝説がある。

蓮華院誕生寺:ここでお生まれの「皇円大菩薩様」をおまつりする真言律宗の「九州別格本山」です。 皇円大菩薩様(皇円上人様)は、浄土宗御開祖の法然上人様のお師匠様で、約900年前、肥後の守、藤原重房公の嫡孫として、ここ熊本県玉名市築地に御誕生されました。 幼くして比叡山で修行された皇円上人様は学徳にすぐれ日本三大歴史書の一つ『扶桑略記』を編述されました。 ご入定から六年後の治承元年(1177年)に平重盛が「蓮華院」を建立。そして60年後、法孫、恵空上人が、ご誕生の地に蓮華院浄光寺を再興、関白塔などを建立されましたが、天正十年(1582年)戦乱のあおりを受けて焼失してしまいました。 昭和に入り、川原是信大僧正様がご霊告により昭和5年に蓮華院を再興し、53年に奥之院を建立され、現在に至ります。

金剛寺:荒尾市は、熊本県の北西部に位置する。東に小岱山をいただき、西に不知火で名高い有明海に面し、彼方に雲仙岳を望む。県境の大牟田市とは共に炭鉱で栄えた。 昭和9年赤星精秀和尚が四国八十八ヶ所霊場遍路の後、真言宗寺院のなかった荒尾に、弘法大師御入定千百年御遠忌の記念事業として法雲院を開創した。法燈を継いだ善弘師が昭和35年入山して、法雲院を山号に改め、法雲山金剛寺と改称した。 参道には番号の刻まれた敷石がある。左側が四国八十八ヶ所霊場、右側が西国三十三ヶ所霊場の御砂が収められている。本堂前の観音立像の前には坂東秩父の観音霊場の御砂が収められ合せて百観音の結願となる。 弘法大師入唐1200年、御帰朝1200年それぞれの記念の石塔があり、中には中国赤岸鎮と青龍寺の石砂が収められている。殊に御帰朝記念の石塔には、中国で刻まれた黒御影石の金剛五鈷杵が蓮台の上に安置されている。

大勝寺:当山は千葉県成田市の成田山新勝寺が本山であり、その大本山成田山新勝寺の御本尊南無大日大聖不動明王(弘法大師一刀三礼謹刻開眼)のご分身が当成田山のご本尊であります。
1972年、九州のほぼ中央に位置し眼下に有明海が広がり、雲仙普賢岳、県立公園小岱山を望む自然ゆたかな地と、山門前には、西日本最大のテーマパーク「グリーンランド」を中心にアミューズメント施設等『遊・食・住』を兼ね備えた一大リゾート地が存在するこの有明の地を聖地と定め、本山より成田山の山号を戴き、寺号大勝寺を賜わり交通安全、厄除け現世利益、済世利人の成田山祈願道場として、九州一円熱誠信徒の心の寄り処となっている。

護国山仏性院金剛乗寺:825年弘法大師御開基にて「西の高野」と称される真言の大伽藍なり。
 お大師様九日間談義され、この地を九日町、当山を談義所と呼ぶ。後鳥羽院御勅願寺。 中興の祖恵鏡法印より34世。菊池・細川家など祈祷本坊、多くの信者の当病平癒・所願成弁の 祈願寺として現在に至る。
 1473年山鹿の温泉涸渇の折、当山中興八世宥明法印が硫礦山浄瑠璃寺(現在の薬師堂)を建立、 不借身命の大祈祷により温泉を復活させたのを祝って、山鹿の温泉祭が始められた。 また、法印供養法要の際山鹿庶民の献じた紙灯篭が灯篭祭の始まりとある。 お手植えの弁財天所縁の[童子椿]は法印の再来を待ち、花を開かず蕾のまま散るので有名。

八代方面に向かう。

医王寺:平安中期に創建されたと伝えられ、江戸時代寛文5年(1655)に、現在地に再興されました。歴代、八代城の安全と城主並びに城下、家内の除病息災・子孫繁栄を祈願して以来、八代城主 松井家の祈願寺だったお寺です。 
ご本尊は、薬師如来立像で、平安中期〜室町時代の作で桧の一木造り、高さ63.7cm、明治39年に国の文化財指定を受けました。聖観音は、鎌倉時代の作で桧の寄木造り、県指定重要文化財です。境内には、手足を病気、ケガから御守りいただける、青面金剛を祭神とする足手荒神、約300年も立ち続けた仁王様(石造の仁王像 高さ2m50cm)沢山の仏、神をおまつりしています。

八代城:元和8年(1622年)加藤正方によって築かれた。 熊本城に入封した加藤氏は元和の一国一城令の例外として熊本城と麦島城を残していたが、元和5年(1619年)麦島城は地震によって崩壊した。
熊本城主加藤忠広は幕府に麦島城を廃し新たに八代城を築くことを願い出て許された。 寛永9年(1632年)加藤忠広が改易となると替わって豊前国小倉から細川忠利が入封し、城代として弟立孝を本丸に父忠興を二の丸に置いた。 忠興が亡くなると家老の松井氏が城代となり以後明治に至る。

古麓城・鷹峰城:築城年代は定かではないが内河義真によって築かれたと云われる。 隠岐を脱した後醍醐天皇を伯耆国船上山に迎え、倒幕の兵を挙げた名和長年は、鎌倉幕府が滅亡すると、その功により嫡男義高に肥後国八代庄の地頭職が与えられた。 翌建武2年(1335年)一族の内河義真が代官として八代に下向し、南北朝初期の争乱により城を築いた。これが八代城で現在古麓城と呼ばれている。
「太平記」には建武3年(1336年)に北朝方の一色範氏が内河の城(八代城)を攻めたことが記されている。
長禄3年(1459年)名和義興が十六才のときに殺害されると、幸松丸は元服して名和顕忠と名乗った。文明年間(1469年〜1487年)になると名和氏は相良氏と敵対するようになる。文明14年(1482年)名和顕忠が高田に侵攻するが相良為続に撃退され、翌15年には相良為続が逆に八代へ攻め入り古麓城は落城した。相良氏は一度退いたが文明16年に再び八代に侵攻してくると名和顕忠は古麓城を捨てて逃れた。
明応8年(1499年)相良氏は豊福で菊池能運と戦って敗れると、勢いに乗じて八代へ侵攻した菊池軍に追われ、八代の地は再び名和氏が復帰した。
文亀4年(1504年)相良長毎が八代へ侵攻すると、名和顕忠は古麓城を明け渡し、木原城を経て宇土古城へ移った。天文3年(1534年)には相良義滋(長唯)によって城の拡張と城下町の整備が行われ、自ら移って居城とした。
豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後に入封した佐々成政は肥後国人一揆により改易となり、代わって加藤清正と小西行長が入封する。八代は小西行長の所領となり、古麓城は廃され麦島城が築かれた。

人吉方面に向かう。

願成寺:当寺はおよそ770年前、四条天皇天福元年(1233)人吉城主初代相良三郎藤原長頼公の創建で、開山弘秀上人は建久9年遠州常福寺より来られました。 金堂は鎌倉の長勝寿院の大御堂を模造し、1345畳敷と伝わっています。本尊は阿弥陀如来です。 文禄元年、当山13世勢辰上人は大いに功あって、寺録を300石増加され、慶長16年(1611)当山は後陽成天皇の勅願所となりました。塔頭六院を設け諸堂伽藍を経営していましたが、永録15年と更には西南戦争で、古の諸堂伽藍は悉く焼失しました。しかし、国指定重要文化財の阿弥陀如来・県指定重要文化財の不動明王・両界曼荼羅・七重の石塔・相良家の墓地・古文書数千点他安泰を待所蔵。

高寺院:球磨地方は、かつて平家一門の荘園がありました。平家滅亡後、平重盛の家人だった平貞能が、追善菩提のため重盛の念持仏の金造毘沙門天を胎内に納めた尊像を刻み、堂宇を建立したのが高寺院の始まりとされています。また、一説には、永享5年(1433)に快親という僧が開山して、本尊に毘沙門天を安置したとも言われています。江戸時代には、かなりの諸堂が軒を連ねていました。庫裏を兼ねた本堂は、寄棟造の葦葺きで、山村の農家のような感じの建物。外観からはお寺とは思えないが、日本人のふるさとといった雰囲気があります。
本堂の裏手にある入母屋造の収蔵庫に、本尊などの諸仏が安置されています。内部に並ぶ三体の毘沙門天像は、まさに壮観であり威風堂々と立っています。このうち、二体が国指定の重要文化財であります。

観蓮寺:元は観琳寺といい、治承年間(1177〜1181)平重盛菩提のため、矢瀬主馬佑が建立したと伝えられています。その当時は禅宗の一派だったそうですが、大永6年(1526年)当地の内乱「瑞堅の乱」に依り堂宇も焼失してしまいました。慶長年間(1596〜1615)再興しその時から千福寺 観蓮寺と改称し真言宗に改められました。途中数回の無住の時を経て現在に至っています。
青井山高野寺:熊本県南部、清流「球磨川」の流れる街「人吉市」の中心部、国宝「青井阿蘇神社」 門前にお寺を構えます。  大正十五年、初代良戒大和尚により開山せられました。その当時から“お大師さん”や“こうやさん”と 呼ばれ、皆様に親しまれております。 山門を入りまして左手すぐのところに『新四国八十八ヵ所霊場』の八十八体の佛様が御鎮座されておられます。 四季折々の花を見る事が出来る参道を歩けば、正面に『御身堂(おんみどう)』と呼ばれる、当山本尊 「高祖弘法大師(おだいしさま)」のおられます蓮華の花を模した八角堂(本堂)がございます。 本堂入り口の手前右手には、小さな子供たちを抱いた愛らしい「水子地蔵」さまがおられます。

勘代寺:日本三代急流 球磨川の上流 奥球磨 美しい田園風景の中にございます多良木町に勘代寺はあります。寺暦は鎌倉時代中期からの歴史を有し、諸代相良家の祈願所とし栄え現在は地域の方々の心のよりどころとして、日々お香のたえることのないお寺です。ご本尊様は、秘仏十一面観世音菩薩さま 内陣には、等身大以上のお大師様 薬師如来 孔雀明王 不動明王 をおまつりしておりまた 境内には、修行大師 弥勒菩薩を中心に石像十二支守護本尊八体佛 疳封じ地蔵 水子地蔵 子安観音裏門からは 厄払いの男坂四十二段・女坂三十三段をのぼると、厄除け不動尊をおまつりしており、毎月のお大師様報恩日(21日)には、たくさんのお参りのかたがたに大数珠まわしをしていただき、護摩祈祷を修しております。

生善院:寛永2年(1625年)に創建され、熊本県南部に位置する真言宗智山派の寺院です。
 謀反の疑いで非業の死をとげた普門寺第5代住職盛譽法印と後を追って死んだその母玖月善女を 祀るために人吉藩主相良長毎公により建立されました。本堂には盛譽法印の影像である阿弥陀如来が、 観音堂には母玖月善女の影像である千手観音がそれぞれ納められています。 言い伝えでは、盛譽法印の母玖月善女は、その息子の死を怨み相良氏を呪いその愛猫「玉垂」とともに、 茂間ヶ崎淵(湯山ごしんさん)に身を投じました。その後、この猫が相良氏のもとに化けて出たため、 この猫の供養も兼ねて生善院が建てられたと伝えられており、この化け猫の伝説により生善院は 通称「猫寺」と呼ばれています。

鍋城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に上相良氏によって築かれたと云われ、 以後代々上相良氏の居城となった。
南北朝時代には上相良氏は南朝方となり、人吉の下相良氏は北朝方として対立するようになる。その後南朝方に属した上相良氏は形勢が不利となって下相良氏に帰順し、相良氏惣領の座は下相良氏へと移った。

熊本市方面に戻る。

御船城:築城年代は定かではない。 阿蘇惟長によって日向国に追われた阿蘇惟豊は、甲斐親直(宗運)の助けで惟長を追って復帰する。その後、阿蘇惟豊の命で御船城主御船房行を討った甲斐宗運は、御船城主となった。宗運は御船城を居城として勢力を持ち、大友氏と阿蘇氏の間に立って重要な役目を果たしたが、耳川の合戦で大友氏の勢力が衰えると、島津氏の命で攻め寄せた相良義陽を響ヶ原で討ち取るなどの戦功をあげた。宗運が亡くなると島津氏が北上して益城郡の諸城を落とし、御船城主甲斐親乗は城を捨てて退散した。

岩尾城:築城年代は定かではないが貞応年間(1222年〜1224年)頃に阿蘇惟次によって築かれたと云われる。 阿蘇氏の浜の館の詰城として築かれたものである。
天文21年(1552年)に岩尾城で火事があったことが「八代日記」に記されているという。

18:10熊本空港到達。
19:20熊本空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、九州熊本県に足を運び、九州八十八ヶ所13箇所、お城・城下町6箇所を巡り楽しみました。

天候快晴、久々のドライブ日和、気温も比較的暖かく、気持よく、霊場・お城を回るこtが出きました。

九州の八十八ヶ所、お城巡り、徐々に制覇し続けています。明後日は長崎の霊場、お城巡りを予定しています。


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十四弾:鹿児島県九州八十八ヶ所巡り&お城・城下町巡り観光
2016年1月30日ー31日

大隈、薩摩、そして日向の一部で構成され、古くから海外との交易が盛んで、大隈の肝付氏、日向の伊東氏がいち早く合戦に鉄砲を取り入れ、守護の島津氏が同地を支配し、九州全土を席巻した鹿児島県に足を運び、九州八十八ヶ所の8箇所、比較的マイナーなお城11箇所を訪れました。

1月30日16:20伊丹空港出発
17:35鹿児島空港到達、レンタカーで鹿児島市内に向かう。
18:20鹿児島市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

31日7:00レンタカーで巡る。
不動寺: 美し風景で知られる鹿児島の名所、磯庭園。庭園の目の前には桜島と錦江湾が広がります。その近く、鹿児島市十号線沿いに稲荷町という町があり。この町に不動寺があります。 このお寺のある場所は、かつて真言宗大乗院というお寺が存在した地でありました。不動寺はそのような仏縁の深い場所に築かれています。由来を語ると、大隅半島にある西大寺の鮫島弘明住職が薩摩の地に祈祷道場を求めて行脚していた時、夢に不動明王の霊示を受けたという。急いでこの地を訪ねてみると茂みの中に石仏が放置されていた。鮫島住職はこの石仏を仮に安置し、後の昭和35年に仮道場を興された、これが不動寺の始まりであります。現在は真言密教を広める道場とし、平成8年5月26日に本堂を落慶法要し、寺院として今にいたります。

大歓寺:大歓寺は、昭和45年に建立されたお寺です。御本尊様はお不動さまで、病気平癒、災害除け福徳や煩悩を滅ぼしたり、大変霊験あらたかな仏さまで、これまでもたくさんの信者さんからお不動さまのおかげを授かっておられます例えば鹿児島市で過去あった大水害にみまわれた時もお寺でご祈祷したお不動さまのお札を授かった方の中には、倒壊した道路を通行していたが、お不動さまのおかげで間一髪の所を救われたという方や、床下浸水で畳が浮き上がり、次々と家具が倒れる中、お不動さまのお札を納めたお仏壇だけは微動だにしなかったという信者さんもおられます、霊験談は数えあげるときりがないほどある。
また大歓寺のご利益といえば、安産祈願が有名である。この安産祈願の安産お守りは護摩を焚き、祈りを込めた手づくりのお守りで、このお守りを授かりにくる方も多い。また老若男女の心のより所として開かれたお寺ですので、大いなる活気に満ち溢れています。

東福寺城:暦応4年・興国2年(1341年)島津貞久によって築かれた。 貞久は南朝方の矢上氏と肝付氏の籠る浜崎城(一説に東福寺城の一曲輪とも云われる)を攻め落とし薩摩の拠点とした。
嘉慶元年・元中4年(1387年)島津氏は勢力を伸ばし新たに清水山城を築いて拠点を移した。

清水城:嘉慶元年・元中4年(1387年)島津元久によって築かれた。 島津氏は東福寺城を居城としていたが勢力が拡大するにつれ手狭となり清水城を築いて本拠を移した。
元久が没すると長子犬千代を推す伊集院頼久と元久の腹違いの弟久豊の間で相続争いがあり頼久によって清水城が焼き払われた。

指宿方面に向かう。

光明寺:薩摩半島の一角、縁に囲まれ全国に知られる温泉の里指宿天然砂蒸しは特に有名であります。この地に光明寺があります寺周辺には、そら豆、おくら等畑が多く季節を感じます境内に目を向けますと前面を駐車スペースとして広く取り高齢者の方、身体に障害のある方が安心して御参りができるように設計してあります。又、参拝者の皆様の健康を祈って、観音菩薩蔵を平成18年に建立しました。 堂内に地蔵菩薩を本尊として安置しその側に寺宝で大師ゆかりの密教法具の一つ香炉と如意棒が島津家祖霊の願文とともに奉納してあり年に1回元旦の日にご縁にあう事が出来ます。 当寺は修行はもとより悩みのある方が“笑顔で帰っていただきたい“これを心より望むてらです。『今日を大切に、出会いを大切に、明日を元気よく』

指宿城:指宿市西方外城市字城ヶ崎にある松尾城は、鎌倉時代から江戸時代初期までの約400年間、山城、海城の両方の性格を持つ城でした。指宿五郎忠村(ただむら)が城を建てて以来、歴代の城主は、阿多氏、奈良氏、紀氏、相州島津氏、祢寝氏、薩州島津氏、田代氏などにうつり変わりました。元和(げんな)元年(1615年)の江戸幕府の一国一城令で廃城になるまで、指宿の歴史は、この城を中心に動いていたのです。防御のための空堀(からぼり)や本丸跡などが現在も残っており古城からの眺めはすばらしいものがあります。

頴娃城:応永27年(1420年)頴娃兼政によって築かれた。
頴娃氏には頴娃古城を居城とし、開聞宮下司職と頴娃郡の郡司を兼任した平氏系の土豪の頴娃氏と、それが滅びた後に頴娃氏を称した肝付一族の頴娃氏があり、兼政は後者の初代である。
頴娃城はポルトガル商人J・アルヴァレスによってヨーロッパで紹介された最初の日本の城だという。


知覧方面に向かう。

知覧城:築城年代は定かではない。 島津忠久が入国したとき、頴娃忠信が知覧院郡司職に任ぜられた。その後北朝方の島津氏によって薩摩・大隅・日向が平定されると、島津忠宗の三男佐多忠光が領した。 応永年間(1394年〜1428年)城主佐多親久の留守中に、南朝方として島津氏に反抗していた伊集院頼久の一族によって、攻られ落城したが、応永27年(1420年)頼久が島津氏に降ると佐多氏が再び城主となった。

枕崎方面に向かう。

大国寺:昭和42年に住職によって開山され市民の悩みは台風だったので、百日間の願いをかけ禅をくんだ、すると国見岳が浮かび、観音菩薩の姿が現れた。さっそく手作りで御堂を建て、台風が一番やってくる方向に高さ8mの大日観音菩薩を造立した、すると不思議に大きな台風はあまり来なくなり枕崎市では、お大師様のお力と有名になった。 平成14年11月に佐賀県の七山村に如意輪観音庵を設立し、平成18年3月9日、金剛界大日如来様を建立した所、上空より大日如来の誕生の姿が現れた、写真に撮れた。 またこの大国寺に参拝すると、お茶の代わりに水を勧められる。かつてはこの山には水がなく山下から桶で運んでいた。それが平成5年になって、弘法大師のお陰で湧き出した、この大師の恵みの水も参拝された方々には有り難くいただいてほしい。

薩摩半島を北上する。

剣山寺:鹿児島県の南にあり、東支那海の見える静かな町の小さなお寺です。廻りの人達はとても人情厚く笑いのたえない所です、お寺の後ろには熊野神社があります。本尊不動明王様は参拝のみなさまのお話しをいつも“ニコニコ”して聞いて下さいます、「あわてるな、急ぐな、あなたはあなたのままでよい」といつも、話かけてくださる様な気がします。境内には慶長九年(約400年前)の三重の塔があります。気軽にどなたでも参拝出来るそんな寺にしたいと思います。

加世田城:治承元年(1177年)別府忠明によって築かれた。 別府氏は桓武平氏良文流で忠明の時に別府を名乗り別府城を居城として代々続いたが、応永27年(1420年)島津久豊に降った。島津宗家勝久の跡目をねらった島津実久は嫡子貴久を勝久の養子として宗家を継がせた島津忠良と激しく対立するが、天文7年(1538年)島津忠良が猛攻を加えて攻め落とした。

伊作城:築城年代は定かではないが南北朝時代に伊作島津氏によって築かれた。 伊作島津氏は久長を祖とし、忠良(日新)の時代に勢力を広げ、子貴久は本家を継いで戦国大名と成長した。義久の時代には九州北部まで進出したが、豊臣秀吉による九州討伐に敗れた。

峰浄寺:境内に足を踏み入れると、坂村真民先生の「念ずれば花ひらく」の真言碑と大きな修行大師さまが優しく出迎えてくれる。本堂奥には緑の散策路が広がり、八十八ヶ所の札所があり、入口には
十二支えと地蔵水子地蔵弁財天堂紺髪観音子安観音などあり四季折々の花が咲き、親子や若い人たちのお参りが絶えない峰浄寺です。

一宇治城:築城年代は定かではないが建久年間(1190年〜1199年)伊集院時清によって築かれたと云われる。
伊集院氏は時清から4代で血脈が絶え島津氏の一族伊集院久親がこれに代わった。
南北朝時代には島津一族で唯一南朝方に属したが島津貞久に破れた。
天文の初めには島津実久の勢力下であったが天文5年(1536年)島津忠良・貴久父子によって攻略された。
忠良・貴久父子はここを拠点として薩摩を統一し天文19年(1550年)貴久は内城を築いて移った。

薩摩薬師寺:奥薩摩の小さな集落の中にある当寺は新寺建立したまだ新しい寺ですが、のどかな環境に囲まれ、故郷に里帰りしたような気軽さでお参りができます。 本尊薬師如来立像は、御身の丈十三センチと小さいながらも、高野山よりお迎えした大変霊験あらたかな仏さまで脇仏の不動明王は、男女の縁はもとより、あらゆる不思議な縁結びの仏様です。
境内奥の八幡神と御神木の梛の木は永年に渡り、世の平和を見守っています。 これから歴史を刻んでいくお寺ですが、たくさんの方々の悩みや病がお薬師さまのお徳により救われることを願い、心のよりどころとなれば有り難いです。

法城寺:桜島が浮かぶ錦江湾の一番奥。美しい景色に囲まれた加治木町に法城院はあります。街中の国道沿いということもあり小さなお寺ですが、御参拝者のお線香の煙が絶えることなくたなびいています。御本尊は、参拝者の願いを叶え、苦しみを取り除いてくださる不動明王(秘仏)です。また、境内では無病息災・長寿祈願の「延命地蔵菩薩」、子供の安全・発育を願う「子安地蔵菩薩」などたくさんの仏様をお参りいただけます。現在、地元では「加治木の高野山」として皆様に親しまれておりますが、はじめてお参りされる方でも気軽に本堂に上がって手を合わすことが出来る、ちょっとした悩みでも話せる、そんなお寺でありたいと願っております。

加治木城:築城年代は定かではないが平安時代に大蔵氏によって築かれたと云われる。 大蔵氏は東漢霊帝の血を引く帰化人とされる。数代目の当主大蔵良長のとき継嗣なく、流罪となってこの地へ流れてきた関白藤原頼忠の三男経平に娘を娶せて大蔵家を継がせ、経平は加治木氏と名乗ってこの地に住んだと云う。加治木氏は以後有力国人としてこの地を治めていたが、明応4年(1495年)加治木久平は帖佐へ侵攻し平山城の南城を占領したが、高尾城に籠った川上忠直に防がれ、加治木侵攻に怒った島津宗忠昌の大軍に攻められ加治木城に帰還した。翌明応5年(1496年)島津忠昌が加治木城に押し寄せ久平は敗れて謝罪し許されたが薩摩国阿多へ移され加治木氏は没落した。
加治木氏の後は伊地知重貞が地頭となったが後に重貞も島津氏に叛いた為、大永7年(1527年)島津忠良が加治木城に攻め寄せ伊地知重貞・重兼父子は城中で自刃して果て、肝付兼演に加治木城は与えられた。
天文23年(1554年)蒲生範清は渋谷一族とともに島津氏に反抗し加治木城に攻め寄せた。島津貴久は加治木城を救援する為、岩剱城の祁答院良重を攻め、加治木城を取り囲んでいた蒲生軍が岩剱城を取り囲んでいた島津氏を討ちに戻ってきた所を激戦の末に打ち破り加治木城を救った。
文禄4年(1595年)加治木・日当山・溝辺のうち一万石が豊臣家の蔵入地となり、肝付兼三は喜入に移封となった。しかし、文禄・慶長の役での島津氏の功によって加治木は島津氏の所領に戻り、島津義弘が平松城より加治木へ移ったが加治木館を新たに築城した為、加治木城は廃城となった。

建昌城:築城年代は定かではないが享徳3年(1455年)頃に島津李久によって築かれたと云われる。 李久は島津忠国の弟で島津氏が平山氏を制した後、帖佐は李久に与えられ瓜生野城を築いたという。
李久の子忠廉は文明18年(1486年)島津忠昌の日向国伊東氏攻めに従軍し、日向国飫肥へ移った為、瓜生野城は廃城となった。
関ヶ原合戦後には徳川家康が加藤清正を先鋒として薩摩に攻め入るとの風聞があり、島津義弘が改修したともいわれ、また島津家久(忠恒)は鶴丸城にかわってこの建昌城を本城にしようとしたという。建昌城の名は明人頴川三官が中国の建昌城に似ているといったことから建昌城「けんしょうじょう」または「たてまさじょう」と呼ばれている。

蒲生城:保安4年(1123年)蒲生舜清によって築かれたと云われる。 蒲生氏(かもう)は、豊前国宇佐神宮の留守職藤原教清と宇佐大宮司の女との間に生まれた舜清が、神領管理のために大隅国垂水を訪れ、保安4年に蒲生・吉田の惣領職に転じて蒲生城を築いて蒲生氏を名乗ったことに始まる。蒲生氏は代々蒲生城を居城として続いたが、十八代蒲生範清のとき、渋谷祁答院良重と結んで島津貴久と戦った。弘治2年(1556年)島津貴久は蒲生氏の家臣中村氏の籠もる松坂城を攻め落とし、蒲生城に軍勢を推し進めた。蒲生氏の援軍として菱刈重豊が大軍を率いて駆けつけ北村に陣取り持久戦となったが、島津義弘が陣頭に立って奮戦するなど激闘となり、菱刈重豊が自刃して菱刈軍は壊滅、籠城していた蒲生氏も城に火を放って祁答院氏を頼って落ちた。蒲生氏の後は比志島美濃守が地頭として入部したという。

17:30鹿児島空港に向かう。
18:10鹿児島空港到達。
18:45鹿児島空港出発
20:05伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の南、鹿児島県に足を運び、九州八十八ヶ所の8箇所、お城11箇所を車で巡り楽しみました。

戦いの場が点在する鹿児島県、今は大きな建造物は見受けられないが、昔は大きな建造物が存在していたと思われる、城跡の遺残で想像できる立派な城跡が点在していました。

九州八十八ヶ所の8箇所、お城11箇所、合計19箇所を車で回り堪能した歴史めぐり観光旅行でした。































飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十八弾:四国別格二十霊場&四国三十六不動霊場&お城・城下町巡り観光
2015年11月29ー30日

四国の高知県に足を運び四国別格二十霊場、四国三十六不動霊場4箇所、鎌倉時代に地頭を任じられた長宗我部氏が、戦国の世になって一条氏、香宗我部氏、本山氏、津野氏などと競いあい、長宗我部元親の代に土佐を統一し、四国制覇の偉業に乗り出す高知のお城・城下町7箇所を巡りました。

29日15:35伊丹空港出発
16:20高知空港到達、レンタカーで市内に向かう。
17:30高知駅前のホテル到着後繁華街を散策し、食事を済ませて就寝。

30日7:30レンタカーで出発

極楽寺:弘法大師霊跡に先住僧師が民衆の幸福、とりわけ航海安全、病気平癒、家内安全などの祈願のため水行の後、一願不動尊として安置したのが由来である。

安芸城:延慶2年(1309年)安芸親氏によって築かれたと云われる。 安芸氏は蘇我赤兄の子孫といわれ、行経のとき安芸氏を名乗った。
戦国時代に入ると土佐七人守護の一人に数えられた。永禄6年(1563年)長宗我部氏が本山氏を攻めに出陣した隙を突いて、一条氏の援助を受けて長宗我部氏の居城岡豊城を攻めたが失敗した。 その後一旦和睦となったものの、永禄12年(1569年)長宗我部氏に岡豊城に招待された国虎はこれを謀略と考え拒否、長宗我部氏に攻められ落城し滅ぼされた。 安芸氏を滅ぼした元親は香宗我部親泰を城主として、後の阿波国への侵攻の拠点となった。

慶長6年(1601年)関ヶ原合戦で長宗我部盛親に代わり山内一豊が土佐に入国すると重臣五島為重を配した。

香宗我部城:築城年代は定かではないが中原秋家によって築かれたと云われる。 秋家は楠目城山田氏の祖となった人物で、香宗我部氏の祖である一条忠頼の子中原秋通の後見人であった。
大永6年(1526年)香宗我部親秀が安芸氏との戦いで敗れ、嫡子秀義が戦死すると弟秀通を養子として家を継がせたが、長宗我部氏が台頭すると長宗我部国親の三男親泰を養子として迎えようと画策する。既に秀通には嫡子がおり、これを拒否したが親秀は秀通を殺して親泰を養子に迎えた。
長宗我部氏が安芸氏を滅ぼすと親泰は安芸城主となり、後に阿波国方面の軍代として活躍する。
豊臣秀吉による朝鮮の役では嫡男親氏が出陣したが戦死し、代わって親泰が出征したものの長門国で病死する。このため親氏の子親和が幼少の身で家督を継いだ。 慶長6年(1601年)長宗我部氏が改易となると親和は肥前国唐津の寺沢氏に仕官した。

山田城:築城年代は定かではない。鎌倉時代に中原秋家による築城とも云われるが、現在残る遺構は戦国時代のものと思われる。
山田氏は中原秋家の後裔で鎌倉時代に香美郡宗我郷・深淵郷の地頭として入部したと云われる。山田氏は後に土佐の七守護の一人に数えられる程の勢力を持った。しかし、天文年間(1532年〜1555年)の当主山田元義(基道とも)は猿楽を好んで武道を好まず、政治を疎かにしていた。重臣である烏ヶ森城主西内常陸・雪ヶ峰城主山田監物はこれを諌めたが、元義はかえってこれを遠ざけてしまった。
岡豊城主長宗我部国親の家臣吉田重俊は謀略を持ってまず西内常陸を討ち、大軍をもって山田城に攻め寄せた。山田監物が江村小備後によって討ち取られると、山田元義は韮生へ逃れ山田氏は滅亡した。

極楽寺:本尊不動明王は、開山喜道和尚感得した霊像にして、身代わり不動尊として信者の崇拝を受けている。境内には、西日本一の霊峰山石鎚山の行場第二の鎖を模した行場を形成。また行の滝もある。

大津城:築城年代は定かではないが天竺氏によって築かれたと云われる。 天竺氏の出自は詳らかではないが、守護職細川氏の一族と考えられている。天竺氏の後は津野氏の城となり、天文15年(1546年)津野基高が一条氏に降って一条氏の家臣が在城した。天文16年(1547年)頃に長宗我部国親が大津城を攻め取り、以降は長宗我部氏の持ち城となった。天正2年(1574年)一条兼定が豊後へ追放されると、長宗我部元親は一条内政を大津城へ迎え大津御所と呼ばれた。


岡豊城:岡豊城跡は、四国を平定した長宗我部氏の居城として知られる中世の城跡です。長宗我部氏は鎌倉時代に地頭として土佐へ入国したと伝えられており、それ以後、長岡郡を中心に勢力を広げ、戦国大名へと成長していきました。
 岡豊城の築城は発掘調査の結果、13〜14世紀ころと考えられています。「土佐物語」によると16世紀の初頭に一度落城したと伝えられており、その後、国親により1516(永正十三)年に再興され、1588(天正十六)年に元親が大高坂城(現在の高知城)へ移転するまでの、約70年間にわたり居城として使われていたといわれています。
 岡豊山は、香長平野に突き出した丘陵であり、標高97mの頂上部(詰)に立てば、眼下に香長平野をおさめ、遠く太平洋も望むことができます。南には国分川が流れ、自然の要害の地でありました。
 城跡は、詰を中心とする本城といわれる部分と西の伝厩跡曲輪、南斜面の伝家老屋敷曲輪の二つの出城からなる連郭式の構造となっています。本城は、詰と掘切によりへだてられた二の段、詰の南から西にかけて周囲を取り巻く三の段、四の段からなり、虎口(城の中心となる出入口)は西部に造られています。
 発掘調査の結果、詰・詰下段・三の段では礎石建物跡や土塁の内側に石積みが発見されています。また、多量の土師質土器とともに青磁、白磁、染付と呼ばれる輸入陶磁器、瀬戸、備前、常滑などの国産陶器、渡来銭、小刀、また武器として火縄銃の部品(火鋏)や弾丸などの遺物が出土しています。
 岡豊城の整備にあたっては、発掘調査の成果をもとに詰、詰下段、二の段、三の段の土塁や礎石建物跡などを復元しています。

本山城:築城年代は定かではないが本山氏によって築かれたと云われる。 本山氏の出自は詳らかではなく、清和源氏吉良流の八木氏、平氏、但馬国造八木氏など諸説あり定かではない。
戦国時代土佐七雄の一人に数えられた本山氏は、天文年間(1532年〜1555年)本山茂宗の頃には高知平野へ進出し、朝倉城を拠点として一大勢力を築くまでに至った。しかし、茂宗の子本山茂辰の代になると一条氏の庇護を受けて岡豊城主に復帰した長宗我部国親との争いが本格化し、永禄6年(1563年)には高知平野の拠点である朝倉城を破棄して本山へ退くまでに圧迫された。その後も長宗我部元親によって攻め込まれ、本山城も破棄して瓜生野に逃れたが最後は長宗我部氏の軍門に降った。

宗安禅寺:当不動尊は鏡川上流領家郷から洪水で流され、現在地の大藤に掛り、安置された伝承から川上不動の名がある。弘法大師の木像で、彩色持国天、増長天の二天像とともに、国の重要文化財に指定されている。

泰泉寺城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に吉松播磨守光義によって築かれたと云われる。 吉松氏は源義賢の子淡路冠者義久らが平教経と戦って戦死した功により、義久の子松若が源頼朝によって秦泉寺の領主となり、播磨守光義と名乗ったことにはじまるという。
その後、吉松氏は高知平野に進出した本山城主本山氏に属していたが、弘治2年(1556年)に長宗我部国親、永禄3年(1560年)には長宗我部元親の攻撃を受けて城主吉松掃部頭茂景は降伏した。
茂景は万々城へ移され、替わって中島大和が城主となり、秦泉寺大和と称した。「土佐軍記」によればこの秦泉寺大和は天正16年(1588年)に農民の私闘のことから元親の怒りに触れ、秦泉寺大和・掃部父子はともに滅ぼされたという。一方「古城伝承記」には秦泉寺城は天正16年には「荒城」と記されている。

大善寺:弘法大師四国八十八カ所御開創の砌、須崎の入海はきわめて広く、今の大師堂の地点は海に突き出た岬とっていた。当時は山越しに行くのを常としたが干潮の時はこの二つ石岬の端を廻って行くことができた。ところが同地は波浪いつも岩をかみ「土佐の親しらず」といわれ、波にさらわれて海の藻屑となるものも多く海難が多発し、そのうえ同地点は伊予石鎚山の末端に当たるので身に不浄あるものは時々怪異に出会うといっておそれられていた。
大師は、そのことを聞いて海岸にたつ大岩の上で海難横死者の菩提のため、海上・陸上の往来安全を祈願して祈祷を行い、一寺を建立したのが今の大師堂の起源である。それ以来難儀も軽減したので、誰言うともなく「二つ石のお大師さん」と呼ばれるようになったという。
二つの大岩は長年波荒く打ち寄せる波の力で磯になり丘になり、遂に昭和の初め防潮堤ができ、今はその姿を留めていない。寺伝によれば宝永四年(1707年)の大変までは古市町にあり八幡山明星院大善寺といい、法印職の住する中本寺格として八幡神社の別当職として末寺十七カ所寺を擁していたが(寺地境内は六反十二畝三歩・寺は三間に二十四間だったという記録がある)津波で流失し古城山のふもとに移ったものらしい。
後に明治の廃仏毀釈により廃寺となり、明治二十九年(1896年)大師の霊跡を惜しむ里人の手で再興され現在地に移転し寺の再建を計って今日に至っている。
尚、本堂前境内よりのながめは太平洋を眼下に一望でき「二つ石の上でお大師様」が今もみなさま方の幸せをとこしえに御祈願されております。

16:00高知空港に向かう。

17:00高知空港到達。
19:10高知空港出発
19:55伊丹空港到達。

今回の旅行、四国の高知県に足を運び、点在する霊場4箇所、お城7箇所を巡り楽しみました。

飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十六弾:坂東三十三箇所巡り第4弾観光
2015年11月14ー15日

坂東三十三箇所巡り第4弾、栃木県・群馬県・茨城県に足を運び、点在する坂東三十三箇所の7箇所を訪りました。

14日13:30新大阪駅新幹線のぞみで出発
16:13東京駅到達
16:36東京駅新幹線やまびこで出発
17:26宇都宮駅到達、駅付近のホテル到着後駅前を散策し食事を済ませて就寝。
15日7:30レンタカーで出発、霊場巡り。

大谷寺:本堂の脇にはやはり磨崖仏の釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊像があります。平安時代から鎌倉時代にかけて刻まれたものです。これらの石仏は国の特別史跡、重要文化財に指定されています。
 1962年から3年かけて実施された防災工事の際に本堂の下から縄文時代の遺跡が発掘され、約11,000年前の人骨がほぼ完全な形で出土し、境内の宝物館に展示されています。縄文人骨としては最古のものだそうです。
 また、すぐそばに大谷観音御前立ちの平和観音があります。

中禅寺: 奈良時代の784年に勝道上人が中禅寺湖畔に開いた古刹です。勝道上人は出流山満願寺を開いた後、前人未踏の男体山の頂を極め、山上に二荒山神社をまつり、その麓に生えたカツラの木に観音像を刻みました。そのため立木観音と呼ばれているわけです。二荒山(ふたらさん)は男体山の異称で、観音浄土の補陀洛(ふだらく)から出ており、日光の地名も二荒の音読みに由来するそうです。
 創建以来、中禅寺は現在の二荒山神社中宮祠(男体山登拝口)の場所にありましたが、明治35(1902)年、山津波に襲われ、その後、現在の歌ヶ浜に移転したということです。
 朱塗りの仁王門をくぐると、左手に霊泉(延命水)が湧き、右手には鐘楼。さらに愛染明王を奉安した愛染堂。正面奥には大黒天堂があります。そして、その左側に山を背にして観音堂が建っています。堂内には本尊の立木観音。高さは6メートル余り、地面に生えたままの木から像を彫り出した際、頭部より上で切り倒した木材で左右の手を造ったという寄木造りです。この本尊を守る四天王は鎌倉時代の作で、源頼朝が寄進したものだそうです。
 観音堂の背後に建つのが五大堂で、主尊・不動明王を中心に降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王が並んでいます。堂内外陣の天井には雲竜図、内陣の天井には日光の四季の花が描かれています。そして、拝観順路に従ってお堂の外に出ると中禅寺湖や男体山の絶景が広がります。

水澤寺:推古天皇の勅願により、高麗から渡来した恵観僧正が開いたという古刹・水澤観音はいかにも山岳霊場といった雰囲気です。至るところに水が湧き、水音が絶えないお寺で、仁王門の脇の水屋に水を汲みに来ている人の姿も見かけました。「水沢うどん」が江戸時代からの名物になっており、門前には手打ちうどんのお店が並んでいます。そういう場所なので、参拝客も多いようです。
 朱塗りの仁王門には仁王像のほかに風神・雷神像が安置され、石段を登ると正面が元禄年間に再建された観音堂。千手観音像が安置されています。その隣には六道輪廻の相を表現した六角形のお堂があり、六地蔵が安置されています。いずれも朱塗りの建築で、鬱蒼とした山を背にして赤い色がよく映えていました。

長谷寺:寺伝によれば、聖武天皇の時代に開かれ、源義家や頼朝、新田義貞といった武将たちの尊崇を集め、、現在の住職の先祖は楠木正成の家臣だったといいます。戦国時代の1563年に武田信玄の兵火によって本堂が焼失し、現在の本堂は1580年に信玄の子・武田勝頼が再建させたものだそうです。
 今も鮮やかな彩色が施された本堂は内部も200円で拝観できます。藤原期の作という本尊の十一面観音(県重文)は秘仏(12年ごとに開帳)ですが、お前立ちの観音様(鎌倉期の作、県重文)も素晴らしいものです。両脇の不動明王と多聞天(毘沙門天)共々県内最古の仏像ということです。堂内にはまた修験の寺らしく、役行者像もあります。

満願寺:満願寺の創建は奈良時代の767年に遡り、開山は勝道上人。その後、平安初期の820年に弘法大師・空海が訪れ、本尊の千手観音像を刻んだと伝えられ、真言宗智山派の別格本山として尊崇を集めてきました。とりわけ下野国(栃木県)出身の足利氏の時代には大いに栄えたということです。しかし、足利義満が寄進したという本堂は1741年に焼失。現在の本堂は1764年に再建されたもので、これも風格があり、彫刻もみごとです。

佐竹寺:常陸太田は古くは常陸国を400年にわたって支配した佐竹氏の城下町であり、関ヶ原の戦いで佐竹氏が徳川方につかなかったため秋田に国替えとなってからは水戸徳川家が領主となり、とりわけ水戸黄門・徳川光圀の隠居地・西山荘の所在地として有名です。
 その太田にあるのが佐竹寺。常陸太田駅から西へ徒歩30分ほどのところにあります。その名の通り、佐竹氏ゆかりの古刹で、985年、花山法皇の命により元密上人が創建し、のちに兵火で焼失して、1546年に佐竹氏によって現在の位置に移されたといいます。通りに面した瓦屋根の仁王門(昭和15年の建築。仁王像は江戸期)をくぐると、右手に納経所、正面が本堂(観音堂)です。この本堂は1546年に佐竹義昭が再建したもので、茅葺の屋根の下にこけら葺きの裳階がある見事な建築です。本尊の十一面観音は聖徳太子作と伝えられているそうです。

日輪寺:日輪寺は寺伝によれば、天武天皇の時代(673年)に役行者が開き、のちに弘法大師が十一面観音を刻んで本尊として再興、さらに慈覚大師が来山して天台宗に改められたといいます。その後、源頼朝が寺領を寄進するなど、寺は大いに栄えたそうですが、度重なる火災に遭い、現在の本堂は昭和48年に再建された鉄筋コンクリート造りです。本堂に自由に上がって間近で観音様を拝むことができ、納経所も堂内にあります

16:00宇都宮駅に向かう。
17:30宇都宮駅到達。
17:58宇都宮駅新幹線やまびこで出発
18:48東京駅到達。
19:00東京駅新幹線のぞみで出発
21:33新大阪駅到達。

今回の旅行、坂東三十三箇所巡り第4弾、栃木県・群馬県・茨城県に点在する霊場7箇所を巡り楽しみました。
さすが坂東三十三箇所霊場、立派な歴史ある霊場が殆どで満足できました。

天候は小雨でしたが紅葉の季節、特に奥日光のドライブは周囲紅葉で鮮やか、目を楽しませ爽快な気分で走行できました。

4回にわたって関東の広域に点在する坂東三十三箇所を巡り制覇しました。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十三弾:坂東三十三箇所巡り第三弾観光
2015年10月24−25日

源平の戦い後、敵味方問わず供養や永久の平和への祈願が盛んになり、源頼朝の篤い観音信仰と、坂東(関東)の武者が西国で見聞した坂東三十三観音への想いが結びつき、鎌倉時代初期に坂東三十三観音が開設。やがて、秩父三十四観音を加えた日本百観音へと発展し、現在に至ります千葉、茨城、栃木エリアに位置する坂東三十三箇所の7箇所を巡りました。

24日13:37新大阪新幹線のぞみで出発
16:16東京駅到達、タクシーで虎ノ門ヒルズに向かう
17:00虎ノ門ヒルズの会場で講演会に出席。
21:30終了、タクシーでANAインターネントコンチネンタルホテルに向かう。
21:40インターネントコンチネンタルホテルに到着就寝。
25日7:45ホテルをタクシーで出発、八重洲に向かう。
8:00八重洲でレンタカーで出発、千葉、茨城、栃木方面に向かう。霊場巡り。

龍正院:成田市の北東にある下総町は古くは利根川の舟運で栄えた地。その滑河にあるのが龍正院である。現存の永正十三年(一五一六)鋳造の鰐口に「下総州行河山勝福寺」とあるので、そのようにいわれていた時もあったようだ。承和五年(八三八)滑河の城主小田宰相将治の発願により、慈覚大師が開基となっている。
 のちに大師の高弟修円が伽藍を整えたが、特に将治の帰依入門により常行三昧堂を構え、自ら導師となって所領の男女を集め、昼夜にわたって行法を修せしめたという。まさに天台宗門の古刹であり、その供料に香取一郡四十八ヶ村が当てられたという。これはのちのことではあるが、江戸時代には天海大僧正が東叡山寛永寺の末寺となるよう「下知状」(現存)を下している。
 まず大きな注連縄がかかる仁王門をくぐるが、この仁王尊は享保年間(一七一六〜三六)門前に火災があった時、観音堂の屋根から大きな扇で火焔をあおぎかえし、本堂から下の集落は焼失をまぬがれたという伝説の主である。それより火伏の仁王尊としての信仰があつく、毎年正月八日に火災をまぬかれた下の集落の人々によって注連飾が奉納される。
 中央一間を入口とし、両脇に疎連子を付し、仁王尊を安置した寄棟造りの構えは実にどっしりとしている。この八脚四柱の門は飛騨の大隅の意匠、永仁六年(一二九八)に再建された室町時代の貴重な遺構で、重要文化財の指定を受けている。柱は一見、円柱のようだが、実は十六角、それだけに素朴さがあふれている。


圓福寺:江戸日本橋小網町の俳人・古帳庵が、天保12年(1841)に読んだ句だが、この句碑は圓福寺本坊の庭に建っている。地図をひろげると、銚子は関東地方の最東端に位置し、北は利根川、東南は太平洋に面し、まさに国のとっぱずれである。
 圓福寺はこの銚子市の中心地にあり、古来飯沼観音とも呼ばれ、信仰をおおいに集め、銚子の市街は観音の門前街として発展した。
 映画館や料理店などの盛り場に囲まれた観音堂は恒に人々で賑わっている。

清龍寺:筑波山の南の裾、小高い丘の上にある清瀧寺へは石岡・北條を結ぶ道を二本松で右折し(現在ダンプ道路などと呼ばれる二車線の大型農道)「坂東街道」と呼ばれた参道を約三キロたどることになる。または国道一二五号線よりバープルラインを目標に北へ向い、二本松の信号を直進する。参道口には札所の石標があり、やがて正面に高い石段が見えてくる。そしてその上に天保年間(一八三〇〜四四)に再建された仁王門が建っている。それをくぐり、やや上ると観音堂である。(常磐高速道土浦北インターより入ると約五キロ)
 この寺の草創は推古天皇十五年(六〇七)勅願により聖徳太子御作の聖観音像を龍ヶ峰に安置したことにあるという。また『坂東霊場記』には「南明山清瀧寺は、筑波権現降遊の砌り、行基大士草創の地なり、本尊聖観世音菩薩(御長丈八)は、同じく開山大士の彫造、今の堂地中興の事は、花山法皇の御叡慮なり」ともある。筑波の二柱の神が小野山に遊幸された折「頻りに渇の心地し」天の鉾をもって地を突かれたら清水が滝の如く、南北二ヵ所から湧き出たので、南の清明なる滝口に僧行基が寺を建てられたというのがその梗概である。のち「二百七十余歳を経て」花山法皇が「かかる瞼岨の山頂に在っては、老若の結線あまねく及ばず」とされ、龍ヶ峯から山の中腹に移された。その伝承は平安時代に徳一法師によって山の中腹(現在、古観音と呼ぶ)に移されたというもので、観音堂の所在を示す礎石が残されている。

大御堂: 明治の神仏分離令が出るまでは現在の筑波神社と知足院大御堂とは同体であった。だから現存の神橋や随神門は筑波山中禅寺を荘厳していたのである。境内の水盤の銘に宝暦八年護持院、文政二年の石灯篭に筑波山僧侶の名前が彫られていたりする。わずかに八七六メートルの標高だが、関東平野にひとり立つ秀峰筑波山は、男体・女体の二峰からなり、昔はそれぞれ千手観音・十一面観音を本地仏とする大権現として崇められていた。
 寺伝によれば、この霊山は延暦元年(七八二)東国の化主と仰がれた徳一法師によって開かれ、弘仁年間(八一〇〜二四)弘法大師によって真言密教の霊場となったという。そして「この山は天地開閉の古へより、天神地祀降霊の地なり・・・・大御堂千手大悲の像は両大権現の託宣に依って、弘法大師の彫刻なり」(坂東霊場記)とし、ここが神仏習合信仰の山であることを教えている。鎌倉時代には常陸の守護八田知家の子、為氏が筑波氏を称し、のち出家して明玄となり、この寺の別当をつとめ隆盛を示した。だが応永五年(一三九八)落雷で堂塔を失った。

楽法寺:「雨引かんのん」として知られ「安産」の祈願をこめる人が多い雨引山阿弥陀院楽法寺は、筑波連峰の端を占める雨引山の中腹に建つ。山裾まで来ると黒門があり、そこから石段の上り坂となる。この薬医門はもと真壁城のもので室町時代の貴重な遺構である。だが今はほとんどの人がこの旧参道を見下しながら自動車で仁王門近くの駐車場まで行ってしまう。享保年間(一七一六〜三六)再建のこの仁王門をくぐると、左手に見事な曲線を描く大石垣がある。
 慶長七年(一六〇二)徳川家康は、当寺に寺領百五十石を寄せ、寺格十万石を与えたがその寺格を象徴するかの如く実に立派なものである。文政年間(一八一八〜三〇)幕府の下賜金を得て、当山住職元盛上人の代に築かれたものである。延長一〇〇メートル、高さ一三メートルある。さらに進むと「宿かり椎」があるが、これは応永三年(一三九六)の火災の折、ご本尊自らがこの木に難を避けられたとの伝説を語るもの。また開山法輪独守居士が龍に乗って昇天されたという「龍杉」、観音像のお袖からしたたり湧き出たと伝える霊泉など、「二木一水」の霊異がここでは説かれる。まことに深秘な霊場である。この仁王門に至るまでの表参道の景観は坂東札所の中でも「山寺」としての絶景であろう。できたら徒歩で登拝していただきたいものである。
 石段を登りきると松山の稜線を背に観音堂が建っている。この内陣には木彫一木造り、像高一七〇センチ、弘仁期(八一〇)の作と伝え、関東造りとしてはきわめて注目すべきお像といわれる「延命観音」(旧国宝)さまがおわすのである。『縁起』によれば用明天皇(五八六)の時、中国より渡来した法輪独守居士によって開創され、推古天皇の御悩平癒を祈って効験あり「勅願寺」となった。まさに古刹である。

西明寺:西明寺の縁起によれば、天平九年(七三七)僧行基が十一面観音を刻み、安置したのが草創という。のちに天平宝字元年(七五七)に唐僧恵林が入山し、観音堂を建て寺門の充実につとめた。このような経緯をもつこの古刹は、東日本の焼き物の代表「益子焼」で有名な益子の町を見下ろす高館山の中腹にある。
 延暦年間(七八二〜八〇六)弘法大師がここの「幽寂たる禅境を愛して錫を大悲堂」(坂東霊場記)にかけられたという。「霊場記」には弘法大師の来山によって「貴賎渇仰して法水に浴す。時に法相宗の僧ら、挙げて大師の徳を妬み」岩屋におしこめるということがあった、と記されており、これを大師は所持の独鈷をもって避けられたといぅのである。それより獨鈷山と称した。そして一山十二ヶ坊、四十八の伽藍を構える基礎を築かれたのである。
 しかし、たびたびの兵火によって焼失衰亡した。下って康平年間(一〇五八〜六五)紀正隆が高舘山に居城を築き、益子氏を名乗り大いにこの寺を保護した。さらに宇都宮景房、続いて北条時頼が本堂を修営、益子寺を西明寺と改め、寺容を旧に復した。だが正平六年(一三五一)益子城の落城に際し、すべてが灰盡に帰した。境内の石段の下に立つと、ここが北限といわれる椎の巨木が参道をおおい、森厳さを加えている。

観世音寺:笠間稲荷と笠間焼で全国に知られている笠間市の本通りから笠間城址の方へ道をとると、「佐白観音堂」の石柱が目に入る。そして左折、朱塗りの門をくぐると、もうそこが境内。昭和五年、先代の天津忠道師が佐白山麓に正福寺を移し今日に及んでいる。現住の忠興師は東大寺の三月堂を摸した観音堂を建立すべく、現在、勧進しておられるので、近いうちに本建築の立派なお堂が完成し、明治初年以来の念願を果されることになろう。
 『佐白山縁起』によれば白雉二年(六五一)狩人の粒浦氏が白馬・白鹿・白雉がその傍で護る霊木をもって千手観音像を仏工に刻ませ、安置したのにこの寺は始まる。山号は三白山。やがて孝徳天皇の勅願所となり、のちに「誠に尊徳日々に新たなれば、漸妨舎繁栄して既に一百余宇の僧坊有り、今の土民の家宅は古へ皆僧坊の跡と申し侍り」と『縁起』は往時の盛況を記している。実に鎌倉時代初頭までには関東における有数な霊場になっていたのである。
 ところが近隣の徳蔵寺との寺領の争いがきっかけとなり、宇都宮頼網の命をうけた宇都宮氏が正福寺を襲って堂宇を破却し、そこに築城、笠間氏を名乗り徳佐二山の寺領まで占有してしまった。時に建保二年(一二一四)であった。
 頼網は時朝の伯父にあたり、平安中期から戦国時代におけるこの辺の豪族である。しかも笠間氏の宗家にあたっているので、その命には従わざるを得なかったのであろう。時朝はその後、戦没僧侶の亡霊に悩まされ、悪業の恐ろしさに観音の宝前で懺悔、忠円阿閣梨を招いて観音堂を再建した。しかも幕府に無断で用兵、築城した咎により罰せられたが、観音さまの霊験によって助けられ、それより「佐く」の文字を使って、三白を佐白とあらため山号とした。そして六ヶ坊を建てた。
 因みに時朝は鎌倉初期の歌人で『後選集』に名をつらねている。それもそのはず父の朝業は将軍実朝に仕え、その死去にあたって出家、「信生」を名のって、のちに「信生法師集」を残している有名な歌人である。
 かくて笠間氏は約四百年の間、代々がこのご本尊に崇敬の誠を捧げ、七堂伽藍をそなえる霊場としていった。永禄八年(一五六五)笠間高広は三重塔の第一層を、その子の広直が第二層を寄進しているなどがそれである。
 しかし、天正十八年(一五九〇)宗家である宇都宮氏により亡ぼされ、時朝より十八代で笠間氏は絶えた。以来この寺は衰亡に向かい、わずかに宥明上人がご本尊を一坊舎に移して衆庶の参詣にこたえる有様であった。

15:30常磐自動車道で東京に向かう。
18:15東京駅八重洲到達。
19:00東京駅新幹線のぞみで出発。
21:30新大阪到達。

今回の旅行、坂東三十三箇所巡り第三弾、千葉、茨城、栃木エリアの霊場7箇所を巡り楽しみました。
立派な歴史ある霊場が多く感動し癒されました。

次回は残り栃木、茨城の北部に位置する7箇所の霊場を巡り広範囲に点在する坂東三十三箇所巡り終了したいと思います。

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十ニ弾:山形県東北三十六不動霊場&お城・城下町巡り観光
2015年10月17−18日

東北山形県に足を運び東北三十六不動霊場3箇所、南北朝時代の内乱の際、北朝方の欺波兼頼によって、一定の基盤が築かれ、兼頼の子孫は最上氏を名乗り、庄内地方の武藤氏、陸奥国伊達郡の伊達氏と争う。又江戸時代になって入った上杉氏ゆかりの城もあるお城・城下町6箇所をめぐりました。

17日16:15伊丹空港出発
17:30山形空港到達、レンタカーで新庄方面に向かう。
18:20新庄駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

18日7:30レンタカーで出発、鶴岡、酒田方面に向かう。

松山城:天明元年(1781年)酒井忠休によって築かれた。
慶安2年(1649年)中山支藩として陣所が置かれていたが三代忠休のとき築城が許可され松山城を築いた。
現在も大手門が現存し土塁と堀の一部が残る。

新田目城:築城年代は定かではない。 十一世紀後半に出羽留守所職に任ぜられた須藤氏が築いたのが始まりとされる。

平形舘:
築城年代は定かではない。この辺りには出羽国府および国分寺が置かれていたと考えられてたが、発掘調査によっても奈良時代まで遡る遺物は発見されていない。

平形館は平賀館、金野館とも呼ばれ、天正18年(1590年)上杉景勝が太閤検地を実施したとき、これに抵抗して藤島城に立て籠もった平賀善可が館主と推測されている。

尾浦城:築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)頃に(大宝寺)武藤晴時によって築かれたと云われる。 武藤氏は晴時の時それまでの居城であった大宝寺城から尾浦城へと居城を移した。天正11年(1583年)武藤義時は最上義光の誘いに乗って裏切った家臣前森蔵人の奇襲を受けて自害した。家督を継いだ武藤義興は天正15年(1587年)最上義光と東禅寺筑前守によって攻められ落城し自害した。この時義興の養子となっていた義勝(本庄繁長の子)は城を脱出して繁長のもとへ逃れた。天正16年(1588年)越後国の上杉景勝の家臣本庄繁長・義勝父子が庄内へ侵攻し、関根城・清水城などの諸城を落として尾浦城に迫ると、東禅寺氏は十五里ヶ浜でこれを迎え撃ったが敗れ、尾浦城代中山玄蕃は最上へ退いた。義勝は武藤氏を再興して上杉景勝を通じて豊臣秀吉に臣従したが、天正19年(1591年)大和国へ配流となり、所領は上杉氏に渡された。慶長5年(1600年)出羽合戦で最上義光が尾山城を攻め落城、上杉方の城将松本信濃父子が討死した。義光は家臣下治右衛門秀久を一万二千石で尾浦城主とすると、尾浦城を修復して大山城と改めた。この改修によって山城から平城に近い形に改められたという。慶長19年(1614年)下治秀実が暗殺されると義光の六男大山光隆が二万七千石で城主となった。元和8年(1622年)最上義俊が改易となると庄内に入部した酒井忠勝の所領となり、正保4年(1647年)七男酒井忠解に一万石を分地して大山藩を立藩させたが、寛文8年(1668年)忠解は嗣子なく没したため改易となり後は天領となった。

龍覚寺:羽黒山の登山口に龍覚寺は在る。一千年前の羽黒山は峨々たる剣山であって、老幼婦女の登山には適さないので、その祈願所として仁安年中(1166年)鶴岡城下の一隅三ツ曲輪南側に一宇を建立した。羽黒の御分身である正観音菩薩を勧請して龍覚寺と命名した。その後当時の大名の命によって浜中街道に移転したが、慶長十七年(1612年)に高畑土提上(現在地)に移された。
 元和八年(1622年)酒井忠勝公御入国の時に御城の鬼門に当たる祈願所として、特別の思召によって指定されたので、一躍酒井藩筆頭の地位を占め、禄高百五十石を賜り、三百年間に亘りその地位を保ち、本尊大聖不動明王を奉り、更に正観音菩薩を本尊として安置されている。

正善寺:荒沢寺の境内は羽黒山登山口の近くにある。
 由来は、崇峻天皇の代(587年)聖徳太子の従兄、蜂子皇子の草創と伝え、羽黒山の奥ノ院として女人禁制の聖域であった。皇子は、能除照見大菩薩と称され、南都諸大寺の法門に帰依し、法名を弘海と号した。諸国修行の途にあって怪鳥に案内され、羽黒山に登り、出羽三山を開いたという。
 その後、白鳳年間に役行者小角が入峯、大同元年には弘法大師が掛錫されたことを伝えている。

大日坊:
遙かに月山を望む湯殿山は出羽三山の奥ノ院と称し、その昔に弘法大師が開山したと伝えられている。女人禁制の札を守り、山岳信仰の道場として敬信されてきた、東北屈指の霊山である。
 湯殿山総本寺大日坊は、女人の湯殿山詣の悲願を以て開基し、本地法身の大日如来を安置して成就せしめたという。
当初は、「慈悲心寺金剛院大日坊」と称し、湯殿山女人遥拝所であった。
 一方、近世に大日坊が有名になったのは、「木食行者・真如海上人即身仏」が安置されていることであろう。


丸岡城:築城年代は定かではないがj丸岡兵庫頭義興によて築かれたと云われる。 義興は尾浦城主大宝寺義氏の弟で、丸岡城の前身である備前館の押切備前守が永正10年(1513年)に横山城へ移った後、丸岡城を築いて丸岡氏を称したという。元亀2年(1571年)大宝寺義氏が藤島城の土佐林禅棟を攻め滅ぼすと、義興は藤島城主となった。
大宝寺氏が滅亡した後は上杉氏、最上氏の支城となったが元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となった。
寛永9年(1632年)肥後国熊本藩主加藤忠広は改易となり、庄内藩酒井忠勝にお預けの身となり一代限りの禄として一万石が与えられた。庄内藩は忠広の居所として丸岡城跡に忠広館が建設された。正保3年(1646年)火災によって焼失したが再建され、承応2年(1653年)忠広が没すると廃館となった。

小国城:築城年代は定かではないが南北朝時代に小国氏によって築かれたと云われる。南北朝時代に小国兵庫頭は南朝方として活躍しており、この頃には小国城が築かれていたと考えられている。天文6年(1537年)〜天正6年(1578年)まで城主であった小国因幡守は五百石を領し、この因幡守の時代に本郭的な城館へと改修された。その後の動向は定かではないが、庄内地方は大宝寺氏から上杉氏、そして最上氏へと領主が替わり、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となった。現在残る遺構は上杉氏の時代に改修されたものと推測されている。

14:50山形空港に向かう。

16:30山形空港到達。
18:00山形空港出発。
19:20伊丹空港到達。

今回の旅行、東北山形県に足を運び東北三十六不動霊場3箇所、お城・城下町6箇所をめぐり楽しみました。

天候は快晴、絶好の観光日より、田畑が一面に広がっている山形平野、広くて真っ直ぐな道も多く、ドライブしながら霊場、お城巡り癒やされました。

尚、飛行場で台湾から多くの台湾人がチャーター便で訪れていました。外国観光客も日本の観光地を網羅してきてるみたいですね。今回は山形県の観光地のどちらを訪れたのでしょうね。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十弾:伊予大島八十八箇所巡り第二弾
2015年10月3−4日

愛媛県しまなみ海道伊予大島に足を運び、伊予大島八十八ヶ所第二弾54箇所をめぐりました。

3日17:35新大阪新幹線のぞみで出発、福山でこだまに乗り換え
18:50新尾道駅到達、レンタカーで今治に向かう。
20:0今治市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
5日7:00レンタカーで出発、伊予大島方面に向かう。
伊予大島八十八ヶ所を巡る。

伊予大島八十八ヶ所:大島島四国88カ所は、島の医師毛利玄得・修験者金剛院玄空・庄屋池田重太の大変な努力により文化4年(1807年)に開創されました。毛利玄得は医者として、日夜医業にいそしんではいたが、一旦僧籍に身をおきながら、途中で仏道をふり捨てて医者に転業したことに対する良心の呵責を感じていた。いろいろと思いつめたあげく、四国88カ所になぞらえて、大島に88カ所の霊場を設けて、世の人々を救う願いをおこし、この考えを当時の庄屋の池田重太、修験者金剛院玄空にうち明けて相談した。すると両人もこの計画に大いに賛同し、互いに協力し合うことを誓い合った。

最勝堂:

地主庵:

善徳寺:

吉祥庵:

極楽寺:

竹林庵:

三角庵:

弥勒寺:

高龍寺:推古天皇4年聖徳太子が道後温泉の帰路、来島海峡で時化にあい千手観音の導きで難を逃れたことに感謝し、千手観音を奉るため伊予の国司に命じて高龍寺を建立したと伝えられています。
昔は亀老山中腹に大規模な伽藍を配していましたが、火災により全焼、能島村上水軍大将、村上武吉によって現在の場所に移されました。高龍寺は村上義弘公の菩提寺です。義弘公は大島を根城に制海権を握り、南朝の忠臣として活躍しました。

 

妙法寺:高龍寺奥の院。堂横に村上義弘公の墓がある。ここから36番に至るへんろ道は、へんろ市間は通行可能。
大変急な下り坂で道も険しく、足に不安のある人は自動車道に迂回したほうがよい。

布留坊:

双深庵:

示現庵:

前札:

仏浄庵:大島島四国の特徴は本四国に似せて創られていることである。この38番札所も本四国同様に西南端の岬にお堂があり「あしずりさん」と呼ばれている。38番仏浄庵は願望成就の仏さまとして島民の信仰を集めている。

宥信庵:

同番:

浄花庵:

海照庵:

證林庵:

蓮花庵:

大聖庵:山の中腹、135段の石段を上がると札所があり、その左手には巨石に掘られた不動明王がある。その横にも人がひとりやっと通れる石穴があり奥にも不動明王の石仏がある。不浄の人は石穴に入ることが出来ないという。
 

證明寺:約450年前、室町時代に能島水軍村上氏の菩提寺として栄えていたがその後廃寺となり、明治6年に取り壊した。今の札所は境内の片隅に堂を建て、證明寺の名を引き継いだもの。堂前から水軍本拠地の能島が見える。

潮音寺:札所近くに村上水軍資料館宮窪漁港近の民家に挟まれた通りの中にある。

宝珠庵:

常住庵:

千光寺:

三光庵:

蜜乗庵:

大慈庵:

利生庵:

善福寺:善福寺の本尊、薬師如来は永仁元年より奥地の薬師山に祀られていたが、江戸時代に当地に移された。脇仏の等身大地蔵菩薩(別名、貝殻地蔵)とともに海難よけ、交通安全の仏さまとして信仰されている。境内脇の宝篋印塔は、嘉暦元年(1326年)7月の刻銘があり、国指定の重要文化財である。  

鶴林寺:

平等庵:

洗厳堂:

三門堂:

光明堂:

釈迦庵:

浄土庵:

五大院:

誕生庵:

不動堂:

西大寺:

千行堂:

福蔵寺:江戸4代将軍家綱のころ、キリシタン対策として檀家とお寺のつながりを強化したという。このとき付近のお寺をまとめてできたのが福蔵寺。現在の本堂は嘉永6年(1853年)上棟、本堂天井内には51面の花鳥図が見事に画かれている。

常楽庵:

光明庵:

西照庵:

永楽庵:嘉永3年、お堂を改築するにあたり屋根にさしかかった榎の大木が、ある夜不思議に起きあがり地上7尺のところにワラジの足跡がはっきりと残されていました。右足の跡は明治28年6月の台風で欠損しましたが、大師のご加護を永久に享受するため保存しています。

薬師堂:

照月庵:

万福寺:

随心庵:

灌潮庵:

16:30新尾道に向かう。
17:40新尾道駅到達。
18:40新尾道駅新幹線こだまで出発、福山でのぞみに乗り換え
20:10新大阪駅到達。

今回の旅行、愛媛県の伊予大島に足を運び、島四国である伊予大島八十八ヶ所第二弾54箇所をめぐり楽しみました。

狭い伊予大島にある八十八ヶ所、車での移動距離は短いですが、山頂、岬に位置する霊場が多く、結構歩かされました。木の茂った狭い道が多く、蜘蛛の巣もいたるところに張っており、体が蜘蛛の巣だらけになり、掃除するのが大変でした。

まだ17箇所残っていますので第三弾として次回は残り17霊場と、伊予大島に位置する城跡をめぐりたいと思います。




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百二十七弾:宮城県東北三十六不動霊場&奥州三十三観音観光第二弾
2015年9月12−13日

松島、蔵王のお釜、笹かまぼこ、牛タンで有名な宮城県に足を運び東北三十六不動霊場3箇所、奥州三十三観音11箇所をめぐりました。

12日14:45伊丹空港出発
16:00仙台空港到達、タクシーで仙台市内に向かう。
16:35勝山館到達、講演会に出席する。
19:00懇親会
20:30仙台モントレイホテルに向かう。
20:45モントレイホテル到着就寝。
13日8:00レンタカーで霊場巡り、栗原方面に向かう。

清水寺:

勝大寺:

一関方面に向かう。

達谷西光寺:大同二年(807年)円珍の開山という。八世紀のはじめ頃から朝廷の政策として進められてきた東北開拓が、蝦夷の抵抗のため渉らない状態だったので、何度かの東征が行われてきた。八世紀末には、この達谷窟に拠った悪路王らの勢力が強大となり、国府などの力ではおさえることができないので、桓武天皇は、坂上田村麻呂公を征夷大将軍にして延暦二十年(801年)遂にこれを征服することができた。将軍は蝦夷平定は多聞天の御加護によるものと、窟の前に九間四面の精舎を建立し、鞍馬寺にならって一〇八躰の多聞天を安置した。毘沙門堂と名付け鎮国の社寺として今日に至っている。

観福寺:大同年間(806〜10)に坂上田村麻呂が一宇を建立し観音像を奉安した。その後、慈覚大師が東祥寺を開創(850)し、幾多の変遷の後1638年現在の地に移った。藤原三代の帰依も深く当時は隆盛を極めた。

円通寺観音寺:

新山観音寺:

徳寿院:観音堂は元禄時代のもので、本尊は地元の小野寺氏の守り本尊であったと云う。明治以降に徳寿院に移された。徳寿院は長禄3年(1459)に再興開山した歴史がある。

大祥寺:開創当事は天台宗の寺だったが、正平9年(1354)月泉良印が再興開山し曹洞宗に属した。月泉良印は気仙沼の出身で黒石正法寺の住持を務めた。

六角堂:観音堂(六角堂)は聖武天皇(726)の頃からで、慈覚大師が金提寺を開創し、その後月泉良印が再興し道慶寺とした。文化5年(1808)皆川家(納経所)の土地に観音堂を建立し現在に至っている。道慶寺(曹洞宗)は観音堂とは少し離れている。

登米方面に向かう。

大慈寺:曹洞宗。藤原秀衛開基で、天台宗・諏訪森大慈寺と称されたが、荒廃したのを永享元年(1429)に中山良用和尚の開基で法輪山大慈寺となった。

華足寺:真言宗。馬頭観音は日本最古・最大のものであり、多くの競馬関係者が参詣に来るらしい。開創は大同2年(807)、坂上田村麻呂がえみしの7大将を討ち、その供養のために建立した7観音の一つとされている。田村麻呂が乗ってきた馬がこの地で倒れ埋めたところ、翌日金色の光が発していて、村人が掘り起こすと馬頭観音の姿になっていたと伝えられている。

気仙沼方面に向かう。

観音寺:往古、この地方は蝦夷と呼ばれた民の勢力範囲であった。和銅年間(709年)藤原宇合が特命大将軍につき蝦夷勢を鎮圧し、その首塚を南流山に建立したのが始まりという。のち天平十五年(742年)行基菩薩が巡錫して自ら観音像を彫刻した。更に喜祥三年(850年)慈覚大師が堂舎を建立して海岸山観音寺と称した。その後、平泉に幽棲していた義経が皆鶴姫を憐み、菩提を弔う為に先の南流山に観音堂を興したが、これを合併して瑞国海岸山観音寺と改称して現在に至る。

補陀寺:寛平2年(890)天台宗柏華山補陀落寺と称し赤坂小沢田に開山された。平泉藤原氏の滅亡とともに衰退したが、文亀元年(1501)細浦藩主熊谷直元公が虚窓良巴禅師を招き細浦に曹洞宗補陀寺として開創した。天文3年(1534)に宝鏡寺周庵和尚が現地に移し中興開山した。

陸前高田方面に向かう。

金剛寺:三陸海岸の南部に位置した陸前高田は、広田湾に面して拓けた漁業の町で、中央部を気仙川が流れます。県下でも比較的温暖なところで湾には白砂の海岸と松林が広がる名勝・高田松原があります。
 如意山金剛寺は、仁和年中、大江千里が当地に下向となり、宥鑁法印(開山第1世)が帰洛を祈願したところ、仁和4年(888年)恩赦を得て帰れたことに感謝して建てられた寺院です。伊達政宗、二代忠宗の地方巡視の際には当時が宿所にあてられ、近郷の末寺30余の本寺として、徳川時代からは常法談林・法談の中心的役割となりました。また、現代でも加行・練行など、真言行者の修行道場としての役割をはたしています。境内右側、山頂に建立された不動堂には、延宝年間(1673年)千葉県の成田山から勧請された不動明王・両童子が祭られています。初詣(元旦)と縁日(8月28日)、納札お焚きあげ(12月26日)には多くの信者の参詣があります。

14:00仙台空港に向かう。

17:00仙台空港到達。
19:00仙台空港出発。
20:15伊丹空港到達。

今回の旅行、仙台の講演会に出席し翌日宮城県の東北三十六不動霊場3箇所、奥州三十三観音11箇所をめぐり楽しみました。
前日大雨で河川の氾濫等で仙台の訪れ心配していましたが、雨の影響はごく一部のエリアだけで問題なくまわることができました。
招待で飛行機はビジネス、ホテルは高級ホテルモントレイ、食事は寿司にヘレ肉、豪華な旅行、満喫しました。
これからも遠方での講演会には積極的に出席し翌日の観光旅行をも楽しみたいと思います。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百二十五弾:北海道八十八ヶ所霊場&三十三観音巡り観光
2015年8月29−30日

最北端北海道に足を運び、旭川周辺に点在する北海道八十八箇所の14箇所、三十三観音4箇所をめぐりました。

29日15:00伊丹空港出発
16:50新千歳空港到達、レンタカーで札幌に向かう。
18:10札幌市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
30日6:30レンタカーで出発旭川方面に向かう。

遍照寺:遍照寺は、明治27年 徳島県の僧 釋秀辨師(勝浦郡上勝町願成寺住職 後に四国八十八ヶ所二十番奥之院慈眼寺住職)により開基されました。当初、沼貝村(現美唄市)茶志内地区 通称「寺地」に真言宗説教所として創設されました。この地区は、明治政府の北方対策もあり、屯田兵として四国や和歌山などから入植者も多く彼らの求めに応じたものでありました。秀辨師は徳島と北海道の寺院を兼務し、遠隔の地を往還したわけです。

真言寺:明治31年、真言宗高野派の説教所設立をもって開基とする。明治35年香川県出身の屯田兵らの懇請を受けて資延行晃が着任し、明治41年寺院内外の環境を整備して寺格(寺号公称)を得た。
 当寺には霊場開創者山本ラクが生前所持していた「弘法大師付与状―大師教会本部発行」「当霊場本尊マンダラの板木」が所蔵されている。なお本堂余間にはタイ王国ワットパクナム僧院から贈られた「釈迦如来座像」を安置する。

丸山寺:寺号の基となった「丸山」は、明治28年この地に屯田入植した人達が「原生林を伐採して丸山を初めて発見した」とのエピソードを残す程の、お椀を伏せたような海抜114mの小さなお山である。
明治41年四国出身の弘法大師信者が発起人となり、このお山に新四国霊場を開基したことをもって、丸山寺の開山となる。
四国霊場1番から山服を右に巻いて、八十八番を経て山頂に達すると、奥の院がある。
ここの石仏には八十八ヶ所のご本尊に付随して大師像が安置してあり珍しい。
熱心な大師信仰の表れであろう。
今の本堂は平成11年に、開山百年を記念して丸山中腹に新築された。

金峰寺:明治三十年代、開拓の日浅い北海道上川旭川の地に、富山県より移住し開拓に従事された谷口與三翁は、明治三十八年、妻テイ女との死別に会い、全私財を「弘法大師の寺・真言宗の寺・吾等が菩提寺」の建立のために寄進し、篤く弘法大師を慕う百数十名の人々と共に真言宗寺院創建の基を築かれた。
 明治四十二年十一月二十一日、総本山金剛峯寺より「金峰寺」の寺号を授与せられ、檀信徒一同は無上の光栄として喜び感激した。

眞久寺:久志卓動(法名 憲吽)は上川郡旭川村(現旭川市)2条9丁目に草庵を建て、新義本山根嶺(ねごろ)別院(眞久寺の前身)の開基となる。久志卓動は、当時汽車の通ってない滝川まで、徒歩で出札すること数度、時の北海道長官 北垣国道氏に寺院の必要性を訴え、上川郡旭川村に寺院用地として5町歩の無償交付を受ける。その内、5条4丁目を眞久寺の境内地とし、他の用地は他宗の寺院に無償で分与した。

旭山廟: 旭山廟は、全天候型霊園として、宗教や宗派、宗旨を問わない霊園として、また後継者の心配のいらない永代供養の霊園として、おかげさまで平成11年より多くの皆様にご好評をいただきながら、年々多くの方々にお参りをいただいております。
 道北初の霊廟として、廟内には墓石型、納骨壇型、仏像型のお墓があり、どんなご要望にもお答えできる霊園です。

春光の丘寺:春光台にある緑に囲まれたお寺管理の外墓地

真勝寺:
開基住職、冨士川傳澄は終戦後芦別に布教の地を求めて寺院建立に着手していました。
この地に不動明王を修め、その利益を広めようと発願して全国行脚の托鉢修行を行い、昭和25年その念願叶い寺院建立と不動明
王の奉安が成し遂げられ、当時真言宗豊山派本山教学部長の宮崎識栄僧正導師により開眼法要が厳修され、茲に御本尊を不動
明王と定め寺号を真勝寺とし、開基第一世住職に冨士川傳澄が就任しました。

 その後、境内には馬頭観音・水子地蔵などの仏様が奉安されました。
創立以来2月の第1日曜日には大護摩祈祷法要が厳修され、多くの壇信徒が参詣に訪れ1年で最も境内を賑わせる一日となってい

ます。


大照寺:
大正3年8月宮田静機を開基とし御室派説教所として発足しました。 
昭和22年2月前田儀導により寺号公称。同39年10月20日桜ヶ丘公園を造成。寺宝は新明国上(雲照律師書)不動明王及び脇童子。 
年中行事には修正会、初大師、星供、春秋彼岸会、新四国山開、山閉、青葉祭、盆会、永代経、納大師があります。


光元院:
光元院は芦別市の郊外に位置し、四季折々の風景が堪能できる場所にございます。さて、当院の歴史は尊きものがあり、開祖された三浦せん師は数多くの信者に尊ばれ、多くの信者様をお救いした人でもありました。 
このような方の名を受け、後継者となられたのが現住職三條妙節師であり現在に至っております。現住職の理念は常におせん様を尊敬致し、信者様の日々を案じつつ、私財を投じ本堂並びに護摩堂等の建設に当り、また宿泊施設、庭園等も整備され、平成16年すべての工事が完了至し、現在の光元院として開院されたのです。 
また、院内には現住職が師と仰ぐ「おせん地蔵」を設立致し、「なぜ仏」として奉安され永遠の威徳を偲び毎年2月7日と8月27日には報恩講大祭を行い、毎月7日は月のお参りを行っているのが現在の住職三條妙節師でございます。


千体山観音寺:
本堂の玄関に入ると正面に仏像がハッキリと見えます。
壁には、壱千七百体余りの観音様を奉安しています。 護摩の火にお不動様が立たれた写真を掲げています。


弘徳寺:
当地には、既に大正4年新義真言宗豊山派弘法教会が設立されていましたが、昭和20年当教会を廃寺して高野山真言宗和教会と合併しその後、弘徳寺と寺号を公称し、現在に至ります。

丸山寺:
丸山寺のお大師様は 現世平安 来世往生のお大師さまです。深川市は母なる石狩川が流れる北空知平野の中心田園都市である。この広大な田畑を作りあげたのは屯田兵であつた。   明治28年29年に屯田兵千個が入植した。その中に四国出身の弘法大師信者がかなりいた。その人たちが集まって明治40年新四国霊場八十八ケ所を開山したのが丸山寺の始まりである。 
丸山はこの地に入植した人々が原生林を伐採してその先に丸山を発見したというエピソードが残っているほどのお椀を伏せたような海抜114mのお山である。 
このお山に新四国霊場は1番から山腹を左に沿って一周し88番を参り「奥の院」のある山頂に到着する、約2Kの霊場である。 
丸山霊場の八十八ヶ所の各霊場ご本尊石仏に必ず大師象の石仏が付属し安置されている。このような形は他に例を見ないもので゛大変熱心な大師信仰の現れであろう。 
以来北海道内多くの信者達の信仰対象となり大正、昭和の戦前の全盛期には春の大祭には道内各地から約2万人位のお参りがあり、丸山を黒山と称されるる程の賑わいであつた。 
開基以来熱心な信者の方々の奉納奉仕により多くの信仰施設が創られた。現在の丸山寺もそのひとつである。又山頂までの石段。境内地の延命地蔵。近年においても、丸山寺本堂-会館―鐘楼堂-山頂救世観音―ご霊水施設-霊園6地蔵と丸山霊場には数多くの信仰施設が祭られ、一宗一派を超え、その時代時代と共に人々の祈りと共に歩んだ,北海道では数少ない歴史をもった霊場である。


金剛寺:金剛寺は明治29年に四国八十八ヶ所霊場第20番奥之院慈眼寺住職の釈秀弁和尚によって開創されました。当時は遍照院という説教場でしたが、和尚の熱意により、本堂および庫裡の設備も整い、明治40年12月には寺号公称の認可もおり、金剛寺と称しました。大正3年には、本四国八十八ヶ所霊場の御本尊様の石像を境内に奉安し、鶴沼新四国八十八ヶ所霊場を開創、近隣の人々の心の拠り所として、信仰心の高揚に果たしました。
現住職は4代目で、本堂、会館、納骨堂、庫裡を新築し、施設の充実をはかりました。また、子どもの信仰心を養うために、寺小屋修行を行ったり、サハリンに残留している日本人のために、支援する活動を行っています。

郷芳寺:
開基木曽智順は明治18年に生まれ、兵庫県瑠璃寺を経て高野山大学林を卒業の後、大正6年旭川金峰寺2代目住職を拝命しました。開教師として活躍し、滝川町に説教所を設け、大正10年大師教会滝川支部として公認されました。昭和11年から13年にかけて境内に本四国霊場から持ち帰った各札所の浄砂を埋めて石仏を安置し、滝川新四国八十八ヶ所霊場を設立しました。
昭和20年寺号公称の認可をうけて開基の書の雅号である郷芳を寺名としました。現在の建物は平成2年に本堂庫裡を改築し、納骨堂は平成18年に新築したばかりです。


眞弘寺:
開基阿部眞道師は農家の後継者とし生まれますがリュウマチの難病にかかり農家を断念。
お大師さまに身を委ねて四国八十八ヶ所の旅路に出たのが齢三十歳の頃。
幽谷の大自然の中に身を投じ、み仏の冥護を感ずるところあり。
心に信火を灯し、ついに僧侶となる決心をする。 高野山にて修行を積み、北海道開教の特命受けて網走へ向かう。
時、開墾の鍬が入り未だ日が浅い、永山村字トウマの屯田開拓の地に一夜の宿を得、
その折、同郷同信の屯田兵等に囲まれて永住を墾請され、現在地の当麻に止まることに余儀なしとす。以来、この地を開教の地を定める。
本山より授かった本尊弘法大師に日夜墾念し、布教の熱弁は人々の胸を打ち恩徳を受 ける人の数は知れません。
二世真城師も先代師匠と同等の活躍で布教道に専念し、諸堂宇庫裡の輪奐を美しく整 え今に至る。


眞弘寺大師堂:

14:30新千歳空港に向かう。
15:40新千歳空港到達。
18:00新千歳空港出発
19:50伊丹空港到達。

今回の旅行、最北端北海道に足を運び
旭川周辺に点在する北海道八十八箇所の14箇所、三十三観音4箇所をめぐり楽しみました。

北海道の霊場、以前と同じく、建物が新しく、歴史を感じさせない霊場建築物が多く、本州の霊場とは異様観を感じさせられますが立派な寺院も多く見られました。

北海道の霊場は明治以降に建立した寺院ですので皆比較的新しさを感じます。

広大な北海道、広くて真っ直ぐな道、車も少なく、爽快で地平線を見ながらドライブ走行、北海道でなければ体験できない、北海道ドライブ霊場めぐり満喫しました。



















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百二十四弾:秋田県東北三十六不動霊場&お城・城下町巡り観光
2015年8月22−23日

東北の秋田県に足を運び東北三十六不動霊場6箇所、お城・城下町9箇所をめぐりました。

22日16:55伊丹空港出発
18:15秋田空港到達、レンタカーで本荘に向かう。
19:00本庄駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

23日6:00レンタカーで出発、秋田市内に向かう。霊場、お城巡り。

普傳寺:
普傳寺の開基は不明だが、初代、普光上人から数えて、現在義佑和尚まで十三代というが、この場合の初代は中興と考えられる。何故なら天和二年(1682年)尊慶なる僧、大館遍照院六代に赴く、とあり、江戸中期の所在を明らかにし、更に不動明王像は鎌倉期の運慶作という文化的価値を考慮すると、初代の事蹟は中興ということになる。秘宝、不動明王、弘法大師坐像は運慶の作風を伝え、秋田市の指定文化財である。

秋田城・出羽柵:天平5年(733年)の築城と云う。 東北地方における蝦夷への対策として庄内地方に出羽柵が築かれ、これを高清水岡に移し秋田城と改称した。

湊城:築城年代は定かではないが永享8年(1436年)安倍康季が築いたとも云われる。 属にいう安東三城(檜山城・脇本城・湊城)の一つ。その後、湊安東氏の居城として続いたが、天文20年(1551年)安東尭季が没すると、檜山安東氏の安東愛季の弟茂季が湊安東氏の家督を継いだ。元亀元年(1570年)豊島城主豊島玄蕃らが謀反を起こし湊騒動と呼ばれる内乱となると、檜山安東氏の援軍もあってこれを鎮圧した。天正7年(1579年)に茂季が没すると家督を継いだ嫡子高季が幼少であったこともあり、後見人となった安東愛李が事実上湊安東を併合する形となった。天正15年(1587)(秋田)安東愛李が没すると、翌天正16年(1588年)湊安東高李が戸沢・小野寺氏を味方にして謀反を起こした。家督を継いだ秋田実李はいまだ13歳と幼少で脇本城を棄てて檜山城へ逃れて籠城し劣勢であったが、由利十二頭の赤尾津・羽川氏の援助を得て形成は逆転し湊城は秋田実季によって落とされた。秋田氏は湊城を居城として豊臣秀吉に臣従し五万七千石を領していたが、関ヶ原合戦での不手際があり、慶長7年(1602年)安東実李は常陸国宍戸へ転封となり、替わって佐竹氏が秋田に入部すると久保田城を築いて居城としたため廃城となった。

嶺梅院:嶺梅院の縁起は定かではないが、一部に伝わる古文書に次のように記されていた。永福山嶺梅院は無等良雄禅師(南朝の忠臣萬里小路藤房卿と伝えられる)の閑居寺にして、現在の松原・補陀寺の場所に創建した。その後、寺風は荒廃して一宇を残していたが、寛延年中(1748年)蒼龍寺の桂岩極芳和尚が現在地に再興し、後地に補陀寺を移して曹洞禅の教化につとめたということである。

多聞院:多聞院の開山は、慈覚大師・安慧。一説には元禄年間(1688年)の創建ともいう。羽黒山系天台宗から発展した寺院という説もある。松前船・辰悦丸が航路の安全を祈願し、階の石段を寄進している。また、同船の錨は寄進され、境内に置かれている。

男鹿半島方面に向かう。

脇本城:築城年代は定かではないが、一説に元亀・天正年間(15701573年〜1592年)頃に染川城主安東鹿季が築城したと伝えられる。属にいう安東三城(檜山城・脇本城・湊城)の一つ。元亀・天正年間初期の城主は安東修季で湊城主安東友季の後見人であった。天正5年(1577年)檜山城主安東愛季は湊安東氏を併合し、檜山城を長男業季に譲り脇本城を居城とした。安東氏は愛季の時に安東から秋田と改名している。愛季は天正15年(1587年)小野寺氏・戸沢氏と唐松山合戦の後、淀川の陣中で病没すると家督は嫡子実季が継ぐ。しかし、この時12歳と幼少であったためか、脇本城主修季は湊城主安東高季を扇動して謀反を起こした。この湊合戦と呼ばれる戦いで実季は脇本城を棄てて檜山城へ逃れて籠城する苦戦を強いられたが、由利十二頭などが檜山安東氏方となったことで形成は逆転し、湊城を落として終結した。

吉祥院:男鹿は仏教の発祥地、本山、真山、毛無山の三山がそびる、慈覚大師開祖の赤神山日積寺永禅院の信仰の地である。永禅院代五世覚運(953-1007)開基の塔頭寺院で叡山中興の祖、良源の高僧弟子で天台宗であった。明徳2(1392)年の頃、日積寺29世頼叶が高野山龍光院の感化をうけ真言宗に改宗された。幕末の頃、寺門の衰退に加え明治初年の廃仏棄釈で無住となり、幾度となく廃寺を免れ、再度の移転で昭和18年に現在地にその法燈を継承す。文応元(1260)年からの歴史をもつ、岡山県の福泉寺所蔵本奥書日書写、高野山で伝授の開運星祭り北斗護摩祈祷会と、聖天浴油供祈祷会などの行事がある。

玉蔵院:現在、真言宗智山派に属し、その昔、男鹿にあった日積寺永禅院の塔頭の一ヶ寺として創建され、天台宗の寺院であった。南北朝時代の頃に日積寺は真言宗に改宗するが、玉蔵寺も、その時改宗したものと思われる。今から約300年前、元禄の頃と思われるが、鮎川の寺畑(現在地より北方、高台の山林)へ移転、さらに200年前頃、現在地へ移転した。今の本堂は昭和58年に建立。本堂内陣の丸柱は、神代欅を使用。数千年、土の中に埋もれていた欅の丸柱が、神々しい光を放っている。

能代方面に向かう。

檜山城:築城年代は定かではないが14世紀中頃に安東忠季によって築かれと云われる。 安藤氏は安倍貞任の子高星丸が津軽に逃れ、後に藤崎城を居城としたことに始まる。安藤氏はその後十三湊へ移ったが、南部氏によって一時滅亡、南部氏に捕らわれていた師季(政季)が田名部の地を与えられ、安藤氏を再興した。政季は田名部から蝦夷ヶ島へ渡り、康正2年(1456年)に湊安藤堯季の支援を受けて小鹿島へ渡った。忠季のとき檜山へ移り、檜山城の前身となる檜山屋形を築いたという。檜山安藤氏(安東)は愛季のとき、湊城主湊安藤氏を併せて勢力を拡大していく。愛季の子実季のとき秋田氏に改称し、慶長7年(1602年)実李は常陸国宍戸へ転封となった。慶長7年(1602年)佐竹氏が秋田に入部すると小場義成や多賀谷氏の居城となったが元和6年(1620年)一国一城令によって廃城となり、多賀谷氏は麓に居館を築いて移った。

大館方面に向かう。

遍照院:
大館盆地に位置する遍照院の開基は、小場義成(後に佐竹姓を名乗った)であるという。「大館城と関係社寺」から由来を抜粋すると、『常陸国那珂小場県遍照院開山は至徳三年(1386年)小場大炊助義躬が小場城外に一宇建立。本尊に薬師如来を安置する故に医王山長久寺遍照院と号す』とある。小場氏に随いて秋田に下向し、慶長十五年(1610年)大館に移建して三十石を付与されたという。

十狐城:築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)に浅利則頼によって築かれたと云われる。
浅利氏は甲斐国浅利郷を発祥とする甲斐源氏で文治5年(1189年)源頼朝による奥州藤原討伐に参陣し比内の地頭職を得た。南北朝時代には北朝方に属し南朝方であった南部氏の鹿角の諸城を津軽の曽我義氏らと攻めている。その後の動向は詳らかではないが、永正年間(1504年〜1521年)に浅利則頼が十狐城を築き、小大名ながら一勢力を築いた。この則頼の出自は定かではなく「浅利軍記」などによれば甲斐国より比内に下向したとある。天文19年(1550年)浅利則頼が没すると長子則祐が家督を継いだ。浅利則祐は安東氏に属し、永禄年間(1558年〜1570年)はじめには南部氏の長牛館を攻撃したが、永禄5年(1562年)則祐は安東氏との不和により攻められ長岡城で自刃して果てた。則祐の跡を継いだのは弟勝頼で、中野城より十狐城に移り、さらに長岡城に移っている。天正2年(1575年)浅利勝頼は独立を計り、田代町山田で安東愛季と戦い(山田合戦)花岡城主浅利定頼が討死するなど大敗を喫した。しかし、その後も浅利氏は安東氏とたびたび戦っている。天正11年(1583年)安東愛季は和睦交渉と偽って勝頼を呼び寄せ謀殺させた。勝頼の子頼平は津軽為信を頼って比内より逃れ、比内は安東氏の所領となった。天正17年(1589年)大館城代五十目兵庫秀兼が南部氏に内通して比内が南部氏に奪われると、翌年秋田実季は津軽為信と結んで比内を奪還する。このとき津軽氏に身を寄せていた浅利頼平は為信の斡旋により再び比内に戻り秋田氏に従って太閤蔵入地となった大館一帯を支配した。しかし蔵入米や文禄の役での金子の未納などの問題で再び浅利氏と秋田氏は対立し、慶長3年(1598年)浅利頼平は上洛中に大坂にて没し、浅利氏の残党は秋田氏に討たれ十狐城は破却され浅利氏は滅亡した。

大湯館:築城時期は不明。館主は鎌倉中期、地頭職として鹿角に入部した武蔵武士団横山党奈良氏の嫡流大湯氏とされます。入部以降、大湯氏は大湯川流域に勢力を扶植し、庶子家(小枝指氏・新斗米氏等)を各地に分知して惣領支配していたと思われますが、詳細な事績は不明。永禄9(1566)年、檜山城主安東愛季の鹿角侵攻が開始されると大湯四郎左衛門昌次は安保衆とともにこれに加担したとされ、また天正19(1591)年 「九戸の乱」が勃発すると四郎左衛門は九戸政実方に加担して鹿倉館に籠りましたが、大光寺正親勢の攻撃を受けたため鹿倉館をあきらめ九戸城に遁れました。しかし九戸城は奥州仕置軍の攻撃を受けて降伏し、四郎左衛門は九戸政実等とともに捕縛され、栗原郡三迫で処刑されました。乱後、大湯氏の所領は信直方に加担した四郎左衛門の兄五兵衛(彦六)昌忠に宛がわれましたが、天保年間(1644−48年) 昌忠のあとを継いだ門之助昌邦が死去したため大湯氏は改易となり、代わって毛馬内靭負範氏が大湯に入部しました。明暦3(1657)年、範氏が死去すると赤尾又兵衛が大湯代官に任ぜられ、寛文5(1665)年 赤尾氏が南部家を退去すると北九兵衛宣継が小軽米から所替で大湯に入封し、北氏が明治維新まで大湯館に在城しました。

小枝指館:小枝指館は七ツ館とも呼ばれるように七つの曲輪で構成された館である。 日本城郭体系に掲載されている縄張図には第一館から第七館として名称をふり、個々の名称は不明となっているのだが、たまたま畑仕事をしていた方と話した所、ここは○○、あっちは××と館の名称を呼んでいたようである。空堀の一部は道路などに転用されているものの、多くの空堀と曲輪群は良好に残っているようである。

石鳥谷館:

大里館:

15:00秋田空港に向かう。

16:50秋田空港到達。
18:50秋田空港出発。
20:10伊丹空港到達。

今回の旅行、東北の秋田県に足を運び東北三十六不動霊場6箇所、お城・城下町9箇所をめぐり楽しみましたました。

今回も東北の霊場、立派な寺院が多く、素晴らしかった。広く、真っ直ぐな道が多く、人も車も少なく、ドライブ気分で楽しむことが出来ました。

お城は、館と名のつくお城は、確認が難しく、広く田園風景に位置するのが多かったです。

東北秋田県に位置する霊場、お城ドライブ観光巡りでした。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百二十ニ弾:北海道八十八箇所・北海道三十三観音&お城・城下町巡り観光
2015年7月25−26日

北の北海道に足を運び、夜景や教会群、赤レンガで有名な道南の函館エリアの北海道八十八箇所の2箇所、北海道三十三箇所観音2箇所、比較的マイナーなお城・城下町8箇所を巡りました。

25日15:30関西国際空港出発
17:10函館空港到達、レンタカーで霊場めぐり。

高野寺:明寺初年に函館港の発展に伴って本州からの移住が日を追って増加し、随って真言宗を信仰する人も増え、檀信徒の間に寺院設立の声が高まり明治16年に真言僧が布教来函の時に後に総代になる遠藤吉平氏が主となって相談して一寺建立の義纏まり、同年9月に大塔再建勧奨の為に本道を巡教されていた高野山真言管長獅岳快猛大僧正に新寺建立の願いを申し述べて、新寺建立の許可を得て、翌17年東川町に本山より下付された大日如来を本尊として一宇を建立したのが本寺の創りです。後青柳町に移転、大正3年の大火に類焼のため現在地住吉町に移転するも、昭和9年の大火で再び類焼、当時の第9世原田智厳師はその時代の寺院建設には考えられなかった鉄筋コンクリート建本堂(現在の本堂)を昭和12年に落成する。
本尊大日如来は2度の大火とも運び出して難を逃れ、昭和42年国指定重要文化財に指定される。

善導院:当院は昭和六十二年に開山主恵晃師が大聖不動明王を御本尊とし、当地、山の手の高台に本堂を建立しました。 以来、宗祖弘法大師の御教えを伝燈すると共に、真言密教の護摩修法により、災厄、霊障に悩まれる方々をお救いし今日に至っております。又、平成十九年には、北海道八十八ヶ所霊場第六十四番札所として、霊場御本尊「阿弥陀如来」を奉安し、菩提の道場として多くの巡礼者が参拝されております。

神山教会:明治33年、篤親家室本幾太郎翁が神山村の山中に四国八十八ヶ所の石仏を安置する。
明治36年、室本翁より境内地の寄進を受け小山智道僧正「真言宗神山説教所」開山。
昭和17年、「真言宗神山教曾」と改称。
昭和29年、開山50年にあたり、中興丸山哲應僧正堂宇を現在地に移転改築する。
昭和63年、弘法大師御入定1,150年と開山88年を記念して堂宇を新築する。
平成14年、開山100年記念法要厳修

大宝寺:

18:30江差方面に向かう。
19:40江差市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

25日7:30レンタカーで出発、お城巡り

舘城:明治元年(1868年)、箱館戦争の直前に松前藩により渡島国檜山郡の館(現在の厚沢部町)に建造された日本の城である。従来の本拠である松前城に対し、新城とも言う。完成直後に旧幕府軍の攻撃を受け、落城した。国の史跡に指定されている。 蝦夷地を支配する松前藩は松前城を本拠としていたが、明治元年7月に起こった正義隊のクーデターにより尊王派に転じた後、旧幕府軍の攻撃に備えて、内陸部に新城を建設することとし、9月1日、箱館府に築城を願い出るとともに、工事に着手した[2]。
松前城は艦砲射撃を受けるおそれがあること、従来の漁業・交易経済からの転換を図るため厚沢部川流域開墾の拠点とすること、が館城築城の目的であった。工事を突貫で進めた結果、10月末には一応の完成を見た。

花沢館:源頼朝は、文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼすと、津軽に東北北部や北海道の「蝦夷」を支配する「蝦夷管領」を設置し、俘囚安倍氏の系譜を引く安藤氏を配した。
安藤氏は、十三湊を拠点に北方との交易を行なうが、15世紀半ばに南部氏との争いに敗れ、道南へ逃れた。その後も、本州最北部では豪族間の争いが続き、享徳3年(1454)には、下北半島田名部の安東(藤)政季が、内紛で若狭武田氏を出奔した武田信広らを伴い渡島半島に渡った。
こうした状況を反映して、当時の渡島半島には、和人、和人系渡党、アイヌ系渡党、アイヌなど多様な人々が住んでおり、その中から交易などで富を得た小豪族らが館(たて)を築いていった。
花沢館もそうした館の一つであり、道南には東の志苔館から西の花沢館まで12の館が築かれた

勝山館:築城年代は不明だが、館北端にある館神社の創建が文明5年(1473年)と伝えられているため、この頃の築城と推定されている。蠣崎信広あるいはその子光広以降、蠣崎氏の本拠地とされていたが、光広の時代の永正11年(1514年)に松前の徳山館に本拠を移転して以降は、主要な副城として脇館転じて「和喜の館」と称され一族を配した。
夷王山の中腹、南から北へと伸びる斜面を利用して長さ270メートル、幅100メートルで総面積20.9万平方メートルの規模を有する。さらに城の背後から山頂に向かって中世和人の墳墓群(夷王山墳墓群)が存在する。
戦後、夷王山墳墓群の調査が先行され、館そのものの本格的調査は昭和52年(1977年)の史跡指定後の昭和54年(1979年)になってからである。その結果、15世紀後期から16世紀後期にかけての陶磁器・金属器・漆器・骨角器など7万点におよぶ遺物が出土しており、主要な遺物921点が国の重要文化財に指定されている[2]。

松前方面に向かう。

松前大館:松前大館はもともとは津軽を本拠として蝦夷地もその領有下としていた安東氏の蝦夷地の拠点として作られたようです。コシャマインの戦いの時も、安東氏の同族である下国定季と相原政胤が守将となっていましたが、アイヌの攻撃に抗しきれず陥落しました。しかしすぐ回復し、下国氏が守護していましたが、定季の子恒季は非法が多く、秋田安東氏によって滅ぼされ、相原季胤・村上政儀が守将となりました。
 永正9年(1512)、アイヌの攻撃により陥落、両守将は戦死しましたが、これは蠣崎氏二代光廣の策謀によるものと言われています。そして同11年(1514)光廣は上ノ国から大館に移り、徳山館と名を改め安東氏の代官として蝦夷地支配をを進めました。その後もアイヌの攻撃がありましたが、慶長11年(1606)に福山館(松前城)に移るまで蠣崎氏政権の拠点でした。その後は万一の場合の隠し砦としてそのまま保存され、現在に至っています。
 大館跡は発掘調査が行われておらず謎がまだ多いようですが、天然の要害を利用した大規模な山城だったようです。

函館方面に向かう。

茂別館:鎌倉時代から室町時代中期にかけて、道南地方には和人の館が12あり、茂別館(もべつだて)も、そのうちの1つであった(*道南12館)。
嘉吉3年(1443)津軽十三湊城主・安東太郎盛季が館を造ったのに始まるといわれ、南の大館と北の小館から成っている。
大館は、西は茂辺地川岸に面し、南と北は自然の沢で切られ、東は空濠を巡らしている。
また、小館は、西は茂辺地川左岸の崖地で、他の三方は、自然の沢を利用し、更に土塁を設けている。
康正2年(1456)のアイヌ人の蜂起(*コシャマインの乱)があった時も、花沢館とこの茂別館の2つだけが最後まで落城しなかった。

松前藩戸切地陣屋:北斗の町から北西に4kmほど、大野平野の西の外れに松前藩戸切地陣屋跡がある。箱館開港に伴う外国船渡来による不測の変に備えて幕府は松前藩に七重浜から木古内までの守備を命じ、1855年にこの戸切地陣屋が構築された。陣地は蘭学の築城書による四稜堡で広さは4.3ヘクタール。東南部の稜堡に6門の砲座を配置した。郭内には17棟の建物があり約120人で守備していたが、1868年の箱館戦争時、榎本武揚率いる旧幕府残党に追われて相手方に陣屋が使われないよう建物に火をつけ焼払って敗走した。この陣屋は建物こそ焼失しているが保存状態が極めてよく、幕末における北辺の国際情勢や西欧風の影響を知る資料として築城史上価値ある史跡である。表御門跡と裏御門跡には大手門と搦手門が復元され、門から入ると広い郭内には大砲入跡、筒入跡、蔵跡、備頭・目付詰所跡、足軽長屋跡、武器庫跡などがあり、石で基礎を再現して跡地を表示している。1904年に日露戦争を記念して陣屋跡までの800mの一本道に585本の桜の木が植えられた。以後この松前藩戸切地陣屋跡は桜の名所として知られるようになり、5月上旬〜5月中旬にかけて桜並木が見頃を迎える。

四稜郭:箱館戦争の際に蝦夷共和国(箱館政権)が、明治2年(1869年)に現在の北海道函館市に築城した堡塁。新台場、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる。四稜郭の名称は4つの突起を持つ事に由来する。幅2.7m、深さ0.9mの空堀に囲まれ、土塁の規模は東西約100m、南北約70m、幅5.4m、高さ3mである。土塁の四隅には砲座が配置されている。南西側に門口があり、その後方に幅0.9mほどの通路が設けられている。郭内には建物は建設されなかったと考えられている。面積は約2万1,500平方メートルを有する。
五稜郭を援護する支城として、また東照宮を守護する為に北東約3キロメートル離れた丘陵上に洋式築城法により築かれた。建設を指揮したのは大鳥圭介あるいはブリュネ大尉といわれている。建設には旧幕府兵卒200人および近隣住民100人が徴用され、昼夜兼行の突貫工事で造り上げたと言われる。しかし、堡塁としては脆弱であり、立て篭もるには手狭で井戸等の設備も存在しなかった。星形要塞であるものの、実際には野戦築城に近いものである。四稜郭以外に当時造られた要塞としては七飯町の峠下台場がある。こちらは漫画の吹き出しのような七稜形(Tenaille:欧米では星形要塞とは区別される形態の築城方式)である。
昭和9年(1934年)国の史跡に指定された[1]。当時は周囲が耕作地になるなどして土塁が一部崩されていたが、昭和48年(1973年)に元の形に修復された。

志苔館:北海道函館市に所在する中世城館跡(日本の城)。小林氏によって築かれたとされる道南十二館のひとつ。国の史跡に指定されている。館跡は、自然地形を活かし、四方に土塁と薬研(やげん)または箱薬研状の空堀が巡らされ、全体でほぼ長方形の形状を呈している。内部は東西約70-80メートル、南北約50-65メートルで、約4,100平方メートルの広さがあり、曲輪の内部では掘立柱建物跡や井戸が確認されている。土塁の高さは、北側で約4.0-4.5メートル、南側で約1.0-1.5メートルであり、土塁の外側にあたる北側と西側には幅約5-10メートルの空堀が設けられ、最も深い所で約3.5メートルの深さをもつ。
発掘調査では、15世紀前半ごろを主体とする青磁・白磁・珠洲焼・越前焼・古瀬戸などの陶磁器が出土している。これらの遺物の年代は『新羅之記録』に記された長禄元年のコシャマインの戦いにおける志苔館陥落の時期(1457年)と矛盾しない。

15:20函館空港に向かう。
17:45函館空港出発。
19:40関西国際空港到達。

今回の旅行、北海道の道南地方に点在する、北海道八十八箇所の2箇所、北海道三十三箇所観音2箇所、比較的マイナーなお城・城下町8箇所を巡り楽しみました。

霊場は前回と同様に寺院に似つかない建物も有りましたが、立派な寺院風の建物も多く見られました。

一方お城は北海道らしく公園のような広々とした敷地面積の広いお城後が殆どでゆっくり散策することがで来ました。

今回感じたことは函館では外人さんにはあまり出会いませんでしたが(マイナーな霊場、お城のためか)、関西空港に向かうはるか、関西国際空港内、帰りの空港バスには多くの外人を見かけ、外国観光客が急速に増えているのがわかります。日本も観光大国になったのでしょうか。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百二十弾:青森県東北三十六不動霊場&お城・城下町巡り
2015年7月11−12日

本州の最北端、十和田湖、奥入瀬、白神山地で有名な青森県に足を運び、反時計回りで青森市、津軽、深浦、弘前に点在する東北三十六不動霊場6箇所、比較的マイナーなお城・城下町6箇所を訪れました。

11日16:20伊丹空港出発
17:50青森空港到達、レンタカーで青森市方面に向かう。
18:00青森市内のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

12日7:00レンタカーで出発、青森市内の霊場を巡る。

青龍寺:青森市郊外の東寄りに位置した桑原地区は、武兵衛川が北流して平野部を潤す農圃地帯で、山崎の山林に戸崎館趾がある。館主、壘砦の年代は不明とされているが、近年、この近くに日本一を誇る昭和大仏が開眼された。昭和大仏は大日如来で、無限の智恵、無限の慈悲、無限の能力を象徴している。

青森寺:当山の開基は、明治21年9月。ご本尊は大慈大悲のご利益厚き、大聖不動明王である。千葉の成田不動尊詣での為に組織されていた成田講の人々が、青柳に不動堂を建立したのが始まりである。その后年々隆盛を極め明治41年、現在地に本堂を建立、信徒も市内のみならず、八戸、十和田、鰺ヶ沢など県下全域に及ぶに至った。しかしながら、昭和20年7月の空襲で堂宇本尊悉く灰燼に帰した。堂宇再建の為、県内はもとより東北各地のご信者より志納を募り、ついに昭和32年7月、輪奐旧に倍し立派に本堂再建が成った。ついで35年、不動明王ご本尊も目出度く開眼、奉安された。以後鎮守稲荷堂、清瀧権現堂、を建立。更には昭和60年本坊客殿建立。平成2年、生れ年1代尊並びに仁王尊像造立し現在に至る。当山の年中行事で代表的なものは、2月の節分会と7月の灯籠流しである。節分の豆撒きには、厄除祈願の善男善女が多数参集し、その規模は県下一である。又夏の灯籠流しは、川面を幻想的な光で彩り、誠に叙情的で短い青森の夏には欠かせぬ風物詩となっている。

津軽半島に向かう。

尻八館:築城年代は定かではないが安東氏によって築かれたと云われる。暦応2年(1339年)の「曽我貞光申状」に曽我貞光が「尻八楯」の安東四郎道貞(潮潟道貞)を攻めた記録があり、この尻八館に比定する説がある。現地の案内板によれば、寛喜2年(1230年)安東一族がアイヌのチャシを土台として尻八館を築き、貞永元年(1232年)安倍三郎成季が治領代頭役に任ぜられた。正安2年(1300年)安東孫次郎が尻八館城主となり、明徳4年(1393年)安東四郎道貞が尻八館城主となって潮潟四郎と名乗った。応永32年(1425年)道貞の長男重季が鉢巻館より移り、重季は南部義政の女を妻とした。永享7年(1435年)尻八館は南部義政に攻められ落城し、このとき重季の子政季が捕らえられたが義政の女の子であるので八戸で育てられ、成人して旧安東家の知行を継いだ。

中里城:中里城の創建は明らかではないが、発掘調査の結果、遺構は縄文時代前期(約5500年前)まで遡れるという。
城主に関しては、建武元年(1334)の『津軽降人交名注進状』に新関又二郎の名が見える。
他には津軽氏に追われて南部八戸へ逃れた中里半四郎や、また城の西下には高坂修理の居館があったとされる。

福島城:築城年代は定かではないが正和年間(1312年〜1317年)頃に安倍貞李(安藤貞李)によって築かれたと云われる。
藤崎城を拠点として津軽に根付いた安藤氏は鎌倉時代後期頃に十三湊へ移り、蝦夷との公益で栄えていた。永享4年(1432年)安藤康李のとき南部守行・義政父子によって攻められ福島城と唐川城は落城、康李は柴崎城へ逃れた。この戦いは室町将軍足利義教の命によって康李の妹が南部義政に嫁ぐことで和睦がなされたが、嘉吉2年(1442年)再び南部氏に攻められ、安藤氏は津軽を離れて蝦夷島へ逃れた。
十三湊安藤氏は、その後南部氏に捕らわれていた安藤師李(後の政李)が南部氏から田名部を賜り、十三湊安藤氏を相続した。しかし政李は享徳3年(1454年)に田名部から蝦夷ヶ島へ渡り、二年間滞在したのち小鹿島へ上陸、その末裔が檜山安東氏となっていく。

唐川城:築城年代は定かではない。一般的には鎌倉時代末頃に安藤貞李によって築かれてたと云われているが、発掘調査によってそれ以前の平安時代後期に築城されていたことが判明している。
安藤氏は福島城を居館、この唐川城を詰城として築いたが、永享4年(1432年)と嘉吉2年(1442年)に南部氏によって攻められて落城し、安藤氏は蝦夷島へ落ちていった。

弘法寺:津軽半島の中程にある木造町の開拓は比較的遅く、当山の縁起についても、開創等は記録がなく不明な点が多い。
 唯一現存する七代目住職の位牌が六〇〇余年前の物ということである。一時洪水等の天災で寺が消失した時期があったらしく、明治に入ってから再興された。再興後は九十九森寺と呼ばれていたが、昭和に入り、弘法寺と改称された。

種里城:延徳3年(1491年)南部光信(大浦)によって築かれたと云われる。 津軽藩初代津軽為信の祖とされる光信は、延徳3年(1491年)九戸郡下久慈より入部した南部一族と云われる。
文亀2年(1502年)光信は大浦城を築き、子の大浦盛信を置いた。光信は大永6年(1526年)種里城にて没し、以後、大浦氏は大浦城を本城として五代為信の代に至る。この為信は久慈城主久慈信義の弟十郎が津軽郡代の石川高信を頼り後に大浦氏の養子となったという説がある。

深浦に向かう。

深浦城:深浦港の南方500mの沢に挟まれた丘陵端に位置する。南方に5本の空堀があり、他の三方は沢に続く急斜面となっている。曲輪は2つあり、北側の一段高い位置に東西33m、南北88mの主郭がある。二の郭は東西80m、南北100mほどの規模だった。
南部氏によって所領を失った安東氏が当地に来て再起を図り、当城を築いた。その後、葛西頼清が本拠とした。最後の城主は千葉弾正で、戦国時代まで使用されていたものと推測される。

弘前方面に向かう。

最勝寺:東北地方で五重塔のある名刹として知られる金剛山光明寺最勝院は、常陸国桜川の弘信法印開基である。天文元年(1532年)津軽に下向し平賀郡堀越城外の北、荻野という処に伽藍を造営した。
 これが最初とされるが、それ以前の古文書に最勝院という文字が見えることから、創立年代はもっと古いという。

大圓寺:大鰐温泉郷の中にある大円寺は、もと阿闍羅山千坊と称された高伯寺に由来する。寺伝に依ると、奈良時代、聖武天皇の国分寺建立に始まり、本尊大日如来を阿闍羅山の大安国寺に安置されたことに起こる。
 その後、大安国寺は荒廃し、鎌倉時代建久二年、神岡山の高伯寺に移奉された。のち慶安三年(1650年)津軽三代信義公が高伯寺と本尊を現在の場所に移し、以来津軽家代々の崇敬を受けてきた。
 ところが明治四年、弘前にあった大円寺(現在の最勝院)の寺号を以て高伯寺を大円寺とした。
 本尊大日如来は大正九年に国宝の指定をうけ、昭和二十七年には国定重要文化財となった。


國上寺:当山は人皇第三十四代推古天皇御宇十八年(610年)国家北門鎮護のため、聖徳太子の命を受け泰川勝公が開基。建長六年(1254年)北条時頼公本尊並びに法具を現在地に奉移し、三森山不動院古懸寺とし、鎌倉将軍数代の祈願所とした。
 天正十六年(1588年)津軽右京亮為信公国上山不動院古懸寺と改め鎮護国家、津軽家領域安泰のため、更に仏殿、山門、護摩堂、大師堂などを造営し、寺領地二百町歩、寺録百石を贈り、津軽家歴代の祈願所とした。
 明治二十六年(1893年)旧正月七日火災のため本堂並びに仏堂を焼失、消失をまぬがれた護摩堂を本堂として、昭和五十四年現本堂建立まで寺務を執行した。

16:30青森空港に向かう。

17:10青森空港到達。
18:20青森空港出発
19:55伊丹空港到達。

今回の旅行、本州最北端の青森に足を運び反時計回りで青森市、津軽、深浦、弘前に点在する東北三十六不動霊場6箇所、比較的マイナーなお城・城下町6箇所を訪れ楽しみました。

前回の北海道旅行と同様に、天候晴れ、絶好のドライブ日和、ドライブ兼ねての霊場、お城巡り堪能しました。

やはり東北の霊場、立派な寺院が多いですね。歴史の深さを感じます。

特に青龍寺の巨大な大仏は圧巻でした。日本一大きな大仏でしょうね。

好天に恵まれたドライブを兼ねた霊場、お城巡り観光でした。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十九弾:北海道ハ十八ヶ所霊場&北海道三十三観音巡り第二弾
2015年7月4−5日

日本の最北端北海道に足を運び、札幌から反時計回りで小樽・余市・倶知安・岩内・室蘭までの北海道ハ十八ヶ所霊場11箇所&北海道三十三観音8箇所を巡りました。

4日15:00伊丹空港出発
16:50新千歳空港到達、レンタカーで札幌に向かう。
18:00札幌市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

5日6:15レンタカーで出発、小樽に向かう。

精周寺:1884年、湯殿山大日坊八十三世大網精周は、北海道巡教の折、小樽市に懸錫所を創設した。1889年、精周は弟子を派遣し、1890年寺号公称した。1893年本堂を建立、1911年現在地に解体移築。本尊大日如来(慶長以前の作)は総丈十尺で、元羽黒山の本尊で1885年湯殿山に遷座後、精周寺に請来。

不動院:霊場のご本尊様は毘沙門天です。毘沙門天は、四天王の一人、多聞天の別名です。日本では財宝や福徳を与える神様としてお奉りされ
七福神のお一人としてお奉りされています。また、吉祥天の夫ともされ信仰を集めました。特に、戦勝を祈願する神として武士階級の人々の信仰を集めたようです。

日光院:日光院は明治初頭までは、高野山の塔頭寺院でしたが諸事情により増福院に合併されていました。それを開教僧の鷹尾了範師の尽力と小樽の大師信者の「自分達のお寺が欲しい」との熱烈な願いによって明治二十四年に移転という形で小樽に再興されたのです。
 大正十四年、現本堂が落慶なった時、高野の地から往時の御本尊(聖観世音菩薩)が請来されました。それから百二十数年、石狩湾を望む丘の上から大師のみ教えを伝えています。

余市に向かう。

仁玄寺:仁木町入植開墾当時、開基住職戒存大和尚が二間四面の小さな大師堂から出発した当山も、明治39年には本堂建立とともに寺号公称をするに至り、戦中戦後の混乱期にあっても布教活動を後退する事無く、宗祖弘法大師の教風宣揚の場として一心に信仰を集め現在に至っております。
その時代毎に伽藍も一新し、鐘楼堂や香楼堂が建立寄進されるなど、境内の新四国八十八ヶ所霊場や復興した北海道三十三観音霊場の第6番札所(千手千眼観世音菩薩)として、その時々の熱き大師信仰、巡礼の道場となってきました。
境内のケヤキの大木は、当時の徳島県からの入植者たちが故郷を偲んで植えたもので、今では町の天然記念物として指定されています。

考徳寺:当山は昭和16年開基住職関孝道和尚の真言宗説教所開設が始まりで、26年孝徳寺に寺号公称。34年に全焼しましたが本尊弘法大師様だけ焼け出され、その不思議ゆえに「火伏せ大師」・「銀山大師」として信仰されています。
また、八十八ヶ所開創記念に開眼した不動明王様には節分会柴燈護摩のご祈祷でたくさんのご利益をいただいています。
当山で特筆すべき事は信仰厚い檀家様が先祖代々供養の為に書いた天井の仏画です。一筆一筆心が込められていて、大日如来を中心に曼荼羅世界を表現しています。畳の上に大の字になり天井画を見つめれば、八十八ヶ所参りの自分と仏様が一体になれると実感するでしょう。田舎の小さな寺ですが、同行二人の心でご家族・ご友人お誘い合わせ、どうぞお参り下さいますように。

密厳寺:明治31年開山、米沢から来道し庵を結ぶ普及所となる。昭和11年に本堂を再建し、寺号公称する。総本山は長谷寺。ご本尊は十一面観音、秘佛歓喜天、大日如来、脇には大聖不動明王。開基住職清道大和尚三十三回忌に当り開山堂を建立。江戸時代後期の作と云われる文殊菩薩(台座から77cm)を祀る。山門脇に左右三体ずつの六地蔵が並び、聖観音堂では、交通安全などの祈祷が行われる。

倶知安に向かう。

金剛寺:開山は明治31年頃かと思われます。35年に石井理源が着任。

岩内に向かう。

本弘寺:本弘寺の開基は肥田盛道で彦根藩士松本常人の次男である。
明治三十年高野山管長より北門開教の重責の特任を得て、当山本弘寺の新寺建立の信徒より嘆願があり、この地に留錫する。明治三十年十二月十日本堂建立落慶し、寺号公称の許可を得る。真言宗連合宗会議員その他役職を歴任し、五十三歳で大正九年十一月二十八日遷化する。
第二世松山実應は三州浦郡市薬證寺の長男で昭和二年七月二十四日遷化する。
第三世肥田密禅愛知県豊川市威宝院三男で昭和五十二年九月九日遷化する。
昭和二十九年九月二十六日台風十五号で大火災が発生し、町の八割が被災。本弘寺も全焼する。
第四世肥田諦明は現住職である。第三世、四世代全伽藍再建する。

菩提院:第三番菩提院の観音様は本院より約二五キロ行った黒松内町の「観音山奥之院」に祭られています。奥之院は菩提院で管理し、普段無人となっております。お参りされる方は菩提院へお問い合わせください。納経帳の宝印は奥之院・菩提院どちらにも用意してあります。
 奥之院へは十一月から五月頃まで雪があり登れないので菩提院で納経の御宝印を押印いたします。
 奥之院の春は「カタクリ」が郡生しております。連休前後が見頃となっております。

遍照寺:
当山は明治41年、瀧澤善澄和尚に依って開基開山されました。寺院公称は大正2年。
ご本尊は五穀豊穣を祈念する不動明王、脇仏に弘法・興教大師を奉安します。今のご本堂は大正6年に建立された六間四面宮殿造り。
昭和8年、四国霊場61番香園寺より授かった安産・子育てのお大師さまの子安大師を祀る大師堂があります。
境内は石仏の八十八ヶ所霊場となっており、大木や松やイチイ、桜、ツツジ、シャクナゲなど草花が多数植えられています。大正時代に福井県より移植された三間四面もある珍しい白藤の大木が大きな房を付けて咲きます。見頃は6月初旬。4月下旬より10月下旬まで庭園を楽しむ事ができます。天気が良ければ、野立てでお茶の接待を致します。


亮昌寺:虻田地方は、北海道の中では古くから開けた温暖の地で、文化二年(1805)に徳川幕府により四千頭の馬を飼育した官営牧場が置かれた北海道牧場発祥の地であります。
 亮昌寺はこの地に明治二十五年、越後の人村山亮昌によって開かれ、遠方のため本山に修行に行けない寺院子弟の道場の役割も果たした、自然豊かな山の寺であります。

壮栄寺:開山大西琢道師が明治26年3月に真言宗説教所を創設。明治28年8月に説教所が認可され、明治31年3月壮栄寺としての本堂を新築しました。同年10月説教所を廃し寺号公称を出願し明治32年2月、如意山金剛院壮栄寺、寺号公称認可されます。宗祖弘法大師御入定千百年記念事業として裏山2町歩に、新四国八十八ヶ所を建立しました。
明治38年より39年に西国三十三霊場の観音を洞爺湖畔に建立し、最後の札所として第33番観音仏を境内に建立しました。

不動寺:明治13年草創。明治24年平田学仙和尚開基。昭和10年法正和尚開山。
昭和59年秋に御遠忌記念事業成就法会を森寛紹前管長猊下の御親修を仰ぎ厳修。昭和60年夏に高野山南院住職内海有昭僧正の御配意を賜り、同院ご本尊波切不動明王を原寸大に複製し勧請。平成14年龍昭和尚市内弄月町に不動寺別院開基。 
北海道三十六不動尊霊場25番札所、北海道十三仏霊場10番札所、北海道八十八ヶ所霊場では第56番札所として衆生の苦しみをお救い下さる地蔵菩薩を奉安しております。

室蘭に向かう。

清瀧寺:天神山不動尊清瀧寺(以下清瀧寺)の起源は明治14年(1881年)にさかのぼります。本堂にはお大師様(弘法大師)、お不動様(不動明王)、その他日々私たちをお守りくださるたくさんの神様や仏様がお祀りされています。
又、敷地内につづく山には昭和29年(1954年)、四国八十八か所を模し、札所一番「霊山寺」釈迦如来さまが建立奉納され、昭和54年(1979年)25年目にして札所88番「大窪寺」薬師如来さまが建立されたことにより四国八十八か所すべてのほとけ様が安置されました。

大正寺:開基了山は、明治37年3月本山の命により北海道開教の巡教師として来道、大正六年大正寺公称を受ける。大正寺の寺名は大正時代の公称を記念したものである。
本堂は駐車場から七十五段の(厄除け階段)を登った上にある札所唯一の難所であるが、境内からは室蘭港を一望できるロケイションは最高である。
市内には北海道の自然100選1位の地球岬があり、近郊には登別温泉、洞爺湖温泉がある。

千光寺:当山は明治26年大藤経全和尚代に説教所創設、昭和7年寺号公称認可、昭和40年に本堂を新築し、ご本尊大日如来を勧請、脇仏として弘法大師、不動明王、千手観音、愛染明王を奉安。
なかでも、弘法大師、阿弥陀如来、般若菩薩、不動明王の四躯は、京都松本明慶大仏師謹刻によるものです。 山号の幌別山は「ポロペツ」という、アイヌ語に基づくもので「大きな川」という意味。また、登別という字名は、アイヌ語「ヌプルペツ」で「色の濃い川」の意味があります。

瀧泉寺:
当山の開創は大正6年3月。平成19年九十周年を迎えました。 
大本山成田山新勝寺直末。お寺の庫裡を利用し宿坊「菊永」を併設しています。


13:30新千歳空港に向かう。


今回の旅行、北の北海道に足を運び札幌から反時計回りで小樽・余市・倶知安・岩内・室蘭までの北海道ハ十八ヶ所霊場11箇所&北海道三十三観音8箇所を巡り楽しみました。

今回も前回と同様で寺院に似つかない民宿風の建物が多く驚きました。

一方梅雨の時期にもかかわらず、天候は快晴、絶好のドライブ日和、広大な北海道を気持ちよくドライブが出来、広くて真っ直ぐな道、地平線を見ながらの運転、周辺は山あり、川あり、点在する霊場巡りしながらのドライブ観光満喫出来ました。
北海道のドライブ最高ですね、本土では味わえない爽快で快適なドライブ兼ねた霊場めぐりでした。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十八弾:山形県東北三十六不動尊霊場&城・城下町巡り観光
2015年6月27−28日

サクランボ、蔵王で有名な東北の山形県に足を運び、山形県内の秋田・青森・岩手・宮城・福島の東北6県をそれぞれ六波羅蜜の道場に見立て、各県で6つの札所を巡る東北三十六不動霊場3箇所、城・城下町12箇所を訪れました。

27日16:15伊丹空港出発

17:30山形空港到達、レンタカーで天童方面に向かう。霊場巡り。

大樹院:
山形盆地の東端に位置した青野郷は、大岡山から南に広がる農業地域で、丘陵には果樹園が営まれている。大樹院はこうした中に在り、裏山一帯ではリンゴの栽培が行われている。本尊不動明王には、このような話しが伝わっている。「請雨瀧不動尊は、往古、弘法大師湯殿山を開基し給いしのち下山の砌り、最上荘大早魃に罹れ、雨を乞うとて諸俗あつまり西根より東根に至るまで其の趣き成る故、悉くそれを憐み給い、弘法大師辰己の方につき、山に下りて雲を発し候故に此処に山篭し玉いて雨を乞うに、則ち雷不動尊あらわれ給い、弘法大師、請雨瀧に勧請せらる」と。

光明院:温泉と将棋の駒で有名な天童市で、光明院は上山口村に伽藍を鎮め、高瀧不動尊の本坊として、土地の信仰を集めている。
 不動尊利益和譛から縁起を見ると、「聖武天皇の御宇、行基菩薩が開眼した景勝無双の霊地にて、その霊験は世々に赫灼なり」と記す。不動尊の影現は滝の魔崖仏である。峻厳な山の気を分けて千仞の谷に降りると、幽邃境に瀑布がひびき、屏風岩に不動明王と阿弥陀仏の影向を拝することが出来る。

慈恩寺:寒河江市は最上川と支流の寒河江川に挟まれた農畝地帯で、慈恩寺の文化を中心に発展してきた地域である。
 草創は神亀元年(724)に遡り、行基菩薩が諸国遊錫に訪れ、都に帰った折り、この地の景勝を奏上された。時に天平18年(746)印度の波羅門僧上が勅宣を以って開山し、勅願寺と定められたのが始まりと伝えられている。
 往古は天台宗・真言宗の二宗兼学によって護られてきた。近年に山内を統一し、最上院、華厳院、宝蔵院とこれに属した十七坊で一山組織を形成し独立した。

17:00天童駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

28日7:00レンタカーで出発、お城巡り。

天童城:天童城は、天授元年に天童頼直によって築かれた。 南北朝時代に北畠天童丸が築いたとも云われているが、定かでない。
天童頼直は、山形城主斯波(最上)直家の二男で里見氏の跡を受けて天童に入り、天童氏を称した。 天童氏は、『最上八楯(天童・延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田)』と呼ばれる村山地方の館主の盟主として、惣領家最上氏に匹敵する勢力を誇った。
天正12年、天童頼久は最上義光に天童城を攻められ落城し、城は廃城となった。 尚、天童頼久は、国分氏を頼って逃れ、のち伊達氏に仕えた。

寒河江城:寒河江城は、嘉禄年間に大江親広によって築かれた。 親広は、鎌倉幕府創世記の重臣大江広元の嫡男で、建久3年に父より寒河江荘地頭職を譲られ、承久の乱で敗れた後に寒河江に逃れて土着する。 
8代時氏から寒河江氏を称した。 寒河江氏は、戦国時代になると最上氏の勢力拡大により都度攻防を繰り返したが、天正12年最上義光によって寒河江高基は滅ぼされた。

山形方面に向かう。

畑谷城:築城年代は定かではない。 城主は江口五兵衛光清で、上杉領との境に位置する要所の為、武勇の誉れ高かった江口氏が長岡城より八千石を領して移封されたという。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦前、上杉討伐のため北上中の徳川家康は石田三成の挙兵により西へ引き返す。最上氏は南部氏などの諸将を最上へ集結し米沢口より会津領へ押し寄せる予定であったが、石田三成の挙兵を聞いた諸将は領内の安定をはかるために領国へ退いてしまう。上杉氏は周辺大名の動向を見たうえで、直江兼続を主将とする大軍を最上領へ侵攻させる。これに対して最上軍は各出城を破棄して兵力を集中させることを目指すが、畑谷城主江口光清は、敵を目の前にして城を明け渡すのは武士として末代までの名折れとして上杉軍を迎え撃った。義光は飯田播磨守・谷柏相模守などを援軍として派遣したが、到着する前に落城、勝ちに乗じた上杉軍は軍勢を二手に分け長谷堂城・上山城へと向かった。

長谷堂城:長谷堂城は、築城年代や築城者については定かでない。 永正11年に伊達氏が最上方の長谷堂城を落としたとの記録があり、この頃には既に最上氏の城として機能していた。
慶長5年、直江兼続に率いられた上杉軍2万が米沢から東軍に与した山形城の最上義光を討つべく北上して、長谷堂城を囲んだ。 城主志村光安は上杉の猛攻から長谷堂城を守り通し、上杉勢の山形盆地進入を阻止した。
翌年、志村光安はこの戦功により東禅寺城3万石の城主となった。 その後坂紀伊守が城主となったが、元和8年に最上義俊改易となり、長谷堂城も廃城となった。

上山城:上山城は、天文4年に武衛義忠によって築かれた。 羽州街道の要衝の地である上山城は、慶長5年に西軍に与した直江兼続率いる上杉の大軍に攻められたが、城主里見民部以下の奮戦により撃退した。
関ヶ原以後、城主は里見・坂氏、次いで最上義光の五男義直(上山光弘)が城主となり、21,000石を領した。 
元和8年、最上義俊改易になり、義直も筑前黒田氏へお預けとなった。
同年上山へは遠江横須賀より松平重忠が入封し4万石を領した。 松平−蒲生−土岐と城主が変遷したが、元禄5年に土岐頼殷が越前野岡へ移った後、上山城は幕命により破却された。 その後、金森頼時、元禄10年には備中庭瀬から松平信通が3万石で入り、以後松平(藤井)氏が10代続いて明治に至った。

中山城:中山城は、戦国時代の永禄から元亀年間に米沢城主伊達輝宗の家臣中山弥太郎によって築かれた。
天正18年、蒲生氏郷が会津若松に入ると、中山城は蒲生領となり、氏郷は、重臣蒲生郷可に13,000石を与え城主とした。 この蒲生時代に城の修築と拡張がなされたと考えられている。
慶長3年、上杉景勝が越後春日山から会津へと移封され、中山城へは横田旨俊が城代として入った。 慶長5年に関ヶ原の役後、中山城は廃城となったが、その後も山麓には御役屋陣屋が置かれた。

米沢方面に向かう。

館山城:築城年代は諸説あるが天正15年(1587年)頃に伊達政宗によって築かれたとの説が一般的である。 天正12年(1584年)伊達輝宗が隠居所として館山へ移つり、隠居所の普請が完了するまで家臣鮎貝宗重宅に住み、翌13年に移ったという。天正15年(1587年)には政宗自身が地取・縄張して築城を開始、しかし天正19年(1591年)には領地替えで岩出山城へ居城を移し廃城となった。また一説には、伊達氏が米沢を居城としていたのは米沢城ではなく、この館山城という説があり、政宗の普請はそれを改修したとする説がある

最上方面に向かう。

延沢城:天文16年(1547年)野辺沢(延沢)薩摩守満重によって築かれたと云われる。 野辺沢氏の出自は詳らかではないが天童氏に従っており、満重のときに野辺沢城を築いて本町館より移ったとされる。
満重の子が野辺沢(延沢)能登守満延で、天正12年(1584年)嫡男又五郎(後の光昌)に最上義光の娘松尾姫を迎え、最上氏に従ったことから天童氏は滅亡した。天正19年(1591年)満延が没すると光昌が家督を継いだ。
野辺沢(延沢)遠江守光昌は長谷堂城の戦いや庄内退治などに参加し、二万石を領したが、元和8年(1622年)最上氏が改易となると肥後国熊本藩加藤氏にお預けの身となり、熊本にて病没した。
最上氏に代わって鳥居氏が山形へ入部すると家臣の戸田玄蕃が城番として延沢城に入ったが、寛永7年(1667年)に廃城となった。

小国城:築城年代は定かではないが、細川氏が岩部館(小国城)を築いて富沢館より移ったのが始まりとされる。
細川摂津守直元は天童城主天童頼澄に娘を嫁がせるなど天童氏と結んで最上氏に対抗する。 天正12年(1584年)天童城は最上義光によって落城、城主天童頼澄は陸奥へ逃れ天童氏は滅亡する。この勢いに乗じて最上軍は山刀伐峠を越えて小国郷へ侵攻し、細川直元はこれを馬騎原で迎え撃ったが敗れ滅亡した。この戦いで格別の功があった蔵増城主倉津安房守は小国郷八千石を得て、嫡子が小国日向守光基と名乗って小国城を改修し居城とした。
元和8年(1622年)最上氏が改易となると陸奥国仙台伊達氏によって城は接収され破却、廃城となった。小国光基は肥前国佐賀鍋島氏にお預けとなり、小国郷は新庄藩の所領となって、小国城の麓に代官所が設けられた。

新庄方面に向かう。

新庄城:天正8年、日野有祐によって築かれたと言われている。 日野氏は山形城の最上氏に臣従して、「最上四十八館」の一つに数えられている。  しかし、元和八年に最上義俊の改易と共に廃城となった。
同年、常陸松岡より戸沢政盛が六万石で新庄の北方真室城に入封した。 政盛は、寛永2年に新田分を加え67,000石を領し、翌年に新庄城を再築した。 戸沢氏は、明治まで11代この地を動くことなく明治に至った。

鮭延城:築城年代は定かではないが佐々木綱村によって築かれたと云われる。 佐々木氏は近江源氏佐々木の一族と云われ、佐々木綱村のとき近江国より出羽国へ下向し、仙北の小野寺氏の客将となったという。
鮭延城の築城に関しては諸説あり定かではないが、佐々木氏は当初岩鼻館を居城としていた。しかし、庄内の大宝寺氏との戦いで敗れ、当時幼小であった秀綱は大宝寺氏に捕らわれて庄内へ連れ去られ、岩鼻館周辺の所領を失った。その後、佐々木氏は真室郷へ退き鮭延城を築き居城としたと云われる。
天正9年(1581年)鮭延秀綱のとき最上義光の攻撃を受けて降伏、その後は最上氏に従った。鮭延秀綱は以後、最上氏北方の拠点として小野寺氏などとの戦いで戦功を挙げた。
慶長5年(1600年)上杉景勝が最上領に侵攻した長谷堂城の戦いで、鮭延秀綱はその武勇を大いに知らしめ、重臣として一万一千五百石を領した。 しかし、元和8年(1622年)最上氏は改易となり、秀綱は下総国佐倉藩主土井利勝にお預けとなった。その後、秀綱は客分として五千石を領し、土井氏の古河転封にも従い天保3年(1646年)に没した。
その後、常陸国松岡より戸沢政盛が六万石を領して入封すると、当初は鮭延城を居城としたが、寛永元年(1624年)新たに新庄城を築いて移り廃城となった。

清水城:築城年代は定かではないが文明10年(1478年)頃に清水満久によって築かれたと云われる。 清水満久は最上の祖である斯波(最上)兼頼の曾孫で、鳴沢城主鳴沢兼義の次男である。 最上氏は北方の守りを固める為に鳴沢満久をこの地に封じ、清水氏を称した。
満久は当初白須賀の元館を築いて居城としていたが、文明10年(1478年)頃に清水城を築き、以後代々清水氏の居城となった。
長年にわたり庄内の大宝寺氏と争っていたが、永禄10年(1567年)頃には大宝寺氏によって清水城は落城した。
六代清水義氏には嫡子なく、最上義光の三男義親を養子に迎えた。この頃には清水氏は二万七千石余りの所領を持っていたという。
最上義光には三男の男子がいたが、嫡男義康は山形城に置いたものの、次男家親は徳川家、三男義親は豊臣家に近侍として奉公させていた。嫡男義康は義光より早く没し、家督は次男家親が継いだ。徳川家康の諱を受けた家親と、豊臣家に仕えた過去を持つ清水義親は氏第に対立が深まり、慶長19年(1614年)家親の命を受けた延沢遠江守光昌らが清水城を急襲し落城、清水氏は滅亡した。

14:30山形空港に向かう。

15:25山形空港到達。
18:00山形空港出発
19:45伊丹空港到達。

今回の旅行、東北の山形県に足を運び、山形県内の東北三十六不動霊場3箇所、城・城下町12箇所を訪れ楽しみました。

霊場は歴史深く立派な歴史的建造物でした。一方お城は、戦国時代戦いのために築かれた山城が多く、山頂にこじんまりした城跡を確認できました。

平城は権力者の住まいとして立派住まいを想像できる城跡でした。

比較的マイナーな城跡めぐり、見つけるのが一苦労要しますが、どんな城跡か、歴史的意味はなにか、楽しみなお城巡り満喫しました。




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十七弾:岩手県東北三十六不動尊霊場&奥州三十三観音巡礼
2015年6月20−21日

東北地方に位置し日本で2番目に面積を持ち、世界遺産平泉で有名な岩手県に足を運び山形・秋田・青森・岩手・宮城・福島の東北6県をそれぞれ六波羅蜜の道場に見立て、各県で6つの札所を巡る東北三十六不動尊霊場4箇所、福島・宮城・岩手・の三県にまたがる、西国にならい、由緒や伽藍の規模なども他に誇りを得る寺院が多く、奥州の歴史文化を知る上でも貴重な文化財である奥州三十三箇所観音4箇所を巡りました。

20日伊丹空港17:00出発
18:25花巻空港到達、レンタカーで盛岡に向かう。
19:00盛岡駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
21日7:30レンタカーで出発、盛岡市内の霊場巡る。

永福寺:永福寺の創建は南北朝の頃に遡り、もと青森県三戸に創建された。縁起は、後醍醐天皇の詔宣により懐良親王が大聖歓喜天を遷座されたことに創まり、像は「高野大師作」と伝えられる。
 当地に移ったのは元和年間(1615年)藩主利直が居城を盛岡に移したことに依る。この時南部氏累代の祈願寺であった永福寺も移し、新城の鬼門除けとして東北の地に伽藍を建立した。ときに盛岡五山を定めて筆頭に位し、領内社寺の総録として寺領八〇〇石を付与された。

八幡平方面に向かう。

聖福寺:境内に奥州三十三箇所第三十一番所札所白坂観音堂がある。もと鹿角街道沿い七時雨山麓にあったが、大正8年(1919年)観音堂別当南嶽院の還俗によって聖福寺に移されたものである。この堂は、神亀5年(728年)に聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝えられ、桂清水(天台寺)、御堂観音(正覚院)とともに、三観音あるいは兄弟観音と呼ばれている。

正覚院:天台宗。「御堂観音」と呼ばれる。開創は坂上田村麻呂が、蝦夷制定の際の犠牲者を供養するために建立したと伝えられる。前九年の役(1051)で、安倍氏に勝利した源義家は、観音堂を改築し護持仏を奉納した。

天台寺:岩手県二戸市浄法寺町にある天台宗の寺院。山号は八葉山。1976年、中尊寺貫主であった今春聴(作家今東光)が特命住職として晋山、本尊十一面観音像(丈六立像)の造立を発念し復興に着手したが、着任まもなく宿阿の結腸癌に斃れた。のち瀬戸内寂聴が住職として後任を勤め復興の責を果たした(現・名誉住職[1])ことで知られる。毎月1回の法話の日には、境内に入りきれない程の参拝客で賑わう。

宮古方面に向かう。

長根寺:長根寺の伝説によると、宮古市小山田に大同年間(807年)坂上田村麻呂が閉伊の蝦夷征討の折に勧請されたと伝える薬師堂があり、その社に保存されている鐘がある。その銘に曰く、黒森に観音長根に弥陀仏を奉祀し三所一体の霊場とする意味のものである。本薬師の勧化帳に嘉永元年(1848年)黒森権現、長根寺共に田村麻呂の草創也とある。

遠野方面に向かう。

福泉寺:
遠野物語で有名な遠野盆地にある福泉寺の寺史はさほど古くはない。大正元年(1912年)佐々木宥尊が開創した。
 一本彫りの大観音像があり、これは日本最大だという。住職自らの力作で、断食行をかさねて、二十年の歳月を要して完成した、総高17メートルの巨大像である。
 また、ここからは遠野盆地が一望でき、絶景の一言につきる。


奥州方面に向かう。

興性寺:興性寺は、元和八年(1622年)宮城県栗原郡より移転し、岩谷堂城伊達氏(岩城氏)の祈願寺として、近隣からも格式高く扱われていたお寺である。移転時の開祖は多門院興性である。はじめ岩谷堂城付近にあったが、岩谷堂城代・藤田但馬守のとき現在地に移った。ちなみに、興性寺の山門は岩谷堂城裏門の遺構である。

黒石寺:国指定の重要文化財 木造薬師如来坐像には貞観4年(862年)の年紀を含む墨書銘が記されていて木彫の仏像では日本最古なそうだ。

16:30花巻空港に向かう。

17:10花巻空港到達。
18:55花巻空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、東北の岩手県に足を運び、岩手県広範囲に点在する東北三十六不動尊霊場4箇所、奥州三十三箇所観音4箇所を巡り楽しみました。

広い岩手県、霊場が散らばっておりほとんど移動に時間を取られました。

東北三十六不動尊霊場は立派な寺院が多く素晴らしかった。

ドライブが主となった岩手県霊場めぐり観光でした。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十六弾:宮城県東北三十六不動尊霊場&奥州三十三観音巡礼
2015年6月13−14日

東北地方の中心地宮城県に足を運び、山形・秋田・青森・岩手・宮城・福島の東北6県をそれぞれ六波羅蜜の道場に見立て、各県で6つの札所を巡る東北三十六不動尊霊場5箇所、福島・宮城・岩手・の三県にまたがる、西国にならい、由緒や伽藍の規模なども他に誇りを得る寺院が多く、奥州の歴史文化を知る上でも貴重な文化財である奥州三十三箇所観音12箇所を巡りました。

13日15:10伊丹空港出発
16:25仙台空港到達、レンタカーで角田方面に向かう。

愛敬院:愛敬院は聖護院門跡を本山とする修験・山伏の寺院で、阿武隈渓谷自然公園内に境内があり、四季折々の景観を楽しませてくれる憩いの場となっております。
 駒場瀧不動尊の歴史は古く今を去る壱千百年の昔、天台座主の慈覚大師が奥州ご巡錫のみぎり奥州鎮護霊山寺の鬼門の守りとして浄地を選らび、世の平安と人々の幸福を念じて激流岩をかこむここ駒場が滝において、自ら不動尊像を刻み、滝上の岩窟に祀られました。爾来、遠近の参詣者が絶たず、特に行者や山伏の修行の道場とし栄えました。
 また、源平時代、平泉の藤原氏を留まっていた源義経主従が参詣の折、主君の武運を祈って、弁慶が騎馬のまま滝を跳び越え、岩上のくぼみが蹄跡と伝えられている。
 当山では修験の寺院としてお不動さまのご縁日(28日)に修験独自の護摩祈祷、また一般の方を対象にした霊山峰入り修行等を行っています。

斗蔵寺:

19:00仙台市内に向かう。
19:40仙台市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

14日6:45レンタカーで出発、仙台市内の霊場巡る。

名取千手観音堂:増田字柳田 佐藤 功様方に奥州三十三観音霊場 第五番札所に数えられる観音堂があり
寄木造り千手観世音菩薩立像が安置されています。


金剛寺観音堂:

紹楽寺:

秀麓斎:秀麓齋の寺号「齋」というのは全国でも珍しく、日本三齋の一つといわれ、開創は延暦十七年(798年)征夷大将軍 坂上田村麻呂が奥州に蝦夷平定の軍を進めるにあたり戦勝と天下泰平を祈願するため、信仰する西国清水寺の観世音をこの地に勧請したことに始まる。
大同二年(807年)比叡山伝教大師の法子 義 法師を開祖とし、天台宗に属し、大阪、四天王寺の末寺となった。十二世紀奥州平泉の藤原氏隆昌の頃には、その庇護をうけ末寺数十ヵ寺を有し最も栄えたが、藤原氏滅亡後は天台宗自体が衰退していった。
室町期文明年間(1469〜1486)大本山總持寺直末、越後国岩般郡村上の霊樹山耕雲寺四世 瑚海仲珊大和尚を勧請開祖とし天台宗を曹洞宗に改宗した。

西光寺:仙台秋保は温泉で名高く、日本三名瀑の一つに挙げられる秋保大滝がある。霊験あらたかな大滝不動尊はここに坐す。
 縁起は、平安期に慈覚大師が開基された。はじめ秋保温泉の南にある磊々峡を望む長嶺山に一宇を建立しようとしたが果たせず、二口峠を越えて出羽に向かわれ、貞観二年(860年)山寺を創建されたが、その帰路ここに留錫し、大滝の壮観と森厳の気を感得されてた。依って自ら不動明王を刻んで安置されたのが起因であると伝えている。

松島方面に向かう。

五大堂:瑞巌寺は、もと青龍山延福寺と称し天長五年(828年)慈覚大師が開山した天台宗寺院であった。鎌倉期にいたって入宋の法心性西を開山の祖として円福寺という臨済宗の禅林に改められ、戦国末期九十三世実堂の代から妙心寺派となった。
 仙台藩主伊達政宗公のとき師父と仰ぐ虎哉宗乙禅師のすすめで、現在の堂宇を造営し、慶長十四年(1609年)に完成した。次で政宗の遺志をついだ二代忠宗は雲居禅師を招いて中興の祖とした。現存する諸堂は桃山時代を代表する貴重な建造物になっている。
 五大堂は境外に在り、透し橋を架けた島に端正な御堂を映す。縁起は、大同二年に坂上田村麻呂が毘沙門堂を建て、のち慈覚大師がこの地に五大明王を安置して延福寺の守護を願われ、慶長九年に伊達政宗が再建した。

三聖堂:

大仰寺:

石巻方面に向かう。

梅渓寺:

箟峯寺:箟峯寺は箟岳観音とよばれ箟岳山の山頂にあり、松島の富山・石巻の牧山と並んで奥州三観音の一つ・奥州三十三観音第九番札所に数えられています。
 宝亀元年(770)、鎮守府将軍大伴駿河麻呂の草創と伝えられ坂上田村麻呂がこの地に堂宇を創建したといわれています。古くは霧岳山正福寺と称していましたが、嘉祥2年(849)に円仁が中興、無夷山箟峯寺と改め、以後天台宗に属するようになりました。殺生禁断・女人禁制の聖地、また奥州鎮護の祈願所として南北朝時代には葛西・大崎の両氏、江戸時代には仙台伊達藩の崇敬を受けていました。往時は21坊をもつ大寺でしたが時代の推移、また二度の火災により衰えていましたが、二代藩主伊達忠宗によって再興されました。

古川方面に向かう。

松景院:
神寺松景院は、天正19年(1591)実恵法印によって涌谷伊達家の祈祷寺として開山された真言宗の寺院です。開山以来、神仏混合の修験道を修し、御本尊は不動明王(不動尊:お不動さん)、秘仏として大聖歓喜天(お聖天さん)を奉安しております。開山当時は、田尻川と美女川とにはさまれた風光明媚な地に、梅の古木がまじった松林が生い茂っておりました。加えて川端の芽を竹に見立て、「松竹梅茂る目出たき処、ここに厄除開運の寺を建てん」との願いにより、寺の名前を『梅光山松景院』として開山されたと伝えられています。以後、災厄消除・福徳開運を祈る参詣者が絶えず、今に至っております。

登米方面に向かう。

興福寺:南方町の大嶽山には「大嶽の観音さん」と呼ばれ親しまれている「奥州三十三観音大嶽山(おおだけさん)興福寺(こうふくじ)」があります。
度重なる焼失で古い記録もなく由緒は不明ですが、一説では平安時代に一帯を支配していた豪族・大武丸(おおだけまる)を807年に征夷大将軍・坂上田村麻呂が討伐。その亡きがらを葬った塚の上に観音堂を建てたのが始まりと伝えられています。
観音堂の内陣には、伊達家の紋章である「竹に雀」が施され、奥には33年に一度だけ開帳される「本尊・秘仏十一面観音菩薩」がまつられています。また、観音堂外側の板壁には、中国の「二十四孝物語」の彫り物が色鮮やかに刻まれ、休日には多くの観光客が訪れます。
そのほか、観音堂の周囲には、薬師堂、白山堂、鐘楼、六角堂などがあり、それぞれ歴史を感じさせています。

長谷寺:

長承寺:

大徳寺:由来記によると、後白河天皇の御宇、百済国より本吉郡志津川町水戸辺浜に仏像が漂流。三条重信と称する従士が霊感を得て横山「中ノ森」に堂舎を建立して安置す。中ノ森は現地より600メートルの山中で、現在は奥ノ院と称している。当時は明王山金剛寺と号し真言宗の道場であったが、永正元年(1504年)横山村館主男沢蔵人が禅刹に改め、白魚山大徳寺と呼称するにいたった。
 大正十五年に起きた付近の出火に遭って類焼した。像は災禍から免れたが、多少の傷を負ったのが惜しまれる。現在の堂は昭和三年に再建した。本林流宝塔造りという希な建築様式を伝えている。
 参道の小川には、ウグイが群生し、昔から不動尊の御使姫として保護を受けている。ウグイは昭和十年に天然記念物に指定された。

15:10仙台空港に向かう。

17:30仙台空港到達。
18:55仙台空港出発
20:15伊丹空港到達。

今回の旅行、東北宮城県に足を運び、東北三十六不動尊霊場5箇所、奥州三十三箇所観音12箇所を巡り楽しみましたました。

先週の北海道札幌周辺の霊場と比べて、立派な寺院が多く、歴史的にも興味深いものが多く勉強になりました。

次回は岩手県の霊場を巡る予定です


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十五弾:北海道八十八箇所霊場&北海道三十三観音巡礼
2015年6月6−7日

北の北海道に足を運び、札幌から北は石狩、東は美唄に及ぶエリアに点在する北海道八十八箇所の23箇所(明王寺、蜜修寺、招福寺、弘法寺奥の院、浄徳寺、吉祥院、弘聖院、善福寺、八葉峰寺、雷音寺、覚良寺、長高寺、弘仙寺、大心寺、高徳寺、龍光寺、孝恩寺、観照寺、観霊院、真如院札幌別院、大照寺)北海道三十三観音(新栄寺、立江寺、弘清寺)の3箇所を巡りました。

北海道八十八ヶ所霊場は平成18年10月15日に開場されました。
今より1200年前、「四国八十八ヶ所霊場」が真言宗開祖 弘法大師 空海上人(以降御大師様)によって開かれて以来、鎌倉時代以降は修行としての巡拝が一般的になり、現在では全国各地50箇所以上の霊場が開場され、観光も含めて多くの方が参拝されています。

北海道三十三観音霊場は大正2年(1913)徳島市の山本ラクさんが北海道の33箇所の真言寺院に本西国霊場と同じ33体のご本尊を縮小模刻し配納することによって開創されました。

6日15:00伊丹空港出発
16:50新千歳空港到達、レンタカーで札幌に向かう。
18:20札幌市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
7日6:30レンタカーで出発、札幌市内の霊場巡る。

新栄寺:明治18年に仮堂を建設。 大本山成田山新勝寺から、ご本尊不動明王のご分身を勧請して開創されました。成田山札幌別院新榮寺の公称は明治22年からです。旧本堂の建立は明治42年でしたが、惜しくも昭和39年に焼失致しました。旧本堂規模 表口12間(21.6b)、奥行き5間(9b)初代住職は、大本山成田山新勝寺中興第14世貫首 三池照鳳猊下。

蜜修寺:当寺院は、悟りの境地(菩提心)に近づくための密教の修行道場という意味を込め『菩提山 密修寺』と名付けられました。
初代住職奥村弘淳が、少女期に病を癒すべく観音信仰に深く帰依したことが起源で、昭和59年現在地に大日如来をご本尊に奉迎し、寺院を建立するに至りました。
不動明王、地蔵菩薩、観世音菩薩、金毘羅大権現、毘沙門天、愛染明王、釈迦如来、弘法大師をお祀りし、
「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」もございます。
また、月に5回以上護摩を厳修しております。

善福寺:

吉祥院:吉祥院は水子供養・先祖供養、交通安全祈願、厄払いや護摩祈祷のお寺として広く信仰を集めております。
人生相談・心霊写真などでお困りの方、また菩提寺が無い遠い方、毎月の廻向・年回忌の廻向でお悩みの方も、お気軽にお寺にお問い合わせ下さい。
お寺には、納骨堂もございますので納骨・永代供養・一時預骨…
水子さまの遺骨の永代供養・一時預骨についてもお気軽にお寺までお問い合わせ下さい。

石狩方面に向かう。

弘聖院:一軒家を改築して勤めております。お参りは敷地内に霊場本尊を安置している大師堂があり、外からの参拝になります。普段、月忌参りに勤めておりますので、不在の時もありますがご自由にご参拝下さい。
また、おいづる希望の方は事前にご連絡下さいますようお願い申し上げます。

立江寺:覚王山 立江寺は、北海道石狩市にある高野山真言宗の寺院で、北海道33観音霊場の第10番札所です。ご本尊は「地蔵大菩薩」を、霊場ご本尊には「千手観世音菩薩」が祀られております。

札幌南部方面に向かう。

明王寺:

招福寺:当山は弘法大師1150年の御遠忌の報恩行として、夕張市より西村聖峰師が来札・開教のため昭和61年堂宇を建立した寺です。
境内には2つの池があり、鯉・金魚を飼っています。また、5m程の滝があり滝行もできます。寺宝を集めた博物館もあり、中高生
が阿字観(座禅)写経、写仏の修養に来ます。夏休みには小中校生のキャンプの寺子屋を開設しています。また、法要毎にボケ防
止の皿灸をしています。尚北海道三十六不動尊33番札所、北海道七観音第1番札所になっています。

浄徳寺:当山はもともと旭川市末広町に開基龍覚師により設立されました。のちに第二世龍敬師(小樽・龍照寺、北海道三十六不動尊霊場第29番札所)が兼務したものの本尊・仏具も全て消失しており、その後、平成9年に札幌市簾舞へ寺務所を移転。平成11年には、第三世敬胤師が就任。平成14年、二世龍敬師の発願により本堂兼薬師堂を建立しました。お堂には霊場本尊の聖観音座像と薬師如来、両脇侍には日光・月光両菩薩が奉安され、訪れた参拝者の所願成就をお守りして下さる事でしょう。現在は小樽龍照寺札幌別院浄徳寺として布教活動を行っています。

弘法寺奥の院:弘法寺は大正14年8月27日に開基黒岩貞通と貞道が祈祷所を建立、昭和6年3月30日に教会設立の許可を得ます。 
昭和36年に前市議高橋岩太郎氏及び有明有志の承認を受けて、鱒見の滝行場近くに本堂を建立して弘法寺奥之院と定め、本尊大日如来、不動明王、弘法大師を奉安しました。
柴燈護摩を毎年7月第一日曜日11時に鱒見の滝お不動さんの場所で厳修しておりましたが、国営滝野すずらん丘陵公園の造成により現在の場所に移転。古いお堂は昭和60年雪害により解体。現在のお堂は平成10年7月5日落成法要を営み本尊如意輪観音にしました。

観照寺:大正10年開基住職の佐々木観照が二十歳の時、病院に入院。病気は重い肺結核でした。日々、南無阿弥陀仏と唱えて、数年が経ち日に日に元気になり病気が治りました。
ありがたい事は多くの人に教えていかなければと思い、昭和7年佐々木家は浄土真宗の為にいかにしたらいいかと尋ね回っていた時、現在の狸小路で一人の易者の老人に会いました。その老人は札幌の真言宗国分寺派浅草寺の住職、黒田観聖僧正でした。これまでの事を全て話すと、加持祈祷のある真言宗国分寺派の弟子として入門を許され、昭和10年10月18日、現在の西岡に十畳一間の本堂を建立し、本尊に南無仏勅妙法観世音菩薩像を奉安しました。
平成10年に新本堂を建立し、同年、真言宗国分寺派の別格本山となり、平成17年には観照寺開基70周年法要を終え、今日に至っています。

観霊院:開基は終戦直後、陸軍演習地を開拓として入植。うっそうたる草木や熊笹が茂る未開の地に9尺2間の茅葺きを住居とし朝な夕な礼拝していました。 開墾にいそしむ日々を重ね昭和24年4月8日、「我、大勢至菩薩なるぞ、この地を聖地と定め人々の迷心の雲を払いのけてはくれまいか」との菩薩の霊告を信じ勢至菩薩を奉安しました。病める人、苦しむ人、悩む人々の心の支えとなるべく誓願を深く心に秘め青森、四国、高野山と行脚し精進を重ね、信徒と共に堂宇を建立しました。 
信徒の熱意溢れる力強い後押しや高祖弘法大師、諸仏・諸菩薩の広大無辺のご加護とご法縁により85番札所聖観世音菩薩を迎え、さらに四国八十八ヶ所のお砂踏みも整え、毎月12日の例祭では法話、護摩祈祷などを行い今日に至っています。
皆様のご参拝心よりお待ちいたしております。

真如院札幌別院:高野山真言宗成田山真如院は、北海道北部日本海側に位置する羽幌町に本院、北海道の中心札幌市清田区平岡に札幌分院を持つお寺です。成田山真如院本院・札幌分院では、護摩祈祷及び厄払い、大般若祈祷及び厄払い、十三参り祈祷、水子精霊供養、ペット精霊供養、檀家のご先祖精霊供養、永代精霊供養、永代納骨等ができるお寺です。

大照寺:昭和48年 寺号公称本堂を建立し開教。
昭和53年 現在地札幌の交通の要衝、大谷地に移転。
平成2年  北海道三十六不動尊霊場34番札所となり交通安全祈願所として発展。 境内には本堂、庫裡、鐘楼堂、三十三観音霊場等、七堂伽藍を擁し、特に本尊不動尊、脇仏三十六童子、不動尊三千体像、地蔵尊三千体像、観音像三百体像の荘厳を成しています。
平成18年  北海道八十八ヶ所霊場第八十八番結願札所となり全国からのご信徒をお迎えしています。仏教精神と弘法大師の教えに従い、広く檀信徒及び地域住民の憩いの場と癒しの心に基づいた活動、更なる信仰と和の世界観を発展して行くことを特色としています。

江別方面に向かう。

八葉峰寺:昭和初期。覚念法師が弘法大師様をご招来し、弘法大師温灸を始めましたことが開教の始まりです。 
当時は病気を治しますのも針灸に頼ることが多く、たくさんの信者が集まりました。 
昭和11年第一世正博和尚が高野山より帰山し此処を江別教会とし、昭和24年には本堂も建立され八葉峰寺と寺号公称致しました。現在の本堂は平成元年に改築されたものです。脇仏として不動明王様、愛染明王様が奉安されております。平成8年石狩川左岸にありました石狩川水難者を供養致します子安観音菩薩様が境内に移転奉安されました。

雷音寺:20年前のある夜に「北海道を密厳国土にしなさい・・・」とお大師様が夢枕に御立ちになった事に発します。
当山名称の由来となった天鼓雷音佛は胎蔵界曼荼羅中台八葉の北方に位置し、悪鬼を調伏し病を治す得を持ち、金剛界曼荼羅の阿しゅく如来(あしゅくにょらい)と同体です。
阿しゅく如来は薬師如来と同体ですので、当山に霊場本尊として薬師如来が来られたのは仏縁なのでしょう。まだ当山は開基6年目でプレハブの仮本堂でございますので巡拝者の方々には至らない点もありますが何卒ご容赦願いたく思います。

覚良寺:当山は、江別駅東南徒歩20分千歳川の下流堤に沿って木立に囲まれた江別煉瓦発祥の地にあります。
明治後期京都より初代覚良和尚が現在地に拠り、布教に専念し、昭和初期に寺院を建立しました。
山号を遍照閣と称し寺号を覺良寺と定めました。本堂に向かって右に事務室、庫裏、離れて納経所(煉瓦工場施設あと)、大師堂、左に納骨堂、大日如来坐像、不動尊像を置き参道左手に修行大師像を迎えています。
奥まって観音立像(下に無縁佛の納骨堂にしています)を中心に西国三十三観音を配置し巡拝路を設け、当時、高名な彫刻家高村光雲作の薬師如来像が加持室に奉安されております。
また住職手作りの切り絵「ホウライ」は本山へ送りまた近郷の寺院檀家に配布し好評を博しています。

岩見沢方面に向かう。

龍光寺:列車が志文駅に近づいた時、駅のすぐそばに龍光寺のお堂が見えてきます。平成10年、現在地を浄域として本堂を建立。災難身代わり、悪魔降伏の意を含めて不動明王を本尊とし、宗祖弘法大師を祀ります。 
平成18年に北海道八十八ヶ所霊場第82番に定められ、札所本尊千手観世音菩薩を奉安し、お遍路さんをお迎えしています。この不動尊のお守りとして、海・陸の身代り守は、影の形に随うが如くよく護られ、お守りの他、厄除、安産、自動車のお清めなどの多くの方が祈願に参詣されます。

長高寺:当寺本尊十一面観音様は開創者奥田師が大和国長谷寺から請来してきました。開基住職近藤精高師の時に寺号を長高寺と改め現在に至っています。また、第二世住職の近藤精識和尚の時代には伽藍整備を行い、子弟教育のために専修学院・事相専門道場を開設し多数の僧侶を世に送りました。
平成11年には全日本仏教教会会長であった真言宗豊山派管長 濱野堅照猊下お迎えして開創百年法要を3日間にわたり勤修し本尊様に報恩謝徳の誠を捧げました。
当寺境内を彩る百株余の牡丹は檀徒寄贈によるものですが観音様を篤心されたお礼と聞いています。観音様の霊験は遠近の方によって帰依を頂いており、大変御利益があると知られていますが現在は秘佛となっています。

高徳寺:明治30年長州の人、長尾泰寛師により開創。昭和3年高徳寺の寺号公称。初代、高田智得が大正9年に萩の山に新四国八十八ヶ所霊場建立し、参拝道の入口には修行大師像があります。
平成19年5月1日、本尊「不動明王」(総丈約3メートル)、北海道八十八ヶ所霊場札所本尊「千手観音」入仏開眼。 
本堂左手には大観音様(総丈約12メートル)あります。参道左手に握手大師(等身大)があり、お大師様と握手の後、本堂へいらして下さい

美唄方面に向かう。

大心寺:昭和26年10月、開基住職荻原湛然僧正は、弘法大師を本尊として大心寺を建立しました。翌年27年境内に新四国八十八ヶ所霊場を開設、同年7月17日、京都総本山醍醐寺座主、三宝院門跡、岡田戒玉大僧正猊下を屈請して入仏開眼の大法要を奉修、以来、大師信仰の道場として知られ、真言醍醐の教義に基いた教化活動が行われています。本堂には本尊の他、不動明王、愛染明王がまつられ、また、境内には修行大師像、子安大師像、八十八ヶ所の石仏が並ぶミニ霊場があり、弘法大師の偉徳を慕い巡拝する方も多くいらっしゃいます。 平成18年、北海道八十八ヶ所霊場開創のとき、札所本尊、千手観世音菩薩を安置し、第80番札所と定められました。

弘仙寺:明治初期から幌内炭鉱、幾春別炭鉱などいくつかの炭鉱が開鉱され活況を呈するなか、明治32年福井県から移住した山内家12代目により弘法大師像(元福井県大安寺蔵)を幾春別錦町に奉安したのが寺の濫觴。
開基は13代目山内善七。第一世妙識法尼の霊験談によれば、善七の四女ミヨは幼少の砌にわかに失明、家族共々絶望の淵に沈むも、毎夜ミヨの枕元に立つ僧侶に促されて大師堂脇の湧水で身を浄め、ひとり弘法大師に詣ずること6カ月、奇跡的に開眼しました。 医師に匙を投げられた視力を回復したミヨは、その後得度して名を妙識と改め弘仙寺第一世となる。 境内には西国三十三観音をまつっています。現在、湧水は残っていません。

栗山方面に向かう。

孝恩寺:当山は裏山に「新四国八十八ヶ所」と称して八十八体の石仏を奉安しています。
春秋二期にそのお山の山開きと山閉いとを行う法要を開催していますので、ご来山の折にはぜひ一度お山のご参拝もしていただきたいと存じます。

弘清寺:和光山 弘清寺は、北海道33観音霊場の第11番札所です。
ご本尊は「十一面観世音菩薩」を、霊場ご本尊には「准胝観世音菩薩(じゅんていかんのんぼさつ)」が祀られております。

15:20新千歳空港に向かう。
16:30新千歳空港到達。
18:00新千歳空港出発。
17:50伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道に足を運び、札幌、その周辺に点在する北海道八十八箇所の23箇所、北海道三十三観音3箇所を巡り楽しみましたました。

北海道の寺院は関西の寺院と比べると比較的小規模の建物が多く、民宿のような建物、タイル張りの近代的な建物も有り、寺院としての建物に似つかないものも多く驚きました。

レンタカーが24時間2000円の格安車を予約しましたが車は問題なかったがナビのディスプレイが小さく見難く、又電話設定しても見つからないいのが多く、住所で設定しても番地まで設定できず、目的地にたどり着くのに苦労しました。
今回のように寺院巡り、頻繁にナビ設定が必要な旅行は、車だけでなく、ナビの機能も予め調べておくほうが懸命ですね。


























飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十四弾:香川県四国別格二十霊場&四国三十六不動霊場巡礼&大島観光
2015年5月30−31日

四国の北東部、瀬戸大橋により本州と結ばれ瀬戸内海に面し、日本で一番小さい県、さぬきうどんで有名な香川県に足を運び、四国別格二十霊場4箇所、四国三十六不動霊場9箇所を訪れました。

30日12:30車で阪神、神戸淡路鳴門高松自動車道経由して津川寒川インター下車

繁昌院:一名一事不動尊と呼ばれ、方位厄難除け、学業向上、病気平癒などに霊力があるとされている。
また、境内には日本一体の石仏である馬鳴菩薩があり、縁結び、衣類の仏様。

浄土寺:一名雷不動尊とも称され、雨をもたらし、落雷除け等の霊力の他に、
衆生に落雷の如くふりかかる厄難を除きたまわらんと厚い仏恩を内蔵する。

高松に向かう。

天福寺:美応山 宝勝院 天福寺。
天平年中(729年〜766年)に行基菩薩が諸国行脚の途中この地に来られ、由佐の音谷を仏法相応の霊地であるとされ、五尺三寸の薬師如来を彫刻し、一堂を建立、安置し、美応山法輪院清性寺としたのが起源である。
その後延暦年中(782年〜805年)に弘法大師がこの寺に来遊され、真言宗の道場となった。そしてこれを信仰して四条天皇は国司橘の公忠に命じて、音谷清性寺を現在の場所に移し、寺号を天福寺と改めた。
天福寺には数多くの宝物が保管されていて、伊勢物語(後鳥羽院)御歌(後醍醐天皇)弥陀六字名号(弘法大師)薬師如来立像(行基菩薩)など、数百点に及んでいる。

不動明院:一名波切不動尊と呼ばれる四国一の立像。
瀬戸内海国鉄宇高連絡線紫雲丸の犠牲者の供養の寺として有名。

香西寺:奈良時代に行基が勝賀山の麓に庵をつくり宝幢を刻んで宝幢山勝賀寺として創建されました。その後弘仁8年(817)弘法大師が現地に移し延命寺蔵菩薩を刻んで安置し再興しました。
 嵯峨天皇(在位809〜823)の時代に勅願寺となり、朱雀天皇(在位930〜945)には僧徒学問所である讃岐談義所となりました。
 鎌倉時代にこの地の豪族香西資村が幕命をうけ堂塔を再建し香西寺と名付けました。その後細川頼之が当寺を本津(香西東町)に移し、十一代香西元資は寺号を地福寺と改称し、天正年間(1573〜1592)には戦火に遭い、国主生駒親正により再建、高福寺と名を変えました。万治元年(1658)、またも失火のため旧寺域(現在の地)へかえることになった。寛文九年(1669)、藩主松平頼重公が堂塔を整え、別格本山・香西寺となりました。その後またも失火で焼失し、現在の建造物はその一部です。寺宝の毘沙門天立像(101cm)は平安中期の作、檜の一本造りで国の重要文化財となっています。

聖代寺:僧西行(俗名 佐藤義清)は、その晩年かつて思いをはせた旧主家徳大寺家の姫君の忘形見、崇徳上皇の菩提を弔うため当地に一宇を建立された。(崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃州に配流され1164年におかくれになられている。)
後年、寿永4年(1185年)源平の合戦に敗れた平氏の臣が、当山において合戦に散った将兵の霊を慰めたとも云われている。
当山不動明王は、弘法大師御敬刻の尊像を奉祀する大本山成田山新勝寺のご本尊の分身像で、古来より霊験あらたかな「身代り厄除け不動尊」として知られており、その霊被を蒙る人は数知れない。
境内に至る石段は42段あり、厄除け坂と呼ばれる。

16:30高松駅付近のホテル到着後高松商店街を散策し食事を済ませて就寝。

31日8:00車で出発、高松港に向かう。

9:10高松港高速艇で出発。
9:35大島到達、散策。

大島:もともと2つの島が砂州で繋がり一つの島となったものです。この辺りは源平合戦の戦場になったところで、敗れた平家の墓に植えられた松が800年の時を経て今も残っており「墓標の松」と呼ばれています。源平合戦:歴史的には治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)[1180−1185年)といわれるもので、この辺りの決戦は屋島の戦い(1185年)と言われるもの。この島には「国立療養所大島青松園」の入居者と職員、その家族の方だけが在住しています。

10:30大島高速艇で出発。
10:55高松港到達。車で西に向かう。

海岸寺:宝亀5年(774)弘法大師の母である玉依御前(たまよりごぜん)がこの地に産屋を設けて大師を出産しました。大同2年(807)大師はこの産屋跡に聖観音菩薩像を刻んで安置したのが海岸寺の始まりです。大師の誕生所が第75番善通寺で産屋が海岸寺となっています。
 山門には琴ヶ浜、大豪をモデルにした金剛力士像が立っています。門を入って直ぐに安政3年(1856)再建の本坊本堂がありますが、道路を隔てて西側に奥の院があります。そこには産屋跡や奥の院大師堂があり、大師童形の御姿像、両親の佐伯公夫婦像、四天王像等が祀られていて是非とも訪れなければならない所です。
 他にミニ108ヶ所、巨岩を配したまんだら園、法句碑、四国三十六不動三十一番霊場悪縁断ち不動やお堂があり、ゆっくり参拝されれば1時間以上を要します。又、展望台は瀬戸内海が見渡せる絶景の位置にあります。

不動坊:瀬戸内海に面した屏風ヶ浦海岸に位置する。寺院は本坊と奥の院からなり、本坊と奥の院との間にさぬき浜街道とJR予讃線が通っている。
現在、本坊には山門、本堂、不動堂、鐘楼等があり宿坊と海岸寺ユースホステルを併設している。ここの山門は日本で唯一、仁王像の代わりに実際に昭和期の第二次世界大戦後に活躍した地元出身力士の琴ヶ浜(向かって右)と大豪(向かって左)の像が立っている。
奥の院には山門、大師堂、弘法大師産湯の井戸、大塔、文殊堂、そしてミニ八十八カ所等がある。

寺伝によれば、ここは空海(弘法大師)の母親である玉依御前の出身地とされる。更に空海は奈良時代後期の宝亀5年(774年)に当寺奥の院で生まれたとされており、弘法大師出化初因縁(しゅっけしょいんねん)の霊跡と言われる。
平安時代初期の大同2年(807年)空海が弥勒菩薩を刻み、堂宇を構えたのが当寺院の開創と伝えられている。弘仁6年(816年)には空海が自身の像を刻み、大師堂を建てたことにより奥の院が開かれたとされる。
戦国時代には土佐の戦国大名・長宗我部元親の進攻に遭い天正11年(1583年)には伽藍が焼亡し、天正18年(1590年)より随時再建がなされた。

妙音寺:寺伝によれば、飛鳥時代天武天皇治世の白鳳5年(665年または676年)に創建されたと言われ、讃岐国最古の寺院の一つと伝えられる。 平安時代初期の弘仁年間(810年 - 824年)嵯峨天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)によって現在の寺号となったと伝えられている。
戦国時代に入り天正2年(1574年)長宗我部元親軍の侵攻により伽藍は火災に遭った。この時、本尊の阿弥陀如来は自ら雨を降らせて難を逃れたと伝わっている。 天正の戦火で寺院は荒廃した。その後、江戸時代中期の正徳年間(1711年 - 1716年)旭応阿闍梨によって復興された。また、寛政年間(1789年 - 1801年)に清雅恵洞和尚が伽藍を整備した。
当寺院に祀られている不動明王は霊験不動尊と言われ、祈念すると夢の中でお告げがあると言われることから、別名「夢見不動」とも呼ばれている。
境内には交通事故犠牲者の霊を祀る聖観音立像があり、これは彫刻家の北村西望が監修して製作されたものである。

萩原寺:平安初期、平城天皇(在位806〜809)の大同2年(807)に弘法大師が千手観音菩薩と地蔵菩薩を刻み、千手観音菩薩を第66番雲辺寺に安置し、地蔵菩薩を萩原寺に安置しました。不動明王は大師ご自身で霊験あらたかです。朱雀天皇(在位930〜946)の勅願寺となっています。のちに細川勝元公の祈願所にもなっています。
 室町期の応永年間(1394〜1428)には真恵僧正が中興し、阿波、伊予、讃岐に多くの末寺を持つ大寺でした。
 仁王門は室町時代の管領、細川勝元公が戦勝祈願の温座護摩の祈祷を寺に命じその見返りとして奉納したものと伝えられており、屋根は本瓦葺きで門としては珍しい寄棟造りで三間一戸八脚門となっています。本堂は18世紀末の建造であり、客殿は菊の家紋をつけ屋根は茅葺きとなっています。寺宝も急就章、法華曼陀羅図、銅水瓶、金銅塔鈴、金銅割五鈷杵など多数保存されています。
 又、「萩寺」として有名で、数百株の萩は県の自然記念物となっており、見頃は初秋です。

香川県内有数の萩の名所である。境内に約2,000株の萩が植えてあり「萩寺」とも呼ばれる。毎年9月中旬から下旬には、当寺院を中心に周辺の、萩の丘公園、雲辺寺ロープウェイなどの会場で「萩まつり」が開催される。
寺伝によれば、平安時代初期の大同2年(807年)空海(弘法大師)が建立したという。この時、空海は千手観音と地蔵の2体の菩薩像を刻んだといわれる。千手観音は四国八十八箇所六十六番雲辺寺に、地蔵菩薩は当寺院にそれぞれ安置したと伝えられている。
開創から約100年後の延喜3年(903年)醍醐天皇の勅旨談義所となった。天慶2年(929年)朱雀天皇は讃州四箇談義所の一か寺に定めた。
室町時代中期の応永年間(1394年 - 1427年)に真恵僧正が中興し、室町幕府の管領・細川勝元の祈願所となった。明応2年(1492年)の記録によれば讃岐、伊予、阿波に280余寺の末寺を従える大寺であったことが窺える。

不動寺:役行者小角を祖と仰ぐ山岳修験道、不動宗の大本山。
近郷の信者からは河内不動と親しまれ、特に病気平癒に霊験が
あるとされる。亦、願王地蔵尊への参拝者も多い。

神野寺:弘仁12年(821)嵯峨天皇(在位809〜823)の勅命により決壊した満濃池の修築のため、別当に任ぜられ僅か3ヶ月で完成させました。その功績により天皇から褒賞金を賜り、満濃池鎮護の寺として神野寺を建立されました。その後再建を繰り返し栄えていましたが天正9年(1581)焼失し廃寺となりました。昭和9年(1934)弘法大師一千百年御遠忌をむかえ、満濃大師会を結成し、神野寺として堂宇の一部を再建しました。
 文化12年(1815)に、守屋吉左衛門によって作られたミニ八十八ヶ所があり散策コースに石像が並んでいます。
 満濃池は大宝年間(701〜704)に讃岐の国守道守朝臣(みちのかみあそん)により作られた日本最大最古の溜池です。その後幾度も修復され現在は周囲が約20q、面積138f、貯水量1,540万トン、提高32メートル、有効水深約21メートルあり毎年6月中旬に「ゆるぬき」(農業用に放流)が行われています。伝説に龍や大蛇、大鯉の話が伝わっています。
池の一部は現在国営讃岐満濃公園となっています。

14:30帰路に向かう。

今回の旅行、四国の北東部香川県に足を運び、四国別格二十霊場4箇所、四国三十六不動霊場9箇所を訪れました。

又高松沖の源平合戦の戦場になったところで、ハンセン病の国立療養所大島青松園が位置する大島を訪れ散策しました。



















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十三弾:長野県中部四十九薬師巡礼観光
2015年5月23−24日


本州の中央長野県に足を運び、長野県と岐阜県を中心に、山梨・愛知両県にまたがり、アルプスの山裾にいだかれ、温泉地にも恵まれた大自然のなかの巡拝コースの中部四十九薬師霊場の21箇所を訪れました。

23日12:30車で出発、第二京阪京滋バイパス名神中央自動車道経由して中津川インター下車

光徳寺:縁起 当寺は天正十一年(1583)性天和尚薬師堂隠居を開山とされている。この年は織田信長が倒れて、豊臣秀吉が大阪城を築いた年である。本尊薬師如来は慶長四年(1599)京の仏師木山が刻んだ名作である。
 正面の「光徳寺」額は山岡鉄舟書で、本堂は江戸中期、徳川吉宗の代享保十年(1725)脇本陣の林平八郎の七十五両寄進により建立され、庫裡は本堂より四十五年早く天和二年(1682)に建立されたものである。八代将軍吉宗は極端な諸事ひきしめで名高く虚礼廃止をした。その吉宗は当時の住職英厳和尚にたいして深い帰依をし内陣の千本格子に檜財を使う事を許した。
 天保年間、遂応和尚が日本で初めて人力車を考案し、この人力車は当寺に保管されている。
 文化十二年(1815)嵯峨尾小四郎が施主となり川より地蔵菩薩を取りだし忠外和尚が蓮華台を刻み当寺の延命地蔵尊として祀られている。

池口寺:縁起 当山に伝わる「光明内院瑠璃山池口寺縁起」によると、承平七年(937)四月、当地小川の邑の光明池のほとりに、近江国の郷司源義寛公が祖先追福の為、医王尊仏を迎え、天台宗明雲僧正を開山として創立したもので、その後現在地に移し祀ったと伝えられている。第十三世覚元和尚の代、建武二年(1335)火災により薬師堂を残して一切を焼失、暦応三年(1340)当地の郷司池口入道祥悟が再建したと伝えられている。天正二年(1574)禅宗に改宗、須原定勝寺より貴山和尚を請じ開山とし今日に至っている。
 薬師三尊並びに、薬師堂の作者、建築年代は不詳なるも、徳治三年(1308)覚元代の刻銘の入った鰐口(県宝)がある。
 お堂・薬師三尊の古いこと、大きいことでは木曽随一で、戦前は病気平癒を願って参詣者が多く、特に母乳の少ない婦女子の参詣者が多く、乳さずかりの絵馬にその名残りを留めている。
 昭和六十二年に一千五十年祭を行い、薬師信仰を盛り返す気運にあり、大祭は四月第三日曜日に行う。
 なお、堂の裏には西国二十三番の石仏がある。

徳音寺:縁起 当寺は平安時代の終り、仁安三年(1169)に木曽義仲公の御母堂小枝御前が病没されたので、追善供養の為に義仲公が建立した。真言宗柏原寺がその前身であります。寿永三年(1184)義仲公が粟津ケ原で三十歳の短い生涯を終えた後、大夫坊覚明(西仏上人)が木曽に帰り、柏原寺の御母と墓を並べて、徳音寺殿義山宣公大居士と贈り名し、日照山徳音寺と寺名を変えて祀られた。
 日照とは朝日将軍の謂なりと伝え、これより義仲公の菩提所となる。木曽家散乱後、天正七年(1579)大安和尚が再興し、臨済宗妙心寺派となる。慶安三年、正徳四年と二度の水害に寺内埋没し現在地に寺籍を定める。享俣五年(1720)犬山城主成瀬隼人正藤原正親公の御子、興臨和尚住職し、寺格も整い、木曽八景徳音寺晩鐘と、中山道往来の旅人墨客に親しまれ、安永八年(1779)薬師堂を建立、薬師如来並びに十二神将尊像を祀り、里人旅人の帰依を集めた。天保年間木曽家二十四代義陳公の発願により、薬師堂に義仲公像を安置し、霊廟として面目を一新した。ために誰呼ぶとなく「身代わり薬師」の名でしたしまれることとなり、病重き人の身代りとなる薬師如来として、信仰を集めている。門側の「戻り地蔵」別の名を「夜這地蔵」「赤目地蔵」「夜泣地蔵」と共に多くの信者を集めている。

塩尻に向かう。

18:30塩尻駅前のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

24日7:00車で出発、松本方面に向かう。

瓊林院:縁起 本尊聖観世音菩薩。 当山は、元応年中(鎌倉後期1319-20)白河郷地頭であつた藤原惟の孫の山川十郎有忠長福寺殿の氏寺として建立され、一族の香華寺とされた。もとは西南におよそ三の寺沢(中村の下)にあり、“長福寺″と号し鎌倉建長寺末に属していた。天文年中(1532-54)武田と小笠原の桔梗ケ原での兵戦に罹って諸堂全て焼失したがその後、再建された。しかし無住であり幾多の氾濫によって腐朽し御開山諸書付などを失った。
 寛永六年(1629)泰嶺玄未和尚法嗣月巌祖芳禅納が住まわれて、行基菩薩の作と伝えられる落馬の薬師如来の(同12年3月11日)御堂を中村に再建された。その後、諸堂宇を再建し開山とした。その折、温泉寺末となり、臨済宗妙心寺派に属した。
 なお百瀬に諏訪高島城主が、寛文九年(1669)観音堂を建立し当寺をその別当職に任じた。寛文十三年五月十日諏訪出雲守忠恒三男従五位下諏訪壱岐大守朝散太夫源頼久公拝領後、僧を慕った。
 元禄十四年頼久公は娘の瓊林院殿の喪にあい、位牌を安置し供養し一周忌の折、頼久公は自らが開基となつて和尚に寺を現在地に移させ、“松泉山瓊林院”と号を改めた。
 亨保元年(1716)薬師堂が大破し、同五年当寺境内に移築された。その後、昭和四十四年に改築された。

上田方面に向かう。

常楽寺:縁起 天長二年(825)に比叡山延暦寺座主慈覚大師が開創した霊場です。安和二年(969)平維茂は一山を修理し三楽寺・四院六十坊を増築したと伝えられる。三楽寺(常楽寺・安楽寺・長楽寺)の一寺として建立されました。
 本堂が北に向いているのは全国でも珍しく、これは天長二年(825)突然この地に大火坑が生じ煙を上げたため、慈覚大師は秘法を修してこれを鎮めた時、観世音が出現し温泉が湧きだした際「北斗星が世界の依怙(よりどころ)となるよう我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」というお告げがあり、大師は千手観世音を刻み火坑出現の観世音を胎内に納め、堂宇を北麓に建立して尊像を奉安しました。今日では厄除の観世音として多くの人々の信仰あつめ参詣者で賑わっている。

満願寺:縁起 愛宕山満願寺は戦乱にあったのか風水害なのか、縁起は不明とされている。愛宕山の山号は火伏の神として深い信仰がある。本尊の薬師如来像は脇に十二神将を従えている。薬師如来像は金色に輝く見事な造りは往時の繁栄を偲ばせる。又、十二神将の寺としても近隣に広く知られている。十二神将は薬師如来の十二の大願に応じて現れるとされる。

中禅寺:縁起 当山の創建年次等は二度の災禍により不明であるが、空海上人がこの地をおとずれた際、この地が飢饉で農民達の苦しんでいる姿を見て小さな草庵を結んで雨乞いの護摩修行をされたのが始まりと去れる。現本堂は享保十九年、中興開山祐精法印により再建された。
 木造薬師如来座像(国指定重要文化財)は、薬師堂の本尊として堂中央の内陳に安置されている。台座、光背を含めて重文に指定されているが、台座の上敷茄子の天坂の表裏に画かれている武者絵があるところから、鎌倉時代初期の作と推定されている。この仏さまは医王薬師として、病める衆生の心の支えになっていた。奈良二月堂の薬師如来をしのばせている。また塩野神社の本地仏でもある。
 カツラ材、寄木造り、像高九十七・七センチ、実に自然で均整の取れた優雅な像で藤原時代の定朝様式をよく伝えている。
 なお、中禅寺薬師堂(国指定重要文化財)は、鎌倉初期の中部日本最古の建築として貴重な遺例である。

妙見寺:縁起 当山は真言宗智山派に属し、鳴竜山密厳院妙見寺と呼ぶ。今から八百年前、即ち文治元年(1185)に当地の豪族、嶽石三郎平胤盛が、この村の鳥屋地籍に一宇を創立して、大日如来と妙見尊の二仏を安置し、法相宗の僧完光和尚を初代住職とし、帰依せしめた。その後正応年間には鳥屋地籍から小沢根というところに移され、更に小沢根地籍から現在のところに三度移されたが、妙見尊の霊験顕たかな御加護によって、一度の火災や天災にあわず現在に至っている。当山が三度日に移された応仁年間に本堂移築の際に画家秀山信尹を招いて本堂外陣の大天井に上下竜二頭を画かせ、その下で拍手を打たせ龍鳴を聞かせた。これが鳴竜で当時日本四方鳴竜のうちの南鳴竜である。ちなみに日本四方鳴竜とは、日本の東西南北にあって、東は日光山、西は京都相国寺、南は当山、北は青森にあったが、明治初年に焼失して現在は無いので、講が出来るほど盛んだった鳴竜も、三ケ所になってしまった。寺伝によると、宝暦年間あたりより当地方では薬師信仰が盛んで、当山薬師は「なで薬師」といわれ、一位のなで木で痛いところを撫でると、たちどころに治ってしまうというところから、なで薬師として近郊の信仰を集めた。

宝蔵寺:縁起 当山は通称「岩谷堂」と呼ばれており、平安時代の初期(承和元年834)比叡山第三代座主慈覚大師円仁によって開かれ、御本尊は大師御謹刻の聖観世音菩薩で信濃三十三観音霊場第二十三番の札所になっております。
 朱塗りに映える現在の堂字は徳川時代中期の今から230年程前、安永六年の建立で以前は本堂裏の現在奥の院と呼ばれている洞窟中に安置されておりました。境内は急峻な岩山の中腹に位置し、展望・風光共に優れ、又樹齢800年の「義仲桜」を中心に春の花、夏の緑陰、秋の紅葉、冬の雪景色にと四季折々風情を楽しませてくれます。
 お薬師さま岩窟中に安置されており、昔から小石に願いごとや真言を書いて祈願したあとがあり、沢山の小石が積み重ねられておりますが参拝に不便なために平成17年に新しく御尊像を迎えてお堂を建立いたしました。

信濃国分寺:縁起 「国奉らかに人楽しみ、災を除き福至る」を祈念され た聖武天皇の天平十三年(741)勅願により、国ごとに国分寺が建立されたが、信濃国分寺は信濃の国の鎮国道場として、また庶民の心のよりとこ ろとして千二百余年の法灯を今日に伝えている。
 現在の国分寺は、薬師如来(行基作と伝えるが不明)・日光月光 両菩薩・十二神将を安置する県下でも善光寺に次ぐ規模の本堂薬師堂をはじめ、三重塔(国重文)・鐘楼・仁王門・宝蔵・大黒天堂・地蔵堂・観音堂等の堂塔伽藍がそろい、一月八日の縁日にちなんだ「八日堂のお薬師さん」の名で近在の信仰を集めている。安産・当病平癒・厄災除等の霊験があらたかであり、また縁日に授与される蘇民将来のお守りは、薬師如来と関係の深い蘇民信仰に基づいた護符で、家門の安泰と繁栄を願うものである。

長野に向かう。

善光寺:善光寺本坊大本山大勧進は、開山本田善光公以来代々善光寺如来に奉仕して永く別当と大勧進の両職権を持ち昔より如来開帳の法務に任じてきました。千幾百年の伝統を誇る寺であると共に全国の信徒から尊崇を集められる善光寺貫主大僧正猊下のお住まいでもあります。弘仁の頃、伝教大師が信濃路巡化のみぎり、善光寺如来の宝前に参籠せられてより爾来天台の宗風により今に至る。善光寺本堂における正月のゆかしい行事を初め、戒壇めぐり等もそれにちなむと伝えられております。大勧進には、寛政五年(1789)に建立された立川流初代和四郎富棟、富昌親子 による10万石の格式の「表大門」はじめ「萬善堂」「無量寿殿」「護摩堂」「霊碑堂」「紫雲閣」など諸堂 があり、明治、大正、昭和天皇が御巡幸のおり御駐輩所に当てられた「行在所」、茶亭「沈香亭」があります。また、貴重な仏教関係の古書、経典 、絵図面など展示している「宝物館」があります。現在大勧進の塔中には二十五ヶ院堂々甍を並べ、本坊と共に善光寺の法灯護持にあたっています。

諏訪方面に向かう。

照光寺:縁起 開創不詳.延喜式にみえる岡谷牧の所在地として古くより中央と関係のある古寺院があったことと思われる。後世、当山は京都嵯峨大覚寺の門跡寺院直末となったこともある。応永二年(1395)五月、下神宮寺憲明法印が再興し、薬師如来が安置された。
 文明年間に、今井兵部兼貫(文明十年五月十四日寂)が再建し、享徳元年(1452)に紀州高野山金剛峯寺の末寺に加わり、諏訪下社神宮寺の門末となる。室町時代には薬師十二神将にちなむ塔頭蓮華坊(元和二年退転)以下十二坊を擁する大寺で、現在の成田公園東方一帯を占めていたが、宗順法印のとき戦国の兵乱で罹災し、天正元年(1573)四月に俊豊法印が中興した。俊豊は永録十二年十二月(1569)当寺裏鬼門除として橋原薬師堂を建立した。

平福寺:縁起 大同年間(806〜10)弘法大師が諏訪神社別当神宮寺とともに創建した古刹である。その後、応永年間(1394〜1428)憲明阿闍梨が中興した。天正年中(1573〜92)織田勢が諏訪に侵攻し灰燼に帰したが当時の安養坊を本営にあてたため兵火を免れた。慶長末期、二度の横河川の氾濫により全てが埋没した。当時の住職は「遂に竜宮に到れり」と口碑に記す。以後現在地に移転する。
 平成八年、中興第一世憲明大和尚の六百年御遠忌を期して、第四十一世聖仁和尚が記念事業の一環として寺院の一新を成し遂げる。

温泉寺:縁起 当山は初代高島藩主諏訪頼水が、領下の中心地・諏訪に菩提寺の創建を欲したが、その完成を観る事無く病没し、亡父の遺志を継いだ二代藩主忠恒によって、供養を兼ねて八年後の慶安二年(1649)に創建された。創建の年代には二説あって寛永十七年頼水開基の説もあるが、忠恒の孝心が頼水に開基の名誉を譲ったものと解釈する向きが多い。開山和尚には頼水と忠恒が深く帰依した泰嶺玄未が迎えられ、温泉寺は高島藩の菩提寺として代々藩主の手厚い保護を受けた。寺は元文二年(1737)と明治三年(1870)の二度火災にあっている。現本堂は高島城本丸内に文政十年(1827)新築された能舞台を移築したもので、本舞台・後座(現仏壇)地謡座などの遺構を残し、能舞台そのものの建物である。
 温泉寺創建前から、この地には豊富な温泉が湧出し薬師如来を祀る『薬師の名湯』として眼病治療の霊場でがあった。当山二世通方和尚代に藩主忠恒から賜った、この地に隠寮として吸江院(現・指月庵)を建てた。
  近くには上湯・平湯・中村の湯などがあり、これらは温泉寺の湯と総称され、「薬師の名湯」といわれ豊富な温泉と信仰の関連を伺わせている。

長圓寺:縁起 本尊・金剛界大日如来、開山・慶尊阿闍梨、開創・慶安二年(1649)
 現在穴山にあるが、もとは玉川山田の外屋敷にあった小堂が長円寺の前身である。入山した慶尊阿闍梨は寛文九年高野山金剛峯寺金剛頂院の本尊を相続して創建し、さらにいまの穴山に移築、要穴山長円寺胎蔵院と号した。寺格は各院。慶尊は俗姓大和氏で、筑摩郡高出村の大和小兵衛の子であった。大和氏はもと金刺氏に出で、諏訪郡大和城の城主で大和監物はよく知られている。天文年間、武田氏が諏訪を侵すや大和氏の一族は筑摩郡に逃れた。小兵衛は監物三代の孫と伝えられ、武田備前守の甥である。武田備前守は信玄の弟で、兄の意に背き、筑摩郡に流されたと言われている。
 観音堂には、明治の俳仏毀釈のとき、諏訪上社神宮寺から移された薬師堂の本尊薬師如来をお祀りしてある。この薬師如来は像高九十一・五センチ、ヒノキの一本造りの立像、素地のままで彩色はない。三河国鳳来寺の薬師と同木同作と言われている。
 百体観音は、十五代法印祐慶のとき造立したもので、石工は菊地道悦、慶応二年に落慶している。道悦は後に医者となった人で、石仏はいずれも儀軌を踏孝えた端正なもので、見事な深い彫りを示している。塀ぎわに並ぶ石仏碑と共に、白眉のものと言って差し支えない。

清光寺:縁起 当寺は、平安時代、仁平元年(1151年)に信立寺と称し、逸見玄源太清光の創建になる天台宗寺院で、清光の没後、清光寺に改められた。その後、文明七年(1475年)、興因寺(甲府市)二世悦堂宗穆和尚が改山となり、曹洞宗に改め、現在に至る。
 清光は 甲斐源氏の祖、新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)の孫にあたり、最初、常陸国武田郷(茨城県ひたち市)にいたが、父義清と共に甲斐国市河庄(西八代郡市川大門町)に配流となる。
 その後、谷戸城を築き逸見郷を中心に勢力を広げ、国中を手中に治めて甲斐の国一円を統一し、甲斐源氏としての基礎を固める。次男信義が名門武田家の祖となる。
 現在の堂宇は、江戸中期に建てられた総門、山門、本堂を中心に総ひのき造りの庫裡、開山堂・位牌堂を併設した檀信徒会館などがあり、特に本堂は十三間・九間という本山なみの大伽藍を誇る。
 本尊は薬師如来、寺宝に勝頼公制札等。本堂裏山に開基清光公の墓地。境内には芥川龍之介の句碑、樹齢200年程のしだれ桜、大島桜、八重桜、こぶし、紫陽花などがあり、花の時期は大変美しい。

江音寺:縁起 当山の江音薬師如来は、大安寺の深山薬師を移されたものと伝えられている。
 大安寺は延喜式主税式により建立された官立一大古刹であったと寺伝されている。たまたま、永録八年五月集中豪雨による山津波によって、大安寺の堂宇は押し流されてしまったが、薬師堂と阿弥陀堂のみは災害から免れ残されたと言う。
 慶長七年、諏訪藩家老千野家によって江音寺が造建されるに当り大安寺にあった阿弥陀如来を迎えて本尊とし、先の深山薬師如来を瑠璃殿にお祀りしたと言う。日光菩薩・月光菩薩・十二神将等は、逐次加えられたものと推察される。
 眼病に霊験ありとされ、信仰を集めている。

高徳寺:縁起 千年以上の寺として伝えられ現存まで三度所在地が変わる。開山は伝教大師(最澄)が東国巡化の際、信濃の国に十四ケ寺創建された一ケ寺、雲龍山清水寺と称し天台宗七堂伽藍壮大な寺、七十三代憲俊法師が高野山より来寺、寺門繁栄の為町中に移転、妙雲山高徳密寺と改称、弘法大師大衆信仰寺院にて繁栄、天正十年織田信長信濃進攻兵火に焼失、貞享年間に現在地に移し元文元年八棟壮大伽藍建立するもその後二度の類焼に会い現在の建物は昭和九年の建立である。境内には三百年前の高徳な信仰を偲ばされる大宝篋印塔と大石仏は他に類がない。
 寺宝秘仏の薬師如来、香玉観世音菩薩、不動明王は高徳威神力を持って一切衆生に縁結び、除病延寿、福徳円満の現世利益を授ける霊験あらたかな仏様として本尊様と共に崇拝される。
 又近くには延命薬水の弘法様の泉、良縁、安産、福徳円満諸願成就の祈願尊基の天龍界有り。

無量寺:縁起 本尊は薬師如来である。無量寺は、後堀川天皇元仁元年(1224)亨賢和尚の開基創建によるもので、現在に至るまで五十世七百五十年を経ている高野山真言宗の寺である。元仁元年と言えば鎌倉幕府の実権が執権である北条氏の手に移り北条泰時が大軍を率いて京都に上った承久三年の三年後である。以来悠久幾星霜移り変り戦乱を経て檀信徒の厚い敬護のもと今日に至っている。この無量寺には造立以来千余年と言われる重要文化財、阿弥陀如来像が安置されているところから、元仁元年以前からあつたのではないかとされ、阿弥陀如来を守護するために建てられた別当寺であつたことが伺える。
 脇仏として 観世音菩薩立像と地蔵菩薩立像が安置されており、同時代(鎌倉時代後期)の作とみられている。脚下に天竜川、遠くに南アルアス連山、伊那谷を望む風光明媚な誠に閑静な浄域である。
 又、当寺には本四国八十八ケ所の本尊掛軸あり御砂踏巡拝が出来近隣の信者の信仰を集めて居ります。本堂前庭には樹齢三百五十年を越えるイチイの銘木、宝船がある。

香福寺:縁起 当山は第四十五代聖武天皇の御代天平十七乙酉年(745)行基菩薩衆生済度のため当地方に来錫し給い、当山に不思議なる巨岩ありて妙水自然に湧出するを見給いて、これを薬師如来の薬壼石と名付け、この岩の下に一宇を造りて堂前の樫樹を以て薬師如来像を謹刻し、医王山幸福寺と号し給い、法相・三輪の二宗を演説し、国家安穏の道場となし給えり。
 その後、第五十一代平城天皇の御宇、大同二丁亥年弘法大師、当山に来たり給い大日如来を本尊とし、真言宗を以て正宗とし、法相・三論の二宗を兼学とし給いしにより三学院なる号あり。

仲仙寺:縁起 弘仁七年(816)慈覚大師は霊夢に導かれ信濃国の山中にて霊木に十一面観世音を刻み、経ケ岳の山頂、岩屋堂へ奉安する。
刻みくずに経文を書写して埋めたことから経ケ岳とよばれ、貞観元年(859)に藤原法印が山麓に堂宇を建立し、御本尊を移還して御躰山神社の別当寺(藤宝寺)とした。時代の変遷により仲禅寺と変り、慶長五年(1600)に羽弘山仲禅寺と改称し、時の住職尊盛和尚をもって中興開基とし、慶長十八年(1613)本堂を現在地に再建された。寛永十一年(1634)には寛永寺末となり、仲仙寺と改称している。現在の本堂は安永七年(1770)に再建された豪壮な建物である。
 本堂回廊の、小さな祠に安置されている石仏薬師如来像は、弘法大師御作と伝えられ、その御影は御身を削られたのか痛ましいお姿であるが、往古から諸病平癒、特に眼耳鼻の病に霊験あらたかなり。
 且ては、お薬師様の御身をいただき、お守りとして身につけたこともあったのではとも言い、又、自分の使っていたお椀に穴を開けて奉納し、眼耳鼻等の治癒を願ったところ、その霊験利益は誠にあらたかであったと伝えられでいる。

17:00帰路に向かう。

今回の旅行、信州長野県に足を運び、大自然の中に位置する中部四十九薬師霊場の21箇所を訪れ楽しみました。

山の裾野に位置する霊場がほとんどで人気も少なくひっそりしていましたが、善光寺だけは多くの方が参拝に訪れ活気に満ち溢れていました。さすがだな!と感じました。

次回は岐阜に点在する中部四十九薬師霊場を訪れたいと思います。



























飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十弾:徳島県四国別格二十霊場&四国三十六不動霊場巡り  2015年4月25−26日

四国の東部に位置し、阿波踊り、祖谷狭、鳴門の渦潮などで有名な徳島県に足を運び、四国別格二十霊場の6箇所、四国三十六不動霊場の14箇所をめぐりました。

四国別格二十霊場:四国は弘法大師の御生誕の地でもあり又御修行の地でもあります。御大師さまにまつわる信仰や伝説にもとづいて開かれた寺々は、八十八カ所霊場以外にもたくさんあります。
 別格霊場はその中でも御大師さまとご縁の深い寺院二十ヶ寺が結集した霊場です。この霊場の中には弘法大師さまをご本尊とする寺院も多くございます。

四国三十六不動霊場:徳島県・香川県・高知県・愛媛県内にある36箇所の不動明王霊場寺院の総称で、 弘法大師の生誕の地の四国に、お大師様が深いご縁で結ばれた不動様の霊場を開こうと、霊験ある不動明王が祀られていられる寺院36ケ所が、平成元年に結集し霊場を開いた。年中行事として、春には「不動の火祭り」と称し大柴灯護摩が行われ、秋には霊場会公認の先達会が行われる。

25日12:30車で出発、阪神神戸淡路鳴門自動車道経由して鳴門インター下車、

大山寺:武烈(ぶれつ)天皇(在位498〜506)、継体(けいたい)天皇(在位507〜531)の頃、西範僧都(さいはんそうず)が開基した阿波仏法最初の道場であり、阿波屈指の古刹で阿讃山脈の大山(691m)の中腹にあります。
 後に弘法大師が四国霊場開創の根拠地として堂塔を整え仏王山と名付け、恵果和尚から授かった千手観世音菩薩を安置したといわれています。
 寿永4年(1185)源義経が屋島合戦の戦勝祈願をし、江戸時代には阿波藩主蜂須賀家の祈願所となっています。
 戦国時代の七条城主・七条兼仲公にまつわる行事としての「力餅」は400年の伝統を誇り、大鏡餅86kg(三方を合わせ169kg)を抱えて歩く距離を競うもので、毎年、1月の第3日曜日に行われています。
 又、開運招福の寺、男女縁結びの寺として知られ、山頂から四方を見渡せる徳島百景の一つになっています。
 国の重要文化財として大治元年(1126)の銘のある経筒があり、義経の愛馬薄雪の墓があります。

蜜厳寺:徳島県徳島市にある寺院である。宗派は高野山真言宗。本尊は新居不動。山号は降魔山。四国三十六不動尊霊場十三番札所。別名は不動院。

東禅寺:

童学寺:飛鳥時代に行基が創建し、弘法大師が幼い頃、この地で書道や密教の学問を修得されたことから寺号を童学寺と称されています。
 日本の民衆教育の最初である「いろは歌」47文字を創作されたと伝えられています。
 大師が42才の弘仁6年(815)、再びこの地を訪れ堂宇を整え、薬師如来、阿弥陀如来、観音菩薩、持国天、毘沙門天、歓喜天を刻み安置されました。本尊薬師如来は藤原時代の作で国の重要文化財となっています。
 その後、天正年間(1573〜1592)兵火に遭い焼失しましたが、元禄年間(1688〜1704)に幕府の援助で再建されています。
 納経所裏手の逍逢園入口に大師が硯の水を求めた泉があり、お加持水として諸病に効き、書道上達の霊水として伝えられています。
 現在、念珠の親玉はここ童学寺のみでいただくことが出来ます。

明王院:

明王院:

最明寺:弥天山 最明寺(さいみょうじ)は徳島県美馬市にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。開山を行基として天平年間(729年〜748年)に創建された。この寺には、北条時頼が滞留したという伝説が残されている。本尊は聖観音菩薩。阿波西国三十三観音霊場第33番および四国三十六不動尊霊場第3番の札所になっており、多くの参拝者が集う。

徳島市に向かう。

16:40徳島市内のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

26日7:30車で出発海部方面に向かう。

鯖大師本坊:行基が開創し、弘仁年間(810〜824)この地を訪れた弘法大師が、馬の背に塩鯖を積んだ馬子に出会い、塩鯖を乞われましたが、ののしられ断られました。馬子が坂まで来たとき、馬が急に腹痛で苦しみ倒れ込みました。馬子は懺悔し大師に鯖を献じ、馬の病気を治して下さるように頼みました。大師は馬にお加持水を与えると元気になり、塩鯖を海中に放ちお加持すると蘇り沖に泳いで行きました。そこで発心した馬子は出家し、大師の弟子となり庵を建てて人々の救いの霊場としました。これが鯖大師の由来で、鯖を3年食べないことにより子宝成就、病気平癒の願いごとがかなえられるといわれています。
 境内には鯖を右手に持った大師像が建っています。護摩堂の洞窟の中には不動尊祈願道場があり石仏や写真が並んでいます。

那賀方面に向かう。

正光寺:

勝浦方面に向かう。

慈眼寺:弘法大師が延暦年間(782〜806)に開山したと伝えられ、本尊十一面観世音菩薩は大師作と伝えられています。弘法大師19才の時、世の中の人々の生活苦、病苦及び一切苦厄を除くために修業中、夢の中でお告げがあり、鍾乳洞を発見し邪気払いのため護摩供の修法を行い、堂宇を建てて霊場としました。
 山岳修験寺として有名で洞窟での「穴禅定」が行われています。約2億5000年前に形成された100m程の洞窟で導師の言われる通りにしないと進退窮します。無事にお参りできると「無病息災で長患いをしない」「金運、開運が成就します」「入試、安産、交通安全の成就ができます」といわれています。費用は1500円で1時間前後を要します。
 又、慈眼寺は第20番鶴林寺の奥の院となっていて、途中一心橋を渡ると「潅頂ヶ滝」(別名御来迎の滝)があり落差約60mの名瀑です。深山幽谷の世界にあり、境内からの眺めは絶景です。

健治寺:徳島県徳島市入田町の西龍王山にある寺院。山号は大滝山。宗派は東寺真言宗。本尊は金剛蔵王大権現。四国八十八箇所霊場の第十三番札所・大日寺の奥の院。四国三十六不動尊霊場第12番札所。

加茂不動院:

長善寺:

不動院:

箸蔵寺:天長5年(828)弘法大師がこの地を訪れ、この山で金毘羅大権現の御神託を受け、七堂伽藍を建立し、御本尊金毘羅大権現を刻まれて奉安されました。讃岐・金刀比羅宮の奥の院です。戦国時代には兵火に遭いましたが復興を重ね、以来千有余年の法灯を継ぎ広く信者を集めています。
 又、お寺は箸蔵山(600m)の山頂近くにあり、本殿は銅板葺き八棟造りで小天狗と鴉(からす)天狗の奉納額が掲げられており重厚で、左甚五郎の弟子の作といわれる彫り物は素晴らしいものがあります。護摩堂、薬師堂、観音堂、鐘楼と何れも古く江戸時代の歴史を感じさせる四国霊場の中でも有数の大寺です。
 又、年間を通して数多くの法要があり、特に「箸供養」は全国的に有名であり、大師は金毘羅大権現より「済世利民」のご神託を授けられ、「箸を挙ぐる者、我誓ってこれを救はん」という言葉で表されています。つまり、「全ての人々を救済する」ことを全ての人が使っていた箸にたとえています。これが箸蔵寺の名前の由来となっています。又、護摩供養は朝夕欠かさず2回行われています。又、正月三ヶ日は特別護摩供養を行っています。
 境内一帯は県立箸蔵自然公園となっており眼下に四国三郎・吉野川を見下ろす景勝地となっています。

蜜厳寺:

大瀧寺:奈良時代の神亀三年(726)行基菩薩が、塩江より阿讃山脈五峰の一つ大滝山(940m)に登り、一宇を建立して弥陀三尊を安置されました。平安時代の初期、延暦10年(791)弘法大師がこの地で求聞持修法を修法し、弘仁6年(815)弘法大師42才の時2度目の修法をされ伽藍を再興いたしました。2度目の登山のときに、現世の男女厄難消除、万民安楽の為に、西照大権現の御尊像を安置し、法華経を一石毎に書き、男女厄流しの秘法を修されました。
 又、天安2年(858年)聖宝尊師(理源大師)が登山され、厄除厄流の大護摩を修法され、その法が今に受け継がれ厄流しの寺として有名です。又、第88番大窪寺が東にあり東大窪寺、西大瀧寺と呼ばれています。

16:30帰路に向かう。

今回の旅行、四国の東部、徳島県に足を運び、四国別格二十霊場の6箇所、四国三十六不動霊場の14箇所をめぐり楽しみました。

四国八十八箇所霊場よりも小ぶりで地味な霊場をイメージしていましたが、なかなか立派、お参りに来られる方もたくさんおられ活気に満ちあふれていました。四国の霊場めぐり、四国八十八箇所だけでなくその他の箇所も人気ですね。















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八弾:九州八十八箇所巡り観光第三弾  2015年4月11−12日 

九州八十八箇所巡り第三弾、九州南東部に位置する日本の県。県庁所在地は宮崎市。 県木「フェニックス」に代表される南国情緒豊かな気候から、1960年代には日南地区を中心とした新婚旅行のメッカだった。現在も春季のプロ野球などのキャンプ地として知られる宮崎県の霊場12箇所をめぐりました。

11日14:35伊丹空港出発
15:40宮崎空港到達、レンタカーで日南方面に向かう。

潮満寺:潮満寺は日南市を一望する津ノ峰の麓、油津港が眼下に見える高台にある。「日南地誌」「近世飫肥史稿」によれば、飫肥藩では最も猛烈に廃仏毀釈を実行したと伝えている。潮満寺は長満寺と称し願成就寺第6世重翁法印が1636年に再興し願成就寺の隠居寺とした。碑名に中興法印重翁とあり当初の創建年代は不詳である。明治5年の廃仏毀釈で廃寺となり。明治33年(1900)第27世俊照法印は廃寺再建に奔走、明治41年7月油津に大師堂を建立し大正5年(1916)現在地に移転、本堂・護摩堂を建立した。昭和9年(1934)28世俊範法印は願成就寺の廃寺となった末寺13ヶ寺と建(見)法寺を合わせて現本堂を再建し、寺号を潮満寺と改称して総本山金剛峯寺直末となった。
中本山春日山願成就字は、日南市飫肥に天正年間に藩主伊東祐兵が飫肥城の鬼門の守護と戦勝祈願の意味を込め、僧勢誨を開基として創建し禄高150石を以て遇した。明治5年3月18日付け廃仏毀釈の令が元飫肥藩庁から発令され、他の全ての寺院と共に廃棄された。幸いにも唯一談義所と称された願成就寺の本堂だけが焼失されなかった。願成就寺は28世俊範法印の実弟が継承した。 潮満寺の本尊は波切不動で一願成就を祈願し、厄除け、福徳息災、海上安全、大漁祈願の仏として、また、身代わりの仏として日夜に済度の働きをされている。その霊験に多くの信仰をあつめている。

西明寺:港の入り口に、虚空蔵菩薩を奉る児島山を有する遠洋漁業の基地の港町、目井津。その町の西の山腹に40番札所、西明寺はあります。西明寺のご本尊は不動明王ですが、霊場のご本尊としては、勝軍地蔵菩薩をお奉りしています。このご本尊、廃仏毀釈以前は南郷町内榎原神社に奉られていた仏様で、信仰深い方のおかげで難を逃れ、西明寺にてお奉りすることになった仏様です。西明寺の境内には、JR日南線が通っております。ご参拝の際には、十分気をつけて下さい。先述の虚空蔵菩薩様は、奥の院になっております。100mほどの石段になっております。

17:30宮崎市内に向かう。

長久寺:山号は蓬莱山。本尊は六観音を祀っている。蓬莱山城跡の山麓に位置し、創建年代は未詳だが、室町末期に作られた木造観音像6体と弘法大師像1体が残っている。像の頭部内面や台座に永禄6年(1563年)、奈良宿院仏師源次などの墨書銘がある。
また、天正15年(1588年)在銘のある六地蔵幢、同16年在銘の板碑がある。江戸期の寺歴は未詳だが、慶長6年(1602年)の板碑は残っている。明治4年神仏分離により廃寺となった古城町の今福寺の寺号を称したが、大正14年長久寺と改め現在に至る。

香泉寺:6番貫川寺さまより、車で1時間弱。国道から少し入ったところに香泉寺はあります。近隣にはマンションや商業ビルもあり、宮崎市街の賑わいを感じつつも、決して広くない境内に一歩足を進めると、その喧騒を忘れてしまうような野鳥のさえずりも耳に出来ます。開基については歴史的詳細は明らかではありませんが明治後期に高野山より回教で訪れた龍雲和尚が、近隣のお堂にあったお大師さまを現在地に移遷して香泉寺を建立し、既に大正末には『丸山の高野山』『江平のおだいっさん』として多くの方の信仰を集めていたようです。現在の本堂は昭和55年6月に落成。

18:30宮崎市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
12日7:00レンタカーで出発、日向・延岡方面に向かう。

貫川寺:延岡より日向灘を望みながら、国道10号線を南下し宮崎に向かう途中の国道沿いに、第36番貫川寺はございます。 本尊は十一面観世音菩薩。 立像と坐像がございます。 立像は、その昔、九州連山の尾鈴山に祀られておりましたが、昭和の初期に当寺のご本尊としてお迎え致しました仏像であります。 
坐像は、黎明の時代とされる21世紀を迎え、人々の魂の目覚めを念願し、黎明十一面観世音菩薩と名付けて、平成16年に安置致しました左手に金剛鈴を持つ仏像であります。 境内には、三界萬霊の供養処として、水掛六地蔵尊・十一面観世音菩薩・水子地蔵尊、安産と子供の健やかなる成長を願う子育大師像を安置しております。

行真寺:当山は大正十三年に行真和上によって開山されました。現在の本堂は平成10年に完成。先代住職順教和上の設計をもとに現住職が建立。宝塔をイメージした八角形をしています。南東方位を正面とし。朝日が本尊に当るようになっています。一階は空手道部の練習場として使用。二階が本堂となっています。行真寺は尾鈴山脈を背景に日向灘を望む高台に在り、朝夕6時の梵鐘の響きに、朝は日向灘の陽光に鳳凰の舞いを顕現し、夕は何事もなかったかのように地球を愛しく包み憩いと安らぎの世界へと誘います。 思想、宗教、国境を越え宇宙真理に生きる。全ての命は皆一つ、霊性(本性=神性の愛、仏の慈悲)を開発したい。自らの生命の要求に応えたい。等々。今この瞬間に胸のときめきを覚える方は行真寺の門をたたいてみて下さい。

中野寺:はまぐり碁石の里あたりから赤岩川に沿って右岸をさかのぼり寺標を左へ、急な坂を上った所に中野寺はあります。 
山門を入り境内には不動明王・地蔵菩薩・慈母観音などたくさんの仏様をお参りいただけます。
御本尊は阿弥陀如来です。春にはたくさんの桜が参拝者をお迎えしてくれます。 

永願寺:門川町は、延岡市と日向市の間にあり、当、永願寺は日豊海岸国定公園である遠見半島、細島半島、乙島を見下ろす高台にあります。創建は、平安時代にさかのぼり、嘉祥元年(848)に江田城主草野大膳弘利が四海安徳を祈願して、能円了孝和尚によって開山しました。
御本尊「薬師如来像」は奈良時代の高・行基の作とも伝えられています。薬師如来は修行中、人の生存をまっとうし、衣食住の生活を安穏にし、病苦不具などを祓うとしてこの12の大願をたてた、この事から万病を治し、人の寿命を延ばし、医薬を司る仏として信仰されてきましたが、まさに現在も多くの人々に敬拝されています。

龍仙寺:当山は、今から約400年前、大和国より訪れた谷山覚衛門により、修験の道場として開かれました本尊に鎌持ち大黒天(右手に鎌を持つ)、荼吉尼天を安置し、農家の方の篤い信仰を受け、また藩主の祈願所として加持祈祷に専念したものと聞いております。現在でも修験の教えは着々と受け継がれ法螺貝の心地よい音色が、森林に響き渡っております。

光明寺:延岡は旭化成の企業城下町であります。延岡が県と呼ばれていた時代、土持栄綱相模守が、延岡で最初の城となる井上城を築きました。古城町という地名は、この井上城に由来します。養和元年(1181)豊前国宇佐郡から智賢法印を招き、鬼門除けとして光明寺を創建しました。
境内には西国三十三ヶ所の観音像が並ぶ、石仏龕(これは当山南に位置する愛宕山山麓にあった光福寺[明治4年廃寺]にあったもので藩主内藤氏の寄進によるもの)、淡島神社の祠等があります。 本堂内には本尊阿弥陀三尊立像、弘法大師像、九州三十六不動霊場11番札所本尊の不動明王、勝軍地蔵菩薩像、水子地蔵菩薩像などが安置されております。 

12:30都城方面に向かう。

天長寺:天長寺は天文7年(1538年)、都城島津家第8代領主・島津忠相公により島津家の祈願道場として創建されました。現在天長寺があるあたりは、かつて千尺の老松が生い茂り、流水の絶えない場所であったと記録に見え、そのため山号を松林山(しょうりんざん)と号しています。創建以来、都城随一の寺院として隆盛を誇っていましたが、明治元年の廃仏毀釈によって破壊され、堂舎と共に多くの法物を失ってしまいました。
その廃仏毀釈の難をかろうじて逃れた石仏群は、現在都城市の有形文化財に指定されています。静かにたたずむ阿弥陀如来・不動明王・地蔵菩薩や歴代住職の墓石等は、かつての隆盛を伝えると共に、現在も信仰を集める仏様の力強さを見せてくれます。

14:00えびの方面に向かう。

弘泉寺: 当山は、霧島山麓を臨む八幡山の頂上に大正12(1923)年、高野山恵光院近藤本玄師の表敬開山を機に玄融和尚により飯野布教所として興りました。大正15(1926)年に現在地へと移転し、昭和24(1949)年、宗教法人となり、高野山真言宗弘泉寺と改称し現在に到ります。また本尊の大日如来さまは牛の上に座すという非常に珍しいお姿でお祀りされております。
開基・玄融和尚より法灯が脈々と受け継がれ、先祖供養・水子供養など各種追善供養、開運厄除・交通安全など所願成就加持祈祷の寺であります。さらに高野山金剛流御詠歌や真言瞑想法阿字観、御写経も体験できます。

15:30宮崎空港に向かう。

16:30宮崎空港到達。
19:20宮崎空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、九州八十八箇所巡り第三弾、九州南東部に位置する日本の県、宮崎県の霊場12箇所をめぐりました。
















近畿三十六不動尊巡礼巡り第二弾
2015年4月5日


お不動さまは庶民の仏様として親しまれ、熱心な信仰を集めている。近畿地方の代表的なお不動さまのお寺からなる近畿三十六不動尊巡礼第二弾8箇所を巡りました。

近畿三十六不動尊霊場は、近畿地方の大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、奈良県、和歌山県に、古寺顕彰会が中心になって開設した霊場です。宗派にとらわれずに一般の人々の立場から霊場寺院が選定され、昭和54年(1979)に発足しました。

8:00車で出発、高槻に向かう。

成田山明王院:真言宗智山派。正しくは成田山大阪別院明王院といい、通称、成田山不動尊と呼ばれる。
近畿三十六不動尊霊場第28番。
千葉県成田市にある成田山新勝寺を大本山とした関西唯一の別院。日本で初めて人車一体の交通安全を祈念し、専用の祈祷殿を設けた事から『交通安全祈願の成田山』として知られている。

安岡寺:南山と号する天台宗系の単立寺院。新西国霊場客番、摂津三十三ヶ所観音霊場第25番、近畿三十六不動尊霊場第12番。
神峯山寺、本山寺と同じく光仁こうじん天皇の息子、桓武天皇の兄である開成かいじょう皇子の創建と伝えられ、弟子の開智が一石一字の大般若経を書写して本堂の背後の岡に安置したことから、安岡寺般若院と称するようになったと言われている。
往時は坊舎六坊を数えた大寺であったが、戦国時代には三好氏や高山氏の兵火に遭い荒廃した。江戸時代になって将軍家の拝領を受け良盛りょうせいが再建、大日坊、泉蔵坊、阿弥陀院、藤本坊の四塔頭をかぞえ、大いに栄えた。しかし明治時代の廃仏毀釈により、現在は本堂や鐘楼堂、院号の由来となった般若塚、青梅あおうめ観音堂などが残っているだけである。

宝塚に向かう。

中山寺:真言宗中山寺派大本山。山号は紫雲山。推古天皇期創建、開基は聖徳太子。
西国三十三所観音霊場第24番、神仏霊場兵庫15番、近畿三十六不動尊霊場第21番、摂津三十三ヶ所観音霊場第1番、摂津国八十八ヶ所霊場第69、70、71番、真言宗十八本山霊場のひとつ。

京都に向かう。

北向山不動院:天台宗の単立寺院で、一般に北向不動の名で親しまれている。  大治五年(1130)、鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建され、興教(こうきょう)大師を開山としたのが当寺の起こりである。本堂に大師が自ら仏師康助に刻ませた不動明王(重要文化財)を王城鎮護のため北向に安置した。そのため、上皇から北向山不動院の名を賜ったといわれる。久寿二年(1155)、播磨国(兵庫県)大国の庄を寺領として、藤原忠実が中興に当たった。その後、応仁の乱の兵火など、しばしば災害に遭ったが、幸い本尊不動明王は難を逃れた。朝廷の保護も厚く、近世に至って復興した。  現在の本堂は、正徳二年(1712)、東山天皇の旧殿を移したものである。  境内鐘楼にかかる梵鐘は二品済深(にほんさいしん)親王の御銘があって、元禄七年(1694)に名士名越浄味によって鋳造されたものである。

岩屋寺:創建時は天台宗に属し、比叡山三千坊の一つであったが、現在は曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で神遊山しんゆうざん金地院こんちいんと号する。古来は隣接する山科神社の神宮寺であったと伝えられる。
近畿三十六不動尊霊場第24番札所。
赤穂義士・大石良雄(通称大石内蔵助くらのすけ)の隠棲地として有名で大石寺とも呼ばれる。
本堂に安置する本尊大聖不動明王は智証ちしょう大師の作とされ、大石良雄の念持仏であったという。また、大石良雄の遺髪塚及び宅址もある。

蔓殊院門跡:近畿三十六不動尊霊場第17番札所、神仏霊場京都28番。天台宗。青蓮院しょうれんいん(京都市東山区粟田口)、三千院(京都市左京区大原)、妙法院(京都市東山区東山七条)、毘沙門堂びしゃもんどう(京都市山科区安朱)と並ぶ天台宗五箇室門跡の一つで竹内門跡、竹ノ内御殿の別称がある。門跡とは皇族や摂関家の子弟が代々門主となる寺院で、此処は1495年に伏見宮貞常親王ふしみのみやさだつねしんのうの子、慈運じうん大僧正が入手したことに始まる。

滋賀に向かう。

圓満院門跡:圓満院は、寛和三年(987年)創立村上天皇の第三皇子悟円親王の開基です。三井三門跡の一つであり、開基当時は平等院と号した。藤原道長が宇治に建てた別荘をその子藤原頼道の時代に寺院とするべく下命があり、平等院(後の圓満院)の明尊大僧正によって完成、悟円親王の子永円親王を初代院主として三井平等院の名前を宇治に譲り、現在の宇治平等院の初めとなった。一方三井平等院は明尊大僧正によって圓満院と命名され悟円親王をはじめとして歴代皇族の入室する門跡寺院となりましたが、室町時代後期まで圓満院は三井平等院と通称されました。
 明治11年に明治天皇、明治13年と45年に当時東宮でいらっしゃった大正天皇が行幸された由緒ある門跡寺院です。

無動寺明王寺:

13:30帰路に向かう。

今回の旅行、近場の近畿圏内の不動尊8箇所をめぐりました。
あいにくの雨でしたが桜の花見の時期に出会し賑やかで活気に満ちていました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五弾:九州坂東三十三箇所巡り第二弾観光  2015年3月14−15日

関東地方の千葉県に足を運び、関東地方の全域に点在する霊場、坂東三十三箇所の札所の29札所ー33札所を巡りました。

14日13:37新大阪新幹線のぞみで出発
16:05東京駅到達、タクシーでザ・プリンス・マーク・タワーに向かう。
17:00講演会出席
19:00講演会終了。懇親会出席。
20:30終了、ホテル・ニューオータニにタクシーで向かう。
20:45ホテル・ニューオータニ到達、就寝。
15日7:30タクシーで東京駅に向かう。
8:00東京駅レンタカーで霊場めぐる。

千葉寺:千葉寺(せんようじ、ちばでら)は、千葉市中央区にある真言宗豊山派の寺院。山号は海上山。本尊は十一面観音であり、坂東三十三観音霊場第29番札所である。境内には瀧蔵神社がある。寺伝によれば、709年(和銅2年)この地を訪れた行基が十一面観音を安置したのに始まり、聖武天皇の命により千葉寺と称したという。1160年(永暦元年)に堂宇を焼失している。千葉氏の居城である千葉城(亥鼻城)に近いことから千葉氏の祈願所となった。

高蔵寺:高蔵寺(こうぞうじ)は、千葉県木更津市にある真言宗豊山派の寺院。山号は平野山(へいやさん)。本尊は聖観世音菩薩であり、坂東三十三観音霊場第30番札所である。通称は高倉観音(たかくらかんのん)。用明天皇の代(585年〜587年)に徳義が小像の観音菩薩を感得して寺を建立したという。この観音像は、行基が刻んだ観音像に納められているという。

那古寺:那古寺(なごじ)は、千葉県館山市にある、真言宗智山派の寺院。山号は補陀洛山。本尊は、千手観世音菩薩。坂東三十三観音霊場第33番(結願寺)。通称は那古観音(なごかんのん)。寺伝によれば、行基が元正天皇の病気平癒を祈るためこの地を訪れ、千手観世音菩薩を安置して祈願すると、天皇の病気は平癒し、天皇の勅により建てられたのがこの寺であるという。

仁右衛門島:仁右衛門島は太海(ふとみ)の浜波太(はまはた)漁港の目の前にある小島で、源頼朝や日蓮上人の伝説と新日本百景にも選ばれた鴨川の名勝地です。
蓬島(よもぎじま)や波太島(なぶとじま)という異名もありますが、代々、平野仁右衛門が守り続ける島として古くから仁右衛門島と呼ばれていました。
治承4(1180)年8月、源頼朝は平家打倒に動き出します。伊豆で勢力を持つ山木兼隆を奇襲により討ち取ると、援軍を頼りに石橋山(神奈川県小田原市)に陣を構えます。頼朝勢は僅か三百、対する大庭軍は三千。折りしもの大雨で酒匂川の水かさが増し、頼みの援軍が立ち往生している間に大庭軍は頼朝勢に襲いかかります。多勢に無勢では勝ち目は無く、頼朝は命からがら小舟で安房国へと逃げ延びます。
仁右衛門島には“源頼朝の隠れ穴”と呼ばれる洞窟があります。これは安房で再起を図る頼朝に平家方の長狭六郎常伴(ながさろくろうつねとも)が夜襲をしかけるという噂が伝わった時、仁右衛門が頼朝を匿ったとされる洞窟です。この功績で仁右衛門は島と周囲の漁業権を与えられ、代々島主・仁右衛門とその家族が島を守り続けています

清水寺:清水寺(きよみずでら)は、千葉県いすみ市にある天台宗の寺院。山号は音羽山。本尊は千手観世音菩薩であり、坂東三十三観音霊場第32番札所である。通称は清水観音(きよみずかんのん)。延暦年間(782年 - 806年)に最澄がこの地を訪れて草庵を結んで十一面観世音菩薩を安置し、807年(大同2年)円仁がこの地を訪れ千手観世音菩薩を刻んで安置したという。

笠森寺:笠森寺(かさもりじ)は、千葉県長生郡長南町笠森にある寺院、天台宗別格大本山、坂東三十三箇所の第三十一番札所、山号は大悲山。寺伝によれば延暦3年(784年)に最澄(伝教大師)が楠の霊木で十一面観音菩薩を刻み安置し開基されたとされる古刹で、古来より巡礼の霊場として知られており、十一面観音像が本尊であることから「笠森観音」と通称される。
大岩の上にそびえる観音堂は、61本の柱で支えられた四方懸造と呼ばれる構造で、日本で唯一の特異な建築様式であり重要文化財である。長元元年(1028年)に後一条天皇の勅願で建立されたと伝えられているがその後焼失し、現在の建物は解体修理の際発見された墨書銘から文禄年間(1592年-1595年)の再建とされている。観音堂の 75段の階段を上がった回廊からは、四季それぞれに美しい房総の山々が眼下に眺められ、その景観は一見に価する。他にも重要文化財の鋳銅唐草文釣燈籠など多くの文化財も残されている。
また、笠森寺周辺の森林は、延暦年間の笠森寺草創当時より禁伐林として保護されてきたと伝えられる暖帯林の残存林であり「笠森寺自然林」として国の天然記念物に指定されている。高木層はスダジイを主体とし、多くのシダ類なども見られ、自然が保たれていることからイタチ・アナグマ・リスなどの獣類、フクロウ・コノハズク・アカゲラ・ハイタカなどの鳥類やヒメハルゼミなどの昆虫類も生息し、関東地方の残存林として特徴的である。

東京駅にアクアライン海ホタル経由して向かう。

16:30東京駅到達。
17:05東京駅新幹線のぞみで出発。
19:36新大阪駅到達。

今回の旅行、坂東三十三箇所巡り第二弾、千葉県房総半島に位置する霊場5箇所を巡りました。これで東京、埼玉、神奈川、千葉に点在する坂東三十三箇所の霊場をほぼ巡り、あとは群馬、栃木、茨木に点在する霊場のみとなりました。近いうちに訪れたいと思います。

 










飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四弾:九州八十八箇所巡り第二弾観光  2015年3月7−8日

南の九州に足を運び九州の新四国、弘法大師空海が唐から帰国し、都に上洛するまでのあいだ長く滞在されたゆかりの地、九州八十八箇所の第二弾、大分に位置する17箇所をめぐりました。

7日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
15:58小倉駅到達、レンタカーで中津方面に向かう、途中霊場を巡る。

阿弥陀院:阿弥陀院は、今より百年前の明治二十八年十二月十日、京都市伏見区の総本山醍醐寺から、北九州の小倉へ移転してきました。  もとは承久元年(1239)醍醐寺山内に建立された塔頭寺院で、後白河天皇の長女覲子内親王、宣陽門院の御願により、成賢座主が開山されたお寺です。後の文正二年(1467)に起こった応仁の乱の折には、醍醐寺も戦火に巻き込まれて、衰退の一途をたどりました。しかしながら慶長年間には、座主義演僧正に帰依していた豊臣秀吉の力によって、醍醐寺は再建されます。阿弥陀院もこの時に再び法灯を回復し、本山護持の務めを果たしています

徳泉寺:大正8年、「佐伯心海」師が、その師「慈航和尚」の命により「延命地蔵菩薩」を本尊として、北九州に「大光坊」を開いたのに始まります。  その後、「高野山真言宗 大師協会戸畑市部・大光坊」となり、昭和12年に現在地(北九州市戸畑区千防1丁目)に移転して「延命山・徳泉寺」と寺号公称し、現在にいたります。

不動院:寛元2年(1244)下総前司藤原親房が鎌倉幕府の命により平家の残党鎮圧のため豊前代官職を帯びて西下。 建長7年(1255)姓を『門司』と改め現在の古城山を本拠とした。 このとき長野郷より吉志・伊川・大積 蒲生郷より片野・柳・楠原の3郷を拝領し『門司』6ヶ郷の称がおこった。 門司氏は南北朝時代には、一族二派に分かれ骨肉相食む事となる。 その後門司半島は大内・毛利・大友の交戦場となったが、門司氏は勢力劣弱のためしばしば苦境に立った。 天正15年(1587)より毛利(勝信)・慶長5年(1600)より細川(忠興)・寛永9年(1637)より小笠原(忠直)の各小倉に交代治政された。

真光寺: 延応元年(1239年)、阿聖(あしょう)上人が全国を巡錫砌、貫山に紫雲棚引くのを見て、貫山が霊山であると感じて 庵を結んだのが「貫山真光寺」の始まりである。その后、中国地方の「大内」氏の豊前進行に当たり、真光寺に本陣を置いた。
 しかし、その戦いで伽藍を全焼、戦勝の「大内」氏は中忠左衛門(なか・ちゅうざえもん)を復興奉行とし、伽藍を再興し、 「大内」氏の豊前の祈願寺となった。以後、下寺35坊と言われるほどに隆盛を極めた。
 江戸時代に入り「小笠原」氏が豊前の領主となり、真光寺は「小笠原」氏の祈願寺となった。 それにより「修善院」を送られ、「貫山修善院真光寺」となり、寺紋は「大内菱」から「三階菱」となった。
 慶応二年(1866年)の小倉戦争で長州の奇兵隊等の攻撃に会い、またも伽藍を焼失した。 その後、残った小堂を仮本堂として、本尊阿弥陀如来を始め焼け残った仏像をお祭りし今日に至っている。

18:30中津駅前のホテル到着後駅前の居酒屋で食事を済ませて就寝。
8日7:00レンタカーで出発、大分に位置する霊場を巡る。

普門院:町の中の寺院には珍しく緑の中に鎮まった寺院で、樹木に囲まれた中に本堂がございます。この本堂は江戸時代の建築で、とても趣のある本堂です。ご本尊は如意輪観世音菩薩と申しまして、私たちの願いを「意の如く」かなえて頂ける御本尊様で、秘仏でございます。
毎年8月9日の千日観音は一日で千日参拝したのと同じ功徳があるといわれており大変賑わいます

三明院:弘法大師ご入定1150年を契機として仏門に帰依した現住職が今道心を志し、開山英明和尚は宮嶋弥山に50日間五穀断ちの「求聞持秘法」という真言密教の究極を極める行に挑み、艱難辛苦に耐えてこれを成満した際、生家である現在の地に大観音の光明がさし、八十八体の弘法大師の並ぶ夢告を得て以来、秘鍵大師を勧請し、自然林の中に八十八体の大師像を配置し、お砂踏み霊場を建立した。本堂には十一面千手観世音菩薩と、護摩堂の不動明王は英明和尚の実父実夫氏が脳溢血で倒れたとき既に心臓も停止していた体を和尚の修法中明王自身が二つに割れて実父の生命を復活させたことから身代わり不動として信仰を集めている。現在、境内は四千坪の敷地があり、そこには師の祈りを彷彿とさす堂宇が幾つか建立されている。ひたすら弘法大師の教えを実践する寺風が感じられるお寺です。

神護寺:境内には山岳寺院の雰囲気があり、二滝の心地よい音が響いております。また数多くの石仏が点在しておりますが、そのなかでも特に大きな石造は釈迦涅槃像です。長さが9メートルあり境内の石に直接彫られております。8月16日の夜には八面山祭りがおこなわれ、約二千本の燈明が境内と近くの平和公園にともされます

大楽寺:宮中と呼ばれる宇佐の小盆地南宇佐に位置する大楽寺は、医王山を背にした段丘にあり眼前には神領の社を臨むことができる。
宇佐市内では宇佐八幡宮に次いで貴重な史跡であり、数多くの文化財が護持されている。
また近年では、厄除け開運祈願のお寺として信仰を集めている。

光明院:光明院は江戸時代、杵築城主、松平英親公が杵築藩の裏鬼門除けにと正保2年(1645年)に不動明王を安置し、専ら祈祷三昧であったが、享保年中に至って、三代城主松平重休公の庇護を蒙 り堂舎が建立されて祈祷道場となった。 当時は本堂・護摩堂・諸堂・金比羅権現・門等があり寺跡一町近くありましたが、明治初期の廃仏毀釈にあい廃寺同然になりましたが、後に浅野順理住職により復興している。  当院護摩堂は、普通の木造ではなく、巨大な岩山の下に開いた洞窟の中に、諸尊が安置されている。 本尊の不動明王は本堂に祀られている。境内の洞窟にある護摩道場には不動明王をはじめとする五大明王が祀られている。大師堂には弘法大師、聖寶理源大師が祀られている

蓮華寺:有名な“別府温泉”の隣町にあり、お城の下の海で採れる魚「城下カレイ」が有名な町で、歴史と文教の城下町である。
寺の門前からは、お猿の高崎山、別府湾が望まれる。
寺の由緒、歴史は古く、旧日出藩主の祈祷寺として栄えたお寺である。
本尊「千手観音」及び「涅槃図」は県の文化財に指定されている。
庫裡には、樹齢400年のサツキの庭園があり5月初旬が見頃である。
平成19年4月に、庫裡、檀信徒会館が新築され、「生涯学習の寺」として一般開放されている。

金剛頂寺:当院は、大同元年(西暦806)唐よりご帰朝された弘法大師が、博多の地に留まられたおり、当若杉山に登られ鎮護国家・救世利民の祈願を施された時に庵を結ばれた地に建つお寺です。 かつては、百八僧坊を構え金堂・宝塔・宝蔵・鐘楼などの諸堂が甍を並べるほどに隆盛を極めていました。この地には伝教大師を始め慈覚大師・智証大師・理現大師・常暁上人などの多くの高僧が訪れています。 当時、金剛頂院のある若杉山は右谷・左谷に分かれて三百の僧坊が建ち並んでいたといわれますが、貞和3年(西暦1347)山内に戦乱が起こり、聖地は焦土となってしまいました。現在の金剛頂院は昭和17年に再建されたものです。

福寿院:『福寿院と豊後府内藩』豊後府内藩が成立したのは文禄3年(1594年)将軍徳川家綱の命を受け松平忠昭が万治元年(1658年)6代目府内城主として転封したため、松平家の祈願所であった福寿院もじょうない三の丸に移したという。

賢龍寺:今を去る約500年前、京の僧が「愛宕将軍地蔵尊・不動明 王」の両尊を奉して寺を建立し、両尊を安置して「妙光寺」 と号した。その後、兵火のため伽藍は焼失したが、幸いにも 本尊二尊は時の僧円浄法印により搬出され、この難を免れた。 以後は少庵を建て安置したが、時移り世が変わるに従い衰微 し、今から約、350年前 御西天皇の明暦元年(江戸時代 前期1655年)七月、円峯法印が寺の復興を計り堂宇を建 立して、賢龍院法船寺と寺名を改称し、中興開山した。時の 経るにしたがい荒廃した。今を去る200年前、光格天皇の 天明元年(江戸時代後期1781年)に宥玄法印が深く嘆き、 現在の地に移転、中興開山となり現在に至っている。

蓮城寺:三重町から宮崎県北川町に通じる国道326号(日向街道)沿いの三国峠に入る山すその静かな内山地区に蓮城寺(れんじょうじ)はあります。この蓮城寺にはたくさんの薬師像が安置されているため、本尊千手観音にちなみ通称「内山観音」と言われています。蓮城寺は高野山真言宗の寺で、この寺の歴史は古く寺伝によれば、欽明天皇の15年(546)に中国の天台山から渡来した僧蓮城が開山、真名野長者(炭焼小五郎)が寺を建立したといわれている豊後国最古の寺です。
 観音堂には本尊の千手観音、薬師堂には京都三十三間堂と並ぶ998体の薬師像が安置されています。また、山の山腹には高さ22mの巨大な般若姫像が建っており、町のシンボルとなっています。
 この近辺は桜の名所としても知られており、秋の紅葉もきれいな場所です

大日寺:大日寺は檜枝淳心尼が久留米の長門石の地で、昭和六十年に開山された寺であります。 本尊を大日如来とし、不動明王、文殊菩薩、弘法大師、地蔵菩薩が本堂にお祀りされております。
設立当時ののどかな田園地帯が、年々宅地化され、現在は、住宅街にたたずむお寺となっておりますが、 「大日寺の東方には高良大社、西方には千栗八幡宮があり、本尊の大日如来様は、東の高良退社・耳納連山からの 素晴らしい朝日を毎朝全身に頂かれ、その後方は素晴らしい沈む夕日の千栗八幡宮に守られていて、親子大社の ありがたい位置に座せられており、この位置から動かれることはなく、どのような困難を強いられても、又、宅地化が 進み、寺の周りがどんなに住宅が密集しようとも、本堂をこの位置から動かすことはできない。」という 淳心尼の信念に基づき現在まで引き継がれております。

海岸寺:高速道路を下ると3q(約5分)で着きます。静かなお寺です大師堂には、九州で有数の大きなお大師様が迎えてくれます。醍醐の教え実修実証を守り、厄除や交通安全、水子供養等の各種の祈願を修す山伏の寺です。寛政元年に臼杵藩の祈願寺となり、藩主やその一族、特に奥様方がお参り下さいました。

興山寺:興山寺の歴史は真言宗総本山高野山から始まっている。天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めにより、兵火が高野山に及ぼうとしたとき、秀吉と直談判して山を守った人物が、木喰応其上人である。その後応其上人は青巌寺と興山寺を創建して山内の中心伽藍とし、さらに諸堂を再建した。 明治になって興山寺は青巌寺と併合され、金剛峯寺と呼ばれるようになった。由緒ある興山寺の名前が消えることを惜しんだ山縣玄浄僧正が、稲葉氏の協力を得て臼杵に寺号を移し、興山寺がこの地で再興された。 境内の奥まったところに本堂と庫裡が並んでいる。宝造形の本堂に安置された本尊、無量寿如来は秘仏のため直接拝することはできない。境内には多くの石仏が点在している。

16:30博多駅到達。
16:48博多駅新幹線のぞみで出発
19:25新大阪駅到達。

今回の旅行、九州八十八箇所巡り、第二弾、大分に位置する霊場17箇所を巡り楽しみました。
前回に続いて、小ぶりの寺院が多いが、案内板がしっかりしており、迷わず辿り着けることが出来ました。
次回は宮崎に位置する霊場を訪れる予定です。


  

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百ニ弾:伊予大島八十八箇所巡り第一弾&鵜島・津島観光  2015年2月21−22日 

愛媛県しまなみ街道、大島に足を運び四国八十八ヶ所の札所の土砂を持ち帰るなどし別の土地に四国にならった霊場を開創した新四国の中で比較的歴史が古く島の霊場として島四国の部類に入る伊予大島八十八箇所の21箇所を巡りました。

21日13:59新大阪新幹線さくらで出発、福山でこだまに乗り換え
15:19新尾道到達、レンタカーでしまなみ街道大島に向かう。
15:40大島到着、伊予大島八十八箇所巡り。
十楽庵:

岩屋寺:

岩屋寺大師堂:

観音堂:

法南寺:

善女庵:

亀甲庵:

宝幢庵:

利益庵:

西蓮庵:

17:30今治に向かう。
18:10今治駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
22日7:00レンタカーで出発、伊予大島八十八箇所巡り。

正覚庵:

海岸堂:

白光庵:

無量寿庵:

寿気庵:

医王庵:

付属庵:

海南庵:

潮音堂:

9:45宮窪港フェリーで出発
9:50鵜島港到達、散策。

伯方島と大島の間に包まれるように存在する鵜島。潮の流れは鵜島にぶつかり船折瀬戸、荒神瀬戸、宮窪瀬戸と早い流れをつくりだします。
足利義満がつがいの鵜を放しそれが繁殖したことが名前の由来という言い伝えもありますが、当時から村上水軍の拠点になっていました。北浜代官所跡や水軍見張所跡、造船所跡、鵜島城跡などは水軍の名残です。
江戸時代には織田信長の末裔である織田家が島の組頭を勤め、四代目の織田権四郎が1772年(明和9年)に建立したと言われる「お堂」が残されています。
漁業はほとんど行なわれおらず、柑橘類の栽培が主な産業になっています。

12:45鵜島港フェリーで出発
12:50宮窪港到達、幸港に向かう、途中伊予大島八十八箇所巡り。

車南庵:

金光庵:

13:30幸港フェリーで出発
13:40津島港到達、散策。

津島は「しまなみ海道(西瀬戸自動車道)」が通過する越智大島の西約1kmの海上に浮かぶ有人島で、南東には無人島の大突間島を従えています。
周囲5.6km、標高176.6m、来島海峡内に点在する島々の中では一番大きく、大島の吉海港(津倉)の入口にあることから古くは門島と書いて“つしま”と呼んでいました。元亀・天正年間(1570〜92)には河野水軍の田房隼人正の城があり、城主滅亡後は大島や大三島からの入植で北東側の湾内に集落が作られていきました。
島民は真宗の信仰があり、殺生を嫌ったことから漁業は行われず、農業と海運業で発展を見せています。
江戸末期には開墾が進み、稲作と甘藷や麦などの畑作が行われ、明治期になってイチジクやミカンなどの商品作物も栽培されるようになっています。今では幻となった「津島いちじく」は独特の甘味があることからブランド化され高値で取引されたこともあります。
また、海上交通の要衝にあったことから古くから海運業に従事する者も多く、島内の大山祇神社に安全祈願で奉納された天保8年(1837)の絵馬には5隻の大型帆船が描かれています。
明治から昭和にかけて木炭から石炭へと船の積荷は変わり、島の人口は500人を数えたこともありましたが、昭和30年代になり帆船の時代が終わると津島の海運業は衰退。急激に人口減少が進み昭和38年には小学校が廃校となっています。
平成25年10月1日の愛媛新聞に「29年ぶり、みこし復活へ 今治・津島」という記事が掲載されています。昭和59年(1984)以来中止になっていた秋祭りでの神輿運行が復活するというのです。市内のNPO法人の支援企画によるもので、明るさと活気を感じさせてくれます。その時津島で暮らす人の数は16人、平均年齢約83歳とあります。

16:00津島港フェリーで出発
16:10幸港到達、レンタカーで新尾道に向かう。
22日18:27新尾道こだまで出発、岡山でのぞみに乗り換え
19:54新大阪駅到達。

今回の旅行、愛媛県しまなみ街道大島に足を運び、島四国の八十八箇所の21箇所を巡り楽しみました。小規模で小ぶりの寺院が多く其々が比較的集合しており短時間で多くの寺院を巡ることが出来ました。船の便の時間に合わせて2つの島(鵜島、津島)も訪れることができ時間を有効に利用でき多くの名所をめぐることが出来ました。
島四国は全国にいくつかあるみたいです、離島をほとんど制覇していますので島四国をこれから回りたいと思います。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百一弾:知多四国八十八箇所巡り第一弾  2015年2月14−15日  

2000年近い歴史をかさねる地方の代表的霊場、四国八十八箇所を本四国と呼ぶのに対し、こちらを新四国と呼ぶ弘法大師ゆかりの知多半島の知多四国八十八ヶ所の50箇所を訪れました。

14日12:30車で第二京阪名神新名神東名阪伊勢湾岸自動車道経由して大府インター下車。
知多四国八十八ヶ所をめぐる。

01 曹源寺:

02 極楽寺 :

03 普門寺:

04 延命寺:

06 常福寺:

07 極楽寺:

08 伝宗寺:

09 明徳寺:

10 観音寺:

11 安徳寺:

外 東光寺: 

54 海潮院:

12 福住寺:

13 安楽寺:

14 興昌寺:

15 洞雲院 :

16 平泉寺:

17 観音寺:

18 光照寺 :

外 海蔵寺:

19 光照院:

20 龍台院 :

21 常楽寺 :

22 大日寺:

23 蓮花院 :

24 徳正寺:

25 円観寺:

外 葦航寺:

外 影現寺:

26 弥勒寺:

27 誓海寺:

外 誓海寺禅林堂:

28 永寿寺:

29 正法寺:

30 医王寺:

31 利生院:

32 宝乗院:

33 北室院:

34 性慶院 :

35 成願寺:

36 遍照寺 :

高速艇で篠島に向かう。

38 正法禅寺:

外 西方寺:

39 医徳院 :

高速艇で日間賀島に向かう。

37 大光院 :

高速艇で師崎港に向かう。

外 浄土寺:

40 影向寺:

41 西方寺:

42 天龍寺:

43 岩屋寺:

外 奥の院:

45 泉蔵院:

46 如意輪寺:

44 大宝寺 :

47 持宝院 :

48 良参寺:

49 吉祥寺:

56 瑞境寺:

今回の旅行、愛知県知多半島に足を運び、2000年近い歴史をかさねる地方の代表的霊場、四国八十八箇所を本四国と呼ぶのに対し、こちらを新四国と呼ぶ弘法大師ゆかりの知多半島の知多四国八十八ヶ所の50箇所を訪れ楽しみました。

比較的平坦な地に密集して位置し訪れやすい、山奥の険しい場所には存在はなく回りやすい知多四国八十八ヶ所巡りでした。残りの札所は近いうちに訪れたいと思います。















  
近畿三十六不動尊巡礼第一弾 2015年2月11日 

お不動さまは庶民の仏様として親しまれ、熱心な信仰を集めている。近畿地方の代表的なお不動さまの寺からなる近畿三十六不動尊霊場の12箇所(第一番ー第十一番)を訪れました。

近畿三十六不動尊霊場は、近畿地方の大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、奈良県、和歌山県に、古寺顕彰会が中心になって開設した霊場です。宗派にとらわれずに一般の人々の立場から霊場寺院が選定され、昭和54年(1979)に発足しました。

9:20車で出発、大阪市内に向かう。

四天王寺:今から1400年以上も前、推古天皇元年(593年)に聖徳太子により建立された。 
「日本書紀」によれば、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り 「もしこの戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されたと伝えられる。

清水寺:和宗。新西国霊場客番、近畿三十六不動尊霊場第2番、摂津国八十八ヶ所霊場第26番。
もと有栖寺といったが、1640年に中興延海阿闍梨が、京都清水寺から聖徳太子作と言われる十一面千手観世音菩薩を本尊とし、清水寺に模した舞台造りの本堂を建立、寺号を新清水寺と改めた。院号は清光院といい、四天王寺の支院である。

法楽寺:当山は山号を紫金山、院号を小松院と号し、その創建は、平清盛の嫡子で小松の大臣(おとど)と呼ばれていた平重盛が1178年(治承2年)に開創したのに始まるとしている。重盛は、宋の国・育王山の仏照国師の徳を慕い、我国への招聘を働きかけたが実現せず、その代わりに育王山伝来の紫金仏舎利が贈られてきた。そのためこの田辺の地に一寺(法楽寺)を建立し、仏舎利を納めたという。
 創建以来の建物は戦国の末、元亀年間(1570〜3年)頃まで護持されてきたが、織田信長の兵火に罹り、全て灰燼に帰した。その後、江戸中期の1711年(正徳元年)河内・野中寺より晋山した洪善大和上が大和大宇陀、松山藩藩主織田家の殿舎を譲り受け復興したという歴史がある。
 また、江戸時代後期の高僧・慈雲尊者が13歳の時、当山の忍綱貞紀和上の弟子となり得度。27歳のとき河内高井田(現東大阪市)の長栄寺にて真言正法律を提唱した。
この寺は1873年(明治6年)に府下で最初の小学校の置かれたところでもある。当山は田辺にあるところから、本尊の不動明王は『田辺の不動さん』と人々に親しまれ,毎月28日には遠近の参拝客で賑わう。

京善寺:当山の縁起は、古くは「金剛院」と称せられ厄除祈願道場として栄えていたが、1615年(元和元年)大坂夏の陣に合戦の場となり、兵火で寺は焼失したため、詳細は不明とのことである。
  この時期、寺は荒廃したが、1653年(承応2年)桑津村の篤信者富井部氏などの霊夢に不動明王が出現され、寺の再興を告げられたため、紀州より観弘実誉阿闍梨を招き堂宇を再興、寺号を心王山殊勝院京善寺と改めた。
紀州根来寺の不動明王と同木同作(興教大師の作と伝えられる)の不動明王を勧請し本尊とした。以来、「身代り厄除け不動」「くわづ不動」として多くの人々の信仰を集め、現在に至っている。

報恩院:真言宗醍醐派。山号は高津山たかつざん。高津こうづの北向不動と呼ばれる。
近畿三十六不動尊霊場第5番、おおさか十三仏霊場第11番、摂津国八十八ヶ所霊場第21番。
寛文年間(1661〜1672年)、徳川四代将軍家綱の時代に、良遍上人が不動明王信仰の世相にあった北向不動尊を建立したのが始まり。明治初期の廃仏棄釈の流れで、無住に近い荒れ寺であったものを、第十二世孝教和上が明治大正と復興を遂げたが、太平洋戦争の大阪大空襲で北向不動尊のみ残して全堂灰燼にきした。しかし被災数日後には住職信者一丸となり焼跡整理に取り掛かり再興がなされた。

大融寺:高野山真言宗準別格本山。山号は佳木山。正式名は佳木山宝珠院太融寺。
新西国霊場第2番、近畿三十六不動尊霊場第6番、おおさか十三仏霊場第8番、摂津国八十八ヶ所霊場第6番、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第7番、なにわ七幸、神仏霊場大阪10番。
821年、嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が創建。本尊の千手観世音菩薩は嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子・河原左大臣源融公がこの地に七堂伽藍を建立した。
1615年大阪城落城の時に全焼、その後復興したが、1945年戦災で全焼、戦後再建し現在に至る。

豊中方面に向かう。

国分寺:真言宗国分寺派大本山。正式には勅願道場護国山ちょくがんどうじょうごこくさん国分寺こくぶんじ。通称は長柄国分寺。
近畿三十六不動尊霊場第7番札所、おおさか十三仏霊場第9番札所、摂津国八十八ヶ所霊場第9番札所、西国薬師四十九霊場第17番札所。

神戸方面に向かう。

不動寺:当山は開基は、弘仁期(810〜824年)に弘法大師によると伝わるが詳細は不明。
元は大阪市北区兎我野町(梅田の東)にあったが、寺の傍を新御堂筋が開通するなど、都市化の波に洗われ、1966年(昭和41年)に現在地に移転している。不動明王を本尊とし、兎我野時代から大護摩法で知られてきた。
 寺伝によると、弘法大師が諸国巡礼のおり、摂津北野村(兎我野)の地で七光の石を見出し、大師自ら、5輪法塔に仕上げ、不動明王の梵字を石に記した。その後、大師は再び当地を訪れ、小室を造り、石像を安置し、不動堂とした。
 元暦年中(1184〜5年)後鳥羽院の勅願所となり、豊臣・徳川の庇護を受けるなど、兎我野の不動として、広く庶民の信仰を集めてきている。また、数度の戦乱にも遭遇し、特に第二次世界大戦の戦火では堂宇が全て焼失し、1950年(昭和25年)に本堂を再建したが、寺の周辺が歓楽街化するなど環境の悪化が深刻化し、古くから伝わる伝統行事の大護摩法も次第に行えなくなったことが、現在地への移転を決意した最も大きな要因であったとのことである。

大龍寺:神護景雲二年、称徳天皇の勅をうけた和気清磨呂公は、摂津の国に寺塔建立の霊地を求めて当地の山中まで来られたときのことであります。
公を暗殺しようとしてつけ狙っていた僧道鏡の刺客は、忽然と現われた一匹の大蛇に驚いて一目散に逃げ帰ってしまった。
危ないところを助けられた清磨呂公があたりを見まわしてみると、大蛇が消えた跡に「聖如意輪観世音菩薩」が立っておられたのであります。
霊験を感じられた公は、早速この地に伽藍を建立され寺名を「大龍寺」と名付けられました。
観世音がご出現になった場所は「蛇ケ谷」と称し「龍ケ滝」と共に霊蹟として現存しております。

無動寺:当寺は推古天皇の時代、聖徳太子が物部大臣守屋を討たんとして、鞍作鳥(鳥仏師)に命じ、本尊大日如来及び諸尊を刻ましめて戦勝をご祈願されたところ、忽ち大軍を征破することができたので、七堂伽藍を建立して福寺(普救寺)と名付けられたのに始まります。その後幾度か盛衰の変遷があり、記録等は散逸して、多くを知ることができません。縁起(慈雲尊者真筆)によれば、現在の堂宇は
中興開山眞源阿闍梨が帰省の折、当寺の荒廃を見て、復興の悲願を発願され、二十数年の勧進努力の結果、宝暦二年(一七五ニ)三月、再建されたものであります。明治八年廃仏毀釈により、末寺と統合して現在に至っております。

鏑射寺:真言宗単立。山号は獨鈷山。甘楽寺とも呼ばれる。
近畿三十六不動尊霊場第11番札所、西国愛染明王十七尊霊場第3番札所、仏塔古寺十八尊霊場第16番札所、神戸十三仏満願霊場、摂津西国三十三ヶ所第10番霊場、郡西国第25番霊場。
581年創建。聖徳太子開山。弘法大師が境内で独鈷水の井戸を掘る。
1873年三田九鬼藩の不逞藩士が火を放ち、焼け残った太子堂と本尊什器が寺廻りに移されて、廃寺となる。その後1959年、現山主中村公隆が入山、祈願。1966年に護摩堂(不動明王)が、1973年には三重塔(虚空蔵菩薩)を建立した。

今回の旅行、近畿圏内の近畿三十六不動尊霊場の12箇所(第一番ー第十一番)を訪れ楽しみました。













 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百弾:九州八十八箇所巡り第一弾  2015年2月7−8日 

日本の最西端九州に足を運び、弘法大師が唐から帰国し、都に上洛するまでのあいだ長く滞在されたゆかりの地の八十八箇所百八霊場23箇所を巡りました。

7日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
16:14博多駅到達。レンタカーで霊場めぐり。

東長寺:大同元年806唐から帰国した弘法大師の創建と言われ、寺宝の木造 千手観音立像は国指定の重要文化財である。境内には仙腰a尚せんがいおしょう や当時の有名人の白筆書画が残る六角堂の建物、 2代藩主黒田忠之ただゆき、3代藩主光之みつゆきの墓がある。

般若寺:宝永4年1707、 立花実山たちばなじつざんが主君三代藩主黒田光之の死後即剃髪、住吉に松月庵を結びそこに入る。 東林寺 のパンフレットによると、同寺の末寺とある。 場所は博多区住吉の住吉神社境内北側にあったと思われるが定かではない。 後述する。 夢遊典 によると博多駅の移転に伴う新幹線の開通を受けて、 昭和39年1964に福岡市南区(現在の地)に移転。その後般若院と改名。

18:10久留米駅付近のホテル到着後周囲を散策食事を済ませて就寝。
8日7:30レンタカーで出発、霊場めぐり。

光明寺:石造九重塔が2基あり、1基は江戸期のもの(西塔)、 もう1基(東塔)は安元元年1175、平重盛建立と伝えられているが、 少し後の鎌倉中期頃の作と考えられているという(福岡県文化財)。 仁王門の仁王像は鎌倉期の仏師運慶の子湛慶たんけい作と伝わる。 江戸期に二度再建されたという。
境内の案内板によれば、 本堂内には木造十王坐像もくぞうじゅうおうざぞう・ 木造葬頭河婆坐像そうずおごうのばばあざぞうが安置されているという。 仁王像と併せて筑後市の指定文化財となっているという。

不動寺:明王院にある養老ヶ滝は、インドの高僧、善無畏ぜんむいが開いた約1300年の歴史を持つ滝である。 弘法大師、伝教大師、慈覚大師もこの滝に訪れたという。 その後、若杉山の修験道の根本道場として栄えたという。 時は流れいつの日か荒廃。 明治38年1905、盲目の僧、P無染師により再建され、現在に至るという。

大日寺:建物の玄関先には大日如来の石造が鎮座。 本堂は玄関を入って階段を登った二階部分にある。 本堂内には御本尊の大日如来像が中央。向って左右に薬師如来像弘法大師像が安置されている。 薬師如来像のさらに左手には怖いお顔をされている不動明王も立っておられる。 本堂裏手には広い駐車場・トイレも完備されている。 そこからは、筑後川の堤防の先に耳納連山を眺めることができる

龍王院:境内は広大な敷地となっている。 山門左脇には、出世稲荷大明神。右脇には不動明王。 広大な駐車場あり。 本堂は鉄筋コンクリート造りである。 本堂に向って右手奥にはお滝場へ下る道があり、坂を下ると多数の石仏の先にお滝場がある。

不動院:当院の開山である瑞光尼の座像も檀信徒の希望により本堂脇に安置しております。又、お大師様のお華「華道高野山」を多くの方にたずさわって頂く為に華道教室も設けています。

浄心院:浄心院は開山の浄心法尼が、当地において不動尊を感得しその霊験により創建されました。「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)つまり神・仏ともに祭祀する寺院です。内陣には身代わり不動・大日如来・釈迦如来などを安置しています。稲荷大明神は弘法大師空海も信仰した神であり、これも浄心法尼が神託によって本堂内に勧請したものです。商売繁昌・所願成就の神様で、二月の初午に初午大祭が行われています

大師寺:大正の初期に当地信者の要請により、 和歌山県高野山福智院の水本坊より本尊をはじめその脇仏等一切、当地に移転してきたのがはじまりの由。

明王寺:日田市のJR久大線日田駅にほど近いところに伽藍を構えている。門前の道を100mほど北に進むと豆田の古い町並みがある。

南琳寺:延暦23年804比叡山の僧最澄さいちょう(伝教大師)は、 仏教興隆のため、僧空海くうかい(弘法大師)と共に、留学僧として渡唐された。 途中航海の平穏を祈って、七仏薬師謹刻の大誓願を立てられた。
帰朝後九州に下り、祈願を果たすべく霊木を求め白山はくさん(秋月古処山)に至り、 榧の木をもって一刀三礼して七体の薬師仏を彫刻され、その■一番の尊像を本尊として、 大同元年8064月6日、長淵(朝倉町)の地に天台宗医王山いおうざん南林寺を建立された。

興徳院:興徳院は秋月・古処山に源を発し筑後川に流れ込む小石原川沿いに伽藍を構えている。 すぐ近くは甘木鉄道線・西鉄甘木線の終点の甘木駅がある。 2012-06-13に参拝。本堂内は信徒さんたちでいっぱいであった。

如意輪寺:天平年間729-748孝謙天皇の勅願により、行基が開いたお寺。 本尊の如意輪観音は全国でも珍しい立像で、行基が勅を奉じて一刀三礼を以て刻んだ希有の名作であり、福岡県の重要文化財に指定されている。 天正14年(1586)島津侵攻の際に兵火によって一時は廃寺となるが、 久留米藩主有馬忠頼によって伽藍が建てられ、また松崎伊予守も祈祷所として崇拝するようになり再興をはたしたという。

隆照寺:隆照寺は、四王寺山の北側の麓の坂の上に伽藍を構えている。 寺前は住宅地となっており、境内からは若杉山・宝満山を一望できる。

明王院:明王院にある養老ヶ滝は、インドの高僧、善無畏ぜんむいが開いた約1300年の歴史を持つ滝である。 弘法大師、伝教大師、慈覚大師もこの滝に訪れたという。 その後、若杉山の修験道の根本道場として栄えたという。 時は流れいつの日か荒廃。 明治38年1905、盲目の僧、P無染師により再建され、現在に至るという。

金剛頂院:大同元年806唐よりご帰朝した弘法大師が、 博多逗留のおり、 当若杉山に登り庵を結んだ地という。 かつては、百八僧坊を構え金堂・宝塔・宝蔵・鐘楼などの諸堂が甍を並べるほどに隆盛を極めていた。 この地には伝教大師を始め多くの高僧が訪れた。 当時、金剛頂院のある若杉山は右谷・左谷に分かれて三百の僧坊が建ち並んでいたといわれるが、 貞和3年1347山内に戦乱が起こり、聖地は焦土化す。 現在の金剛頂院は昭和17年1942に再建されたものという。

正法寺:正法寺は飯塚市の天道駅に程近い交差点の脇に伽藍を構えている。 寺前はかなりの交通量である。寺内はカエルの置物が多数安置されている。 (「カエル部屋」には2000体のカエルが安置されているようである。)正法寺前より数十メートルの所には三菱飯塚炭鉱の遺跡(下写真参照)も見ることができる。

金倉寺:金倉寺は堀池の集落の貴船神社の裏手に伽藍を構えている。 そのすぐ東側は旧長崎街道である。
本堂前の不動明王様は怖いお顔をされているが、どこかやさしさと親しみを感じさせるお顔である。

明観寺:今を去ること1200年、 宗祖弘法大師が渡唐され、西安青龍寺、恵果和尚を師として密教の奥義を極め帰国御真言宗を開かれました。昭和53年当山住職が訪中青龍寺遺跡発掘現場より出土品を頂戴し、その一部の瓦を明観寺本堂に奉埋致しました。寺内に展示してありますのが青龍寺遺跡の出土品で、日本でも稀有の有難い品です。

法善寺:法善寺はJR新飯塚駅の裏手に伽藍を構えている。 明星保育園が併設されている。 山門前は水路が流れ、石橋を渡って山門をくぐる。

西教院: 創建は天暦4年920に願成法印が村の疫病を鎮める為に、 当地に草庵を結び十一面観音を安置した事に始まるという。

東蓮寺:東蓮寺はJR直方駅の南西の丘の上に伽藍を構えている。 この直方には『筑前國続風土記』に記載されているように福岡藩の支藩であった東蓮寺藩があり、その名の由来もこの付近に東蓮寺があったことによるという。

善覚寺:善覚寺は木屋瀬から赤間に向かう旧赤間道の少し北側の高台に伽藍を構えている。 境内には多数の石像があり、そのひとつひとつに名前が表示されている。 本堂前の十二神将像は表情豊かである。 また、納骨堂裏手の不動明王像はすごく派手で見ものである。

18:00博多駅到達。
18:29博多駅新幹線のぞみで出発
20:58新大阪駅到達。

今回の旅行、最西端九州に足を運び、弘法大師が唐から帰国し、都に上洛するまでのあいだ長く滞在されたゆかりの地の八十八箇所百八霊場の23箇所を巡り楽しみました。

小粒の寺院が殆どで険しい山の上のお寺のなく、スムーズに訪れることが出来ました。

今後5−6回に分けて訪れ制覇したいと思います。
















  
飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九十九弾:香川県小豆島八十八箇所巡り第二弾(49札所ー88札所)  2015年1月31日−2月1日   

四国香川県のオリーブ、醤油の産出、二十四の瞳で有名な小豆島に足を運び八十八箇所巡りの第二弾(49札所ー88札所)を訪れました。

31日12:30車で近畿中国山陽自動車道経由して姫路港に向かう。
14:35姫路港到達。
15:30姫路港カーフェリーで出発
17:10福田港到達、土庄に向かう。

東林庵:

遊苦庵:

宝幢防:

旧八幡宮:

本覚寺:御本尊は不動明王。本堂は、室町時代の様式をとり入れ、気品があり落ち着いた感じを受けます。何度かの火災に見舞われ、現在の建物が建立されました。昭和30年に完成した一髪観音堂(いっぱつかんのんどう)は、10万人の頭髪で刺繍した聖観世音(せいかんぜおん)が奉られていて、さまざまなご利益(ごりやく)が実話として残っています。また、大正9年、俳人 荻原井泉水(おぎわらいせんすい)が桂子(けいこ)夫人と共に小豆島を訪れ、そのときに詠んだ句が自然石に刻まれています。

宝生院:宝生院(ほうしょういん)といえば国の特別天然記念物に指定されている真柏(しんぱく)が有名です。境内は約二千坪もありゆったりとしていて、小豆島の中では最も広いお寺といえるでしょう。このお寺からはすぐれた僧侶がたくさん出ています。頭脳明晰な僧と知られる増海上人(ぞうかいしょうにん)、享保(きょうほ)時代の大飢饉に人々の生活を守った竜誉上人(りゅうよしょうにん)のほか、是妙(ぜみょう)、恵周(けいしゅう)など、いずれも学徳にすぐれた名僧であったそうです。

光明庵:

18:10土庄港付近のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

1日7:30車で出発

観音堂:

行者堂:

浄源坊:

西光寺:土庄の賑やかな町中から路地を入ると町中とは思えない静かなところに西光寺はあります。朱塗りの仁王門を入るとイチョウの大樹があり、昭和8年に建立された桃山様式の本堂があります。弘法大師が祀られ、厄難除けのご利益があります。また、毎年4月21日と12月21日には、弘法大師の徳を仰いで開かれた大師市が、西光寺を中心に行われています。大師市には、たくさんの露店や屋台が立ち並び、鐘の音と読経の声が線香の煙の中に絶え間なく聞こえてきます。

奥の院誓願の塔:土庄の町中に三重塔がそびえています。西光寺中興四百年記念事業の一環として建立されたもので、今では土庄のシンボルとなっています。この塔は、西光寺奥の院となっていますが、もとは、俳人・尾崎放哉(おざきほうさい)の終焉の地としても知られる、南郷庵(みなんごあん)が奥の院でした。敷地内には放哉の句碑もあります。

甘露庵:

江洞窟:

浄土庵:

大乗殿:

蓮華庵:

松風庵:

光明庵:

等空庵:

瑞雲堂:

松林寺:石段を登ると正面が本堂で、右に町文化財に指定されている梵鐘(ぼんしょう)があります。寺伝によれば、天平十年(738)に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)によって開かれ、そのころ長現寺と号し、その後、豊臣秀吉が朝鮮より献上された虎をこの寺で飼育したことから虎溪寺(こけいじ)と改め、やがて松林寺に改められたといわれています。御本尊である薬師如来は、明暦三年(1657)に小豆島の中島(なかじま)の海中から出現したもので、元来、「眼病及びイボ取りのお薬師さま」として信仰されています。

瑠璃堂:

長勝寺:石橋を渡って門を入ると、正面に本堂、右に庫裡(くり)と大蘇鉄、左に子さずけ地蔵があります。寺は行基菩薩(ぎょうきぼさつ)によって開かれ、御本尊は阿弥陀如来。本堂は播州赤穂の大石内蔵助の邸宅を以って建立されたものです。毎年12月第2日曜日には赤穂義士を偲ぶ会として茶会が盛大に開かれています。現在は、先祖供養の寺として信仰を集めています。

滝の宮堂:

滝湖寺:仁王門を入ると、よく手入れされた植え込みの中央に石畳の参道があり、その参道を進むと正面に本堂があります。周囲を塀で囲まれた静寂な霊場です。御本尊は、弘法大師の作と伝えられています。近代的な信徒会館は設備が整っていて、道中の参籠(さんろう)などお遍路さんの利用が多いお寺です。

奥の院笠ヶ滝:遠方から望む笠ヶ滝はまさに霊地にふさわしく、断崖絶壁の中にお堂があります。第72番札所滝湖時(りょうこうじ)からの登りは、岩壁(いわはだ)を鎖にすがって登らなければなりません。山頂に立つと、南に屋島(やしま)や高松、それに四国の山々、北には中国・山陰の山々が見渡せ、まるで雲の上から眺めているような雄大な景色が広がります。本尊の不動明王の絶大な力は、あらゆる願いをかなえてくれるといわれています。


救世堂:

円満寺:本尊は十一面観世音で、前立に美しい阿弥陀如来があります。もとは、慈恩寺(じおんじ)と言い、現在地より東北に当たる慈恩寺谷にあり、治承(ちしょう)年間、当地に移転のときに寿福院に、元禄年間に円満寺と改められました。お寺の敷地内の真柏は町指定の天然記念物で、第54番札所宝生院(ほうしょういん)の真柏に次ぐ大きさのものです。

大聖寺:大聖寺は寺名のとおり、大聖不動明王を御本尊としています。当時の開基は、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)によって開かれたと伝えられ、貞享(じょうきょう)5年(1688増学上人によって再建され今日に至っています。現在の本堂や諸堂は、天災などで荒廃してしまった建物を近代的に再建したもので、境内は落ち着いた雰囲気が漂っています

金剛寺:瀬戸内の海を見渡せる高台に金剛寺はあり、境内には鐘楼門を構えています。本堂は甍を張った勇壮な建築で、昭和45年に鉄筋で完成しました。本堂と客殿の間には庚申堂(こうしんどう)があって、「みざる、いわざる、きかざる」の三申を祀っています。

三暁庵:弘法大師に関する伝説には水に関わるものが多く残っています。大師(たいし)が巡錫の途中、松の枝に笠をかけ、裏の池で衣を洗おうとしたところ、水があまりにも少ないので小さな井戸を掘り、以来、大師の恵みの水として、年中絶えたことがなく、村人は小さなお堂を建て、9月3日を感謝の日としています。不思議なことに、この日に参拝すれば男女の縁が結ばれるので「縁結びの大師」とも呼ばれていて、未婚の男女で賑わいます。

藤原寺:

観喜寺:門を入ると、重厚な甍と大きな蘇鉄が目につきます。寺伝によると、天平(てんぴょう)年間(729〜)僧行基が開基し、草庵に如意輪観音を謹刻し、安置したのが始まりといわれています。歓喜とは、心身ともに満足したときに起こる喜びのことです。島の北側に面し、瀬戸内海と岡山県を一望できます。

雲胡庵:

薬師庵:

観音寺:山裾の小高いところを切り開いた台地にあり、十数メートルの巨大な稚児大師像に目をひかれます。本尊は幼児を抱きかかえた聖観音菩薩で、女性に「子安観音」の信仰を集めています。また、参拝者には手打ちうどんの接待があり、「うどんの寺」としてたいへん有名です。本堂は、過去2回の火災に見舞われ、焼失しましたが、「うどんの接待」など、精進を重ね、信者の協力もあり、昭和38年に現在の本堂が完成しました。


恵門ノ滝:中国の寺院の桜門を思わせるような鮮やかな色彩の門を入ると、目の前に岩山がそそり立っています。石段を上がり、鉄鎖をよじ登ると香煙のたちこめる本堂に入ります。中には、立派な厄除け不動があり、厄をのがれる人々が多数訪れています。その奥には、30年に一度ご開帳を行う秘仏の本尊不動明王像を安置しています。護摩壇は、弘法大師が100日間こもられ、人々を助けられた祈祷の道場です。

吉田庵:

福田庵:

運海寺:

本地堂:

当浜庵:

海庭庵:

楠霊庵:

今回の旅行、四国香川の小豆島に足を運び小豆島八十八箇所巡り第二弾(49札所ー88札所)を訪れ無事終了しました。

2回にわたっての小豆島八十八箇所巡り、案内板もわかりやすく、其々の寺院は距離は短く、短時間で移動でき訪れることが出来ました。

寺院は小ぶりですが、四国本土の八十八箇所巡りは時間がかかり大変ですが、小豆島は距離も短く、寺院が密集し訪れやすくお勧めです。

気軽に巡れる小豆島八十八箇所巡りでした。
 


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百七十七弾:埼玉県秩父三十四か所巡り
2014年6月14日−15日
 

埼玉県の秩父に足を運び、埼玉県秩父市・秩父郡横瀬町・秩父郡皆野町・秩父郡小鹿野町に点在し、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所とともに日本百番観音に数えられています秩父札所三十四ヶ所観音霊場を巡りました。

14日新大阪13:37新幹線のぞみで出発
16:13東京駅到達、京浜東北線経由して
17:05大宮駅到達、レンタカーで秩父方面に向かう。
19:00秩父宮野市内のホテル到着後食事を済ませて就寝。
15日7:00レンタカーで出発、秩父札所三十四ヶ所観音霊場を巡る。

札所1番誦経山四萬部寺:秩父札所1番は、秩父観音霊場、札所1番としてよく知られています。山門をくぐり中へ入ると、正面奥に朱塗り銅葺きの観音堂が端然と建っています。元禄の頃の建築といわれ、精緻な造り、荘重で気品のある堂宇は県指定文化財になっており、緑の木立とよく調和してすごく美しいです。秩父札所1番は昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化しなさい。」と命じました。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てました。四萬部寺の名前はこれによるものです。

札所2番大棚山真福寺:秩父札所1番から山道を登って行くと、木立に囲まれた真福寺が見えてきます。ここは大棚という集落であります。秩父札所2番は昔、大棚禅師が岩屋に籠って参禅していると、一人の老婆が禅師の前にひざまずき、過去の罪業を懺悔し、朝夕香華を供え仏道に帰依しました。ある日、老婆は一本の竹の杖を残して忽然と姿を消しました。禅師はこれをあわれみ、供養のために堂を建てたのが始まりだといいます。秩父札所2番の観音堂は、入母屋造り銅葺き屋根、三間四面の素朴なもので、本尊の聖観音立像は一木造りで室町時代の秀作であります。江戸時代に、札所の番号変更が行われた際本来の33番に1番加えて34番になったのだが、その時プラス1がこの真福寺だといいます。ここは、堂守が居らず、納経などは麓の光明寺で行います。

札所3番岩本山常泉寺:秩父横瀬川にかかる山田橋を渡って左折し、少し歩くと右手にこの寺が見えてきます。秩父札所3番の観音堂は丘の中腹、林の中にあって、静かな村落を見下ろすように東面して建っております。もとの堂宇は、五間四面の大きなものだったが、弘化年間に焼失したため、1870年秩父神社の境内にあった薬師堂を移築したもので、宝形屋根、三間四面のものが今の観音堂であります。秩父札所3番の本尊は室町時代の作と伝えられる聖観音の木彫像です。この堂の向拝と本陣を結ぶ虹梁にある龍のカゴ彫りと、正面梁の鳳凰があるが、カゴ彫りのみごとさに目を見張るばかりで、江戸時代の彫刻の抜群の技術におどろかされます。秩父札所3番は、むかし、ここの住職が重い病気で寝ていたとき夢に現れた観音様からお告げがありました。「境内の水を服用せよ」そのとおりにすると病気がすぐに治ったといいます。

札所4番高谷山金昌寺:秩父札所4番寺に着くと目の前に二階造りの仁王門が現れます。山門の両側には、木造りでは札所一番の大きさを誇る身の丈7尺の仁王が力強い形相で人々を射竦めています。口を大きく開いた呵形の金剛、ぐっと口を結んだ吽形の力士。左右の柱に2mほどの大草鞋がかけられています。秩父札所4番の仁王は健脚の神として尊信されてきたところから草鞋の奉納となったと言われております。金昌寺は石仏の寺として有名であります。1300余体で、その形態は羅漢、観音、地蔵、不動、十三仏などさまざまであります。秩父札所4番の寺に石仏が多いのは、1624年住職古仙登嶽和尚が、寺院興隆のため石造千体仏建立を発願し江戸を中心とする各地を巡り寄進をつのり、7年の歳月をかけて成就したものだといいます。

札所5番小川山語歌堂:秩父札所5番では美しい屋根の仁王門をくぐると、正面に三間四面の語歌寺の扁額のかかる観音堂が見えてきます。秩父札所5番は、昔、この堂を建てたのは本間孫八という分限者で、孫八は和歌の道に親しむ風流人でありました。ある日、ひとり堂にこもって歌想を練っていると一人の僧が訪ねてきて、話が好きな歌道のことに及ぶと大いにはずみ、二人は夜を徹して和歌の奥義について論じ合いました。翌朝孫八が目を覚ました時、旅の僧の姿はすでになく、のちにこの僧こそ聖徳太子の化身であったことがわかり、孫八はこの堂の名を語歌堂としたといいます。

札所6番向陽山卜雲寺:秩父札所6番寺の本尊の聖観音は1尺2寸3分(43.3cm)の立像で行基菩薩の作と伝えられている。秩父札所6番の寺宝に、清涼寺形式の釈迦像、1781年(天明元年)作といわれる紙本着色の荻野堂縁起1巻並びに山姥歯等がある。縁起によれば、行基菩薩が秩父札所6番寺地を巡回したとき、武甲山に3mを超す気性の荒い山姥が棲み、里人に害を与え、はてはこれを食らうという鬼神ぶりで、困り果てているのを聞き、さてはこれを除こうと武甲山頂の蔵王権現にこもり、27日間の清誠をこらした悪魔降伏の祈願をした。この神力呪力によって山姥も悶絶し、平伏した。よって遠国へ立ち去るよう論したところ、山姥は前非を悔いて再び里人を食らわない起請の証として前歯1枚、奥歯2枚を折り取って献じて去ったという。その後、里人が行基に請うて彫ってもらったのが今の本尊で、山姥の歯3枚も当時のまま保存されているという。

札所7番青苔山法長寺:秩父札所7番寺右側に「法長禅寺」左側に「不許葷酒入山門」と刻まれている。これは結戒の一つで、葷酒はその強い匂いで他人を苦しめると同時に己の修行の妨げになり、また酒は心を乱すので、清浄な寺内に入ることは許さないとの意味を言う。本尊は、江戸時代の作の十一面観音で、高雅な面立ちである。内陣欄間に、四国八十八ヶ所の第86番志度寺縁起の彫刻がある。竜神に明朱を奪われた藤原不比等が、それを取り戻そうとして讃岐の志度の浦へきたとき、そこに住む海女と契ってしまう。やがて海女は不比等の子房前を生む。不比等への恩愛故に海女は竜神に赴き、明朱を無事取り返したのだが、竜神に追われてしまう。きわまった海女は己の乳房を切り、その下に明朱を隠し、命とひきかえにそれを不比等に伝えたという哀しい縁起話であります。

札所8番清泰山西善寺:秩父札所8番寺へ入ると、本堂前のコミネモミジの古木に圧倒されます。1950年に天然記念物として県の指定を受けたこの大樹は、天正年間に植えられたもので、樹齢500年という老木ですが樹勢は今も良く、幹の周囲3m、高さ10m、枝張り南北18m、東西20mという豪勢さです。本堂は、間口7間、奥行6間、軒唐破風の向拝を配した寄棟造りで、向拝から入ると方形の土間が切り込まれ、観音様が身近に感じられます。本中央に十一面観音を祀り、阿弥陀三尊仏が右側に安置されています。秩父札所8番の阿弥陀様は無限の幸せを、観音、勢至菩薩は人々をお助け下さります。当山でご祈祷した肌着を着用すると、下の世話にならず長寿が保たれ安楽往生できるといいます。

札所9番明星山明智寺:秩父札所9番寺の元の観音堂は、1881年(明治14年)に落雷のため焼失し、その後建造されたものは、間口4間、奥行3間のこじんまりしたものでした。しかし、平成2年3月に、新しく建立された新観音堂は、二間六面の六角堂形式の美麗なもので、ここに御本尊をまつるとともに、従来の建物も新しく造りかえられました。秩父札所9番の縁起によれば、昔この村に親孝行な少年がいました。盲目の母の眼を開かせようと、日夜老母の手を引いて観音様にお詣りしていました。ある日のこと、老僧が現れて、この母子の健気な姿を大いに哀れみ、母に眼を救いたければ観音経の「無垢清浄光・慧日破諸闇」の二句を唱えるよう論すとそのまま姿を消してしまった。母子は、堂にこもって、一心に観音経の二句を唱えつづけていると明け方、内陣から明るい星が光りまたたき二人を照らした。そのとたん母の眼が一瞬のうちに開いて、暗黒の世界から解放されたといいます。

札所10番万松山大慈寺:秩父札所10番寺は赤い頭巾と白い腹掛けを着せられた延命地蔵に迎えられ、急な石段を上ると三間二面の楼門形仁王門があります。両袖の火灯窓をのぞくと、4尺(1m21cm)位の形のいい仁王が構えておられます。秩父札所10番の本堂は、中央部に2間半の向拝がつき、その中が土間になっていて参詣者は履物のまま入って拝むことが出来ます。本尊は、恵心僧都の作と言われる聖観音で、賽銭箱の横に40cmほどの赤渋色のお賓頭盧さまが、笑顔で座っています。信者が自分の病む個所を手でさすり、それでお賓頭盧さまの同じところをなでると、病気がそこへ移るという俗信があり、願掛けをする人があとを絶たない。そのため手沢で全身がぴかぴかに光っています。

札所11番南石山常楽寺:秩父札所11番寺は山の中腹にあって秩父の市街地が一望できます。秩父札所11番の記録によると、昔は観音堂、仁王門、庫裏など堂々とした伽藍のある寺であったと言うが、1878年(明治11年)の秩父の大火で不幸にも類焼して、一切が烏有に帰したのだといいます。その後、1897年(明治30年)に建てられたのが現在の観音堂で、三間四面、流れ向拝付き方形建築。本尊は3尺(90.9cm)ほどの立像の十一面観音で、他に行基作といわれる釈迦如来像もかざる。1920年(大正9年)4月、秩父を訪れた若山牧水が、「秩父町出はづれ来れば機をりの 歌声つづく古りし家並に」と詠んだのは、秩父札所11番寺の常楽寺前の坂道でのことです。この寺を開いた門海上人は、仁王門を造りたいと念願し、いよいよ工事が始まりました。すると重い病気になってしまいました。或夜金剛神が現れて、上人の手をとって床から引き起こしてくれました。これからめきめきよくなって、無事に仁王門が完成したといいます。

札所12番仏道山野坂寺:秩父札所12番寺の桜並木の参道の正面100mほど前方に城門を思わせる黒塗りの楼門が見えます。明治末期の火災で寺は焼失してしまったが、幸いに山門だけは残りました。入母屋二重垂木の八脚門で、左右に火灯窓(花頭窓)を配し、自然木の丸太を柱として上層・橡・勾欄をまわした簡潔で重厚なところは禅寺に似つかわしい風格を保つ。楼上には阿弥陀・釈迦像・十三仏像が安置され、階下両脇には十王をまつっております。秩父札所12番の本堂は六間四面で、内陣にまつられている本尊は、一木造りの藤原時代の作と言われている聖観世音で、優しい顔立ちをした豊麗な美人を思わせるような立像であります。昔、甲斐の国の絹商人がここを通りかかったとき、山賊に襲われもはや叶わぬ命と一心に南無観世音を唱え続けた。すると肌のお守りが光明雷のごとく輝き、賊どもは眼を射られて逃げ去った。観音の功徳に感泣、後にこの地に堂宇を建て、観世音を勧請してまつったのが秩父札所12番寺の草創だと言われております。

札所13番旗下山慈眼寺:秩父札所13番寺の入口には薬医門と呼ぶ切妻造りの黒門があり、高い地輻をまたぐと左手に鐘楼、右手に経蔵と薬師堂が並んで建ち、正面が観音堂です。1878年(明治11年)3月の秩父大火で焼ける前の堂は広壮なものだったが、1901年(明治34年)頃再建されたのが今の堂です。三間四面の小柄ながらも華麗な装飾を施した堂であります。秩父札所13番の本尊は行基作といわれる聖観音で脇仏は阿弥陀三尊。その一体が前述の火災の際に火をかぶり今も痛々しいお姿ながら残ります。この寺には、一切経輪蔵があります。堂の中心に輪蔵形式の経庫があり、心柱の上に六角灯篭型の経蔵を置いて回転するようにしたもので、正面に釈迦像を安置し、他の五辺には黄檗版一切経1630巻が収めてあります。これを回転すれば必要な経文が取り出せるし、回しながら礼拝すれば読誦したのと同じ功徳があると言われます。なお、秩父札所を開創した十三権者の像がまつられているのは、秩父札所13番寺であります。経蔵の隣にある薬師堂は、薬師瑠璃光如来即ち目の神様として「め」の文字を入れた絵馬がたくさん奉納されております。

札所14番長岳山今宮坊:秩父札所14番寺の近くには今宮神社があります。この神社と今宮坊は同じところにありました。長岳山正覚院金剛寺といい聖護院直末の寺で修験道の大宗でありました。秩父札所14番の屋根に宝珠をのせた観音堂は、間口奥行とも三間の方形造りの飾り気のない端正な建物で、本尊は1尺9寸(約57.6cm)の木彫漆箔置き・半跏趺坐像の聖観世音です。701年役行者が、この社の境内の池に、仏法を守り水を司る神として八大龍王をまつったところから、今宮神社は八大宮とも呼ばれております。秩父札所14番観音堂は、元来今宮坊の境内にある一堂宇で、巡礼者は八大宮をお参りしたのち参道を通って隣接の観音堂にお詣りするのを通例としていました。むかし、秩父へ武田軍が攻めこんで来た時、石原某は信玄の勘気にふれて切腹を命ぜられました。石原はこのお堂にこもって終夜観音様を祈りつづけていました。すると切腹直前に早馬が来て許されたという話が伝わっております。

札所15番母巣山少林寺:秩父線の踏切を渡ると石段の上に白塗り土蔵造りの本堂があります。札所15番寺は1878年の秩父大火の際、この寺も例外なく焼失したので、本堂再建の際、内部は和式ながら火災予防の見地から木造の外側をすべて白色の漆食塗りで仕上げたもので、札所中唯一の土蔵造りの堂であります。札所15番の参道の入口に「五葉山少林禅寺」とあるので、訪れる人は間違ったと迷う人も多いと思います。もともとこの寺は母巣山蔵福寺といい秩父神社境内にありましたが、明治維新の神仏判然令でいったん廃寺になりました。そのため、札所15番がなくなってしまうのを憂えた信者たちが役所に願い出て市内柳島にあった五葉山少林禅寺を現在のところへ移し両寺合わせて秩父札所15番を継承することにしたのだといいます。こんな話もあります。江州の商人が東国へ行く途中「定朝が観音像を造ったのでだめだ!秩父で暴れよう」という疫病神の声を聞きました。そこで定朝から疫病退散の観音像を授かってきてお堂を造って安置しました。

札所16番無量山西光寺:札所16番寺の無量山の額を掲げる山門をくぐると正面に本堂があります。秩父札所16番の堂の東側には前庭を囲むコの字形の回廊堂があります。中には四国八十八ヶ所霊場の本尊を模した木像が並んでおります。1783年浅間山大噴火により命を失った人や家畜の精霊菩提のため造営されたというが、これを拝めば四国遍路を果たしたと同じ功徳を得るといいます。この回廊堂に囲まれた中庭には二つの小さな堂があります。一つは四国八十八ヶ所に縁のある金比羅堂、もう一つが中に観音をまつる納札堂であります。。今では札所中唯一となってしまったこの納札堂だが、その柱には無数の釘跡が残っていて、当時の殷賑ぶりが想像できます。札所を巡拝することを「札所を打つ」といいましたが、こうした行為から生まれた言葉であります。こんな話もあります。あるとき住職が月を眺めていると、老婆が現れて、「生前欲深だったので、死んでも苦しんでいる。ここへ観音様を導くからぜひ冥福を祈ってもらいたい。」といった。やがて千手観音像が到来したので、老婆の冥福を祈ったといいます。

札所17番実正山定林寺:壬生良門という殿様が狩りに来て近くの寺で雨宿りした。利口そうな坊主がいたので名を尋ねると以前忠言に立腹して追放した林定元の遺子なので驚いた。殿様は怒りっぽい性格だった。そこで前非を悔い林定元をともらうため建設したのがこの秩父札所17番寺と言われています。秩父札所17番は1963年に再建されたもので、ここに掛けられた銅鐘は、高さ138cm、直径77cmで、鐘の周囲全体に西国・坂東・秩父百観音の本尊を浮き彫りにし、各寺の御詠歌を刻みつけた見事な物です。この鐘の由来は、昔ある人が妊娠の身でありながら秩父巡礼に出ました。途中17番付近までくると急に産気づき、赤子を産み落としてしまいました。困り果てた女は赤子を油紙に包み、寺のほとりの沼に棄てて巡礼をつづけ、やっとのことで結願を果たしました。家へ帰ってみると、捨てた筈の赤子が土間に立っている!驚いてそこを掘ってみると土の中に定林寺のご本尊の姿が浮かびでました。女はわが身の行為を恥じ、懺悔し、その罪ほろぼしに梵鐘をつくり寄進したのがこの鐘だといいます。

札所18番白道山神門寺:秩父札所18番寺は、もと14番今宮坊に属する修験寺で、当時は大いに栄えたというが、寛政(1789〜1800)のころ焼失、今の観音堂は天保時代(1830〜1843)に再建されたと言われています。秩父札所18番の堂は宝形銅葺き、三間四面で周囲に縁勾欄をめぐらし、正面に三段の階をつけ、大唐破風の向拝を配した小さいながら風格のある堂です。秩父札所18番の寺伝によると、ここは昔神社だったが、いつの間にか荒廃し、再興を願った村人達は神楽を奉奏しました。すると巫女に霊験があり、観音の霊地すなわち寺を建てよとのお告げがありました。村人達は聖観音を安置し、霊場を開いたのがその創始だといいます。本尊は聖観音立像で高さ3尺1寸(93.9cm)、両手に蓮華をもつ室町時代の作です。ここには、札所三十四ヶ寺の本尊を彫った版木があり昔はこれを刷って信者に配ったといいます。

札所19番飛淵山龍石山:秩父札所19番寺は起伏のある大きな砂岩の磐上に観音堂が建っている。三間四面の堂だが、柱間が他の札所の堂と違い、中の間15尺(4m54cm)、左右9尺(2m72cm)の変形なので堂々として見る目に大きい。秩父札所19番の本尊の千手観音は高さ1尺5分(45.5cm)の寄木造りの坐像で、室町時代の作と言われる。縁起によれば、弘法大師の作で、遠く京都から飛んで来てここに定着した霊験あらたかな尊像だとあり、山号の飛淵山はこれによるものだという。秩父札所19番は昔、ある年の事、ひどい日照りがつづき人々は飢えと渇きで苦しんでいた。この地を巡錫した弘法大師が雨乞いの業法を修したところ、突然大岩が二つに割れ大きな竜が天に昇った。間もなく大雨が降り、人畜草木ことごとく生気を取り戻し、五穀も豊穣となったという。

札所20番法王山岩之上堂:秩父札所20番寺は秩父札所中最古の建物で境内は荒川に臨む断崖の上にあり、三間四面の堂は向拝から土間に入れるようになっており、須弥壇が間近に仰げるので観音さんと共にあるような感じです。宮殿形の春日式厨子は、扉の見返りに三十三観音・日・月・風・雷神像をとりつけ、内部は金箔押し。秩父札所20番の本尊は2尺3寸5分の聖観音立像で、共に藤原時代の逸品です。堂内に猿子の瓔珞が飾られています。堂内に猿子の瓔珞などを連ねて編み、仏像の頭、首、胸などにかける飾り物が飾られています。千疋猿とも言われ、小切れと綿を使って小猿の形に縫い上げたものを天蓋一張りに千個、観音堂の天井から吊るし飾ったものであります。秩父札所20番は昔、この地の人が実家の母の看病で荒川を渡ろうとしたが大水で舟がなくて困っていると小舟が現れて渡してくれた。それは観音様が子供に姿をかえて助けてくれたのだという話があります。

札所21番要光山観音寺:秩父札所21番寺は平将門が戦勝祈願のため矢を納めたので矢納堂、もっと古くは日本武尊が東征の折、ここに立ち寄り武運長久・東国平定を祈り、鏑矢を納めたから矢之堂。また八幡大菩薩が邪神悪魔退治の際、その放った矢が魔族を射抜いたまま、ここに落ちたからこの名がついたのだ、とも言われております。秩父札所21番は1923年近くの小学校が火災のとき飛び火して、観音堂、庫裏など全て焼けてしまった。だが、本尊の聖観音は幸い火難を逃れたので、近在の人々は火除けの観音様と呼んでいます。ある奇特な人が、折角の巡礼だから1番を1円で振出し、2番は2円と倍々で賽銭をあげようと心に決めて出発しました。3番、4番、・・・10番の512円位まではよかったが、15番になると1万6384円となります。あわてて計算してみたら21番では104万8576円、結願寺の34番になると驚くなかれ85億8993万4592円となります。早速誓いを改め観音さんにお詫びしたという話だが、よく考えてから決めたほうがいいですね。

札所22番華台山童子堂:秩父札所22番寺童子堂の由来は、大昔、子供の間に天然痘が大流行したとき、山奥の華臺山から観世音を勧請し祈祷したところ、疫病はぴたりと治まったといいます。以来子供の病気一切に霊験あらたかだというのでこう呼ぶようになったと言われています。秩父札所22番の仁王門は単層茅葺で、門の両袖に仁王像が安置されています。観音堂は三間四面、方形瓦葺きでめぐりの勾蘭つきの浜縁も、前面を下げて上がりやすいよう工夫されています。正面唐戸の風神、雷神、迦陵頻伽(極楽浄土にいる霊鳥)の図柄彫刻が人目を引く。秩父札所22番は昔、讃岐国の欲深い人が旅僧が一食の布施を願ったら与えずののしった。するとこの人の息子が犬の姿に変わった。びっくりしたが許してもらえずこの子を連れて西国、坂東、秩父巡礼をしてここまで来たら元の姿になったという話があります。

札所23番松風山音楽寺:秩父札所23番寺は、秩父市街地や武甲山をはじめ秩父連山が一望できる山の中腹にあります。秩父札所23番の観音堂は、三間四面、銅板葺きの方形造りで、まわりに勾欄つきの浜縁をめぐらしている。この回廊の幅が広く、柱間が広いので、三間四面とはいえ他の観音堂より一回り大きく見える。堂前の鐘楼には、市の文化財に指定されている梵鐘がある。1768年(明治5年)に鋳造されたもので、高さ120cm直径69.7cmで、鐘身の上方に108個の乳頭、下部には聖観音、不空羂索観音、十一面観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音の六観音が浮き彫りされている。また、秩父札所23番の観音堂の裏手5〜6分の所に十三地蔵尊がある。昔、慈覚大師がこの地へ来て、ここへ寺を造って悩める人々を救ってやりたいと考えた。この山へ登りはじめたが道に迷って困っているとき一頭の小鹿が現れて大師を案内したという話があります。

札所24番光智山法泉寺:秩父札所24番寺に入るとすぐ目の前に116段一直線の階が迫っています。数えてみると117段あるが、一番上は観音の霊地で階段ではないから116段の階と言うのが正しい。銅板葺き四注屋根、三間四面のこの堂は、三間の表一間を吹放しにし、左右の袖に小さな仁王尊を納めてあります。がんを設けて仁王尊をまつり込む、つまり仁王門と観音堂を一宇とした造りは、堂の柱が全部八角柱であると共に、他に例を見ない特徴と言えます。秩父札所24番の本尊は、坐高7寸6分(23cm)一木造りで胡粉彩色を施しており、袈裟には切箔をおいた宗朝風の美しい姿であります。昔、信仰深い女性が、口中の腫物で困っていた。秩父から来た僧が「この柳の枝で口を洗え」と教えたのでそうするとすぐ治ったといいます。秩父札所24番の縁日の4月18日には、集落の男女が各戸一人ずつ出て廻り念仏を行います。境内いちめんに咲いた桜の下で、人々は輪になって子供のにぎりこぶしほどの木の玉を連ねた長い数珠を南無阿弥陀仏の称名を繰り返しながら順次わきに座る人に廻します。

札所25番岩谷山久昌寺:秩父札所25番寺入口に「御手判寺」の大石柱。御手判というのは、札所開創の時、性空上人らが冥土からもたらした石札の一種で閻魔大王の手形石だと言われています。石柱のすぐ向こうに小さな仁王門。千社札の一枚も貼られていない茅葺の門は小さいながら品格高い仁王像を両袖に納めています。秩父札所25番の観音堂は、三間四面、宝形屋根流れ向拝の建物。1尺7寸1分の一木造りの観音を拝し、背後の土手に上ると弁天池がひろがります。古くは、この水上に弁天堂がまつられ参詣したというが、今は池の対岸にある久昌寺の境内に移されている。境内には、たくさんの猫がいるが、皆、すてていくのだと言う。なんともおろかなことです。猫を捨てるためにこの寺にくる人がいるなんて・・・。観音様のバチがあたるでしょう。昔よこしま女がいて村を追われ洞窟の中に住んでいた。娘は気立てのよい子で母の死後もその菩提のため寺を建てたいと念願していた。里人もその考心に打たれて助刀して出来たのがこの寺だといいます。

札所26番万松山円融寺:秩父札所26番の本堂の戒壇には、高さ1.2mの衣の下に鎧をつけた軍身姿の勝軍地蔵菩薩立像、十一面観音像、毘沙門天像などがあります。岩井堂は更に30分ほどの山の上にあります。昭和電工の間を抜け、つきあたりの琴平神社の石段を上れば、神社の奥の院をめぐって岩井堂に着きます。鳥居をくぐらず、右横の山路を登るのが本来の参道で、尾根に向かって一直線300段余りもある苔むした石の段。勾配が急なので少々きついです。登りつめると懸け造りの岩井堂が見上げるような岩山に抱かれるように建っています。間口・奥行各三間、方形屋根二重垂木、三方勾欄をめぐらした朱塗り舞台の堂であります。前面は急傾斜数丈の高さで、浜縁からの景観は左手に武甲山の山肌がせまり、前方に奥秩父の連峰が望見できるという素晴らしさです。秩父札所26番は昔、このお堂に参拝した江戸の巡礼者が、一人で手すりにもたれているとき、湧き上がる霧の中に有難いお姿を見て「極楽浄土だ!」と感激したといいます。

札所27番龍河山大淵寺:秩父札所27番寺の山道をたどり登りつめた所で白衣観音に着く。高さ16.5mの鉄筋コンクリートで、1935年11月に建立されたものです。高崎・大船とともに関東三大観音像と呼ばれるが、戦争の足音がひしひしと迫ってきた時代のこと、本来左手に蓮華を持つ筈なのに代わりに剣を持つ像に仕立てられ、護国観音と呼ばれています。秩父札所27番の旧観音堂は、山上の護国観音の付近にあったという。のちそれを麓の寺の境内に移したが、1919年4月12日、開通したばかりの秩父鉄道の蒸気機関車から吐き出された煤煙で寺もろとも焼失しました。3年後、再建されたが、観音堂の方は平成8年5月18日に落慶しました。秩父札所27番は昔、宝明という坊さんが、ここへ来た時、足の病気になり動けなくなりました。たまたま巡錫中の弘法大師が、観音像を刻んで与えました。熱心にこれを拝んだら病気が治ったといいます。この像を祀ったのがこの寺の創始だといいます。

札所28番石龍山橋立堂:秩父札所28番寺の観音像は、迫り出した70m程の石灰岩の岩壁の下に建つ。三間四面、流れ向拝を付した方形銅板葺きの堂であります。秩父札所28番の本尊は、札所中唯一の馬頭観世音で、高さ26.5cm、漆箔三眼、三面三臂の坐像で鎌倉時代の逸品だが、現在三臂並びに馬頭を欠いているのが惜しまれています。秩父札所28番の馬頭観音は、六観音・八大明王の一つで、冠に馬頭をいただき、身色は赤で、いかりの相を表し、一切の魔や煩悩を打ち伏せるといいます。ところで、ここには県指定天然記念物の橋立鍾乳洞があります。洞穴の長さは130〜140m、入口の高さ2.2m、幅3mで、内部には鍾乳石・石筍・石柱・岩皺など奇怪な形容で入った人を驚かせています。弘法大師の後姿、上り竜、下り竜、仁王の足などと名付けられた奇石の洞内くぐりは、子供たちはスリル満点の探検であり、大人たちにとっては魅力ある夏のひと時となります。また、札所境内から鍾乳洞にかけての一帯は、地質・鉱物・古生物・考古学の宝庫であります。

札所29番笹戸山長泉院:秩父札所29番寺の入口のしだれ桜の下に「篠戸山長泉禪院」と深彫りされた苔むした立派な石碑、その右側には、石の延命地蔵が「二十九番」と彫られた台座の上に座っています。秩父札所29番の昔の観音堂は、寺の前方にある小山の頂上近くの岩山に懸崖造りで建っていたが、焼失してしまったので、江戸中期に寺内に移された。間口7間、奥行5間半の寄棟瓦葺きの堂であります。一木一草に至るまで手入れの行き届いた境内は、いかにも観音の霊地らしさを感じられます。秩父札所29番の本堂正面の欄間に、寺宝の一つである板絵額があります。葛飾北斎52歳と署名入りの楼花の絵であります。またこの寺が石札堂と呼ばれるのは、1234年円教寺開山性空上人が、秩父巡礼の折納めたという古い石札があるからであります。昔、山峡の渕の中に光るものが見えるので里人は何だろうと怪しんでいました。その時、十数人の僧が現れて小笹の茂る岩屋の中の観音像を見出し、お堂を建ててお祀りしたのが寺の創始であるといいます。

札所30番瑞竜山法雲寺:秩父札所30番寺の参道につけられた10数段の石段を上ると、右側に納経所を付設した庫裏がある。前面には谷水を引き入れた池があり、その周りは手入れの行き届いたサツキで埋め尽くされています。宝形屋根、三間四面の朱塗りの堂であります。楊貴妃観音とも呼ばれる本尊の如意輪観音についての寺伝は、1319年(元応元年)鎌倉建長寺の道隠禅師が、唐朝の玄宗皇帝が寵愛した楊貴妃の冥福の為、自ら彫刻し、不空三蔵が開眼したものをこの地に招来安置したものだと説く。高さ39cmの如意輪観音は、片ひざを立てた金色燦欄たるもので、ふくよかな手や頬の流れ、華やかな冠や瓔珞など、まさに中国渡来だという寺伝も納得できる。この寺に保存されている納札は、全国的にも珍しい木の板に陰刻されたものであります。6枚現存されているが、秩父札所の貴重な一級資料ではなかろうか。

札所31番鷲窟山観音院:秩父札所31番寺の水子地蔵の紫雲山地蔵寺は、山を切り開き、ひな壇式に地蔵が並べられている。この世に生まれ出ることのできなかった水子が安らかに成仏できるよう、その菩提を弔うため石彫の地蔵を納めた霊場で、一体一体に赤い前掛けや風車が供えられています。そこを突切り、トンネルをくぐり沢沿いの道を行くと、右手の山麓に仁王門が見えてくる。仁王は身の丈1丈3尺、台座まで入れると4mを超す札所第一の高さを誇る荒削りの石像で、1868年長野の石工藤森吉弥一寿の作と言われます。秩父札所31番の門をくぐると、不規則に踏石を置いた急な石段道で、上りつめると三方を岩壁に囲まれた平坦地で、正面奥に近年再建されたコンクリート造り、三間四面の観音堂が建っています。堂の左側岩壁から一条の滝が落ちていて、その落差は約60m、滝下の池のそばには不動明王が立っています。秩父札所31番は昔は、水量も豊富で修験者たちが滝に打たれて荒行をしたといわれ、それを証するように池の近くの断崖には体長18cmほどの爪彫り千体仏が浮き彫りされております。

札所32番般若山法性寺:秩父札所32番寺の般若山の額をかかげた山門は、白木の精巧な造りで、札所では唯一の鐘楼門で楼上は鐘を吊る為、化粧屋根になっています。舞台造りの観音堂は、方形屋根、三間四面で内陣の外側は吹抜けになっています。秩父札所32番の本堂の前立に、冠の上に笠をかぶり、櫂を持って船を漕いでいる珍しい観音像が安置されています。観世音が船に乗って出現されたという縁起にもとづく立像で、この寺のことをお船観音と呼ぶのはこれによる。また、奥の院である山上の岩場が大きな船の舳先の様な形をしているのも名の由来の一つであります。そこには、等身大の青銅製の大日如来がまつってあります。札所32番の観音堂の寺宝の一つに長享番付がある。札所が34ヶ寺に編成替えになる前、つまり33番寺番付を記したもので、1488年(長享2年)の記録であります。昔、巨岩からあやまって落ちてしまった江戸の町人の手代の話があります。観音様のご利益でけがをしなかったばかりか、盲目の主人の眼が開いたといいます。

札所33番延命山菊水寺:秩父札所33番寺の参道の正面に「正大悲殿」の額を掲げる間口8間、入母屋造りの観音堂があります。向拝の内部は広い土間で、本尊を間近く拝むようになっています。秩父札所33番の本尊は聖観音一木造りの県指定文化財、藤原時代の秀作。右手の壁面高く、名高い「子がえしの絵図」が掛かっています。秩父聖人と言われる井上如常が奉納したものであります。如常はこの絵の中で、嬰児殺しの悲惨な風習を戒めて、わが子を圧殺するなど極悪非道の所業だと母親をはげしく責めています。そして左側には孝行和讃と、唐の楊夫人がわが子を差し置いても姑の老婆に乳を与えている彩色絵の奉額があります。秩父札所33番の境内には数基の古碑があるが、中でも芭蕉の句碑は有名で寛保年間1741〜1743)に翁の50回忌に建てられたもので、「寒菊やこぬかのかかる臼のはた」と刻まれ、秩父で最も古い句碑といわれています。

札所34番日沢山水潜寺:秩父札所34番寺の前に、結願の御砂ふみがある。平らな黒御影石に二つの足形が揃えて彫ってあり、「足形の上で拝めば、百観音巡礼の功徳がある」と刻まれています。この上に乗って手を合わせると、西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34ヶ所の合わせて日本百観音巡礼を果たしたという爽快な気分になるから不思議です。秩父札所34番の観音堂は、寛政の頃(1789〜1800)、江戸在住の人々の寄進によって再建されたと伝えられる方形屋根、四間四面の建物で、周囲の環境と調和して結願の寺にふさわしい森厳な寺域であります。観音堂に向かって右奥の岩下に、自然の岩窟があり、清水が湧き、かたわらに石仏がまつってあります。秩父34ヶ所の巡礼を終えた人達が、ここで結願の水垢離をとって、笈を解いたところである。秩父札所34番の寺名はこの行事に由来します。苔むした大きな水鉢にあふれる清水を口に含むと、山の霊気がこもったようなすずやかな味で、身も心も清冽な気分に満たされます。

15:30終了、大宮に向かう。
17:20大宮駅到達、高崎線、山手線経由して
18:10東京駅到達。
18:20東京駅新幹線のぞみで出発
20:55新大阪駅到達。

今回の旅行、埼玉県の秩父に足を運び、日本三大霊場の一つ秩父札所三十四ヶ所観音霊場を車で巡り楽しみました。

庶民の霊場として有名な秩父札所三十四ヶ所観音霊場、西国とは違い規模は小さく、派手さはないが、無料の駐車場が整備してあり、各霊場は集中して間隔も短い、短時間で巡れる霊場でした。
早朝から夕方までの短時間で34か所すべてを巡ることができました。

短時間短日で巡れる霊場としてお勧めですね。険しい道のりもなく快適に訪れることができます。

































飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百七十五弾:坂東三十三か所巡り第一弾(第1番ー第14番札所)
2014年5月31日−6月1日
   

関東地方に足を運び、源平の戦い後、敵味方問わず供養や永久の平和への祈願が盛んになり、源頼朝の篤い観音信仰と、坂東(関東)の武者が西国で見聞した坂東三十三観音への想いが結びつき、鎌倉時代初期に坂東三十三観音が開設。やがて、秩父三十四観音を加えた日本百観音へと発展し、現在に至ります。この坂東三十三か所の第1番ー第14番札所を訪れました。

5月31日13:37新大阪新幹線のぞみで出発
15:55新横浜到達、レンタカーで鎌倉に向かう。
17:10鎌倉到達。

杉本寺:天平6年(734年),行基菩薩が自ら彫刻した十一面観音像を安置したのが始まりといわれる鎌倉最古の寺。その後,光明皇后の恩召により行基が本堂を開創。仁寿元年(851年)には慈覚大師が,寛和2年(986年)には花山法皇の命を受けた恵心僧都が,それぞれ十一面観音像を安置し,三尊同殿となった。文治5年(1189年)11月23日の夜,火災が起こったが,三体の本尊自らが境内の大杉の下に難を避けたので,以後,「杉の本の観音」と呼ばれるようになった。建久2年(1191年)9月18日に源頼朝が再興し,以前の三尊像を内陣に安置するとともに,別の十一面観音像を寄進。なお,行基作の十一面観音像には信心がなく,御堂の前で馬に乗る者を必ず落馬させるという言い伝えがあり,当時は下馬観音と呼ばれたが,大覚禅師が祈願した後に袈裟で尊像の眼を覆うと,落馬する者もいなくなった。このため,以後行基作の尊像は覆面観音とも呼ばれる。

岩殿寺:養老5年(721年),大和・長谷寺を開き,また観音霊場めぐりをはじめたとも伝えられる徳道上人が,ここで熊野権現の化身である老翁から霊洞があることを聞き,祠を建てた。その数年後に僧行基が訪れ,十一面観音像を安置したのが開創だと伝えられる。治承4年(1180年)源頼朝が石橋山の敗戦で,船により房総に逃れる際,観音さまが船頭となって助けたとされており,以来,源頼朝は観音さまを守り本尊としたことにも示されるとおり,源一族の帰依は厚い。また,天正19年(1591年)には観音堂を徳川家康が再興したと伝えられている。文豪泉鏡花ともゆかりが深い。観音堂の脇の瓢箪池は鏡花の寄進である他,小説「春昼」はここで書かれた。

安養院:田代寺は,建久3年(1192年),源頼朝の家臣で,戦場でも僧「然が宋から持ち帰った絵姿を鎧の中に入れるなど観音への信心篤い田代信綱が,数々の武功を立てられたのも観世音の加護あってのことと,報恩のために尊乗上人を開山として建立された。一方,当時は別の寺院であった安養院は,嘉禄元年(1225年)に,北条政子が夫である源頼朝を弔うため,祗園山長楽寺が元となっている。(同年,政子も亡くなったため,安養院に祀られた)長楽寺は元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡の際に兵火で焼失したため,浄土宗名越派の開祖である尊観上人が開いた寺で,同じく焼失していた善導寺跡に移り,二寺は合併されて安養院となった。延宝8年(1680年),安養院は再度火災に遭ったが,その際に田代寺の千手観音像を移して祗園山安養院田代寺として再復した。

長谷寺:養老5年(721年)大和・長谷寺の開山である徳道上人は,1本の楠から2体の十一面観音を作り,1体を大和の長谷寺の本尊とした。もう1体を祈請の上で海に流したところ,天平8年(736年)に三浦半島に漂着したため,藤原房前が徳道上人を招請し,この漂着した観音像を本尊として開山したのが長谷寺の始まりと伝えられるが,正確な寺の創建時期や経緯については明らかになっていない。康永元年(1342年)には足利尊氏が本尊を金箔で修復,明徳3年(1392年)には足利義満が光背を作ったといわれ,歴代の権力者の庇護はあつかったが,慶長12年(1607年)の徳川家康による再興時の棟札には「海光山長谷寺荒廃、七零八落年久矣」とあり,。慶長12年(1607年)の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗したが,明治以降に単立となった。

平塚方面に向かう。
16:30平塚市内のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

6月1日7:00レンタカーで出発、小田原方面に向かう。

勝福寺:天平勝宝5年(753年),唐の高僧である鑑真和上が招来し,孝謙天皇に献上された十一面観音像を,道鏡が祀ったのがはじまりである。坂東霊場記によると,道鏡が下野国薬師寺戒檀院再興に向かう途上で,観音像が急に重くなり,ついには一歩の進めなくなったために,そこに一宇を建てて祀ったとされる。創建当時は補陀洛山弓削寺といい,弓削氏の氏寺であり,また,場所も2キロほど離れた千代村にあった。天長7年(830年),本尊の霊告により現在の地に移された。太田道灌が戦国時代の初めに城を築いた折に移転したともいわれる。応永25年(1418年)には小田原城の鬼門鎮護の道場となって,称光天皇から勝福寺の勅号が与えられた。江戸時代には相撲興行が行なわれ,名力士雷電が,土地の力持ち大岩大五郎を投げ飛ばした話が伝わる。文化元年(1804年)には,二宮金次郎,のちの二宮尊徳が18歳のとき,旅の僧の「観音経」の訓読を聞いて感激し,「利他」に生きるという心を授かったという。 

平塚方面に戻る。

光明寺:大宝2年(702年),海女が相模湾に金目川が流れ入る小磯の浜で潮を汲んでいたところ,木片が桶に入った。海女は木片を捨てたが,何度捨てても入るので不思議に思って持ち帰ったところ,行脚の僧から聖徳太子御作の観音像だと教えられ,家の奥に祀ったのが始まりとされている。のちに道儀上人が一宇を建立,30年後の天平年間(729年〜749年)に行基が観音像を刻み,その胎内に海女の感得した観音像をその胎内に納めた。この故事により,「お腹籠りの観音さま」と呼ばれ,北条政子が実朝出産の折に安産を祈願している。現在も安産にご利益があるとされている。明応年間(1492年〜1501年)に観音堂が建立された。本尊を安置する厨子や前立本尊も同時代の作であるという。元禄年間(1688年〜1704年)に慶賀和尚により中興された。 

長谷寺:神亀2年(725年),この地から400メートルほど離れた地から泉が湧き,五色に輝いた。通りがかった僧行基が祈願したところ,泉から十一面観音の金像が現れたため,行基は近くの楠で十一面観音像を刻み,金像を胎内に納めて,堂宇を建立したのがはじまりと伝えられる。大同2年(807年)弘法大師が密教の道場にした。また,別の縁起も伝えられる。かつて,この地の領主であった飯山権太夫が旅の僧に一夜の宿を提供したところ,僧からお礼に大和長谷寺の本尊と同木という観音像を授かった。権太夫はさっそく一宇を建立し,供養を行なったが,この旅僧こそが弘法大師であったという。建久年間(1190年〜1199年)に源頼朝が秋田義景に仁王門を造営させた。 

星谷寺:天平年間(729年〜749年)に行基がこの地を訪れたとき,「見不知森」の中に法華経を読経する声を聞いた。声の主を探すと,古木の下の観音像であったという。行基は村人にこのことを告げ,堂宇を建立したのが開創と伝えられる。延暦年間(782年〜806年)には,坂上田村麻呂が東国遠征の途中に立ち寄り,戦勝の祈願を行なっている。鎌倉時代には兵火で多くの伽藍が焼失し,野火で観音堂も全焼したが,本尊は火中から飛び出し,南に600メートルほど離れた樹の上に止まって光明を放った。この場所に現在の本堂が再建されることとなった。

埼玉方面に向かう。

正法寺:養老2年(718年),沙門逸海が当地で修行していたところ,僧侶に化した観音が夢に現れたので,岩殿山の山腹のがけを削り,千手観音像を岩窟に納めたのが開創であるといわれる。延暦年間(782年〜806年)には坂上田村麻呂が奥州平定の途上で,悪龍退治をしたという伝説も伝わっている。それは,この地に棲みついた悪龍の退治を田村麻呂が周辺の住民に依頼されたため,岩殿の観音に祈願したところ,6月にも関わらず大雪が降り出した。その大雪のなかに1ヶ所だけ雪の消えている峠を見出し,まさに悪龍のいるところとして観音様から授かった矢を放ったところ,見事に悪龍は射止められたというものである。この田村麻呂への霊験により,堂宇が立派に揃えられ,鎌倉末期には66坊を擁する関東屈指の大伽藍を構えるに至ったという。永禄10年(1567年)松山城合戦の兵火により焼失したが,天正2年(1574年)僧栄俊が再興した。

慈光寺:白鳳2年(673年),慈光翁が僧慈訓に命じて千手観音増を刻ませて祀ったのが始まりといわれる。白鳳9年(680年)には役小角が西蔵坊を設けて修験の道場を開いた。やがて,鑑真和上の高弟,釈道忠により釈迦如来像が大講堂に安置され,全山の堂宇が整えられた。その後,慈覚大師が密教の法門を伝えたという。平安時代には清和天皇から「天台別院一条法華院」の勅額を与えられるほどに栄えた。貞観13年(871年)には,大般若経600巻(152巻が現存。国重文)が寄進されている他,文治5年(1189年)には源頼朝から奥州藤原氏征討のための祈願に際して,愛染明王像と寺領1200町歩が寄せられている。文永7年(1270年)には,後鳥羽天皇,藤原兼実らが法華経など全23巻を書写した法華経一品経が奉納されている。しかし,後に太田道灌の軍勢の討ち入り,上田朝直による焼き討ちがあり,江戸時代に再興されたものの,75の僧坊があったという往時の復興を見るには至らなかった。

安楽寺:僧行基がこの地を霊地とし,聖観世音菩薩を刻んで岩崖に納めたことがはじまりといわれる。その後,坂上田村麻呂の奥州平定の際,戦勝を祈願して七堂伽藍が建立された。天慶3年(940年)の平将門の乱に際しては,百院百壇を設けて修法し,叛乱を治めるのに効験があったといわれている。鎌倉時代には,源頼朝の異母弟である範頼が平治の乱(1159年)の後助命されて稚子僧としてあずけられたが,後に領主となってからは所領の半分を寄進,三重塔や大講堂などを建立した。しかし,当時のものはすでに焼失してしまい,現在の本堂は,寛文元年(1661年),秀慶法印によって再建されたもの。

慈恩寺:天長元年(824年),慈覚大師が勝道上人や弘法大師の足跡を尋ねて日光山に登った際,日光山の頂からスモモの実を空に投げると,この地に落ちて一夜にして李花の大樹となったため,千手観音を刻んで一宇を建立したといわれる。慈恩寺の名は,唐の玄奘三蔵法師が天竺から持ち帰った仏典の漢訳に努めた大慈恩寺にちなんで命名されたという。中世には66もの僧坊を抱える大寺で,天正19年(1591年)には徳川家康から寺領100石の寄進を受けるなど寺勢を誇っていた。元禄7年(1694年)の古地図でも,約13万5000坪の境内を構えていたことが示されている。また,日光輪王寺宮法親王歴代の参籠所にもなっていた。境内から500メートルほど離れたところに,玄奘三蔵法師の霊骨塔が建てられている。
昭和17年(1942年),南京を占領していた日本軍が稲荷神社を建立しようと整地していた際に偶然発見された玄奘三蔵法師の頂骨で,昭和18年(1943年)には南京政府に返されたが,「日中の仏教徒が永遠に法師の遺徳を大切にする」という趣旨で分骨されたものである。分骨は当初,芝の増上寺に安置されたが,後に慈恩寺に移され,昭和28年(1953年)霊骨塔が建立された。

東京方面に向かう。

浅草寺:推古天皇36年(628年)3月18日,檜前浜成・竹成という兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ,小さな観音像が投網にかかった。当地の豪族である土師直中知に相談し,草堂に祀ったのが始まりといわれる。大化元年(645年)には勝海上人が新たに観音堂を建立し,本尊を秘仏と定めた。さらに,天長年間(824年〜834年)には慈覚大師が「お前立ち」の観音像を刻み,さらに信仰が深まったといわれる。鎌倉時代は源頼朝が深く帰依,江戸時代には徳川家の祈願所となったことにより,坂東札所第一の巨刹となった。浅草寺が坂東の第一番札所でないことを不満に思った江戸っ子の「江戸自慢十三番がこのくらい」という川柳がある。

横浜方面に向かう。

弘明寺:養老5年(721年),天竺の善無畏三蔵法師が開設,その後天平9年(737年)に行基菩薩が当地で霊感を得て草庵を建立し,観音像を刻んだのが始まりとされる。弘仁年間(810年〜824年)には,弘法大師が善無畏と行基の後を継いで伽藍を建立し,一千座の護摩を修した。長暦年間(1037年〜1040年)に疫病が流行した際には,光慧上人が秘法を修し,宝瓶から霊水を注いで民衆を救ったという故事が残る。鎌倉時代には源家累代の祈願所として,江戸時代には坂東観音三十三ヵ所の札所として栄えたが,後の廃仏毀釈により,寺有地の多くが市などに譲渡された。

16:30新横浜到達。

17:13新横浜新幹線のぞみで出発
19:30新大阪到達。

今回の旅行、関東域に位置する西国三十三か所巡りを参考にした坂東三十三か所巡りの第1番ー第14番までの14か所の霊場を巡りました。

神奈川県からスタートして埼玉・東京・横浜を時計回りで移動し訪れました。

西国三十三か所の霊場のような規模、派手さはなく、小規模で地味ですが、比較的町中にあり訪れやすい霊場でした。

次回は15番からスタートし栃木県、茨城県の霊場を訪れる予定です。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百七十二弾:西国三十三か所巡り第三弾(第28札所ー第33札所)
2014年5月10−11日
   

西国三十三か所巡り第三弾、日本海沿いの第28札所成相寺からスタートして最東端の岐阜の第33札所華厳寺までの六ヶ所を巡りました。

10日12:30車で出発、近畿中国舞鶴自動車道経由して宮津方面に向かう。
15:10宮津到達。

成相寺:日本三景の一つ天橋立を一望する景勝地にあり、本尊は「身代わり観音」や「美人観音」として有名である。
また、願い事が必ず成り相う(かなう)お寺としても知られている。他にも悲しい伝説を秘めた「撞かずの鐘」や、左甚五郎作の「真向の龍」、雪舟筆「天橋立図」にも描かれた五重塔も平成17年に復元される。本堂、鎮守堂、鐘楼は京都府指定文化財となっている。
一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となった。死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈った。すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に狼の為傷ついた猪(鹿)が倒れているのに気付いた。僧として、肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して猪(鹿)の左右の腿をそいで鍋に入れて煮て食べた。やがて雪も消え里人達が登って来て、堂内を見ると本尊の左右の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散って居た。それを知らされた僧は観昔様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになった。此れよりこの寺を成合(相)と名付けた。

舞鶴方面に向かう。

松尾寺:当寺は、西国二十九番札所で、本尊馬頭観世音は、三十三霊場中唯一の観音像であり、農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通、更には競馬に因む信仰を広くあつめている。
松尾寺がその中腹に位する青葉山(699米)は、福井縣から望見すれば、東西に並び立つ双方が一つに重なり、その秀麗なさまは「若狭富士」と呼称されている。 「富士なくば 富士とやいわん 若狭なる 青葉の山の 雪のあけぼの」 この山は死火山で、昔火焔を吹き上げ、噴流は直下の日本海に注いで壮絶な水煙をあげていたものと思われる。この厳しい表情をたたえた険峻な山は、早くから修験道修行の場となっていた。 時に慶雲年中、唐の僧、威光上人が当山の二つの峰を望んで、中国に山容の似た馬耳山という霊験のある山があったことを想起された。登山したところ、果せるかな松の大樹の下に馬頭観音を感得し、草庵を結ばれたのが、和同元年(708年)と伝えられる。 爾米、今日まで千三百年を経ているが、その間、元永二年(1119年)には、鳥羽天皇、美福門院の行幸啓があり、寺領四千石を給い、寺坊は六十五を数えて繁栄した。当地方唯一の国宝の仏画も、美福門院の念持仏であったといわれる。 その後、正徳6年(1716年)まで、五度火災に見舞われたが、享保十五年(一七三〇年)牧野英成によって、漸く今日の姿を整えるに至った。

敦賀方面に向かう。

18:20敦賀市内のホテル到着後繁華街を散策して食事を済ませてから就寝。

11日7:30車で出発
8:40長浜港到達。

9:00長浜港船で出発
9:30竹生到達、散策。

宝厳寺:宝厳寺は、神亀元年(724)聖武天皇の勅願による創行基菩薩の開基であります。豊臣秀吉の遺命により、秀頼が桃山城の一部を寄進したと伝えられる西国三十番札所観音堂、藤原時代(平安後期)の工風による高雅華麗な大弁才天根本道場などがあって、琵琶湖に浮かぶ島の景趣は"深緑 竹生島の沈影"として有名であります。
竹生島宝厳寺は、神亀元年(724)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民富楽となるであろう」というお告げを受け、創行基を勅使にとしてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻しご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立し、千手観音像を安置しました。それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師など来島修行されたと伝えられています。当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長七年(1602)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や唐門などを移築させています。明治時代、この島は大きく変化し、当山より都久夫須麻神社(竹生島神社)が分かれました。古来、現在の神社本殿を当山は本堂とし、本尊大弁才天を安置しておりましたが、明治元年(1868)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、当山を廃寺とし、神社に改めよという命令が下りました。しかしながら全国数多くのご信者皆様の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなりました。本堂のないままに仮安置の大弁才天でしたが、昭和十七年現在の本堂が再建されました。本尊大弁才天は、日本三弁才天の一つとして、観世音菩薩は西国三十三ヶ所観音霊場の第三十札所として参拝の方々の姿が絶えずその詠歌の声が響いています。月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を つむ心地して古くは平経正が琵琶をひいて戦勝を祈願し、謡曲『竹生島』など数多くの音曲にもこの島の美しさがたたえられています。いまもなお、神秘とロマンが一杯に秘められています。

10:50竹生島船で出発
11:20長浜港到達。

車で岐阜方面に向かう。

華厳寺:西国三十三番満願霊場美濃国谷汲山華厳寺は「谷汲さん」の名でも親しまれ、西国札所の中で最も東の岐阜県に位置しています。 広い境内には巡礼の満願・結願の地として厳かな雰囲気があり、「笈摺堂」、「満願堂」、「精進落としの鯉」を始めとする巡礼を終えた者のみが知ることが出来る喜びに満ち溢れ、一般の参拝客らもその雰囲気に引き込まれます。 また巡礼だけでなく、桜や紅葉の名所としても知られ、四季折々の自然の移ろいを味わうことが出来ます。
谷汲山華厳寺の創建は、今から約千二百年前の延暦十七年(798年)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。 奥州白川郷の大口大領はつねづねより十一面観音の尊像を建立したいと強く願っており、京の都から観音像を故郷へ持ち帰る最中、突然尊像が重く動かなくなり、この地こそが結縁の地であろうと山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊上人という聖(ひじり)と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉りました。すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し、いっこうに尽きることが無かったので、それより後は燈明に困ることが無かったといいます。この話を聞こし召された当時の天皇、醍醐天皇(885-930)は谷から湧き出る油を燈明に用いたのにちなんで「谷汲山」の山号、そして「華厳寺」の扁額を下賜せられました。この寺号は御尊像に華厳経が書写されている事にちなむとされています。 天慶七年(944年)には、朱雀天皇(923-952)より鎮護国家の道場として勅願寺に定められ、仏具・福田として一万五千石を拝領賜りました。 また西国巡礼中興の祖とされる花山法皇(968-1008)は西国三十三所の霊場を御徒歩で御巡幸あらせられ、当山を第三十三番札所の満願所と定められ、御禅衣(笈摺)、御杖、及び三首の御詠歌を奉納せられました。およそ百八十余年を経て後白河法皇(1127-1192)は、先帝花山法皇の御跡を慕われて同行千有余人を従えて御巡幸あらせられました。 それから後は建武元年(1334年)足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱を始めとする戦乱で幾度と諸堂伽藍を焼失するも、このような危難の中、御本尊だけは辛うじて後方の山中に移し奉って御安泰なることを得ました。以後文明十一年(1479年)の再興までは二度の兵燹に遭い、一時期は衰退を迎えるも、人皇百五代・後土御門天皇(1442-1500)の御宇、文明十一年(1478年)薩摩国鹿児島の慈眼寺住職道破拾穀上人が海山を越えて遥々尋ね来て、本堂及び諸堂を再興して尊像の御心を安め奉ったのです。 その後幾多の星霜を経て大破したので、明治八年(1875年)豪泰法印が再建の願主となり、同十二年(1879年)現在のお堂が再建されています。 このように当山は古来より観音信仰の霊験厚く、また天皇、法皇を始めとする皇室、朝廷、有力豪族や民衆からの帰依厚く、益々の隆盛を極めました。 当山では西国三十三番の満願霊場として花山法皇が詠まれた御製三首の御詠歌にちなんで三つの御朱印をお授けしております。三つの御朱印は本堂(観音堂)、満願堂、笈摺堂を指し、それぞれ現在・過去・未来を表しているとされております 。

観音正寺:近江国は、日本のほぼ中央に位置するが、その近江国でもまた中央、すなわち日本の「臍」ともいうべき要衝に位置するのが、標高432.9メートルの繖山、別名観音寺山であります。西国三十二番札所・観音正寺は、貴人にさしかざす衣蓋のようにふんわりとした美しい山容から名付けられたこの繖山の山中にひっそりと佇んでいる。
寺伝によると、往古、聖徳太子がこの地に来臨された折節、紫雲たなびくこのお山をご覧になって「これぞ霊山なり」とおぼしめし、太子自らが千手観音の像を刻み、堂塔を建立されたのが、当寺の縁起であるという。以来、太子が近江国に創建された十二箇寺中の随一の寺院として、湖東地方に勢威を振るってきた。 ところが、応仁・文明の乱に際し、近江国守護職・佐々木六角氏がこの山に居城を築いたため、寺は兵乱に罹ったり、山麓に移されたりするなど苦難の路を辿ることとなった。その後、永禄十一年(1568)、織田信長により六角氏が滅ぼされたため、慶長二年(1597)、再び山上に堂塔が営まれることとなったが、往時をしのぶべくもなかったようである。古来、万事吉祥の縁結びの祈祷道場として老若男女の尊崇を集め、四季を通じての景勝の名刹でる。

長命寺:ご本尊千手十一面聖観世音菩薩は健康長寿、無病息災を授けて下さる有り難い観音様。本堂三重塔など重文の建つ境内から琵琶湖が一望でき、西国巡礼を始め多くの参拝客でに賑わっています。
長命寺は西国三十一番札所の霊場で、その歴史は古く人皇十二代景行天皇二十年長寿の大臣武内宿彌当山に登り「寿命長遠諸願成就」の文字を柳の巨木に記し、長寿を祈り三百歳以上も長寿を保ち、六代の天皇に仕えられたのであります。その後聖徳太子が諸国歴訪の折り、此の山に来臨され、柳の巨木に「寿命長遠諸願成就」の文字と観世音菩薩の御影を拝され感歎されていると、忽ち巌の影より白髪の老翁現われ、「此の霊木で千手十一面聖観音三尊一体の聖像を刻み、伽藍を建立すれば武内大臣も大いに喜び、諸国万人等しく崇拝する寺となるであろう」と告げ失せられました。早速、太子は尊像を刻まれ伽藍を建立、武内宿彌長寿霊験の因縁をもって「長命寺」と名付け給うたのであります。人間一度に世に生れ来れば老若男女をとわず、諸願のないものがありましょうか。又長寿を欲しないものがありましょうか。然るに当寺の御本尊観世音菩薩は、「寿命長遠諸願成就」の御誓でありますから、参詣信心して無病息災で健康長寿で各自の職務に精励したいものであります。

16:30帰路に向かう。

今回の旅行、西国三十三か所巡り第三弾、日本海側に位置する第28番札所成相寺からスタートして最東端の岐阜の第33札所華厳寺までの六ヶ所を巡り制覇しました。

ビックで派手なお寺が目白押し、西国三十三か所のお寺の偉大さを感じました。

これからも全国の霊場、観音を巡る予定です。



 










飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百七十二弾:西国三十三か所巡り第二弾(第10札所ー第27札所)
2014年4月19−20日
   

近畿2府4県と岐阜県に跨って点在し、その始祖は大和国長谷寺を開いた徳道上人、再興が花山法皇と言われている西国三十三か所巡り第二弾、京都から大津、兵庫に渡り18か所を巡りました。

19日12:30車で京都方面に向かう。

三室戸寺:当山は西国観音霊場十番の札所で、本山修験宗の別格本山です。五千坪の大庭園は枯山水・池泉・広庭からなり、五月のツツジ(二万株)・六月のアジサイ(一万株)・七月のハス・秋の紅葉など四季を通じて美しい花模様を楽しんでいただけます。
約一二〇〇年前(宝亀元年)、光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩淵より出現された千手観世音菩薩を御本尊として創建されました 開創以来、天皇・貴族の崇敬を集め、堂塔伽藍が整い、霊像の霊験を求める庶民の参詣で賑わうこととなりました。宝蔵庫には平安の昔を偲ぶ五体の重要文化財の仏像が安置されております。現在の本堂は約一八〇年前(文化二年)に建立された重層入母屋造りの重厚な建築で、その背後には室町時代の十八神社社殿、東には鐘楼・三重塔があります。

醍醐寺上醍醐准胝堂:准胝堂の創建は、貞観18年。醍醐寺開山、聖宝理源大師が開山のおり、柏の霊木から准胝観世音菩薩を彫り、その柏の木があった場所にお堂が建てられたのが最初とされる。その後、何度か焼失したがそのつど再建されてきた。現在平成20年8月の落雷が原因による火災によりお堂が焼失したため、下醍醐金堂に、准胝観音を安置し、参拝、納経、朱印をお受けしている。
観音様のご宝前では、毎日午前10時30分と午後2時から参詣の皆様と一緒に観音経・般若心経のお勤めを行っております。どなたでも参座できます。

岩間寺正法寺:静寂に包まれた境内には、日本一の桂の大樹群、芭蕉の池、雷神爪堀湧泉等があり、歴史と自然が共存する。ご本尊は、三重のお厨子に納められている御丈十五センチの千手観音で、"雷除け観音""汗かき観音""厄除け観音""ぼけ封じ観音"と呼ばれている。 雷が爪で掘った雷神爪堀湧泉は"不老長寿の水"と呼ばれ、健康長寿ぼけ封じを願う参拝者も多く訪れる。

石山寺:天下の名勝真言宗石山寺は、山号を石光山、寺号を石山寺と言い、大津の南端、清流瀬田川の畔、伽藍山の麓に位置しています。西国第十三番の札所であり、奈良時代からの最古の歴史と伝統を持つ霊山です。
奈良時代、聖武天皇の勅願により、良弁僧正によって開かれた石山寺は、巨大な硅灰石(天然記念物)の上に建立されたことからその名があり、その硅灰石の上に坐す本尊は、安産・福徳・縁結・厄除けに霊験あらたかな秘仏 如意輪観音菩薩です。 慶長年間、淀殿の寄進によって改築された本堂(国宝)には、紫式部が世界最古の長編小説『源氏物語』を起筆したという「源氏の間」があります。
 また、多宝塔(国宝)や御影堂(重文)などの建造物、本尊如意輪観音の胎内仏四躯(飛鳥〜天平、重要文化財)などの仏像、石山寺縁起絵巻(重文)や源氏物語絵巻 末摘花(重文)などの絵巻物、薫聖教(国宝)や石山寺一切経(重要文化財)など約7000点にものぼる経典・聖教・古文書類のほか、紫式部と『源氏物語』にちなんだ作品が数多く伝えられています。 一年を通じて、椿、梅、桜、ボタン、キリシマツツジ、花ショウブ、アジサイ、モミジ、サザンカなど、季節の花々が絶えない「花の寺」としても知られています。

園城寺三井寺:園城寺(三井寺)は、天台寺門宗の総本山で、古くから日本四箇大寺の一つに数えられています。
城寺の歴史をひもとくと、天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城(おんじょう)」の勅額を賜わり、「長等山園城寺」と称したのにはじまります。俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来します。
長い歴史の上で、当寺は再三の兵火にあい焼失しましたが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興され、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。

元慶寺:京都市山科区にある天台宗の寺。〈がんけいじ〉とも読む。華頂山と号し,花山寺ともいう。陽成天皇誕生のとき母后藤原高子が創建し,877年(元慶1)遍昭の奏請で定額寺に列し,年分度者(ねんぶんどしや)3人が置かれた。986年(寛和2)花山天皇は藤原兼家の計略で当寺に入り落飾,法名を入覚と号した。公家恒例読経の21寺に数えられて寺門繁栄したが,たびたびの火災でしだいに衰微した。現存の堂舎は18世紀末に妙厳が再建した。

今熊野観音寺観音寺:御本尊は大師が熊野権現より授かった一寸八分の観音像を体内仏として自ら彫刻された十一面観世音菩薩であります。 後白河上皇は、当山を深く信仰されて新那智山と号し、今熊野観音寺と称されました。
観音寺は八二五年頃(平安時代)嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創されました。 西国三十三所第十五番霊場、厄除開運の寺として知られ特に頭痛・病気封じ・智恵授かりの霊験あらたかな本尊として広く信仰され、又ぼけ封じ観音第一番霊場・洛陽観音第十九番霊場ならびに京都七福神巡りの恵比須神をおまつりする寺として全国から祈願の参拝者が絶えません。当山は開創以来千百六有余年にわたって数々の歴史を秘め、新年厄除大祈願祭・京都七福神祭・彼岸会・孟蘭盆会・秋の四国霊場お砂踏法要などの伝統行事でにぎわいます。境内は四季、山の緑が美しく、春の梅・桜、秋の紅葉は訪れる人の心をとらえて見事です。

清水寺:京都・清水寺は「清水の観音さん」「清水の舞台」「音羽の滝」で内外に知られている。 「清水寺」の寺名は音羽の滝の清泉にちなむ。
開創は、1230余年前、すなわち奈良時代の末778年。大和・子島寺の延鎮上人が夢告をうけ音羽の滝を尋ねあてて行叡居士に逢い、霊木を授けられ観音像を彫造して、滝上の草庵に祀ったのに始まる。 そして間もなく、坂ノ上田村麻呂公が、滝の清水と上人の観音信仰に導かれて仏殿(本堂)を寄進建立し、御本尊十一面千手観音を安置して寺観をととのえた。 御本尊(秘仏)は、本堂に祀られ、"清水型観音"といわれる四十二臂の最上の両手を頭上にあげて化仏をいただく清水寺独特の観音像をしており、格別霊験あらたかで、『枕草子』や能(謠曲)「熊野」「田村」「盛久」などにも見え、昔からたいそう広く篤い崇信を集めてきた。 国宝の本堂・舞台と重要文化財の十五堂塔の大部分は江戸時代初の寛永8年〜10年(1631〜33)の再建で、その輪奐の美は四季音羽山の景色と調和して素晴らしく、観音浄土さながらの風情である。

亀岡に向かう。
18:30亀岡市内のホテル到着後近くのレストランで食事を済ませて就寝。
20日8:00車で出発、

穴太寺:奈良時代末期、慶雲二年(七〇五)の文武天皇の御世に大伴古磨によって創立された、と伝えられる丹波でも屈指の古刹です。 庭園は本堂や多宝塔の東部を借景にしており、江戸中期から末期にかけての手法をよく表現した名園のひとつです。夕陽の沈む西庭の景観もまたすばらしいものです。
建立の後、再三の兵火により焼失。現在の堂宇は徳川末期に再建されたもので、本尊の木彫聖観音立像は、秘仏として本堂厨子内に祀られています。また、本堂内の室町時代の作といわれる黒光りする木彫涅槃像は、病魔平癒の なで佛様として名高くぜひお参り下さい。 毎年八月九日は孟蘭盆会精霊迎えの浄行の日にあたり、古来よりこの地方一円の新仏を当山にてお迎えする習慣があり、終日境内は善男善女の参詣で賑わいを見せます。そしてこの日は、書院と庭園とともに、数ある寺宝の一部を公開しています。

再度京都方面に向かう。

善峯寺:当山は、長元2年(1029)源算上人の開山である。源算上人は、恵心僧都の高弟で、因幡(鳥取)に生まれ、横川(比叡山)の恵心僧都に従い、顕蜜の蘊奥を極め47歳の時、当山に入られ小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊となし、仏法を興隆された。長元7年9月、後一条天皇より、鎮護国家の勅願所と定められ良峯寺の寺号及び聖詠を賜わった。“野をもすぎ 山路に向う、 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立” 以来歴朝の御崇敬篤く、長久3年、後朱雀天皇、洛東鷲尾寺より本尊仁弘法師作、十一面千手観音像を当山に遷して本尊とし、先の十一面千手観音像を脇立とされた。
白河天皇、諸堂を建立し給い、その後慈鎮和尚善恵上人、その高徳を相嗣がれ、また青蓮院の宮が代々当山に住まわれた。即ち覚快、道覚、慈道、尊円、尊道、尊祐、尊真、尊寳、尊證、各法親王である。そして西山の宮(門跡)と称された。後花園天皇(102代)が伽藍を改築せられ、僧坊52の多きに及んだが、応仁の乱に兵火を免れず焦土と化した。その後徳川五代将軍の母堂桂昌院が当山を復旧され、二百石及び山林42万5千坪を寺領とし明治に至った。重要文化財として、多宝塔・大元師明王軸 その他文化財多数あり。

行願寺革堂:革堂行願寺は一千年の歴史をもつお寺です。創建当時は一条通りにありました。戦乱や火災でいくたびも焼け、場所を替えつつも、人々の熱烈な信仰によってつねに都の中心部に再建されました。現在も西国観音霊場の第十九番札所として全国に知られる名刹です。
革堂行願寺の開祖は行円上人です。上人はさまざまに人を助け仏の道を説いてまわりました。密教行者のしるしである宝冠をかぶり、いつも革の衣をまとっていたので、いつしか「革聖」と呼ばれ親しまれるようになりました。革堂行願寺は、行円上人が1004年(寛永元)年に、「一条北辺堂」を復興して「行願寺」と名づけたことにはじまります。いっさいの人々の成仏を「ねがい、行じる」思いが込められています。御所の北「一条」大路にある、「革聖のお堂」というので「一条かわどう)」と愛称されました。

頂法寺六角堂:聖徳太子が創建したという寺だが、室町時代からは町衆とのかかわりが深い町堂にもされた。本堂が六角の建物なので六角堂と呼ばれ、華道家元・池坊でも知られる。昔からここが京都の真ん中といわれ、その証拠品という「へそ石」が境内に残る。
「六角さん」の名称で、京の町の人々に昔から親しまれてきた六角堂は、寺号が紫雲山頂法寺。西暦587年、聖徳太子を開基として創建されたと伝えられています。本尊は太子の護持仏といわれる御丈1寸8分(約5.5cm)の如意輪観世音菩薩で、平安時代から霊験をたたえた記録や説話も数多い。平安遷都の折、東西小路のひと筋が通る所に六角堂があたってしまい天皇が使者をたてて今少し南北どちらかに御動座頂くよう祈願されると、礎石(へそ石)一つ残し御堂がにわかに5丈(約15m)ばかり北へ退いた話は有名です。境内東北隅には聖徳太子を祀った太子堂があり、2才の頃の南無仏像が安置されています。この地は、太子沐浴の池の跡ともいわれ、池のほとりに小野妹子を始祖とする住持の寺坊があったところから「池坊」と呼ばれ、この池坊代々の執行によっていけばなが完成されました。つまり、六角堂はわが国のいけばな発祥の地なのです。六角堂は西国巡礼三十三所の第十八番札所でもあります。花山法皇が996年正月、六角堂へ行幸されたのが巡礼の始めと伝えられ、観音信仰が盛んになるにつれて霊場として庶民の信仰を集めるようになりました。
また親鸞上人が毎夜比叡山から六角堂に百日間参籠りをされ、夢中のお告げによって浄土真宗を開かれたといわれています。六角堂は創建以来、数度の火災にあっていますが、人々の信仰のおかげでその都度再建され、現在の建物は明治10年(1877年)の建造物です。

六波羅蜜寺:六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。


大阪方面に向かう。

総持寺:総持寺の千手観音様は、亀に乗った観音様として有名で、子育て観音様、火除け、厄除け観音様と呼ばれています。また、開山中納言山蔭卿は本尊像立に際し、千日間に亘り料理を御供えした縁により包丁道の祖として、祀られています。毎年4月18日には、中納言様の後賓前に於いて、包丁式が行われます。
亀に乗った観音様として有名な総持寺は平安時代、中納言藤原山蔭卿により開かれました。亀の恩返しにより開かれた総持寺の御話は、今昔物語や源平盛衰記等にも紹介されています。山蔭卿の父である高房卿は大宰府に赴任の途中、猟師たちが一匹の大亀を捕らえていました。高房卿は、自分の着物と交換し、大亀を河に放しました。翌朝、河に落ちた山蔭は、昨日の大亀が元気な山蔭を背に乗せて現れたのです。観音様の御恩に感謝した高房卿は観音様の造像を発願します。その後、高房卿は亡くなり山蔭卿が、父高房卿の遺志を継いで千手観音を像立し、総持寺を創建されました。

勝尾寺:平安時代中期、当山仏法の祈願力には時の天皇(清和帝)も及ばなかった事から、天皇みずからがこの寺を「王に勝った寺、『勝王寺』」と号した。 以来、源氏・足利家・徳川家など各時代の覇者達が当山の勝ち運を求め参詣を重ね、何事にも「勝つ」寺として勝ち運信仰の歴史を辿っている。商売、選挙、試験、病気、スポーツ、芸事など、人生におけるあらゆる場面での成功や勝利を掴み取っていった人の数は計り知れない。
当山は大阪平野の真北にそびえ数千年の昔より山自体の持つ霊力によって無類の聖地として崇拝されてきた。 奈良時代末期神亀4年(727年)、双子の善仲、善算両上人が山中に草庵を構え、光仁天皇の皇子の開成)(桓武天皇の兄)が、両上人を師とし、仏界を求め、天平神護元年(765年)彌勒寺を開創。 「妙観」と言う観音化身の仏師が白檀香木をもって、7月18日より8月18日の間、身の丈が八尺もある十一面先手観音を彫刻し、本尊となす。全国観音縁日が18日と定まったのは当山本尊の縁起に始まる。 平安時代中期、当山六代座主の行巡は、清和天皇の玉体安穏を祈り、その効を示した事から、天皇自ら王に勝った寺「勝王寺」の寺名を賜わった。 寺側は「王」を「尾」の字にひかえ、以来「勝尾寺」と号すようになった。 元暦元年(1184年)、源平の内乱に焼失した堂塔伽藍も、すぐさま源頼朝によって再建されるなど、当山は各時代の覇者のみならず、万人より壮大なる荘園の寄贈をうけ、広くは百済(現在の韓国)国王の帰依を受けるに至るまでになった。現存する薬師堂は源頼朝の再建であり、本堂、山門は豊臣秀頼の再建である。

兵庫方面に向かう。

中山寺:中山寺の「鐘の緒」は、女性の大役である出産の無事安泰を祈る「安産の腹帯」として、本邦随一の霊跡と、古来よりその伝統をもち、深く信仰されてきました、 ことに幕末には、中山一位局が当山の鐘の緒を受け明治天皇を御平産されてより、明治天皇勅願所として霊徳をたかめ、「安産の寺」としても名高く、安産を祈る人々が全国から腹帯を戴きにまいられます。
北摂の地に、紫の雲がたなびくといわれる中山寺は、聖徳太子の創建によるわが国最初の観音霊場です。御本尊は十一面観音菩薩で、インド勝鬘夫人の姿をうつした尊像と伝えられています。中古、日本霊跡三十三所観音巡拝がとなえられると『極楽中心仲山寺』と称されて、中山寺は第一番札所ときまり、のち花山法皇のおんとき巡礼の道順にしたがい、第二十四番札所となり、今日に及んでいます。草創以来、千四百年に及ぶ歴史をほこる中山寺は、多くの物語でかざられ、世に名高い謡曲「満仲」や歌舞伎「菅原伝授手習鑑」は、平安中期に多田源氏満仲の信護をうけた時代の、当山にまつわる美女丸・幸寿丸の哀話から創作されたものです。中山寺は代々皇室の崇信もあつく、安産祈願本邦随一の霊場として頼朝をはじめ武家・庶民より深く信仰され、ことに秀吉は当山に祈願して秀頼をさずかり、秀吉亡きあと秀頼は片桐且元に命じ伽藍を再建しました。これが即ち現在の伽藍です。幕末、明治天皇御平産祈

花山院菩提寺:秋は紅葉が美しい。花山院は、花山天皇が19歳の若き身で隠棲されたところとして有名です。本堂の周りには紅葉の古木が悠久のときを隔てて今尚霊場に訪れる人々を見守りつづけています。秋の紅葉の時季もすばらしいですが、若葉茂る夏のシーズンも一見の価値有。又、展望台からは、三田市街や遠く瀬戸内海まで望めます。【文化財】花山法皇像(市指定)

清水寺:清水 東条湖県立自然公園内に位置し、法道仙人の開基、西国二十五番札所海抜500mの山上にあり、六甲の山並み、瀬戸内海、淡路島、明石海峡大橋、家島、四国等を見渡すことが出来ます。
また四季を通じて、東条湖、立枕焼、篠山散策等を回遊して訪れる人が多い。
御開山法道仙人は印度僧で今より1800年前、人皇十二代景行天皇の御時に中国、朝鮮を経て当山に止住され、鎮護国家豊作を祈願された。推古35年(627年)推古天皇勅願により、根本中堂建立、仙人一刀三礼の秘仏の十一面観音、脇士昆沙門天王、吉祥天女の聖像を安置された。由来此の地は水に乏しく、仙人、水神に祈って霊泉湧出し感謝の余り清水寺(きよみずでら)と名付けられた。神亀2年(725年)聖武天皇は行基菩薩に勅願して大講堂を建立、永く講経の道場として法灯を中国に輝かされた。
花山法皇西国御巡拝のとき、この堂に詣で給いて御詠あらせられてより、西国二十五番の札所と称するに至る。 

一乗寺寺:孝徳天皇勅願寺。開山法道仙人。御本尊聖観世音菩薩。創建白稚元年(650)。三重塔(国宝)、聖徳太子及天台高僧像十幅(国宝)など文化財多数。 法華山は古来八葉の蓮華の山に喩えられ、桜・新緑・紅葉が美しい都塵を絶した浄域である。
徳・花山・後醍醐の三帝行幸。孝徳天皇は金堂創建、「一乗寺」の勅額を賜う。後醍醐天皇は西国一の大講堂を建立。行基菩薩・弘法大師・叡尊戒師止錫。大永の兵火後赤松義祐公金堂再建寺領安堵、尼子・池田氏寺領安堵、家光公御朱印地を賜う。元和焼失の金堂鐘楼を姫路藩主本多忠政公再建。 平成二十年一月金堂(大悲閣)半解体修理完工。  

圓教寺:当山は、約一千年前に(康保3年)性空上人によって開かれ、西の比叡山とし言われるように、鎮護国家の道場でその中心になるのが大講堂である。摩尼殿(本尊如意輪観世音菩薩)は西国第二十七番の霊場として、今も全国から参詣者多く、その信仰の中心である。
境内は史蹟に指定され、重要文化財も二十数件、数百年の樹林に囲まれ深厳そのもである。書寫山圓教寺は、康保3年(966年)性空上人によって開かれた。この山に登る者は六根を浄められるという文殊菩薩)のお告げがあり、上人は白山でこの六根清浄のさとりを得られた。その後、御利益を得ようと多くの人々がこの山に登った。花山法皇は二度も御来駕にり上人の教えを受けられた。後白河法皇も七日間、御参籠になり、後醍醐天皇は隠岐の島より御還幸の際、一泊された。以来、多くの信仰を集め、善男善女の参詣や多くの僧侶の修行の道場として栄え、西の比叡山とも呼ばれるようになった。現在も、北は北海道、南は九州から、春の訪れとともに、参詣者が絶えない。
国指定重要文化財の建造物八棟、仏像八体、今もなお、昔日のおもかげを林間に輝かせている。

17:40帰路に向かう。

今回の旅行、京都、大津、兵庫に跨いでの西国三十三か所巡り第二弾の第10札所から第27札所までの巡り無事終えることができました。
個々の寺院、一度は過去に訪れたことがあり、立派でスケールが大きいものがほとんど再確認できました。

次回は日本海に面した第28札所からスタートになります。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十九弾:西国三十三か所巡り第一弾
2014年3月22−23日
  

近畿2府4県と岐阜に跨がって点在する33の観音霊場の総称、その始祖は大和国長谷寺を開いた徳道上人、再興が花山法皇と言われている西国三十三か所の第1番札所から第9番札所、番外札所を含めて10か所の札所を巡りました。

3月22日13:00車で出発、阪神近畿南阪奈自動車道経由して勝浦に向かう。
17:30那智勝浦に到達。

青岸渡寺:那智山は熊野三山の一つ。熊野信仰の霊場として長い歴史がある。もともと那智の滝を中心にした神仏習合の一大修験道場だったが、明治初期に青岸渡寺と那智大社に分離した。今も寺と神社は隣接していて、双方を参拝する人が多い。
「補陀洛(ふだらく)や岸打つ波は三熊野(みくまの)の那智のお山にひびく滝つ瀬」と御詠歌で親しまれている西国第一番の札所であります。当山の縁起に開基は仁徳帝の頃(4世紀)。印度天竺の僧、裸形(らぎょう)上人が那智大滝において修行を積みその暁に滝壷で24cmの観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初です。その後、200年推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した24cmの観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されたのです。平安朝中期から鎌倉時代には、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰がさかんになり、この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にして近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番札所となりました。現在の本堂は織田信長南征の兵火にかかり、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建され、桃山時代の建築をとどめ南紀唯一の古い国指定の重要文化財建造物で、この堂の高さは18mで、大滝の落口の高さとおなじであるといわれています。

18:30車で紀伊田辺方面に向かう。
20:15紀伊田辺駅付近のホテル到着後繁華街を散策し、食事を済ませて就寝。

23日7:15車で海南方面に向かう。
8:10海南到達

紀三井寺:春は早咲の桜の名所として和歌の浦の絶景を望む境内には、踵を接する善男善女は数えるにいとまなく、観音信仰の隆昌に伴い、ご宝前には日夜香煙の絶え間がありません。 木造立像では日本最大となる大千手十一面観音像が、平成20年に開眼されて、注目を集めている。
紀三井寺は今から約1240年前の西暦770年(宝亀元年)唐僧 為光上人によって開基された霊刹です。 伝教の志篤い上人は、身の危険を省みず渡来され、全国行脚の途中たまたま逗留された当山で、金色燦然と輝く千手観音様のお姿をご感得になりました。仏縁に感謝し、一刀三礼の下に刻まれた十一面観音様をご本尊として開創されました。 境内には、本堂を中心に、楼門、多宝塔、鐘楼といった室町、桃山時代建立の国指定重要文化財の古建築がいらかを並べ、和歌の浦の絶景を見晴るかす景勝地として、年間大勢の参詣者が訪れます。特ににぎわいを見せるのは春。早咲きの桜の名所(日本桜の名所百選の一)であり、境内には気象台の観測用標本木が有って、近畿、本州に春の到来を告げる寺として早春の風物詩となっています。 紀三井寺という寺名は、紀州にある三つの霊井のあるお寺という意味で、境内には今もつきることなく清浄水・楊柳水・吉祥水の三井水(昭和60年、環境庁が「日本名水百選」選定)が湧き出しています。 現在、開創1230年を記念して、本堂真南に現代人の「心の灯台」となる大観音像仏殿の建立が発願されています。

8:50粉河に向かう。

9:30粉河寺到達

粉河寺:粉河寺は和歌山県の北部を流れる紀ノ川の北岸にあり、 最寄駅JR和歌山線粉河駅から大門まで門前町を形成し、約800mの道程である。
奈良時代末、宝亀元年(770)、大伴孔子古が現在の本堂の場所に草庵を結び、千手観世音菩薩を本尊として粉河寺は創建された。 鎌倉時代には七堂伽藍が整い隆盛をきわめたが、天正13年(1585)、開創以来もっとも受難の年を迎えた。即ち豊臣秀吉は、天下統一の望みを達成するため、紀州攻めを敢行し、当寺より約10粁西にある新義真言宗の総本山 根来寺を中心に一帯は火の海と化し、粉河寺も全山焼失した。従って、現在の諸堂は大小20有余数えられるが、何れも江戸時代の再建である。就中江戸中期の代表的な寺院建築物であり、西国に三十三所の中では最も大きい本堂を初め、千手堂・大門・中門の4棟は重要文化財に指定されている。 又、本堂前の左右に築造された粉河寺庭園は、桃山時代の枯山水の庭園で上田宗箇の作庭と云われ、名勝に指定されている。 草創のゆかりとなっている粉河寺縁起絵巻(国宝)を有する粉河寺は、壮大な寺観がもたらす歴史の重味と共に、観音信仰の寺として、いつまでも参詣の人々に安らぎを与え続けることであろう。

10:00粉河寺出発、槇尾山方面に向かう。
10:35槇尾寺到達

槇尾寺(施福寺):施福寺は槙尾山に有り 南に岩湧山 東に金剛山 北に大阪湾が眺望でき 夏山も冬山もよし 春は桜 秋は紅葉が楽しめます。
当山は第29代欽明天皇の勅願寺。 仏教公伝538年頃の創建で日本有数の古い寺です。役の小角、行基菩薩等の山岳修行の道場であり弘法大師 空海が勤操大徳について出家得度した寺と有名です。西国第4番札所。本尊は十一面千手千眼観世音菩薩で 御詠歌は、花山法皇のよまれた 「深山路(みやまじ)や檜原(ひばら)の松原分(まつばらわ)けゆけば巻(まき)の尾(を)寺に駒(こま)ぞいさめる」 で巻の尾とは役の行者が法華経を峯々に納経て、最後に当山に納経したので山号となっております。 古来より経塚がきずかれ故事にのっとって全国各札所巡礼が終れば最後に当山にお写経を納めて下さい。 槙尾寺は納経の寺です。

11:05槇尾寺出発、藤井寺に向かう。

11:50藤井寺市の葛井寺到達

葛井寺:当寺御本尊の千手千眼観世音菩薩坐像は、千手にて迷える衆生を救うための大慈悲を示し、唐招提寺、三十三間堂とともに三観音として有名である。秘仏。毎月十八日に開扉、その美しさは人々を魅了し、現世利益の観音信仰を支えてきた。
河内の文化は、飛鳥時代より奈良時代にかけて発展し、当寺葛井寺も百済王族「辰孫王」の子孫王氏一族の『葛井給子』が当時の天皇の仏教興降政策に協力し、国家のためと称して創建された。 永正七年(一五一〇)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による二Km四方の七堂伽藍の建立で(当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。)古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。 その聖武天皇が春日仏師(稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子)に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(七二五)、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。

12:10葛井寺出発、壺阪山に向かう。

12:30壺阪寺到達

壺阪寺:西暦七〇三年弁基上人によって開かれた霊山、壷阪山南法華寺。 西国観音霊場の第六番札所で眼病に霊験あらたかな、シルクロードの香りが豊かにただよう寺として信仰されています。
大宝三(七〇三)年に元興寺の弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した像を刻んでまつったのが始まりという。 養老元(七十七)年に元正天皇により八角円堂が建てられ、南法華寺の正式寺号を賜った。
礼堂に続く本堂八角円堂におわすご本尊は、十一面千手観世音菩薩。胸の前に手を合わせ、法力を湛えたお姿で、衆生救済への力強い意地を感じさせる。殊に眼病に霊験あらたかな観音様、目の観音様として、広く信仰を集めてきました。 また、昭和三十九年より始まったインドでのハンセン病患者救済活動のご縁からご招来された、世界最大級の天竺渡来大観音石像、大涅槃石像、大釈迦如来石像等、巨大石像群が境内にシルクロードの香を漂わせる。春から初夏にかけて、やまぶき、つつじ、ラベンダーが咲き誇り、秋には境内一円のもみじや周辺の山々が色づき紅葉の風景が広がります。重要文化財の本堂礼堂、三重塔と伴に大講堂はじめ、多宝塔、灌頂堂、慈眼堂などの平成の新伽藍が広がります。

13:05壺阪寺出発、岡寺方面に向かう。

13:20岡寺到達

岡寺:日本最初の厄除け霊場岡寺は飛鳥の東、山の中腹にあり、坂を上ると重要文化財に指定されている鮮やかな朱色をした仁王門があらわれる。本堂などはその奥、石垣の上に建ちならぶ。本尊、如意輪観音座像は塑像(土で造られた仏様)で、弘法大師の作と伝えられ、塑像としてはわが国最大の仏像である。また本尊は厄除け観音で知られ、古来より信仰を集めている。4月中旬からはシャクナゲの花約3000株が咲き誇り、桜、サツキ、秋には紅葉も美しい。さまざまな伝説を残した名僧、義淵僧正が創建した。
昔ながらの佇まいを今に残す参道を上ると鮮やかな朱色をした桜門様式の仁王門が現われる。国の重要文化財に指定されている。本堂、内陣には本尊の如意輪観音菩薩が安置されており古くから厄除け観音として信仰を集めてきた。奈良時代の作で、高さ4.6mの塑像は日本最大の土佛である。もとは彩色がしてあったというが、今はほとんどが剥落してしまいわずかに唇に朱が残っている。重文に指定されており、弘法大師がインド、中国、日本と三国の土を合わせて造ったという壮大な寺伝がある。創建は天智天皇2年(663)に義淵僧正が岡宮の跡地に寺を建立したのがはじまりと伝えられている。義淵僧正は日本の法相宗の祖といわれているが、その出生は謎である。寺伝によると子供に恵まれない夫婦が祈願した末に、家の柴垣の上に白い布にくるまれて置かれていた赤子が義淵僧正だったという。観音菩薩の授かりものと大事に育てられ、それを聞いた天智天皇が引き取り、岡の宮で養育された。後に義淵僧正は岡宮を譲り受けた。龍蓋寺の名前の由来になった伝説も残っている。大雨や強風を巻き起こし村民を苦しめていた龍をその法力をもって池に封じ込め、そこに大きな石で蓋をしたという。その時の池が本堂前にある龍蓋池である。境内には重文の書院の他、開山堂、弘法大師を安置する大師堂、三重宝塔、鐘楼堂、十三重石塔などがある。

13:45岡寺出発、桜井に向かう

14:05長谷寺到達

長谷寺:本堂も本尊も大きい。そこまでの長い登廊を行く。山を背にした谷間に広がり、西国札所でも大寺の一つ。ゆるやかな石段沿いに白壁の築地塀が延びる。ボタンの花の名所として有名だが、他にも多彩な花々が美しい寺を飾る。長谷観音と花の寺である。
長谷の里は泊瀬、初瀬とも書かれた。三方を山で囲まれている。寺も山と一体になる。門前町は初瀬(はせ)川沿いに長く延びている。そこは伊勢参りでも賑わった旧伊勢本街道。歴史も活気もある門前町である。とくに草餅の店が多い。こんな門前町の一角に番外札所の法起院がある。長谷寺には国宝の「銅版法華説相図」がある。別名は千仏多宝仏塔。方形の銅版の中央に多宝塔、周囲に三尊仏、七尊物、千仏などを浮き彫りにした寺宝で、下部に長い銘文がある。それによると、道明上人が飛鳥浄御原の天皇のために成年に造立したという。これにより天武天皇の朱鳥元(686)年を創建の年としている。その後、神亀4(727)年に徳道上人が十一面観音を安置し、観音信仰の寺になった。開基はこの徳道上人。『枕草子』など平安文学に「初瀬詣で」がしばしば紹介され、清水寺や石山寺と並んで賑わった様子が描かれている。当日の建物は何度かの火災のために残っていない。仁王門を入ると長い登廊が山腹の本道へ通じている。屋根付きの回廊形式で、途中で二度折れ曲がる。長さ200m、399段。天井からは長谷型灯籠が下がって風情もひとしお。境内一円で見られるボタンの花もここから見るのが最も美しい。

番外札所法起院:
法起院は、長谷寺を開いた徳道上人が晩年隠棲した寺で、天平7年(735年)の創建と伝えられる。徳道上人にまつわる伝説がある:養老2年(718年)、徳道上人が病に倒れ冥土に行ったが、閻魔大王から『あなたは死んではいけない。世に三十三の観音霊場があり、これを巡礼すると清められ、苦しみ悩みから救われる。まだ誰もこの霊場のことを知らないので、人々に知らせて広めよ』と教えられ、宝印を授けられてこの世に戻された。徳道上人は三十三の観音霊場をめぐり、人々に霊験を説いてまわったが信じてもらえなかった。落胆した上人は閻魔大王から授かった宝印を中山寺に埋めてしまった。この宝印は約270年後に花山法皇によって掘り出されるまで眠り続けた。これが徳道上人にまつわる伝説である。当寺は元禄8年(1695年)に長谷寺の英岳僧正によって再建され現在に至っている。

15:00奈良市に向かう。

15:30興福寺到達

南円堂:西国三十三所第九番札所として人々のお参りで賑わう。弘仁4年(813)藤原冬嗣が父 内麻呂追善の為に建てた。基壇築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら版築したことが発掘調査で明らかにされた。また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記される。不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されている。興福寺は藤原氏の氏寺であったが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めた。その不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日社との関係で特に藤原氏の信仰を集めた。創建以来四度目の建物で、寛保元年(1741)に立柱された。江戸時代の建物といっても、その手法はきわめて古様で、再建には北円堂を参考にしたのであろう。
興福寺の歴史
 天智天皇8年(669)に藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置する為に、夫人の鏡女王が京都山科の私邸に建てた「山階寺(やましなでら)」を始まりとする。その後飛鳥廐坂の地に移し「廐坂(うまやさか)寺」と称した。都が平城京へ移されるに及んで、平城京左京三条七坊のこの地に移し「興福寺」と改号し、創建の年を和銅3年(710)とする。その後天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備された。奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになった。平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになった。鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任にあたった。幕府による宗教政策が厳しかった江戸時代には21000石余の朱印が与えられた。明治時代初めの神仏分離令・廃仏毀釈・社寺上地令などで興福寺は荒れたが、その後の努力で復興し、新しい興福寺の歴史を刻んでいる。

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、近畿県の観音霊山の第一札所から第九札所番外札所含めて10か所の観音霊山を訪れました。

さすがに西国三十三か所のお寺、境内も広く、立派でビックなお寺が目白押しでした。境内の散策には持ってこいの霊山でした。

次回は京都から兵庫にかけての観音霊山を訪れる予定です。




 



















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十六弾:小豆島八十八か所巡り第一弾(第一札所ー第48札所)
2014年3月8−9日



映画二十四の瞳の舞台として知られ、醤油蔵めぐり、寒霞渓で有名香川県小豆島に足を運び、弘法大師が讃岐から京都へ上る途中や、その帰りに立ち寄ったという伝説があり小豆島霊場巡排が庶民に定着した小豆島八十八か所巡り(第一札所ー第48札所)を訪れました。

8日12:30車で出発、近畿中国山陽自動車道経由して14:40姫路港到達
15:10姫路港フェリーで出発
16:50福田港到達、車で坂手方面に向かう。

第1番札所洞雲山は、坂手港を見下ろすように岩山がそそりたった独立峰で、山岳信仰の地として知られています。この山には、小豆島八十八ヶ所の第1番札所があります。境内には、樹齢300年といわれる根元幹周囲5mにもなる老松や、夏至前後に日の光に照らされると岩肌に観音様が浮かび上がる神秘的な「夏至観音」があります。

小豆島町苗羽の山の上にある碁石山は、島四国八十八ヶ所の第二番札所にあたる霊場です。ここには、神仏習合の名残で金毘羅宮もお祀りされています。境内には、巨大な修行大師の像があり、その前の広場では、毎年11月の第二日曜日、「修行大師柴燈大護摩供」が行われます。また、当日はここで火渡りの儀式も行われます。

18:00坂手港付近のホテル到着、食事を済ませて就寝。

9日6:00車で出発。

奥の院隼山の入り口に位置する第3番札所観音寺。派手なもこもこ龍の階段が迎えてくれる本堂には十一面観音がまつられています。頭痛、めまい、肩こり、不眠に効果あり。孔雀モチーフのライトがとってもキュート。奉納されている弘法大師の顔がなかなかの見ごたえあり。

山道に看板の少ない秘境にあるのは第3番札所奥之院 隼山。不動明王の門を抜けると、天然記念物にも指定されているイスノキが天へ向かってそびえたちます。毎年10月に、鏡内を通って観音様が龍に乗って法華経の世界から出現される「神立風」が吹くという昔話が残されている札所です。小豆島の波打ち際がはっきりと浮かぶ海が望める絶景ポイントのひとつ。

海の見える庵はたくさんありますが、目の前が海岸という庵はこれが初めて。立派な松の木が海岸に立つ第4番札所古江庵。海と庵とのコントラストが気持ちの良いスポット。

車では近くまでしか行けないので要注意。海に面した迷路のような住宅の隙間をすり抜けて、子宝、安産がご利益の妙光如女さんのところへ。路地にひっそりとあるお遍路やじるしも味のある彫刻のようです。裏路地に金魚を飼っている家庭もちらほら。それぞれの日常を眺めながらのおへんろも、山岳霊場とはひと味違った趣が感じられます第5番札所堀越庵。

「二十四の瞳映画村」で有名な田ノ浦岬に第6番田ノ浦庵はあります。二十四の瞳館「岬の分教場」から進んでいくと、神社と併設された庵を発見。

修行度の高い第1番洞雲寺、第2番碁石山の登り口に位置する向庵。古いベンチが並ぶ、バス停風の庵です。
お遍路コミュニティースペースといった感じの第7番札所向庵。

第8番札所常光寺は、小豆島の中でも特に地場産業が盛んな小豆島町の苗羽(地区に位置するお寺です。境内には何種類ものたくさんの桜が植えられ、春には満開の花がお遍路さんを迎えます。中でも境内の一角を彩る『ジョウコウジザクラ』はその名が冠するとおり、ここにしかない早咲きの桜です。常光寺周辺は、”?の郷”と呼ばれる醤油蔵や佃煮工場がひしめく風光明媚な町並みが広がり、訪れる人の眼を楽しませてくれるでしょう。

第9番札所庚神堂は、醤油工場の香りが立ち込める民家を抜けてたどり着きます。老朽化が進みすぎて、なんと本堂が45度傾斜!不動明王もびっくりの崩壊寸前札所です。

もろみ一徳庵向かいにある札所。近所の方の集会場にもなっている第10番西照庵は、縁結びの愛染寺でも登場した愛染明王が奉られています。

第11番札所観音堂は高さ51m、円輪5m、世界一の高さと、世界最古の歴史を誇る銀杏の木は、観音堂のランドマーク。本堂は、世界遺産である珍しい「いたち観音」。こちらの本尊は鐘を2つきすることがルール。

安産祈願、六地蔵菩薩が奉られる第12番札所岡ノ坊は、田園の中にひょっこりあらわれます。小さな札所を回っていると、本当に地域の方々のコミュニティースペースなのだということを実感します。

第13番札所栄光寺は見どころがいっぱい。恵心僧都作と伝わる無量壽如来が安置された本堂客殿庫裡、三十三体の観世音菩薩が祀られている観音堂、行基菩薩作の薬師如来が祀られた薬師寺が立ち並んでいます。本堂前には亀に乗った賽銭箱。住職さんのお話では「カメが玉手箱を乗せている」とか。貯まりそうです。

第14番札所清滝山は、第13番札所 栄光寺の奥之院で、地蔵堂とも呼ばれています。本尊は岩窟のなかにあり、本尊に安置されている地蔵菩薩は、安産延命に効果があると言われており、行基菩薩作と伝えられている。

滑り台とブランコのある岩宮神社の大木を目印に進んでいくと、第15番札所大師堂に到着。小さなお堂でも、静かにこれまで巡ってきた道のりを思い出すのに最適な札所。

小豆島で唯一、宿坊があるのがこの第16番札所極楽寺。山門前では、迎え大師様が「ようおまいり」と出迎えてくださいました。心の中で「はーい。」と返事して山門をくぐります。境内には、ちょっといかつい顔のお大師さん。一歩前に出ているのも特徴です。

デザインチックで、スタイリッシュで、お洒落なカフェでお茶をしても、なんだか落ち着かない感じがする貴方にお勧め。そう、第17番札所一ノ谷庵は赤を基調としてスタイリッシュにしたかったんんだろうなぁという、気合いだけは、バシバシ伝わってくる秘宝館的パラダイス。

かつて弘法大師が岩穴に籠もり、護摩修行を行ったと伝えられる当寺第18番札所(石門洞)の境内は、そそり立つ岩の絶壁に守られるように設けられ、本堂は岩窟の中に埋め込むようにして建立されていました。境内の石灯籠にろうそくの明かりはともるものの、人の気配はなく、ただ野猿の声がうっそうとした森の中にこだましています。

第19番札所木ノ下庵は、弘法さんの思い出の地。「庵」はだいたい小さな社務所っぽい雰囲気です。太めの銀杏の樹があります。

第20番札所佛ケ滝は、寒霞渓への途中です。本堂は洞窟にあり、寺と岩肌が一体化されています。岩肌から煙突が出てたりしています。御加持石は不思議な霊徳を授かる碁石として、難病から救われたり、十余年間子宝に恵まれぬ人が子を授かり、縁の遠い人が良縁に恵まれたりなど、念力の手形も加持力を一身にうける霊場であるといわれています。

第21番札所清見寺は、お寺なのになぜかアート作品がいっぱいの清見寺。寒霞渓の山並みに抱かれた風景の中にも、なぜかしっくり溶け込んでるのが不思議です。

草壁港から10分、第23番本堂から徒歩5分、小豆島の静かな住宅の路地をすり抜け、郵便局をこえて歩いて行くと第22番札所峯之山庵に到着。墓地になっている坂を登って行く時、草壁港と造船工場が目の前に広がります。

第23番札所本堂は、180センチの白い象がいます。小学校横の近所のお寺としてマンガに登場しそうな立地の本堂。紅葉に囲まれた階段が、春には桜の階段になるとのこと。

お寺の周りをぐるっと囲む練塀と、大きな椿が美しい第24番札所安養寺。安養とは、阿弥陀仏の極楽浄土のことで、仏の浄土へ安心して往生する心を養うという意味だそうです。

第24番安養寺から、250mということで、ミカン畑をくぐり歩いて行くと、途中から木に覆われたトトロの道の気配が。札所を巡っているうちに「ここから修行度が上がるな」というカンがはたらくようになりました。250mのうち、200mは案の定昇り山道に。登り切ると、そこは静かな静かな第25番誓願寺でした。本堂裏からお遍路道がつづいているので、第26番阿弥陀寺まで歩くのもよいかもしれません。

オリーブ園に近い阿弥陀寺。無量如来がまつられる、比較的ゆったりとしたスペース。本堂には常光寺のように、花々が描かれた天井に奉納されています。逆立ち獅子の瓦や、狸の像もあり、凛とした空間の中にユニークさを持ち合わせています。梵鐘横の水場がハート型になっているのも、チェックポイントの第26番阿弥陀寺。

第26番阿弥陀寺から山側へ登って行くと、第27番櫻ノ庵へ続きます。このお遍路途中には、たくさんのオリーブ畑に囲まれています。葉が二つにわかれたハート型の「幸せオリーブ」を探すのに最適な場所。売店などで販売もされているそうですが、自力で見つけた方が思い入れもひとしおです。庭の椿が紅色に咲き誇る季節にまた来たくなる庵でした。

薬師如来が奉られる第28番薬師堂。「長崎のしし垣」近くに建てられ、最近、土地の寄贈と共に山の中から移転されたお堂。

「風をあつーめてー♪風をあつーめてー♪」byはっぴいえんどが、途中山道のテーマソングでした第29番風穴庵風穴寺。なんと、冷たい風が吹く穴があるとのこと!!真相を探りにいきました。本堂から更に山道を登って、噂の穴に到着。30センチ四方の小さな岩穴で、手を入れてみると…確かに、風の気配が??

第30番正法寺の山門をくぐると左手にソテツがあり、その奥に納経所、そこから境内をコの字で囲むように入母屋造りの伽藍、本堂、そして伽藍の正面には鐘楼が建つ。かなり歴史を感じる古い建物です。本尊は恵心僧都作と伝わる大日如来像。平安時代後期に造られたようです。構造は平安時代初期に多い一本彫成で、材質は檜。像高32.8cmと小柄です。

パンチのあるソテツ、と言ったら良いでしょうか。樹齢千年以上、小豆島の温暖気候で巨大に成長したソテツが出迎えるのは第31番誓願寺。本堂に行くまでに、「大黒天様」が浮かび上がってきた自然岩や、子授けご利益があるというセットで見れる「女岩&男岩」も見物できます。ここの本堂、梁が豪華なんです。モチーフが何か分からないくらいに豪華なんです。孔雀の羽根や昇龍に、植物や花がコラボレーションしまくっています。

ふるさと村の近くにあります第32番愛染寺。かなり歴史を感じるお寺です。弘法大師が京に上る途中、荒天候のためこの地に上陸し、愛染明王を描き、国民の息災と安穏を祈念したと伝えられる。本尊 愛染明王は縁結びの仏として良縁を求める善男、善女のお参りの多い所であります。と書かれていました。

第33番長勝寺に到着したら、本堂ご挨拶前に「女人地蔵」を優しく抱き上げてみましょう。「ご婦人の病気をなおしてくださるお地蔵さんです。だきあげてご利益をいただいて下さい」だそう。冷え症が治るかもしれません。お土産を横目に、階段をずんずん登って本堂へ。枯山水に見事に手入れされた庭が広がる広い寺内。十一面観音が奉られる、豪華系本堂です。

小高な丘に建つ第34番保寿寺庵。窓からは弁天島が望めます。公園のような休憩所になっているので、ここで一服をお薦めです。

第35番林庵は、一見民家風、だが、パリの蝋人形館など比ではない恐怖。阿弥陀如来の前に、供養人形が100体位山積み。宇山あゆみのフランス人形も無造作に置かれ、目が虚ろに。

第36番釈迦堂は、もと高宝寺の釈迦堂だったもので、正面三間奥行き四間の寄棟造り本瓦葺の建物です。大永二年(1522年)春に着工、天文二年(1533年)春に完成、明治40年に国の重要文化財に指定されました。

第37番明王寺にはご本尊の不動明王様のほか、地元漁師さんの信仰が厚い弁財天様と毘沙門天様(別名を金毘羅神)がお祀りされています。長勝寺の本地仏といい、明王寺の釈迦堂といい、小豆島にはすごく身近な、誰にでも見ることのできる場所に国宝が存在します。

第38番光明寺ここは、池田平野の中央に位置しています。昭和36年に山津波に会い、建物は崩壊的な打撃を受けたが、本尊、高祖大師、稲荷大明神は損傷を受けなかったようです。御本尊は来世において極楽浄土へ導いてくれるという阿弥陀様というので特にお年寄りの人々の信仰があついようです。

ここ第39番松風庵は墓地の中といってもいいほど、お墓に囲まれている。その昔 「捨往来」(すておうらい)という手形があった。霊場巡拝などに発行され行き倒れに関するもので、江戸小日向福蔵寺が天保15年(1845)に発効した捨往来によれば、檀徒の栄吉なる者が巡拝の途中病死したら、役人立ち会いの上、何宗でもよいから葬られ、忌日戒名だけ関係者へ知らせて欲しいとある。栄吉は江戸より小豆島へ渡り、安田の地で亡くなっている。一方、行先で倒れたら、知らせる必要はないという手形もある。1844下総国(千葉県)の平兵衛は、やはり巡礼中、安田で亡くなったが、無縁仏として葬られている。そういった巡礼途中で亡くなった方の墓地でもある。 はてさて、江戸から小豆島へわざわざ巡礼をするのには何か訳でもあるのであろうかと思う。 江戸の近くの坂東34観音霊場(記録によると、1560年に書かれた「杉本寺縁起」には、法皇ご順礼の勅命を得て、第一番札所となったとある)、秩父霊場、関西では西国観音霊場もあり、小豆島であれば、近くの四国霊場があるはずなのに、なぜ小豆島なのだろうか?

十一面観音が奉られる第40番保安寺は小気味よくコンパクトにまとめられた空間、という雰囲気。江戸時代末期奈良の西大寺建築にも貢献した「ヒラガ ミノスケ」大工が建設したそう。庭に植えられたモッコク、椿、桜とも建物同様長生き老木です。

二王(金剛力士像)が出迎える第41番佛谷山は、薬師如来が祭られています。柴を焚き暖めた洞窟内に海から引きあげた海藻を敷き詰め、 病人を寝かせて病の治療をしたという歴史から、「石守り」を頂くことができます。 洞窟内にはかわいらしく、ころころとした色とりどりの「石守り」がいっぱい。

弘法大師が二匹の龍を岩窟に閉じ込めたといわれる山岳霊場第42番西ノ瀧です。見晴らしがよく小豆島の夕日スポットのひとつ。タイミングが合えばエンジェルロード(天使の散歩道)に出会えるかも。

第43番浄土寺のこの辺りは、すごく素敵な風景。棚田が広がっている。きっと季節が良かったら、もっとずっとキレイだっただろうなぁと思いながら参道へ。山門をくぐって正面に茅葺きの庫裏。庫裏を右に見て奥へ進むと立派な本堂が構える。本堂手前右に45番地蔵寺堂があり、境内をともにしている。

いつも千枚田を写しているポイントがこの寺第44番湯船山です。蓮華寺と言っていたようですが、廃寺後 湯舟山と言うようになったようです。ここは境内に古杉、クスノキの大木があります。この辺りの湧水は、日本の名水百選に選ばれています。どんな日照りにもかれることのない、貴重な水源で、千枚田と呼ばれる急斜面の水田の灌漑用水などとして昔から大切に利用されているようです。そして島内の遠くからこの水を飲料用にもらいに来ているようです。

第45番地蔵寺堂は浄土寺の敷地内にあります。ハスの花のアーチがアクセントです。

大きな墓地の下に寺が見えてきます。護法山と書かれた額がかかった鐘楼門を入ると右に庫裏があり、左に地下へ続く階段があります。そこは不動堂であり毎月28日には祈祷護摩を厳修しております。不動堂を抜け、地上に上がるとすぐ本堂の前に出ます。第46番多聞寺は寺伝によれば行基菩薩の開創と言われています。寺はもと東林坊と称し、苗手四望というところにあり、文亀年間に現在地に移転し、多聞寺と改称した。鐘楼門にある梵鐘は、この地の離宮八幡にあって治承年間に多聞寺の住職をつとめた瓢海上人が勧請したものという。他に300年の伝統を持つ「虫おくり」と言う行事が行われ、数多くの人々でにぎわっている。また「農村歌舞伎」の舞台も残されており、毎年5月3日に離宮八幡宮で奉納されている。

第47番栂尾山、ここは山の中にある。春日神社辺りから山側の道に入り登っていくと、案内板が左手に出ている。その案内板の真横を左に下りていく。普通に舗装された道路から、びっくりするくらい細い山道を行くので、本当に車で行けるのか不安になるほど。車を停めて歩いて本堂へ。岩壁に門が組み込まれ、本堂は岩窟の中にある。戸を開けて入る。猿がいたずらするので、扉の開閉をきちんとしてください・・・と言うよな張り紙あり。本堂に入り後ろを振り返ると、入口の外に中山の集落が小さく見える。外の門につられた小さな鐘楼もステキ。本堂から少し離れたところに大師堂が建っていて、大師堂までの参道は、ウッドデッキのように整備されているので、歩きやすい。

なぜかいびつな階段を降りていくと、第48番毘沙門堂に出ます。天平年間(729〜)に僧行基が開基したと伝えられ、本尊は左甚五郎作と伝わる毘沙門天像、脇侍に木造青面金剛像と木造金剛童子像。この童子像は、県下屈指の庚申像だそうです。

14:30福田港に向かう。
15:05福田港到達。
15:30福田港フェリーで出発。
17:10姫路港到達、車で帰路に向かう。

今回の旅行、香川県の離島、瀬戸内海で淡路島に次ぐ2番目に大きな島小豆島に足を運び、小豆島八十八か所巡りの(第一札所ー第48札所)を訪れ楽しめました。

四国の八十八か所霊場と違って小ぶりで庵が51か所ですが29のお寺は皆立派な建造物でした。
又山岳霊場が13もあり四国には無いものがあり、見るべきものが沢山あり、予想を裏切って感動しました。
比較的距離も短く、まわりやすい小豆島八十八箇所巡りお勧めですね。
次回は後半を巡る予定です。期待したいですね。







  

























飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百五十七弾:四国八十八か所巡り第三弾(第61番札所ー第88番札所)
2013年12月21−23日
 

四国八十八か所巡り第三弾、1200年昔、弘法大師が42歳のときに人々に災難を除くために開いた88の霊場。弘法大師の亡き後、弟子たちがその遍路を辿ったことが、四国八十八ヶ所お遍路の始まりと伝えられています。様々な願いとともに心の修行を重ねる旅は、今も変わらぬ姿で四国に存在しています。今回は第61番札所から第88番札所を巡りました。

21日13:00車で出発、阪神淡路鳴門高松自動車道経由して
16:30高松市内のホテル到着、繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
22日7:00車で出発、愛媛県西条方面に向かう。

聖徳太子(574?622)の開基という四国霊場屈指の古刹であり、一方、境内には本堂と大師堂を兼ねた超近代的な大聖堂を構えている。また、寺が創始した子安講の輪は、海外にまで広がり現在20.000人を超えている。
縁起によると、用明天皇(在位585?87)の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子が建立したと伝えられる。このときに、太子の前に金の衣を着た白髪の老翁が飛来して、本尊の大日如来像を安置したとも伝えられ、また、天皇からは「教王院」の勅号を賜った。のち、天平年間(729?49)には行基菩薩(668?749)が訪ねている。弘法大師が訪れたのは大同年間(806?10)であった。ある日、門前で身重の婦人が苦しんでいた。大師は、栴檀の香を焚いて加持、祈祷をした。すると婦人は元気な男子を無事に出産した。これが機縁となり、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来像を本尊の胸に納め、再び栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る「四誓願」の護摩修法をされて寺に遺し、霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来する香園寺を訪れる。

JR伊予小松駅から西へ歩いて1分、100m近い。境内は、しっとりとした日本庭園の風情が満ちており、遍路の気分を和ませてくれる。往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724?49)は諸国に一の宮を造営した。その折、この地に伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師(??744四)が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる。弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806?10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいた。大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている宝寿寺を訪れる。

東西に走る国道11号線と、JR予讃線に挟まれて所在する。かつては塔頭21坊の伽藍を誇った大寺域は、やはり近代化された道路と鉄道によって狭められた。四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所は吉祥寺だけで、その縁起をたどる。弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、その折に大師は1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得した。大師は、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている吉祥寺を訪れる。

山岳信仰の山として崇拝される富士、大山など日本七霊山の一つ、国定公園・石鎚山(標高1982mの麓にある。真言宗石派の総本山であり、修験道の根本道場でもある。弘法大師は若い空海のころ、この石鎚山に2度入山しており、虚空蔵求聞持法や37日におよぶ護摩修法、あるいは三七日(21日間)の断食修行をしたことが知られている。縁起によると、修験道の祖・役行者小角が石鎚山で修行をしたのは天武天皇(在位673?86)のころとされ、修行中に釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するために石蔵王権現となって現れたのを感得した。その尊像を彫って安置し、祀ったのが開創とされている。その後、桓武天皇(在位781?806)が病気平癒を祈願したところ、成就されたので七堂伽藍を建立して、勅願寺とされ「金色院・前神寺」の称号を下賜した前神寺を訪れる。

四国中央方面に向かう。

江戸時代の俳人・小林一茶が寛政7年(1795)に訪れたとき、「これでこそ 登りかひあり 山桜」と詠まれただけあって、山内は樹齢3、400年の桜が爛漫となる名所である。伊予最後の霊場で、標高は約430m、平石山の中腹にある静かな境内。縁起では、聖武天皇(在位724?49)の勅願によって、行基菩薩が弥勒の浄土を模して具現するために開創したと伝えられる。その後、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像を彫造して安置された。さらに、大師は不動明王像も彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法されたという三角寺を訪れる。

四国霊場のうち最も高い標高911メートル、四国山脈の山頂近くにある霊場で、「遍路ころがし」と呼ばれる難所とされた。現在は、麓からロープウエーで山頂駅まで登ることができる。住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めでいわば「関所寺」。縁起によると、弘法大師は雲辺寺に3度登っている。最初は延暦8年、大師が16歳のときで善通寺(第七十五番)の建材を求めてであったが、深遠な霊山に心うたれて堂宇を建立した。これが雲辺寺の創建とされている。2度目は大同2年(807)、大師34歳のとき、唐から請来した宝物で秘密灌頂の修法をなされたという。さらに弘仁9年(818・大師45歳)、嵯峨天皇(在位809?23)の勅を奉じて登り、本尊を彫造して、仏舎利と毘廬遮那法印(仏法石)を山中に納めて七仏供養をし、霊場と定められた雲辺寺を訪れる。

地元では大興寺というより、山号にちなむ「小松尾寺」という呼称が親しまれ、近傍一帯の集落を小松尾と呼ぶ。縁起によると、天平十四年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立され、延暦11年(792)大師の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(823)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられている。しかしながら、戦国時代末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失、慶長年間(1596?1615)に再建されたが再び焼亡、本堂は寛保元年(1741)に建立されたものである大興寺を訪れる。

観音寺方面に向かう。

六十八番・神恵院も六十九番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹にあります。2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場です。開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています。大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、寺の名を「神恵院」にとし、六十八番霊場としました。その後、明治初年の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は麓の観音寺境内に移転。同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂(さいこんどう)に移されました。以降、「神恵院」は西金堂(2002年に新築)を本堂に、阿弥陀如来像を本尊として今に至っています。神恵院を訪れる。

第六十八番・神恵院と同一境内にあり、開基も創建の時期や由縁も同じであることは、前項で述べている。ただ、創建されたころの寺号は「神宮寺宝光院」と称した。以来、100年後の縁起からたどる。大同2年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第7世住職となって入山している。大師はそのころ、琴弾大明神が乗っていた神船は神功皇后とゆかりがあり、観音の化身であると感得した。そこで大師は、琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣ならって中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山・観音寺」に改め、霊場に定めたとされている観音寺を訪れる。

四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4ヶ所だけという五重塔が目印。大同4年(809)の建立でしたが損傷が激しく明治43年に再建されました。また、本尊は馬頭観世音菩薩で四国霊場では唯一のもの。頭上に馬頭をいただく観音様で、祀られている本堂のそばには馬の像が控えています。
大同2年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が七十番札所として開基。当時は「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間にて建立したという伝説が残ります。およそ2万平方メートルの広大な境内には国宝の本堂はじめ、仁王門、五重塔、鎮守堂、大師堂、十王堂、赤堂(大日堂)、慰霊堂、鐘楼、客殿などが並び、大寺として栄華を極めた当時を偲ばせます本山寺を訪れる。

今からおよそ1300年前。人皇第45代聖武天皇の勅願により、行基菩薩が堂宇を建立し、光明皇后の父母の菩提を弔う為、『大方広仏華厳経』をお祀りし、寺院を創建したといわれています。また、華厳経以外にも、寺宝の経典の中には天平年間724年頃につくられた経典が残っており、少なくとも724年以前には寺院が建立されていた事が伺へ、大師生誕(774年)の50〜100年程前に弥谷寺が創建された事が分かっています弥谷寺を訪れる。

善通寺方面に向かう。

縁起によると、創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。讃岐の領主・佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺(よさかでら)」と称していました。弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のこと。亡き母玉依御前の冥福を祈るためだったともいわれています。唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立。本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に改めました。
また、四国霊場の古い案内書には、樹齢1200年を超す弘法大師お手植えの「不老松」の存在も紹介されています。高さは4m足らずですが直径が17?18mもあり、菅笠をふたつ伏せたような印象的な姿で県の自然記念物にも指定されていました。しかし、松食い虫に浸食され、平成14年に伐採されています曼荼羅時を訪れる。

出釈迦寺の開基には、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起にゆかりがあります。それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で虚空蔵菩薩像を刻んで安置し、堂宇を建てたといいます。この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所でしたが、今は寺の奥の院となり、境内から急坂を50分ほど上がった場所にあります。弘法大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「求聞持法」を修めたことから「求聞持院」という院号がつきました。ここで拝むとすばらしい記憶力が得られ、学業成就や物忘れにご利益があるといわれています。 また、弘法大師が身を投じた場所は、ここからさらに100mほど登った場所にあります。下を見れば足のすくむような深い谷底ですが、眼下には讃岐平野や瀬戸内海を一望できる絶景が広がります出釈迦寺を訪れる。

弘法大師の故郷で、幼少時代によく遊んだといわれる場所。平安初期、壮年期になった弘法大師は善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していました。ある時甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言いました。弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養しました。 その後、嵯峨天皇の勅命を受けてこの地にある日本最大の溜池「満濃池」の修築工事を監督する別当に任命された弘法大師。朝廷が派遣した築池使さえも達成できなかった難しい工事です。弘法大師は甲山の岩窟で修復工事の完成を祈願し、薬師如来像を刻んで修法しました。すると大師を慕って数万人の人々が集まり、力を合わせてわずか三ヶ月で完成させたのです。朝廷からこの功績を称えられ、金二万銭を与えられた弘法大師は、その一部を寺の建立にあて、先に祈願をこめて刻んだ薬師如来を本尊とし、安置。山の形が毘沙門天の鎧、兜の形に似ていることから「甲山寺」と名づけられました甲山寺を訪れる。

五岳山 善通寺の創建は、『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期成立)によると、唐より帰朝されたお大師さまが、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したと記されています。鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に「誕生院」が建立され、江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々のお寺でしたが、明治時代に至り善通寺として一つのお寺となりました。現在は真言宗善通寺派の総本山であり、また四国八十八ヶ所霊場の75番札所でもあります善通寺を訪れる。

弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」が誕生した地。縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となりました。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようですの金倉寺を訪れる。

多度津方面に向かう。

仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母は生き返ったという道隆寺を訪れる。

境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望が見事である。往時から港町として栄え、「四国の正面玄関」とでもいえる場所なので、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、また、四国霊場で唯一「時宗」の霊場である。縁起によると、郷照寺は神亀2年、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残である。その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている郷照寺を訪れる。

高松方面に向かう。

天平年間に金山の中腹に、行基菩薩によって開創され、弘法大師によって荒廃した堂舎を再興されている。大師が弘仁年間(810?24)にこの地方を訪ね、弥そ場という沢水が落ちる霊域にきた際、ひとりの天童が現れて閼伽井を汲み、大師にしたがい給仕をした。この天童は、金山を鎮守する金山権現であった。天童は、永くこの山の仏法を護るようにと誓って、持っていた宝珠を大師に預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋めて仏法を守護し、その寺を摩尼珠院と号した。大師はまた、弥蘇場の霊域にあった霊木で本尊とする十一面観世音菩薩をはじめ、脇侍として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造し、堂舎に安置した。この本尊の霊験が著しく、諸堂が甍をならべ、境内は僧坊を二十余宇も構えるほどであった天皇寺を訪れる。

創建当時の遺構をよく残した寺で、旧境内の全域が国の特別史蹟。本堂は、全面と背面に桟唐戸のある鎌倉中期に再建されたものです。また周辺には創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、唐招提寺の金堂に匹敵する規模を思わせます。また、山門の右手には七重の塔の礎石も残っており、現存していれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったといわれています。寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩が巨大な十一面千手観音像を刻み、本尊としました。その後、弘仁年間(810?823)に弘法大師が霊場に定めますが、「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。藩主・生駒氏や松平氏によって再興され、今に至ります国分寺を訪れる。

青峯、黄峯、赤峯、白峯、黒峯の5色山のうち、白峯にある静かな古刹。弘法大師と大師の妹の子と言われる智証大師が創建されました。弘仁6年、白峯山の山頂に、如意宝珠を埋め井戸を掘り、衆生済度を祈願に堂宇を建立しました。後に智証大師は、山頂できらめく光を見つけて登頂。山の神である白峯大権現の神託を受け、霊木で千手観音像を彫造し、これを本尊にしたと伝えられます白峯寺を訪れる。

五色台の主峰、青峯山に佇ずむ、かつての巨刹。五つの山に金剛界曼荼羅の五智如来を感じた弘法大師は、密教修行の地とし青峯に「花蔵院」を建立されました。後に大師の甥にあたる智証大師が訪れた際、山の鎮守である一之瀬明神に出会い、「この地にある毘沙門谷、蓮華谷、後夜谷に道場を作り、蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げをうけました。智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し、「千手院」を建て安置しました。この霊木の切り株から芳香を放ち続けたことから「花蔵院」、「千手院」を総称して根香寺と名づけられたといわれます。根香寺は後白河天皇の帰依も厚く隆盛を極めました。後に、高松藩主らにより再興され、この時に天台宗へ改宗されました根香寺を訪れる。

17:00高松のホテルに戻る。
17:30高松市内のホテル到達後食事を済ませて就寝。
23日8:00車で出発。

創建は、わが国に仏教が伝来して約160年後という歴史を誇ります。開基は、奈良仏教の興隆の礎を築いた義淵僧正で、当時は大宝院と呼ばれ、南都仏教の一つ法相宗の普及をはじめ、行基菩薩、良弁僧正らを輩出。和同年間、諸国に一宮寺が建立の際、行基菩薩が堂宇を修復し、神毫山一宮寺に改名されました。また大同年間、弘法大師が訪れ約106cmの"聖観音" 聖観世音菩薩を彫造し、伽藍の再興にあたり、この時に真言宗に改宗されました一宮寺を訪れる。

屋島は高松市の東、標高293メートルの火山台地の半島で、那須与一の扇の的や義経の弓流しなどで有名な源平合戦の古戦場の史蹟で知られる。屋島寺はその南嶺にある。屋島寺は、天平勝宝のころ鑑真和上によって開創されたと伝えられる。鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ5度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝5年(753)に苦難のすえ鹿児島に漂着した。翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。のち和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し初代住職になった屋島寺を訪れる。

屋島の東、源平の古戦場を挟み標高375mの五剣山があります。地上から剣を突き上げたような神秘的な山です。八栗山はその8合目にあり、多くの遍路さんはケーブルカーで登られます。 天長6年、大師がこの山に登り求聞寺法を修めた時に、五振りの剣が天振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れました。そして「この山は仏教相応の霊地なり」と告げられたので、大師はそれらの剣を山中に埋め鎮護とし五剣山と名づけらました八栗寺を訪れる。

香川県東部、志度湾に面して建立される志度寺。海の向こうはるかには、屋島や五剣山の稜線を望めます。開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています志度寺を訪れる。

明治維新以後、本坊は学校や警察、郡役所などの公共施設に提供された寺。地元では「長尾の観音さん」や「力餅・静御前得度の寺」として親しまれています。  開創は聖徳太子という説もありますが、天平十一年に行基菩薩の説が一般的。行基がこの地を歩いていると道端に楊柳の霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫造し本尊として安置。法相宗を開基しました。その後、弘法大師がこの寺を訪れ、入唐が成功するように年頭七夜に渡り護摩祈祷を修法して国家安泰と五穀豊穣を祈願されました。その祈願は現在にも受け継がれ、毎年正月の七日には「大会陽」が盛大に開催されています長尾寺を訪れる。

徳島県の県境に近い矢筈山(標高782m)の東側中腹に位置します。縁起によると、養老元年に行基菩薩がこの地を訪れた際に、霊夢を感得し草庵を建て修行をしたと言われます。弘仁7年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院近くの胎蔵ヶ峰という岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立。等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊とされました。また唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を納めて大窪寺と名づけ、結願の地と定めました。本堂西側にそそりたつ女体山には奥の院があります。大師が本尊に水を捧げるために独鈷で加持すると清水が湧き出たと伝えられます。その水を薬とともに服用し、ご利益を受ける人も少なくありません。大窪寺を訪れる。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、四国八十八箇所巡り第三弾、第61番札所から第88番札所を巡り、トータル連休を3回使って制覇しました。

ロープウエイ経由の寺、ケーブルカー経由の寺、曲がりくねった細い勾配の急な道のりでやっとの思いでたどり着いた寺、車でも訪れるのが大変なお寺が数多く存在し、歩いての88か所巡りは、多大な時間と苦労が必要ですね。
1200年の歴史のある八十八霊場巡り、過酷な修行の場と言っても過言ではないでしょうね。
途中何人もの人々がたどり着けず、死に至らしたでしょうね。過酷の巡礼の旅ですね。

歴史ある霊場めぐり、無事終了致しました。
































 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百五十四弾:四国八十八か所巡り第二弾(第37番札所ー第60番札所)
2013年11月22−24日
 

四国八十八か所巡り第二弾、1200年昔、弘法大師が42歳のときに人々に災難を除くために開いた88の霊場。弘法大師の亡き後、弟子たちがその遍路を辿ったことが、四国八十八ヶ所お遍路の始まりと伝えられています。様々な願いとともに心の修行を重ねる旅は、今も変わらぬ姿で四国に存在しています四国八十八か所巡り第37番札所ー第60番札所を訪れました。

22日7:30車で阪神淡路鳴門高松道経由して
10:30高松市内のホテル到着就寝。

23日7:00車で出発、高松高知道経由して
9:20窪川到達
岩本寺を訪れる。
清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に、五尊の本尊を祀る岩本寺は建立されている。歴史は天平の世まで遡る。寺伝によれば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、現在地より北西約3kmの付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。仁井田明神の別当職(別当寺)であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。

足摺に向かう。
金剛福寺を訪れる。
四国の最南端、国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹にあり、境内は120,000平方メートルを誇る大道場。弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。ときの嵯峨天皇(在位809?23)に奏上、勅願により伽藍を建立、開創したと伝えられる。弘仁13年、大師49歳のころといわれる。
岬は、濃緑の樹海と白亜の灯台、それに断崖に砕ける波涛、観世音さんの浄土を連想させ、自然の大庭園に圧倒させられるのだが、ここにたどり着く遍路の旅もまた壮絶を極める。前の三十七番札所から80余km、いまは車で約2時間余、歩いたら約30時間、3泊4日はかかり、四国霊場の札所間では最長距離で、まさに「修行の道場」である。

宿毛に向かう。
延光寺を訪れる。
土佐路の西南端、「修行の道場」最後の霊場である。現在の山号、寺名の由来にかかわる竜宮城の縁起からひも解こう。時代は平安中期、延喜11年(911)のころ、竜宮に棲んでいた赤亀が背中に銅の梵鐘を背負ってきたという。僧たちは早速これを寺に奉納して、これまでの山号、寺名を「赤亀山延光寺」に改めた。この梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれ、総高33.6cm、口径23cmの小柄な鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されている。
縁起を寺の起源にもどそう。神亀元年に行基菩薩が聖武天皇(在位724?49)の勅命を受けて、安産、厄除けを祈願して薬師如来像を彫造、これを本尊として本坊のほか十二坊を建立したのが開創とされている。当時は、薬師如来の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺名を宝光寺と呼び、また、本尊の胎内には行基菩薩が感得したという仏舎利を秘蔵したと伝えられている。弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間(782?805)で、桓武天皇(在位781?806)の勅願所として再興、日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。このとき大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が、今日に伝わる「眼洗い井戸」である。

観自在寺を訪れる。
愛媛県は「菩提の道場」。その最初の霊場で、一番霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。寺があるこの町は、美しいリアス式海岸の宇和海に面した最南端で、海洋レジャーの基地、真珠の生産地としても知られる足摺宇和海国立公園の景観を存分に楽しむことができる。縁起をひも解くと、弘法大師が大同2年に平城天皇(在位806?09)の勅命を受けてこの地を訪れ、1本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開創したとされている。このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされた。
平城天皇はまた、勅額「平城山」を下賜し、次の嵯峨天皇(在位809?23)とともに親しく行幸され、御朱印を下されて『一切経』と『大般若経』を奉納し、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修された。こうしたことから、この地方を「御荘」と称し、また勅額の山号に因んで「平城」とも呼ぶようになっている。寛永15年(1638)、京都・大覚寺の空性法親王が四国巡拝の折に宿泊され、「薬師院」の院号を授かっている。このころは七堂伽藍がそびえ、末寺48坊、寺領二千数百石という隆盛を誇っていたという。だが、火災によりすべての堂塔を焼失、その後は宇和島藩主・伊達家の祈願所として旧観の回復につとめ、法灯を守っている。

宇和島に向かう。

龍光寺を訪れる。

宇和島は伊達家十万石の城下町、その市街地から北東に10kmほどのところが三間平野。地元では「三間のお稲荷さん」と呼ばれ、親しまれているのが龍光寺で、往時の神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場である。その象徴ともいえるのが、山門は鳥居であること。この山門をくぐると仁王像に代わる守護役・狛犬が迎えてくれる。境内には狐とお地蔵さんの石像が仲良く並んでおり、仏と神が同居している。縁起によると、大同2年に弘法大師がこの地を訪ねた際に、稲束を背負ったひとりの白髪の老人があらわれ、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消した。大師は、この老翁が五穀大明神の化身であろうと悟り、その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置した。このとき、本地仏とする十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像して一緒に安置し、「稲荷山龍光寺」と号して四国霊場の総鎮守の寺とされ、開創したと伝えられる。
創建のころから神仏習合の寺であった龍光寺は、稲荷寺として信仰され維持されてきたが、明治新政府の廃仏毀釈令により旧本堂は「稲荷社」となった。新たに本堂が建立されて、ここに稲荷の本地仏であった十一面観世音菩薩像が本尊として安置され、その隣に弘法大師勧請の稲荷明神像も一緒に祀られて鎮座している。
三間平野は四季折々の草花が美しく、毎年11月ころにはコスモス祭りが開かれる。


佛木寺を訪れる。

牛の背に乗った弘法大師の伝説が語り継がれる仏木寺には、境内に家畜堂という小さなお堂がある。ミニチュアの牛や馬の草鞋をはじめ、牛馬の陶磁器、扁額などがところ狭しと奉納されている。近隣の農家では、田植えが終わったころに参拝に行き、牛馬の守護札を受けて帰り、畜舎の柱に貼っていた。往時は農耕をともにした家畜たちの安全を祈願していたが、最近ではペットなども含めて動物一般の霊を供養したり、また、闘牛の飼育者の間にも信仰が広がっているという。
大同2年のころ、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、光を放っているのを目にした。よく見ると、これは唐から帰朝するときに、有縁の地が選ばれるようにと、三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠であった。大師は、この地こそ霊地であると感得、堂宇の建立を決心した。大師は自ら楠で大日如来像を彫造、眉間に宝珠を埋めて白毫とした。これを本尊として安置し、「一山仏木寺」と名づけ、草字体で書写した『般若心経』と『華厳経』一巻を奉納されたと伝えられる。

明石寺を訪れる。
明石寺が所在する宇和町には、愛媛県歴史文化博物館をはじめ、宇和文化の里の開明学校、申議堂のほか、高野長英の隠れ家、多くの古墳など古代の遺跡が残されている歴史と文化の町である。明石寺にもまた奇逸な歴史の縁起が残されている。
まず、この地は乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされて、古来尊崇されてきた。6世紀の前半、欽明天皇(在位532?71)の勅願により、円手院正澄という行者が唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。のち、天平6年(734)に寿元という行者(役行者小角から5代目)が紀州熊野から12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として法灯を伝承した。
弘仁13年(822)には弘法大師がこの地を訪ねている。荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809?23)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興した。その後、鎌倉時代になってから再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。建久5年(1194)、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。以来、武士の帰依があつく、室町時代には領主・西園寺家の祈願所として、また江戸時代には宇和島藩主・伊達家の祈願所となり、末寺は70余寺を数えたと伝えられる。

松山方面に向かう。

大寶寺を訪れる。
四十三番明石寺からの道のりは約80km、峠越えの難所がつづき、歩けば20時間を超す「遍路ころがし」の霊場。四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。標高四90mの高原にあり、境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂う。縁起は大和朝廷の時代まで遡る。百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697?707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。弘法大師がこの地を訪れたのは、およそ120年後で弘仁13年(822)、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。

仁平2年(1152)、全山を焼失。だが、直後の保元年間(1156?59)に後白河天皇(在位1155?58)が病気平癒を祈願して成就され、ここに伽藍を再建し、勅使を遣わして妹宮を住職に任じて勅願寺とした。このときに「菅生山」の勅額を賜り、七堂伽藍の僧堂を備え、盛時には山内に48坊を数えるほどであった。
その後「天正の兵火」で再び焼失、松山藩主の寄進で復興し、江戸中期には松平家の祈願所にもなったが、さらに明治7年には3度目の全焼、火災との苦闘を宿命にした。


岩屋寺を訪れる。
標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である。神仙境をおもわせる境内は、むかしから修験者が修行の場としていたようで、さまざまな伝承が残されている。弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年とされている。そのころすでに土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就、空中を自在に飛行できる神通力を身につけ、法華仙人と称していたという。だが仙人は、大師の修法に篤く帰依し、全山を献上した。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、また、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされた。
一遍上人(1239?89)が鎌倉時代の中期にこの古刹で参籠・修行したことは、『一遍聖絵』にも描かれており、13世紀末ごろまでにはこれらの不動尊像をはじめ、護摩炉壇、仙人堂、49院の岩屋、33の霊窟などがそのまま残っていたと伝えられる。いつの頃からか、四十四番大寶寺の奥の院とされていたが、明治7年に第一世の住職が晋山した。だが、同31年(1898)に仁王門と虚空蔵堂をのこし諸史料ともども全山を焼失した。大正9年に本堂より一回り大きい大師堂を再建、その後、昭和2年に本堂、同9年に山門、27年鐘楼を復興、宿坊遍照閣は38年、逼割不動堂・白山権現堂は同53年にそれぞれ建立されている。大師堂は国指定重要文化財、寺域は国の名勝、県立自然公園の指定地でもある。

浄瑠璃寺を訪れる。
浄瑠璃寺は松山市内八ヶ寺の打ち始めの霊場である。参道入口の石段左に「永き日や衛門三郎浄るり寺」と彫られた正岡子規の句碑があり、お遍路を迎えてくれる。このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎のふる里として知られる。縁起を辿ってみると、行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立した。白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、眷属として十二神将を彫造して安置した。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んだ。
約百年後の大同2年(807)、唐から帰朝した弘法大師がこの寺にとどまり、荒廃していた伽藍を修復し、四国霊場の一寺とした。室町時代の末期に足利幕府の武将、平岡道倚が病に苦しみ、本尊に祈願したところ、ご利益で全快したのに感激し、寺塔を再興して厚く帰依した。江戸時代の正徳5年(1715)に山火事で本尊と脇侍をのぞいてほとんどの寺宝、伽藍を焼失したが、70年後の天明5年(1785)、地元の庄屋から住職になった僧・堯音が復興に尽力した。堯音は、托鉢をしながら全国を行脚してその浄財で現在の本堂その他の諸堂を再興している。また、社会事業家としても知られ、岩屋寺から松山市にいたる土佐街道に、苦難の末に8つの橋を架けている。境内の樹齢1,000年を超す大樹イブキビャクシン(市天然記念物)が、信仰を得ている。

八坂寺を訪れる。
浄瑠璃寺から北へ約1キロと近い八坂寺との間は、田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、1,300年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697?707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。
弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁6年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942?1017)の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野八坂寺」とも呼ばれるようになった。このころは境内に12坊、末寺が48ヶ寺と隆盛をきわめ、僧兵を抱えるほど栄えた。だが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りとなり、再興と火災が重なって末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが建ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせている。本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊が約8,000祀られている。

西林寺を訪れる。
寺の前に小川があり、きれいな水が流れている。門前にはまた正岡子規の句碑があり、「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と刻まれている。「ていれぎ」は刺し身のツマに使われる水草で、このあたりの清流に自生し、松山市の天然記念物とされている。縁起によると、聖武天皇(在位724?49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置した。大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留した。ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされた。
このころ村は大旱魃で苦しんでおり、弘法大師は村人を救うために錫杖を突き、近くで清水の水脈を見つけた。寺の西南300mにある「杖の淵」はその遺跡とされ、水は涸れたことがなく土地を潤し、昭和60年の「全国の名水百選」にも選ばれている。時代は江戸・寛永年間(1624?44)、火災で堂塔を焼失した。元禄13年(1700)に松平壱岐守はじめ、家老、奉行など諸役人の手により一部を再建、宝永4年(1707)には中興の祖、覚栄法印が村民の雨乞い祈願を成就して松山藩に帰依され、本堂と鐘楼堂の再興に尽力、さらに江戸末期に大師堂と仁王門を復興している。

浄土寺を訪れる。
境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立つ。浄土寺は空也上人(903?72)の姿がいまに残る寺である。腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が浮かぶ。道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した遊行僧、念仏聖である。この空也上人像を本堂の厨子に安置する浄土寺は、縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749?58)の勅願寺として、恵明上人により行基菩薩(668?749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。法相宗の寺院だったという。のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。
空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957?61)の3年間、村人たちへの教化に努め、布教をして親しまれた。鎌倉時代の建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。だが、応永23年(1416)の兵火で焼失、文明年間(1469?87)に領主、河野道宣公によって再建された。
本堂と内陣の厨子は当時の建造で、昭和36年に解体修理をされているが、和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されている。

繁多寺を訪れる。
寺は松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749?58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号された。弘仁年間(810?24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位1274?87)の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。また、時宗の開祖・一遍上人(1239?89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した。上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている。
また、天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりも深く、応永2年(1395)には後小松天皇(在位1382?1412)の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっている。こうした縁から寺には16弁のご紋章がついた瓦が残っている。さらに江戸時代には徳川家の帰依をうけ、四代将軍・家綱が念持仏としていた3体のうちの歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有するほどの大寺として栄えた。

石手寺を訪れる。
日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。そのもう一つの要因は、境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院である。まず、一部を簡略にふれておこう。国宝は二王門で、高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺き。重要文化財には本堂をはじめとして、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘がある。
縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724?49)の勅願所となった。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。
「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。
鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられた考証もある。

太山寺を訪れる。
開基とされる真野長者、その長者が一夜にして御堂を建てたという縁起は興味深い。長者は豊後(大分)でふいごの炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚、いらい運が開けて大富豪となった。用明2年(587)、商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き81尺の本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。いらい「一夜建立の御堂」と伝えられている。
その後、天平11年(739)に聖武天皇(在位724?49)の勅願をうけて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にしたという。寺が隆盛したのは孝謙天皇(在位749?58)のころで、七堂伽藍と66坊を数えるほど壮観であった。弘法大師は晩年の天長年間(824?34)に訪れ、護摩供の修法をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗している。のち、後冷泉天皇(在位1045?68)をはじめに、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、十一面観音像を奉納されている。いずれも像高は150cm前後で、本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財。本堂内陣の厨子に安置されている。なお現本堂は長者の建立から3度目だが、真言密教では最大規模を誇り国宝である。

円明寺を訪れる。
圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで知られるが、この納札でとくに注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。
縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇(在位724?49)の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615?24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。 圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。


今治方面に向かう。

延命寺を訪れる。
今治の市街地から西北へ6kmほどのところに、延命寺の山号にもなっている近見山という標高244mの山がある。この山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたのが延命寺であったと伝えられる。縁起によると、養老四年に聖武天皇(在位724?49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。弘仁年間(810?24)になって、弘法大師が嵯峨天皇(在位809?23)の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。
その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。この間、鎌倉時代の文永5年(1268)、華厳宗の学僧・凝然(1240?1321)が寺の西谷の坊に籠り、初学者の仏教入門書といわれる『八宗綱要』を著述した。「八宗」とは倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳の各宗と新しく興った浄土宗で、上下2巻に記されている。寺にはまた、四国で2番目に古い真念の道標が残されており、境内に馬酔木の木があって、春の彼岸ごろから1ヵ月ほど可憐な白い花をつけている。


南光寺を訪れる。
四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。正式には光明寺金剛院南光坊という。今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められた。
のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。

泰山寺を訪れる。
泰山寺には、水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残っている。弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころ。蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。
寺はその後、淳和天皇(在位823?33)の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと伝えられている。泰山寺の右約300m「塔の元」という場所は、鎌倉時代の学僧で、『八宗綱要』を撰述した凝然(1240?1321)が誕生した地とされている。


永福寺を訪れる。
瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えなかった。栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。縁起によると、嵯峨天皇(在位809?23)の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。
栄福寺には、神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、この地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ、「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立っている。明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、また神社と寺はそれぞれ独立した。現在の大師堂は、山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。

仙遊寺を訪れる。
境内は、山号になっている作礼山の山頂近い標高300mの高台にあり、今治の市街地や四国一高い今治国際ホテルは眼下に望める。その先には瀬戸内海に浮かぶ島々、さらには平成11年に開通した「しまなみ海道」も一望できる眺望豊かな地にある。
創建は天智天皇(在位668?71)の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。このことから「作礼山」が山号となり、竜宮から届けられたという伝説もある。

さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。弘法大師が四国霊場開創の折にこの寺で修法をされたとき、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り、また荒廃していた七堂伽藍を修復して再興、寺運は興隆した。この井戸は旧参道の脇に残り、「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝えられ、信仰されている。江戸時代には荒廃して本堂と12社権現だけとなっていたが、明治時代の初期、高僧・宥蓮上人が山主となり、多くの信者とともに再興に尽力した。宥蓮上人は明治4年、日本最後の即身成仏として入定している。境内には、上人を供養した五輪塔がある。


国分寺を訪れる。
伊予国分寺。伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724?49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如(??862?)も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。
その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。まず、天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰した。次に、元暦元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。幸い寺には、古瓦をはじめ『国分寺文書』『大般若経』など数多い文化財が保存されている。四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しつのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。

横峰寺を訪れる。
西日本の最高峰・石鎚山(標高1982m)は、山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもある。弘法大師・空海が24歳の若いときの著書『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食)轗軻(苦行練行)たり」と、この山で修行した様子を記している。境内は山の北側中腹(750m)にある。四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であった。昭和59年に林道が完成して、現在は境内から500m離れた林道の駐車場まで車で行き参拝できる。ただし、冬期は12月下旬から2月いっぱい不通となる。大型バスは通行が不可である。縁起によると、白雉2年、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、山頂付近に蔵王権現が現れたという。その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされている。また、延暦年間(782?806)には石仙仙人という行者が住んでおり、桓武天皇(在位781?806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。
弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806?10)とされ、このときやはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。以来、神仏習合の別当寺として栄えているが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となった。明治42年になって、檀信徒の協力によりようやく復興している。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、四国に足を運び、四国八十八か所巡り第二弾、第37番札所ー第60番札所を訪れました。

高知窪川に位置する岩本寺からスタートして今治から西条方面に位置する横峰寺までの24か所を巡り堪能しました。

山の頂にある岩屋寺までの道のり、数日前寒波の影響で積雪を確認しました。四国でも山間部では雪が結構積もるみたいですね。スキー場もいくつか見かけました。

最後の60番札所の横峰寺、なかなかの難所、国道から入って約10kmの道のり、勾配も曲がりもきつくたどり着くのに苦労しました。

前回と比べて、今回は紅葉シーズンでもあり、どのお寺も人で賑わっていました。

四国八十八か所巡り第二弾、無事に訪れることができました。次回は最終の61番札所から88番札所巡りです。頑張ります。


 











































飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百五十一弾:四国八十八か所巡り第一弾(第1番札所ー第36番札所)
2013年11月2−4日
  

四国に足を運び、弘法大師が42歳のとき、自身と人々の厄難を除くために四国を巡礼。その際、従来からある寺や新たに開いた寺など、88の寺を選び霊場に。弘法大師の亡き後、弟子たちがその遍路を辿り、大師の功徳をしのび歩いたと伝えられています。平安末期では修行僧のみを中心に巡礼が行われていたようですが、元禄時代には庶民の間にも広まりました。様々な願いとともに心の修行を重ねる旅は、今も変わらぬ姿で四国に存在しています。今回は第1番札所ー36番札所(霊山寺、極楽寺、金泉寺、大日寺、地蔵寺、安楽寺、十楽寺、熊谷寺、法輪寺、切幡寺、藤井寺、焼山寺、大日寺、常楽寺、国分寺、観音寺、井戸寺、恩山寺、立江寺、鶴林寺、太龍寺、平等寺、薬王寺、最御崎寺、津照寺、金剛頂寺、神峰寺、大日寺、国分寺、善楽寺、竹林寺、禅師峰寺、雪蹊寺、種間寺、清瀧寺、青龍寺)を訪れました。

2日12:30車で出発、阪神、神戸淡路鳴門自動車道経由して
14:40鳴門到達。

霊山寺を訪れる。
「一番さん」と親しまれる四国霊場第1番札所。天平年間(729〜749)、聖武天皇の勅願道場として行基が創建したといわれ、一年中白装束のお遍路さんで賑わう。1番札所の札がかかる仁王門をくぐると鯉が泳ぐ池があり、大師堂や多宝塔、本堂などが立ち並ぶ。

極楽寺を訪れる。
霊山寺の西、約1kmのところにある四国霊場第2番札所。朱塗りの仁王門をくぐると美しい日本庭園が広がり、その先に弘法大師が植えたという長命杉がある。本堂には平安時代末期の作とされる本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)を安置。

金泉寺を訪れる。
聖武天皇が天平年間に建設、金光明寺と賜号、釈迦、阿弥陀、薬師の三如来を本尊として安置、そのご弘法大師が四国巡錫の砌四国八十八ヶ所第三番霊場とお定めになりました。日照りに苦しむ住民のために掘られた井戸は今も「長寿をもたらす黄金井戸」として、黄金地蔵とともに霊験あらたかであります。その後、亀山法皇が精藍を御再興、三十三間堂を建て、千手大悲の観音菩薩を安置し、山号を亀光山と賜号されました。源平合戦のおり、義経が屋島に向う時、当寺に立ち寄り戦勝開運を祈願した。当時の慈母観音子安大師は、すこやかに育てという親心を、又義経が戦勝開運を祈願した観音菩薩は、今も人生への開運を祈願して参詣者の香煙、日夜絶えることがありません。

大日寺を訪れる。
象徴として板碑がある。県下最古の板碑、裏側に塔姿の形を深く細くほり、五梵字を浅く広く刻んである。弘法大師四国巡錫の砌り開基と伝えられ、本尊大日如来は一寸八分(5.5cm)の秘仏で、大師の刻まれたものといわれ大日寺と号しています。その後一時さびれて廃寺となりましたが、天和貞享の頃再建されました。当時は藩主蜂須賀家の尊信帰依が篤く、今の堂塔も元禄年間に大改修をされたと聞いています。これは、大日如来が蜂須賀家の守り本尊であった関係だろうかとおもいます。この寺の特長は、人里はなれた渓流にのぞみ、盛りあがる森の木々に囲まれた閑静な自然にあります。

地蔵寺を訪れる。
弘仁十二年(811)嵯峨天皇の勅願により高祖弘法大師の開創による霊場。かつては、阿波、讃岐、伊予の三国に2百の末寺を擁し、塔中二六ヵ寺を数えたという。しかし、天正年間長曾我部元親の兵火にあい堂塔悉くが灰燼に帰した。境内4万平方米、建物面積三千平方米の広大さ。又境内の裏庭に五百羅漢堂がある。コの字型の堂内に木像等身大(日本最大)の羅漢さんがたくさんならんでいる。羅漢さんとはお釈迦さんの弟子であり、仏道修行して阿羅漢果という人間として最高の位を得た人である。その羅漢さんを500人集めたのが五百羅漢である。創建は安永四年であるが大正年間焼失し、現在あるのはその後に復興したものである。

安楽寺を訪れる。
当山は、弘仁6年弘法大師により開創されたと伝えられている。元禄時代の霊場記に「この地に昔温泉ありて諸方の病人入浴治の利益を得しこと久く、まこと仏の大悲の極みなるものなり。これによって弘法大師、薬師如来の尊像をきざみ、精藍(伽藍)を建て安置したもう、相追い来たりて人皆、医王の神化と仰ぎ、寺院繁栄に至り、鈴鐘のひびき絶えることなし・・・。」とあり、いつの時代に温泉が枯渇したかは定かではないが、山号も寺号も温泉に由来したものである。天正年間(約四百年前)に兵火にあい、現在の地に再建された。安楽寺の寺号は江戸時代には藩主蜂須賀侯より寺資をつけられ、瑞運寺と改められたこともあった。現在のご本尊薬師如来像は脊椎カリエスの難病が四国遍路で快癒した水谷しづさん、夫の繁治氏らの奉納されたものである。「さか松」と称せられる弘法大師お手植えの松があります。

十楽寺を訪れる。
年代は定かではないが、当寺は弘法大師の開基と伝えられています。寺はもと現在地から3キロ奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定され、阿波の北方切っての広大な大伽藍を誇っていたといわれますが、天正年間、長曾我部氏の兵火にあってすべて焼失し、天保年間(1830〜44)現在地に移り再建されましたが、今尚附近に大門原、法教田堂ヶ原などの地名があり、当地の名残りをとどめております。尚当寺は、昔から盲目の治療に霊験あらたかで、信仰者の中に開眼した例も数多いといわれています。寺宝として、光高等竜宮真田幸村の茶釜などがあります。

熊谷寺を訪れる。
真光院、普明山、熊谷寺は、第五十二代、嵯峨天皇の御世、弘仁6年(西暦815年)にお大師様が、当地巡錫の砌闊伽ヶ谷において御修行中、紀州熊野権現が出現したまい末世主衆生を永く済度の為、千手観音像を当山に安置せよとお告げになり、一寸八分の金の観音様を大師にお授けになり、虚空遥かにお去りになりましたと伝えられています。大師は、その場に一字を建立して、自ら等身の千手観音像をお刻みになり、その胸の中に、当の金像をお納め本尊となされました。これが熊谷寺霊場の縁起です。昭和二年には火災にあい、旧本堂全焼し、以後復興事業は戦時中に中断したまま、昭和四十六年に至って現在の本堂の全容が完成しました。

法輪寺を訪れる。
当山は、弘仁6年弘法大師の開基と伝えられています。木像の釈迦如来は、弘法大師の作と言われ、四国霊場では、唯一の涅槃像として珍重なものとされています。当寺はもと白蛇山法林寺と号して、ここの北十町余山間法地ヶ渓とよばれるにあって、壮大な伽藍を誇っていたといわれ、磁石や焼土が残っていますが、これは天正時代、長曾我部氏の兵火に悉く焼失した遺跡であります。正保年間(1644〜48)現在の地に移されて再建されたおり、今の正覚山法輪寺の山号に改めたといわれています。

18:00鳴門駅付近のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

3日6:30車で出発

切幡寺を訪れる。
弘仁の昔、当山山麓に、機を織って暮らしている娘がありました。そこへ後の弘法大師が旅僧姿で現われて、衣服を繕う布きれを所望されたところ、その娘は今自分が織っている布のまん中から惜しげもなく切って差し出しました。僧はこの行為に感動して、娘の願いをいれ千手観音の像を刻み、また娘の願いによって剃髪得度させ、灌頂を授けたところ、娘はその身から光明を放って千手観音の姿にかわった。そこで、大師は嵯峨天皇に奏請して一寺を建立して得度山灌頂院切幡寺と名づけた。

藤井寺を訪れる。
弘仁六年、弘法大師の開基と伝えられています。大師42歳の時諸人と共に危難を除くために、薬師如来の尊像を刻んで寺を建て、金剛不壊の護摩壇を八畳岩に築き、十七日間の御修法を行って、堂塔の前に五色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺の山号がおこったのだといいます。現在の伽藍は、幕末、万延元年(1860)に再建されたものであります。約三百米の山上には、大師が護摩壇を築かれた八畳岩があり、弁財天を奉祀しています。本堂より焼山寺への道を四百米を登った所に奥の院があり本尊に大日如来を安置してあり、明治四十四年国宝に指定されました。

焼山寺を訪れる。
伝説によれば昔、この山に大蛇が棲んでいて村里に出ては、人や農作物に火を吐いて害を与えることがしばしばあった。弘法大師が開山のために登って来られると、大蛇はこれを妨げようと満山を火の海としたが、大師が印を結び、真言を詔して登り賜うと、不思議にも火は、順次衰える。九合目の岩窟によって、山の主の大蛇が激しく抵抗したが、虚空蔵菩薩と三面大黒天の加護によって、大師は遂に大蛇を岩窟に封じこめてしまわれたといわれる。全山火の海となって焼けたため、焼山の寺と呼び、山号を「摩櫨山」とした。摩櫨とは、梵語で水輪すなわち水を意味している。

大日寺を訪れる。
大栗山花厳院と呼ばれる当山は、弘仁6年(815)弘法大師がこの地に巡錫され「大師が森」に堂を結び、護摩修法をされている時大日如来が出現し、「この地は霊地なれば一字を建立すべし」と告げられました。そこで大師は、大日如来を刻み本尊とし、堂字を建立した。その後、元亀天正の兵火にかかって堂字は全焼したが、間もなく再建され、諸国に国の総鎮守である一の宮が建てられたとき、その別当寺となり現在の所に移り、門前の一宮神社を管理しました。一の宮の本地仏は十一面観音ですが、明治の神仏分離にあたり、観音像を大日寺へ移遷して本尊として安置した。

常楽寺を訪れる。
弘仁6年弘法大師四国巡錫の砌り、当地に修禅し給い、弥勒菩薩の御来迎を拝し随喜の余り、直に感得の慈尊二尺六寸の尊像を彫り九間四面の中堂に安置し、四国霊場第十四番の本尊とし給う。四国霊場中弥勒菩薩を本尊に安置するは唯一寺当山だけです。弘法大師御入定の折「吾閉眼の後必ず将に都卒陀天に往生して、弥勒慈尊の御前に侍り五十六億余の後、慈尊に随い余らせて吾旧跡を問い尋ねん云々」と御遺告あらせられしによるも、当山本尊弥勒菩薩と弘法大師の御因縁の浅くないことがわかります。其後祈親法師等、金堂、講堂、三重塔、二天門を増築し七堂伽藍歴然として境内に聳えたけれども、数度の兵火に殿堂伽藍は焼失いたしましたが、当山本尊弥勒菩薩は、今に至るも霊験愈々あらたかであります。
当山の三特色
一.本尊弥勒菩薩四国中唯一 一.流水岩の庭園四国唯一 一.社会施設常楽園四国唯一

国分寺を訪れる。
当山は行基菩薩の開基と伝えられる。本堂は寛保年間(1741〜3)大師堂は、天保年間(1830〜43)の再建という。第四十五代聖武天皇が勅命を発して諸国に国分僧寺と尼寺の造営を命じられた。当寺は、阿波の国分寺として行基菩薩によって開基し、釈迦如来の尊像と大般若経を納め、本堂には、光明皇后の御位牌厨子(一尺七寸)を奉祀したといわれ、天正の兵火にかかって焼失するまでは、二キロ四方という広大な寺域に、金堂を中心に七重の塔が建ち、規模の広大建築の巧妙さは一世をおどろかせたと伝えられている。本堂を囲む廃園の石組みは豪快な桃山時代の作だという片鱗をみせている。

観音寺を訪れる。
当山は第四十五代聖武天皇の勅願道場として創立せられたと伝えられる。其の後弘仁七年弘法大師巡錫の砌り、当山に滞留せられ、娑婆世界有縁の導師たる大慈大悲の千手観音を自ら刻まれ、殊に脇士の不動明王は悪魔降伏の為、又毘沙門天は、鎮護国家のため一刀三礼の誠を尽くされた霊像であります。爾来千有余年寺運の栄枯盛衰があり、加えて天正年間長曾我部氏の兵火に焼かれたという。万治2年(1659)宥応法師が再建したと伝えられているが、法灯蓮綿として長く世人の信仰を集めている。当山の印版は其の昔弘法大師の御筆を刻印したものを代々伝えるものであり、衆生に一見阿写の利益を施し、自ら無始の重罪を消滅し真言不思議の果を得るものとしてあがめられる。

井戸寺を訪れる。
当山は第四十代天武天皇の御勅願の道場として、白鳳二年(西暦673)の御開基です。元妙照寺と号し、境内八町四方寺家十二坊、阿波国司庁に隣接し盛隆を極めておりました。弘仁六年春、宗祖弘法大師が四国霊場開創の砌、昼夜斎戒汁洛して、御丈八尺余の十一面観音菩薩を刻まれ、尚大師自ら楊杖で一夜の裡に井戸を掘られ、井戸寺と称えました。其の後何度か災難に遭いましたが、今では立派に再建成り、輪喚の美、昔をしのいでおります。
重要文化財としては、十一面観音像、弘法大師作(平安初期)・日光 月光菩薩二?(平安時代)金剛胆蔵大日如来二?(室町時代)・仁王像(一丈二尺)二?(鎌倉時代)。

阿南方面に向かう。
恩山寺を訪れる。
当山は第四十五代聖武天皇の勅願により草創せられました。本尊、薬師如来は、行基菩薩が厄除けの為作って安置したてまつり、大日山福生院密厳寺と号した。其の後百有余年を経て弘法大師四国霊場跡を開かれた時、当山の霊勝を賞でられ暫く滞留せられ女人解禁の祈念を成就し、母公を伴って登山し朝夕孝養を尽されたという。其の後、弘仁五年大師四十一歳の御時、自ら生像を刻まれ大殿に安置(現今大師堂の本尊)したまい、自ら「我が願は末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われたという。

立江寺を訪れる。
高野山真言宗の別格本山橋池山地蔵院立江寺は、聖武天皇の勅願寺で天平十九(747)年、行基菩薩が光明皇后の安産を祈って、高さ六センチの黄金の地蔵菩薩を安置したのが起源で、その後弘仁六年(815)弘法大師が当山に御留錫の折、自ら1メートル96センチの大像を刻まれ、小像を其の胸中に納められ、立江寺と号し第十九番の霊場とされました。

鶴林寺を訪れる。
当山は延暦の昔、高祖弘法大師がこの地で御修行中、一米ほどの地蔵菩薩を彫刻し、黄金仏をその胎内に納めて一寺を建て本尊として安置しました。山号を霊鷲山、寺号を鶴林寺と名づけ、延暦十七年(798)桓武天皇が勅願を以って、七堂伽藍を造営せられて以来、歴代の天皇が尊信を依せられ、源頼朝、義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将も深く帰依し、特別の保護を講じたようであります。阿波一帯の寺が兵火で焼失した時も、難を免れ、四万一千坪の境内をおおった老杉とともに千有余年後の今日も塔中、末寺十五寺ヶ寺を持つ大寺として寺門愈々清謐であります。

太龍寺を訪れる。
延暦12年(793)、弘法大師の創建と伝わる古寺。四国霊場第21番札所。急勾配の参道で遍路泣かせの難所といわれていたが、現在は全長2775mの太龍寺ロープウェイが標高600mの山頂までを10分で結ぶ。
当山は舎心山常住院太龍寺と号し、高野山真言宗に属する名刹で、古来より「西の高野」と称されています。四国山脈の東南端、海抜600メートルの太龍寺山頂近く、古く桓武天皇の延暦十七年に弘法大師が開基され、幾多の変遷、興廃の歴史を経つつ現在に至っております。弘法大師24歳の時の著作として有名な「三教指帰」に゜19歳の時阿波の国太龍獄に登り虚空蔵求聞持の法を修し・・・″とあり、境内より南西方向へ600メートルの舎心獄が正に大師御修行の史跡であります。青年時の大師の思想形成に多大な影響を及ぼした当山は大師信仰の歴史の中で重要な位置を占めています。

平等寺を訪れる。
当山は弘法大師41歳の時厄除け修業のため巡錫せられた時、空に五色の霊雲がたなびき、その中で金色の梵字が現われたので、大師はその瑞相に歓喜せられ、梵字を加持せられたら薬師如来の尊像が現われ光が四方に照り輝いたので、さっそく祈祷に使う水を求めて、一つの井戸をお堀りになった。ところが、白い乳色をした水が湧き溢れたということであります。その水で身を清めた大師は、一百日の修行の後薬師如来像を刻み、本尊として安置し、一切衆生を平等に救済されるため、寺号を白水山、平等寺と称えられた。この霊水は開運鏡の井戸として、本堂石段の左にあり、どんな日照りにも枯れることなく、こんこんと湧出ていきます。万病に効く「弘法の水」として、全国に知られています。

日和佐方面に向かう。
薬王寺を訪れる。
弘仁6年(815)の開基と伝わる四国霊場第23番札所。本堂へは女厄坂33段、男厄坂42段の石段があり、厄年の参拝者が1段ごとに1円玉を置いて登る姿が見られる。さらに、男女厄坂61段を登ると昭和39年(1964)に四国霊場開創1150年を記念して建てられた瑜祇塔があり、内部には宝物展示室や地下の戒壇巡りなどがある。

室戸方面に向かう。
最御崎寺を訪れる。
大同2年(807)弘法大師の開基と伝わる古刹で、室戸岬頂上にある四国霊場第24番札所。俗に金剛頂寺を西寺と呼び、ここを東寺と呼ぶ。宝物殿には平安末期の作とされる仏像3体(重要文化財)と足利時代の作である3つ足丸盆1対(重要文化財)があるが、なかでも如意輪観音半跏像は大理石でできた非常に珍しいもの。弘法大師自らが刻んだといわれる、ご本尊の虚空蔵菩薩は秘仏。境内には空海の七不思議、鐘石と喰わずの芋がある。

17:00高知方面に向かう。
19:00高知駅付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝
4日車で室戸方面に向かう。

津照寺を訪れる。
室津港を見下ろす小山に立つ四国霊場第25番札所。大同2年(807)弘法大師の開基と伝わり、125段の階段を登ると竜宮城を思わせる白壁に朱塗りの鐘楼門がある。本尊の楫取延命地蔵菩薩は弘法大師作といわれ、海上守護仏として信仰を集めている。

金剛頂寺を訪れる。
807年(大同2)弘法大師の創建と伝えられる古寺で、四国霊場第26番札所。広い境内に本堂、大師堂、護摩堂などが立ち並び、遍路の姿が絶えない。本堂横に正倉院様式の霊宝殿があり、平安時代末期の木造阿弥陀如来坐像、銅造観音菩薩立像、板彫真言八祖像などの重要文化財を収蔵。

神峰寺を訪れる。
当山は神功皇后の三韓征伐にあたり、勅命で天照大神其の他の諸神を祀った後に、行基菩薩が十一面観音の尊像を自作され、弘法大師が聖武天皇の勅命により弘法大師が神仏合祀の上四国二十七番の札所と定められた土佐の関所と言われる霊山である。明治四年の大法難の為、廃寺となり本尊を室戸の西寺へ遷し、明治二十年間崎天龍師竹林龍円尼と力を合わせ当山中興の大願を成就し、現在に至っている。当山信仰のあらたかな霊顕として伝えられる所によると、愛知県尾西市の住人水谷繁治氏の妻静さんは、長年の「セキズイカリエス」に苦しみ、大学病院でも手離され、夫妻は此の峰にて霊顕を得て全治を観た。その次第は奉納の碑に詳しい。

高知方面に戻る。
大日寺を訪れる。
 当山は、聖武天皇の御宇行基菩薩の御開基でありまして、弘法大師四国御巡錫の砌、中興遊ばされ、本尊は行基菩薩の作御丈四尺八寸脇仏聖観音五尺七寸と共に重要文化財です。本尊大日如来の御縁日二十八日に因み四国第二十八番の霊場と定められました。尚大師末世の衆生に利益を貽さんと楠の立木に薬師如来の尊像を彫刻せられ奥の院(一丁奥)となし給う、楠は明治初年の大風に倒れその跡に一堂を建て霊木を安置しました。世に爪彫り薬師とよばれ特に首より上の病に霊験あり遠近の参拝者多し又堂側の岩下より清水湧出す。これが大師加持水であります。住古は七堂伽藍、末寺脇坊等悉く備わり慶長以後寺堂の修繕総て藩宮でありましたが、明治四年廃寺となり同十七年再興せられ栄枯をたどり今日に至っております。

国分寺を訪れる。
聖武天皇が各国に1ヵ寺ずつ開いた国分寺の1つで、四国霊場第29番札所。みどころの多い古刹で、長宗我部氏が再建したこけら葺き寄棟造の金堂、木造薬師如来2体、梵鐘は国の重要文化財。

善楽寺を訪れる。
当山は桓武天皇の時代に弘法大師四国巡錫の砌、この地に堂宇を建立し、一の宮の別当として、一国一宮を開創、四国三十番の札所と定められました。土佐の豪族であった長曾我部家江戸時代には、領主山内家の厚い信仰と庇護を受け繁栄しました。しかし、明治の大法難の為、一の宮は土佐神社となり、廃寺となってしまいました。本尊阿弥陀如来をはじめ大師像は国分寺に預けられました。明治九年、公許を経、本尊を安楽寺(現在の奥の院)へ遷座し、三十番札所を復興いたしました。昭和四年、当地の人達の努力により、国分寺より大師像を迎え、善楽寺を再興し、昭和三十九年開創霊場を善楽寺とし、二ヶ寺を札所と定めましたが、平成六年正月当山に第三十番札所を統一、安楽寺は三十番霊場奥の院として、今日に至っております。

竹林寺を訪れる。
行基によって神亀元年(724)に開創され、弘法大師によって四国八十八ケ所霊場札所に定められたとされる土佐屈指の古刹。知恵の仏様文殊菩薩(重要文化財)が本尊なので、合格祈願をする受験生も多い。本堂(重要文化財)、大師堂、五重塔、高僧・夢窓国師作とされる庭園が広がる。宝物館では阿弥陀如来立像、千手観音立像などの重要文化財も数多く所蔵している。

禅師峰寺を訪れる。
当寺は、行基菩薩の開基です。大師御巡錫の砌り、この土佐沖を航行する船舶の海上安全祈願のため、一刀三礼自作の十一面観音菩薩を当寺の本尊として安置せられた。当山は、観音の浄土、天竺補陀洛山さながらの霊域で、その山容が八葉の蓮台に似ているので、八葉山と号し、大師が当山で求聞持の法を修せられたので、求聞持院と称えています。なお当寺で、旧藩主山内公が海上の安全を祈願せられたので、俗に船魂の観音といわれ、一般の崇敬が篤い。仁王門内の金剛力士二?は、仏師定朝の作で重文に指定せられています。寺宝に、徳治三年銘の鐘と、永禄十三年銘の鰐口があり、本堂前の岩の間に芭蕉の句碑があり、「木枯らしに岩吹き尖る杉間かな。」

雪蹊寺を訪れる。
長宗我部元親の菩提寺で、四国霊場第33番札所。本尊の薬師如来像(重要文化財)は運慶作。本堂脇の馬頭観音は旅の安全を守るとされ、遍路の信仰が厚い。

種間寺を訪れる。
当山は、人皇第三十代敏達天皇の六年(577)百済国の皇子が、仏工、寺匠を天皇に献上したが、其の後用明天皇の御代に、大阪の四天王寺が落成したので、一同いとまを賜って、帰国の途中、暴風雨におそわれて、秋山の郷に寄港した。そうして、海上の安全を祈って刻んだのが薬師如来で、本尾山の頂きに安置されました。其の後年を経て、弘法大師がこの地へ巡錫され、薬師如来を本尊として寺を開創されました。その時、大師が中国から持ち帰られた五穀の種をまかれた。種間寺の寺名は、それにちなんでつけられたといわれています。天歴年間、ときの村上天皇は、藤原信家を勅使として「種間」の勅額を下賜されました。藩主山内氏のころ、寺は保護され、田畑山林などが与えられて、堂字修築されたということであります。

清瀧寺を訪れる。
元正天皇の養老九年(723)行基菩薩が、本尊薬師如来(重文)を刻み、開基、影山密院釈本寺と名づけた。その後、嵯峨天皇の弘仁年間(810〜23)に弘法大師が巡錫せられ、五穀豊作のために門伽井権現と龍王を勧請し、当山の寺号を、医王山鏡池院清滝寺と改め、弘法大師の高弟高岳上人にゆかりのある寺として有名であります。貞観三年平城天皇の第三皇子高岳法親王が、大師の夢告げによって、来錫され、息災増益の密檀を造り、入唐されたと伝えられています。当山は境内には「入らずの山」といって、人の近づかない一角がありますが、これが、高岳法親王の逆修塔のある場所であります。とまれ、藩政期は寺領百石、七堂伽藍の完備した巨刹であり、現在は、厄除け祈願の名刹であります。

青龍寺を訪れる。
四国霊場第36番札所。弘法大師が修行先の唐から投げた、独鈷杵が見つかったことから開基したと伝わる。本尊の波切不動明王像は漁民の信仰が篤く、本堂には船を描いた絵馬が多く掲げられている。鎌倉時代作といわれる、寄木造の愛染明王坐像は重要文化財。

15:00車で高知、高松、神戸淡路鳴門、阪神高速自動車道経由して帰路に向かう。

今回の旅行、四国の八十八箇所巡り、第一弾、44か所を巡る予定でしたが、山奥に位置するお寺が数か所、ロープウエイを使ってのお寺1か所あり、想像以上に時間がかかり、36か所止まりとなりました。
特に焼山寺、鶴林寺、神峰寺は山之上、標高の高いところに位置しており、道のりが険しく、細くくねくねした道、なかなかたどり着くには時間がかかり苦労しました。

至る所に白衣姿のお遍路さんが歩いておられ、車でも四国八十八か所巡るのは大変なのに、歩いて巡るの感心する次第です、はたして歩いて何日かかるんでしょうね。時間と体力が必要ですね。

次回残りの52か所、連休を2回使って訪れたいと思います。